研究誌 「アジア新時代と日本」

第85号 2010/7/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 改定50年、日米安保見直しの時だ

研究 今、江戸時代の見直しが問われている

報告 沖縄の生々しい現実に圧倒された旅




 

編集部より

小川淳


 OECD(経済協力開発機構)加盟国ランキングによれば、日本の相対的貧困率(平均的所得の半分に満たない人の割合)は14・7%、加盟国30国中27位という。日本より貧困率の高い国は、米国とメキシコ、トルコの三カ国だけだ。ちなみに日本の平均所得の半分は114万円で、それ以下の所得で暮らす人が14・7も%いるという事になる。
 人口千人中の医師数は2・1人で、27位。GDPに占める社会保障費の割合は20位。教育費のGDPに占める割合でいえば30位と、最下位である。年間三万人を超える自殺者割合のランキングがあるなら、間違いなく日本はトップだろう。
 この数字は、所得や医療、教育、社会保障という、人が生きる上でもっとも大切な施策において日本は先進国中の最低ランクにあることを示している。
 戦後半世紀を超えてなお沖縄には巨大な米軍基地が居すわり、沖縄の県民を苦しめ続け、その米軍駐留のために巨額の「思いやり予算」を支払い続けている、そんな国も他にはないだろう。
 これが世界第二位の経済大国ニッポンの現実の「姿」であり、戦後延々と続いてきた自民党政権(55年体制)がもたらした「結末」だ。
 米国の加護の下、戦後半世紀に及んで延命を続け、このような無残な日本にしてしまった自民党政権に「NO」を突きつけたのが昨夏の衆院選であり、この「負の遺産」を少しでも払拭できるのではないかと信じたからこそ、多くの人が民主党に一票を投じた。
 しかし鳩山氏はあまりに稚拙すぎた。対等な日米関係など理念だけで、何の戦略もないまま米軍基地の県外移転をはかるなど、できようはずはなかったからだ。
 半世紀以上にわたる国民軽視と対米従属の政治からの転換とは、そう簡単なことではない。この国を支える旧体制、官僚機構や司法、警察、メディアはおぞましいほど頑強だ。鳩山政権の迷走と崩壊がそのことを良く示している。
 菅内閣の登場は、自民党政治からの転換の第二幕になるのかどうか。政治の根本的転換を、誰に託せばいいのか。戸惑いと不安を抱えながら投票場へ向かった人は多かったのではなかろうか。参議院選挙では保守派が過半数を制したが、失望するのはまだ早い。この国の形を変える改革はようやく始まったばかりなのだ。



主張

 

編集部


 日米安保改定から50年経った今、その見直しが問われている。鳩山政権による普天間基地移設見直しの提起は、その時代的要求を反映していたと言える。「沖縄に基地は要らない」と呼応する県民大会の盛り上がりは、そのことを示していた。
 だが米国は、この問題提起と沖縄県民の声に一切耳を貸さず、「政治とカネ」の問題による脅しまで加えて、鳩山政権を倒壊に追い込んだ。
 この歴史の進歩に敵対する米国の暴挙を前にして、古い時代の遺物である日米安保見直しの正当性とその展望が明らかにされなければならない。

■普天間問題見直しが意味するもの
 普天間基地の移設問題は、一九九〇年代末、自民党・橋本政権の時から中央政界で問題にされていた。しかし、これが米国に面と向かって提起されることはなかった。
 それが民主党・鳩山政権によって取り上げられ、米国に提起されたのはなぜか。もちろん、そこに国民の要求に応えようとする鳩山政権の意思が込められていたのは事実だろう。しかし、より大きな基本要因は、時代の変化にあったのではないだろうか。すなわち、米一極支配が崩壊した今日、米国・オバマ政権は、一方の地域覇権大国、日本に従来の対米従属一辺倒ではなくより独自的な役割を期待してくる。軍事で言えば、「本土の沖縄化」による「より対等な」自衛隊と米軍の基地共同使用、共同軍事訓練だ。その条件で、普天間基地の県外、もしくは海外移設という譲歩は有り得るのではないか。このような鳩山政権の判断があったとしても少しも不思議でない。
 だが、米国の考えはそれとは違っていた。米国が言う「覇権多極化」とは、どこまでも米主導の多極化であり、いくつかの地域覇権大国を極とする多極世界の指導権はあくまで米国によって握られなくてはならない、だから、普天間基地の移設問題を日本主導で見直すことなど有り得ない、それは日本主導による日米安保の見直しを許すことにつながる、ということだ。
 こうした米国の考えは、普天間問題に関する公約を撤回した際の鳩山前首相の弁明によく示されていたのではないだろうか。この米国の重圧に屈服した弁明で前首相は、「海兵隊の抑止力を学んで知った」と言った。すなわち、「ただ学べば学ぶにつけて、沖縄に存在している米軍全体の中での海兵隊の役割を考えたとき、それがすべて連携している、その中で抑止力が維持できるという思いに至った」と言いつつ、海兵隊の基地である普天間基地を沖縄県外に移設できないことが分かったと述べたのだ。ここで重要なのは、前首相の言が、日本の戦争抑止力が米軍を抜きにしては有り得ないという前提に基づいているということだ。これが前首相自身の考えでないことは、彼が辞任を表明した民主党の両院総会で「米国にいつまでも守ってもらっていていいのか」というような発言をしているところにも現れていると思う。すなわち、「抑止力を学んだ」は米国が押し付けた言葉であり、そこに米軍抑止力論に基づく日米安保を見直す気はまったくないという米国の意思が示されているということだ。
 前首相の「抑止力」発言は、はからずも、普天間基地移設問題の見直しが何を意味しているか教えてくれた。それは、日米安保の見直しに他ならない。

■古い覇権時代の遺物、日米安保条約
 日米安保は、もはや覇権そのものが通用しなくなった今日、古い覇権時代の遺物として、その見直しが切実に要求されてきている。
 日米安保が覇権時代の遺物であることは、何よりも、その目的が日本の平和と安全というよりも、世界的に提起される諸問題への日米共同の対処にあるところに端的に示されている。日米安保の目的が日本の平和と安全だけにあるのでないことは今さら言うまでもない。1960年の日米安保の改定は、その対象を極東に拡大した。「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」という「極東条項」が付け加えられた。それが今では世界にまで拡大されている。2005年、いわゆる「ツー・プラス・ツー」で署名された「日米同盟:未来のための変革と再編」では、「(日米同盟は)世界における課題に効果的に対処するうえで重要な役割を果たしている」と記されている。この世界の平和と安全のための日米安保というものの考え方自体が覇権的だということだ。
 その上、この同盟は、徹頭徹尾米国主導だ。米国の世界戦略のもとで日本が動かされている。日本が主導的に戦略を提起することがまったくない中で、「戦略的思考」が日本に育たないのは当たり前だ。この米国主導のもと追求されるのは、当然のことながら、米国の国益だ。米国が日本を守る姿勢を示すのも、世界の平和と安全を言うのも、第一義的には米国の国益のためである。この米国の国益第一主義の基には、「パクス・アメリカーナ」(米国の支配のもとでの平和)という覇権主義がある。すなわち、米国主導で米国の国益を追求するもとで、日本の平和も国益も、世界の安全も実現されるという思想だ。
 このような覇権主義は、今日、覇権時代の終焉とともにまったく通用しないものになっている。米国の支配、核の傘のもとでの平和がいかに幻想であるかは、もはや誰の目にも明らかだ。イラク、アフガン戦争への自衛隊の動員、第二次朝鮮戦争の危険とその前面への自衛隊動員の可能性の高まりは、その一つの現れだと言うことができる。世界的な自主独立の気運、新興の気運の高まりとともに、弱体化しもはや世界を単独で支配できなくなった覇権国家、米国の国益は、ますます日本や世界の平和と安全、進歩と国益に相反する古い時代の遺物になってきている。

■反覇権時代の「抑止力」は何か
 反覇権時代における戦争抑止力は、覇権国家の傘のもとにはない。覇権国家の軍事力は、戦争を抑止するどころか、引き起こし、そこに被支配国の軍事力を引き入れていく。米軍を抑止力とする日米安保を見直す必要性もまさにそこにある。
 戦争抑止力が在日米軍にないとすれば、それは一体どこにあるのか。それを自衛隊の増強に求めるのが、いわゆる「軍国派」の人々なのだろう。鳩山前首相もこの部類に属していたのかも知れない。しかし、彼らには自信がないようだ。米国を離れての覇権などあり得ない。どこまでも米国の主導のもとでの覇権だ。鳩山政権のぶれと混乱と挫折の要因にはこの辺の事情があるのではないだろうか。
 反覇権時代の抑止力は、覇権を捨てるところからしか生まれてこない。覇権にしがみついている限り、米国から離れられず、結局、米軍を抑止力にするしかない。
 覇権を捨て、反覇権の立場に立ったとき、日本の平和と安全のための抑止力が見えてくる。それは、他でもなく、憲法9条を実現するところにある。と言うと、大笑いする人が出てくるかも知れない。日本には戦争放棄、戦力不保持の9条があるからこそ、日米安保が必要であり、米軍という抑止力が必要なのだと。
 本当にそうだろうか。まず重要なことは、憲法9条は自衛権を否定していないということだ。それは、自衛権まで否定したマッカーサー・ノートのその部分を削除して9条がつくられた事実を見ても歴然としている。また、9条は、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄しながら、自国の領土に侵攻してきた敵を撃退する闘いまで否認してはいない。9条は、交戦権を否認しているが、それはどこまでも、「自衛」や「自衛戦争」の名によって国外に出ていく侵略戦争を否定しているのであって、自分の領土内で侵略者を撃退する徹底した自衛戦は否定していない。
 今日、反覇権の時代にあって、透徹した自衛に徹する憲法9条は覇権に反対し国の自主を守る真の自衛の模範である。反覇権の時代である今日、反覇権・自衛の模範を掲げ、それを実行する国に敵対し、敢えてその国に侵攻する国などあり得ない。もし、万が一、そのような国が出たときには、徹底した撃退武力に改編された自衛隊を中核とする日本国民の総力を挙げた撃退戦が展開されると同時に、反覇権・地域共同体の安保であるアジア安保がそのような国を許さず、国際的、地域的な結束した力でその国を孤立させ、国として成り立たないようにしていくだろう。
 この国民的、国際的な結束した反覇権の力、それを生み出す憲法9条の実現にこそ、いかなる覇権や侵略にも微動だにしない真の抑止力がある。日米安保の見直しもそれに基礎して行われるべきではないだろうか。



研究

 

魚本公博


 覇権の時代は終わった。もはや覇権が通用する時代ではない。これは米一極支配が崩壊し多極化が基本趨勢となっている今日の時代に対する重要な時代認識だと言えるのではないだろうか。世界的に覇権の考え方が行き詰まり反覇権の流れが強まっている中、私たち日本人は、明治以来の覇権的な考え方を見直すことが問われているのではないか。こうした観点から江戸時代を考えてみたい。

■江戸時代が「鎖国」というのは正しい評価か
 江戸時代初期に日本を訪れた外国人の一人に、ドイツ人の医者ケンペルがいる。彼は、オランダの日本商館員として1690年に訪日し、その2年間の滞在中の見聞を「廻国奇観」や「日本誌」(彼の死後その草稿をまとめたもの)として著したが、その多面的で学術的な分析は西欧人の日本観に大きな影響を与えた。
 その彼が感嘆したのは「平和」である。当時の欧州は戦争と混迷の時代だった。30年戦争(ドイツの宗教戦争)、オランダ独立戦争、スペイン王位継承戦争、オスマントルコの侵入、魔女狩り、ペストの流行など…。彼は、欧州への帰国に際し「あの終始戦争に巻き込まれている土地に帰る気がしなかった」と記している。
 ケンペルは日本の平和が「鎖国」によるものと見て、「廻国奇観」では一章をとって「鎖国論」を展開している。実は「鎖国」という言葉はケンペルが案出したもので、それを1801年に志筑忠雄が訳出して日本でも使われ始めたものだ。世に言う「鎖国」とは、主に1633年からの数回にわたる長崎奉行宛の老中奉書で示された一連の通達を後世、「鎖国令」と呼んだものである。その内容は大きく「日本人の海外渡航禁止」「キリシタン禁教」「貿易の統制」の3点である。基本的なものは1633年の奉書にあり、これを「第一次鎖国令」と呼び、その後39年にポルトガルとの通商を全面禁止したことをもって最終的な「鎖国令」としている。
 しかし、それは本当に「鎖国」と呼ぶにふさわしいものだったのだろうか。
 周知のようにスペイン、ポルトガルによる新大陸の植民地化ではキリスト教布教が先兵の役割を果たした。アジアにおいても布教は貿易と結びついたスペイン、ポルトガルの侵略植民地化政策として推進された。
 彼らの内部文書には「キリスト教界を救う方法…中でも最も容易な方法は暴君の生命を奪うことである。そうすれば日本中が内乱になり領主たちは皆天下殿になることを望む。この野心のとりこになった者は我々の存在を許し反対しなくなるであろう」と露骨である(こうした文書から織田信長の死の背後には欧州勢力があったという説もある)。また、1858年に日本イエズス会の準管区長コエリョがフィリピンのイエズス会にスペイン艦隊の派遣を求める書簡を送り、長崎を武装化し、バテレン追放令を出した秀吉に対しキリシタン大名を糾合しフィリピンからの援軍と共に対抗する案があったことなども知られている。
 すなわち「鎖国」とは、布教と貿易が結びついたスペイン、ポルトガル勢力の侵略的な動きに対する対策なのであり、プロテスタントの英国、オランダとの交易は禁止しておらず(英国は貿易の利益が上がらないとして自ら撤退)、中国、朝鮮とも交易し、「鎖国」後、貿易量が増えている事実を見ても、それは決して「鎖国」ではなかった。

■その反覇権性に光を当てよ
 江戸時代の対外政策は、秀吉の対外政策と比較したとき、その反覇権性が浮き彫りになる。
 秀吉は、全国を統一するや海外に目を向け1591年には、ルソン(スペイン領)に入貢を促し(97年に入貢)、92年には朝鮮侵略を開始する。秀吉晩年のこの蛮行を老人性誇大妄想狂だとか、全国統一であぶれた数十万の侍の処理のためだったとか、中国への進出を企図するスペイン勢力に繰られたのではないかなど色々な見方があるが、いずれにしても、東アジアへの西欧勢力の進出という状況の中で秀吉がその競争に割って入ろうと考えたのであり、それは全く覇権的な考え方であったと見るべきだろう。
 それに引き換え、江戸幕府を創始した徳川家康は反覇権の考え方を強くもっていたと言えるのではないだろうか。家康は、争乱の時代に終止符をうち、国内での覇権競争を最終的に収拾した。また、朝鮮侵略に批判的であった家康は、それに手を染めず、秀吉没後ただちに朝鮮からの撤兵を主導し、その後、朝鮮との友好回復に熱心に取り組み、「朝鮮通信使」の来訪を実現した。
 その第一回目の来訪時(1607年)、駿河に居た家康は、朝鮮使節を江戸への行きと帰りに歓待し、自分は朝鮮出兵にも参加しなかったし朝鮮との友好を望んでいることを熱く語っている。
 家康が反覇権の考え方の持ち主であったことは、鄭成功(台湾に依拠し清と戦った明の遺臣で母は日本人)や山田長政(タイ)の援軍要請に応じなかったことにも見られる。
 実に江戸時代の対外政策は、西欧勢力の覇権主義に対して、日本の独立自主を守るための反覇権主義だったのであり、ここにその本質を見、そこに光を当てなければならないだろう。

■飛躍的な発展
 こうした反覇権の政策の下で日本は飛躍的な発展を遂げる。新田開発が大々的に行われ15世紀の95万町歩が18世紀前半には300万町歩にも増大。こうして人口も1200万が3000万人を超えた。金銀の産出量はピークを迎え、銀は当時の世界流通量の20%が日本産との説もあるほどである。その銀は生糸輸入のために大量に流出していたのが、国内に回るようになり、日本の商品経済発展を促し国内産業を発展させた。
 この時代、長崎を通じて欧州に輸出された漆器や陶磁器、豪華な着物(ガウンは着物から派生した)などは欧州貴族の垂涎の的になった。意外なところでは日本刀の原料である玉鋼(たまはがね)も18世紀初期まで優秀な鉄鋼材として大量に輸出されている。
 また当時日本を訪れた西欧人が「これは農業ではなく園芸だ」と感嘆したほどの集約農業の発展。街路や宿泊施設の整備などによる交通の発達。世界有数の100万大都市であった江戸の繁栄、そこでの江戸寿司やウドンなどのファーストフードの発生。分権的な制度下での地方の発展。寺子屋、藩校などの教育システムの発展と世界一の識字率。浮世絵や絵画、歌舞伎などの大衆文化の発展。
 そうした中で、人々の精神生活も反覇権的であった。訪日した西欧人が一様に驚いているのは、当時の日本人が他のアジア諸国の人々と比べても、物怖じせず卑屈でもなく親善の情を示し、縁側にすわれば茶を出し花を手折ってきてくれたりすることである。紛失物が返ってき、お釣りを多く受け取ったとわざわざ返しにくることなども驚きをもって紹介されている。
 先に述べた、朝鮮通信使にもその宿舎には大勢の客がつめかけ、尊敬の念をもって詩や絵を交換し友誼を深めている。
 西欧人は、当時の庶民の様子を「小さな社会の一見して分かる人付き合いのよさと幸せな様子」などと記し、その高い道徳性、勤勉さ、明朗さ、知識欲、清潔さなどを賛嘆している。
 こうした精神土壌から利他主義的な独特の商人道が生まれたし、戦国時代には「背反常なり」で西欧人をして「忠誠というものを知らない」と唖然とさせた侍階級も武士道を発展させた。
 今日、日本の伝統と文化と言われるものはこの時代に生まれ開花したものである。

■時代見直しの基本姿勢
 もちろん、江戸時代の対外政策を一方的に賛美することはできない。それによって、資本主義的発展が遅れ封建制度が持続し経済や技術の発展が遅れたことも確かだからである。
 そのため、幕末時期に、資本主義発展の結果として帝国主義化した欧米の前で日本は200年前とは比較にならないほど植民地化の危機に直面した。かつては全欧州が所有する何倍もの、格段に性能の良い銃を作りだした日本なのに、それを発展させることが出来ず、船も貧弱であり国防力は低下した。それゆえ欧米の砲艦外交の前に屈服した形で不平等条約を結ぶしかなかった。
 しかし、そのことをもって、「鎖国」というネガティブな表現を借用し、「開国」の先進性を印象付けようとするかのような明治以降に一般化された言説は正しいのだろうか。それは、明治以降の欧米を師としてアジアを侵略する従属覇権的な考え方を正当化するためものになっている。
 否定的と肯定的なものを区別し、否定的なものは直しながら、肯定的な側面を認め今日に生かすことこそ時代見直しの基本姿勢であるべきなのである。


 
報告

沖縄の生々しい現実に圧倒された旅

金子恵美子


この6月、初めての沖縄旅行を体験した。
 3泊4日の旅は、一方で愉しく、また一方で胸苦しい旅であった。

■沖縄の二つの顔
 沖縄には二つの顔がある。美しい自然の観光王国と基地の島という顔。それ故か、沖縄へと馳せる私の気持ちも、異国情緒豊かな南の島へのわくわくした期待感と、政治の焦点になっている基地や沖縄の人々の姿を見てこなければという二つの思いが交錯していた。
 旅に先立ち、友人が「沖縄・読谷村 憲法力がつくりだす平和と自治」(山内徳信著)を送ってくれた。しっかり沖縄を見て感じてこいよというメッセージとしてありがたく受け取った。

■近い沖縄、遠い沖縄
 沖縄は私にとって海の向こうの遠い島という感覚。日本のほかの県が兄弟であれば、異母兄弟のような。しかし実際に行ってみると関西空港から飛行機に乗ってわずか2時間、あっという間に着いてしまった。たった2時間の距離に沖縄はあるのだ。本土からこうして多くの日本人が沖縄に観光に訪れている。その物理的な距離に比べて、果たして本土の人の意識や心はどれだけ沖縄に近づいているのだろうか。少なくとも私にはまだまだ距離があった。この旅を通じて少しでも近くて近い所にしなければという思いを新たにする。

■ここは日本
 空港からは、沖縄には鉄道がないのでレンターカーを借りて移動。青い空に、コンクリート作りの頑丈そうな白い建物、窓が大きく沢山あけられ風通しよく作られている。ソテツの木々が道路沿いに植えられ、日本というより外国のどこかの風景に似ている。しかし、目に飛び込む「洋服の青山」「はるやま」「ドラッグイレブン」「ジャスコ」「ユニクロ」「アイフル」「レイク」「TUTAYA」「天下一品」などなどの看板は、ここが紛れもなく日本であるということを誇示している。「やれやれ」的気分。

■広大な米軍基地
 しばらく進むと有刺鉄線で囲まれた米軍基地が横手に見えて来た。一番の印象はとにかく広いという事。車でしばらく走っても基地がまだ続いている。途切れたかと思うとまた現れる。しかも町のど真ん中、我が物顔で居座っている。もう戦争は終わり沖縄は日本に返還されたのではなかったのか?何この広大な米軍基地は?初めて見る光景に強い衝撃を受ける。私の知らない、頭では知ってはいても実感のともなっていなかった沖縄の現実、そして日本の現実が実感をもって迫ってくる。アメリカの占領がまだ終わっていない沖縄、それは日本なのだ。なんとも言えない気持ちでいる私の目に、「極東警備会社」「アメリカ中古家具」などの看板が飛び込こんで来る。空港周辺でお目にかかったおなじみの看板とは違い、生まれて始めて目にする看板だ。沖縄だなーと思う。「アメリカ中古家具」には、アメリカ人が使ったものを日本人に払い下げる的な上下関係感が漂っている。リサイクル商品に抵抗はないが、アメリカ中古家具だけは絶対に買いたくないものだ。日本人としての自尊心がうずく。また基地が現れる。中に窓のない灰色の建物が並んでいたり、軍用車が置かれていたりするのが目にはいったが、米兵を目にすることはなかった。3万人ともいわれる米兵はどこに身を潜めているのか。やけに静かなのが不気味な印象だ。
 本土に住む私ですら、この広大な土地をせしめている米軍基地に苦々しい思いがこみ上げてくるのに、沖縄の人々の思いはいかばかりであろうか。単に基地がデンと居座っているというだけではない。騒音や事故、犯罪と隣りあわせで65年間も暮らして来たのだ。
 朝鮮戦争後、日本各地に分散していた米軍基地の多くが沖縄に移され、沖縄は日本の0・6%という領土に日本全体の75%の基地が集中する基地の島と化した。私が向かおうとしている読谷村は、1945年4月1日、米軍が上陸した地であるが、復帰後の1974年時点で読谷村全面積の73%が米軍基地であったという。毎月3,4回の割合で普天間基地を飛び立ったヘリコプターが読谷村の飛行場で降下訓練を繰り返す。降りてくるのは兵士だけではなく、ジープやトレーラー、ドラム缶、角材などなど。目標地点はあるが、風向きにより演習場の外にも落下する。野良仕事をしている人のすぐ近くにも落下し、ついには小学生の女の子が押しつぶされて亡くなるという事故が起きた。信じられますか?自分の村の7割が外国軍隊の基地で、こんな危険な演習場が村のど真ん中にあるということを。この演習場が村民ぐるみの闘いにより完全返還が実現したのが2006年という。今では村民のための公共施設が作られ、村民の手によって新たな村おこしが進められている。もともと読谷村の人々の土地であるのに、これが当たり前の姿なのに、その当たり前のことがなされるのが何故こんなに難しいのだろうか。

■痛々しい沖縄の姿
 那覇空港から宿泊先の読谷村残波岬までの道中に私の目に入ったものは、黄色いデイゴの花咲く美しい自然の沖縄、そこにゴチャゴチャと立ち並ぶ本土とまったく変らない看板群、そしてデンと構えた米軍基地。痛々しい沖縄の姿だ。沖縄が美しければ美しいほど、無残で悲しい姿だ。沖縄に口がきけるなら、手足が動かせるなら、よそから入ってきたものは出て行けーと言いたいだろうし、つまみだして、海にポイポイ捨ててしまいたいだろう。基地や看板は美しい島に住み着いた怪物や寄生虫のようだ。一番グロテスクだったのは、真っ赤な大きな鳥居が米軍基地のゲートに使われ、そこに「TORII GATE」と書かれたもの。日本軍が遺した鳥居を米軍がそのまま使っているものなのだろうか。そういえば「トリイゲート」というのはどこかで耳にした記憶があるが、その「トリイ」が「鳥居」を意味していたとは。日本とアメリカによって踏みつけにされている沖縄の象徴のようだ。

■沖縄の新聞より
 二日目の朝、「美ら海水族館」に向かう途中で寄ったローソンで、「沖縄タイムス」と「琉球新報」を買った。沖縄に行ったら是非、沖縄の新聞を読んでみようと思っていた。興味津々でページを開いた。やはりそれは沖縄の新聞であった。いくつか印象深い記事をあげると、先ずは、普天間第二小学校で行われた「命守る方法訓練」という記事。米軍普天間飛行場に隣接する宜野湾市の普天間第二小学校で、宮森小学校米軍ジェット機墜落事故当時教員だった豊浜光輝さん(74歳)の講演と米軍機墜落事故を想定した避難訓練が実施されたとある。普天間第二小学校では2000年から毎年6月にこうした訓練を実施しているという。この日も時折ヘリの重低音が鳴り響き、空中給油機がタッチアンドゴー訓練を実施する中で開始されたとある。沖縄の生々しい現実だ。
 次に目を引いたのは、投書欄に載っていた「白梅之塔の千羽鶴」という記事。それは57歳の男性からの投書で自分の妻に関するものであった。家事の合間を縫って千羽鶴を折る妻の姿は例年の風物詩とも言うべきことであるが、それには訳があったとして、ヘルパーをしている妻があるご老人から学生時代の初恋の女性が今どうしているか調べて欲しいという依頼を受けた。そのご老人の真剣さに引き受けてしまった妻が調べて見ると、彼女は「白梅看護隊」として第24師団に衛生看護の看護隊として入隊していたが、無残にも昭和20年6月に戦死し「白梅之塔」に祭られていることが分かった。後日、ご老人と一緒に訪れた「白梅之塔」はひっそりとした所であった。そこに初恋の人の名を見つけたご老人は涙に咽び、その背中に戦争の悲惨さを感じた妻は恒久平和を誓ったという。その後、ご老人も初恋の彼女の元に旅だった。それから2年経ったが、妻の運転手として「白梅之塔」に今年も千羽鶴を奉納した、という記事であった。私もヘルパーをしているので、自然目に入ってきた記事であるが、やはり沖縄ならではのヘルパーさんの話である。
 あともう一つは、「沖縄タイムス」の社説。「お礼表明・感謝決議」の小見出しで、沖縄県民に対する管総理の「お礼」と米下院で採択された「感謝決議」について書かれていた。
 管首相は、今年の沖縄全戦没者追悼会で、沖縄に基地負担をお願いし続けていることに触れ「全国民を代表してお詫び申し上げる」と語った。その上で沖縄の負担がアジア太平洋地域の平和と安定につながっているとの考えを開陳し、「素直にお礼の気持ちも表せていただきたい」と付け加えた。この「お礼」には家のテレビで聞いていた私も違和感を覚えた。社説では、沖縄の過重負担の軽減が国政の重要課題になっているときに、「お詫び」だけでなく、あえて「お礼」を口にしたのである。慰霊の日に、戦没者追悼式の場で。と続けている。
 一方米下院も本会議で「日本、特に沖縄の人々に感謝を表明する」との決議を採択した。米国議会は97年にも感謝決議を行っているという。97年といえば、その2年前に米兵3人による小学生女児にたいするレイプ事件で、沖縄が怒りに燃えていた時期である。普天間基地の移設問題もこの時に決まったものだ。即ち、沖縄県民の怒りを静めるためのリップサービスというところか。
 私がこの「お礼」と「感謝決議」のことを19歳の姪に話したところ、即座に「ミエミエじゃん」という言葉が返ってきた。実に端的に事の本質を表している。「お礼」と「感謝」には、「だからこれからもヨロシク」という本音、隠されたメッセージ我が透けて見えるのである。強い違和感を覚えるのもその為だ。
 基地問題に対する「政治の言葉」はすっかり信用を失ってしまった。沖縄住民の心に届かない独りよがりの「お礼」表明や「感謝」決議が日米双方から繰り返される現実は、政治の無策を自ら認めているようなものである。と締めくくられている。

■勉強すればするほど
 翌日には慶良間諸島に船で行き、初めてのシュノーケリングを体験。海の中に泳ぐ色とりどりの魚の群れ、大きな魚の大群や、小さな魚たちの舞踊のような戯れ、海の底を泳ぐ海がめなどなど、海の世界を堪能した。そしてホテルへの帰途に立ち寄った、読谷村のチビチリガマ。ガマとは洞穴のこと。沖縄戦では多くの住民がガマの中で集団自決をしている。このチビチリガマでも84名の方が亡くなっている。洞穴の中にはまだ多くの遺骨が残されているという。皆で黙祷をする。
 最後の日には沖縄南部の首里城や「ひめゆりの塔」を見学。「ひめゆりの塔」記念館には犠牲になった210名全ての女学生の顔写真が展示され、彼女たちが最後をどのように迎えていったのかが語られている。結論は何か。軍は住民を守らないと言うこと。映画にもなり知らない人はないであろう「ひめゆり部隊」。しかし、彼女たちが何のため、誰のために尊い命を犠牲にしたのかを自覚している日本人は余りに少ないのではないだろうか。沖縄戦では沖縄県民の4人に一人が亡くなっている。全ての人が家族の誰かを失っていると言えるだろう。沖縄戦は本土防衛のための決死戦であり、沖縄は本土防衛の「捨て石」となったのだ。つまり、私たちのために沖縄は犠牲になり、戦後は米国の「要石」として、日米関係維持のために基地を一身に負わされてきたのだ。沖縄は「他人ごと」ではなく、「自分ごと」であり、沖縄の問題は日本の問題そのもの、私自身の問題なのだ。これを実感できたことが今回の旅の最大の財産である。歴史的に見ても、津島藩による弾圧や明治政府による琉球処分など、沖縄の自主権を踏みにじり苦難を強いてきた歴史がある。沖縄は土足で上がれない地なのだということをこの旅は教えてくれた。
 また、沖縄は今でもって米国の占領が終わっておらず、戦争と隣あわせで生きており、戦後が続いているということ。もうこれ以上、「抑止力」とかいう虚像をもって沖縄に基地の負担を負わせてはならないということ、もうこれ以上の犠牲を沖縄の人々に強いるのは許されないということをこの旅で実感できた。
 本土に住む人々はもっともっと沖縄について知らなければならにと思う。お金が許すなら是非一度は訪れるのが良いと思うし、学校でももっとキチンと沖縄戦や沖縄の現状などについて教えるべきであると思う。そして、本土の人にとって沖縄が「他人ごと」ではなく「自分ごと」になった時、その闘いは大きなうねりとなって、沖縄問題の根本ともいえる「日米安保条約」しいては従属的な日米関係を断ち切るための闘いを創出していくことができるのではないだろうか。
 3泊4日の短い旅であったが、十二分に楽しみながら、それ以上に学ぶこと、得ることの大きな旅であった。次回はもっと深く、沖縄の人々の心に触れる旅をしたいと願っている。


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