トヨタ、キャノンなど日本有数の優良企業から解雇され、住も職もなくした派遣労働者らが、東京の中枢ともいえる日比谷公園の一角に作られた「年越し派遣村」に駆け込む姿は、2009年の日本を象徴する光景なのかもしれない。
新自由主義経済が破綻した今、あらためてミッシェル・アルベールの「資本主義対資本主義」という本を読んだが、刺激的で面白かった。
アルベールは資本主義を、日本やドイツのような共同体を重視する「ライン型」と英国やアメリカのような個人を重視する「アングロサクソン型」(新自由主義)に分け、その発生と特徴を詳しく分析している。この本は1996年、いわば新自由主義が最盛期に向かう途上で書かれたものだが、新自由主義に対するその批判の矛先は鋭く、彼は共同体を重視するライン型資本主義の優位性を説く。だが、なぜ新自由主義(アングロサクソン型)がライン型を駆逐しつつあるのか、その人気のありようを次のように分析している。
ライン型は高潔で平等、安定している。一方、新自由主義は不安でストレスに満ちてはいるけれども、一発逆転の魅力がある。だれでもミリオネアになれる。そこが人を夢中にさせるのだと。
つまり動物に例えるとアングロサクソン型は「一匹狼」で、ライン型は「家畜」だ。食べる心配はないが退屈すぎる――。なるほど、日本には「社畜」という言葉があった。「社畜」が嫌であえて「派遣」という形態を選んだ人も多いことだろう。この比喩は当たっていると思う。
新自由主義が破綻した今、これからはライン型の日本型経営の再評価が始まるのは確実だ。だがそれが労働者にとって「社畜」になるのでは日本の未来は暗い。
「社会的企業に脚光」という1月5日の朝日の記事は、もう一つの資本主義の在り方を示していて興味深い。資本主義の在り方が問われる一年となりそうだ。
主張
今日、激動する世界情勢の中心には、米一極支配の崩壊がある。この支配の崩壊をめぐって、世界が動いている。
日本が直面する政治、経済、国民生活における破局的危機も、すぐれてこの激動と連動している。
昨年、2008年度を特徴づけるこの情勢発展の中、新しい年、問われているのは日本の自主化である。それは、世界が多極化、自主化する時代の要求であるとともに、何よりも日本国民自身の切実な生活の要求であり、ひいては日本近現代史に貫かれる歴史的要求でもある。
<米一極支配の崩壊と多極化・自主化元年>
米国発金融恐慌に端を発する世界的大恐慌の歯止めのない広がりと深まりは、今日、誰の目にも米一極支配の崩壊と終焉を印象づけている。
では、この米一極支配が崩壊した世界とはどのような世界なのか。そこにこそ、日本の進路を探る大きな鍵の一つがあるのではないだろうか。
■米一極支配は最終的に崩壊した
米一極支配の崩壊とは、単なる支配のやり方としてのブッシュ路線ではなく、支配そのものの崩壊を意味している。
米一極支配は、よく言われるように、核とドルによる支配だ。すなわち、その圧倒的な核軍事力で世界を威嚇・統制し、世界経済をドルを基軸通貨とし米国経済に隷属・依存するようにしてつくった支配だと言うことだ。今日、この軍事力と経済力による力の支配自体が決定的に立ち行かなくなっている。
世界の軍事予算総額の4割を占める途方もない軍事費に基礎し、3兆ドルの巨費を投入したイラク戦争は、完全に泥沼化し、米軍撤退を余儀なくされており、世界的包囲により核放棄を迫った朝鮮やイランへの攻撃は、自主権尊重の逆包囲により破綻を免れなくなっている。そればかりではない。米国の鼻先でのベネズエラとロシアの共同軍事演習などに対し、なすすべを知らない米国の姿は、米軍事力の限界を世界の面前にさらけ出した。現実は、世界各地に地域統合軍を配置し、イラクなどで反テロ戦争を引き起こして、そこに各国軍隊を引き込みながら、その圧倒的核軍事力による脅しと恐怖で世界を一極支配する時代が過ぎ去ったことを示している。
一方、米国で起きた金融恐慌が一挙に世界的大恐慌に拡大・深化した今回の経済の崩落は、一般的なバブルの崩壊とは異なり、米一極支配経済それ自体の崩壊として決定的意味を持っている。それは、今回の恐慌が、米一極支配経済を支えた二本の柱、即ち、新自由主義経済とドル基軸通貨制に基礎した帝国循環経済自体の矛盾の爆発によって生じたものであるところに現れている。
米国を国の上の国とする米一極支配経済は、経済に対する国家の介入、あらゆる国家的保護と規制を否定し、すべてを弱肉強食の自由競争にゆだねた新自由主義経済であり、基軸通貨国、米国への各国の輸出を世界経済循環の大動脈とする帝国循環経済だと言うことができる。この新自由主義経済には、社会の二極化に伴う富裕層の金余りと貧困層の消費の停滞、それによる過剰金融の発生が付き物であり、帝国循環経済には、米国の世界最大の債務国への転落とそのファイナンスのための基軸通貨ドル散布による過剰流動性の発生が必然である。この過剰金融、過剰流動性が、行き場を失ったマネーの投機市場への大量流入とそれによる経済の投機化を生み出し、それが穀物・資源価格の暴騰、そしてサブプライムローン問題の発生とそれによる今回の金融恐慌の大爆発を生み出したのだ。この金融恐慌が米経常収支赤字の膨大な累積の上に成り立ってきた帝国循環経済の矛盾と結びついて、米新自由主義経済に組み込まれ、対米輸出に依存してきた新興国経済を破綻させて、世界大恐慌を引き起こしていっている様は、米一極支配経済崩壊の実相をまざまざと見せている。
核軍事力による脅しが効かなくなり、新自由主義による世界経済の米国経済のもとへの融合とドル支配ができなくなった今日、米一極支配は最終的に崩壊したと言うことができるだろう。
■多極化・自主化元年とは何を意味するか
当然のことながら、米一極支配の崩壊は、同時に次の新しい時代への移行を意味している。では、すでに進行を開始している新しい時代とは一体どのような時代なのだろうか。
ここで重要なのは、米一極支配の崩壊がなにか独りでにできた自然現象ではないということだ。その背景には、一極化か多極化か、帝国化か自主化かの激しい攻防があったし、今も続いているということだ。すなわち、米一極支配の崩壊はこの闘いの結果に他ならない。
事実、イラク、アフガン戦争、朝鮮、イランの対米抗争を見るまでもなく、米軍事支配崩壊の裏には、無数の血と汗が流されている。経済支配の崩壊も同様だ。その背後には、米一極経済の支配に抗する、EUや東アジア共同体、南米諸国連合、上海協力機構など経済多極化をめざす闘いがあった。ドル支配に抗するユーロなど地域共通通貨実現のための闘い一つとってみても、それがいかに熾烈に続けられてきたか計り知れない。まさに ここから、米一極支配の崩壊は、即ち、世界の多極化だとする見解が一般的になっている。
その上で問題は、この「多極化」の意味である。それが複数の大国を極とする「覇権多極化」や大国による勢力圏抗争である「ブロック化」、あるいは、世界の権力の無限の分散としての「無極化」などとして捉えられる場合が少なくないということだ。
だが、こうした議論を見ていて明らかなのは、これらが多極世界形成の歴史的事実に反しているということだ。押さえるべきなのは、多極世界が米一極支配に抗し、各国が自らの主権、自主権を守るため、各地域共同体に結束して形成されてきたという事実だ。実際、主権尊重のバンドン精神を掲げるASEAN(東南アジア諸国連合)主導の東アジア共同体の形成、反米自主で結束した南米諸国連合の形成などはその端的な例証だ。国家主権否定のグローバリズム的色彩の強いEUにあっても、主権放棄には国民の反対が広がっている。歴史的事実は何を教えてくれているか。それは、多極世界が反覇権・主権尊重の地域共同体の連合として登場し、米一極支配を突き崩しながら、今や多極化・自主化世界として、その支配的な地位を獲得したということだ。
この多極化・自主化元年は、もちろん、多極化か一極化か、自主化か帝国化かの攻防の終結を意味していない。それどころか闘いは、多極化・自主化世界の拡大・強化、一極化・帝国化勢力の反攻など、今後、新しいより高い段階の攻防として一層激烈に展開されて行くことだろう。
金融恐慌、世界大恐慌の深まりの中、多極世界独自の国際通貨基金構想実現への動き、中国など多極世界諸国の内需主導経済への転換や欧米多国籍企業への規制・統制の強化、そして多極世界相互間の経済協力、軍事協力など、世界の多極化・自主化への動きはかつてなく急を告げている。
一方、オバマ新政権が250万の雇用を創出する公共事業計画、環境問題と経済活性化を結び付ける「グリーン・ニューディール」や医療改革など社会保障制度の見直しなどとともに、国際協調によるアフガン・反テロ戦争への1万人増派をいち早く決めたのも、また、新政権周辺で、G20など大国中心の「覇権多極化」の見地から、あくまで米国主導の「多極型世界政府案」が出されているのも、すべて、内政干渉を容認する米一極支配の建て直しをはかる彼らの企図の現れである。
この激烈な時代発展の渦中にあって、日本はその進路をどうするか切実に求められている。
<アジアと共に、自主化こそが日本の生きる道>
多極化・自主化元年の幕開けとともに問われる日本の進路、それはすぐれて日本国民自身、日本自身の要求の中にある。
■日本の破局的危機をどうとらえるか
米一極支配が崩壊する中、日本は、今、破局的危機に直面している。連日報道される解雇の情報、真っ先に派遣労働者の首切りに走る自動車業界など大手企業、職も住居も失い途方に暮れる派遣労働者、何とか住む所だけはと住居の斡旋に走り回る地方自治体、だがそれも1カ月の期限付きだ。その間に職を得る展望は限りなく暗い。よい職場が見つかっても、そこまで面接に行く金がない。今、一説によると、一気に数十万のホームレス「難民」が生まれるとまで言われている。
米国発金融恐慌が起こったとき、日本経済が陥ることになる危機をここまで深刻に見た人がどれだけいただろうか。株価大暴落など日本金融市場の破綻、それに伴う信用収縮、そして外需激減、うち続く円高、それによる製造業などの経営難、中小零細業の大量倒産、大企業の工場閉鎖、建設投資、設備投資の中断、それによって生ずる失業激増と内需の縮小、等々、負の連鎖は留まるところを知らない。「最悪の事態が実は最悪ではなく、さらに悪化し続けた」(ガルブレイス)のが1929年大恐慌と他のバブル崩壊との違いだと言われる。まさにそれが今回の経済危機の「大恐慌」たる由縁だろう。
破局的な危機は経済だけではない。政治もかつてない危機に陥っている。それは、一言でいって、新自由主義の「小さな政府」が一国の政権としての責任能力を喪失してしまっているところにある。1年間に2度も2代にわたり首相が政権を放り出しながら、解散・総選挙を行わず、3代目も20%を切る支持率で政権に居座り続けていることなどは、その端的な例証だと言える。
だが、今日、その無責任の最たるものは、米一極支配の崩壊という未曽有の事態に直面しながら、なんらの根本的な路線転換も提示しえず、「日米基軸」を金科玉条に、対症療法的景気対策に終始しているところにある。まさにここに日本のもっとも深刻な破局的危機があるのではないだろうか。
今の日本には国家戦略というものがない。それは、わが国が米国を国の上の国として認め、米一極支配のもとに甘んじる「日米基軸」という名の対米従属路線をとっているからに他ならない。この間の新自由主義構造改革路線が米国からの「年次改革要望書」に従って遂行されて来たこと、自衛隊の再編が米軍再編の一環として行われていることは、そのことをよく示している。米一極支配が崩壊した今日、あらゆる危機の根源にこの問題があるのは余りにも明白だ。
■問われる日本自主化の新しい進路
今日、わが国にあってもっとも問われているのは、政府を自らの国家戦略を持つ「責任ある政府」、「自主化政権」に換えることだ。
その上で重要なのは、この政権に何がどのように求められているかである。
破局的危機にある今の日本にあって、もっとも矛盾を集中されているのは、派遣労働者、非正規労働者だ。この危機の中で彼らは、真っ先に首を切られ、職場も、住む家も、食べる物もなくなり、生きること自体が難しくなっている。「派遣労働者を使い捨てるな」「派遣労働者はモノじゃない」「ホームレスにしないでくれ」「生活できる賃金を払え」、雇用を求め、貧困に反対して立ち上がった彼らのスローガンは、人間らしい生活、尊厳を求めた切迫したものだ。
「ワーキングプア」は、派遣労働者だけではない。今日、「食べられない貧困」「関係性の貧困」(部品として、商品として使い捨てられる貧困)は、非正規も正規も同じだ。事実、集会での共闘など、人間らしい生活を求めて、非正規、正規のつながりが急速に強まっている。
人間らしい最低の生活、尊厳への要求、つながり、絆への要求は、中小零細業者、自営業者にも広がっていく。危機の中、路頭に放り出されるのは、彼らも同じなのだ。
新自由主義では生きて行けない。今日、それは、派遣労働者だけでなく、大多数日本国民共通の認識になってきている。雇用を求める闘い、反貧困の闘いの急速な広がりと高揚は、日本国民が新自由主義経済を柱とする米一極経済支配自体を拒否し否定している証左なのではないだろうか。
反テロ戦争をこととし、その泥沼化に陥っている米一極の軍事支配に対しても同様だ。米軍再編にそい憲法9条の改定を執拗にもくろむ改憲策動にも関わらず、数ある世論調査のいずれでも、9条改憲反対が常に過半数を占めているという事実、米軍再編に伴う基地再編問題が沖縄や岩国など至るところで問題となり、経済的利益での絞め上げと誘引なしに解決できなくなっている事実、等々がこの米軍事支配への日本国民の拒否と反対の意思を示しているのではないだろうか。今後予想されるオバマ新政権によるアフガン戦争への日本の動員にどう対するか、そこに日本国民の意思が鮮明に映し出されるに相違ない。
米一極支配の経済と軍事への日本国民の反対は、米一極支配そのものへの反対であり、それはとりもなおさず、多極化・自主化元年にあって、多極化・自主化の世界とともに進む要求と当然のことながら重なってくる。
そこで問題の一つは、多極化・自主化の経済とはどのような経済かということだ。それを知るのに重要なのは、米一極支配経済の深刻な教訓だ。
それは第一に、国家の保護と規制を否定し、弱肉強食の自由競争にまかせる新自由主義経済が社会の二極化を生み出し、派遣労働者をはじめ膨大な貧困層の人間らしい生活、人間としての尊厳を踏みにじるばかりか、経済の投機化とそれによる崩壊をもたらすということであり、第二に、米国を国の上の国とし、米国の通貨を世界の基軸通貨として、米国への輸出に依存して世界の経済を循環させる経済が米国を世界最大の債務国とし、各国経済を外需依存経済にしながら、世界経済の不均衡化を促進する一方、米国通貨の過剰流動性を生み出し、経済投機化のもう一つの要因をつくり出し、それが不均衡化と相まって世界大恐慌と米国通貨の価値低落をもたらすということだ。
多極化・自主化の経済には、この教訓が活かされねばならない。なによりもまず、国家による保護と規制を否定してはならない。ただし、その保護と規制は、ケインズ主義のように、上からの、大企業中心のものであってはならない。それが不況下のインフレ、スタグフレーションを引き起こすのは歴史の教訓だ。国家による保護と規制、それはあくまで国民を中心とし主体とするものでなければならない。国民中心、国民主体の国家戦略的一大公共事業の推進、地域循環型経済の構築、基礎的自治体を単位とする住民参加の福祉、医療、等々だ。次に、アジア共通通貨の実現など基軸通貨の多極化を促進しながら、各国が国民所得の引き上げ、地域の活性化など、経済の内需主導への転換をはかる一方、自らの地域共同体との相互協力を強め、それに基礎して世界との交易、協力を全方位で推進して行くのが重要だ。日本国民の要求を反映した経済、日本自主化経済構築の方向もこの辺りから出てくるのではないだろうか。
次に、問題のもう一つは、多極化・自主化の軍事についてだ。この問題についても、米一極支配軍事の教訓が重要だ。
米一極支配による反テロ戦争の教訓は、一言でいって、他国の内政に干渉し自主権を蹂躙する覇権主義がまかり通った時代は過ぎ去ったということだ。イラク、アフガン戦争の現実は、それを物語って余りあるだろう。
多極化・自主化の世界は、覇権主義に反対する主権尊重のための世界だ。ASEANが主導する東アジア共同体は、不戦共同体としての発展をめざしており、その基礎には、「噛む」安保から「吠える」安保への転換と言われるTAC(東南アジア友好条約)とARF(ASEAN地域フォーラム)がある。
日本がこの東アジア共同体の成員として、多極化・自主化世界と合流していく上で決定的に重要なのは、アジア侵略戦争、ひいては日本近代史の深刻な総括として、覇権放棄、不戦の道をアジアと世界の前に宣言した憲法9条の立場を堅持することに他ならない。そして、それこそが日本国民自身がもっとも切実に要求する日本自主化の軍事のあり方だと言えるだろう。
■日本近現代史の歴史的課題としての自主化
米一極支配崩壊の現実の中で、自主化は、日本国民と日本自身の切実な要求として提起されてきている。だが、重要なことは、日本の自主化が今はじめて提起されたものではないということだ。欧米への隷属に抗し、日本の主権、自主権を守るための闘いは、「黒船来襲」以来、日本の近現代史を通じ一貫して続けられてきた。
あの「攘夷」か「開国」かの日本の主権を守る方法論をめぐっての闘いの後、日本は「脱亜入欧路線」をとることになる。アジアと力を合わせて欧米に対抗するのではなく、欧米の仲間に入れてもらって、アジアに覇をとなえる路線をとったのだ。その根底には、アジアを盟友とするに足りないと見た「アジア悪友」論があった。
この対欧米屈従の「脱亜入欧路線」からの脱却は、奇しくも、1929年大恐慌以来の「西洋の没落」の中で、「近代の超克」、アジア主義を掲げてはかられた。だが、この路線がもたらしたものは何であったか。それは、15年に及ぶアジアに対するあの恥ずべき侵略戦争であり、その歴史的大敗北だった。日本をアジアの指導者とし、その中心に据えた覇権主義であったこの路線の教訓は、今まさに問われているのではないだろうか。
明治以来の覇権路線を克服する最大の好機、それは、アジアに惨敗を被った敗戦のあの時だった。だが、その絶好の機会は失われた。敗戦の原因は米国を敵に回したところに求められ、それ以降60有余年にわたる対米従属路線が敷かれたのだ。
この日本の近現代史の歴史的教訓は何を教えてくれているか。それは、アジアと共に進む、反覇権・自主化の道、ここにこそ日本の生きる道があるということである。その大きな可能性が今広々と開けている。禍を福に、難局を好機に換える能動的で積極的な闘いが今切実に問われているのではないだろうか。
主張では「一極支配の終焉」という視点から、時代の転換を分析している。ここではそれを補足する形で「自民党時代の終焉」という視点から時代の転換をとらえ返してみたい。
■「一つの時代」の終焉
福田政権の唐突な辞任にともなう麻生政権の誕生は、政権交代によって生まれた一時的な高支持率の下で総選挙を実施し衆院での過半数を維持し、何としてでも自公政権を維持する―というものであったのだが、政権発足後わずか2カ月で支持率は20%を切り、福田政権末期のそれさえ下回った。
それまでの自民党の政権交代劇では、大きな失策やスキャンダル(漢字の誤読はあったが)もなくこれほど急速に支持率を落とした政権の例はなく、予想外の展開となっている。
100年に一度の経済危機という外圧の中で、支持率回復の起死回生策として打ち出した「定額給付金」がまったく国民の支持を受けていない。逆に反発を食うという事態も、今までになかった現象だ。
「朝日」の世論調査でも71%が「景気対策として有効でない」と見なし、読売でも「支給をやめて雇用や社会保障に使うべき」が78%を占める。「2兆円もの巨費を投じ、国民一人一人に現金を配るというアイデアがこれほど不評なのは、政策自体の是非というより、この政権そのものへの不信の表れと見るべきだろう」と、朝日社説は分析している。
自民党の誤算は麻生政権に運命を託したからでもなく、麻生の経済政策が他の政権に比べて拙かったからでもなく、麻生に代わる有力な政治家が払底しているからでもない。自民党の危機は、麻生政権の不人気にあるのではなく、自民党政治そのものがすでに国民から見放されてしまったことにある。
この自民党政治への国民の不信、自民党離れはおそらく一時的なものではなくて、戦後半世紀を経て、もはや自民党政治そのものの役割、存在理由がなくなったことと関連していると言えるだろう。そう分析する識者も多い。
いま日本は、「戦後」という一つの時代の終わり、質的な転換点に差し掛かっている。自民党への不信は、単なる一時的な首相個人のキャラクターに左右される、ポピュリズム・レベルの問題ではなくなった。「一つの時代の終焉」という歴史的スパンで見る必要がありそうだ。
■戦後を貫く「二つの神話」
戦後を「一つの時代」として括るとき、戦後一貫して貫かれてきたパラダイムというものがある。そのひとつは憲法よりも何よりも「日米安保体制堅持」を至上とする日本に特殊な政治の在り方であるだろう。
戦後の日本には二つの法体系があったといわれる。一つは平和憲法を柱にした国の在り方であり、もう一つは日米安保を柱にした国の在り方である。自民党政治は言うまでもなく後者を選択することで憲法の持つ平和主義や基本的人権は一貫して空洞化が図られてきた。
この姿勢がいまなお一貫して継続されていることは、沖縄の民意を無視した米軍基地の強要や、違憲判決が下されたイラクへの自衛隊の派兵、インド洋での自衛艦船による給油活動の強行などを見ても明らかだ。米国のイラク開戦の大義が疑問視され、米一極支配の崩壊が決定的となったいま、なんのためのイラク派兵であり、沖縄、岩国などの在日米軍基地の強化なのか、その大義名分が改めて問われることになるだろう。
この路線の下で戦後の日本が失ったものは少なくない。平和憲法の空洞化による戦争責任のあいまい化と中国、韓国などアジア諸国との軋轢。戦後一貫して米軍基地に苦しまされてきた基地の人々、在日米軍の大部分が集中する沖縄はその象徴だ。君が代や日の丸の強要など教育の反動化。この安保至上路線、言い換えるならアメリカという国を絶対視し、アメリカにつき従っていれば大丈夫とする「アメリカ神話」こそが、日本という国をダメな国にした「元凶」ではなかったか。
もう一つは「経済成長主義」といわれる経済政策だ。これを「成長神話」と呼んでも良い。これも日本独特のものだ。自民党政治の最大の成果はこの戦後の経済成長だったと言われる場合が多いが、正しいのだろうか。経済成長を担ってきたのは文字通り現場で汗して働いてきた技術者や労働者たちであって政治の力であったわけではない。
戦後の経済成長路線はさまざまな社会的歪や犠牲を伴ってきた。高度成長という「輝かしい成果」の陰で生み落された社会の歪−例えば水俣などに象徴される公害を防ぎ、その犠牲者を救済するために政府は何をしてきたのか。農村や地域の疲弊、海や川などの取り返しのつかない国土の破壊をどう守ってきたのか。企業や市場の横暴から弱者を守るべき「公」の役割を自民党政治が果たしてきたとは思えない。
今日の新自由主義路線もまた、際限なき生産拡大路線をとり、一方では国家としての責任を放棄して市場に任せ、企業の競争力第一にやってきた。その結果が、今日の派遣切りや格差・貧困問題ではなかったか。過剰な消費、欲望に基礎した経済はもはや限界と言えるのではないだろうか。
■「冷たい政治」
人間に対する「冷たさ」、政治の「冷たさ」、これも戦後という時代の、もう一つの特徴ではなかろうか。
それは、戦後の日本社会が積み残したもの、例えば、沖縄であり、在日、アイヌであり、女性、老人、地域、農民、零細企業、派遣労働者などなど、社会の弱者に対する視線、政治の「冷たさ」のことである。
沖縄、在日、アイヌ問題は、何一つ解決されぬまま半世紀が過ぎた。「放置」という生ぬるいものではなく、自民党はこれらを問題視する人々と鋭く対立し弾圧さえしてきた。これらの弱者への「冷たさ」というものは、例えば沖縄の問題のように安保至上路線と密接に関連していることがわかる。言い換えるなら、このアメリカ神話、成長神話が、自民党政治の「冷たさ」を生んできたと言えなくもない。
「アメリカ神話」と「成長神話」と「冷たい政治」の「三位一体」こそが、自民党政治の骨格ではなかったかと思う。
■政治の原点に立ち返るとき
日本の政治にとってまず必要なことは、「政治とは何か」「誰のための政治なのか」という、もっともシンプルで根本的な問いではなかろうか。いわば政治の原点である。
日本政治に決定的に欠けていたもの、人々の苦しみや悲しみ、辛さに心を寄せる、暖かさ、「政治の温もり」こそ、いまの日本に切実に求められているのではないだろうか。
日本社会が資本主義社会である以上、必ず社会的弱者は存在する。社会のひずみは避けられない。彼らに手を差し伸べなければならないのが政治である。
国際情勢から日本の変革を考える大局的視点が必要なことは言うまでもない。しかし自民党は「国際社会の要求」という「外圧」を利用して、規制緩和や自衛隊の派兵にしばしば悪用してきた経緯がある。これら「外圧」を跳ね返すためにも、弱者の視点が重要となる。大局的見方と共に弱者に心を寄せ、弱者の視点から、下から政治を組み立てていく手法こそ、政治の原点、出発点ではなかろうか。
自民党政治からの転換というとき、真っ先に日本がすべきことは、自民党が放置し戦後の日本が積み残してきた諸課題、沖縄、在日、アイヌであり、アジアとの真の和解であり、「戦後の清算」であるだろう。
そしてアメリカとの従属的関係を清算し、文字通り「離米」でも「反米」でもなく、「対等な関係」へと変えていくべきだ。
経済的には、きちんとした経済対策を早急に立て、ここでも貧困層への手厚い保護と自立支援を基本にしたセーフテーネットをつくり、社会保障を充実させ、医療、保健、介護、教育など人々の安心できる生活環境を築きあげることである。
私がここで述べていることは日本の進路をどうするかという問題ではなくて、新しい政治の出発点、そのベースの部分に過ぎない。ベースとはいえ、これらの施策をきちんとやるだけでも日本は劇的に変わるはずのものと確信している。
今年はまさしく総選挙の年、政治の年である。戦後の転換点、地殻変動の年にしたいものである。
■ラテンアメリカ共同体形成に支障と共に機会を与える金融危機
金融危機は、貿易や債務問題で紛争が増え、地域の金融協力が挫折するなど、ラテンアメリカの共同体形成に否定的影響を与えている。
この地域の対外貿易では、原油、鉱山資源、農産物など一次産業がしめる比重が非常に大きい。この数ヶ月間での一次産品価格の暴落によって、各国の輸出は深刻な打撃を受け財政収入が急減した。また、一部の国の貨幣の暴落によって、地域の貨幣市場の均衡と貿易均衡が破壊された。そのため、保護貿易による貿易摩擦も激化した。
金融危機は、債務紛争も激化させた。例えば、エクアドルはブラジルに一部の債権は不法なものだと宣布し支払いを滞らせている。ブラジルはエクアドルの行動が他の国にも及ぶのではないかと憂慮している。一昨年12月、ブラジルなど7カ国は「南方銀行創設」を宣布したが、その合意に基づき、7カ国は銀行運営資金として100億$を共同出資し、200億$にまで増額する計画であった。しかし、わずか1年で世界経済および金融情勢が急変し、諸国は資金不足に陥いり、南方銀行に資金を出す余裕もなくなった。
しかし、こうした反面で、金融危機は、ラテンアメリカ諸国の地域的な共同体形成の重要性、切迫さを認識させている。
米国や欧州の市場が狭まった結果、地域内で市場を開拓することが危機解消の重要な方途になる。大部分のラテンアメリカ諸国では国内市場は比較的小さい。たとえ、国民の所得を上げ購買を奨励する措置をとったとしても経済を立て直すのは難しい。そこで、多くの国は、この地域の貿易自由化を促進し、地域内の貿易を拡大することで地域全体の経済成長を推し進めようとしている。
「南方銀行」についても、一時熱がさめた感のあった南アメリカ諸国だが、この地域的な金融機構は危機に対して非常に効果的で重要な役割を果たすという認識を深めつつある。
金融危機を契機に、地域共同体を強化して危機を共同で克服する中で、この地域は世界の経済構図で有利な地位を占めるようになるだろう。
■ASEAN憲章発効
ASEAN諸国が創設40年後にして初めて、これまで何回も討議されたが合意を見なかった統一的な憲章をもつようになった。ASEAN憲章は12月15日にASEANの本部があるインドネシアの首都ジャカルタで発効した。
ASEAN憲章は、各国の自主権尊重を基本とした諸原則を確認しながら、民主主義と法治、人権尊重、人権機構設立などの内容も含んでいる。
憲章は、その他、東南アジアを2015年まで に自由貿易地帯に転換することを目標としており、核兵器を始め大量破壊兵器を全面禁止している。
■ラテンアメリカとカリブ海諸国の首脳会議
12月16日、ブラジルで南米共同市場の首脳者会談が行われた。ここには、カリブ海諸国や南米国家同盟、リオグループなどに属する33カ国の首脳が参加した。ラテンアメリカ諸国とカリブ海諸国が一堂に会したのは史上初めての出来事である。 ベネズエラ大統領チャベスは「これまで、米国はラテンアメリカで自分勝手に振舞ってきたが、そういう時代は過ぎ去った」と述べた。閉幕演説で、ブラジルのルラ大統領は、現金融危機について言及し、「この危機は、われわれが望む形態の経済を再考慮すべきチャンス」だと述べた。彼はまた、国際通貨基金、世界銀行などの国際金融機関の改革を呼びかけた。
会議で採択されたサルバドル宣言は、ラテンアメリカとカリブ海地域を統合するため、現存の諸地域機構の間で会合を進め、相互作用、共同作用を強化することを呼びかけた。
Copyright © 2003-2011 Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.
|