インタビュー 被爆から84年、「ヒロシマの今」を問う 大阪原爆被害者の会 高木静子さんに聞く
8月6日、64回目の原爆の日を迎えた朝刊トップは、「原爆症訴訟、全員救済」を伝えていた。原爆症認定訴訟の306人の原告のうち、まだ国が原爆症と認定していない110人を原爆症と認定するという内容だ。提訴から6年余り、被爆者の高齢化が進む中で長期化した裁判が解決に向かうことは喜ばしいことだが、いまだ7600人という未認定患者を国は放置したままだ。
麻生首相は平和記念式典で、「非核三原則の堅持」と「核兵器の廃絶、恒久平和の実現」を誓ったが、被爆者の心には空ろに響いたのではなかろうか。
今回の国による「被爆者への謝罪と補償」、その言葉の根底には、先の戦争に対する深い反省と非戦の決意があって始めて人の心を打つ。だが、今の自民党にそのような反省も非戦の決意のかけらもないことは、8月4日に発表された首相の私的諮問機関「安保懇」報告書を見れば明らかだ。
報告書は「集団的自衛権行使の容認」、「武器輸出三原則の見直し」を提言している。「武器輸出三原則」見直しは首相の持論であり、総選挙に向けて、集団的自衛権の見直しなど(麻生)自民党は安保防衛論議を前面に打ち出す構えだ。被爆者救済と安保外交政策、この二つは明らかに矛盾している。これでは被爆者救済も、総選挙に向けた政権浮揚策のひとつと言われても仕方がない。
一方、民主党も防衛外交では、自衛隊のインド洋給油継続を認めるなど、ふらふらと腰が定まらない。民主党は麻生政権とは違う、どのような防衛外交政策をとるのか。
「政権交代」を言うのなら、これまでの安保外交を根本から転換する斬新な防衛外交路線を提示してはどうか。例えば非核三原則の堅持、集団的自衛権の不行使は、「唯一の被爆国日本」にしかやれない外交政策だ。「9条の堅持」というだけでなく、「9条を武器」にアジアと真摯に向き合い、日米地位協定の見直し、米軍基地の段階的縮小へ大胆な防衛外交路線の転換に踏み込めるかどうか。「原爆と敗戦の夏」に行われる初の総選挙である。意味あるものにしたいと思う。
自民惨敗、民主躍進という都議選の結果を受けて7月21日、ついに衆議院が解散され、18日公示、30日投票日が決定した。
政権交代の可能性が高まる中、国民はどのような政治を求めているのか、7月12日にあった都議選の結果を見る中で、それを探ってみたい。
■政治への期待がかつてなく高まっている
今回の都議選を見て思うことは、人々が政治への関心を高め、国の政治への期待がかつてなく高まっているということである。
そのことは、何よりもまず、投票率が前回を10ポイントも上回り、54%と地方選挙としてはかつてない高投票率であったことが端的にそれを示している。また、それは、政治に無関心であるとされる「無党派層」が、今回の都議選では24%という低いものだったことにも現れている。
これまで政治離れ、政治的無関心が言われてきた。しかし、ここに来て人々の政治的関心が高まっていることは注目すべきことである。
その要因は、何よりも、深刻な経済不況の中、政治が果たす役割が決定的になっていることと関連していると言えるだろう。これまで、新自由主義思想が蔓延する中で、「小さな政府」「自己責任」ということが言われてきた。すなわち、景気対策とか雇用対策は市場に任せて政府が口を出すべきでないということであった。
問題は、この論理に従って、勤労者の様々な権利が無視され、中世期的な人買い業、仲介業が野放しにされ、不安定雇用が一般化したことである。しかし、この大不況の下で、「自己責任」とは、無責任の代名詞でしかないことが明らかになった。
雇用だけでなく、社会保障や福祉、景気対策など、世論調査で常に上位を占める、そのどの一つをとっても、「自己責任」」で済ますことはできなくなっている状況の中で人々は、国の政治にその解決を求めるようになっている。
景気回復もそうだ。市場に任せるだけではダメで、国家による刺激策が切実になっているのが現実だ。
企業は大幅な財政出動を国家に求め、人々は雇用や社会保障などでも、国家に救いを求めている。生きていくために国の政治に期待するしかなくなっているのである。
■政権交代を切実に要求
今回の都議選の結果は、人々の要求が単なる政治への期待ではなく、「政権交代」を切実なものとして求めているということを示した。
都議選は、都政などは吹っ飛んだかのように、政権交代が争点となった。各党の党首による応援演説でも、麻生首相の第一声は「政権交代して一体何をやるんですか」だったし、鳩山民主党代表は政権交代を訴え、その他の政党も政権交代を想定した選挙戦を展開した。マスコミも「過去に例がないほどの政党選挙だった」と評していた。
出口調査によっても、投票において最も重視した投票基準は「政党・会派」が41・3%で最も多く、「政策」や「人物」を大きく引き離した。また自民党支持と答えた3割に当る人が民主党に投票している。
そうした中、票は民主党に集中した。
民主党は、前回の107万票から230万票へと2・2倍に、得票率も1・7倍に増やして、議席は1・6倍の54議席を獲得した。自民は得票数は134万票から146万票に増やしたものの、得票率は0・8倍であり、議席数は10減らし、38議席にとどまった。
特徴的なのは、トップ当選のほとんどが民主党であったことだ。全42選挙区のうち、民主党が39を占め、自民党は島部の1だけであった(他は公明の2)。前回のトップ当選は、自民17、公明15、民主8、生活ネット1、共産1だったから、民主躍進が目覚しい。また全部で7つの一人区では、島部の一議席を取っただけで、他は全部民主だった。
これらのことは、人々が「政権交代」を切実に要求し、それを実現することを念頭に置いて動いたことを示している。
それは、共産党が意外に伸びなかったことにも端的に表れている。
今、経済危機が深刻化する中でマルクス主義の書籍が読まれるようになり、戦前のプロレタリア文学の代表的な小説である小林多喜二の「蟹工船」が売れるなどの「カニ工」ブームも起き、共産党は党員、支持層を増やしてきた。それゆえ、共産党が伸びてもおかしくなかった。ところが共産党は、8議席にとどまり、自ら「惨敗」と認めるような結果だった。
これは、今日の生活苦が自民党政治への批判ですまされるようなものではなく非常に切迫したものとしてあるということであり、実際に自民党政治を終わらせ、政権を交代するためには、どうすべきかを具体的に考えた結果であろう。そのためには、政権交代が可能な民主党に投票すべきであり、少数政党に投票しても意味がないということだ。社民党、生活ネットが票を減らしたのも同様の理由であると思われる。
若者フリーター層に多いと言われる無党派層が、前回の都議選では、民主に33%、共産に21・4%投票したものが、今回は、民主に53%、共産は14・4%にとどまったことにも、そのことは見て取れる。
麻生首相の「政権交代して一体何をやるんですか?」という問いかけは、こうした人々の要求がまったく分っていない。国民から遊離した自民党政治の象徴のような発言だった。自民党の大敗は、この暴言に対する回答だったと言えるのではないだろうか。
■求められる新しい政治への革命的転換
また、今回の都議選では、女性や若者の候補者が増え当選者も多かった。
女性は、過去最多の54人が立候補し過去最多の24人が当選した。そのうち9選挙区で女性がトップ当選だった。20代、30代の若者も過去4回の都議選では最多の25人で、最少年は26歳だった。
その最年少議員は、千代田区で7選を目指した自民党都連幹事長を破る番狂わせを演じて当選した栗下善行さん。彼は、公示の3日前に立候補を決め、政治にはまったくの素人、演説もやったことがないという人だったという。
毎日、夜11時まで駅頭に立って、「お帰りなさい! お疲れ様でした」と明るい笑顔で語りかける素朴な演説も好評だったが、彼は当選後、「若さには危うさもあるかもしれないが、期待も非常に大きかったと思う」と述べている。
これらのことは、人々がプロがやる政治にアキアキし、素人であろうと新人であろうと、国民生活の痛みを知り、それに寄り添うことのできる人に好感をもち、期待するようになっていることを示している。
しがらみのない斬新な候補者への好感と支持は、しがらみのない斬新な新しい政治への希求である。人々の政権交代への期待は、単純に自民党政権に代わって民主党政権が誕生すればよいというものではなく、それが、これまでの政治とはまったく違った新しいものであって欲しいということだ。千葉市長選で、まったくの素人である熊谷氏が事前の予想を覆して当選したのも、人々のこうした要求を表している。
今、総選挙を前に政治が動いている。中田横浜市長が市長を辞め、総選挙後に新党を発足させるべく動き始めた。今回の総選挙は、単に民主党への政権交代にとどまらず、これを契機に政界再編の動きも活発化しそうである。まさに、政治の激動期。青年会議所も討論会を全国190ヶ所(小泉選挙の時に40ヶ所)で開く予定だという。
この状況をもたらしたのは、国民が政治への関心を高め、その声を上げ始めたからである。そうであれば、国民の願う、これまでとはまったく違った新しい政治も、国民の中から生まれるのではないだろうか。
「明治維新以来の官僚政治に代る新しい国民主体の政治への革命的転換」と「革命的」という言葉が飛び出してきた。この民主党のスローガン自体の是非は、これからの国民的審判を経なければならないだろう。しかし「革命的」という言葉が、政権交代のスローガンとして、掲げられはじめたこと自体の中に、国民を主人とする新しい政治への要求が生まれてきていることの反映を見ることができるのではないだろうか。
では、それがどういうものであるのかということについては、まだ明確なものはない。しかし、国民が政治への関心を高め、政治を変えようとしている以上、新しい政治は様々な紆余曲折を経ながら国民自身の手によって、その姿を現してくるにちがいない。
研究
景気回復への悲観論、楽観論が錯綜し、大不況からの脱出が暗中模索されている今、「アジア内需」への期待が世界的範囲で高まっている。
とりわけ、アジアの一員である日本にとって、ことは一層切実だ。麻生政権が景気対策の重要な一環として「アジア内需」の拡大を取り上げ、「アジア経済倍増構想」を提唱したのもそのためである。ところで問題は、この「構想」の内容だ。日本は、「アジア内需」の拡大のため、どうしなければならないのか、考えてみたい。
■高まる「アジア内需」拡大への要求
今日、外需依存から内需主導への経済の転換が叫ばれている。この異口同音とも言える世界的な趨勢の根底には、これまで対米輸出を大動脈に循環していた世界経済の破綻がある。今般の大恐慌により、「最終消費地」である米国の需要が激減したのだ。これにより、近年、対米輸出、外需への依存度を急速に高めていた各国経済は一気に破綻した。対米輸出、外需の激減とそれにともなう内需の縮小は、金融危機と相俟って、各国経済を大不況に落とし込んだ。この危機からの脱出策は、各国における財政出動とそれによる内需の創出以外にない。「外需依存から内需主導への経済の転換」は、世界的な危機からの脱出と各国経済の体質改善を結びつけた「ピンチをチャンスに変える」スローガンだと言えるだろう。
そうした中、世界的範囲で期待されているのが「アジア内需」の拡大だ。もともとアジアは、「デカプリング(非連動)論」など、先進国が経済危機に陥ったとき、それを救うものとして期待されていた。しかし、今回の大恐慌はアジアをも巻き込んだ。「非連動」どころか、欧米に連動したアジアの危機は、欧米にもまして深刻だった。GDPの50%前後を対米輸出など外需に依存していた経済は止まり、外資に依存した株式市場は、その一斉の引き上げによって、インドネシアやタイなど、株式の取引停止にまで陥った国まで現れた。さらに、ドルペッグ制でドルに連動した各国通貨は暴落し危機的状況に直面した。
そのアジアが、今再び存在感を高めてきている。それは、中国をはじめアジア経済の復興が早く、それにともない、各国の対アジア輸出が底入れの様相を呈してきているのに示されている。日本の欧米向け輸出が恐慌直後の大暴落の後、低迷状況を脱し切れていない中、アジア向け輸出は、4月、対中国が前月比3・5%、対アジア全体が3・3%の上昇と3カ月連続で前月比プラスになった。
このようにアジア経済にいち早く底入れの兆しが見えてきているのはなぜか。その一つは、東アジア諸国が外需依存から内需主導への経済の転換をいち早く掲げ、域内総生産比3・6%に及ぶ財政出動、景気刺激策を打ち出したところにある。またもう一つは、1997年のアジア通貨危機の教訓から創られた東アジア諸国相互の通貨持ち合い(チェンマイ・イニシアティブ)が実質的にアジア通貨基金の役割を果たして、各国の通貨が買い支えられ、大暴落を免れたところにある。
■「アジア経済倍増構想」とその問題点
「アジア内需」の拡大で、世界第二の経済大国、日本の果たすべき役割は小さくない。
そうした中、今年4月、麻生首相は、「アジア経済倍増構想」を発表した。2020年までに東アジア地域の経済規模を現在の2倍にするというこの「構想」で、首相は、アジアの成長力を中長期的視点から強化し、潜在力を引き出す政策が必要だとしながら、広域開発や消費拡大を促し、輸出主導型だったアジア経済を内需主導型に変革することを提唱した。それとともに、首相は、それが世界経済活性化のための「アジア内需」の拡大につながるよう、アジア域内の貿易・資本取引の一層の促進と、この域内協力が世界に「開かれた地域協力」となることについて強調した。
ここで問題なのは、「構想」で提起された「広域開発」や「消費拡大」だ。まず「広域開発」だが、これについては、広域インフラの整備など、官民の連携を視野に入れたアジア総合開発計画だと説明されている。そして、「計画」の中身としては、すでに日本とインドの間で推進されている、デリー・ムンバイ間1500キロを結ぶ高速貨物鉄道やその周辺の港湾、道路の整備など、「デリー・ムンバイ産業大動脈構想」の経験に基づきながら、それをも含み、東アジア全体で広域インフラ開発を進める「東アジア産業大動脈構想」が挙げられている。
「消費拡大」について言えば、その照準は、アジアで急速に育っている「中間層」に当てられている。08年、世帯可処分所得が5千ドル以上の人口は8億8千万人と、90年の6倍強に達した。この「中間層」が安心して消費を拡大できるよう社会保障などセーフティーネットの整備や教育の充実などをはかろうということだ。
首相は、この「構想」を具体化するものとして、政府開発援助(ODA)や貿易保険などで総額670億ドルの支援を打ち出した。また、メコン川流域5カ国の開発問題を協議する初の日メコン首脳会議の年内日本での開催も提案されている。
日本政府のこの政策を評価する上で、問題としたいのは、この「広域開発」「消費拡大」が当のアジア諸国の切実な要求というより、日本や欧米の企業の要求を反映していることだ。鉄道や道路、空港、港湾など広域インフラ開発や「中間層」の購買力増強をもっとも切実に要求しているのは、先進国の大企業だ。この「大企業本位」がこれまでの対アジア開発援助で森林伐採など大きな矛盾を生み出していること、また、日本国内における地域開発で、それが地域経済の発展につながらず、かえってその崩壊を招いていることなどは、深刻な教訓だと言えるのではないだろうか。
■「アジア内需」拡大で日本に問われていること
「アジア経済倍増構想」は、これまでの対アジア開発援助のくり返しや国内における地域開発の「アジア版」になってはならない。
およそ「援助」というものは、その相手が人であろうと、地方であろうと、国であろうと、徹頭徹尾、相手の要求から出発したものにならなければならない。そうしてこそ、それは真に相手のためになる。ここで、アジア諸国の要求から出発するといったとき、重要なのは、その国の政府、人民の声によく耳を傾けることではないかと思う。ある国際交流会議の席で、ラオスのブアソン首相は、「工業化を進めて持続可能な発展を可能にするため、ラオスは資金や高度な技術を必要としている」と言っていた。また、同じ席で、ベトナムのズン首相は、「アジア域内の貿易と投資の比重を高める」こと、「アジア開発銀行の役割を強化し、地域でもっとも重要な金融機関にする」こと、そして、「メコン川流域の開発」にも関心を示しつつ、「アジア域外の大陸との協力を深める必要性」にまで言及していた。
もちろん、こうした発言がそのままその国の要求を正しく反映している訳でないのは事実だろう。しかし、その国の人が一番よくその国のことを知っているのも事実である。外国の人間は、机の前でその国の要求を「研究」するのではなく、その国に行き、その国の人の話を聞き、その国の実情から要求を知るべきであろう。
その上で銘記すべきは、相手の要求からではなく、自分の要求から出発した「援助」が、相手のためにならず、喜ばれないばかりか、結局、自分のためにもならないということだ。
事実、麻生首相の「構想」で言われる「広域開発」にはその懸念大である。それがもっぱら日本の大企業の工場、鉱山など、企業所運営のためのものとなり、その国の経済の工業化や循環的で持続的な産業振興とよく結びつかない場合どうなるか。「アジア内需」の拡大がきわめて限られたものとなるばかりではない。ひいては、その旧植民地主義的なやり方への反発が、日本企業の排斥など、昔の反植民地闘争の比でない大きなものになる公算大である。
一方、アジアの「中間層」を対象とする「消費拡大」が日本商品の販売拡大をねらったものであるのは言うまでもないが、考慮すべきは、それがアジア諸国の「中間層」の富裕化と膨大な貧困層との間の格差拡大を招き、社会不安をいたずらに助長するものにもなりかねないばかりか、消費の拡大自体もきわめて限定的なものにするのではないかということである。
今問われているのは、アジア諸国自身の消費の底辺からの力強い拡大と循環的で持続的な経済の発展だ。それに基づくアジア域内での投資と貿易の促進が「アジア内需」の拡大を促し、それが結局、日本や世界の経済活性化に結びついて行くだろう。こうしたアジア共同体的な「援助」こそが今切実に要求されていると思う。
インタビュー 被爆から84年、「ヒロシマの今」を問う
高木静子さん81歳。昭和20年8月6日、爆心地から1,7キロにあった広島女子高等師範学校の校舎2階で被爆し、校舎倒壊の下敷きとなる。顔一面ガラスが突き刺さり、上唇は裂け、首から上38箇所、全身60箇所に傷を負う。ガラスの多くは摘出したが、額のガラス片は今も残留。骨にささって抜けにくく化膿を薬でおさえている。首の傷は「外傷後瘢痕拘縮」という難しい病名がつく。原爆の日を前に、自宅を訪ねてお話を伺った。
―後遺症は今もなお続いているのでしょうか。
「顔面38箇所の赤紫色のケロイドは、目立たなくなりましたが、上唇の裂傷は40年くらい、冬には裂けて出血し、左頚部の傷は、30年後に日赤病院で手術しました。頚動脈が切れていることがわかって、担当の医者からは「生きているのが不思議」といわれ、先日も、急に背中の上部がチクチクと痛んで触ってみると淡い色の血が出て、こんなところにもガラス片がささっていたのかと思いました。被爆64年というのにね・・・」
高木さんは、そう言いながら朗らかに笑った。81歳という高齢に加えて、被爆者ということで、インタビューは可能だろうかと心配したが杞憂に終わった。その朗らかさ、元気さには驚いた。
「原爆症」とは何か?について、現在も良く分からないままだと言う。被爆者の病気も、人間のかかる病気以外ではありえないからだ。白血球減少病は被爆後10年間1ミリ?中3000を超えず、発作的貧血等抱える病名は数え切れない。「よく今日まで命が続いたものよ」といって笑った。
この被爆者の長年の苦しみに国は誠実に応えていない。「被爆者援護法」はあるが被爆者の認定も支援も不十分なままだ。全国の地裁で起こされた原爆症裁判で、認定を認めようとしない国は19連敗中だ。
―国による支援はあるんですか。
「被爆後12年を経てやっと法律ができ、私自身について言えば原爆手帳取得までに3回入院、手術しました。被爆者の白血病も6年後がピークでした」
どうしてこんなに遅れたのか。「アメリカ軍による占領期間のプレスコードがあり、広島の医師たちの医療活動が困難だったことが大きい」と高木さんは言う。
1957年にやっと「原爆医療法」(手帳交付と健康診断の実施)が制定され、厚生省が認める「原子爆弾に起因する負傷、疾病」に対する国費医療が認められた。1968年の「原爆特別措置法」によって特別手当、健康管理手当ての支給が認められたが、「所得制限」や「年齢制限」がついた。
現行の「被爆者援護法」が制定されたのは1994年だ。所得制限は撤廃され、葬祭料などが追加された。それでも「原爆医療法と特別措置法を合わせただけで、名称は『援護法』でも、国家補償の立場(年金)に立っていない」と高木さんは批判する。とりわけ、前二法にあった「核兵器の究極的廃絶」という文言を「目的条項」から削除し、前文としたことに強い疑問を持つという。
この法律には国会議員全員が賛成したが、後に広島市長となった秋葉さんだけが反対し、高木さんは嬉しかったという。
―若いころの夢は何でしたか
「主人が阪大を退職した時、二人でヨーロッパを旅しましたが、パリのカルチェ・ラタンを歩いていたとき、エコール・ノルマン・シュペーリュールの前に来て、思わずぽろぽろと涙が落ちてしまいました。女高師時代のもっと以前の少女時代に憧れていた学校でしたから」
阿倍野高女時代、成績が優秀だった彼女は、微生物の世界、見えない生命の世界を研究してみたいと思い大学進学を望むが、戦前の女子には大学(帝大理学部)の門戸は開かれていなかった。どうして日本では女子が勉強したらいけないのか? 男子校と女子高では同じ年齢でも勉強の内容に大きな差があったという。女性にとって最高学府は高等師範学校だった。
太平洋戦争中で男子教師が不足し、文部省は東京、奈良についで女子の高等師範学校を広島に開設。当時、最も不足したのは女性の理科の教師で、広島高等師範には理科があったことから、高木さんは広島高師に進むことを決意した。開校式は7月21日で、7月17日に17歳になったばかりだった。そして運命の8月6日をその母校で迎えた。
「九死に一生」を得た彼女は、大阪で自宅療養するが、白血球減少と貧血、関節の痛み、ガラス片の摘出、高熱などが続いた。それでも高木さんは勉学の夢を捨てきれずに、広島高師に復学、卒業した。卒論テーマは「カキの血液」だったという。
高等師範は卒業したが高木さんは教職には就かなかった。顔のケロイドを気にしたからだった。知人の紹介で大阪大学医学部の公衆衛生学教室の実験助手となる。このときは高等師範で学んだドイツ語が役に立った。彼女はそこで後に夫となる高木昌彦さんと会った。衛生学教室の仕事をしながら、阪大理学部の研究生になるも、高熱が続き学問の道は絶たれた。
昌彦さんと結婚後、阪大の数学科を出た親友の誘いで聖母女学院高校の生物の教師になるが、これも度重なる手術や入院で続けることができず、断念した。
今でも机の脇には難しそうな原書や医学書が並んでいる。長く続けてきた相談員の仕事には医学の知識が不可欠という。話の中に難解な医学用語がぽんぽんと飛び出し、81歳の今も独語やフランス語が自然と出る。生物学の道を絶たれた苦痛と悔しさ・・。高木さんをこの失意から蘇らせたのは、「被爆婦人の集い」、そして原爆の「語り部」という仕事だった。
―「語り部」はどのように始められたのですか
「聖母女学院で生徒たちにせがまれて3クラスで被爆体験を話さなければならなくなり、優しい生徒たちがみんな泣いてしまった姿が忘れられません。私の『語り部』は教壇ではじまりました。1954年のことです」
大阪府立女子大で大学生に話したのは1967年春、このときの学生との出会いが、七夕の日に、(爆心地から)500メートルで生き残った母親被爆者とともに「被爆婦人の集い」を船出させることになった。
高木さんは今でも自分のことを「オバケ」と自称する。今では顔のケロイドはほとんど消えている。首と額の傷あとがわずかに残る程度で、よほど注意しないと分からない。そこに至るまで64年の歳月がかかった。
自宅に一枚の絵が飾ってあった。高木さんが13歳のときにはじめて描いた鳩の油絵だ。絵が好きで学校の理科室に保管されていた絵は空襲で焼けたが、阿倍野高女校長室に飾られていたこの絵だけが奇跡的に残ったという。なんという奇縁だろうか、戦前に描かれ、唯一の残った絵が、平和の象徴である鳩の絵とは・・。
夫、昌彦さんは阪大を退職した95年以降、カザフスタンで過ごし、旧ソ連によって行われた420回に及ぶ核実験被害者の実態解明と救援に専念してきたが、02年に亡くなっている。
03年には、名古屋にいる4歳のお孫さん(被爆三世)が小児性白血病を発症したが、今は寛解し、小学校に通っている。「医学的には証明不可能だけど、私が広島で被爆したせいで孫が発症したことは間違いない」と高木さんは言う。
―被爆二世、三世への国の支援は充分にあるのですか。
「大阪市内では相談事業の中で二世の白血病死が5例ありました。せめて弔慰金なり国は出すべきではなかったでしょうか」
「核兵器廃絶のためには、人間の知性に働きかけるだけでは十分ではない。喜びや怒り、恐れ、悲しみなどの強い感情が知性に働きかけることで、人間は行動に移る意思を持てる」(広島大、片岡勝子)。そのためにも被爆の実相を証言すること、広島を発信することが重要だ。そのような地道な努力が確実に核兵器廃絶への道を開くことにつながる。
「被爆者としてアメリカに行くことはできても、アジアには行けない」という高木さんの言葉が印象に残った。戦争責任を果たしていない日本人として、アジアの人に自分の「被爆体験」を語ることができないからだ。インタビューは5時間を超えても、話は尽きなかった。いつまでも元気で「ヒロシマの今」を問い続けていただきたいと思う。
■金永南委員長、「6者会談は永遠に終わった」
第15回非同盟運動首脳会議に参加した北朝鮮の金永南最高人民委員会委員長は、米国と関連国家が主権と平等の原則を放棄したとしながら、6者会談は永遠に終わったと言明した。
■非同盟首脳会議の閉幕−6者会談不要を認定
エジプトのシャルム・アル・シャイフで7月15日開幕した「平和と発展のための国際的連帯」を掲げた第15回非同盟首脳会議がすべての議題の討議を終え、16日に閉幕。
各国首脳は、非同盟運動が国際関係における力の使用と危険、覇権主義を排撃し、不平等を克服し正義を守ることについて言及した。
国連が改革されない限り、力と軍事力によって弱小国家を犠牲にする試みは続くであろうとしながら、国連安全保障理事会の権限乱用によって信頼が低下している条件では、非同盟諸国が運動の立場と利益を守るために、安全保障理事会の改革を強く打ち出すべきことを強調。
核拡散については以前から、保有国によって生じたものであり、国際原子力機構(IAEA)は、核大国については責任を問わずただ発展途上国だけを「管理」する機構になっていると主張。
会議では、朝鮮半島の平和と安全問題について、わが共和国の努力に全的な支持と連帯を表示。特に「6者会談」が必要のないものになったことを認め、「6者会談」について最終文献には反映しないことにした。
■朝鮮核危機−米国は反省すべき
朝鮮核危機が今日のような緊張状態に陥ったのは、核問題における米国の態度と観点、政策に原因がある。
核の拡散を防ごうとすれば、核拡散防止が開始当初から抱えている誤りを正すことが必要だ。
第一の誤りは国家の核兵器保有に合法的なものと不法なものとがあるとしたことだ。
米国は過去、「合法的な核保有者」という身分をもって「不法な核保有者」に反対し、また自己の核に関する行動が国際条約の拘束を受けることを望まなかった。
米国は核兵器とその運搬手段で絶対的優勢を維持しており、核兵器の性能を不断に向上させ最近では地下貫通核爆弾まで研究製作している。
米国がまずやるべきことは、自分が核を保有するのは合法だという観念を捨て、他の国に対して実際の模範を示すことだ。米国が以身作則しなければ核拡散防止は空語に終わる。
誤りの第二は、同盟国の核兵器保有はよくて、他の国の保有は認めないという点だ。
誤りの第三は、核兵器が使用できる兵器だとしている点だ。
核兵器追求の目的は、政治的影響力にある。核兵器は理論上の抑止力という以外に価値はない。
米国はまず核兵器の使用について云々することを止め、一連の国に核の傘を提供するという主張を放棄し、軍事計画で核兵器がやがて消え去るようにすべきであり、朝鮮のような国を説得して最終的には核兵器放棄の行動を共にするというようにすべきだ。
■ヒラリー、米外交協議会で対外政策綱領を演説
米国は、常に世界の指導者としてありつづける。
米国は敵とも対話の用意がある。しかしこれを米国の弱さの表現と混同してはならない。
米国は、いかなる国も単独では現在提起されている国際問題を解決できないということを認識している。しかしこれらの問題の中でどの問題も米国なしに調整できないことを知るべきだ。
オバマ政権は世界の新進大国である中国、インド、ロシア、ブラジル、そしてトルコ、インドネシア、南アフリカ共和国をグローバルな問題の解決における同伴者にすることに特別の意味を付与するだろう。これらの国々との連携強化は、核拡散防止、反テロ、経済成長保障、気候変動問題などの解決で鍵となる。
Copyright © 2003-2011 Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.
|