研究誌 「アジア新時代と日本」

第60号 2008/6/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

情勢 穀物・資源価格の高騰、新自由主義経済投機化の根本的解決を考える

試論 拉致問題への視座にみる国境を越えた民衆連帯の思想

時評 「後期高齢者医療制度」へ高まる怨嗟の声



 
 

編集部より

小川淳


 雑誌「中央公論」6月号に、「米朝和解―もはや北と交渉するしか日本の道はない」と題する、アメリカの朝鮮問題専門家のインタビュー記事が載っています。一部分を引用します。
 「北朝鮮が時間稼ぎをしているという見方は、実際には米国側が動くことを望まない米国人が、それを正当化するための口実だ。米国が動けば次に北朝鮮が動くかどうか分るだろう。これは米朝関係の実に基本的なパターンだ。それが何度も繰り返されてきた。われわれが前進すると北朝鮮は常にそれに応えてきた。例外は一度もない。断言できる。過去二〇年、時に応じてこのパターンが繰り返されてきた。逆に、米国がするといったことを行わない場合、北朝鮮は常に報復してきた。そして常に報復の方法は、核分野で何かするか、あるいはミサイル分野で何かするかの、二つのうちの一つだった。いつもそうだ。だがそれは常に米国が動かないことへのしっぺ返しだ。それが起き続けている」
 米国の外交専門家がいかに北朝鮮という国を冷静に分析しているか、そして一読すれば米国の北朝鮮外交の転換が年内には確実に進むであろうことを確信させる内容となっています。
 翻って日朝関係は・・とは言いませんが、このような文章が有力メディアに掲載されること自体、日朝でも水面下で何らかの転換が始まったといえるのかもしれません。とはいえ日本の場合、対決から対話へ明確な方向転換に至るにはまだまだ時間がかかるでしょう。
 もし米朝関係が正常化へと大きく動けば、戦後半世紀を超えた対立の歴史に終止符を打ち、東アジアの平和と安全にとって画期的な転換になることは確実で、東アジアの新しい時代が幕を開けるでしょうし、それはまた日本の戦後の対米関係の「あり方」への転換へとつながるかも知れません。いや、つなげなくてはならないでしょう。
 ただそのうえで押さえておくべきことは、米朝関係正常化が前進するにしても、民族自主をめぐる闘いの本質において米朝は非和解的であるという、冷徹な視点ではないでしょうか。


 
情勢

穀物・資源価格の高騰、
  新自由主義経済投機化の根本的解決を考える

編集部


 食品、石油関連商品の値上がりが続いている。賃上げを伴わないこの値上がりの原因が穀物や原油など原材料価格の高騰にあるのは周知の事実となっている。原油の価格は、年初の1バーレル当たり100ドルからわずか5ヶ月足らずで135ドルに達した。

■なぜ穀物・資源価格の異常な高騰か?
 穀物・資源価格の高騰は、原材料全般に渡っている。トウモロコシ、小麦、大豆、原油、石炭からレアメタルに至るまで、軒並み前年比1・5〜4倍の異常さだ。このかつて例を見ない原材料価格高騰の原因についてはいろいろ言われている。中でも有力なのは需給の逼迫と投機だ。
 穀物・資源市場で需給関係の逼迫が見られるのは事実だ。穀物市場では、干ばつと穀物のバイオ燃料化が大きい。06年にあったロシア、欧州、オーストラリアの干ばつ、米国の高温乾燥は、世界の穀物在庫率を14・7%にまで取り崩した。00年の在庫率30%と比べ、半減だ。また、それにも増して深刻なのが穀物のバイオ燃料化だ。地球温暖化対策、原油価格高騰などによるガソリン代替、バイオ燃料導入に費やされ、食糧に回されなくなった穀物は、総生産の20%を超える。
 一方、原油や石炭など資源市場でも需給の逼迫が見られる。OPEC生産協定破りの常習犯で米国による原油価格引き下げの手先だったベネズエラのOPEC結束の牽引者、資源主権への転換、イラクとその周辺諸国の原油生産能力の減退、そして04年にあった中国の原油需要の急騰を根拠とする中国需要増による需給逼迫説の流布は、そのことを物語っていると言えるだろう。
 しかし、今日、この需給主因説は急速に力を失っている。この4年ほど需給の逼迫が見られなかったにもかかわらず、原油価格の高騰が以前にも増して続いていること、その陰に世界の原油価格形成を主導するWTI原油先物市場における原油先物(原油現物ではなく将来受け渡しする原油)の金融商品化、すなわち投機の割合が全取引の5割を超えるまでに進んできていること、そして特にサブプライムローン問題が表面化した昨年8月以降、信用不安の深まりの中、行き場を失った投機資金の穀物・資源先物市場への大量流入が見られ、それにともなって穀物・資源価格の高騰が一段と激しさを増すようになっていること、等々は、需給主因説ならぬ投機主因説の信憑性を一気に高めるものとなっている。ではなぜ、穀物・資源先物市場の投機化は起きたのだろうか。

■新自由主義経済投機化の必然性
 労せずして大金を得るギャンブル的取引である投機は、これまで様々な経済形態にあって、幾多のバブルの発生と崩壊の苦い経験を繰り返しながらも、絶えることがなかった。
 短期的な将来の予測に基づいて、物品や権利の価格の変動から利益を得ようとする取引である投機は、今日、新自由主義経済にあって、穀物や資源、住宅ローン、金利など、あらゆる物品や権利を金融商品化しながら、市場や経済そのものの投機化、金融化を促すまでに至っている。すなわち、新自由主義経済にあって投機は、現象的、一時的、偶然的なものでなく、この経済固有の本質的、構造的で必然的なものになっている。
 新自由主義経済投機化の必然性について見るとき、その背景には、新自由主義経済が必然的に生み出すかつてなく莫大な「金余り」がある。ここで金余りとは、設備投資など生産に回す金が、勤労大衆の貧困化による消費の低迷、それにともなう生産の停滞との関連で、余るようになるということであり、新自由主義経済にあっては、この金余り、即、過剰資本が過去類例を見ない膨大なものとなり、その投資先を求めて、大量に投機に流れ込むようになるということだ。
 その上で重要なことは、新自由主義経済における金余りが類例を見ない莫大なものになるのが、富の偏在、二極化の極限的進行に基づいているということだ。
 新自由主義が支配的になって以来、日本社会は、従来の「一億総中流社会」から「格差社会」へと急激に二極分解した。新自由主義の本場、米国にあっても、かつてアメリカン・ドリームの象徴だった「ミドル」が崩壊し、全米総資産の60%を占めるわずか5%に過ぎない「富裕層」と総人口の95%に及ぶ膨大な「貧困層」へと分解した。
 問題は、この極限的な社会の二極化、富の二極化が、国家の経済への介入を否定しながら、金融や労働市場の自由化など、あらゆる規制と保護を廃し、市場原理を教育や医療にまで導入して、すべてを弱肉強食の競争にゆだねる新自由主義の必然的帰結だということだ。累進的所得課税や法人税の軽減、労働市場の自由化による膨大な低賃金・不安定雇用労働者層の創出、社会保障費の大幅削減、等々、独占資本に手厚く、勤労大衆に苛酷な新自由主義の政策には枚挙にいとまがない。
 新自由主義経済投機化の必然性の背景には、また莫大な金余りを投機へと誘う金融の自由化がある。今日、新自由主義にあって、「貯蓄から投資へ」のかけ声と一体に、資金調達が銀行という仲介機関を通す間接金融から、証券を機軸とする直接金融へ変えられていっている。そうした中、金融自由化の環は、これまで銀行、証券、保険などと金融業務を分けていた垣根を撤廃し、それらを一つの金融持株会社のもとに統合して、巨大な金融コングロマリット(あらゆる金融業務を傘下にもつ金融組織)を形成する道を開く一方、将来価格が大きく変動し得る物品や権利なら何でも証券化など金融商品化できる道を開いたことにある。
 この金融自由化によって、超巨大金融コングロマリットを経済の核とする途方もなく広大な資金調達のシステムが実現されるようになる。それが富の二極化によるかつてなく莫大な金余り、過剰資本と相まって、史上類例を見ない膨大な過剰金融を生み出し、金融商品化された物品や権利を対象とする投機へと流れ込むようにするのは必然である。ちなみにその規模がいかに大きいかは、投機の破綻としてのサブプライムローン問題の損失総額が1兆ドルに及ぶとされ、この損失に対処する超巨大金融コングロマリット、シティグループの資産売却が4000億ドル(日本の国家予算の約半分)に上るのを見ても窺い知れるというものだ。まさにここにこそ、新自由主義経済投機化の必然性があると言えるのではないだろうか。

■問われる新自由主義経済の根本的転換
 新自由主義経済投機化が及ぼす悪影響は計り知れない。それは、穀物・資源価格の高騰に留まらない。それによる景気後退の中での全般的物価上昇とスタグフレーションの発生、食糧危機と飢餓、そしてサブプライムローン問題など金融恐慌と信用収縮、等々、経済と生活を根底から揺るがせ破壊するものだ。そればかりではない。経済の投機化は、社会全般にわたるギャンブル化、僥倖を求め、額に汗する労苦を厭う腐敗と衰退をもたらさずにはおかない。
 重要なことは、ここから教訓を得、活かすことだ。「神の見えざる手にすべてをゆだねる」新自由主義の無制限の自由化は、必然的に経済の投機化と底知れない破局に行き着く。社会と富の二極化は放置されてはならず、金融は野放しにされてはならない。
 そのためには、何よりも、働く者皆の生活が保障され、消費が高まり生産が高まる方向での、国家による資源の配合、所得再分配が行われ、労働市場への規制が行われねばならない。ここでは、金のある者が金を出す税制の真の公平化や老若皆が助け合う社会保障の充実、自治・自立と国による補助の組合わさった地方・地域の活性化、そして、正規と非正規の格差を是正し、非正規を正規にしながら、正規への不当労働強化を取り締まる労働法制化、等々が必要だろう。
 一方、金融を生産のために金を融通する金融本来のものに戻すための金融への規制が断行されねばならない。投機の最前線に立つヘッジファンドへの情報公開や課税強化などの規制とともに、経済全般を支配する超巨大金融コングロマリッドを金融業務にそって分割する規制、将来価格の変動の有り得る物品や権利の証券化など金融商品化への規制、等々が要求されてくるだろう。
 最後に、この新自由主義経済、金融自由化路線の根本的転換を断行する上で、決定的なのは国家主権だ。経済の投機化から血の教訓を得た絶対多数国民大衆の切実な要求を反映し体現した国家主権が確立されてこそ、この世紀的課題の解決も有り得るだろう。


 
試論

拉致問題への視座にみる
国境を越えた民衆連帯の思想

蔵田計成


            

 拉致問題をめぐる国際政治情勢は、いま大きな変化をみせようとしています。この情勢変化の中で、この期に及んでも、なお求められていることは、拉致問題に関する本質的な認識です。そのためには、次の5つの関連事件を前提にすべきです。これらの関連事件は、すべて朝鮮半島38度線をめぐって引き起こされた「拉致関連事件」です。

(1)北の政府機関によると思われる誘拐事件
@「日本家族拉致事件」A「韓国家族拉致事件」(約500人近いとされている)B「南派秘密工作部隊」(数字は明らかではないが、推定万単位)。
(2)南の政府機関によると思われる誘拐事件
C「金大中拉致事件」(人権侵害と日本に対する主権侵害)D「北派秘密工作部隊」(韓映画「シルミド」の世界。1万3000人中、7800人が死亡・行方不明とされている)

 

■問題の本質/政治の延長としての戦争における戦術手段、その犠牲者
 周知の通り、1950年以来の朝鮮半島は、53年の休戦協定のまま、現在に至っています。厳しい軍事的政治的対立を続けています。
 この間、日本は朝鮮戦争の後方兵站基地として、「戦争ブーム」にわきかえる時期も経験しました。休戦後も日米安保体制下で、さまざまな対北敵視政策に与してきました。
 このような歴史的事実を背景にして展開された敵対的関連諸事件は、すべて政治の延長としての「戦争」と、その「作戦の一部」として展開されたはずです。だから、上記5つの関連作戦は、いわば原爆投下にも類似した、忌むべき最悪の戦術的手段というべきです。拉致事件の発生は、その結果としての「戦争の犠牲」といえるでしょう。
 その拉致作戦が、如何なる戦術上の意味を持っていたかは、当事者によって明らかにされる以外に、知る術はありません。明白な事実は、拉致加害国にとって38度線は冷戦ラインであり、その向こう側に位置している南北半島は戦場に過ぎない、という政治的現実です。一方の「北の側」から見れば、南の日本列島は、敵視政策をとる「準交戦国」「米国の一つの州」という当事者=報道官発言が、それが事実であることを裏付けています。他方の「南の側」からみれば、それと同じ論理の下で展開した軍事作戦行動のはずです。
 このような政治的軍事的緊張状態の下にある南北朝鮮の民衆にとっては、互いに冷酷非情な民族史の暗部として映し出されたはずです。それはかつての日本軍による「70万人強制連行」や、人間の尊厳と人権に係わるものとして、最近のアメリカ議会やEU議会でも議決された「従軍慰安婦問題」などの植民地時代の悪夢と重なったとしても不思議ではありません。南北朝鮮民衆は、離散家族問題や拉致問題を、そのような記憶を重ねながら、分断されている政治の現実として直視しているはずです。私たち日本人も、このような事件の政治的現実を冷静に認識することを出発点にすべきです。歴史から真の教訓を引き出そうとするならば、歴史的事実を正しく受け止め、認識し、向き合う態度が必要です。

■金大中事件への対応にみる日本外交の欺瞞性
 73年に発生した「金大中拉致事件」も、38度線の南側で起きた事件とはいえ、拉致問題を考える上で大きな意味を持っています。日本国内で起きた南政府機関による犯行でした。この事件の特長は、個人への「人権侵害」であるとともに、南の政府機関による日本に対する「主権侵害」でした。
 ところが当時の日本政府の対応は「人権侵害」「主権侵害」という二つの側面をもっていたにもかかわらず、あからさまな二枚舌外交でした。一方では、金大中事件の当事者による隠ぺい工作を看過することによって、南政府機関による主権侵害の事実の解明を曖昧にし、他方では、正体不明の組織による犯罪に見せかけるように仕向けることによって、今回の日本家族拉致事件にも示されたような「政治的利用主義」という使い分けをして、真の問題解決とは逆方向に向かいました。
 この日本政府の「政治的利用主義」は、ブッシュ・ネオコン政権による「テロ支援国家指定」「悪の枢軸論」「先制核攻撃論」を表面に押し立てた、日米安保体制強化=共同軍事司令部の設置など日米軍事一体化路線の強化を画策している戦略においても、継続されています。「拉致事件」を、日本国内の対北敵視感情を高めるうえで格好の材料としてズームアップし、利用したわけです。
 このような「政治的利用主義」が体現する日本政府の外交政策は、稚戯にも等しいものです。この稚拙さは、あたかも憲法9条に対する、「戦力なき軍隊解釈」の例にみるように、「黒を白」と言いくるめたり、「誤りを正しさ」に変えることさえも、議会の多数決によって可能であるとばかり、相手国のある「外交」についても、思い違いをしているのかも知れません。
 だが、やがて彼らは厳しい現実を思い知るほかはありません。「魔法の手品」は、観客を喜ばせてくれるし、詐術も通用します。だが、このような理屈上の詐術が通用するのは、政治的多数派を維持している「国内政治の領域」に限られています。相手がいる外交の場においては、そうは問屋が卸してくれません。外交上の正しさは、たんなる理論=理屈の整合性、言葉のレトリック、魔術ではありません。世界に通用するためには、政治的、社会的、思想的な妥当性において普遍性をもたなければいけないからです。

■政治的利用主義、反共・民族排外主義とその結末
 日本の民衆にとって拉致事件は衝撃でした。豊かで平和な日常に突然襲いかかった「蛮行」であることは明白です。ところが、日本の保守政権が拉致問題を政治的に利用しようとしたことから、重苦しい展開をみせることになりました。なかでも安倍内閣の登場は最低・最悪でした。こともあろうに、安倍首相が拉致問題に熱心なのは「善意」からであると解釈する人物が、私のすぐ側にいます。これは見当違いもはなはだしいことです。和製ネオコン安倍内閣は、小泉内閣の「ピョンヤン宣言」を反古にし、拉致報道に加速され、「拉致→卑劣→けしからん」とばかり、人権侵害事件に対する圧力外交=経済制裁路線へと、反共・民族排外主義外交にまで収斂させようとしたことは、記憶に新しいことです。
 日本政府の政治利用主義的な拉致外交に連動して、日本の拉致家族も、南の拉致家族に共同歩調を申し入れたのですが、同意が得られなかったと伝えられています。同じ私の友人は、この拉致問題をめぐる日韓双方の対応の落差を、「朝鮮反日感情」と結びつけて解釈するわけですが、それも的外れです。対応のズレは、拉致行為に対する基本的認識の違いに起因しているからです。
 そもそも、拉致=人権問題として提起する際に、人道主義の上にいろいろな衣を着せて論じるに過ぎないような「感情論的論理」は、その論理構造自体が、民衆の広範な社会的合意を困難にします。政策社会的物質力に転化するには限界性をもっています。とくに誤った政治と結びついて利用されてしまう場合は、横車を押し通せないばかりか、真の解決への道を閉ざしてしまいます。
 抽象が物質力に転化するには、やはり正しさが必要です。いまや、その普遍的公理が通用するほどまでに、20世紀後半から21世紀に至る国際階級情勢は、野蛮な植民地主義支配を解体させ、民衆の側の政治的階級的力量を高めています。
 以上のような拉致問題に対する、各国間の対応の落差は、日本の拉致外交が6ヶ国協議や、米朝協議のカヤの外におかれている事実にも象徴的に示されています。既述したような論理によって、日本の伝統的な保守外交は、現時点の国際政治の場では相手にされません。冒頭に引用したように、解決への独自の政治哲学や政策理念をもたない日本外交の「負の所産」です。拉致当事者や家族は、その誤った政治のさらなる「犠牲者」です。経済制裁に苦しむ北の民衆も同様です。拉致問題の本質を解明するには、まず、この明白な事実を基底認識にすえるべきです。

■当事者性を欠いた、他者・他国批判の陥穽
 いまも、北の政権を声高に批判する人達が、私たちの周辺にもあふれています。その批判の力点は、「金世襲政権=独裁的国家体制」という政治形態に対する批判を基点しています。この問題を論じる場合に、欠落させてはいけない問題点は、
@世界史的には、国際共産主義運動=ヨーロッパ革命運動の挫折や中ソ対立などの内部矛盾による、一国社会主義への後退という歴史状況を出発点にしているのではないかという点。
A国内的には、反共主義の重攻囲という限定的条件の下で、「全民皆兵制」を可能にするような政治の質=政策路線において体制維持=社会主義化をめざす、という路線の選択ではなくて、その対極ともいえるような、あの安易なドイツ・ナチズム型、日本明治政府以後の天皇制ファッシズム政治にみるような、国内権力支配と先軍主義路線に依拠した社会主義建設路線を選択した(選択せざるをえなかった)と思えるかも知れない点。現在的に直面している危機はこの結果といえるか否か、という点。とくに、キューバ革命との対比において、その路線選択ができなかった根拠。
 言うまでもないことですが、このような政治体制批判は、当事者性を欠いています。彼岸から発した批判に過ぎないからです。批判する主体の「非在性」というこの「批判の作法」は、「当事者性」の論理において、意味を持ちません。拉致問題についても、同様な論理を提起したいと思います。
 「せいぜい私なら、別な作戦を選択する。排外主義に逆利用されるような作戦形態はとらない」という程度の立場表明で十分ではないでしょうか。それを越えた批判は、矛盾の止揚にとって無意味であるばかりか、誹謗、中傷、弾劾は、憎悪をもたらすだけです。もちろん、他の国家体制やその体制がもたらした問題、政策、作戦を批判する自由を否定するものではありません。問題は批判する側の政治的意図です。他者批判が、誠実な批判の論拠や、己の政治的実践上の意味を持たない限り、やはり無意味です。ましてや、その批判の意図が「私は、同調していない、批判者である」という潔白=アリバイ証明というのであれば、それは偽善というべきでしょう。
 私たちはこれまで、あらゆる運動領域において、他者を批判することによって自己を正当化するという手法を多用してきました。この無意味な常套手段とは訣別すべきです。必要なことは、自ら確信する課題や方針を提起し、実践することです。行動のせめぎ合いのなかで正しさを競うべきです。この点においても、わたしたちは運動の原点に立ち返るべきではないでしょうか。

■根底にある問題解決への導引力とは何か
 現在すすめられている「政治的朝米妥協」の背景には、明らかに朝米の核問題をめぐる政治的思惑があります。だがその思惑さえも、その根底には一つの導引力が存在しているはずです。
 問題解決への導引力とは何か。今回のような対決路線から、対話路線への原点回帰、合意形成を可能にした根底的な社会的要因は、第1、分断当事者相互の「民族は一つ」という切実な共通認識。
 第2、38度線によって隔てられている分断民にとって、政治的境界線を挟んで派生した困難な課題を、戦争によらないで、平和的に解決したいという共通認識。
 日本国内においても転換点を迎えようとしています。かつて、日朝間ではピョンヤン宣言として確認され、現在では六ヵ国協議の枠組みのなかで、話し合いが進んでいます。では、当事者同士が対座する外交の場において成立する論理とは何でしょうか。以下はある拉致家族の見解です。
 「家族らが高齢化していく中で、『圧力』路線に疑問を投げかける家族もいる。体制崩壊ではなくて被害者救出を目指す運動の原点に立ち返るべきだとし、あらゆる手段を講じて解決を図るというのが『対話』路線である」(工藤哲、7/12/6)

■民衆連帯の思想=真の国際主義の構築を
 私たちが目指すべき「運動の原点」は、国境を越えた民衆相互の連帯です。国際主義を掲げた民衆連帯の思想の実現のなかに、両国民衆の運命を託する、という政治理念を高々と掲げることです。この政治理念の実現過程が、国家間の懸案や矛盾を止揚する最有力な回路であることを確認することです。「戸締まり論」といわれている自衛武装論が先行的に語られてきたことの無意味さと危険性は、それが極論であるとしても、過去の歴史的事実以外は、何らの前提もなく無媒介的に提起されている点にあります。とくに冷戦体制崩壊以後の国際階級情勢の変化に取り残された古色蒼然とした色調を浮き彫りにするだけです。
 わたしたちは歴史や現実政治の実相に即して論理を演繹し、立論すべきです。植民地時代という20世紀の歴史の終焉にみるように、侵略と占領下において数十万人の占領軍がもたらす「支配の正義」は、数百万人の非占領地の民衆自身が体現する「被支配の正義」には遠く及びません。そればかりか、この数百万人の民衆が体現する「被支配の正義」は、侵略=占領する側の民衆自身が体現する「歴史の正義」にも通底し、連帯の質を共有しているという事実を、見落とし、軽視し、黙殺している点にあります。民衆連帯こそは未来への歴史の創造力です。

■憲法9条の非戦主義と国際主義
 国境を越えた民衆の相互連帯という思想は、9条改憲を許さない運動に連動させることが可能です。その根拠は「9条を世界に!」をめざして、民衆同士は戦わないという非戦主義を掲げて行動し、その一点で世界の民衆連帯が可能だからです。
 わたし達は確信しています。憲法9条第2項=戦力不保持という理想を堅持することによって、憲法9条第1項=非戦主義という理念の自己貫徹を保証するための、最善かつ唯一の回路であることを! また、希代の「解釈改憲論」にみるような「建前」と「本音」を使い分ける二律背反という政治的リアリズムからの訣別を可能にしてくれることを!
 この民衆連帯と同根異質なものとして、資本の側から「東アジア共同体論」が提起されています。この実態はグローバリズムの延長線上にある「経済市場共同体論」です。これは市場原理主義の極限志向がもたらす必然的帰結です。逆説的な側面からみれば、この経済的側面がもつ新しい物質的条件は、ポスト植民地時代の国際的民衆連帯を実現するための統一的・一元的な物質的根拠になっています。この物質的根拠は国際主義に新たな有力な根拠を与えています。


 
時評

「後期高齢者医療制度」へ高まる怨嗟の声

金子恵美子


 ヨン様が来日した。3000人のファンが詰め掛けた。関西国際空港の出迎え数の歴史を塗り替えたと言う。中高年の女性が大半を占めている。韓流はまだまだ衰えていない、ということが言いたいわけではない。こうした幸せな光景がこの日本でいつまで見られるのだろうか?ということである。
 「長寿高齢者医療制度」が4月からスタートした。「後期高齢者」という名称が猛反発を受け、あわてて「長寿高齢者」と変更したが、お年寄りの怒りは「後期高齢者」というこの名称そのものにあるのではなく、この「後期高齢者」=「お荷物」という響きに象徴される、国、政府の「冷たさ」にたいして何よりも向けられたものであると思う。
 この制度がスタートして直ぐの5月初め、高齢の方々の30名くらいのデモ行進を見かけた。「後期高齢者医療制度」に反対する老人たちのデモ行進であった。警官に取り囲まれた老人たちがヨロヨロと区役所前を行進していた。また、別な日には自転車に上り旗をたててスピーカーをもった老人二人が「後期高齢者医療制度の撤廃」を求めて町内を回っていた。こんな高齢者のデモや自転車情宣を見たのは初めてである。自分の親の世代であり、あと20数年したら自分も仲間入りをする人々の姿だ。無心では見られなかった。

●弱い者いじめとしか言いようがないこの新老人医療制度だが、どのようなものであるのか。
 時は小泉内閣の2006年6月の通常国会、自公の強行採決により成立した「医療制度改革関連法」の中の「高齢者医療確保法」により決められた75歳以上の後期高齢者だけを一括りにした医療保険制度である。75歳の誕生日を迎えたら、これまで、国民健康保険に入っていた人、企業の健康保険に入っていた人、子供の扶養家族として保険料を支払っていなかった人すべてが、この「後期高齢者医療制度」に移り、保険料を支払ってこの制度を維持していくという仕組みだ。まさに「自己責任」。
 保険財源の内訳は、公費が5割、現役世代支援金が4割、後期高齢者負担分が1割。この1割にあたる後期高齢者の保険料は、全国平均したら月に6000円強と言われている。これを、年間18万(月1万5千円)以上の年金給付を受けている人から天引きする。介護保険料(全国平均月4000円)がすでに年金からの天引きになっているので、これに高齢者医療保険料を加算すると、月平均1万円が年金から天引きされることになる。「消えた年金」の責任も果たしていないにもかかわらず、取るものだけはしっかり取るという年金からの天引きに怒りが吹き出ている。政府は、窓口までのお年寄りの手間を省くため(つまり便宜をはかったと言いたい?)と言っているが、用は取りはぐれのないようにするということだし、事務経費の削減だ。
 また、これまで扶養家族として保険料を自分では支払っていなかった人たち(約200万人)が、新制度では自ら保険料を支払うようになる。支払えない人、ささやかな楽しみを削らなければならない人など多く生まれることだろう。この人たちには、半年間の保険料の猶予、2年間の5割減額などの措置が取られているが、2年ごとに制度を見直すとなっているので、一時しのぎにすぎず、いずれは支払わなくてはならないのである。
 更に、この制度の「冷たさ」、本性が剥き出されているのは、「罰則」の情け容赦なさである。これまでの老人医療制度においては、保険料が支払えなくても75歳以上の老人からは障害者と共に「保険証」を取り上げるということはなかった。「命に直結する」からである。しかし、この「後期高齢者医療制度」においては、保険料を一定期間滞納した場合、保険証に変わる「特別証明書」が渡され、窓口での全額支払い(後に7割から9割が返金)となる。金がなくて保険料を納められない人が、一時的であれ窓口で全額支払いなどできるわけがないだろう。また返金といっても、滞納分を差し引かれての返金なので、結局は戻ってくるお金はなしということになる。こうなったとき誰が医者に行けるだろうか。新制度下で年金からの天引きができない人(年金が月に1万5千円に満たない人や介護保険料と後期高齢者医療保険料の合計が年金の半額以上に達する人)が250万人と推計されており、この人々による今後の保険料未納率の増加が危惧されることからとられた措置というが、医療難民、介護難民が続出するといわれており、結局は未納率を高める結果を生むのではないだろうか。すでに、この「後期高齢者医療制度」による保険料の年金からの天引きを苦に母親と二人暮らしの男性が心中するという事態も起きてしまっている。
 この他にも「高齢者医療確保法」には、「終末期相談支援制度」「かかりつけ医制度」「在宅医療への移行」などなど、後期高齢者の医療費削減のための「姥捨て山」的な内容が盛り込まれている。

●こうした「後期高齢者医療制度」の背景には、「国家財政の逼迫」と国民医療費の大幅な増加がある。平成18年度の国民総医療費は約34兆円。うち65歳以上の高齢者の医療費は11兆円、特に75歳以上は一人あたり現役世代の5倍の医療費がかかっているとのことだ。その上に高齢化が急ピッチで進んでいる。高齢社会白書によれば、現在65歳から74歳までの前期高齢者が1476万人、75歳以上の後期高齢者が1270万人で、2017年には後期高齢者が前期高齢者を上回るといわれている。そして、75歳を超えると発病率、病院の受診回数、医療費などが一挙に高くなる。こうした背景を受けて、後期高齢者だけを別建てにして医療給付を集中管理(抑制)するという世界でも類をみない老人医療制度が生まれた。
 しかし、国家財政の逼迫は後期高齢者のせいではないし、高齢になって病気になりやすく、医療費が他の世代より多くかかるというのも自然の法則である。もちろん日常的に健康に留意して病気にかからないように努力はしなければならないだろう。しかし、国家財政逼迫→医療費抑制の「つけ」を75歳以上の高齢者に「自己責任」という形でとらせるというのはなんたることであろうか。まさに、失政の極みであり、天に唾する行為である。

●この新制度は、「後期高齢者の心身の特性にふさわしい診療報酬体系の構築」を謳い文句にしているが、発病率、受診回数の高さ、長期化、複数・慢性罹患、認知症、いずれ死を迎えるなどの特性をもつ後期高齢者にふさわしい診療報酬体系とは、保険料を払って契約に従って給付が受けられる<保険原理>ではなく、日本国憲法25条によって国が国民に約束している「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)としての<保障原理>によってなされなければならず、公費負担を基本にした制度こそが、真に後期高齢者の心身の特性にふさわしいものと言えるのではないだろうか。ちなみに、社会保障費から毎年減らされている2200億円は、政府が米軍基地のためにアメリカに支払っている「思いやり予算」よりも少ない。
 新聞に「失敗をしたなと妻が独り言」という川柳が掲載されていたが、今度の国政選挙で是非とも自公政権にこう思わせたい。政府が「自己責任」のもと公的医療を縮小した「つけ」を彼らに支払ってもらうのだ。生存権が脅かされている今、「後期高齢者」の方はもちろん、いずれ「後期高齢者」になるすべての人が、憲法理念を踏みにじる政治家に反撃するのはこの時だ!生存権を掲げ闘っている「反貧困」の若者たちとも手を携えよう!


ホーム      ▲ページトップ


Copyright © 2003-2011 Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.