研究誌 「アジア新時代と日本」

第8号 2004/2/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 「イラク派兵の大義」を考える

研究 「政治離れ」という名の人々の政治からの排除

文化 「無痛文明論」にイラク派兵を重ねる

朝鮮あれこれ 旧正月の民族料理とセベ

編集後記



 
 

時代の眼


 このところ目につくようになった言葉として「電縁」というのがあります。地縁や血縁から発想された言葉でしょうが、言い得て妙があります。そこには、新しい時代の新しい人間関係を示唆する趣があります。
 ところで、今日「電縁の時代」と言うとき、その多くは「グローバル化の時代」が念頭に置かれているようです。確かに、電縁には、地縁や血縁を超え、国や民族を超えて、各個人を地球的範囲で直接結びつけるという意味があります。
 しかし、ここで考慮すべきなのは、電縁とは文字通り、インターネットや携帯、eメールなど電子による人々のつながりのことであり、それは、地縁、血縁を超える前にそれらを強めるということです。
 事実、電縁は、地域社会の結合を強め、夫婦、親子の絆を強め、ひいては日本社会全体の結びつきを強めています。地域社会の様々な問題をネットを通じて住民が討議し、それを地方や地域の政治に反映したり、地域の各種産業、職域の情報をネットで交換し、地域経済や職縁の活性化を促したり、「ネットなつながり」によって家族との連絡回数を増やしたりといった事例が急増しているのはその現れだと言えます。
 もちろんこれに対し、地球的範囲での各個人の結びつきも電縁によって大幅に強められています。しかし、それが相対的に小さなものであるのも事実です。なぜそうなるかは言わずもがなでしょう。なによりも言葉の壁があるし、より本質的には、共通の利害関係が弱いからです。今日、環境や平和問題、それに経済や文化など、全般的に世界共通の利害関係が強まってきているのは確かです。しかしそれは、人々の社会生活単位である国と民族共同の利益に比べるとき切実さが違います。
 そのうえで、電縁が国と民族を否定し破壊するグローバル化を促すよりも逆に国と民族内部の結束を強める方向に作用するのは、そもそも人と人とのつながりを意味する電縁がその本質上、集団を強めるためのものだからです。言い換えれば、国と民族をはじめあらゆる集団の否定と個人化を本質とするグローバル化と電縁とは、元来、相容れないということです。
 さらにもう一つ重要なのは、電縁によって地縁、血縁、ひいては日本社会全体の結びつきが強まるというとき、住民自治や直接民主主義の要素が強まるなど、単純に量的にではなく、質的により意識的なものに強まるということです。すなわち、電縁は、自分の国を単位とした人々の社会的で意識的な結合をこれまでになかった新しい質へと発展させながら、それを通して各国、各民族相互間の国際的な結合も強化していくものだと言うことができるのではないでしょうか。


 
主張

「イラク派兵の大義」を考える

編集部


■イラク派兵の大義???
 1月26日、ついに陸上自衛隊本隊への派遣命令がくだされました。2月には陸自本隊の派遣が始まり、最終的には、総勢1050人にものぼる自衛隊が戦場に派遣されることになります。
 イラク派遣の基本計画が閣議決定されたとき「自分達はカネのために行くのではない。問題は国が国民が支持してくれ、派遣への大義を与えてくれるかだ」(40代の幹部自衛官)と言う声があがりました。今、イラクは戦場です。まさに、そこは、死を覚悟しなければならない場所です。死に直面せざるをえない人間にとって、自分の死はどういう意味をもつのか、それを超える意義は何なのかということで、大義が切実に求められているのでしょう。
 それは同胞を戦場に送り出す国民にとっても同じです。イラク派兵をめぐって大義という言葉をしばしば見かけるようになりました。
 命をさらす戦場に自衛隊を送る日本政府も、それに触れざるをえません。施政方針演説で小泉首相は、「義を為すは、そしりを避け誉れに就くに非ず」という中国古代の兵法家、墨子の言葉を引用しました。
 同じ頃、一般教書演説でブッシュは、「米国は『自由の大義を主導する』という『特別の召命』を与えられた『偉大な共和国』であり、『最も根源的な信念に基づく任務を担った国』なのだ」と、イラク戦争は「自由の大義」のためであると言いました。
 しかし、一体だれが、それで納得するでしょうか。世界的な反対の声を無視し、その理由とされた「大量破壊兵器」も米国の調査団長が辞任しながら「そんなものは、もともとなかった」と言明し、でっち上げの口実に過ぎなかったことが明らかになった今、人々を納得させる理由もなく他国に侵攻し、多くの人々を殺した侵略戦争に大義などありえません。米軍の占領に対する攻撃が続いている現実がそれを告発しているし、当の米軍兵士自身が納得していません。
 ある米軍兵士は「今のイラクはベトナムと同じだ。(父はベトナムに行ったが)残りの人生を苦しみもだえながら死んだよ。今の自分はあのときの父にそっくりだ」と言っています。ストレスに苛まれ、精神に異常をきたし、ついには自ら命を絶つ兵士たち・・・。この米軍兵士は最後にこう言っています「アメリカ人よ、目を覚ましてくれ。あなたの息子や娘たちは、イラクで犬死にをしてるんだ。この戦争は自由のための戦いでも、テロ防止のための戦いでもない」と。

■大義なき派遣、虚しい論争
 したって、日本のイラク派兵にも大義などありません。あるのは、ブッシュの「大義なき戦争」にあくまでも追随する、日本政府の口実です。
 小泉首相は、「義」の話の後、憲法前文の「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という部分を読み上げ、「国際協調」のためだと言っていますが、これについては、多くの人も「憲法前文のこの部分は、独善的に他国を侵略してはならないということだ」とか、「国際協調と言うが対米協調のすりかえだ」と批判しています。
 首相の「義」の引用は、批判を受けようが、不名誉に見えようが、あくまでも米国についていくという立場表明になっているだけです。イラク派兵をめぐる国会論争での首相、政府の答弁のひどさも、この立場からくるものでしょう。「分からないだろうが全部答えている」「では何もしなくていいのか」などなど、人を食ったような、開き直ったような答弁、そして極めつけは「立場が違う」という発言。
 「日本は今、安全保障だけでなく治安、経済、情報といった国が成り立つ上で必要なあらゆるものを、想像を絶するほど米国に依存している。それは日本の『運命』であるという現実を知るべきだ」(麻生幾)。それは、まさに、そうした状況を作り出した「構造改革」をあくまで押し進める首相の立場です。
 そして、このことについては民主党もさして変わりはありません。元々、「構造改革」については、自分たちの方が徹底してやれるという立場の民主党は、派兵についても、「永遠に派兵をしないと言うのではない、国連の下なら派兵する」などと言っています。
 イラク派兵が現実に始まっている段階で、その当否を論争しても虚しいです。日本は「ルビコン川を渡ってしまった」のであり、今、問題にすべきは、他国に派兵することは何の大義もないということを明確にしながら、なぜ、そうなってしまったのか、それで本当にいいのか、日本が今後どのように生きていくかということを深く考えていくことだと思います。それは、世界の中で生きていく上で掲げるべき日本の理念、日本の大義を考えていこうということになると思います。

■原点に立ち戻って
 ブッシュの「自由の大義」、戦前、よく使われた「悠久の大義」など、確かに大義というのはうさんくさい面があります。塩野七生氏は、大義なんて主観的なもの、軍事力で勝ったものがつけるもの(文芸春秋2月号)、なんて言っています。大義は、分かったようで分からないところがあります。
 大義とは、一体どういうものなのか。
 今、神山征二郎監督が映画「草の乱」を制作中だそうです。明治初期、明治専制政府の圧制に対し、全国的規模で闘われた自由民権運動の終末を飾ると言われる一万余の民衆が手に武器をもって立ち上がった「秩父事件」を描いたものですが、その神山監督が「義のために生きた庶民の姿を描きたかった」と言っています。監督は、以前、村のため村人のために、自分は磔の極刑を受けても立ち上がった郡上の義民の姿を描いた映画「郡上一揆」も作っています。
 大義とか義というのは、このように、共同的な人間関係を結ぶ自分の集団が危機に陥ったとき、それを救うために、自分の命を犠牲にしても立ちあがる、そこに原点があると思います。難しく言わなくても、昔から日本人は、自分の命を犠牲にしてもみんなのために尽くした人たちを「義民」と呼び、あるいは神として祭り、あるいは郡上のように踊りや民謡にして記憶にとどめてきました。
 日本人が義とか大義を考えるとき、この原点から出発すべきではないでしょうか。日本人なら、それがピッタリくるし、大義という言葉の不確かさ、恣意性といったものも、ここから出発すれば克服できると思うからです。
 そのように見たとき、日本もまた大きな共同体、私たち日本人の大きな集団なのであって、この日本のために尽くすという関係の中で大義は考えられなければならないということです。一人一人が日本のために尽くすという立場で、何が日本のためになるのかを考え、それを集大成する。それは「日本の利益」とか「日本の平和と安全」とか「日本の尊厳」とかいったように色々な言い方ができるにしても、一人一人が心から納得し、そのために尽くし、場合によっては命を賭けることができる、そのような「日本のためになるもの」それが日本の大義なのだと思います。

■誰もが認めるものとして
 ブッシュの言う「自由の大義」は、それを押しつけられたイラク人民自身が反対しています。また、「大義を与えてくれと」いう自衛隊員の切実な声は、「しかばねを乗り越えて初めて自衛隊は一人前になれるのだ」(自衛隊幹部)、「殉職者たれと空自隊員がたたき込まれる洗脳訓練」(新聞広告で見た週刊誌の題目)などと、自衛隊という集団のために犠牲になってくれという「義」のようなものにすり替えられていっています。
 大義は、独善的であってはならないし、上から押しつけるものでもありません。その国の誰もが認め、世界のどの国の人も認める、そういうものでなければならないと思います。
 「ルビコンを渡った」日本では、それにふさわしい新たな憲法を作ろうという動きが急ピッチですが、9条についても、国際協調を入れるべきだ、集団的自衛権を認めるべきだ、国連待機軍ならよいなどという米国の手先軍事のための議論ばかりです。
 9条は、自衛の名で他国を侵略した戦前の反省を踏まえ「専守防衛」に徹するようにした条項だと思います。今のように戦略、指揮、情報、装備などを米国にゆだね、米国と融合したような軍事ではなく、絶対に海外には出ず、自国領域を守ることに徹する9条自衛であれば、日本の大義に合い、国民が心から支持する、より強力な自衛力にすることもできます。そうすれば、在日米軍は必要なくなり、その上で米国とは新たに平和友好条約を結べばいいし、そこに軍事面での協力を入れることもありえると思います。
 日本にとっての大義、それは何よりも、まず日本のためになるものでなければならず、また他国の利益を尊重し、その国の主権を尊重するものでなければならないでしょう。そうなってこそ、それはアジアも米国も世界の誰もが認めるものになると思います。


 
研究

「政治離れ」という名の人々の政治からの排除

小西隆裕


◆皆、政治から離れていっている
 最近、人々の政治離れが以前にも増して深刻である。中央、地方を問わず、選挙という選挙で投票率は長期低落傾向を免れていない。先の大阪府知事選でもやっと40%という低調ぶりだった。大学では、政治に関する論議が姿を消し、新聞もテレビも見ず、政治問題はおろか社会問題全般に対して関心のない若者たちが激増しているという。
 このところ、無党派層が注目され、彼らの動向で政権が左右されるとまで言われているが、彼らのなかでも政治そのものに無関心な層が最大多数を占めている。その証拠に、無党派層の国政選挙での投票率は、この間、概ね30%前後に留まっている。

◆一般的な政治不信ではない
 人々の政治離れについて言うとき、その原因としてよく指摘されるのは政治に対する不信である。 だが、ここで問題なのはその内容である。今の政治不信は、いわゆる「自民党政治に対する不信」などといったものではない。現に、「政権選択選挙」と言われ、「二大政党制」が云々された昨年11月の総選挙でも投票率の長期低落傾向に歯止めがかけられなかった。マニフェストを掲げ、マスコミと一体となった民主党の自民党政治批判も膨大な政治的無関心層に対しては、さほど的を射たものとはならなかったようである。
 すなわち、今日「政治が信じられない」というのは、政治を良い政治と悪い政治に分け、今の政治は悪いというよりも、政治そのものへの不信、すなわち、政治によっては何も解決されない、政治に期待するものは何もないという、政治そのものへの絶望を意味しているということだ。
 そのうえで、今日、深刻化する政治離れを見ながら思うのは、さらにより根本的な原因があるのではないかということだ。それは、一言でいって、日本や自分の村や町の運命自体に対する無関心である。言い換えれば、日本がどうなろうが、自分の村や町がどうなろうと、自分には関係がない。そんなこととは無関係に自分は自分の生活をつくっていくということだ。
 そもそも政治とはその国や社会共同の利益をはかっていくためのものだ。日本の運命と自己の運命が結びつかず、日本の運命に対して無関心である人が政治への関心をもつはずがない。事実、今の日本で、自分の運命を日本の運命と結びつけ、日本の利益を少しでも切実に考えている人がどのくらいいるだろうか。それが人々の政治離れの深刻さに現れているのではないだろうか。

◆政治離れ、それは人々の政治からの排除だ
 今日進行する政治離れの背景には、日本のグローバル化があると思う。すなわち、政治そのものへの絶望、日本や自分の村や町の利益に対する無関心の根底には、グローバリズムとそれに基づく日本社会の変容があるということだ。
 個人と地球を単位としながら、国と民族を単位とすることに反対するグローバリズムは、極度の個人主義と全社会の個人化を生み出す。それが国や民族、家庭や地域、職場、学園、そして諸階級、諸階層など、ありとあらゆる人間集団の崩壊を促してきたのはもはや誰の目にも明らかになってきている。この極度の個人化、個人主義が皆のため、社会共同の利益のために守らなければならない道徳倫理の崩壊を促したばかりか、そのための理念や組織まで否定し、国や民族など、集団の利益をはかること自体の意味まで否定する。
 極度の個人主義に基づき、個人を単位とするグローバリズムは、一方で、弱肉強食のジャングルの原理、競争原理に基づいている。そのため、グローバル化からは必然的に勝ち組と負け組、社会の二極化が生み出されるようになる。ここで、少数の勝ち組に対し、多数の負け組が、不安定な労働条件のもと、さし当たり食べてはいけるが、いくつも掛け持ちした労働と日常的な仕事探しなど、政治どころではないその日暮らしの生活に落とし込められているのが日本の現実だと言えるのではないだろうか。生かさぬように殺さぬように。こうしたグローバル政治が、主としてフリーターなど青年層が政治離れしていくもう一つの重要な要因になっているのではないかと思う。
 今日の政治離れは、決して一般的な政治不信から生まれているのでも、まして、豊かで満ち足りた生活から生じているのでもない。それは、日本のグローバル化の必然的帰結であり、人々の政治からの排除だと言うことができると思う。

◆政治が皆のものになるように
 人々の政治からの排除は、すなわち民主主義の否定である。
 人々を政治から排除し、民主主義を否定する政治が人々の志向と要求を踏みにじる方向、ファッショと戦争の方向に進むのは必然であり、今回のイラク派兵など、今の日本の政治は、そのことを雄弁に物語っている。
 そうしたなか、広がる政治離れに政治や「民主主義」への不信の高まりを見て、それを心配するだけに留まっていてはならないだろう。今われわれには、より積極的に、政治を皆のものにするため力を尽くしていくことこそが求められているのではないだろうか。
 政治を皆のものにしていくうえで決定的なことは、皆が自分の愛する集団、愛する村や町、そして愛する日本をもつようにすることであり、自分の集団、自分の村や町、そして自分の国、日本のためにどうすべきかという意識を抱くようにすることである。
 では、どうしたらそうできるだろうか。この難問を解く鍵は、やはり日本人自身の心のなかにあると思う。
 今日、日本のグローバル化、対米融合化による全社会の個人化、極度の個人主義は、個人の自主性を実現するどころか、逆に徹底的に蹂躪するようになっている。生きがい、働きがいの喪失と倫理観の崩壊、それにともない激増する自殺や犯罪、いじめや引きこもり。この深刻な矛盾の深まりのなかで、個人主義の克服、自分の集団への要求が芽生えてきている。ナンバーワンでなくオンリーワン、国と社会、公に役立つための自己決定などはその一つの現れにすぎないと思う。
 そのうえで、もちろん、こうした志向や要求がただちに自分の村や町、自分の国を愛し、自己の運命を日本の運命と結び付けて、日本のための政治はどうあるべきか考えるまでに発展することは有り得ないだろう。
 しかし、この日本人自身の心にこそ、人々の政治からの排除を乗り越える力の源泉があり、そこに訴え、そこに託してこそ、政治を皆のものにしていくことができるのも事実ではないだろうか。


 
文化

「無痛文明論」にイラク派兵を重ねる

若林盛亮


 哲学書としては珍しく、発売後約2ヶ月で重版となり、読者は10代、20代の若者が中心だという「無痛文明論」。中央公論1月号が「『身体の欲望』を『生命の欲望』に変えよ」と題して著者の盛岡正博・大阪府立大学教授との対談を掲載していた。
 「無痛文明は、人々が予測不可能な自分の人生を悔いなく生き切るための力を奪いとり、快楽や安定で目隠しをしようとする。まさに痛みが無い状態に人を置こうとするのです。そして人々もしだいに無痛文明との共犯関係に陥って、『生命のよろこび』を感じられなくなってしまう」まさに「現代人は、気持ちいいのだけれども『よろこび』がないという、いわば砂糖の海の中で溺れて窒息している状態」と著者は述べている。
 たしかにいまは「身体の欲望」−食べる、着る、住む、あるいはセックスをするという欲望−はフリーターの若者でもある程度、充足させられる。しかしそのことによって、生きるよろこびを封殺する文明。
 「身体の欲望」充足によって「生命のよろこび」を封じる社会、大人は汚い、しかしこの社会を否定しきれない自分もまた汚いのではないか、自分も「無痛文明との共犯関係」にある。そんな汚い自分を刺す自傷行為、それが親殺しだとか動機なき殺人−「汚い奴らを刺す瞬間に、同時に自分を刺す」、援交など少女の性の逸脱行為−「大人が汚いことをアピールすると同時に自分の身体を汚す」という形で若者は表現しているのではないかと「無痛文明論」は問題提起している。
 「人はパンのみにて生くるにあらず」−「身体の欲望」を「生命の欲望」に、人間としての生のよろこびに変えることを希求する21世紀の日本の若者は苦闘を続けている。
   全土が戦場というイラクへの派兵は、本来、「身体の欲望」ではできない任務であるはずだ。しかし、自衛隊員には「無痛」がキーワードだ。「非戦闘地域」「安全」を条件に送られる軍隊だ。日当2万4千円という、失業に苦しむイラクの人々が目をむく高額所得の傭兵部隊。そのうえ、常にオランダ軍の警護下で活動するという過保護軍隊。「快楽と安定」という「無痛」の媚薬をかがされて派兵される自衛隊員。
 大義のない派兵はまさに無痛文明を象徴するものだ。「無痛」の麻薬を打たれて、あげくに戦死という痛みを強いられる自衛隊員こそ、「身体の欲望」を餌に大義に生きることを全否定された無痛文明の最大の犠牲者だとは言えないだろうか。
 イラク派兵の米軍に自殺者が急増−これも「無痛文明」から逃れる自傷行為なのだろうか?
 イラクでは米軍の大量破壊兵器で多くの母親、子供が理不尽に殺された。その「反テロ」戦争支持によって米国の「恩恵」下で生きることを「国益」とする日本で、われわれは「身体の欲望」充足という「快楽と安定」、「無痛」の海の中で不快な生を、そしてついには大義なき戦死まで受容することを強いられている。自傷行為以外の道、人間として「生命の欲望」、生の価値を輝かす道を真剣に考えるべき時にきている。


 
朝鮮あれこれ

旧正月の民族料理とセベ

田中協子


 中国や韓国、ベトナムなどアジア諸国では伝統的に旧正月を盛大に祝う風習がありますが、近年共和国も陽暦の1日を元旦として祝いながら、陰暦の三が日を旧正月として正式に祝っています。今年は1月22日〜24日で、25日(日)まで入れての四連休でした。その期間、新春音楽公演や相撲、綱引き、凧上げといった民俗競技大会がありました。また、家族、友人連れで名勝地を訪れ、仲良くスナップ写真を撮ったり、食堂に出かけて民族料理の特別メニューに舌鼓を打ったりします。
 朝鮮では年始廻りに来た人を接待する膳をセベサン(歳拝床)といいます。私もこの旧正月、朝鮮の方から正月料理に招待され、クットク(雑煮)、ヤクパブ(薬飯)、レンミョン(雉肉団子入り冷麺)、チヂミ(各種野菜入りのお好み焼き)、ノクトゥムク(緑豆ゼリー)、餅菓子などご馳走になりました。 五千年の歴史をもつ朝鮮料理は奥が深いですが、餅一つとってもモチ米以外に普通の白米やコウリャン、じゃがいもなどを用いた餅もあります。正月のクットク(雑煮)も日本のそれとは趣が違います。ピョンヤンで食べるクットクは白米の餅を棒状にしたものを薄切りにし肉汁スープに入れたものが多いです。ちょっと見には切った蒲鉾が入っているようで、粘りよりも歯ごたえを楽しみます。餅菓子も適当な大きさにちぎった餅に小豆あんや五葉松の実、緑豆あんをまぶしたものもあります。白米粉を練り発酵させ蒸して作るシントク(発酵モチ)はふんわりと柔らかく甘酸っぱい風味があります。白米粉を湯で練りあんを入れ松葉を敷いて蒸すソンピョン(松餅)は、ちょっと日本の柏餅に似ています。
 また、今年の旧正月はとりわけ「セベ」(歳拝)という言葉をよく聞きました。元日早々、一家の長老の前で家族が新年の挨拶をすることですが、幼い子どもたちは可愛い民俗衣装をまとい両膝、両手をついて挨拶します。セベの後、子どもたちが歌を披露したり、祖父母が子どもたちに菓子や小物をプレゼントしたりします。今年は地域や職場で年輩者が凧やコマを作り子どもたちに贈る光景も見られました。
 朝鮮半島をめぐる情勢はいぜん複雑ですが、旧正月風景を見ながら、民族的なものを愛し守っていこうという人々の強い志向を感じました。それは他でもなく引き裂かれた民族を一つにしようという意志の現れでもあるのでしょう。


 
編集後記

 

魚本公博


 今年は、1904年の日露戦争100周年、1954年の自衛隊発足50周年だとか。日露戦争は、前年に日英同盟を結び、戦債も全面的に米英に依存し、米国に終結を斡旋してもらって勝った戦争でした。あの勝利の過信が、その後の敗北をもたらしたというのが故司馬遼太郎氏の説ですが、明治維新以来、日本は、米英のアジア戦略の手先として利用され、手先侵略の道に入るわけですが、日露戦争は、その典型の一つだったと言えるのではないでしょうか。
 そして戦後、対米従属の安保体制の下で作られた自衛隊。そして今、イラク派兵・・・。時代を経て、ますますひどくなる手先化。派遣される自衛隊員と家族の悲しい別れの風景。この百数十年の歴史に終止符をうつことが今こそ切実に問われているのではないでしょうか。


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