インタビュー 「ゆいまーる琉球の自治」代表、松島泰勝さんに聞く 琉球の自治へ、「琉球弧の経済学」の探求
最近、「多文化共生」という言葉をしばしば聞くようになった。
法務省によれば在日外国人数は221万人。法的には「永住者」と「非永住者」に大別され、在日コリアンなど旧植民地出身者の「永住者」が91万人、「非永住者」は130万人だ。この「非永住者」の中に就労に制限のない「定住者」や日本人との「配偶者」約50万人が含まれていて、彼らも生活の拠点を日本社会に置いている。「多文化共生」の実現はもはや時代の要請ともいえる。
ところが、日本社会には「共生」に程遠い現実がある。時代は変化しても執拗に残存する社会的差別、また未だアイヌや在日コリアンなど国内マイノリティの権利を認めようとしない特異な国の一つであり、外国人出入国に対する管理・監視網の強化など、外国人にとって住みにくく、息苦しい状況が続いている。
民族排外主義を標榜する「在日特権を許さない市民の会(在特会)」「主権回復を目指す会」などと名乗る集団は、民族教育を行う朝鮮学校や「従軍慰安婦」問題に取り組む人々に対して攻撃し、警察の"見守る"中で聞くにたえない民族差別・女性差別発言を繰り返している。この4月から始まる高校授業料無償化から朝鮮学校のみを「排除」するという鳩山政権の決定も、「多文化共生」時代に逆行する一例だろう。
多文化共生とは、言い換えるなら国内で増え続ける外国人マイノリティと私たち日本人がどのような関係性を持つのかという問題であり、いまや社会の成熟度を測る一つの指標となっている。
だが、日本にとってはそれ以上の特別な意味をもつのではないか。なぜなら近代日本が出発した当初から琉球やアイヌに対して「国家的差別」を犯し、未だ解決できずに引きずったまま今日に至っているからだ。
そのことが戦前においてはアジア侵略へと繋がり、戦後は沖縄に基地負担を押し付けてきたことと繋がっている。そうであるなら、「多文化共生」社会の実現とは、時代の要請であるに留まらない。日本にとって前々世紀から積み残した世紀的課題そのものなのである。このような愚劣な国に未来はない。
主張T
■強まる見直しへの動きと現実の変化
今日、見直し論議が盛んだ。日米安保の見直しからはじまって、政治や経済のあり方など、あらゆる領域にわたる見直しが問われてきている。普天間基地の移設が問題にされているのも、こうした大きな流れの中でのことだ。
当然のことながら、この見直しへの動きの背景には従前のやり方では合わなくなっている現実の変化がある。自民党が行き詰まり、その中から新党結成、党解体、政界再編などの動きが出てきているのは、その象徴だと言えるのではないだろうか。現実の変化は、自民党の存在意義自体を無くしてしまったということだ。民主党政権への支持率の大幅低下にもかかわらず、一向に上がらない自民党への支持率は、そのことをよく示しているのではないかと思う。
■行き詰まった見直し、それはなぜか?
日本のあり方の見直しを迫る現実の変化として何よりも大きいのは米一極支配の崩壊だ。日本にとっての日米関係の重さを考えたとき、それに異存のある人はほぼいないだろう。
ところで、米一極支配の崩壊といったとき、それを背景に見直されたものとしては、何よりも米国におけるブッシュ路線からオバマ路線への「CHANGE」が挙げられるだろう。イラク撤退、経済危機からの脱却を掲げて、米国民の圧倒的支持を受けたオバマ政権の誕生は、世界的な見直し運動の象徴的事例だったと言える。
それと同じことが鳩山政権の登場にも言えるだろう。古い時代の自民党政治のあり方そのものが国民から見離された。その結果があの民主大勝だったということだ。
問題は、この見直し運動の象徴として誕生した両政権がともに今行き詰まっていることだ。両政権ともに支持率の低落が著しい。鳩山政権の場合、38%にまで落ち込んだ。
これは、一言でいって、期待が裏切られたからだということだろう。まず大きいのは経済だ。景気回復ができていない。雇用が増えず、失業率の改善は見られない。それに米国の場合、イラク、アフガン戦争だ。撤退が進まず、アフガンでは泥沼化の様相を深めている。日本の場合は、政治とカネの問題とともに、普天間基地移設問題など、結論をなかなか出せない「優柔不断」が問題にされている。
この両政権の行き詰まりは偶然ではないと思う。両国国民の見直し要求に応えられない両政権共通の要因があるのではないだろうか。オバマ大統領が指摘した経済や平和、核や環境などの諸問題で、米国の主張がことごとく国際的に否決・排撃されていっていることなども、その現れだと言うことができると思う。
■問題は米一極支配の崩壊をどう見るかにある
今日、オバマ政権の「CHANGE」、見直しの基礎には米一極支配から覇権多極化への移行という時代認識がある。ブッシュ単独行動主義からオバマ国際協調主義への転換はその現れに他ならない。事実、彼らはイラク、アフガン戦争の行き詰まりを単独行動の誤りとして総括し、もはや時代は米一極支配から覇権多極化へと移っており、すべてはそれぞれ極をなす地域大国との国際協調のもと推し進められねばならないと考えている。もちろんそこで主導権は米国によって握られねばならない。経済危機打開を目的に、BRICsなど新興国まで入れたG20を米国主導で召集したことなどもそのためだ。
そのオバマ路線が、今、行き詰まっている。原因はどこにあるのか。一極化時代の旧勢力の抵抗が大きいからか。医療改革をめぐる攻防などを見るとそれがあるのは事実かもしれない。しかし、経済問題や戦争問題への対処の仕方を見ていると、より大きな問題は、どう見直しをするかにあるように思う。見直しが不徹底であり、根本的でない。すなわち、経済路線、軍事路線自体の見直しになっていないということだ。新自由主義経済路線へのケインズ主義の継ぎ足しや単独行動から国際協調への手直しにすぎないものになっている。
その根底には、見直しの基礎にある時代認識についての誤りがあるように思う。今日問われているのは、米一極支配の崩壊を覇権時代そのものの終焉と見る時代認識ではないだろうか。
米一極支配は、もうこれ以上はないという覇権主義、その極致だと言うことができる。その経済であるグローバリズム経済と新自由主義経済は、国家による保護も規制もすべて取り払い、市場にすべてを委ねる弱肉強食の覇権主義経済の極致であり、その軍事である反テロ戦争路線は、「テロ分子」を討つためには国家も国家主権も無視して任意の時刻、国境を越えどの国へも軍隊を侵攻させるという覇権主義軍事の極致である。この究極の覇権主義の崩壊は覇権自体の終焉になるしかないのではないだろうか。
覇権時代の終焉は、また、米一極支配を突き崩している反覇権勢力がいかなる覇権も許さない、かつてなく高い主権意識を持った勢力として登場しているところにも現れていると思う。アフガニスタンのタリバンやイラン、朝鮮、そして南米諸国などがロシアや中国、ブラジルなど地域大国に依存し、何らかの支配や統制を受けながら反米をしているのでないことは、もはや誰もが認める歴史的事実になっている。これは、かつての民族解放勢力と「社会主義大国」との関係と比べるとき、際だった特徴になっている。
今日、反覇権の力で重要なのは、各主権国家の主体的力とともにそれを支える東アジア共同体や南米諸国連合、EUなど主権尊重の地域共同体の力だ。地域共通通貨や域内交易、地域安保の形成など地域共同体の経済的、軍事的力が、ドル体制やNATOなど米国中心の安保体制を突き崩し、覇権時代を終わらせる反覇権の力として圧倒的な存在感を持ってきている。
覇権時代の終焉と反覇権時代の幕開けは、日本の現実にもなってきていると思う。憲政史上初めて国民が政権を交代させたその主権意識の強まり、競争より協力、絆を求める社会風潮の広がり、中国とのGDP競争にいきり立つことなく、銅メダルでもいいではないかという声や「江戸時代」を見直す気運の高まり、等々はそうした現実の一端だと言うことができるのではないだろうか。
■現実直視の自由な発想で、時代認識の転換を!
今日、日本の見直し論議を見ていると、米国への一極集中から多極化への現実の変化については誰もが認めている。だから、見直しすることそのものに対して正面切って反対する人はほぼいないと言ってよい。
意見の違いは、やはりその時代認識の違いによってくるだろう。今日の変化を一極化から多極化への変化ととらえながら、それを覇権多極化への変化と見るのか、反覇権多極化への変化と見るのかでは大きな違いが出てくる。また、同じ覇権多極化でも米国主導と見るかどうかで違ってくる。
もちろん、見直しを言っている人が皆、こうした時代認識を意識しているわけではないだろう。むしろ、していない人の方が多いかも知れない。しかし、判断の基礎には多かれ少なかれ時代に対するこうした見方があると思う。
そうした中、今問われているのは、現実を直視した自由な発想ではないかと思う。われわれは、あまりにも長い間、欧米が支配する覇権の時代に慣れ親しんできた。競争や対立、大国による支配など覇権的なものの考え方が当たり前になっている。実際、政治家や評論家の多くから覇権多極化を前提とする見直し論が聞かれる。対アジア関係の見直しを論じても中国との主導権争いをどうするかが問題であり、経済のあり方を見直してもグローバル市場での競争が大前提だ。
盛り上がる見直し論議を前に、こうした覇権主義的思考の枠から抜け出、自由になることを提唱したい。前述したが、国民の間では、すでに久しい以前から、競争や対立でなく、協力やつながりを求める反覇権的な思考が広がっている。目を世界に転じても、地域共同体などに広がる連帯や協同の気運は、かつて見ることのできなかった反覇権的なものである。覇権の枠から抜け出るための鍵は、こうした現実を直視し、そこから学び、そこに溶け込む中で、自身の時代認識の再検討を行うところにこそあるのではないだろうか。
鳩山首相は、普天間基地移設問題について「基地全面返還という選択肢まで含めて検討する」と言っていたが、それを実際に追求するような時代認識こそが問われていると思う。国民が要求する抜本的な見直しは、そこから出て来るのではないだろうか。
主張U
■「密約」の判定だけで済む問題か?
3月9日、岡田外相が日米密約に関する外務省調査結果と有識者委員会の検証報告書を公表した。問題の「密約」とは、1960年の安保改正時に「核持ち込み」と朝鮮有事の際には事前協議なしの「米軍の自由出撃」を認めた2点。1969年の沖縄返還交渉時に、「沖縄への核再持ち込み」と「沖縄の原状回復費の日本側負担」の2点、合わせて4点である。
元々、「密約」の存在は、米国側の情報公開や関係者の証言で、久しい以前から、その存在が明らかな「公然の秘密」であった。それ故か、この検証は、「密約」の存在の有無よりも、それを日本側がどのように認識し、どのように処理してきたのかに焦点が当てられている。
その結果、60年安保時の「朝鮮有事への自由出撃」は「密約」があったが、その後の経緯で「事実上解消」し、「核持ち込み」は「暗黙の合意」による「広義の密約」とし、「沖縄の核再持ち込み」は「合意議事録」が発見されなかったので「必ずしも密約とは言えない」とし、「沖縄の原状回復費の日本側負担」は「広義の密約」などとあいまいな判定になっている。
しかし、「密約」は米国で情報公開されているのであり、かつて密約があり、政権交代のたびに歴代の首相、外相が外務省から説明を受けてきたことは検証でも明らにされた。そうであれば、密約があったかどうか、それを歴代の政権がどのように認識してきたかを判定しても大した意味はないのではないだろうか。
■ 戦後日本のあり方の象徴
元々、「密約」とは、表向きに言っていることとは違うことを米国と裏で秘密に約束したということである。どうして、このようなことをする必要があったのかと言えば、安保問題について、日本側が表向き(国民向け)に言っていることと実態が違うからに他ならない。すなわち、日米安保は表では、「日本防衛」「日本の平和を守るため」とされているが、実態は、在日米軍が米国の軍事戦略のために日本の施設、区域を自由に利用し、核を配備しようが持ち込もうが自由であり、それを日本があれこれ言うことはできないものとしてあるということだ。
これは、日本の主権の否定であり、その主権の象徴である日本国憲法よりも、日米安保を第一にしてきたことと一体である。まさに、「密約」は、突き詰めれば、安保と憲法という二つの乖離する法体系の下で、表では憲法を掲げながら、その実、安保第一でやってきた戦後日本のあり方から必然的に生み出されたものであり、その象徴に他ならない。
だが、この「密約」が生み出された背景にも大きな変化と転換が起きている。1996年の安保再定義によって、安保は日本防衛(極東条項も)を超えて、グローバルな米戦略に服務するものとされた。こうして、97年9月に新しい「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)が合意され、それに基づき2003年6月には武力攻撃事態法などからなる有事関連三法、さらに、2004年6月の有事関連七法が成立している。
もはや在日米軍は、「密約」なしに自由に動けるのである。今回の検証結果について、新聞などが、「密約」の引継ぎが中途で行われなくなったのは何故かと疑問を呈していたが、その必要はなくなっているのである。
■密約公表の主体、米国の狙い
「密約」の主体は米国である。報告書をみても、つねに米国が「朝鮮有事には事前協議なしに自由出撃を認めよ」「核の持ち込みを認めよ」などと要求し、そのつど日本政府は、それに応じていったということなのだ。そして、その秘密は主に日本側によって隠匿され、米国側は不断にこれを表向きにしようとしてきた。そういう意味では、「密約」公表の主体も米国だと言えるだろう。
報告書でも74年の「ラロック発言」(ラロック退役米海軍少将が米議会で核搭載艦船は日本など外国の港に入港する際、核兵器を下ろさないと証言)の例が出されているが、81年5月には、60年安保改正時に駐日大使だったライシャワー氏が「安保改正の際、日米間に米核艦船の日本寄港を認める口頭了解があった」と指摘した「ライシャワー発言」があった。
この「ライシャワー発言」は、日本国民への「教育的効果」を狙ったものと言われる。すなわち、日本政府は、安保の実態を隠しているが、国民は実態を知り、それを認めるべきではないかという「教育」だったということだ。そうであれば、今回の「密約騒動」もそうした「教育的効果」を考えなければならないのではないだろうか。
その狙いはどういうものなのだろうか。米国オバマ政権は、米一極支配の崩壊後の戦略として国際協調路線を採っている。オバマ大統領は、昨年の国連演説で「新しい関与の時代」と述べながら、国際協調しながら米国が主導的に世界に関与していくと言っている。その関与政策に基づいて、対アジア戦略では、「日米基軸」を打ち出し、日本を通じてアジアに関与していくことを明らかにした。
すなわち、米国は世界の多極化趨勢の中で、それが反覇権の方向に進むことを阻止するために、地域の有力国が覇権的な位置に立って指導力を発揮するようにする覇権多極化を狙っているのだ。
孫崎享氏(元防衛大学教授)は、その著書「日米安保の正体」でオバマの就任演説の「我々に求められているのは、新しい責任の時代に入ることだ。米国人一人ひとりが自分自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのでなく喜んで機会をとらえることだ」の文言を引用しつつ、「この台詞は同盟国日本にも向けられるであろう」と指摘している。米国は、自身が狙う覇権多極化路線を日本が喜んで引き受けるよう仕向けているのではないだろうか。
まさに、それが今回の「密約」公表・公認の狙いかもしれない。
実際、すでにそれに沿った動きがいろいろ現れてきている。今回の「密約問題」の公表・公認を受けて、こうした状態を解消するためには、「日本独自の戦略を持たなければならない」という主張が高まっている。そこでは、米国の「核の傘」の下での「非核三原則」などまやかしであるとしながら、日本の「2・5原則」だとか核武装までが論議されるようになっている。
■憲法第一で日本独自の戦略構想を
「日本独自の戦略」、それは民主党の主張でもある。そのマニフェストには、「日本外交の基盤として緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす」とある。
「密約」の公表・公認は、安保第一の公然化であり、「安保見直し」もその方向で行われ、「日本独自の戦略」もそうしたものになる可能性がある。そうなれば、そこにいくら「日本独自の」「主体的」という言葉が付こうと、米国の戦略に喜々として従うものになってしまう。それは米国が誘導する覇権の道である。
今秋、「新防衛大綱」の策定が予定されているが、これをそのようなものにしてはならない。
今や、覇権が通じる時代ではない。今日世界の趨勢となっている多極化は、世界の各地域での地域共同体によって形成されているが、それは大国の支配と干渉に反対し地域内諸国が互いの主権を尊重して協力しあう反覇権の共同体である。
日本が覇権の道に進むことは、時代の流れに逆行しアジアに敵対し、孤立し破滅する道である。日本は決して覇権の道に向かってはならないし、米国の策動に乗せられてはならない。
それのためには、何よりもまず、安保第一から決別し、元来そうあるべきはずの、平和憲法を第一にした日本独自の戦略を立てなければならない。
憲法は、徹底した自衛、一般的に認められる攻撃を受けた場合に敵の基地や領土を攻撃する自衛まで否認し、敵が日本の領土に侵入してくれば、これを撃退する撃退自衛しか認めない徹底した反覇権の憲法である。この憲法を第一にした「独自の戦略」を立ててこそ、日本は、反覇権多極化の流れに合流し、アジア諸国との友好、協力を強め、その中で日本の平和と繁栄を追求する道に進むことができる。
「密約問題」の公表・公認は、安保第一の公然化であり、それは、日本国民に、これを認めるのかどうかを突きつけているのだと言える。我々日本国民は決してそれを認めないことを断固と示さねばならない時にきていると思う。
インタビュー 「ゆいまーる琉球の自治」代表、松島泰勝さんに聞く
安保改定から50年を迎える今年、日本は沖縄普天間基地をめぐり大きく揺れ動いている。これまでのような従属的な日米関係の維持―すなわち米国のために沖縄にさらなる犠牲を強いるのか、それとも日米安保よりも何よりも琉球の人々の民意を尊重して基地をなくし、自主的な日本へと大きく転換していくのか。普天間問題はこの戦後史の大きな分岐点となりつつある。
松島泰勝さんは、1963年石垣島生まれ。琉球諸島で育ち、早稲田政経卒後、在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館での勤務を経て、現在、龍谷大学経済学部国際経済学科教授。96年に国連人権委員会先住民族作業部会に琉球民族として参加、琉球人の共助的な自治活動を通じて、日米支配体制から脱却する主体的な力を構築していく運動として特定非営利活動法人「ゆいまーる琉球の自治」を立ち上げ、これまでに久高島、奄美、伊江島、西表島、沖永良部島、平安座島などで車座の集いを開き、島が抱える問題、自治の問題を討議されてきた。
著書に『沖縄島嶼経済史』『琉球の「自治」』(藤原書店)『ミクロネシア』(早稲田大学出版部)『島嶼沖縄の内発的発展』(共編著、藤原書店)などがある。
基地問題にゆれる琉球の「いま」、そしてありうるべき琉球の「未来」について、松島さんからお話を伺った。
※ ※ ※
―昨年は、琉球処分から130年、島津藩の琉球侵攻から400年でした。そして今年、沖縄の普天間基地問題が最大の政治テーマに浮上しています。その行方いかんによっては民主党政権の命運も大きく左右されるかもしれません。しかし、本土メディア報道は大部分が県外移設に否定的な論旨を展開していて、そこに沖縄の人々の声が反映されているとはとても思えません。松島さんはどのような感想をお持ちですか。
昨年は「琉球処分」130年という節目の年でしたが、「琉球処分」は歴史的な話ではなく現在も続いています。昨年、鳩山さんは琉球に来て、普天間基地の県外移設を約束しました。辺野古陸上案となれば、米軍基地を琉球に押し付けることになる。薩摩が琉球を侵略し、明治政府が琉球に無理難題を押し付けた「構造」が、今も続いています。危機感を持った琉球人が、辺野古反対派を名護市長に選び、名護市議会でも県外移設の決議を出しました。
その中で前原国交相が、2012年特別補償が切れる沖縄振興計画の延長をにおわしています。つまり辺野古になれば振興計画を延長するというように、基地と開発をリンクさせており、これも旧政権と同じ考え方です。95年以降、基地関係の補助金が何千億円と琉球に投入されましたが、琉球経済の疲弊は続いています。琉球人の中に基地に伴う振興策への疑問が生まれています。
大和人による琉球差別は構造的なものです。今も基地を琉球に集中させ、日米安保体制を琉球に押し付けて日本人は本土にいて安住している。琉球は観光の島といわれ、年間600万近い人が訪れますが、そのような琉球の「現実」を大和人は見ようとしない。米軍基地の押し付けは、琉球人への差別の表れです。
―松島さんは『琉球の「自治」』という本の中で、「内発的発展」という現在の基地や観光に依拠しない、新しい琉球独自の経済のあり方を提唱されています。一般論としては、琉球の経済的「自立」は難しいと言われています。もし新しい経済が可能とするなら、それはどういう形の経済なのでしょうか。
人口約140万、就業者数60万の中で米軍基地従業員は9千人、軍用地主は3万人しかおりません。基地に依存している部分は大きくなく、金額的にも多くありません。基地経済の大部分は政府の補助金によって成立しています。琉球の経済自立を目的にしたものではなく、米軍基地を押し付けるために膨大なカネが投じられてきました。しかし、建設された施設やインフラの維持管理は市町村が負担しており、かえって自治体の財政赤字を生み出しています。また国は膨大な財政赤字を抱えており、多額の補助金を投下し続けることは困難です。
他方で琉球の島々には内発的発展の試みがみられます。『沖縄島嶼経済史』という本で論じましたが、琉球の内発的発展は王国時代から現在まで続いています。理想でも空想でもない、実際に琉球の人々が実践してきたことです。例えば「共同売店」という地域住民がカネや労力を出し合って運営している社会開発の拠点が70近く琉球にはあります。村や島における小規模な内発的発展は、マクロ的にみると影響力が小さいとして批判する人もいます。しかし経済自立を一挙に解決すると言われた、国によるマクロ的経済政策、例えば自由貿易地域、金融特区、大学院大学の誘致策なども成功しているとはいえません。
なぜ失敗したかというと、「ザル経済」だからです。観光で膨大な利益を得ているのは本土大企業であり、利益は本土の本社に還流しています。琉球内での課税を強化したり、地元企業が発展するような政策を実施する必要があります。島外から資本を誘致することではなく、地元の企業を育てることに重点を置くべきです。
―沖縄に一定の自治権を付与するものとして、例えば課税権を持った「道州制」という考え方がありますね。
現在、琉球では沖縄県単独で道州制になるという、「単独道州制論」が主流をしめています。課税権のほか、内政自治権、一部外交権をも取得すべきでしょう。自治権とは、自ら獲得していくものであり、上から与えられるものではありません。琉球は、1879年まで独立国でした。アジア諸国とも交易、外交関係で結ばれていたという、過去の遺産があります。今は日本国の中で一つの県でしかない。もったいないことです。日本のためにも琉球自立の可能性を試していくべきです。
―元太田知事とかが唱えるシンガポールなどをモデルにした無関税自由貿易都市のような考え方には賛成ですか。
私は反対です。琉球のよさが失われるでしょう。琉球には人の住む39の島があります。それぞれに独自な自然、文化、歴史、神話があります。那覇など都会とは違う生き方をしている島人も少なくない。自由主義的経済政策を一律に総ての島に適用したら島の文化、自然はどうなるのか。地元企業は外資との競争にさらされ、失業者が増えるでしょう。琉球は都市を目指すべきでなく、豊かな自然や文化を活かした生活に土台をおくべきです。税金や規制をなくすと島外からハゲタカ資本が利潤を求めてやってくるでしょう。琉球の人々に幸福をもたらすとは思えません。島外にある経済成長を実現しているモデルを想定して、それを追い求めるのではなく、既にある島の豊かさを再認識して、それを育てることが琉球の内発的発展なのです。
―松島さんが、NPO法人「ゆいまーる琉球の自治」を作られたのは、そのような琉球自立の可能性を研究するためなのでしょうか。
島が抱える問題、自治の実践を互いに顔をみながら話し合うためにNPOをつくりました。第一回の集いの場所である久高島のほとんどの土地は島民により共有されています。資本主義的所有権を島の人は拒否しています。島のウタキ信仰や静かな生活を守るために土地の私有地化を認めない。バブル時代の頃、リゾート会社が土地を買収しようと画策しましたが、島人は「久高島土地憲章」を制定して資本に抵抗しました。このような島の過去、現在、未来を車座になって互いに学び合っています。これまで6回の集いが行われ、次は宮古島で開かれます。
―沖縄振興策として、政府から基地とタイアップした形で72年から09年まで累計で9兆6千億円もの金が注ぎ込まれてきましたが、基地周辺の市町村は逆に疲弊しているという。その理由は何ですか。
自分たちの力で地域を発展させようという自治の力が弱かったからです。基地のある市町村には豪雨のようにお金が注ぎ込まれましたが、巨額の金を何に使っていいかわからず、シンクタンクに調査させる。すると経済効果のない豪華な施設が出来る。沖縄県には鉄道がありません。公共事業でも長期的な展望をもっていれば鉄道建設等、有効に使えるわけですが、正しい使い方が出来ていない。公共事業の内容、配分等を決めるのは東京の中央官庁の官僚ですから。主体なき開発といっていい。
―琉球は元々独立国家であって、日本国の属国であったわけではない。先住民族としての琉球人という考え方も大変興味深いものです。素朴な疑問ですが、琉球の人たちはどの程度までそれを意識されているのでしょうか。
内地とか大和とか琉球を区別する言葉があるように、生活習慣が違うという認識は持っています。民族意識としては強烈には言わないが明らかに分けて考えています。例えば日本人は時間に几帳面で上下関係に厳しいなど生活習慣の違いもあります。その中ではっきりと琉球人は先住民族であるという人は多くないでしょう。少女が米兵に暴行されるとか、歴史教科書が歪曲されるとか、琉球人が被害にあったり、無視されたりすると琉球人意識が顕著になります。薩摩侵略以降、侵略され、抵抗するとつぶされる闘いの中で日本人と協調しながら生きていこうと考える琉球人も出てきます。日琉同祖論という考え方で、学問的に証明している人もいます。差別にあわないようにアイヌ民族や他の民族を差別したこともありました。しかし、近年、琉球人の中に先住民族として国連において活動し、アイヌ民族とともに世界の先住民族とネットワークを形成している若い人々が増えています。グアムの先住民族、チャモロ人も基地機能増強に対する反対運動を世界的に展開するために、国連において他の先住民族との連帯を強化しています。世界の先住民族が協力し合えば、大きな力となって民族を抑圧する体制を変えることが出来ると思います。
―もし琉球の自治を自分たちの力でやろうというときには、この琉球人という意識は決定的になるでしょうね。グアムとかサイパンの実情は参考になりますか。
大使館の専門調査官として働いたことがあります。これが琉球の自治を考える上で大変参考になっています。グアムとかサイパンとか、基地と観光に依存し、植民地の島という面で多くの共通性を琉球は持っています。グアムとパラオに住みましたが、両者には大きな違いがあります。パラオは人口2万人、グアムと違って自治を実現しています。人口や経済力でなく、パラオ人のためのパラオ人による島づくりを意識しており、自治に必要なのはカネや近代化ではなく、住んでいる人間の自治的自覚によるものだと思いました。
―今、一番の関心事というか、研究テーマはなんでしょうか。
基地経済や開発経済が島に与える影響や、資本の暴力が進む中で、それに負けない、対抗する内発的発展が具体的にどのように可能なのかを明らかにしていくことです。今経済学者が使っている経済「指標」ではなくて島民による島民のための独自の経済思想を作っていきたい。今の経済指標は琉球を支配するため、利用するための手段になっている。そうでなくて琉球のための経済学を作りたい。島の人々がその島の歴史や文化、自然環境を踏まえた、琉球や太平洋諸島の自治をさらに学んでいきたいです。
※ ※ ※
私たち日本人は、琉球は日本と異なる歴史と文化を有し、別個の政治体制を持っていた独立国家だったという事実をつい忘れがちだ。琉球処分の以前から琉球は日本の一部であったような感覚を持っている。また、沖縄本島に在日米軍基地が集中しているという事実は知ってはいても、日常生活でその痛みを実感することはほとんどない。言い換えるな、私たち日本人は、この琉球(沖縄)を日本とは異なる歴史と文化を持った人たちとして、きちんと向き合ってこなかったのではないだろうか。松島さんの著作『琉球の「自治」』は、私たち日本人に全く斬新な「琉球像」を提示していて刺激的だ。 「問題解決の糸口は他所ではなく琉球の島々の内部にしかない。琉球の問題を解決するのは高度な知識を有する他者ではなく、琉球人自身である」と松島さんはいう。外に発展のモデルを求めるのでなく、琉球の島々の中に、そこで営々と築かれ、実践されてきた暮らしの中にそのモデルはあるという。ここに琉球再生の可能性を期待したい。
[資料]
・NPO法人「ゆいまーる琉球の自治」(http://ryukyujichi.blog123.fc2.com/)
・『琉球の「自治」』、松島泰勝著 藤原書店 2800円。
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