研究誌 「アジア新時代と日本」

第6号 2003/12/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 二大政党制にどう対応するか 日本のための真の新しい政治を求めて

研究 市場原理か、自主の原理、協同の原理か 農業改革二つの道

文化 無国籍チャンバラ映画は何を語る?

朝鮮あれこれ 柳京チョンジュヨン体育館を訪ねて

編集後記



 
 

時代の 眼

 最近、集団よりも個人、個人優先だった風向きが少々変わってきているように見えます。一頃騒々しかった「自立した個人」のテーマソングもかなりトーンが落ちてきているようです。
 それに反比例するかのように、集団や組織を重視する論調がいろいろな分野で見られます。NHKの大河ドラマ「宮本武蔵」では、武蔵が恋人お通の「一人では生きていけない」という思想を受け入れ、ついには「これまでは自分一人のために生きてきた。しかしこれからは村の人々のために生きる」とまで言うようになります。こうした傾向は他のドラマにも多々見られます。それまで自分しか知らなかった青年が集団とともに生きる喜びを知り、自分を犠牲にしてまで集団のために尽くすようになる話、等々、枚挙に暇がないほどです。
 ドラマの世界に反映されているように、現実の世界でも集団の重要さが見直されています。競争原理、成果主義のアメリカ型経営が行き詰まり、共同体原理を重視する日本型経営の優越性が改めて強調されてきています。市場原理主義の本場、アメリカにおいてさえ、不安定雇用を基本とする企業より終身雇用を基本とする企業の方が業績が上回るという結果が生まれています。自分の商品価値を高め、より高く買ってくれる職場を求めてさまよう人々を必要に応じて雇用し、また解雇するといった企業より、安定した職場を保障することにより、社員が企業の要求と信任に応え、力を最大限に発揮して自らの役割を果たすようにする企業の方が結局、斬新なアイデアが数多く出てくるし、事がスムーズかつ力強く運んで利潤も高まるということです。
 これは一体何を意味しているでしょうか。人間は結局、自分の集団のため、その共同の事業のために尽くすところに生きがいを感じ、そこに最大の熱意と力を発揮する存在であり、その結果、集団の愛と信頼を受けるところに自らの幸福を見い出す存在だということではないでしょうか。
 ヤンキースの松井選手が「チームが勝つために自分がどうすればよいかというスタンスを保てば、自分の一番高い潜在能力が出る」と言っていましたが、これなども相通ずる考え方ではないかと思います。
 もちろん、それも結局、自分のためではないか、人間は所詮エゴにすぎないと言う人がいるのは事実です。むしろ、そう考えている人の方が多いかもしれません。しかし、何の見返りも求めることなく人のため、集団のために尽くしたことが全くない人がいないのも、また、それを見て感動し自分もそうありたいと思わない人がいないのも事実ではないでしょうか。
 人間をエゴだと見る観点からは、競争原理、成果主義しか出てこず、そこからは、集団の業績の停滞と人間関係の崩壊しか生まれてきません。人間に対する正しい観点からこそ、日本の愛と信頼に満ちた新しい発展の道も開けてくるのではないでしょうか。


 
主張

二大政党制にどう対応するか 日本のための真の新しい政治

編集部


■マニフェスト選挙は何のためだったのか
  先の総選挙では「マニフェスト」(政権公約)が喧伝され、小泉マニフェストか菅マニフェストかと、選挙は「政権選択選挙」の様相を呈した。「21世紀臨調」の佐々木毅東大学長、北川正恭前三重県知事らが「日本の政治を変える」などとマニフェストの効用を訴え、連日、新聞・テレビなどに登場したのはその一環だったと言える。
 そこで「効用」として強調されたのは、立候補者個人の単なる信念の表明である「選挙公約」ではなく、党としてその執行に責任をもつ「政権公約」を掲げて選挙が行われるようになることにより、日本の政治ができもしない無限責任、無責任政治から政治的リアリズムに基づく責任ある政治に転換するようになること、また、このマニフェストを手段として政治と国民の双方が教育され、国民が冷静な判断の主体へと成長するようになることなどだった。
 その結果はどうだったか。確かにマニフェスト選挙は日本の政治を変えた。しかし、その中身は従前言われていたのとは大分異なっていた。
 なによりも重大なことは、マニフェストが国民を教育する手段になったとはとても言えないことだ。それどころか、選挙の投票率は史上二番目の低さに終わった。鳴り物入りの宣伝にもかかわらず、マニフェストは国民を政治的無関心から引き戻すことができなかったというわけだ。
 代わりに変わったのは、日本の政治が二大政党制へ大きく踏み出したことだ。
 これまでも、この十数年間、二大政党制への転換はいろいろと謀られてきた。小沢氏をはじめ少なからぬ有力議員が自民党を離れ、新党づくり、連立政権づくりなど、日本政治の二大政党制化のため動員されてきた。それがようやく、マスコミも一体となっての「政権選択選挙」の大合唱で曲がりなりにも目鼻立ちがつくようになったというわけだ。してみると、マニフェストの「効用」もこの辺りが狙われていたのではないだろうか。

■日本の対米融合・手先化と二大政党
 自民党独裁から二大政党制への移行、その契機に今回のマニフェスト選挙がなったのは確かだろう。だが、この移行をそこからだけ見るのは余りにも皮相な見方だと言わざるを得ない。
 より重視すべきは、この間促進されてきた日本のグローバル化、対米融合・手先化とそれにともなう地方・地域の崩壊など従来の社会経済構造の崩壊である。それが自民党およびこれまでの政治の基盤を突き崩す一方、新しい政治への大衆的要求を高めてきたのは、地方選挙での無党派層の大量進出や村おこし、町おこし運動の全国的な勃興、そして総選挙に先立つ自民党総裁選での派閥政治の崩壊と「改革の旗手」小泉氏の圧勝などで確認されてきたことである。
 だから、新しい装いを凝らしたマニフェスト選挙がこうした大衆的な要求の一部を二大政党制へと誘導するのに利用されたというのがより正確なところではないだろうか。
 ところで問題は、こうしてつくられた二大政党制をどうとらえるかということだ。これについて、ニューズウイーク誌は、「日本政治のアメリカ化」と表現していた。
 実際、今回の総選挙は、そのやり方からしてアメリカ型だった。自民党は相手との違いを明確にするアメリカ共和党の選挙戦術を採り入れたし、民主党はアメリカの選挙コンサルタント会社の指示に従いイメージ選挙を繰り広げた。
 選挙のやり方だけではない。二大政党制それ自体がアメリカ型である。二大政党の政権をめぐる競い合いを通じて、有権者に民主主義の幻想をふりまき、その不満をそらしながら、超巨大国際独占資本の利益を実現していくのがアメリカ型の政治方式だ。
 だが、政治のアメリカ化というとき、本質は、その方式よりも内容にこそある。すなわち、自民、民主の二大政党がそろって「構造改革」という名の日本のグローバル化、対米融合・手先化を至上命令とし、それをいかによくやるかをめぐって競い合っており、加えて双方の政策の相違点がアメリカの共和、民主両党のそれと似通ってきていることが重要である。つまり、米超巨大国際独占資本は、自民党独裁時代よりはるかに容易に日本政治をアメリカ政治に連動させ、米一極支配を通じての自分らの利益実現のため服務させることができるようになったわけである。

■政治のアメリカ化は日本に何をもたらすか
 日本政治がアメリカのための政治になるということは本来あってはならないことである。しかし、今の日本ではこの常識が通用しなくなっている。アメリカのための政治が結局、日本のためになるというのだ。
 だが果たして、アメリカと融合し一体となって、米一極支配の手先になることが本当に日本のためになるだろうか。イラク戦争をめぐって、米一極支配を支えるのかそれとも離米多極化の方向に進むのかで世界が大きく動いた今年の情勢発展は、イラクにおけるその後の米軍の惨状と併せて、この疑問に対する答えを暗示しているのではないだろうか。二人の日本外交官のイラクでの死とこれから派遣される自衛隊員たちの運命は、それをさらに明確にするだろう。
 しかし、日本政治のアメリカ化がもたらす惨劇はこれに留まらない。アフガニスタン、イラクと反テロ戦争を拡大してきたアメリカは、自らの世界一極支配の命運をかけて、それを左右する環としてある反テロ朝鮮戦争への日本の全面参加を要求している。
 事実、そのために、国民保護法制定、防衛省創設など有事体制のさらなる強化が謀られ、最終的には改憲に至る軍国化の完成がめざされている。2002年、すでに旧21世紀臨調が、「国の外交・安全保障・危機管理にかんする基本法制上の課題」などにおいて、国家戦略諮問会議の設置、安全保障基本法制定、国家情報機関設立などとともに憲法改正手続法の制定を提言し、自民、民主両党もそれぞれ自らのマニフェストにそれを盛り込んだように、二大政党政治が朝鮮戦争を射程に入れ、改憲を最重要課題として追求するようになるのはほぼ間違いないところである。それが日本にとってはかりしれない災難につながるのは火を見るより明かだろう。
 だが、不幸と災難はなにも将来のことではない。あらゆる分野、あらゆる領域にわたりすでに今現在もたらされている。経済の対米融合一つ取って見ても、それは明かである。傍若無人な脱税や不良債権処理に乗じての日本企業の売買とそれを通じての法外な利得など専横の限りを尽くす米系国際独占資本。中央、地方の経済政策から個別企業の経営方式まで「アメリカ式」を押しつけ日本経済に少なからぬ混乱を引き起こしている彼らの統制と干渉。大恐慌以来と言われる長期不況と停滞もそれによって一層深刻の度を増している。

■日本のための新しい政治を求めて
 二大政党制のもと、対米融合・手先化の政治を変えるのは容易なことではない。先の総選挙での小政党の敗退はそのことを示している。
 しかし、人民の要求に合わない政治が長続きするはずがない。総選挙で、四割以上の有権者が投票場に足を運ばなかった事実、改革を求め、新しい政治を求める大衆的要求が対米融合・手先化の二大政党政治への要求とイコールでは決してないという事実は、変革への大きな足がかりとなるのではないだろうか。  そのためになによりもまず、新しい装いを凝らした二大政党政治が日本のためでなく、アメリカのための政治であることが皆に認識されるようにならなければならず、新しい政治への要求に応える真に日本のための政治がどのような政治であるか、その理念と政策が打ち立てられていかねばならない。
 住民自治による村おこし、町おこしの運動、地方、地域で興る具体的な改革の気運、そして国政レベルでの離米親アジアの動き、さらには、日本型経営の見直し、地域振興や食の安全などと結び付いた地産地消、自然循環型農業の見直しなど、経済の底辺からの動き、また、日本語の見直しや日本の衣食住文化、大衆文化芸能の多様で新しい発展、等々は、真に日本のためになる新しい政治理念の確立でその重要な土台になるのではないだろうか。
 だが、それだけで日本政治が変わることはないだろう。より重要なのは、膨大に広がる大衆的政治離れ、政治的無関心層の拡大をどうするかということだ。皆が「日本の未来は自分の未来」と思い、政治に関心をもてるようにすること、ここにこそ最大の力が注がれねばならないだろう。そのためには、マニフェストを上から提示するようなやり方では到底だめだ。自分の生きる道を探す生活の底辺からの一人一人の要求をくみあげ、それに応えるような運動が切実に求められているのではないだろうか。


 
研究

市場原理か、自主の原理、協同の原理か 農業改革の二つの道

小川 淳


 進む高齢化と後継者の不足、拡大する輸入農産物と自給率の低下と、日本農業をとりまく環境は日に日に厳しさを増している。価格競争や生産コストで外国産農産物に対抗できないのが実状だ。

◆農業環境の急激な変化
   カンクンでのWTO会議は、先進国の農業補助金削減で途上国と先進国が対立し、何の合意もできずに終わった。農業補助金問題と平行して焦点となった農産物関税率問題では、アメリカなど農産物輸出国が、関税の上限を決め、将来的な無関税化を強く求めている。コメを抱える日本はこれに反発し、関税上限案は導入するが例外を認める議長宣言案が採択されることで妥結を見た。いずれにせよ、将来的にはコメを含めた農産物無関税化の流れは世界の大勢となりつつある。
 WTOの決裂で今後の自由貿易交渉は、二国間FTA(自由貿易協定)交渉が焦点となる。ASEAN諸国は、日本にFTA締結を強く求めている。日本との二国間交渉は、日本国内の抵抗が強く、農産物を産出しないシンガポールと締結したのみで、メキシコとのFTA交渉でも豚肉、オレンジ果汁をめぐって決裂したままだ。一方、中国とASEAN諸国間のFTA交渉は、今年10月に中国とタイが農産物関税撤廃で合意するなど、その歩を早めている。アメリカもアジア諸国との自由貿易協定締結に積極的に動きつつある。
 このような中で、国内で勢いを増してきているのが農業分野への規制緩和、構造改革の動きだ。「日本農業が衰退したのは、強きをくじき、弱きを助ける政策をとったからであり、農業自由化は衰退より競争力強化を生む。やる気があり、競争力ある生産者に資源を集中し、国内の農産物の競争力を高めることだ。そのためには、農地の賃貸や取得を妨げる制度、一律な生産調整、株式会社参入を認めないなどの国家規制を完全に撤廃すべきだ」。こうした市場原理による構造改革の声が高められてきている。
 農業自由化の流れに合わせるように、現場では新商品開発競争、新規ビジネスが活発化し、現在6500社ある農業生産法人数が、2010年には3万社へと増加すると予測されている。
 農産物市場の自由化と無関税化、国内農業分野への規制緩和と株式会社参入など、国際競争力のないまま基盤の弱い日本農業が貿易自由化の波に押し流されるなら、日本農業は死滅するしかない。問題は、こういう急激な環境の変化の中で日本農業をどのように守り、発展させていくのかである。

◆市場原理による構造改革
 規制撤廃や株式会社の農業参入を認めるなどの、現在進められようとしている市場原理に基づく上からの構造改革は、アメリカ農業を模範としている。小規模農家をつぶしてアグリ・ビジネス化し、巨大資本を参入させて、より大規模化、利潤追求を第一とするアメリカ型農業をめざすのか。それとも小規模の家族農業を資金援助で守りながら、環境保護重視のEU型農業をめざすのかという、もっとも重要な視点が論議されていないのではないか。
 農産物の関税撤廃や農業部門の規制緩和をもっとも強く要請しているのは日本独占資本やアメリカの穀物メジャーであり、当事者である日本農民はむしろ強く抵抗している。誰のための農業改革なのか、ここもあいまいだ。
 むしろ市場原理による農業改革は、日本農業を利潤追求第一のアメリカ型農業へと転換させようという路線であり、それは日本農業の再生に結びつかず、むしろ日本農業を破壊し、アメリカによる市場支配を強め、一層の対米従属化を生むのではなかろうか。
 そうでなくても、年間1600万トンのトウモロコシ、580万トンの小麦、500万トンの大豆をはじめ、主要穀物のほとんどは米国から輸入している。日本へ輸入される農産物全体でもおよそ4割をアメリカが占めている。これら主要穀物の対米依存が拡大するだけでなく、遺伝子組み換え作物による国内種子市場の支配、国内の株式会社や農業生産法人との連携による新商品開発や流通、小売り販売網への米資本の参入など、これまで以上に日本農業はアメリカ資本に依存するようになるだろう。
 農業部門の対米融合とアメリカ穀物メジャーによる日本農業への支配は、農業にとどまらず、ひいては政治・経済的対米融合化、手先化をより一層加速させるものとなる。

◆自主の原理、協同の原理による構造改革を
 このような、アメリカ型市場原理による改革とは異なる「もう一つの農業改革」の動きもすでに始まっている。
 一つは、農地の協同化や農業生産法人化による生産基盤の強化である。例えば、大分県の杵築市のある地域では、一定の地区の農家が農地の利用権を組合に差しだして「農地の協同化」を進め、その代償として賃貸料を受け、地区全体として適地・適作を計り、収益を上げ、農産物加工などに投資し、農産物の付加価値をあげるというような「地域営農」が始まっている。家族単位の所有権、営農権、資金を協同化することにより、農地、人手、資金の不足を解消することができる方法だ。
 また、地域・自治体と一体となった「地産地消」型農業への転換の動きも活発だ。京都府大宮町では、村営百貨店をたち上げ、地域でとれた野菜や加工品などを販売、地域活性化の拠点となっている。
 農業を衰退させてしまっては、食の自給権を失ってしまう。世界的な食料不足、水資源枯渇の時代に、食料自給率が40%と世界最低水準を誇るのは先進国の中でも日本だけだ。世界総人口の2%に過ぎない日本が、世界の穀物輸入の10%、食肉の20%を占める。豊かな気候、国土に恵まれやろうとすれば食料自給が可能な日本が、このような異常とも言える世界最大の食料輸入国であり続けることは許されない、そういう時代を迎えているのではなかろうか。
 日本農業をどう守り、発展させていくのか。その方向をめぐって、効率・利潤・競争の市場原理か、それとも、極端な対米従属性を打破する自主の原理、農民、地域、消費者との連携を強化する協同の原理か、この二つの流れが拮抗し、錯綜している。
 それはすなわち、対米融合・手先化か、それともアジア、多極世界と連帯した自主化かの闘いでもある。地域での農業再生の動きと日本自主化、自主、自治、自決への動きが一つになってこそ、日本農業の再生は可能となるだろう。


 
文化

無国籍チャンバラは何を語る?

魚本公博


 最近、封切られた「キル・ビル」やトム・クルーズ主演の「ラスト サムライ」など外国人監督によるサムライ映画が好評だそうである。そして、現代風チャンバラ映画「VERSUS」の北村龍平監督のハリウッド進出。北野武監督の「座頭市」のベネチア映画祭での監督賞受賞など、サムライ映画が俄然脚光を浴びている。
 日本文化が海外でも評価されているという意味では悪い気はしない。しかし、はてな? と思うのは、その無国籍ぶりだ。「キル・ビル」という映画では、飛行機の座席に刀かけがあり、日本人は今も刀をさしているのだそうだ。タップダンスありの金髪の「座頭市」。北村監督の「チャンバラ」も、どこの国やら定かでない無国籍さが漂う。
 こうした無国籍ぶりを見て思い出すのは、「元々文化は混在化して純粋な文化など存在しない」としながら、「世界は『多文化』という現実と常識を基本に据えた上で、平和と協調を考え行動する時代が来ている」(青木保 政策研究大学院大教授)という主張などである。
 いわゆる「多文化主義」。最近、実にこの言葉をよく目にする。この10月、日本外務省が主催したシンポジウムのテーマは「21世紀の世界平和−多文化共生社会の実現を目指して」だった。米国追随でイラク戦争に自衛隊を送れと、その急先鋒になっている外務省が「多文化共生で平和を」などと言っているのだ。
 このシンポジウム、95年から始まった「グローバル・ユース・エクスチェンジ・プログラム」の一環である。米国の「市場原理主義」を基本にした米国の価値観(米国文化)を世界に広めるグローバリズム。そうした価値観への転換を青年たちに説くかのようなプログラム。要するに、「多文化主義」とは、各国各民族の文化を形の上で認め合うようにしながら、内容的には米国の価値観で世界を一色化しようというものではないか。すなわち、それぞれの民族文化の米国文化の中への包摂、溶解、融合だ。  内容をすべて見たわけではないが、「チャンバラ」という形式だけを肥大化させ、弱肉強食の市場原理そのものの世界を描くかのように、切りまくり殺しあうという「サムライ映画」は、その一つの典型であるように思える。
 「多文化主義」の狙いや現実、それをよく見ないと、「多文化を尊重しよう」という立派な言葉をもてあそびながら、日本は文化面でも世界文化の米国化の手先になってしまうのではないか。  そもそも、多文化を尊重するということは、民族ごとに異なるものの見方、考え方ややり方のなかに、それぞれの社会歴史的、自然地理的条件に合った知恵や道理を学び、それを自分たちの生活にその実情に即して創造的に活かしていくことであって、アメリカ式「サムライ映画」のように、ただ「切り合う」という形を自分たちの価値観表現に利用するだけといったことでは決してないだろう。


 
朝鮮あれこれ

柳京チョンジュヨン体育館を訪ねて

田中協子


 2003年の南北民間協力の象徴ともいえる「柳京チョンジュヨン体育館」に見学に行ってきた。
 この体育館は、南の現代グループ名誉会長だった故チョンジュヨン氏の遺志により南の現代グループと共和国の合弁で建てられたものだ。その開館式(10月7日)には、南からチョンジュヨン氏一族、現代峨山(アサン)関係者、南北交流関係者が1000余名という大人数で訪れ、ちょっとした話題になった。それもそのはず、一行がこれまでのような板門店や第3国経由ではなく、朝鮮半島の南北を結んだケソンームンサン西海臨時基本道路を通って来たからだ。開館セレモニーでは南北芸術人による音楽公演や打ち上げ花火もあり盛大に行われた。
 体育館は、ピョンヤン市の中心部を流れる普通江を眺めるように建っている。付近にはピョンヤン刺繍研究所や105階建ての柳京ホテル(未完成)が立ち並ぶ静かな景勝地だ。
 革新通りから東に入ると、シルバーベージュに輝く円形の体育館が私たちを迎えた。右横には付属室内訓練場があり、野外コートもある。案内人の話では、この体育館は多人数を短時間で収容解散できるよう入口が工夫され、館内は空気温湿度調節、防災防犯システムが最新技術で完備しているという。体育館の1万2千の観覧席がパートごとに青、赤、ピンク、黄色、緑とカラフルに色塗りされているのが目を引いた。選手控え室、シャワー室、肉体トレーニング室、喫茶室なども見たが、すべて身障者を考慮したバリアフリー設計であった。
 2階のロビーを歩いているときだった。何気なく見た消火栓器具の前で足が止まった。韓国の会社名、使用方法が記されていたのだ。南から寄贈された設備なので当たり前と言えば当たり前なのだが、その小さなハングル表記に南北統一の新しい時代の到来を感じずにはいられなかった。
 開館式には南北チームのバスケット競技が行われたというが、案内人が「これから、どんどん南からスポーツ選手がやって来てこの体育館で競技をしてほしいと思っている。そして、世界の舞台で南北の力を大いに発揮してもらいたい」と語った笑顔がさわやかだった。


 

編集後記

魚本公博


 米国式二大政党制への軌道が敷きつめられたかのような日本政治の現状、それは経済、文化の様々な分野での対米融合を促進していくものになるでしょう。そして、それは米国の手先になってアジアに敵対する戦争の道へ…。
 イラクでついに日本人外交官が犠牲になりました。朝日新聞の舟橋洋一氏の記事に、「最近、米国人が『日本人は、どのくらいの犠牲なら耐えられるのか』と聞いてくる」というのがありましたが、米国は「どのくらいの犠牲が出れば、日本人は反テロ戦争に参戦するのか」なんてことも考えているかもしれません。
 二つの命の犠牲を無駄にしないためにも。日本は、頭から脳天気に米国の視点からでなく、足を地につけ日本の視点、アジアの視点でものごとを見ることが重要になっていると思います。


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