研究誌 「アジア新時代と日本」

第84号 2010/6/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 鳩山政権の歴史的使命放棄に考える

ギリシャ財政危機の教訓 問われる主権強化と国民経済の構築

インタビュー 浅野健一(同志社大学社会学部メディア学科) オリジナル・シン(侵略責任という原罪)から逃げてはいけない




 

編集部より

小川淳


 国民の大きな期待の中で誕生した鳩山政権はわずか8ヶ月という短命に終わった。普天間基地をめぐって迷走した挙句、マスメディアの集中砲火を浴び、炎上してしまった。沖縄県民の落胆と失望は計り知れない。
 とはいえ、鳩山政権の8ヶ月は無駄ではなかったのではないか。自民党政権下ではけっしてあり得なかった普天間基地移転の見直しという「火中の栗」を拾ったこと自体は高く評価されて良いし、そのことによってこれまで見えてこなかった日本政治の「縮図」がくっきりと浮かび上がってきたと思うからだ。
 一つは、「対等ではない」日米関係の「縮図」である。辺野古への基地移設案への見直しは政権公約であり、沖縄県民の総意であった。にもかかわらず米国はこれを一顧だにせず、一蹴した。リベラルを標榜するオバマ政権下においてさえである。「従属国家」という言葉の真の姿をそこに見た人は少なくないのではないか。
 もう一つは琉球差別という「縮図」だ。沖縄(琉球)の現実を見て見ぬふりをしてきた大和人にとって、これほど基地の現実に触れ、沖縄の声に共感を寄せたことはなかった。同時に、県内移設(辺野古への回帰)という新たな日米合意によって沖縄の民意は再度踏みにじられてしまった。そこに明治以来続く「琉球差別」というもう一つの「縮図」がくっきりと浮き彫りにされたといえるのではないか。
 小沢と鳩山の辞任、そして菅政権の誕生と政治の舞台はがらりと変わったが、これで普天間問題は終わったのではない。本当の意味での沖縄の負担軽減と米軍基地、安保見直しの論議がこれから始まる。その時代の転換点、出発点に我々は立ったに過ぎない。
 「安保五十年」はアメリカ従属や琉球差別を「空気」のように受け入れる政治家や官僚やメディアを大量に生みだした。そこに一石を投じた鳩山元首相の「功績」はけっして小さくない。
 これを期に、「国を守る」ことや「日米同盟のあり方」について、戦後の「常識」を打破するような真剣な議論が巻き起こることを期待したい。菅総理にはその力量と見識が問われてくるだろう。



主張

鳩山政権の歴史的使命放棄に考える

編集部


 沖縄県民の声を聞くのか、米国の声を聞くのか、その歴史的決断が問われていた鳩山政権は、米国がかけてくる「想定外」の重圧と謀略に耐えきれず翻弄されて、見るも無惨な姿をさらしてしまった。今更のように「抑止力への認識不足」を云々しながら、米国言いなりの共同声明を発表する一方、韓国哨戒艦沈没事件で李明博政権支持の「先頭を切る」と軽々しく名乗り出、米国からお褒めの言葉を受けている様は、憤りを通り越して悲しみをさえ誘うものであった。

■鳩山政権は国民の期待に応えられなかった
 日本憲政史上初めて国民の手によって実現した政権交代、そこに国民は一体何を期待したのか。それは、一言でいって、米国の顔色ばかりうかがい、国民の顔を見ようとしない古い自民党政治に代わる新しい政治、国民の要求に応える政治だったと言える。
 生活の破壊と地域の崩壊、そして出口の見えない経済の停滞等々、米国言いなりの貧困と格差、不均衡拡大の新自由主義改革路線が招いた惨状を前に、自民党政治はなす術を知らなかった。
 この長期にわたる対米従属政治の累積された矛盾の帰結とも言える状況は、米一極支配の崩壊という世界史的な事変と相まって爆発した。もはや世界が米国を中心に動く時代は終わった。米国に寄りかかった日本のあり方そのものの見直しが切実に問われている。国民の新しい政治への要求は、この時代的要請と一体だったと言うことができる。
 あの選挙当日、鳩山民主党代表は、その歴史的大勝利を「国民の勝利」と表現した。それは、新しく始まる民主党政治への期待を抱かせるに足る発言だった。そして、鳩山政権が掲げた普天間基地移設問題、沖縄県民の声を聞くのか、それとも米国の声を聞くのかが問われたこの問題は、日本の政治と安全保障のあり方を根本的に見直すための試金石となる問題であり、日本のあり方そのものを転換させる突破口となる問題だった。
 しかし、残念ながら、鳩山政権は国民のその大きな期待に応えることなく挫折した。

■問題はどこにあったのか
 なぜ鳩山政権は自らに課せられた歴史的使命を放棄するに至ったのか。
 今日の事態を招いた要因として鳩山首相個人の資質があれこれと挙げられている。ぼんぼん的な甘さ、誰にでもいい顔をする八方美人、優柔不断、言葉の軽さ等々。皆、一理ある。だが、それらが純粋に鳩山首相個人の資質上の問題でないのも事実ではないか。「甘さ」一つとっても、それは単純に「ぼんぼんだから」ではすまされないものだ。そこには米一極支配が崩壊した今日、普天間基地移設問題に対し米国がどう出てくるかという時代認識に関わる見通しが関係していたに違いない。
 そこで考えてみたいのは、鳩山政権が自らの歴史的使命についてどのように見ていたのかという問題だ。この自覚と認識が鳩山政権の思考と行動を大きく左右していたのは間違いない。
 まず、彼らの時代認識はどうだったか。それは、鳩山首相自身が「米国主導のグローバリズムの時代の終焉と世界の多極化」と述べているように、米一極支配から多極化の時代への移行という認識だったと思う。従属的な日米関係から対等な関係への転換という方針はその反映だと思う。
 ところで、この世界の多極化という時代認識には、押さえておくべき重要なことがある。それは、多極化が覇権か反覇権かの闘いのより高い段階として、その一層の激化をともなうということであり、その中で、米国が闘いの主導権を放棄するのではなく、逆に多極をなすそれぞれの地域大国と反覇権の地域共同体に対して主導的な地位を確保するためあらゆる術策を講じ、あくまでそれにしがみつこうとすることだ。
 鳩山政権はこの時代認識が甘かった。彼らは、日本にアジア太平洋地域で米国を支える地域大国としての重要な役割を期待する米国が普天間基地一つぐらいの国外移設は容認してくれるものと考えていたのではないだろうか。また、沖縄県民、日本国民の要求と米国の要求の相容れない性格についてもなんとかなると甘く考えていた節がある。だが、米国は違っていた。彼らにとって、在日米軍基地は、対アジア侵略基地である以上に、何より日本を自らの統制下に置いておくための拠点である。その中の一基地の移設であったとしても、それが日本側の言うままになったなら、それは在日米軍基地そのものの撤退につながるものとなる。
 沖縄県民の要求を挙げて県外・国外移設を説く鳩山政権に対して、米国が戦争「抑止力」としての米軍の総引き上げをちらつかせて脅したのも、また、よりによってこの時期に検察審査会を開き、東京地検特捜部を発動して小沢幹事長の政治とカネの問題を取り上げたのも、そして、韓国哨戒艦沈没事件で北朝鮮の脅威をアピールし、「抑止力」の正当化をはかったのも、すべてそこから出たものだと言えるのではないだろうか。
 鳩山政権の歴史的使命への自覚と認識で、もう一つ問題なのは「覚悟」の問題だと思う。時代認識の甘さからは、覚悟の甘さが出てくる。鳩山政権は、米国があくまで辺野古への移設に固執し、一切の譲歩を拒否してきたとき、どうするべきだったか。断固沖縄県民、日本国民の立場に立って、県外・国外移設の主張を貫き、それによって5月末まで解決の約束を守れなかった場合、解散・衆参同時選挙をもって、国民に信を問うべきだった。だが、彼らにはその覚悟ができていなかった。
 その上でより根底的な問題がある。それは、日本の平和と安全を日本自身の力で守り抜く覚悟ができていなかったことだ。戦争抑止力を米軍に依存していてよいのかという日米安保の見直し問題は、古い自民党政治からの転換で真髄的な内容をなしていた。だが、鳩山政権には、この歴史的使命に対する自覚も覚悟もなかった。鳩山政権が普天間問題の最後の詰めの段階で米国の「抑止力」恫喝に屈したのは必然だったと言うことができる。
 自らの歴史的使命に対する自覚と認識で、鳩山政権にとってさらに決定的だったのは、「民意」に対する観点だったのではないだろうか。沖縄県民の声を尊重しているかに見えた鳩山首相も、最後は、米国の意思に従った。そこには、国際情勢や個々の地域情勢の動きでもっとも重要なのは、時の最強国の動きであり、今日、米国の意思を見極めることがもっとも重要だという認識があったのではないだろうか。すなわち、辺野古を要求する米国の意思が揺るがないと見てあの決定をなしたということだ。
 ここに、自らの歴史的使命に対する鳩山政権の自覚と認識で最大の誤りがあったのではないかと思う。民意の持つ決定的な力を信じそこに依拠してこそ、対米従属を脱却する新しい政治もあり得る。それは、イラクやアフガンで民意の前に立ち往生する米国の姿を見るまでもなく、歴史的に証明された真理なのではないだろうか。鳩山政権があくまで沖縄県民の声を尊重して闘ったとき、日本の政治は、多くの困難に直面しながらも、全国民的な高い政治意識に支えられて、新しい時代を切り開いていくことができたのではないだろうか。

■新しい政治の実現をあくまで目指して
 鳩山政権が自らの歴史的使命を投げ出した今、日本の政治は一体どうなってしまうのか。普天間問題はどうなるのか。当然のことながら、その禍は大きい。新たな民主党政権が自らの歴史的使命を果たしていく保証はない。また、小党乱立とそれらの合従連衡による連立政権の形成などが有り得るだろうが、それらが提起される歴史的大業を担っていくのも容易ではないだろう。
 一方、火のついた普天間問題はどうなるか。また、徳之島など基地機能や訓練の部分的な負担を強いられる問題にも火がついた。この基地見直し、安保見直しの問題は、日本のあらゆる領域の見直しの闘いと一体だ。国民は決して黙っていない。政権党がだめなら、底辺からの闘いで闘っていく。
 鳩山政権は、普天間問題を通していくつか良いことをした。まず、高まっていた国民の主権者意識をさらに一段と高めた。その主権者意識は、在日米軍基地のあり方を見直し、引いては日本のあり方そのものの見直しを要求するようになる。
 普天間基地移設問題は、また、この見直しが米国との闘争を抜きにあり得ないことを教えてくれた。見直しは米国との闘争だ。
 さらにもう一つ普天間問題が教えてくれたのは、高い歴史的使命感を持った政党の必要性だ。その使命感の中心には、民意を絶対的に尊重し、民意に従う心がなければならない。そのような政党を中心に闘いの主体を築いていくとき、国民は歴史的な転換の大業を自らの手で成し遂げていくことができるのではないだろうか。



ギリシャ財政危機の教訓

問われる主権強化と国民経済の構築

魚本公博


 昨年10月にギリシャでパパンドレウ新政権が発足し、前政権が公表していた財政赤字がGDP比6%ではなく12・7%(後に13・6%に修正)に達することを明らかにして以来、ギリシャ財政危機が世界経済を揺るがせている。とりわけ、このことをもって昨年12月に米格付け会社がギリシャ国債を格下げしたことで、ギリシャは外国からの資金調達が困難になり財政破綻の危機に直面した。そこで、ギリシャ政府はEU諸国に緊急の金融支援を要請したが、EUは、ギリシャに財政緊縮策を要求。パパンドレウ政権は300億ユーロに及ぶ財政改善策を発表。その内容は、「雇用の25%に及ぶ公務員の3年間の昇給や新規採用の凍結、賞与廃止、年金受給年齢を現在の62歳から段階的に引き上げ、額も30%削減する」などというものであった。それが国民の猛反発を受け連日流血のデモが展開される事態に至った。
 こうした中、米格付け会社は5月2日、ギリシャ国債を「投機的」にさらに格下げし、ポルトガルの国債も格下げしたため、この危機がEU全体に及ぶのではないかという懸念から5月6日には世界の株式市場が連鎖的に大暴落した。そのため、EUは急ぎ緊急支援の実施を決め110億ユーロ(約14兆円)の支援を発表した。
 110億ユーロもの緊急支援をしてもギリシャの財政危機が解決されるかは疑問だ。そればかりか、ギリシャ財政危機をきっかけに、その危機は、経済基盤の弱い他のPIGS(ポルトガル、イタリア、スペイン。これにアイスランドを含めてPIIGSとも言う)諸国、さらには東欧諸国にも及び、ユーロ自体の危機になり、新たな「リーマン・ショック」として二番底の金融危機が憂慮されるに至っている。

■ギリシャ財政危機の原因
 ギリシャの財政危機の原因については、人口1120万人に公務員が100万人にもなり、全雇用者の25%を占めており、国鉄など国有会社も多く「超巨大政府」であることが指摘されている。もちろんそれもあるだろう。しかし、そこに原因の基本があるのだろうか。
 財政赤字とは、税収などの歳入よりも歳出が上回っているということだが、現在、世界のほとんどの国は赤字財政であり、問題は、その額がどの程度かということだ。EUではその額をGDP比3%以内と決めているがギリシャは13・6%にもなるということで問題になったわけである。
 どうして、税収が減るのか。これはどの国にも共通することだが、この間の新自由主義改革によっている。そこでは、企業強化のために法人税を安くする。また外国企業誘致のための優遇策も採られる。また貧富の差の拡大の中での金持ち優遇策(所得税の累進性の緩和など)や低所得者の増大によっても税収は減る。地方の疲弊による税収の減退もある。その上で、経済のグローバル化による複雑なネットワークの中で企業、金持などの資産隠し、逃避、脱税がはびこる。また、こうした隠し資産を非合法に運用したり詐欺まがいの金融運営などで闇経済が発展する。ギリシャでは、闇経済は30%にも達すると推定されており、また世界不況のあおりを受けて誘致した外国企業が逃避し、主産業である海運や観光が打撃を受けたことでも税収が減っている。
 その上で、問題なのは、国債のほとんどが外国金融からの借り入れであることだ。その額は、国家予算の7割近くに達する。ギリシャは、ここ10年、経済的には活況を呈してきた。それで政府は借り入れを増やしてきた。そこにリーマン・ショック以来の金融危機が襲い外国からの資金調達がスムーズにいかなくなったことが財政危機のもう一つの原因だった。
 リーマン・ショック以来、アイスランドの銀行破産、政府系企業が焦げ付きを起こしたドバイ・ショック、今回のギリシャ財政危機など金融危機の余波がいたるところで噴出している。そうであれば、各種ローンを証券化(低所得者層向けの「サブプライム・ローン」が典型)し、さらには、それを金融テクノロジーを駆使して複雑に組み合わせ(各国の国債も組み込まれる)新たな金融商品にして売りさばき、巨大な利益を得ながら金融危機を招いた米国金融を頂点とする金融資本主義と言われる、今日の資本主義経済のあり方そのものに原因があると言わざるをえない。
 ギリシャ国民がデモで「泥棒!泥棒!」と連呼する声は誰に向けられているのだろうか。彼らが、「庶民をいじめて少しずつ税金を集めても抜本的な対策にならない。取るなら金持ちから取れ」と言っているのは、まったく正しい。

■解決策は?
 ギリシャ財政危機が、他の経済基盤の弱い国々に連鎖的に拡大し、それがEU全体に波及しユーロを崩壊させかねない事態について、ユーロ自体の問題の表れと指摘する論がある。通貨は統合したが財政は各国ごとにやっているため、一国の危機が全体に及ぶということだ。すなわち、EUを一つの主権国家(連邦制も含む)にすれば、各国の財政危機は、一地方の問題であって、ユーロ全体に及ぶことはないということだ。また、こうした考え方からギリシャのような弱小国は切り捨てるべきだという論も出ている。
 しかしEUは単に経済的な統合だけでなく、二つの大戦を経験した欧州が対立、憎悪の過去を捨てて生きていこうというものであり、米国のドル支配に対抗して欧州として一つにまとまり、各国が互いに協力しあって平和と繁栄を目指そうとして結成されたものである。まさに、それゆえ「EUの連帯性が試されている」(ルーマニア首相)のであり、その連帯の中でギリシャ財政危機も克服する道が模索されなければならないし、EUもその覚悟で取り組んでいる。
 EUを単一国家にして各国の主権をなくすというような方法は決して問題の解決にはならない。そうではなく逆に各国の主権を強化しながら各国がEU地域共同体の下で助け合っていく関係を深める中にこそ、解決の道が求められなければならないだろう。
 それは今日の金融危機を招来した金融資本主義といわれる経済のあり方を見ても言える。米国による新自由主義的手法とそのグローバル化は、各国の国家主権とくに経済主権を侵害・弱化させるものだった。金融テクノロジーを駆使して錬金術のように膨大なカネを作り出し、世界の国と企業がこれに依存する体制を作ると同時に、この膨大なカネを投機的に動かす賭博経済の横行によってカネが実体経済に回らず、ますます需要を減退させる悪循環。経済は生き物であり、需要と供給、中央と地方、大中小そして産業構造の不均衡を拡大しカネや物の循環が滞るようにしていては健全な経済発展は望めない。
 ギリシャ財政危機の教訓は、各国が経済主権をしっかり立てて、財政を外資に頼るというやり方もやめて、それぞれの国家が経済主権の下に、外資に左右されず、経済の自律性を高める方向で国民経済を構築していくことが求められるということだ。こうした国民経済の構築を基本にしつつ、その上で各国が地域共同体の下で協力しウィンウィンの関係を作りあげて行くことだ。

■日本は他山の石とせよ
 朝日新聞の3月7日付けの一面に、20××年 「日本売り」一色の日という記事が載った。米格付け会社が日本の国債評価を引き下げたことを契機に日本国債が売られ、株が暴落し、日本は破産宣告する羽目に…。
 日本は、中央と地方合わせて860兆円もの債務を抱え09年の財政赤字のGDP比10%、累積債務残高はGDP比220%にもなり、ギリシャ財政危機を契機に財政破綻の心配が強まっている。雑誌には、「ニッポン破綻寸前 家計の守り方 資産は海外に逃がせ!」、「インフレやっぱりくる それは日本国債暴落で始まる」「ヘッジファンドが目論む『201X年日本国債暴落』のシナリオ」「財政泥沼 日本に懸念」などの文字が躍る。
 すでに米格付け会社は、日本の膨大な借金に対し、財政改善の数値目標を設定せよと迫っており、このまま放置すればギリシャの二の舞になる。
 英国では、これまでの開放政策や外資の野放しに疑念の声があがっており、こうした声を背景に総選挙で「根本的転換」を主張する自由民主党が票を伸ばしたが、日本も問われているのは、開放政策や外資野放しの新自由主義的でグローバリズム的な路線からの「根本的転換」であろう。日本は、経済主権の強化とその下での国民経済の構築を真剣に進め、その上で東アジアとの経済的連携を強めていく道に進むべきである。それこそがギリシャ財政危機の教訓が教える道ではないだろうか。


 
インタビュー 浅野健一(同志社大学社会学部メディア学科)

オリジナル・シン(侵略責任という原罪)から逃げてはいけない

聞き手 小川淳


 浅野健一氏は、1948年7月27日、香川県高松市生まれ。66〜67年AFS国際奨学生として米ミズーリ州スプリングフィールド市立高校へ留学、卒業。72年、慶応義塾大学経済学部卒業、同大学新聞研究所修了後、共同通信社入社。編集局社会部、千葉支局、ラジオ・テレビ局企画部、編集局外信部を経て、89年から92年までジャカルタ支局長。帰国後、外信部デスク。共同通信退社後、94年4月から同志社大学文学部社会学科教授(新聞学専攻)、現在は同大学大学院文学研究科新聞学専攻博士課程教授。「人権と報道・連絡会」世話人でもあり、「週刊金曜日」「創」などで鋭いメディア批判を展開されている。ジャーナリズム論、人権と報道、国際関係論、平和学などの分野での調査研究とともに、「表現(報道)の自由と人権」メディア責任制度論、国際報道・国際コミュニケーション論、東南アジア社会経済論などその研究領域は幅が広い。

※      ※      ※

―足利事件に象徴される冤罪事件が今大きくクローズアップされています。浅野さんの専門分野でもあり、メディアと冤罪の連関性について指摘されています。冤罪を無くすために、日本のメディアはどうあるべきとお考えですか。
 言論機関としてのメディアの役割ははやり権力の監視です。権力や大企業など社会に強い影響力を持っている者を監視する、あるいは懐疑的な姿勢を保つ、疑うこと、これが日本のジャーナリズムには欠けている。日本ではジャーナリズムは何事からも「中立、公平」でなければならないみたいな勘違いをしていて、少数者、弱者の人権を守る、民主主義や非戦社会を作る、そういうジャーナリズムの第一次的役割が日本では認識されていない。
 冤罪事件や権力によるでっち上げを防ぐためにジャーナリズムはあるわけで、冤罪を無くすためジャーナリズムは何をできるかではなくて、ジャーナリズムは冤罪を無くすために活動しなければならない。日本ではそれがないから権力によるでっち上げ(冤罪)が深刻化しているのが現状だと思いますね。

―そのようなジャーナリズムの具体的なあり方として「匿名主義」を唱えられていますね。
 僕は匿名報道主義とメディア責任制度を提唱しています。ところが匿名報道主義は、朝日新聞や共産党系学者が「浅野は何でも匿名主義にする」と捻じ曲げてしまった。普通の市民が被疑者や被害者の場合は、匿名から出発して、例えば銃を持って逃げているとか、あとからどうしても必要であれば名前を出す。
 彼らは警察の言うとおりに書くことを止めたくないんですね。だから私に対するバッシングが凄かった。日本では正しいことを言うと、よってたかって苛められる。マスコミの幹部は私と同世代で若い頃は同じ考えを持ったはず。ところが偉くなると検察とのつながりや権力とのつながりができる。
 記者クラブの廃止でも同じことが起きている。「記者クラブをオープンにしろ」という論議があるけれど、オープンにしても(本質は)変わらない。レイシズム(人種主義)は止めるしかない、皇国史観もやめるしかない。皇国史観に良い皇国史観や悪い皇国史観もない。それと同じで誤ったこと(記者クラブ制度)は止めるしかないんです。
 根底的になにかを変えようとするとすごい抵抗がある。これまで仲間だった人や、進歩的な人が向こうについてしまう。要するに日本って「革命」がない国なんですね。明治維新とか、上が動いて権力の委譲が起きた。人々が本当に立ち上がって権力者をギロチンに掛けたり人民裁判したりして世の中を変えてきたという経験がない。人民によって社会が根源的に変わる、その闘いによって新たな社会の仕組みが作られる。アジアにはこの経験がある。
 アジア太平洋戦争で二千数百万の無辜の人々を死に至らしめ、そのコスト、犠牲の上に「デモクラシー・オン・ザ・ペーパー」(紙の上だけの民主主義)ができて、日本が「民主化」したんだという建前で動いている。日本には「市民社会」がない。「臣民社会」なんですね。日本に市民革命があったのかという論争が昔にありましたが、そこに行き着くかもしれません。市民革命が僕はなかったと思う。ないのに自分たちは何か立派な市民社会を作ってきた―戦後日本は一切戦争に加担しなかったというのも全部うそ。朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、アフガン・イラクにも日本は加担してきた。現在米国の基地があって、日本は一度も戦争に加担していないんだという「うそ」をつき通してきたのが日本のマスメディアですから、信用するなと学生たちに教えています。テレビや新聞に書いていることは無茶苦茶ではない、たまには間違えるけど基本的には正しい、誰もがそう思っている。日本ではそれが強い。

―海外のメディアと比較して日本のマスメディアの問題点はどこにあると思われますか。
 匿名報道とかは海外メディアでは当たり前です。日本みたいに(逮捕=実名犯人視報道)やっている国は先進国にはない。日本の憲法にも刑訴法にも「無罪の推定」という法理がありますが、日本では明文化されていない。すべての被疑者・被告人は裁判で有罪が確定するまで無罪を推定されるという表現がない。先進国であればどの国にもある。ドイツ基本法の第一条には、世界のどこにあっても人間の尊厳は尊重されるべきと書いてある。高校授業料無償化措置で朝鮮高校は除外するというようなことは、外国では絶対出来ないわけです。

―「権力とメディア」の関係で言えば、政治とカネ、普天間基地をめぐる鳩山、小沢への異常なバッシングを見ていると、日本のメディアは安保絶対主義というか、対米従属的な思考がぬけ切れていない印象を強く持ちました。
 対米追随ではなくて米国の植民地ですよね。「追随」とはくっついていくことですが、(彼らの思考方法は)もはや米国の一部ですよね。だから45年以降、日本は占領されて、米国の強制占領がいまも続いている。鳩山さんは米国に屈した。米国に止めさせられたんです。そうは誰も言わないけれども。今日の両議院総会(辞任発言)で鳩山さんは米国にいつまでも守ってもらってもいいのか、というようなことを言った。今日のコメントで一番面白かったのはそこです。彼は憲法9条を変えて軍隊を作って米国から自立する。核武装もする。そして米国(米軍)に出て行ってもらう。これを示唆しましたね。
 安保の考え方として、一番目の道は、米国の一部として日本を守ってもらう、その補完機能としての自衛隊があるという考え方。二番目の道は、中曽根さんのような独自の日本軍を作って米国には撤退してもらうという考え方、核武装も視野に入れる。石原慎太郎なんかもそうなのかもしれない。三番目が昔から社会党が言っていた非武装中立論。軍隊は持たない。この三つしかない。一と二が矛盾していて、靖国神社に参拝している人が米国の一部で甘んじている。日本のマスコミは一番目の考え方。これが一番楽なんですよ。憲法を変えなくてもいい。軍事は米国に任して経済に集中すればいい。米国の機嫌を伺いながら、ナショナリストから見ればとんでもない話で、ナショナリストは何をしているのかと思う。霞ヶ関官僚とマスコミの立場は一番目です。マスメディアが誰かに操作されているとか、使われているとかそういうことではなくて、メディアそのものが権力の一部となっている。

―新しいネット新聞とかどんどん生まれてきて、活字媒体の危機が叫ばれていますが、メディアの将来についてどのような展望をお持ちですか。
 活字は残すべきだし、ネット社会になっても残ると思います。i-Padでマルクスの「ドイツイデオロギー」を読むとかはちょっと考えられない。やっぱり線を引きながら読むべきでしょう。映画もそうですが、テレビが出たときに映画がつぶれたかというとそうはならなかった。ラジオも残っています。だから活字は残るだろうし、無くさないように努力して残すべきだと思う。米国では新聞がつぶれているから日本もそうなるみたいな考えを言う人がいるけど、米国と同じようなことをやっているからそういう発想になるんでしょう。インターネットがどんなに普及しても、会話したり手紙を書いたりというのはヨーロッパではちゃんと残っています。ただインターネットの影響は大きいですね。ツイッターとかが発達していけば、記者クラブはつぶれると思いますね。記者クラブで情報を独占していくというのはもうできない。インターネットメディアとか誰でも発信できるし、インターネット上では大新聞社とも対等ですよね。そういう意味でうまく使えば面白い。

―現役の一ジャーナリストして浅野さんはアジアの問題についても積極的に発信され続けています。日朝友好を掲げる京都ネットも立ち上げ、取材で何度も訪朝されている。浅野さんにとってアジアとはどのような意味をもつのでしょうか。
 台湾侵攻のあった1895年から50年間続いたアジア侵略の歴史は1945年に終わったんだけど、朝鮮に対してはいまだ戦争状態にあり、戦後は終わっていない。アジア太平洋戦争は50年間と考えていて、それについて日本がどう責任を取るのか。それをどう認識し謝罪と補償を行い、そういうことが二度と起きないような社会を作っていく。そういう責任が日本国民にある。それを甲山事件の山田悦子さんが言ったんです。彼女は、何で自分がでっち上げられたのかと考えたら、アジアの人たちを殺しておいて何も総括してないのに日本人が自分たちの人権を守れるわけが無いじゃない、と言い出すんですよ。最初僕はちょっと(冤罪と戦争責任問題という)この二つをつなげるのは無理があると思っていたんだけど、よくよく考えてみると確かにそこに行き着くなと思った。だからアジアとのかかわりと言うよりも、日本人自身がアジア太平洋の人たちと同じ共同体に住みたいと思ったら、そこを克服していく必要がある。それはドイツの人たちがヨーロッパでなしえたような作業を日本もアジアでしないといけない。今やらないとほんとにみな忘れてしまう。侵略戦争被害者の人たちも世代が代わってきて、最後だと思う。なぜ僕が朝鮮に行くかといったらいま朝鮮しかないんですね。日本について朝鮮の人々が言うことが一番適切なんですね。日本の過去と現代についての分析がきちんとしている。なぜかと言うと日本との何のしがらみもないからなんですね。ヒモがない。東南アジアも韓国も中国ももうヒモが付いていて、だから適当な曖昧なことを言う。朝鮮だけがすごくピュアに日本を見れている。だから朝鮮とどうやって戦後補償をするのか、平和条約を結ぶのかが、国交正常化の過程で問われてくる。間違っても日韓条約みたいな過去を曖昧にした正常化では意味がない。そういう意味で注目しています。日本の人民と政府にとって戦争責任を考える最後のチャンスではないか。国交正常化をどう実現し、どういう条文を結ぶのか。1910年の併合についてどう解釈するのか。日本社会が近隣諸国と共生していくために対等な関係を結ぶには過去をきちんと総括するしかない。にもかかわらずそれを否定したり、(侵略の)証拠を見せろといったり、そういう現実がまかり通り、石原慎太郎みたいな人たちが一杯いて、そういう状況をなんとか若い人たちに伝えないといけないと思ってジャーナリスト活動と教育活動でやっています。
 靖国神社はあっても構わないが、総理大臣が参拝するのは国益に反するからよくないとか、自衛隊はあってもいい、けれど戦闘してはいけないとか、こういう「朝日」や「岩波」的論評があるけれども、靖国神社、自衛隊の存在そのものが問題なんですよ。なぜそういう曖昧さがあるのかというと、アジア太平洋で2000万の人々を死に至らしめた日本のオリジナル・シン(SIN=原罪)を放置しているからです。そこに全部行き着く。

※      ※      ※

 同志社大学の新聞学専攻を創設した和田洋一氏は、日本帝国の崩壊からわずか三年後に、早くもネオ・ファシズムが芽生えていると警告したという。同志社大学のメディア学科はこのラディカルな批判精神の伝統を脈々と受け継いでいるようだ。
 日本をアジア侵略に向かわしめたその責任の一端が戦前のメディアにあったことは間違いない。とりわけ最近のメディアの報道を見ていると、民衆の立場に立ち権力を監視するというジャーナリズム本来の役割から大きく逸脱し、権力の代弁者そのものという印象を受ける。メディアの反動性、冤罪の温床、その根本には日本人がアジア侵略をきちんと総括できていないことからきているのではないか―浅野氏はこれを「オリジナル・シン(原罪)」と呼んでいる。この「原罪」から目をそらすことなく、きちんと向き合うために私たちに何ができるのか。そのことを問い続けていきたいと思う。


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