研究誌 「アジア新時代と日本」

第55号 2008/1/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

2007年度情勢総括 世界のグローバル化、帝国化が深まる中、問われた国の責任、主権の擁護

介護保険制度を斬る

広告 ブックレット発売中

論点T 新自由主義経済の帰結「限界集落」

論点U 「消費者、生活者が主役の社会」にするためには?

世界の動きから



 
 

編集部より

小川 淳


 明けましておめでとうございます。
 2007年を象徴する言葉を一つ挙げるなら、「格差」という言葉であり、この国の「冷たさ」が際立った一年だったような気がします。
 日本の格差はどの程度なのか。
 一昨年OECD(経済協力開発機構)が出した日本向けのレポートはショッキングでした。OECD加盟先進国17カ国の中で日本の「貧困率」が米国に次ぐ2位となったからです。「貧困率」とは、その国の平均所得の半分以下の所得しかない人を「貧困者」と定義し、国民の中でのその割合を示した数字ですが、日本の貧困率は13、5%と、米国とほとんど差がありません。総中流といわれた格差なき日本社会はもはや幻想と化したわけです。
 今日本でどんな人が貧困者なのか。最も貧困率の高いのが母子家庭の53%で、次いで高齢単身者の43%。年齢別では29歳以下の25%、70歳以上が25、3%でした。貧困層が若年者と高齢者に集中しているのが日本の特徴といわれています。
 県民所得の高い東京で455万、最も低いのは沖縄で198万、青森が215万と、大都市と地方都市の格差も拡大しています。
 もうひとつ、新しい格差として注目されているのが「企業内格差」といわれるもので、大企業の役員報酬は大幅に増加している中で従業員給与は横ばいのままです。役員報酬は02年から急激に伸びて従業員給与の2〜3倍から4、8倍と膨れ上がっています。
 一方で、企業の儲けのうち、どれだけ労働者に配分するかを測る「労働分配率」は下がり続けています。
 もし格差を是認するような社会をめざすならセーフティネットや機会の均等など保障されなければならないのですがその具体策はなにもないどころか、これまでかろうじて維持されてきた生活保護や老後の年金システムさえ政府の怠慢から破たんしています。そのような政府の冷たさに鉄槌を下したのが先の参院選での自民党大敗だったのではないでしょうか。
 2008年の今年こそは、このような「冷たい政治」に終止符を打ちたいものです。


 
2007年度情勢総括

世界のグローバル化、帝国化が深まる中、
問われた国の責任、主権の擁護


 昨年度の情勢を総括したとき、一つ言えるのは、破綻したブッシュ単独主義に代わって、国際協調主義がいよいよ幅をきかせてきたことだ。日本においてもその影響は、ブッシュ路線に忠実だった安倍政権の崩壊など、少なからず現れた。だが、より重要なことは、「国際協調」に看板を掲げ替えながらも変わることなく深まる世界のグローバル化、帝国化の中、主権国家をめぐる問題がますます切実に提起されてきたことだ。すなわち、グローバル化、帝国化によって否定された主権国家、国民国家の国民に対する責任性が「小さな政府」のもと弱まり、外交における自主性が失われる一方、主権を奪われ、脅かされた国々の主権を取り戻し、擁護するための闘いが世界的範囲で勝利してきたこと、ここに昨年度情勢のもっとも基本的な特徴があると言えるのではないだろうか。

■問われた国の責任と外交における自主性
 薬害C型肝炎訴訟問題は、「裁判所の判決待ち」を云々する福田首相の妄言を吹き飛ばし、国が責任をとる方向で決着がつきそうだ。5000万件の未払い問題が発覚した年金問題も国の責任そのものだった。  国の責任がかつてなく切実に問われた昨年、政権交代への国民の要求が顕になった参院選の結果は、そのことを如実に示していたと言える。生活第一、地方重視を打ち出した民主党の大勝は、国民生活、地方などへの国の責任を放棄する「小さな政府」路線に対する国民の拒否の意思表示に他ならなかったのではないだろうか。
 そればかりではない。「国の責任」問題は、大臣たちの放言、暴言のかつてないひどさ数の多さにも現れていたし、偽装表示にみられる企業の社会的責任への無自覚など、社会全体に蔓延する無責任風潮に反映されていたと言える。
 外交における自主性の無さが目立ったのも昨年の特徴だった。国際協調路線に転じたアメリカの対朝鮮政策の変更に異議を唱える哀願外交は、日本外交の自主性の無さをさらけ出した。また、COP19国際環境会議で温室効果ガス規制の数値目標化を拒んだアメリカへの屈従は何だったのか。それは、「給油問題」をめぐっての自民党の対米忠誠ぶり、民主党の狼狽ぶりにも顕著だった。

■世界的範囲で勝利した主権擁護の闘い
 目を世界に転じたとき、昨年は例年にも増して、主権を擁護する闘いの勝利が印象的だった。
 米軍撤退の道を切り開いたイラク人民の闘い、アメリカの傀儡、カルザイ政権を首都カブール周辺に追い詰めたタリバンを中心とするアフガニスタン人民の闘い、そしてイラクとともに「悪の枢軸」と名指しされ、「先制核攻撃」の脅しを受けながらそれに屈せず、逆にアメリカを屈服させた朝鮮とイランの闘い、さらにはイギリスやオーストラリアなど反テロ戦争参戦国における戦争加担に反対し、首相ブレアの退陣や対米追随政権の交代をかち取った闘い、等々は、アメリカの世界民主化・反テロ戦争戦略、それに基づくアメリカの占領・支配に抗して、主権を取り戻し、擁護・強化するための闘いだったと言うことができる。
 主権擁護の闘いの勝利は、また、アメリカ主導の構造改革路線への拒否としても現れた。世界に先駆けて新自由主義改革の実験場にされ、その失敗の教訓から反米・反新自由主義の先鋒として立ち上がった中南米は、昨年、社会主義路線を掲げて勝利したチャベス・ベネズエラ政権や「共同体社会主義」のボリビアなど、主権擁護の闘いを一段と強化した。一方、北欧での福祉国家路線の堅持、「第三の社会主義」へのプーチンの支持表明、胡錦濤による「科学的発展観」の提起など、アメリカ・新自由主義改革路線を拒否する自主的な政治経済路線が次々と立ち上げられてきている。
 07年度、世界の基本趨勢は、明らかにアメリカによる支配に反対し、主権を擁護する方向を一段と強めた。そうした中、日本はどうだったか。それにただ逆行するだけだったのか。そうではない。9条改憲反対の気運の盛り上がりや、参院選に見られた地方や生活者の反乱など「小さな政府」・構造改革路線を拒否する動きの強まり等々は、国民国家の責任と主権を問題とする意識の高まりを示している。

■世界のグローバル化、帝国化と主権国家
 主権を擁護・強化する闘いは、今、アメリカによる世界のグローバル化、帝国化との闘いとして推し進められている。アメリカの世界民主化・反テロ戦争戦略、構造改革路線は、このグローバル化、帝国化のための基本路線に他ならず、ブッシュ単独主義の破綻と国際協調主義への転換は、主権擁護の闘いに敗退したアメリカがあくまで基本路線を強行するための術策の変更に過ぎない。
 ここで、世界のグローバル化、帝国化と言うとき、それは、アメリカを国の上の国とし、その一極支配のもと、国境をなくし、実質上、全世界を植民地化、属州化して、一つの帝国支配を実現するということだ。この世界グローバル化、帝国化のポイントが主権国家の否定にあるのは容易に理解できることだろう。
 今日、世界民主化のためという口実のもと、内政不干渉の原則が公然と否定され、反テロ戦争という名の主権蹂躙の侵略戦争がテロ撲滅の正義の制裁戦争として合法化され、規制緩和・民営化の新自由主義構造改革路線が国家の介入を否定する「小さな政府」の実現として称賛されていること等々は、すべてその現れに他ならない。
 昨年激しく噴き出し展開された、国の責任を問い、主権の擁護・実現を求める闘いは、この主権国家否定のグローバル化、帝国化がいかに現実の要求、国民の要求、時代の要求に合わない矛盾に満ちた単なる歴史の反動に過ぎないものであるかを示している。
 最近、主権国家、国民国家が絶対的主体となった近代は終わったとしながら、この変化を、主体が多様化する「新しい中世」への転換、主権国家が最強のパワーとなった民主制から超国家企業(多国籍超巨大独占資本)が最強となる「君主制」への転換としてとらえる論調が強くなっているのも決して偶然ではないだろう。

■グローバル経済、帝国経済の矛盾の深刻化
 昨年の情勢を見るとき、もう一つ重要なのは、グローバル経済、帝国経済の矛盾が大きく噴き出したことだ。
 グローバル経済、帝国経済は、世界のグローバル化、帝国化の土台をなし、その根拠となっている。ドルを基軸通貨とし、アメリカ多国籍企業を媒介に、アメリカの輸入代金の支払いを大動脈として、国境を超え循環するグローバル経済、帝国経済があるから、グローバル化、帝国化は、その物質的根拠を持ち、アメリカを中心とする世界帝国の形成を強行していくことができる。
 そのグローバル経済、帝国経済の矛盾が深刻化したことが持つ意味は言うまでもないだろう。即、グローバル化、帝国化の根拠自体が揺らぎ、無くなるということだ。
 世界的な経済矛盾が、景気回復の停滞と原油など物価高が同時進行するスタグフレーションの発生、低所得者向け住宅ローンの証券化と住宅バブルの崩壊が結びついてのサブプライムローン問題の深刻化、ドル安の進行にともなうドル基軸通貨制の動揺などとして顕在化したのは周知の事実だろう。ここで問題は、これらの矛盾が新自由主義的帝国経済固有の構造的矛盾として深まっていることだ。所得格差の拡大の中、一方における金余りとマネーゲームの横行、他方における膨大な貧困層の形成と購買力の低下、衰退するアメリカ経済強化のための低金利政策とドル安克服、強いドルのための高金利政策の矛盾、財政と経常、双子の赤字の歯止めのない累積や粗悪な証券の発行などにともなうアメリカへの信用の低下とドル安、等々だ。
 そうした中、昨年を通して、世界の通貨体制をドル一極からアジアと中東、南北アメリカ、ヨーロッパの四極など、多極化する案が具体的に検討され、ユーロに続いて中東でも域内単一通貨の発行が急がれている。このドル基軸通貨制の崩壊が帝国経済と世界の帝国化に及ぼす影響は決定的だと言えるだろう。

※       ※       ※

 新年度、帝国化の術策として国際協調主義の全面化が、国連を前面に立てたアフガンへの反テロ戦争の強化など、はかられてくるのは明らかだ。
 そこで問われるのは、主権の尊重・擁護こそ真の国際主義だという理念の普遍化であり、東アジア共同体など、主権尊重の地域共同体の構築・強化を経済面でも、安全保障面でもはかる闘いの推進だろう。日本がその闘いでいかなる役割を果たすか。その主体の形成が問われている。


 
 

介護保険制度を斬る

介護労働者 手束光子


■福祉切り捨てのはじまりは
 「高齢化・少子化」の鳴り物入りで、自民党政権の福祉切り捨てがはじまったのは、今から20年前、ちょうどバブル景気まっさかりのころ、小泉厚生大臣−中曽根政権のころです。国労つぶしに象徴される、民営化路線が福祉分野にも民間委託と自由契約制の導入という形であらわれました。悪名高き小泉厚生省の"エンゼルプラン"です。
 1947年の児童福祉法の下にスタートした措置制度は、すべての子供に保育を保障するという理念で、焼け跡の"浮浪児"対策としてはじまりました。50年代の岩戸景気から女性労働の進出により「ポストの数ほど保育所を」の運動がおこり、60年代は次々と保育所ができ保母不足になる。75年ころから少子化がはじまり、同時に保育内容創造(「障害児」保育、「同和」保育など)の時代となり、90年代からは地域子育てセンターとしての機能を求められてきた保育所。その百年の歴史は、1900年代の救貧法にもとづく救貧対策からはじまって、いまや地域の子育ての要として、保育所の社会化=公的責任枠を簡単には崩せないものとなっています。

■措置制度を崩した介護保険
 バブル崩壊から景気失速になった日本経済の立て直しをめざして、当時の橋本政権は大競争社会に耐えるための「六つの構造改革−行政、金融、財政、経済、教育、社会保障」をうちだし、その突破口が社会保障改革第一弾の介護保険制度です。「社会的入院」をなくした在宅介護にし、医療費を「保険」という形で国民に肩代わりさせ、高齢者医療費の抑制をはかろうとしたのです。
 86年に老人福祉法が成立し、医療無料化と介護3本柱(訪問介護、ショ−トステイ、ディサ−ビス)がうちだされ、90年にはゴ−ルドプラン(ヘルパ−10万人へ)、そして95年には新ゴ−ルドプラン(ヘルパ−17万人へ)がスタ−ト。その最中の97年に三兆を超える財源不足の解決策として、当時の管直人厚生省が介護保険制度を提案したのです。
 「介護の社会化」というテ−ゼの前に、「税方式」か「保険方式」かの議論が国内で渦巻きましたが、バブル後の長期不況のなかで自民党の「金がない」コ−ルに吹き飛び、厚生省は「保険方式」批判にたいし、"走りながら考える"と見切り発車してしまったのです。こうして"安心老後"の公的責任枠がはずされてしまいました。

■介護保険制度の功罪
 年金や健保のように四十歳以上みな保険となったため、介護制度への関心が高まり、サ−ビスの種類や情報量が増えました。同時に介護サ−ビス事業の乱立により、お金のある人はふんだんにサ−ビスを受け、ない人は受けられなくなりました。また、現場の介護労働者は分断と不安定化が進み、離職率や労災率が増える一方です。
 介護内容といえば、04年と06年の二度の改悪により、介護報酬(国からの支給)は切り下げられ、深刻な人手不足が進んでいます。介護が必要な人から介護をとりあげ、介護労働者を使い捨てにする、これが自民党のいう「介護の社会化」の現実です。"みんなでお金を出しあって老後の安心を"という言葉にだまされてはいけません。
 1942年にスタートした「年金保険」は、今まさに破たんしようとしていますが、船員保険は国民から軍事費を集めるためだったし、国民健康保険も健やかな兵士をつくるためだったといわれています。"健やかな体と老後の安心をみんなの金で共済"という建て前の搾取のしくみだったのです。

■私は思います、21世紀を生きぬくために
 とうとう医療難民、介護難民、そしてワ−キングプアという悲しい言葉が生まれてしまった21世紀の日本のスタ−ト。「働いても働いても楽にならず」「病気もできず、長生きもできず」の社会になってしまいました。
 「障害者自立支援法」というウソ。「消えた年金問題」のごまかし。「高齢者医療保険制度」という二重の搾取。子供から年寄りまで、男も女も、億万長者の10万人を除くすべての日本人が今おかれている状況です。
 三年前、本誌に"ヘルパ−のつぶやき"を投稿しましたが、そのなかで「年をとっても大丈夫。ヘルパ−がいるから」と豪語してしまい恥ずかしいかぎりです。あれから老人ホ−ムの利用料が上がり(家賃と食費が自己負担になった)、私の収入では老人ホ−ムにいけず、在宅でがんばらざるを得ません。「人生の最後をわが家で」というのは大変厳しい現実!
 昔、1975年ごろ、自治省で保育運動をしていたとき、「民間委託反対、措置制度を守ろう」と全国の保母がたちあがり、公立と私立が力をあわせて運動を展開し、エンゼルプランをやっつけました。また1997年の「介護保険制度反対運動」にはヘルパ−として参加し、兵庫で大きなうねりをつくりました。今から思えば一味足りなかった気がします。
 それは憲法25条の精神です。このたびの7月参院選にむけて「9条ネット」で取り組みながら、そのことに気づきました。「憲法をくらしにいかそう」というのはこのことだったのかと。すべての人の生きる権利を守ることから、すべての取り組みがはじまるということを。
 あきらめずに言い続けよう、歩き続けよう。そのためには、みんなが納得できる言葉で不変の理念を、現実離れしてるとか笑われてもめげずに、やっぱり言い続けていくべきです。十年後、三十年後には、今、私がしているように、その言葉が現実の重みとして、人の心に響き、波長が静かに広がっていくものと私は思います。


 
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論点T

新自由主義経済の帰結
「限界集落」

小川 淳


 今、多くの集落が「限界集落」へと向かいつつあるという。「限界集落」とは、長野大学教授大野晃が1991年に提唱した概念で、中間地帯や離島を中心に、過疎化や高齢化が進行し、集落の自治や生活道路の管理、冠婚葬祭など、共同体としての機能が急速に衰えてやがて消滅に向かう集落のことである。
 大野は、65歳以上の高齢者が自治体人口の過半数を占める状態を「限界自治体」と名づけ、この定義を集落単位に細分化したもの、それが「限界集落」だ。
 2000年現在で「限界自治体」となっているのは中国地方に一つあるだけだ。ところが末端の集落単位で見ると、2006年の国土省の調査では、全国62271集落のうち、高齢者65歳以上が半数を占める集落が7873集落(12、6%)あることがわかった。しかも10年以内に消滅の可能性のある集落は422集落、いずれ消滅する可能性がある集落が2219集落もあるという。
 冠婚葬祭や共同作業など生活に直結した共同体としての機能は「集落」が担っている。生活の基本単位として最も重要な単位が集落だ。
 後継者のいないこれら「限界集落」をこのまま放置すればやがて「消滅集落」と化す。この「限界集落」をどうするか。この見方には二つあって、ひとつは市場にゆだねて消滅するに任せるしかないという考え方で、いや、このまま「限界集落」を放置して集落が消滅すれば、山林や里山、国土維持にとって死活的な問題となる、というのがもう一つの見方だ。
 経済効率やコストだけから考えるとこのような地域に投資をすることは無駄に違いないし、集落や田畑が自然に還るのを悲観する必要はないのかも知れない。ところが、これらの「限界集落」は大野が指摘するように、実は人工林の占める割合が高い西日本に集中しているという。つまり人間の手による維持・管理が不可欠な地域なのだ。もし間伐や山の手入れを怠ると山はますます荒れる。人工林の占める割合が高い地域から山林を管理する集落がなくなれば人工林はどうなるのか。
 1950年代に木材需要が高まり国策として天然林を乱伐し杉の拡大造林を続けてきた。国は自治体に数字を競わせて杉を植えさせた。結果として若者は山を捨て、山には一本も売れない杉山が残り、土地がやせて山崩れが頻発するようになった。杉が密集すると表面に光が届かなくなり地表面の緑が失われ、保水面を失った斜面は豪雨に合うと崩れやすくなる。ちなみに全国で1千万ヘクタールの人工林のうち8割が放置状態である。人工林でもきちんと手入れをし、間伐を行えば、下草が芽生え、広葉樹も混じり、素晴らしい森に換えることができるのだが人がいない。
 事態はなぜここまで悪化したのか。
 市場から不要と見なされ者は容赦なく切り捨てられていく。それは山間部の集落に止まらない。市場の外縁部でもがき苦しむ都会のフリーターや派遣社員、リストラに怯える正社員、貧困に喘ぐ独居老人や母子家庭、いわばその延長にこれら「限界集落」があるわけで、そこに都会と山間部の区別はない。その意味では、この限界集落もフリーターや母子家庭などの貧困層の拡大も、同じ新自由主義という時代が生んだ「落とし子」なのかもしれない。
 「限界集落」の再生について、大野はいくつかの提案をしている。一つは、老人が街に下りなくても食料品を手に入れたり、各集落に医療や介護など最低限の生活保証「ライフ・ミニマム」が維持できる施設を設置することだ。このような施設があれば、団塊世代や若者も山に入りやすくなるという利点がある。第二に、山と川は同じ流域圏として有機的につながっており、下流の流域圏の人々と上流の流域圏の人々が手を合わせて共同で流域圏を管理していく流域共同管理。第三に、住民自らが政策立案者になり、地域つくりの実践主体になる政策提起型の地域つくりを提唱している。
 重要なことは、もしこれらの施策を実行しようとするなら、今日の新自由主義の政治原理に立脚している限りは不可能で、新自由主義に代わるまったく新しい政治の原理に立脚しなければならないだろう。まずは今日の自民党の新自由主義政治に終止符を打つことである。


 
論点U

「消費者、生活者が主役の社会」にするためには?

金子恵美子


 昨年の日本の世相を表す言葉は「偽」。「本物のようにみせかけること」と辞書にある。不二家に始まり船場吉兆まで、本当に怒りを通り越して、開いた口が塞がらないというか、なんでこんな社会、こんな日本になってしまったのだろうと悲しいやら、嘆かわしいやら。
 なぜ人を平気で騙す風潮がこうもはびこるようになってしまったのか?
 答えは簡単だと思う。「人より金」の社会に日本が変質したということである。日本が資本主義社会である以上、競争も金儲けも当たり前のことであるが、今日これが良心や倫理や道徳にも勝って日本社会を支配するようになっているということである。
 「勝ち組」「負け組み」という言葉も頻繁に耳にしたり目にするが、要するに競争に勝って裕福な生活をする一握りの階層が「勝ち組」で、競争で破れ富や地位を手に出来ない絶対多数の階層が「負け組み」ということだ。ここには他者に対する暖かい眼差しも通い合う情もない。勝ち負けだけで峻別される壁があるだけだ。一言で言って今の日本社会は共同体的関係が崩壊・破壊され、個人個人の他人社会になっているということである。
 人が人を平気で騙せるというのも、相手を自己の利害を達成する対象としか見ていないからであると思う。親が子に騙して、壊れやすい建物に住まわせたり、古くなった物を食べさせたりはしないはずだ。要するに相手を愛し、大切に考えていたらそういうことはできない。
 こうした日本社会の変質、劣化が、新自由主義改革による市場主義の導入・全面化の過程と同時進行していることは誰の目にも明らかであろう。そしてこの新自由主義改革が米国の強力な要請(=圧力)のもとに進められていることも明確な事実である。
 一昨年話題になった関岡英之氏の著書「奪われる日本」で注目を集めた「年次改革要望書」(正式名は「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」)。表向きは日米両政府が互いに経済発展のために必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書とされているが、要は米国の日本への「要望書」であり、あからさまに言えば日本の政治・経済のあり方についての「指示書」である。郵政民営化がこの「要望書」によって実現したのは今や有名な話である。
 毎年10月ごろ米国から届くが、2008年度の「要望」が書かれた「2007年次要望書」も昨年10月18日にきっちり届いている。
 インターネットで「駐日米国大使館」を検索するとそのホームページが出てくる。その中に和訳された「年次要望書」が掲載されている。「要望する」「提言する」「求める」「奨励する」などのことばで、米国の要求が48ページにも渡り事細かく述べられている。
 これ一つあれば、日本は別に路線や政策を考える必要もない。やることは、これをどう実現するかを考えればいいだけである。だから小泉首相はあーものん気なニヤケ面をしていられたのだろう。全部紹介するわけにいかないし、日本に対する米国の内政干渉がどれだけのものか日本人一人ひとりが実感するためにも、是非一読を勧めたい。
 ちなみに「要望書」で実現されたと言われる主な施策としては、1997年、独占禁止法の改正・持ち株会社の解禁、1999年、労働者派遣法の改正・人材派遣の自由化、2004年の法科大学院の設置・司法試験制度の変更、2007年、改正された会社法で三角合併の解禁、日本郵政グループの発足等々。「今や要望の達成率はイチローの打率をも上回ったようだ」という声も聞かれる。
 今年の年頭の挨拶で福田総理は「消費者・生活者が主役に転換するスタートの年にしたい」と述べているが、新自由主義改革路線、市場主義のままでは、「金」が支配する社会は変わらないし、消費者・生活者が真に主役となる「偽」から「信」の社会への転換はありえない。
 日本社会の転換の根本は、新自由主義改革・市場主義を日本に迫る米国との関係で転換を起こすことである。
 先ずは、恥辱的な「年次改革要望書」の廃止を行えるような自主・自立の政治家、自民党になることが先決問題であると思う。


 
 

世界の動きから

 


■米国はどうしてアルゼンチン新大統領を苦境に陥れるのか
 アルゼンチンの新大統領クリスティナが就任するや米情報部はベネズエラ政府が8月の大統領選挙時に選挙資金としてクリスティナへ80万$を提供したという情報を流した。
 消息筋は、これはアルゼンチンとベネズエラが接近することを警戒する米国の策動だと見なしている。
 ベネズエラはクリスティナの夫である前キルチネル大統領の時にも、アルゼンチン政府の債券を大量に購入して、IMFの借款を前倒し支払えるようにすることで、経済政策立案で主導権を握れるように助けた。また、南方銀行を共同で開設し南米地域へのIMFと世界銀行の統制に抵抗した経緯がある。
 クリスティナ大統領は、米国はウソをいっており、他国がアルゼンチンの外交政策に干渉する権利はなくアルゼンチンはベネズエラとの関係を引き続き発展させると明言した。

(新華社)

■ネパール首相が主権問題で妥協を拒否
 国連常駐人道主義問題調停官、国連人権高等弁務官事務所弁務官などがネパールの人権がひどい状況にあるとしてその改善を要求している。
 しかし、これに対して国際人権の日に行われた集会で、プラサット首相は、これらの問題を解決する上で主権問題で妥協することはないと言明した。

(新華社)

■独自性を志向する動き
 「それでも地球は回っている」。EUは独自の地球位置測定体系(GPS)計画に、この名言をはいた「ガリレオ」の名をつけた。まさに「それでもEUはやる」ということだろう。
 11月30日、EU交通相会議で「ガリレオ」計画は最終承認された。これはEUが対米依存から離れて独自性を実現しようとする動きと結びついている。世界のGPS体系は米国が握っており、米国はこの核心部分を秘密にし、欧州諸国に信号受信設備を高く売りつけてきた。有事には、GPSに勝手に手を加えて欧州に混乱を与えた(湾岸戦争やユーゴ内戦のときに起きた)。
 ガリレオ体系は米国のよりも優秀だという(誤差が非常に少なく、高層建物が密集している地域で電波が弱化する現象も克服できる)。
 この計画は、資金問題とセンターをどの国に置くかということが足かせになって遅延してきた。米国は内心これを喜び「独自に開発するために莫大な費用を使うより、各企業がいかにGPSを上手く利用するかにカネを使ったほうがいいではないか」と揶揄してきた。しかし、EUはこれを克服した。EUは、昨年度未使用の農業補助金34億ユーロをこれにまわし、センター設置問題も解決した。問題は、「それでもやる」という、やる気である。

(朝鮮−労働新聞)
(EUは日本にもガリレオ計画への参加を要請したが日本は拒否=編集部注)

■「帝国」の自信を失った米国
 帝国思想は2003年に、ワシントン・コロンビア特別区で流行しはじめたが、そのような流行は3年しか続かなかった。
 ある識者は「米国は、ローマ帝国のように腐敗し無知であり衰退滅亡する危険に直面している」と言っている。言論界の雰囲気も変わった。米国の魅力、可能性に自信を失い、今の関心事は「今後一体何が起きるか」ということだ。
 「帝国」という言葉を温かく迎えた国民の保守層も4年後の今、帝国主義でやるのはこれ以上困難だと考えているし、人々はそれに惹かれなくなった。

(英−ファイナンシャル・タイムズ)

■ニカラグァで人民権力理事会が発足
 12月1日、オルテガ大統領は、革命広場で行われた人民権力理事会発足祝賀の大集会で「絶対的な主権は大統領、閣僚、国会議員、市長、理事会成員ではなく人民にある。それは人民が願う制度の下では最終決定権をもっているのが人民だからである」と述べた。

(ロシア−プレンサ・ラティナ)


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