インタビュー 秋田県大潟村、坂本進一郎さんに聞く 「農業はお天道様に感謝してやるもんだ」
人口の四分の一が沖縄系という大阪市大正区。大正時代に多くの人が「ソテツ地獄」と呼ばれた沖縄の飢饉から逃れてこの地に移住し、いまでも多くの沖縄系の人が住む。8月1日、大正区民ホールにおいて「普天間飛行場の辺野古移転に反対する関西沖縄県県人会・郷友会の集い」があり、沖縄県議会議員新里米吉氏の報告を聞いた。30度を越す猛暑の中、700名近い人々が集まり、会場は政府に対する怒りに包まれていた。
民主党に対する風当たりが強い。歴史的な政権交代から一年も経たないうちに、「普天間移転問題」と「政治とカネ」で鳩山首相は辞任。新たに誕生した菅内閣は不用意な消費税発言で参院選に惨敗し、野党が参議院の過半数を制する「ねじれ国会」を生んでしまった。
「脱官僚支配」「日米関係の見直し」「東アジア共同体」など民主党が掲げた理念や政策は、新時代の桎梏となった「古い政治の見直し」といえた。新しい政治への切実な要求だからこそ、菅内閣への支持率は下がっても、圧倒的に多くの人が政権交代そのものの意義を評価している。もはや古い自民党政治に戻ろうという人たちは少数派だ。
菅首相はかつて「民主党の政権では、沖縄の基地の相当部分を占める海兵隊の沖縄からの撤退を真剣に検討するよう米国にはっきり求めていく」と語っていた。
しかし、「古い政治の見直し」の前には大きな「壁」が立ちはだかっている。米国の壁であり、官僚の壁であり、メディアをふくむ冷戦思考に染まった巨大な安保勢力の壁だ。この壁を前に鳩山も菅も戦わずして敗北を決め込んでしまった。日米共同宣言と鳩山退陣、小沢失脚と菅政権の誕生と、日米の安保保守勢力はほくそ笑んでいるのではなかろうか。
だが、辺野古移転阻止への沖縄県民の意思は固い。この集会に参加して改めてそのことを実感した。辺野古移転合意はほとんど実現の可能性はなく、逆に日米の安保勢力から見れば、この沖縄の民意こそ巨大な「壁」となって立ちはだかるだろう。時代は変わりつつある。古いものが滅び新しいものに変わるのは一つの法則だ。軍事力や基地、抑止力といった冷戦思考の影響力は今だ巨大とはいえ、古い覇権時代の遺物と言える。覇権の時代から反覇権の時代へと時代が転換しつつあることを沖縄の民意はくっきりと示している。
主張
参院選での民主大敗、菅政権の支持率続落、自民党の停滞とみんなの党の躍進、波乱含みの9月民主党代表選、「ねじれ国会」と政策連携の困難、等々、政界再編を促す諸々の要因はその大きさを一段と増しているように見える。 日本政界のこの動向を見ながら思うのは、何を基準に政界を再編成するのか、「再編」の基準問題だ。昨年、鳩山政権発足時に掲げられた「転換」「見直し」のスローガンは、米オバマ政権の「CHANGE」とともに、国民に大きな夢を抱かせた。今、だいぶ色あせたこのスローガンは、政界再編の基準、対決点として、どれだけ意味を持ちうるのか。問われている基準は何なのか。この辺りに焦点を当てて考えてみたい。
■民主党はなぜ大敗したのか?
先の参院選での民主党の惨敗振りは当初の想定を大きく超えていた。それで、その敗因をめぐっての議論が盛り上がった。分りやすいのは、菅首相自身が謝罪しているその「消費税発言」だ。事実、これが少なからず民主党大敗の原因になったのは確かだろう。しかし、この「発言」自体が敗因の本質ではなく、本当の敗因を増幅させたに過ぎなかったという分析も多くの識者によってなされている。
今回の参院選で特徴的だったのは、人口の少ない一人区で自民が圧勝し、それがそのまま民主党大敗を決定したということだ。事実、人口の多い二人区、三人区、五人区では民主と自民の獲得議席数は拮抗し、政党を選ぶ比例代表区ではむしろ民主が上回り、自民の獲得票数は前回を下回った。また一方、古い政治から新しい政治への転換を民主党と同じく前面に押し出したみんなの党が大躍進したのも特徴的だった。
この選挙結果は何を物語っているか。それは、今回自民党が勝ったのが古い自民党政治の復活を国民が求めたからでは決してなく、逆に、民主党政権が古い政治から新しい政治への転換という国民の要求によく応えられなかったためだということではないだろうか。古い政治による矛盾が集中され、そこからの転換をもっとも切実に求める一人区での民主党の惨敗はそのことをよく示している。また、普天間問題での自民党案への逆戻りや「消費税率10%引上げ」なる自民党案へのすり寄りが国民の民主党離れを決定付けたのは、その証左だと言えるのではないかと思う。菅政権は、政権交代に寄せられた国民の期待に無自覚だったということだ。まさにここに、民主党大敗の最大の要因があったのではないだろうか。
■国民の見直し要求の本質は?
国民の古い政治から新しい政治への見直し要求の本質は、普天間基地移設をめぐる闘いに端的に現れていたと思う。すなわち、米国の声を聞くのか、沖縄県民、国民の声を聞くのかということだ。米国の声ではなく、沖縄県民、国民の声を聞けという新しい政治への国民の要求は、米国の圧力に屈した鳩山政権によって見事に裏切られた。これが鳩山政権倒壊の直接的でもっとも大きな要因となり、参院選での民主大敗につながったのは誰もが認めるところだろう。
ところで、鳩山政治の破綻について言うとき、よく取上げられるのはその「稚拙さ」だ。実際、普天間問題解決の期限を自ら設定し、それに足を取られ、米国のごり押しを許し、それに耐え切れず、米国案をそのまま沖縄県民に押しつけたその醜熊は「稚拙」と言う以外にないものだ。
だが、この「稚拙さ」を米国の意に逆らってもともとできもしない問題に取組んだところに求めるのはどうだろうか。今の政界、言論界によく見られるこうした見解は正しいと言えるだろうか。そうは言えないと思う。
問題は、米国に逆らったこと自体にあるのではない。逆らっている姿勢を国民にアピールしながら、その実、米国が譲歩してくれるのではないかと甘い幻想を持ち、闘争なしに普天間基地の県外、国外移設を実現できると思っていたことにこそあるのではないだろうか。
国民は、米国に逆らうこと自体に反対しているのではない。むしろそれを支持し、喝采を送っている。鳩山人気の大きな要素はそこにあったのではないかと思う。問題は、米国に逆らうにしても、より巧みに、そして強く逆らってくれということだ。甘い見透しでかっこいいところを見せ、思わぬ米国の強腰に驚いてしっぽを巻くような真似はしてくれるなということだ。
■「民意第一」の新しい政治
古い自民党政治は、一言でいって、「米国第一」で、国民の意思と要求を後回しにし踏みにじる政治だった。鳩山政権が取上げた普天間問題は、それからの転換を期待させるものだった。
だが、米国の壁は厚かった。鳩山政権の挫折とそれに続く菅政権の自民党政権顔負けの対米追随振りは、そのことを物語っている。新しい政治実現のためには、正しい時代認識と巧みで力強い闘いが求められている。
そうした中、想い起されるのは、あの幕末の時、討幕派が掲げた旗印だ。彼らにとっても、幕府の壁は薄くはなかった。「倒幕」を前面に掲げるのは憚られた。そこで掲げられたのが「尊皇」の旗印だ。幕府よりも上に天皇を戴くことにより、幕府の権威を落し、倒幕の気運を盛り上げた。
今、「米国」より上に置くことのできる権威は何か。「米国」の権威を相対化するものとして、「中国」や「アジア」があるのは事実だろう。しかし、それらはどこまでもそこまでだ。それらの権威を絶対化し、それを基準に政治を行うということには到底ならない。
これまで覇権の時代にあって、国際情勢を見る上でもっとも重視されたのは、覇権国家の意思であり動向だった。パクス・ブリタニカの時代には英国の意思だったし、パクス・アメリカーナの時代には米国の動向だった。
だが、今はもはや覇権が通用する時代ではない。覇権の時代が終った今日、国内外の情勢を規定するのは、「米国」ではなく「民意」だ。「米国」より何より、各国の国民の意思がそれぞれの国を動かし、国際情勢を規定していく。
この新しい時代にあって、「米国」の上に置かれるべき権威は明確だ。それは、「民意」以外ではあり得ない。実際、今日、「民意」が持つ重みは格段に増している。世界的にも、日本においても、「民意」に合うか否かが政治の基準になってきている。
「米国第一」から「民意第一」へ、ここに古い政治から新しい政治への転換の本質があるのではないだろうか。
■政界再編の基準を問う
古い政治から新しい政治への転換は、古い政界枠の打破と新しい政界への再編成を促す。この政界再編において、新しい政治勢力の旗印は「民意第一」でなければならないだろう。
今日、日本政治の混迷の中、政界再編に向けての対決点や基準といったものが定かではない。政策連携や連立、大連立への動きが活発な中、何をもっての再編なのか、その理念的基準が見えてこない。「転換」や「改革」、「見直し」が政治の前提になり、誰もがそれを言う中、再編が「数合わせ」的なものになって行われている。
G20など、米国主導の覇権多極化か東アジア共同体や南米諸国連合、EUなど地域共同体主体の反覇権多極化かの闘いが世界的範囲で展開される中、日本においては、米国の指導権を認め、覇権多極化に歩調を合わせる覇権見直しの動きが一般的のように見える。
「日米同盟基軸」「官僚主導から政治主導、官邸主導へ」などを打ち出すこの動きが、暗黙の内に自民党政権の「米国第一」を踏襲しているのは特徴的である。
では、日本には「米国第一」に反対しそれと闘う反覇権見直しの動きはないのだろうか。それは明確な政治潮流のかたちは成していない。しかし、大衆的な気運としては確実に拡大してきているのではないだろうか。
普天間問題での盛りあがりや民主党政権の裏切りに対する参院選での厳しい審判、そして全社会的に広がる競争よりも協調の風潮、主権者意識の高まりなどは、それを証明しているのではないだろうか。
「米国第一」に反対し、「非核三原則見直し」や「武器禁輸政策見直し」などといった覇権見直しの政治を認めない人々が「民意第一」の旗印を掲げる時、覇権見直しか反覇権見直しかの国論を二分する二大政治潮流対決への政界再編がくっきりとその姿を現してくるのではないだろうか。
研究
8月、「日韓併合条約」が結ばれて100年になる。朝鮮を蔑視し圧迫を加えようとしている点で過去も現在も変わっていない。この朝鮮に対する態度が日本のあり方を左右してきたと言っても過言ではない。朝鮮に対する覇権主義こそが、日本自身の国のあり方と方向を誤らせてきた基本問題ではないだろうか。日本の見直しが求められている現在、その重要な環は朝鮮に対する覇権主義の転換にあると言える。
■天安艦事件で挫折した日本見直し
鳩山前首相は「対等な日米関係」を掲げ普天間基地の県外、国外移転を約束した。普天間基地問題は戦後つづいた対米従属の転換をはかる日本見直しを象徴する問題となった。
しかし、鳩山前首相は、「北朝鮮が韓国の哨戒艇を魚雷で沈没させるという事案も起きています。北東アジアは決して、安全安心が確保されている状況ではありません」と述べ、普天間基地移転を従来の案にもどした。つまり、アメリカの圧力に屈し、その口実として、天安艦事件の韓国合同調査団の調査発表がなされるや、日本政府は真っ先に韓国支持を打ち出し、朝鮮にたいする「抑止力」を言い始めたのである。結局、朝鮮が日米安保と沖縄基地の必要性の根拠とされたのである。
しかし朝鮮が天安艦を攻撃したという証拠は何一つ示されていない。対潜合同軍事演習をおこなっている最中に朝鮮の潜水艦に攻撃されたなら韓国とアメリカの艦船は「穀つぶし」だ。韓国が示した魚雷設計図が韓国政府が主張する「CHT−02D」の設計図ではなく朝鮮の別の設計図であったり、その魚雷が数年前のもののように錆びつき、かつ爆発したにもかかわらず原型を残していたり、沈没時の交信がまったく公表されないなど、数多くの疑問点が出されている。
ロシア調査団は「哨戒艦沈没は魚雷と関係ない」という報告書を出し、国連安保理議長声明は、「韓国の調査報告に対する深刻な懸念」を指摘せざるをえなかった。
今回、日本政府は、天安艦事件は朝鮮の攻撃によるものとして追加制裁を実施し、普天間基地の必要性を主張し、トロント・G8サミットだけでなく7月のARF(ASEAN地域フォーラム)でも朝鮮非難の先頭に立った。しかも、その後の「新防衛大綱」の策定では沖縄への自衛隊配備に重点をおき対潜能力向上など海軍力強化に力を入れ、武器輸出禁止の改編をするなど、日本自体がアメリカの朝鮮、中国封じ込めに大きく協力する態勢をとろうとしている。
まさに、天安艦事件は日本見直しを挫折させ、対朝鮮政策をもって日本がさらにアメリカの従属国になっていく契機になったというべきものである。
■歴史的にみても朝鮮にたいする態度が日本のあり方を決定してきた
明治維新後、富国強兵国家をめざした明治政府は朝鮮侵略を開始した。日本政府は1875年雲揚号を派遣して江華島事件を起こし、日朝修好条規を結ばさせた。それは、アメリカが日本政府に「ペルリ提督日本遠征記」を渡し、この通りやればよいと朝鮮侵略を促されてのものであった。
1889年日本の進出により朝鮮の民族的階級的矛盾が激化しておこった甲午農民戦争に、日本軍が介入し、それを契機に日清戦争を起こした。日清戦争後は、中国、朝鮮をめぐるロシアの進出が英米日との対立を激化させていった。
日本は1902年日英同盟を結んだうえで1904年日露戦争を起こし、1905年の桂タフト秘密協定と第二次日英同盟で、韓国保護権の設定について英米の承認を取り付けたうえで乙巳保護条約を韓国に強制した。英米がロシアの南下を防ぐ目的のもとで日本にロシアと戦わせ、朝鮮の保護国化を承認したのである。
伊藤博文は内閣制度を創設し、その初代首相として憲法制定など「大日本帝国」政治制度を築くとともに、朝鮮に乗り込み武力を背景に保護条約を強要し、朝鮮統監府初代統監として朝鮮軍隊の解散、司法、警察、通信の掌握など、1910年の日韓併合という植民地化を推進した。
日韓併合の年に大逆事件がでっちあげられ幸徳秋水ら12名が死刑に、他の12名が無期懲役に処せられ、社会運動は冬の時代を迎えた。その後、日本が朝鮮を兵站基地、前線基地としてアジア侵略戦争を拡大し、敗北したのは周知のことである。
民族を否定し他国をじゅうりんする覇権国家はかならず敗北、滅亡するというのが歴史の教訓であった。戦後、日本は二度と戦争をしない平和国家として出発することを誓った。ところがわが国支配層は、朝鮮戦争を契機に日米安保条約を締結し、アメリカのアジア侵略の兵站基地、前線基地の役割をはたしていくという平和国家から大きく逸脱した国のあり方をとるよう促された。
それから現在に至るまで、植民地支配の清算をおこなわずに、アメリカの社会主義国封じ込めに従い朝鮮を国として認めず、アメリカの社会主義転覆策動に従い、制裁など朝鮮敵視政策を強めてきた。その間、日朝関係を正常化しようという動き(金丸訪朝時の三党合同宣言、小泉首相訪朝時の日朝ピョンヤン宣言)があったが、そのつどアメリカの圧力によってつぶされ、日本はさらにアメリカの従属下におかれていった。
近代日本の100余年の歴史は、実に隣国朝鮮を侵略し敵視することによって欧米に従属し覇権国家の道を歩んできた恥ずべき歴史であったといえる。
■日本のあり方の転換、見直しは、朝鮮との善隣友好関係を確立することから
今、大多数の国民が日本の政治の転換、見直しを要求している。軍事外交はアメリカに委ね、経済成長をはかるという、これまでの日本の国のあり方はすでに破綻して久しい。自国の安全を他国に委ねるという自主独立のなさは国の尊厳を貶め、米軍基地によって沖縄をはじめ多くの犠牲を強いられてきた。
朝鮮、中国に対するアメリカの「抑止力」に頼っては、東アジアの平和と安全を脅かすだけであり、日本にとって何の利益もない。さらにアメリカ式の自国の内需に依拠しない経済は、国の経済力を高めることにならず格差をひろげ地方地域の零落をもたらしている。医療福祉、教育などすべて行き詰まっている。
人々の運命と幸福な生活は、国の発展をはなれてありえない。国のあり方が国民にとってもっとも重要な問題になる所以がそこにある。国のあり方は、自然地理的条件、歴史伝統、文化水準、国民の特性などで特色をもってその国に合うあり方が決められていく。
しかしその国のあり方で基本をなすのは、その国家において国民大衆の意思、すなわち「民意」が実現されていっているかどうかである。国の政治が他国に干渉されたり、また他国を踏みにじれば、国民大衆の意思は実現されず、国の進路が誤ってしまうことは言うまでもない。
今多くの日本国民はアメリカと対等の関係を望んでいる。「日米安保や米軍基地が本当に必要なのか、問い直す時期です」という沖縄県議会副議長玉城義和氏の発言は、沖縄県民のみならず日本国民の声も代弁していると言えよう。アメリカに対する従属関係をさらに強めていくのか、それとも対等な関係を構築していくかの岐路に今日本は立たされている。そこにおける環が対朝鮮政策の見直しと言えるだろう。朝鮮との友好関係を確立すれば、日米安保も沖縄米軍基地も、その「存在理由」がなくなるからだ。 アメリカに盲目的に従い、「力」にものを言わせて朝鮮を孤立させようとしても、国連安保理やARFで敗北したように、他国を力でじゅうりんしようという覇権主義はもはや通用しなくなっている。
今回の日本の「天安艦事件」外交の失敗は、アジアと世界から孤立している日本の姿を象徴しているように眼に映る。大国の「番犬」になっている国が自らに誇りをもつこともできないし、他国からの嘲笑をまぬがれない。アジア諸国は覇権を許さない姿勢を貫いており、時代はアメリカのイラク、アフガニスタンからの撤退など、覇権主義がもはや通用しない反覇権の新時代を迎えている。
安保の見直し、日本のあり方の見直し、そのために朝鮮にたいする敵視政策を根本的に改めることが重要な環となっているといえる。
インタビュー 秋田県大潟村、坂本進一郎さんに聞く
坂本さんのご両親は「五族協和」の理想を胸に戦中満州に渡られ、満州版農業共同組合である「興農合作社」に勤められた。1941年、お母さんが一時帰国して仙台で坂本さんを生む。その後、母と共に満州に戻り、5歳で敗戦を向かえる。父親はシベリアに抑留され(4年後に帰国)、母子4人で引き上げの途中、次弟は大腸カタルにより2歳で死去。帰国後は母子3人の赤貧の生活をおくる。帰国した父と母の引き上げ体験や「興農合作社」への郷愁の思いを聞いて育ったという。1964年、大学卒業後は、進路に迷いながらも「北海道東北開発公庫」に就職し5年間勤める。この間ずっと自分の生きる道を模索。探し求めていた自分の生きる場所、生き方として秋田県八郎潟干拓地=「大潟村」への入植を決意し、1969年第4次入植者として「大潟村」に移住。以後40年間、この地で農業に従事しながら、「日本の食と農について」行動と発信を続けておられる。「農林水産九条の会」の呼びかけ人の一人でもある。著書多数。自伝的小説として「一本の道」「大地の民」がある。
―農業に転進された一番の理由は何だったのでしょうか? 幼い頃の満州での体験が農業への原点にあったのでしょうか。
満州から帰って来てからすごく貧乏したっけな。みんなと違うなーという気持ちがずっとあった。弱肉強食の世界が子どもの頃からあった。お袋が着物を縫ってそれを風呂敷に包んで届けものしていたのな。みんな遊んでいる時にさ。だから皆にみつからないようにしたっけな。弱肉強食を体が拒否するってかな。で、いよいよ大学を卒業して就職する時になったら、弱肉強食の世界に入っていくのな。
それが非常に嫌で、悩んで、何したらいいかって考えても、それ分からなくて。それで流されるように就職(北海道東北開発公庫に)して。就職先ではあまりいい職員ではなかったな。で5年間勤めてその間にいろいろ考えて、農業をやろうと。これは弱肉強食とも関係ないし。満州から帰って来てからの子どもの時の体験とも重なって。
―大潟村への入植は、大規模化のパイロットモデル事業として始まったわけですが、ところが日本ではこの頃から米余りが始まり、大潟村は最初から大きな矛盾を抱えての出発でした。日本農業にとって大潟村はどのような意味があったと思われますか。
あんまり意味ないんでねえかな。たまたま農林省で誰かが考えてこういうものができたってえかな。おれ自身もここに入植するということにはあまり積極性はなかったの。自分で自給自足のような農業を考えていたんだけれども、なかなかお金も何もないし、技術もあるわけじゃないし、結局、大潟村に。試験さえ受ければいいことだから。だから自分たち、大潟村に漂着したと思っているの。その頃ってのは、米余りが始まっているわけだから、大潟村は必要なかったな。
最初ね、「潟ボケ」という言葉が流行ったの。要するに政府の路線に乗っかって、田んぼとうちを往復していれば食っていけるので、頭がボケてしまうので自嘲して言っていたの。昭和50年(1975年)からは、今度は青刈騒動だものな。だから「潟ボケ」したのは、5年間だけだったな。青刈り騒動は余計作るなってことだけど、9000haある農地のうち、4500haまできて、改善抑制にぶつかる。畑をやるなら構わないがこれ以上改善してはだめだと。それで、昭和49年に最後の入植者120戸を入れて、そのかわり、7・5haの畑プラス7・5haの水田をやれと。俺はもともと10ha作っていたから、2・5ha削って最後の個人入植者に水田の耕作権をやった。それから、国は7・5ha、自分たちは10haを認めろという闘争があり、最終的には8・6haに落ち着いた。しばらくは8・6haだったな。そうこうしているうちに15haも面積あるもんだから、15haだと収入が3000万、8・6haだと2000万。1000万も違うもんで、どんどん闇米が増えてきた。59年に、闇米=過剰作付けをやる人が73人になった。60年の正月早々、知事が10haにしてやると言ったが誰も手をたたかなかった。入植者に聞いてみたら、自分たちは10haに押さえつけられると思った。つまり15ha作りたいのな。そして、どんどん増えていって、300人を超えた。問題は、そっからもう(食管法を)いらねえなと言い出すんだよ。それの闘いが闇米騒動。青刈騒動から闇米騒動に何故変ったかというと、青刈騒動というのは政府に対する異議申し立てだった。闇米騒動というのは、必要悪として見えないところでやる闇米が、昼間から10トントラックがどんどん買い付けにくる「昼米」になって、国はもうお手上げなんだ。闇米騒動というのは別に異議申し立てでもないし、俺は「腹いっぱい運動」だと言っている。一番良くねえのは、農民自身が「食管法」をいらねえと言い出したもんな。・・・
大潟村というのは、ずっと農政と一緒に歩いて来たってかな。あともう5年でも早くできていれば問題がなかったし、5年遅ければ大潟村はなかったし。丁度いろんな問題とぶつかった。人口の村だから直接政策の影響が来る。現場にあわない政策も来るし。誰に責任があるのかもわかんねえしな。いろいろ農民運動やったけれども、良くなる事はさっぱりないな。
―大潟村の現状について如何ですか。
青刈騒動から闇米騒動を経て、もともとあるかないかの小さなものだった自由化路線が大きくなり、作るのも自由、売るのも自由となって。でもこれ嘘だもんな。作る自由ってのはいいんだけれど、売る自由というのは、業者にとっての自由だから。俺もそうだけど、まじめにやった人は楽になんねえな。だから格差のようなものがある。アメリカに似ている、アメリカ的な。自分も割り切って、やめる人はやめるしな。戦後の麗しい時期ってのは、もう終わったもんな。日本は米日程がちゃんとあって、米日程というのは親戚同士の助け合いだけど、田植えを手伝ってくれたりな、仙台に行くけど頼みごとはないかなどと言って寄っていってくれたりな。子どもの頃のことだけどな。今は機械でみんなするからな。だから機械化も良いのかあんまり良くわかんね。アメリカとはすごいな。何千町歩ものトウモロコシ畑を一人で刈って、車が2台くらい置いてあって、満杯になったらバーと乾燥機の中に入れて、工場みたいなもんだな。
土地ってのは村のもんだし、明治維新の時に私有権というのが認められちゃったから。それまでは村のもので、ご先祖からの借り物で、俺らは一時的に占有しているって感じじゃなかったのかな。今でもそういう考えが流れている。アメリカみたいに息子にまで土地を売るってのがあるが、そういうのはどうかな。それを褒めている学者もいたが。文明進んでいいのか悪いのわかんなくなるな。
―入植40年の中での一番の思い出は?
何だろうな・・・。あんまり特別な事件もないしな。もう40年経ったのかなーって。思い出って言えばね、15町歩を水田として認めてもらう運動を先頭にたってやったんだけど、それが成功したっていうか、認知されて。それが思い出深いな。1990年頃かな。
要するに農業ってのは、お天道さんに感謝して、お天道さんに食べさせてもらっているんだ、というのが私の農業に対する基本だ。だから金儲けだとか機械化しようだとか、そういうのは全然思っていない。ただ、そういうものを邪魔するもに対しては、闘うってのおかしいけれど、食管法つぶしもそうだから、やられると困るから、表現はちょっときついけれど闘っていかねばね。
―民主党政権が生まれ戸別所得補償制度が始まりました。バラマキという批判もあります。民主党政権には何を期待されますか。
〔注;戸別所得補償制度とは、食料自給率目標を前提に、国などが策定した「生産数量目標」に対して主要産物(米、麦、大豆など)の生産を行った農家に対して、米価水準にかかわらず、全国一律に10アール当たり15000円が支払われる制度〕。
一言で言ったら「割り当て」だな。それに応じたら報奨金がもらえる。今年大潟村には47%きたんかな。転作ってのは貧乏の勧めだから。大豆とか作ってもたくさんとれねしな。大豆の時台風で2回やられたことがある。9月ころに台風が来る。稲は8割がた出来ていて大豆はこれからっという時に台風にやられる。二回何もとれなかった。あと虫に食われる。あっという間になくなるよ。稲も倒れてな。転作やると土がしっかりしなくなる。一千万くらい倒した。だから隣の人が羨ましかったよ。毎年米を作っている人は倒さない。あと「食管法」を守るためにやっているんだから止めようと。それで5,6年転作はしていなかった。自民党の農政は終わってみれば、農村がガラクタの山になって、ワーキングプア作って。これを立て直すのが大変だな。
民主党の戸別所得補償は所得補償ではない。ま、あれは不足払いだな。所得補償だったら、昔の食管法時代のように、生産費・所得まで補償するんだが。今のは不足払いだから、基準が何ぼかによって違ってくる。10アール当たり1万6千円にしてもらいたい。あとは、早く法律を作ってもらいたい。政令だとまた政権が変ったときどうなるのかという心配がある。法律になれば、それに基づいて骨太にしていく運動もあると思う。今のままでは不安定だな。
―坂本さんが理想とする農業のモデルとは?そしてそれは可能とおもわれますか? 坂本さんが注目されている学者や実践家がもしあればご紹介下さい。
理想の農業ってのは、牛とか、何てえのかな、水田酪農ってのかな。理想なんだけど、それはできないな。水田酪農とは水田やりながら牛を飼うってことなんだけど。ここではできないな。やっぱり労働力がないと営農的にはやっていけないもんな。1頭2頭飼ってもしょうがないから。かと言って50頭も飼うと、工業的な酪農になってよくない。口蹄疫のあれも工業的な飼いかたをしたかたああなったのではないのかな。せめて数頭くらいな。で、その堆肥をうまく使いながらな。そうできればいいんだけれど。循環型農業だな。でも難しいな。設備投資しなければなんねえし。あとは、技術もないしな。
学者では誰いるかっていうと、飯沼二郎。この人はよく、農書を読めっていうんだな。会津農書を読めって。江戸時代の農書だな。農書を全部読んでいたら、俺日本一の百姓になっていたかもな。江戸時代ってのは食料が足りない時代だったから、一生懸命だったんだよな。ところが今は余ってるからどうでもいいやって感じになっている。飯沼先生は会津農書を読めっていうんだな。先生は全部読まれて編集した。あと、大西伍一という人が書いた「日本老農伝」もおもしろいな。
―今、一番の関心事はなんでしょうか?
満州の事だな。5歳のとき満州から引き上げて来たが自分の断片的な思い出と、両親の思いで話が重なりあって、満州が心のふるさとになった。日没の太陽の荘厳さ、悲しい二胡の音色、引き上げの時の忘れられない思い出。そして、帰国後に両親から聞いた満州への郷愁。両親は満州版農業共同組合である興農合作社に勤め、満州に骨を埋めるつもりであった。その夢が破れ、裸一貫で帰らなければならなかった両親の心残り。それは自分の中にも宿っている。子どものころはそんなに満州のことを思うことはなかったが、年をとるにつれ、両親の思い出と満州が重なって、満州を思うことが多くなった。今、「満州国試論」という本を書こうとしていて資料とか調べているが、満州国は単に傀儡国家という一言ですませられないものを持っている。時間がかかると思うがこれを完成させたい。
坂本さんは別な紙面で「私は帰国後、苦労して育った。母の姿というとミシンに向かっている姿を思い浮かべる。その母を楽にさせてやりたいというのが私の気持ちであった。私は苦労の末に49歳の若さで死んだ母を背負って生きていると思っている」と語っている。きっと貴重な本が出来上がるのではないだろうか。
Copyright © 2003-2011 Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.
|