研究誌 「アジア新時代と日本」

第69号 2009/3/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 今日の政治的混迷、その原因は何か?

研究 問われているのは、「国のあり方」

投稿 「企業の社会的責任」を実現するために

論点1 なぜ今「アジア」なのか

論点2 「おくりびと」は素晴らしいが・・・

世界の動きから



 
 

編集部より

小川淳


 「医療崩壊、食品偽装、高い自殺率、異常犯罪の多発、どうして日本はこんな国になってしまったのか。最大の元凶は、経済グローバリズムと、それを後押しした小泉改革にある・・」。構造改革の旗手として新自由主義改革の必要性を訴えてきた中谷巌の「懺悔の記」(文芸春秋3月号)がなかなか面白い。
 98年、構造改革論者の急先鋒だった彼は「日本経済再生への戦略」として三つの柱を提言した。ひとつは「労働者派遣法改正」となり、「派遣切り」や「賃金格差」をもたらす元凶となった「労働市場の流動化」であり、二つは、郵政、年金、医療分野などへの「競争原理の導入」を柱とする「小さな政府」路線。三つは、「間接金融に過度に依存した日本型金融システムを変革し、わが国の有する豊富な貯蓄が有効かつ効率的に活用されるために」行った金融システムの改革だった。なるほど、小泉改革とは何であったのか、どこがどう間違っていたのか、このようにはっきりと分析された文章は珍しい。今日の惨憺たる現状と小泉改革の連関がはっきりと掴めて興味深い。
 民営化し、市場原理を導入すればおのずと最適なシステムになるという「マーケットへの過信」。そして「『社会』への視点が決定的に欠けていた新自由主義の理論モデル」。そこに欠陥があったことを彼は率直に認めている。
 新自由主義があれほどの影響力を持ったのは、一つには劇的に進む経済のグローバル化の中で、世界市場をめぐる熾烈な競争に日本はどう生き延びるのかという問題意識があったからだろう。しかし、当時も今も、日本の政治に求められているのは、企業の「競争力」をどう高めるかではなくて、そこで生き働く庶民や勤労者の「生活の質」をどう高めていくのかであったはずだ。
 格差や貧困がぽっかりと口をあけた「社会」に真の競争力など生まれるはずはなく、日本社会に最も欠如しているのは公平なマーケットでもなければ、競争力でもない。この社会を支えているひとりひとりの人や地域、共同体をどう蘇らせていくのかである。経済の「競争力」とは目的ではなくそのための手段に過ぎないのだから。政治はそのためにある。


 
主張

今日の政治的混迷、その原因は何か?

編集部


■何という体たらく
 日本の政局が混迷の度を深めている。
 未曾有の経済危機によって、企業経営が悪化し、多くの労働者が首を切られ、賃下げなど国民生活を直撃しているのに、素早く手を打つべき景気対策のための予算、補正予算案も政争の道具にされ相も変らぬゴタゴタが続いている。
 そうした中、麻生首相の「私は郵政の4分社化には賛成ではなかった」という発言は、国民を唖然とさせた。これに対して小泉元首相の「怒るというより、笑っちゃう」という首相批判が「改革」派議員を勢いづかせ政局をさらに混迷させている。そこに、例の中川財務相の「もうろう会見」、G7財務相会議という世界の舞台での醜態に麻生首相の任命責任を問う声があがり、内閣支持率は、この2月だけでも18%から14%に、そして8%にまで下がってしまった。
 このかつてない低支持率では、当然辞任するか総選挙を実施して国民に信を問うべきなのに、今、選挙をすれば敗北するからと引き伸ばし戦術に出るかと思えば、一方では、これでは選挙は戦えない「顔」を代えるべきだという声が高まり、政局は混迷の度を増している。
 こうした政局の混迷に多くの人が無責任さを指摘する。元来、自民党が参院選で惨敗したにもかかわらず、国民の審判を問うこともなく、安倍、福田、麻生と政権をたらい回しにしたのも国民の前に責任を負う姿勢の欠落であったし、安倍、福田氏が何の理由説明もなく中途で政権を放り出したのも無責任として指弾されるものであった。
 こうした状況に、安倍−福田−麻生と三代続いた首相や「もうろう会見」の中川氏などがいずれも2世、3世議員だということから、「世襲議員は、叩き上げと違って揉まれてないから、見識が低く、こらえ性もなく、発言も軽い」のだとして、彼らの無責任さ、それによる政局の混迷をそれと結びつけて解説する向きもある。
 確かにそれもあるだろう。しかし、その奥には、より本質的な問題点があるのではないだろうか。

■郵政民営化をめぐる軋轢が象徴
 自民党政治の無責任さは、郵政民営化を巡る一連の動きの中によく現れている。
 郵政民営化が米国の強い要求の下で行われたことは、米国が日本の構造改革の遂行状況を監督し年ごとに、その課題を提示してきた「年次要望書」を見ても明らかである。
 戦後、日本は「日本株式会社」と揶揄されるように、政・財・官一体となって経済発展を推し進めてきた。この構造を放置しては面白くない、日本を米国言いなりにするのに障害だ、ということで、これを壊すというのが、米国が要求する日本の構造改革の目的の一つであった。この構造改革において郵政民営化はその目玉でありカギであった。郵便貯金や簡保などに集まる巨額の資金(今でも350兆円に達する)を元手にした「特別会計」は130兆円にもなり、このカネを媒介にした官僚、財界、地域との結合が自民党の地盤であった。この強固な地盤の故に、自民党政治は米国に対し、一定の「抵抗」をすることもできたのである。しかし米国は、こうした「抵抗」すら許せない。すなわち、米一極支配を維持実現するために、日本の力を最大限利用しなければならず、そのためには政治において、いささかな「抵抗」もできない国にするということである。
 ところが今、未曾有の経済危機の中、各国は新自由主義改革路線からの転換を始めた。本家本元の米国さえ、オバマ政権の下でこの路線からの転換を始めている。実に、GDPの6%にのぼる7870億ドルもの景気対策法案を成立させ、経営危機に陥った金融機関や自動車産業救済のために巨額のカネをつぎ込むなど、新自由主義とは対極の政策を次々に打ち出してきている。
 こうした状況の中で日本でも構造改革を見直す動きが「抵抗派」議員を中心に出てきた。「郵政民営化」「4分社化見直し」論がそれである。麻生首相の「4分社化不賛成」発言は、こうした動きを背景にしている。
 しかし米国は日本の構造改革要求を取り下げたわけではない。自分は新自由主義からの転換を行いながら、日本の構造改革要求は変えてはない。こういう一見矛盾したかのような米国の姿勢が日本政局を混乱させている。すなわち、米国の真意はどこにあるのかというわけである。
 日本政局の混乱は、政治家に定見がなく無責任だからだが、その無責任さは、第一に、彼らが米国の顔を見るだけで、国民に顔を向けようとしないところにある。いわば、米国にだけ「責任」を果たし、国民には責任を果たそうとしないのだから、その政治が無責任になるのは当然なのだ。
 第二には、それ故、米国の言いなりになり、自分の頭で考えようとしないところから出ている。新自由主義からの転換一つとっても、日本の場合、転換自体を明確に打ち出せず、その政策もこれといったものを出せないでいる。
 1月28日、麻生首相は、施政方針演説で、「『官から民へ』といったスローガンや『大きな政府か小さな政府か』といった発想だけではあるべき姿は見えない」と述べた。これも、オバマ大統領の「大きな政府か小さな政府かが問題なのではない」というの言い方をまねたような表現であり、自分の頭で考え、日本の新しい進路を明確に打ち出したものではない。そして、米オバマ政権がグリーン・ニューディールを言えば、「低炭素社会の実現」を言い、スマートパワーを言えば、日本は環境技術の活用でそれに応えるという対応をするだけだ。
 戦後、自民党政治は一貫して米国任せの政治だった。だから世襲議員でもやってこれた。しかし、未曾有の経済危機が世界を覆い、米一極支配の終焉が明らかになった今、米国の顔ばかり見て自分の頭で考えないような政治は、かくも無残な無責任さを露呈し、それではやっていけないことになる。今日の政局の混迷はそれを如実に示している。

■このままでは、もっと危険なことにも
 しかし、自民党政治を変えたからといって問題が解決されるわけではない。今、自民党内部では、中川秀直元幹事長ら「改革派」の動きが活発化している。彼は、「予算通過後、政治そのものを抜本的に構造改革していく議員連盟を立ち上げ、新しい自民党をつくりたい」と述べている。
 中川氏らの動きでは、先月号で述べたように、昨年12月19日にジョセフ・ナイ氏が都内のホテルで民主党幹部に会ったとき、これを「次は民主党政権で行く」という米国のシグナルとみて、それまでの政界再編工作を一旦止めた経緯がある。そうであれば、「改革派」の再始動も、米国の顔を見てのそれでしかないだろう。
 米国が日本の構造改革を求める、その目的は、「抵抗」のひとかけらもないほどに米国の言いなりになる日本にすることである。そのためには、米国式の二大政党制が望ましい。中川氏の言う、「新しい自民党」とは民主党内の自民党出身議員にも枠を広げた政界再編によって、民主党政権とも呼応し、次を担える政党を作るということだ。
 民主党も元来、「新自由主義改革は我々の方が徹底してやれる」という立場である。だから、その政策も「特別会計の廃止」や「政治家による官僚統制」など米国の「改革」要求に沿っている。そして、極めつけは、国連の承認の下では戦闘部隊の海外派遣も可という考え方である。
 時あたかも、米国の新国務長官ヒラリー・クリントンが、最初の訪問国として日本を選択し、ホワイトハウスの最初の訪問客に麻生首相が招待された。それを「日本重視」と喜んでいいのだろうか。米国外交でヒラリーは儀礼的な役割を担当し実際には副大統領バイデンと国家安保問題担当大統領補佐官ジョンズが担当するだろうと見られているが、26日には、対アジア軍事戦略を担当する国防省アジア太平洋担当次官補にウォレス・グレッグソンが指名された。彼は沖縄で第三海兵隊司令官、駐日海兵隊司令官を勤め、安保再定義にも関与した人物である。日本では、これすら知日派の起用、対日重視と歓迎する向きがあるが非常にきな臭い人選である。
 政局混迷の原因は、米国の顔を見るだけの無責任政治から必然的に出るものである。その無責任政治によって、日本は、崩壊しつつある米一極支配を支えるために経済力だけでなく武力まで提供する国にされようとしている。今、日本の政治には、米国の言うなりに動く思考を払拭し、真に日本の運命を考え、国民生活を考え、そのためにどうするかを主体的に自主的に考えていく、その姿勢と立場が切実に問われている。


 
研究

問われているのは、「国のあり方」

小西隆裕


■未曽有の危機の深まり
 年末年始、東京・日比谷の「年越し派遣村」に集まった500人を超える派遣労働者たちの姿は、今回の経済危機のかつてない深刻さを如実に現していた。職も住も、そして食さえも一瞬にして奪われた彼らの中には、自殺を決意したり、実際行って助けられたりした人が少なからず含まれていたという。
 米国発金融恐慌に端を発する世界大恐慌が深まる中、その矛盾を真っ先に集中される派遣労働者の解雇は、日本において当初、09年春までに8万5千人に上るだろうと予測されていた。それが1月時点ですでに12万4800人と発表され、1月9日、大和総研がまとめたリポートでは、正規・非正規合わせ、昨年12月から今年11月までに270万人もの雇用が失われるとされるまでになった。完全失業率にして7%超である。
 雇用に現れた惨状は、経済全般に及んでいる。それはもはや「景気後退」などといった生易しいものではない。昨年10―12月期のGDP速報値は、前期比3・3%減を記録した。年率換算で12・7%減だ。恐慌勃発当初予想されたGDP2〜3%減がいかに甘かったかは歴然としている。
 倒産の状況も同様だ。昨年、運転資金の欠乏を理由とする倒産は、994件と1997年以降最高となった。総倒産件数も増加の一途をたどっている。1月は全国で1360件と8ヶ月連続で前年同月比増だった。
 そればかりではない。日本経済全体が、外需の急落、消費の萎縮、設備投資の減少、生産の激減、中小企業への貸し渋り、貸しはがし、地方・地域景気の急降下、等々、経済のあらゆる領域のかつてない惨状が相互に連関し、負の連鎖をなして大恐慌の様相を呈している。

■見直される国の役割
 今日、未曽有の危機が深まる中、誰もが一致して願うのは、この危機からの脱出だ。米国においてオバマ勝利を決定づけたのも、経済危機からの脱却をオバマに託す圧倒的多数の期待だった。
 人々のこのもっとも切実な要求をかなえるため、今、世界でも日本でも、様々な努力がなされている。冒頭で挙げた「年越し派遣村」の試みなど各種ボランティア活動、人口減少や財政窮迫に苦しむ地方・地域の活性化に向けた町おこし、村おこしの運動、危機を好機に換える創意工夫をこらした中小企業、地場産業などの奮闘、そして労働者派遣法改正に向けた闘争や反貧困の運動など各種闘争、等々。これらが危機克服のために一定の役割を果たすようになるのは事実だ。しかし、こうした活動や運動だけで危機からの脱却ができないのも事実ではないだろうか。
 こうした中、今日、危機脱却のため、もっとも力あるものとして期待されているのは、やはり国の役割ではないだろうか。オバマ氏があたかも「救世主」のごとく、人々の願いと興奮の中、大統領になったのも、まさにそれ故だったと言える。
 事実、この未曽有の危機の中にあって、市場に任せておけばすべてうまくいくと考えている人は一握りにすぎないだろう。あの国家否定の新自由主義の権化のようなグリーンスパンFRB前議長ですら、国家の経済への介入の意味を否定できなくなっている。
 公的資金の投入による金融機関や自動車など独占的大企業の救済、経済の投機化を抑制する各種規制の強化、公共事業や社会保障など財政投融資による雇用の創出と景気回復、環境のための新エネルギー開発など産業構造の転換による経済の活性化、等々、これまで市場万能・国家による規制反対の旗振りをしていた金融など独占体が国家にすがりつく中、全国民的にも国家的事業や規制など国の役割の重要性が見直されてきている。
 もともと国とは、国民の生活や国の経済に責任を持つものだ。無責任は許されない。今日、日本政治や自民党政府の無責任さが、安倍、福田と続いた政権放り出しなど、多々問題になっているのもそのためだ。
 国が負わねばならない国民の生活や国の経済に対するこの責任性をないがしろにする新自由主義が破綻したのは当然だ。その端的な表現である今日の危機の深まりの中で、国の役割の見直しが行われ、国家重視の傾向が強まっているのは歴史の必然だと言えるだろう。

■問われる新しい「国のあり方」
 国の役割を見直し、国家を重視するとき、問われてくるのは「国のあり方」だ。
 これまで国家重視の「国のあり方」としては、ケインズ主義や国家主義などがあった。1929年恐慌によって国家の経済への介入を否定する自由主義が破綻したとき、広く国家政策に取り入れられるようになったのは、ケインズ主義だった。国が公共事業や社会福祉などに投資し、「有効需要」を創出して、世界的な大不況の中で停滞する国の経済を活性化させるというものだ。これは、米国の「ニューディール政策」やドイツの「ナチス経済」などとして、一定の成功を収めた。
 しかし、その成功も長くは続かなかった。ドイツでは、それは、ナチスの国家主義と結びつき、日本やイタリアの国家主義(軍国主義、ファシズム)とともに第二次大戦の炎の中で燃え尽きた。また、米国をはじめ西側世界では、大戦後、支配的な国家路線、政策となりながら、1970年代、国家による需要の創出が、大企業中心の公共事業投資などにより経済活性化効果を現さず、逆に不況の上にインフレが同時進行するスタグフレーションを引き起こす中で、国家軽視、否定の新自由主義にとって代わられた。
 そして、今また、その新自由主義が破綻し、世界は大不況に陥り、国家重視の風潮が広まってきている。この歴史の繰り返しの中、重要なのは、とるべき「国のあり方」である。
 ここで、ケインズ主義や国家主義など失敗の繰り返しは許されない。オバマ新政権が国家による「有効需要の創出」を行いながら、「市場重視」を言い、「(政府が)大きいか小さいかは問題でない。重要なのはよく機能するかどうかだ」、等々と言っているのはそのためだ。だが、それが「ニューディール」政策の焼き直しであるのは誰の目にも明らかだ。一方、国家主義については、関税引き上げなど保護主義が警戒される中、当のオバマ政権自身が「バイ・アメリカン」(米国製品優先)政策を打ち出している。
 国の役割が見直され、国家が重視されてきている今日、問われているのは新しい「国のあり方」だ。それは、国民の生活や国の経済に真に責任を持てるものでなければならない。米国の「国のあり方」の転換を横目に見ながら、右に倣うような「国のあり方」の決定が失敗するのは目に見えている。歴史的失敗をくり返すことなく、今の日本の要求に一番合った「国のあり方」は何か、それについて次号で考えてみたい。


 
投稿

「企業の社会的責任」を実現するために

大阪・春野


 前号、「企業は誰のもの」の趣旨は、「企業は社会の公器だから、企業は地域社会、国民生活にも目を向けて社会的責任を果たす新しい日本型企業モデルを追求してもらいたい」でした。それは、今日、「企業の社会的責任」についての声が高まっているなかで、その社会的責任の意味をより明確にしたものだと思います。そのうえで、問題はいかにそれを実現するかだと思います。
 雇用に責任もって取り組む企業もありますが、赤字だといいながら膨大な内部留保に手をつけず派遣切りをおこなっている大企業もあります。今、国や自治体が臨時の雇用対策をしていますが一貫性がありません。労働者にとっては自ら組織し解雇をはねかえす闘いをおこなうとともに、雇用政策そのものを変えていく闘いが問われているのではないかと思います。
 結局、従来のように市場にまかせるのではなく、国家が経済政策や労働法整備、技術習得の機会など雇用対策にたいし責任を負うことだと思います。そのためには企業が国と社会の一員として社会の公器としての責任を果たしていくということが国民的合意にされ、それにもとづき国としてのその理念の確立と政策化が重要だと思います。
 理念の面では国と社会のために企業の存在意義があり繁栄もするというような理念を確立して企業側に広めることです。政策としてたとえば、企業の社会的責任は税金を納めるだけでなく、雇用した労働者の労働権を守るための努力、国が雇用対策機構を作りそれに企業も拠出金を出し、国と企業、労働側が三者一体となって運営するなどがありえます。
 現在、焦眉の問題は雇用問題ですが、それは結局、国の政治にかかっており、そのために雇用問題、ひいては貧困問題、医療福祉、地域活性化など国民生活に責任を負う政治を実現することが重要ではないかと思います。


 
論点1

なぜ今「アジア」なのか

小川 淳


 先月号の「主張」では、その結論部分で「アジアと共に、自主化こそが日本の生きる道」と書いた。
 これに関連して、一人の読者から、「日本の自主化の必要性はわかる。しかし、この国際化の時代になぜアジアなのか。『アジアと共に』と『日本の自主化』の関係が分からない」という質問を受けた。
 なぜ日本はアジアと共に進むべきなのか。なぜアジアでなければならないのか。改めて問われると自分では当然の事のように考えていただけに、意外にも「答え」に窮してしまった。この問題は、そもそも私たちがなぜ「アジア新時代と日本」という研究誌を出しているのかとも関連する。以下、私なりの回答を考えてみたいと思う。
 何よりも近代日本の歴史的教訓からと言えるのではないか。なぜなら明治以降の近代日本は文字通り「脱亜入欧」の歴史を歩み、欧米の帝国主義と同じようにアジアの中でアジアに敵対しながら覇権を争い、ついにはアジア侵略戦争へと突き進む結果となった。
 戦後はどうだろうか。侵略戦争への反省と謝罪を出発点に、絶対平和主義の憲法を柱にした国になることができたら、日本の戦後史もずいぶんと変わったものになったはずだが、そうはならず、日米同盟を機軸に、米軍基地を置き、アジアに敵対しながら対米従属の戦後史を歩んできた。
 これらの日本の近代・戦後史を振り返るとき、アジアとの関係がいかに重要であり決定的であるかを示している。とりわけ「対米従属の戦後史」からの転換が問われている今日、アジアとどのような関係を築くのか(逆に言えば、アメリカとの関係をどう築いていくのか)が、これからの日本という国のあり方を決する試金石となっていく。なぜアジアなのか。それはこのような歴史認識にわれわれが立っているからだ。
 もう一つは、米一極支配の時代の終焉から「多極化の時代」へ、「アジアの新時代」が開けようとしているという時代認識を持っているからだ。 政治、経済、外交をふくめ、21世紀はアジアの時代と言われている。この「アジア新時代」の基本精神とはなんだろうか。
 EUの場合、同じギリシャ文明、キリスト教、ラテン語という文化や歴史、宗教の共通性がある。だから一体になることができた。しかしアジアには共通の歴史も文化も宗教もない。だからアジアが一つになるというのは不可能だ。このような論説をよく見かける。アジアには社会主義国もあれば、イスラム諸国、仏教国もある。豊かな国もあれば貧しい国もある。宗教も民族も国家体制もさまざまで、共通性を見出すのが困難であるのは事実だ。逆に言えば、この文化や歴史の多様性、異質なものが共存する寛容性こそアジアの魅力ではなかろうか。そしてアジアは欧米の侵略を受け苦しんだ歴史を共有している。このようなアジアの実情、歴史的教訓から、「東アジアサミット」では、主権の尊重、内政不干渉、武力行使の放棄などを柱にしたTAC(東南アジア友好協力条約)への加盟を条件としている。このTACの基本精神に象徴されるように、「アジア新時代」の基本精神は反覇権といえるだろう。
 一方、日本近代史、戦後史を通じた教訓とはなにか。アジアの覇権を争った戦前も、米国に従い、その覇権を(政治、経済、軍事的意味において)支え続けてきた戦後も、やはり反覇権ではなかったかと思う。
 今問われている「転換」とは、このような対米従属国家(覇権国家)からの転換であり、だからこそ、多極化・自主化の時代の新しいモデルを創造しつつある「アジア」とともに歩むことが日本にとっては決定的意味を持つと思うのである。


 
論点2

「おくりびと」は素晴らしいが・・・

金子恵美子


 2645人、何の数字かお分かりになるだろうか?
 3月5日に発表された警視庁による1月の自殺者数である。急激な景気の悪化で自殺の増加が懸念されるため、これまで年間の合計として6月に発表してきたものを、今年は月別に発表していくという。2645人ということは、一日平均約85.3人、一時間にしたら約3・5人、約17分に一人の割合で自殺しているということになる。このまま推移していけば今年も間違いなく3万人を超えることになる。これはどのような数字なのだろうか。
 まず、よく比べられる交通事故による死者との比較では5倍以上(2007年の交通事故による死者数は5800人)。「交通戦争」という言葉が言われた1960年代、70代と比べても2倍以上の数値である。次に「イラク戦争」で命を落とした米兵の数と比べて約10倍(2003・3月から2007・5月で3500人)に相当する。この状態が1998年以降11年間続いているわけだから、自殺者の総数はこの11年間で33万人以上となり、自殺未遂は既遂の10倍と言われるので330万人が自殺を図ったことになる。更に、一人の自殺者は周囲の5人〜6人に深刻な心理的影響を与えると言われるので、1600万人以上がその犠牲を受けたことになる。自殺が「見えざる戦争」と呼ばれる所以である。
 主要22カ国との自殺率(人口10万人当たりの自殺者数)比較では、ロシア、ハンガリーに続いて日本は第3位で、アメリカの2倍、イギリスの3倍と先進国中では群を抜いている。(アメリカでは社会的ストレスが原因の一つと考えられる肥満による死亡が多い)主要国の自殺率の長期推移を見ると、第一次世界大戦と二次大戦時には、フランス、ドイツが1位を占めており、戦後の50年代では日本が、80年代以降はハンガリー、そして90年代からはロシアが高い自殺率で世界一位を占めている。これは、社会構造・社会の価値観の激変が自殺率と比例しているということを明示している。
 日本の自殺率は1955年に25・2という高い数値であったものが、その後高度成長期を経て1995年には17・2と減少した。それが、98年に再び25.4、自殺者数も3万1000人と初めて3万人を突破するようになる。その要因として考えられるのは、1997年の「山一證券の破綻」などに象徴される、アメリカファンドによって引き起こされた金融危機、通貨危機による経営破綻、失業者の急増がある。98年の3月=決算期に自殺者数が急増し、その後長引く経済不況、失業率の急増、日本型経営システムの崩壊などにより、各年齢で自殺率が上昇した。特に中高年の自殺率が非常に高いということが日本の特徴で、50代後半の自殺率は71,1とダントツに高い数値を示している。
 そして、今、1997年〜98年以上のアメリカのサブプライムローンに端を発した世界的経済危機が日本に押し寄せている。非正規労働者の失業は80万人にも及ぶと言われている。正規労働者にもその波は及んでいる。決算期であるこの3月、そして今年、どんな数値が出されてくるか恐ろしい気がする。
 自殺で名高い福井の東尋坊の自殺防止取り組みNPO法人「心に響く文集・編集局」の代表は、昨年11月から今年2月までに19人を保護した。これまで、年間20人から30人。異例のハイペース、また元派遣社員などの若者が目立つということを特徴にあげ、80人体制のボランティアで取り組んでいるが、その後のフォローなどに限界を感じると話している。その他、様々なところで自殺防止のための取り組みが始まっている。国もこうした団体や人々による10万名以上の署名などによる働きかけで、2006年に「自殺対策基本法」を成立させているが、小手先の対応ではなく、米国の動向によって左右される国そのもののあり方を根本から見直し、この10年間で30万人以上の国民を自死に追い込んだ政治的責任をしっかり胸に刻み、30万人の命の重さに値する政策をとって欲しい。人間の生と死、仕事への誇り、家族愛を描いた「おくりびと」がアカデミー賞を受賞し、その感動が画面から伝わるほどに、この自殺者3万人という現実が脳裏に浮かぶ。


 
朝鮮・「労働新聞」−月間国際情勢概観

世界の動きから

 


 2月2日、ベネズエラの首都カラカスで「アメリカのためのボリバール対案」(略称・アルバ)成員国首脳者会議が開かれた。会議ではアルバ創設以来、ラテン・アメリカ及びカリブ地域諸国の保健、教育、食糧安全保障、インフラ整備などの分野で成し遂げられた成果が総括され、今後の事業を一層積極的に進める課題が論議された。
 会議ではまた、アルバ成員国の経済的自立を実現するため共同通貨「スクレ」による地域的金融通貨体系を樹立する問題が合意された。これは、この地域諸国内で団結、協力して外部勢力の干渉と支配主義的策動を打破し社会各分野で進歩と発展を成し遂げようとする動きがいっそう強まっていることを示している。
 アフリカを始めとする世界の各大陸と国々にも団結と協調のための事業が活発に展開されている。
 2月1日から4日までエチオピアの首都アジスアベバでは第12回アフリカ同盟首脳者会議が開かれた。「アフリカのインフラ開発」という主題で行われた会議では、大陸の一体化を促進しインフラ開発を進め、同盟機構を強化する問題が討議された。
 その他にも、イランとアラブ首長国連邦が相互の交流と協力を発展させる合意をし、インドネシアとタイは自身の力でマラッカ海峡の安全を保障するために相互協力を強化することを合意した。中国とエクアドルは農業、貿易などの分野で相互協力する協定を結び、キューバとチリは保健、科学技術分野で双務協力関係を発展させる協定を締結した。
 帝国主義者は、この動きをおもしろくなく考えながら自分達の支配主義的目的を達成しようと策動した。
 2月2日、イランが自力で初の人工衛星「オミド」(希望)を「シャピール」ロケットによって打ち上げた。イランの衛星発射は平和的な宇宙開発のための正当なものだ。それにもかかわらず米国をはじめとする西側諸国は、これを弾道ミサイル開発のためのものであると中傷した。
 この2月軍事的な力で他国を制圧しようとする帝国主義者の策動がもっとも悪辣に展開されたのは朝鮮半島だ。
 米国は南朝鮮、日本など朝鮮半島周辺で侵略的武力を引き続き増強しながら「軍事的対峙体制」を唱えている。南朝鮮駐屯米侵略軍司令官は、「即時対応」だ何だと言いながら「米韓連合空軍司令部」を創設し、北進核戦争計画「作戦計画5027」に代る新しい「作戦計画」を完成したと述べた。米国はまた、戦時作戦統帥権が返還されても駐韓米8軍司令部は引き続き南に駐屯すると述べた。
 米国の侵略策動に便乗して海外侵略野望を実現しようとする日本反動の策動も世界の平和と安全を脅かしている。日本防衛省は、ソマリア沖の海賊対策のため自衛艦2隻を派遣しようとしており、武器使用の制限は撤廃されるべきだとまで主張している。
 自主的で繁栄する新社会、新世界建設は帝国主義者との闘争なくして考えることはできない。
 今月、世界の各地で帝国主義侵略勢力を追い出し彼らの策動を挫折させる動きが目についた。
 20日には、キルギスタン大統領が自国にあるマナス米空軍基地を閉鎖する法案を批准した。これによって米軍は180日以内にこの国から撤収しなければならず、大きな打撃となる。
 7日、エクアドル大統領は、米国大使館の一高官がエクアドルを植民地のように対してきたとしながら追放命令を下した。この国の外相は、この追放命令は米国人の傲慢無礼な態度に対する当然の措置だと強調した。
 アフガニスタンでも米軍撤収を求める声が高まり、チェコでも米国の電波探知設備設置計画反対の声が高まっている。
 自主的で平和的な新世界建設のための進歩的人民の闘争を止めることはできない。


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