研究誌 「アジア新時代と日本」

第63号 2008/9/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

情勢 福田退陣、問われる新自由主義からの転換

研究 多極化か「無極化」か、時代の発展を問う

満蒙開拓史実 シンポジウム・「満州の終焉史と松花部隊の活躍」に参加して

時評 韓国、朝鮮側から見た「独島(竹島)問題」

世界の動きから



 
 

編集部より

小川淳


 「史上空前の景気拡大期」という言葉がつい昨日のことのように思える。「大不況時代到来―あなたは生き残れるか」(中央公論10月号)というほど、「時代の景色」はガラリと変わってしまった。
 「経済白書」(平成20年版)によると、2001年から05年にかけて従業員給与は5.8%のマイナス。一方で、資本金10億円以上の企業では経常利益率が上昇し、01年に5%だった配当率が06年には20.2%へと跳ね上がっている。80年代以降、非正規雇用者は増え続け、08年にはついに全勤労者の34%(1727万人)となった。この賃金の低下と大企業経常利益の増大が、非正規労働者の増大と一体であることは自明だろう。
 皮肉なことに、この格差拡大と貧困の広がりが国内の消費を委縮させている。自動車が売れない、マンションが売れない、耐久消費財が売れない。労働者におカネが回らなければモノが売れなくなるのは当たり前である。
 国民の貧困化による消費の低迷とデフレ、他方で資本の過剰な蓄積と投機化、それにともなう資源の高騰。この貧困化と富裕層形成という二極化、そしてデフレとバブルの共存という矛盾したいびつな経済構造こそ新自由主義経済のメダルの両輪に他ならない。
 抑えられた賃金は富裕層に流れ、そのカネはマネーゲームに、巨大な余剰資金となって石油や食料への投機へと流れている。それが生活消費財の高騰を生み、労働者を消費から遠ざけ、モノはますます売れなくなる。生きることも、結婚、子育てもままならないワーキングプアが巷に溢れている。
 一人ひとりの労働者が誇りを持って仕事をし、子供を産み育てることのできる人間らしい労働環境を築くこと。これから政局は総選挙へと向かうが、どの政党が政権をとるにせよ、まずはこの「格差と貧困」を解消しない限り、景気の回復も日本の再生もない。秋の政局に注目したい。


 
情勢

福田退陣、問われる新自由主義からの転換

編集部


■「安心実現」
 福田首相が突然辞任したが、8月1日、新内閣が発足した時、前首相は、この内閣について、「一言でいえば安心実現内閣です」と述べた。
 同じ1日、事務方に督促して一ヶ月余りでまとめたという「五つの安心プラン」が発表された。そこでは、「高齢者対策」「医師不足対策」「子育て支援」「非正規雇用対策」「厚労省改革」など五つの分野にわたって150項目の施策を列挙し来年度3300億円程度の特別予算を組むとした。
 その後、与党内では、それでは少なすぎる2〜3兆円規模の「大型補正」を出せという声もあがり、定額減税、中小企業支援、高速道路の夜間料金の値下げ、小麦輸入価格の圧縮などが盛り込まれた「総合経済対策」が発表された。
 生活と景気への安心対策、それを示さなくては、来るべき総選挙で勝つことはできない。まさに、自民党政権の「安心実現」政策は、そのためのものであることは衆目の一致するところである。
 実際、今日、日本国民の不安はいやがうえにも増している。社会が二極化し、地方・地域は崩壊し、不安定雇用が増大しているのに福祉は削られた。こうして国民の生活苦が増す中、米国のサブプライムローン問題に端を発した世界的な景気後退、さらには米国金融の投機による原油高騰、資源、食料の高騰が日本経済を直撃し、回復するかに見えた景気も一挙に冷え込み、不況と物価高(インフレ)が同時に起きるスタグフレーションが現出しつつある。
 不安に「安心実現」をもって応えること自体はよい。問題は、人々の不安を生み出したこれまでの自分の政治への反省、謝罪の言葉が一つもないことだ。

■まさに、「新自由主義の破綻」
 「安心実現」を打ち出さざるをえないところに自民党政権がこの間行ってきた構造改革路線=新自由主義改革の破綻が示されている。
 それはまず、「安心実現内閣」を打ち出したこと自体に示されている。
 元々、新自由主義改革は「すべてを市場に任せよ」として、「小さな政府」を言い、国の保護や介入、責任を否定するものであった。しかるに自民党政権は「安心実現」のために国の関与を打ち出さざるをえなかったのである。
 次に、それは「安心実現内閣」の具体的な政策一つ一つ皆が新自由主義に反しているところに示されている。
 「五つの安心プラン」では、高齢者保護、医師不足解消に国家が乗り出し、子育てを支援し、非正規雇用問題でも国家的対策を立てるということだ。それは福祉・社会保障も市場に任せて国家が口を出すべきではないとする新自由主義に反する。
 「総合経済対策」では、定額減税は国民皆による税負担を標榜する新自由主義に反し特に低所得者への支援となる。小麦価格の圧縮もそのためには国家支援が必要だ。高速道路の夜間通行料金の値下げもガソリン高騰に対する国の支援策である。中小企業への支援もそうであり、これらも新自由主義に反する。こうした新自由主義に反する施策を打ち出さざるを得なくなっていること自体、「新自由主義改革の破綻」を示している。
 次に、ますます深刻化する今日の「不安」自体が新自由主義改革によって生み出されたものだということだ。
 新自由主義改革では、経済に対する国の指導、保護、援助、統制などを否定し、国民生活についても自助努力・自己責任の名の下に福祉を削減し、医療・保健、教育などの社会施策も市場に任せた。
 その結果どうなったのか。社会は二極化し、地方・地域は崩壊し、非正規雇用が増大し、医療や教育は荒廃し、国民生活はひどい状況に陥った。「2割の人が年収200万円以下」「一生結婚できない正社員」「食費1万円台の4人家族」「ゴミを奪い合う年金老人」「援交子育てママ」「犯罪から抜けられない闇職系若者」「『住民票は山谷』のワーキングプア」(宝島新書「貧困大国ニッポン」から)…。さらには、連続する「通り魔事件」や犯罪増加、年間3万人もの自殺など、「心の崩壊」といわれる症例の数々。日本ばかりではない、今や新自由主義の破綻は世界的範囲で一つの常識になっている。

■問われる根本的転換
 新自由主義の破綻が明確となった今、問われているのは、新自由主義・構造改革路線からの根本的転換だ。しかし、自民党も民主党も「安心実現」「国民生活第一」を呼号しながら、これまでの新自由主義改革路線の破綻には言及せず、路線の根本的転換を言おうとはしていない。
 なぜだろうか。自民党の場合、新自由主義・構造改革路線の破産、その根本的転換を言うことは自らの失政を認めることになるからであり、さらには彼ら自身、それを乗り越える政策を持ち合わせていないからに他ならない。残念ながら、彼らが神のごとく慕う米国からも新自由主義に代る新しい路線は打ち出されていない。根本的治療がないままの対症療法は問題を先送りさせるだけであり、一層深刻化させるだけだ。事実、そのバラマキ政策では財政規律が問題になり、このままカネをばら撒けば、累積赤字は800兆円を越すのは確実で、そのつけはまた、国民の肩にのしかかかることになる。
 民主党も、元来「新自由主義改革は、様々なしがらみのある自民党では徹底できない。我々の方がよくやれる」という立場であり、彼らに新自由主義改革の根本的転換を期待することはできない。
 今もっとも切実に求められているもの、それは新自由主義構造改革路線に代る新しい路線だ。

■転換のカギは何か
 経済を立て直し、国民生活を危機から救う、新しい路線を打ち立てていくうえでカギとなるのは何であろうか。第一にそれは、国が経済と国民生活に責任をもつ原則をしっかり打ち立てることだ。すなわち、「小さな政府」ではなく、経済と生活に責任をもつ「責任ある政府」の確立だ。
 新自由主義改革とは一言でいえば、「市場に全てを任せよ」ということであり、「国の責任」を否定するものだ。それでいいのか、国は何もやらなくていいのか、「小さな政府」でいいのか。この問題こそ、新自由主義の根幹をなすものだ。それゆえ、経済や国民生活に、「国は責任をもたねばならない」とすることこそ「新自由主義改革の根本的転換」において決定的なカギとなる。このことをはっきりさせた上で、そのために国はどうするのかを考え政策化することだ。例えば、投機に対する国の介入・統制である。この間、外国ファンドが日本企業を投機の対象にしてきたが、そういう横暴を野放しにすべきではない。EUでも企業買収は域内企業しかできないなどの制限を設けているし必要とあらば国家が介入する権利を有する。投機を制限し調整できるのは国家だけなのだ。
 地方・地域、中小企業、農業などへの保護や産業育成にも、もっと国家が乗り出すべきである。弱肉強食の競争原理にさらすだけでは、地方・地域が衰退し、中小企業や農業がやっていけなくなるのは当然である。この間、それが証明された。
 第二には、主権を立てることである。
 それは上に述べた、国家が経済と国民生活に責任をもつ上でも決定的に重要なことである。
 そもそも新自由主義改革は、米国に押し付けられたものである。1991年の日米構造協議以来、米国はその改革の遂行状況を「対日要望書」などで点検督促してきた。日本は米国を恐れその言いなりにやってきた。その結果、上に見たように、ファンドの暗躍に何の制限もしていないのは日本だけということになり、農業でも日本だけが国家的支援を行っておらず、これが食糧自給率40%を切るという数字にも現れている。
 今はそういう時代ではない。米国がその一極支配のため経済面で「世界の自由市場化」を図るWTOの各ラウンド(交渉の場)は失敗を重ね、今回のドーハ・ラウンドも失敗した。そこでは、農産物の関税撤廃に反対する第三世界諸国の要求を代弁する形でインド、中国、ブラジルが強硬に反対した。世界の国ぐには、「新自由主義の破綻」という現実を前に米国離れ=新自由主義離れを始めている。その基本方向は東アジア共同体構想に見られるように、各国が主権を堅持しながら地域で互いに協力して経済発展をはかり、そのことによって自国の政治的自主、経済的自立をさらに強めようとする方向だ。日本は、この流れに合流するのか、それとも旧態依然として米国の言いなりになり米国一辺倒で新自由主義・構造改革路線にしがみついていくのか、それが問われているということである。


 
研究

多極化か「無極化」か、時代の発展を問う

小西隆裕


 今日、世界の一極化か多極化かの攻防は、米一極支配の矛盾の深まりとともに、ますますその激しさを増してきている。そうした中、最近、「無極化」なる言葉が生まれてきた。世界は、一極化、多極化どころか、それらを通り越して「無極化」の時代を迎えているというのだ。ここでいう「無極」とは何か。多極とは。そして現実の多極化が持つ歴史的意義は何か。これらの考察を通して、今問われている歴史の進歩、時代の発展について考えてみたい。

■打ち出された「無極時代」
 「米一極時代」の揺らぎの深まりは、人々の時代発展への関心を高めずにはおかない。「一極時代」は終わったのか。まだまだ続くのか。今日、その存在感を急速に増している多極化への動きは、時代の基本趨勢としてその地位を確固たるものにしていくのか。それとも一時的な現象に過ぎないのか。等々。これらは、人々の生き方、とりわけ国のあり方に大きな意味を持っている。
 時代の発展に関する論議の広がりの中で、今、新たな概念が提起されてきている。「無極」という概念だ。米ソ二極から出発した戦後世界は、冷戦の終焉とともに米一極となり、今や多極を通り越して、「無極」の時代を迎えているというのだ。
 ニューズウィーク誌の発行元である米外交問題評議会のリチャード・ハース理事長が言い出したこの「無極時代」とはどういう時代なのか。それは、一言でいって、権力が無限に分散する時代だということだ。すなわち、世界の権力がアメリカ一極に集中された時代からEUやアジアなどへと権力の多極化が進行する多極時代へ、そして米、EU、日、中、露など、主要国ばかりでなく、インド、ブラジル、アルゼンチン、ナイジェリア、南アフリカ、イラン、サウジアラビア、オーストラリア、インドネシアなど多くの地域国家、さらにはASEANやアフリカ連合など地域共同体、一方で国連やIMF、世界銀行、WTO、世界のエネルギー、金融、製造を支配する巨大独占体、世界のマスメディアであるBBC、CNN、武装勢力であるハマース、ヒズボラ、無数のNGOなどに、世界の権力が無限に分散していっている、もはや、極があってなきがごとき時代、「無極時代」に移行しているということだ。
 だが、この「無極時代」には落ちがある。それは、ハース氏がアフガニスタンやイラク型の危機を予防するためアメリカはより強大な軍事力を保持すべきだと主張し、その上で「協調的無極」を実現すべきだと唱えていることだ。これは、「無極」の看板を掲げながら、米一極支配のもとでの国際協調を推奨していることに他ならないのではないだろうか。

■多極化の本質、ブロック化との違い
 重要なことは、今日、世界の権力が無限に分散するのではなく、いくつかの極、多極に集中していっていることだ。その集中した力が「米一極時代」を揺るがせ、時代を発展させる有力な力になっている。
 そこで注目すべきは、このいくつかの極、多極への力の集中が、EUや東アジア共同体、南米諸国連合など、地域共同体の形成というかたちをとっていることだ。それはすなわち、この多極化が、第二次大戦前、帝国主義諸国によって敢行された領土分割、再分割、覇権抗争のブロック化とは本質的に異なっていることを意味している。
 もちろん、今日進行する多極化にも、それぞれの極に大国が存在する。EUにおける独、仏、英、東アジア共同体における日、中、南米諸国連合におけるブラジルやアルゼンチン、アフリカ連合でのナイジェリア、南アフリカ、そして上海協力機構におけるロシア、中国、等々だ。これをもって、多極化をブロック化と同一視する人々がいるのは事実だ。結局は、多極化も大国による覇権抗争の現れであり、米一極支配から多極世界への移行も、アメリカ一国による覇権からいくつかの大国による覇権への移行にすぎないとする見解だ。
 だが、現実の多極化は、帝国主義によるブロック化とは大きく異なっている。まず、今日、多極化は、必ずしも大国主導で行われているわけではない。東アジア共同体の形成でイニシアティブをとっているのはASEANだし、南米ではベネズエラなどの役割が大きい。また、アフリカ連合を主導するのはナイジェリアなどだ。
 こうしたブロック化と多極化の主体の違いは、政策の違いとなって現れている。ブロック化が域外への障壁を高くすることを基本としながら、外部経済を遮断した排他的な経済共同体を志向したのに対し、多極化は域内に関しては自由貿易、域外に関しては保護貿易を進めながらも、決して外部との遮断を求めず、域内への障壁を低くすることを基本としながら、内外のバランスをとることを志向している。
 政策の違いは、経済以上に軍事において一層顕著だ。ブロック化における軍事政策が、諸植民地での総督統治のもと、帝国軍隊の駐屯と出動に基づいていたのに対し、多極化におけるそれには、大国による小国への駐屯や出動など考えられもせず、東アジア共同体などでは、不戦共同体としての実現までが模索されている。
 こうしたブロック化と多極化の違いにあって、もっとも本質的なのは、前者が覇権のためであるのに対し、後者が主権のためであるところにある。他の違いも、この本質的な相違点から生まれたものであり、まさにここにこそ多極化が持つ歴史的意義もあると言うことができる。

■多極化の歴史的意義と時代の発展
 今日、世界の多極化は、アメリカによる一極支配、帝国支配に抗し、主権を守る闘いの中から生まれ、その闘いを通して強化、発展してきた。
 南米諸国連合の反米を掲げての結束は、1970年代、アメリカにより新自由主義の実験場にされた南米諸国がその破綻による惨状から立ち上がる中で生まれた。「アメリカ無しにどうやって生きるのか」というアメリカの脅しに南米諸国が結束して新自由主義を拒否し、社会主義や社会自由主義など各国の実情に合う経済を、互いの主権を尊重しながら、南米銀行の創設など、力を合わせて発展させてきた。
 これと同じことが東アジア共同体やEUにも言える。東アジア共同体を形成していく上で大きな契機となったのは、1997年、タイを起点に連鎖的に起こったアジア通貨危機だった。アメリカによって押しつけられた投機化した新自由主義経済、それによって引き起こされた自国通貨の暴落を買い支える力は、共通の利害関係を抱えるASEAN諸国、東アジア諸国の協力にしかなかった。この時打ち出された「アジア通貨基金」構想や「チェンマイ・イニシアティブ」の創設などが東アジア共同体形成の土台となっている。
 EUにおいても同様だ。1992年、新自由主義経済の投機が引き起こしたヨーロッパ通貨危機がEUの共通通貨ユーロ誕生への要求を一層切実なものにし、その実現を一気に促進したのだ。
 アメリカによる世界支配のもと、各国の主権を無視し否定して押しつけられた自由化、グローバル化に抗し、それが引き起こした惨劇に各国が主権を打ち立てて対処する中、生まれ強化されてきた地域共同体は、今日、アメリカの衰退にともなう歯止めのないドル安、対米貿易の停滞に直面し、独自の共通通貨形成への要求、域内貿易・域内投資拡大への志向を一段と強めている。
 経済だけではない。軍事においても地域共同体の強化は著しい。NATO軍とは別のEU独自の軍隊の創設、上海協力機構の共同軍事演習、等々、ドルと核、経済と軍事による米一極支配は、ここでもその綻びを大きくしてきている。
 ここから分かることは何か。それは、多極化それ自体が米一極支配を突き崩す強力な武器になっているということだ。地域共同体の形成、多極化なしに、単独で超大国アメリカのドル支配、核軍事支配に対抗し、それを打ち破ることは容易でない。地域共同体の結束した力、それらの世界的に連携した力があってこそ、アメリカの一極支配、帝国支配から各国の主権を守り、ひいてはアメリカによる支配自体を葬り去っていくことができる。
 一極化から多極化への移行、それは覇権から覇権への移行ではない。覇権から主権への時代の発展、歴史の進歩である。それは、アメリカの自由化、グローバル化による支配に抗し、主権を尊重し守った、地域共同体形成の理念と歴史、そして各国の主権がますます強まるこれからの世界、未来世界によって保証されるだろう。
 この多極化を否定するところにこそ、「無極化論」の反動的本質があると言えるのではないだろうか。


 
 

満蒙開拓史実 シンポジウム・「満州の終焉史と松花部隊の活躍」に参加して

つねひろお


 満州開拓民の悲劇は残留日本人問題などを通して多くの人の知るところだ。しかし、その真実はいまだ多くの謎に包まれているのが現実ではないだろうか。松花部隊は中でも資料も少なくこれまで殆どその実態が判らなかった存在だった。部隊にいた人でも部隊の名前すら知らず戦後知ったという人がいる程だ。
 しかし、この部隊を知ることは国策として行われた満蒙開拓が如何に「非道な国策もの」であったかを知ることにつながる。
 1932年(昭和7)満州国建国の年、第一次武装移民が神戸港から出発した。この年6団2989人が入植し、以後、終戦の年まで満蒙開拓少年義勇軍、一般人など含め約27万人が渡満し多くの犠牲者を出した。
 「旧満州を調査記録する会」によると、「松花部隊」とは終戦直前のソ連軍の満州侵攻時、関東軍満州第134師団関係者によって急遽編成された部隊である。関東軍は8月11日、特務機関長・藤原景少佐を「三江防衛司令官」に任命し、@富錦および興山にある部隊の方正への転進を援護せよA佳木斯にある日本軍兵舎、軍事施設はことごとく破壊すべしB在留邦人を安全に後送、避難せしめよC爾後は敵の後方に残って、遊撃戦を展開すべしとの任務を下達し、関東軍本体は後方へ退却し約1ヶ月後ソ連軍と一矢も交えることなく武装解除している。
 このように残務処理を負わされて急遽編成された松花部隊は、@特務機関員、A根こそぎ動員により召集された応招兵約800名、B在郷軍人部隊約800名、C三江省内日系警察官約300名、三江省公署部隊約350名、国境からの撤退現役部隊約300名、などにより8中隊で編成された言わば寄せ集めの俄か部隊3000余名だったようである。
 厚生省に唯一残された松花部隊の活動記録によれば、編成後、市内の治安維持、難民の救済、避難等に尽力し、8月15日に最後の避難列車を送り出し、一部の部隊は松花江に架かる満鉄鉄橋の爆破も行う等、日本関係の重要施設を爆破、焼却等も行っている。
 その後の同部隊の行動は各中隊毎に異なっており、徒歩で老爺嶺を越えて方正に向かった中隊、その逆の方面に向かった中隊もあった。そして、そのうちの1部隊は旧三江省の団山寺付近にて約6000名の徒歩で避難する日本人開拓団と遭遇し、共に老爺嶺超えに挑み、またその山中では、置き去りにされたと見られる日本人の子供たち多数を保護、その後、老爺嶺山中の現地中国人部落に作戦用のアヘン(当時極めて高価)と共にこの子供たちを預けたとされている。  その後、ソ連軍に武装解除を受けシベリヤへ送られた部隊、中国軍と交戦、武装解除を受け国軍に編入された部隊、統制が解け自力で避難民とともに帰国した人、など等。
「松花部隊」は1945(昭和20年)9月5日に解散している。
 「5族協和」、「王道楽土」、国策の元に移民した開拓団が入植した土地は既に耕された土地であったり、中国人の家を排除して開いた土地もあった。開拓団員は侵略のお先棒を担がされた側面が大きい。また、ソ満国境付近の開拓団は国境防衛に利用された人間の盾のようだ。大本営は終戦の年の5月に、ソ連参戦時には満州の3/4放棄を決定している。そして開拓団員の根こそぎ動員がなされ、開拓団には婦女子と老人だけが残った所もあった。
これらの婦女子や老人がどれほどの辛酸を味わったかは計り知れない。かたや邦人を守るべき軍本体は「国体護持」のためと称し後退し、邦人を守るための戦いをせず武装解除している。
 戦後、多くの犠牲を強いた広大なこの地で眠る日本人の「公墓」は1箇所しか許されていない。これが、中国に強いた犠牲の意味するところだろう。そして、この「公墓」を訪れた日本の国会議員は未だいないという。この「公墓」、中国の行政市によって運営され日本国からの支援はない。
 邦人をここまで犠牲にし、あまつさえ、その犠牲に報いる人としての「道」すら持ち合わせぬこの国は、今もって先の戦争の「総括」さえしようとしない「非道」な国家と誰から言われても返す言葉を持ち合わせないだろう。


 
時評

韓国、朝鮮側から見た「独島(竹島)問題」

編集部


 前号では、「竹島問題」に関して、日本側の主張を紹介した。しかし韓国側には当然にも異論がある。日本国内で「竹島」が世論の焦点になることはまれだが、「独島(竹島を韓国では独島と表記)」をめぐる韓国世論は日本人から見れば「異常」に見えるほど沸騰している。この温度差はどこから生じるのか。それを知るためにも、「独島は韓国領土」という彼らの主張に耳を傾ける必要があるのではなかろうか。今回は韓国側主張の主な論拠を資料として紹介したいと思う。

1、日本の古い文献に「独島」がはじめて登場したのは1667年に編纂された『隠州視聴合記』という報告書からである。日本の外務省の説明によるとこれは、出雲藩士・斎藤豊仙が藩主の命を受けて1667年(寛文7年)の秋に隠岐島を巡視して見聞きしたことを記録し、報告書として作成・献上したものである。この中で初めて独島のことを「松島」、鬱陵島のことを「竹島」と称し言及したと言う。しかし記録内容を見ると、独島(松島)と鬱陵島(竹島)から高麗(朝鮮)を見るはまるで雲州(出雲)から隠州(隠岐島)を見るがごとく、この鬱陵島と独島の2島は高麗に属するもので、日本の西北の境界は隠州、とある。日本で最初に「独島」の存在を記した『隠州視聴合記』にも「鬱陵島」と「独島」は高麗領であり、日本の西北の国境は雲州をもって限りとする旨、はっきり記録されているのである。

2、日本政府は「独島」が日本固有の領土である根拠として、江戸時代に幕府が漁業を行う大谷甚吉と村川市兵衛の両家に対して与えた「渡海免許」(1618年)と「松島渡海免許」(1656年)を挙げている。「1618年から約80年の間、日本が独島を領有もしくは実効的支配をしていた」と主張しているが、この二つの「渡海免許」の内容を見ると、むしろ「竹島」と「松島」が朝鮮領であることをより明確に証明してくれる資料であることがわかる。というのは、この二つの「渡海免許」は「外国へ」への渡航を許可する「免許状」であったからである。したがって幕府の与えた「竹島渡海免許」や「松島渡海免許」は、独島を日本固有の領土だと主張する証明や根拠にはまったくもってなり得ない。もし「松島渡海免許」が独島に対する日本の領有権を証明する資料になるというならば、「竹島渡海免許」は鬱陵島が日本固有の領土であるという証明となり、日本政府は先に鬱陵島が日本領土であると主張しなければ論理的な一貫性が得られない。

3、1693年の春に朝鮮の漁夫、安龍福らと日本の漁夫とのあいだに起こった衝突事件を契機に対馬藩主が鬱陵島と独島に食指を動かし、1693年から1695年までの約3年にわたり両国で領有権をめぐる争いが起きていた。1696年1月28日、対馬藩主が新年の挨拶のため江戸に向かうこととなった。幕府は鬱陵島問題について伯耆国他4人の藩主が居並ぶ前で対馬藩主との質疑・応答を総合し参考とした上で、命を下した。 その要旨は次の通りである。
(1)竹島は伯耆国から160里(韓国の度量衡:10里は約4km)、朝鮮からは約40里の距離であり朝鮮に近いことから、朝鮮領とみなすべきであること。
(2)今後は鬱陵島への日本人の渡海(国境を越えて海を渡ること)を禁止すること、
(3)このことは対馬藩主が朝鮮側に伝えること、
(4)対馬藩主は国へ戻り刑部大輔を朝鮮に派遣してこの決定を知らせ、その結果を幕府に報告すること。幕府の下した1696年1月28日のこの決定により、「竹島渡海免許」と「松島渡海免許」は取り消され、日本の漁夫の鬱陵島・独島への出漁は厳しく禁止された。

 紙面の関係上、以下は割愛したいが、上記資料を読むだけで韓国側にも竹島が自国領であるという歴史的な論拠が十分にあることがわかるし、一方、日本側からすればそれに対する異論も多々あるだろう。日韓がお互いの主張を譲らないなら、国際裁判所の判断を仰ぐのも一つの方法ではある。しかし、どちらが勝つにせよ、負けた側が納得するとは思えないし、将来にしこりを残す懸念がある。また韓国、朝鮮側に残る35年に及ぶ植民地支配の怨恨と「竹島問題」が一体となっていることを私たち日本人は忘れてはならない。お互いが納得し、互いの利益になる解決法はないものか。機会があれば今後もこの問題を取り上げたいと思う。


 
 

世界の動きから

 


■優勢を示すタリバン
 18日、フランス軍がカブール東部の米軍統制区域を巡回中、タリバンの待ち伏せ攻撃にあい10名が死亡し20名が負傷した。この戦闘に米軍が近接航空支援を行ったがフランス軍の被害は、その誤爆によるものだとフランス新聞「モンド」が報道した。しかし、ペンタゴンは、そういう事実はないと、これを否定した。
・ホワイトハウス代弁人が、米軍の軍事行動で民間人に被害が出たことについて、それが実際、米軍によるものかどうかを調査中であると述べた。その事実が確認されるなら、2001年以来のアフガンで起きた最も致命的な事件となるであろう。
・25日、パキスタン西北部でタリバンのロケット攻撃で10名が死亡。パキスタン内タリバンのバジャウール支部はこの間、停戦を宣布し政府に平和会談を要求したが、政府はこれを拒否した。今回の攻撃はその回答である。パキスタン民主党の大統領候補ジャルタリは、外国記者にタリバンが優勢を見せていると述べた。

(新華社)

■政府の不注意がタリバンの台頭を許した
 アフガンでのフランス軍の犠牲者に哀悼の意を表するため、この国を訪問したサルコジ大統領にカルザイは、この間アフガン政府はタリバンの施設、居住地、資金の出所に注意を払わなかったため、彼らの台頭を許してしまったと述べた。
(VOA)

■淋しく去るムシャラフ
 パキスタンの歴史は軍事と民主主義の交代の歴史だった。07年10月、反対派は、最高裁判所に軍職にある者が大統領になることは憲法違反であると提訴した。裁判所はこれを却下したが、反対派はこの問題をもって引き続きムシャラフに圧力をかけ、ムシャラフも「軍服を脱ぐ」と約束し11月には、カヤニに陸軍総参謀職を譲った。
 米国は一貫してムシャラフを支持してきたが彼が不利になるや、米国は反対派に好意を示し始め、とくに軍隊との関係強化に力を注ぎ始めた。
 米国大使は、裏で人民党指導者に米国はムシャラフと別れても何でもやれると語りその影響力を誇示してみせた。

(チャイナ・デイリー)

■米国選挙者の関心事は何か
 マケインもオバマも、選挙遊説の焦点を経済問題にしている。ペンシルバニアの食堂経営者は、小麦一包みの値段が以前13$のものが36$になり、自身の努力ではどうしようもないと嘆いた。また、ある中小企業家は、自動車を利用するしかない農村住民はガソリン価格が落ちることを期待していると述べた。ウェストバージニアのホテル経営者もガソリン高騰に憂慮を示した。アラバマのある選挙者は、人々が職や家を失っているとき、オバマがその心配に応えてくれそうだと語った。
 しかしバージニア州の一教授は、経済問題の次に重要なことは国際問題であり、イラク、アフガニスタンを始めとする反テロ戦争への態度が選挙者の決心を左右するだろうと語った。米国の安全のためにテロとの戦い後退してはならないとする人がいる反面、イラク、アフガンに出兵している家族親戚や同郷の人は早期撤退を望んでいる。

(VOA)

■米国は南オセチアでの戦争開始を知っていた
 ロシア軍情報機関は、グルジアが南オセチアとアブハジア地域での軍事作戦計画をワシントンが事前に合意していたことを確認する情報を入手した。また米国は戦争開始時間も知っていた。その間接的証拠として、8月10〜14日、米海軍作戦部長ケリー・ラフェッドを団長とする軍事代表団がロシアを訪問する予定だったのを急に取りやめた事実を挙げた。米国はその理由を飛行機が飛行許可を受けられなかったからだと説明したが、そういう事実はない。
 また、ロシア参謀部は8月21日、グルジア−南オセチア紛争地域にいる欧州安全協力機構の監視員がグルジアが南オセチアへの攻撃を準備しているとの情報をロシアに通知しなかったと非難した。

(ロシア新聞・ドゥニ)


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