寄稿 対朝鮮関係修復に動きはじめた福田政権 〜しかし、前途は暗い〜
■「外国人研修生、―時給300円の労働者、壊れる人権と労働基準―」(明石書店、1600円)。外国人研修制度は本来、アジアの外国人に日本の技術などを習得させる名目で作られた制度でしたが、安い労働力として使う悪質な企業が後をたちません。過酷な労働、劣悪な賃金、パスポートも通帳も取り上げられ逃亡の自由もないという、この研修生問題に14年前から取り組んできたのが全統一で、この本はその生々しい「実習」の実態を暴露した、現代版「女工哀史」といえるものです。研修生問題は、日本人として見逃すことのできない問題であるだけでなく、「自らの豊かさを実現するために誰かをいけにえにするシステム」(安田浩一)という新自由主義、グローバリズムの「闇の部分」に光を当てた一冊でもあり、その視点からも是非一読をお勧めします。
■大阪生野区在住のシンガー・ソングライター、趙博(チョウ・パク)が、名作映画を語りと音楽によって再現する舞台「歌うキネマ」の上演を続けています。同じ在日コリアン2世で、他界したマルセ太郎さんの舞台を受け継いで5年、レパートリーも、「マルコムX」「ホタル」「パッチギ」「風の丘を越えて」など8作を超えます。11月24日、生野区のKCC会館で「砂の器」を見ました。政治色が強いのではないかというのはまったくの杞憂で、くだけた俳優の物まねやジャズもあったり、客層も近所のおじさん、おばさんのような方々でした。舞台が始まるや、趙博演じる丹波哲郎、これが実に良く似ていて、彼の舞台と昔見た映画の場面がオーバーラップし、いつしか一人語りにぐいぐいと引き込まれていき、一時間半があっという間でした。機会があれば一度御覧下さい。
■「9条改憲阻止の会」の人達の闘う姿をドキュメントに納めたビデオ「命尽きるまで」が完成しました。この夏には参院選挙や10・21京都円山公園と、さまざまな機会に彼らの元気な姿を眼にしてきました。寒風吹きすさぶ国会前での43日間に及ぶ座り込み闘争、46年ぶりの6・15国会デモ、そして参院選挙闘争…。この老闘士たちを駆り立てたものは何だったのでしょうか。いずれにせよ世代や党派のしがらみを超えて、彼らが半世紀ぶりに一つになれたのはやはり憲法9条だからこそできたのだと思います。大先輩たちの姿に、おおいに刺激を受けた一年でした。
■民主党の不可解な行動
参院選後、焦点になっている「給油活動」問題であるが、これに対する民主党の動きは、不可解である。
参院選での民主党の大勝は、「安倍政治ノー」「安倍政治からの転換」という国民の声の反映であった。それも、その批判票が他の野党に分散することなく民主党に集中したことや、自民党の基盤である地方の一人区で民主党が圧勝したことなどを見れば、自民党政権下での軌道修正ではなく、自民党に代わる新しい政権を現実に担いうる政党として民主党に期待したものではなかったか。
そうであれば、民主党は、その声を背景に、「給油活動の継続」に正面から反対し、それを参院で否決することを通して、解散総選挙に持ち込むべきであったろう。それが民主党に新しい政治を託した国民の期待に応える道だったと思う。だが民主党のとった行動はそうではなかった。
国会では、給油量や使途不明問題の追求に時間を費やし、対案を出すとか言いながら、「テロ対策特措法」延長自体への反対を避けてきた。さらに、自民党が新法「インド洋給油法」を出すや、これに対し、イラク復興支援特措法廃止法案を出し、その先議や新法に対する審議に時間をかけることを要求し、「第二のロッキード事件」とも言われる守屋−山田洋行問題を優先させ新法の審議をその後にするよう要求した。
彼らはこうして時間を費やし、審議未了に持ち込んで新法を廃案にする戦術をとっているが、それは少数野党が仕方なく取る戦術であって、堂々と参院で否決できる民主党がとるべき戦術ではないだろう。しかも、こうした最中に、「大連立」を狙った福田・自民党の党首会談への誘いに応じるという脱線劇まで演じているのだ。
■誰の顔をみているのか?
民主党はなぜ、こうした不可解な動きをするのか。
そこで言われているのは、「何でも反対では、国民の信頼を得られない」ということである。だが、はたして「給油活動継続」に反対することが何でも反対で、国民の信頼を失うことになるのだろうか。「安倍政治からの転換」の重要な問題の一つは、反テロ戦争への追従とそれをテコにした改憲など「戦争できる国」にしようとする危険な動きからの転換ではなかったか。「給油活動」反対は決して何でも反対というものではないだろう。
これに関連して注視すべきなのが「政権担当能力」という言葉だ。この言葉は、「給油活動継続」を主張する自民党筋やマスコミなどでも使われたが、「給油活動をやめれば、日米関係を悪くし、そうすれば国民の信頼を得られない」というものだ。
一見、国民にも目を向けたように聞こえるが、やはりその目線は米国を向いている。米国が第一で国民は二の次なのだ。
民主党の前代表前原誠司氏などは、そこのところをもっと明確に「米国との関係をまずくすれば、政権担当能力を問われる」と言っている。それは、米国の意思に反したことをやれば、政権を担当することはできないということなのだ。
そのように見れば、国会の場で時間ばかりかけ、新法を廃案にする戦術をとっているのも理解できるというものだ。すなわち民主党は、米国が要求する給油活動に正面から反対すれば米国に睨まれ、政権獲得も難しくなると考えているのではないか。
小沢代表が今この時期に、持論である国連中心主義を「世界」誌上で展開し、国連軍としての自衛隊の海外派兵、戦闘参加を合憲だとしたり、自衛隊のアフガンでのISAF参加の考え方を表明したり、「アフガン貢献策」を提起したりしているのも、「民主党は、給油活動には反対しますが、決して反テロ戦争から脱落しようというのではありません、民主党が政権をとれば、もっと積極的に反テロ戦争に協力しますよ」というシグナルであろう。
そうした言動はまた、米国が単独主義から国際協調路線に転換した中にあって、米国の路線ともピッタリ合致しているのだ。一方それが米一極支配の秩序の中で生き、新自由主義改革を進めようとする日本独占支配層の要望にも応えるものであることを忘れてはならないだろう。
民主党が見ているのは米国の顔、日本独占支配層の顔であり、国民の顔ではない。自民党が民主党の対応に「真意を明らかにしないのは卑怯だ」とか「やり方が姑息だ」などと牽制したり、密室での「大連立」をもちかけてきたりするのもそのためだ。
■日本国民の大きな不幸
誰もが、口では国民の目線に立ってとか国民の声に耳を傾けてとか言う。しかし民主党も自民党も国民の顔を見てはいない。
安倍前首相は、参院選惨敗の後、「基本的なものは否定されていない」として、国民の声を無視して政権の座に居座ろうとした。そして、突然の辞任の時や国会への再登院の際にも、国民への謝罪はおろか国民に向けた言葉は一言もなかった。その国民無視の姿勢は、米国に「職を賭して」とまで言って「給油継続」を誓ったことと比べて際立っている。
福田首相も、新総裁就任後は「国民の目線に立って」と言いながらも、国民の目に隠れて小沢代表との党首会談を持ちかけるなど、国民に目を向けているとは言えない。
その党首会談に応じた小沢代表も同じことだ。
参院選での劇的な民主党の勝利。国民は、「安倍政治ノー」「安倍政治からの転換」を表明し、その実現を民主党に託したのだが、それにもかかわらず、民主党は、その信任に応えようとせず、米国の目を気にし、国民の目をさけて旧態依然とした党利党略的な動きしかしようとしない。
国民が政権を託そうとし、その機会を与えた政党がそれに応じるどころか、その期待を裏切るようなことをするのであれば、国民にとってこれ以上の不幸なことはないだろう。
■民意を反映してこそ正しい政治
国民をまず考え、何よりも国民に目を向け、その声に耳を傾けていくこと。それが政治の原点であり、正しい政治のあり方ではないだろうか。
「ねじれ国会」という特異な状況の中で、今、政権担当能力、統治能力がどうとか、政党とは、国会とは、参院の役割はとか、色々と政治というものへの問い直しも行われている。しかし、そうした問題を正しく解くためにも、政治の原点を見つめなおし、主権者である国民にしっかり顔を向け、その意思を正しく捉え、それを体現した政策と方針を打ち出すこと、それこそが、政党、政治家の役割ではないだろうか。
小沢代表は、福田首相との党首会談に関する朝日新聞のインタビュー記事(11月16日)の中で、次のようなことを言っている。「(安全保障には)国民は関心がない。それは政治家や政党の責任、見識できちっとした政治をやればいい」と。そして、「国民は生活ですよ。選挙の時は、どんなときでもちゃんと生活を安定させていきますよと訴えるのが一番だ。生活できるようにするのが政治じゃないかと、国民は皆思っている」と続けている。
すなわち、国民に対外姿勢を問うても関心がない、だから給油問題を争点にしても支持されない、選挙に勝つためには「生活第一」を掲げておけばいいのだというわけだ。この辺りにも、正面から「給油」に反対しない小沢民主党迷走の原因の一つがあるのではないだろうか。だが果たしてこれは正しいだろうか。現実は、その誤りを教えてくれているのではないだろうか。
米国ではイラク戦争に反対する国民の声を背景に中間選挙でそれを焦点にした民主党が勝利した。オーストラリアでも、米国の反テロ戦争に積極参戦し「米国の保安官」と揶揄されたハワード政権に対し、イラク撤兵、環境問題重視、アジア重視を掲げたラッド新政権が誕生したではないか。
国民は分からないのでは決してないのだ。参院選では給油問題はまだ浮上していなかったから、「生活第一」だけで通用した。しかし今、焦点になっている給油問題で、国民よりも米国に目を向けるような対応をしていては、国民にそっぽを向かれ、「生活第一」も単なる選挙戦戦術に過ぎないと見なされるだろう。
民主党は、米国ではなく国民に目を向け、給油問題も正面から取りあげて国民に訴え、国民第一の姿勢で「生活第一」の政策もいっそう深め具体化していくべきなのだ。それをおろそかにして民主党の未来はない。
寄稿
〜しかし、前途は暗い〜
2006年7月、朝鮮によるミサイル実験、そして10月の核実験によって東アジア情勢は一変した。
2003年核疑惑以降、米国は朝鮮は核を保有していることを確信し、国防情報局長は米議会において「北朝鮮のミサイルは射程15000q以上で、米本土全体をいつでも攻撃できる。」と証言した。そして、2003年8月、ソウル龍山(ヨンサン)にある、米軍事司令部基地を100q南の平沢に移転することを発表した。米国はすでに対北対決路線の修正を始めていた。そして、6者協議が始まり2005年秋一定合意をみた。
しかし、すぐその直後、米国財務省は金融制裁を科し、ホワイトハウス内の強硬派が、この合意に抵抗した。そして、結局、ミサイル、核実験によって朝鮮側から「戦争の道か、平和共存の道か」の選択を迫られ、最終的に対決路線の放棄を意思決定し、2007年1月ベルリン米朝会議により、全面譲歩の道を歩み始めた。もちろんこの背景にはイラク戦争による米国の弱体化も原因しているが、この譲歩は朝鮮戦争以来50年にわたる対決戦に最終的に朝鮮が勝利したことを意味している。こうした局面展開は南北統一が近い将来実現するであろうことを示唆している。
こうした中で、日本政府は2002年小泉訪朝によって、日朝問題の打開を試みた。しかし、結果的に拉致問題での多数の被害者死亡の国民的ショックを利用した国内、米国の対北強硬派を勢いづかせ、日本政府は、被害者を一旦日本に帰国させ、2週間後に帰すという政府間の約束を破棄し、対決構造に入っていった。その後の二度にわたる、家族帰国や遺骨返還のたびに日本政府は意図的に遺骨のニセモノ論を流したり、関係悪化を策してきた。
小泉・安倍内閣は9月11日テロ以降対外的には靖国参拝、拉致問題、竹島問題などを外交的防波堤としてつくりあげ、国内的に排除主義をあおり、イラク派兵や国内では市場原理に基づく、新自由主義グローバリズムの経済運営を強行し、国内に大量の派遣やパート労働者をつくりあげた。
大きな経済格差を作り出しながら、多国籍企業の経済復活に邁進してきた。しかし小泉路線を引き継いだ安倍は一層の強硬路線をとってきたが、米国の対北全面譲歩に直面し、また一方で国民の経済格差による不満の爆発によって、参議院選挙に惨敗し、しばらく居すわったが、結局米国にも見放され、政権を放棄してしまった。
さて、これを引き継いだ福田首相は「 拉致問題は自分の手で解決する」といって政権の座についた。
10月4日の6者協議の合意が発表され、今後の核問題、平和態勢の問題にも方向性が出されたが、一方で「早急なる日朝国交交渉」も要求している。
10月2から4日の、盧武鉉韓国大統領の朝鮮訪問によって、南北間の重要な合意がなされたが、福田親書を託された盧大統領は金正日総書記からのメッセージを持って帰り、10月8日韓国特使が日本政府に報告をした。
日本はその日以来、国会議員や政府特使の人選に入った。そして10月11日付韓国中央日報は特使として、田原総一郎氏と森元総理が指名されたことを報じた。この新聞辞令に沿って10月末、田原氏が訪朝し、宋大使とのインタビューを行い、11月11日テレビ朝日のサンデープロプジェクトでこの様子が報じられた。
その中で、田原氏は、拉致被害者の再調査と遺骨鑑定問題では、ネイチャーの論文を出して、日本側に作為があったことを示唆し、これも再鑑定の提案をし、日本側との交渉の接点を探っていた。またこの日の番組では、日朝対話を主張する伊豆見元氏、山崎拓氏に発言させ、拉致家族の会からは、拉致問題の政治利用に反対している蓮池透氏に発言させ、また強硬派からは中川昭一衆議院議員が出演しガス抜き役を演じさせていた。
この日より、テレビ朝日は福田政権の御用局として、拉致問題の見直しを開始している。また、11月16日、日米会談では「テロ支援国指定解除」の件は一切公表されず、ブッシュは「拉致問題は忘れない」と言っただけで終わった。日米間で何か話し合われていたのか。それは「テロ支援国解除」以降を見据えた、アメリカの方針の確認と日本側のそれへの追従ではなかったのか。
11月21日、22日には米国側から「よど号問題をテロ支援国解除とはリンクしない」。「12月に予定していた日本の朝鮮に対する重油支援は米国が肩代わりする」など次々と米国側の方針が打ち出されている。
日本政府としては、あまりに高い拉致という壁をつくりあげてきたので、自らこれを壊して低くせざるを得なくなっている。対北融和策は一気に進めたいが、それもできず、一向に前に進めないのである。しかし事態は急迫してきている。12月までに核の無能力化が終了すれば、いずれにしても制裁解除をせざるをえない。この日朝問題は日本政府として、テロ特別新法以上に致命傷になりかねない、時限爆弾を抱えているのだ。
日本にとってアジアにおける唯一の安保同盟の要となってきた、オーストラリアのハワード首相も選挙で惨敗し、政権を失った。麻生前外務大臣は「中東からアジアの不安定な弧」に対して、日豪を基軸にしたインドを含めた「自由と繁栄の弧」を主張していたが、これも見事に破産し、まさにアジアの孤児になろうとしている。福田首相もようやくリーダーシップを発揮するかと期待もあったが、この一カ月の動きを観察するに、最早その力もなく、6者協議そして、日朝交渉に臨んで、すでにほぼ確実に全面的敗北を覚悟しているかもしれない。
ここ1、2カ月のうちに自ら訪朝し、関係改善をはからないかぎり、いくら政府間交渉を続けても、事態の打開は不可能なところまできている。朝鮮側は米国を屈伏させたのだから、日本には「36年間の植民地支配と800万人の強制連行の血債を必ずさせる。」との強い決意がある。生半可な態度で日朝交渉に臨めば、福田内閣も早晩つぶれ、一気に政権交代になっていくのではないだろうか。
この間のパキスタン、キルギス、ポーランド、トルコ、オーストラリアの政情不安や、政権交替は米国の弱体化に起因するものであり、サブプライム問題の爆発で、いよいよドル支配崩壊がカウントダウンになってきている。
ユーロや中国の人民元、そしてロシアのルーブルなど、多極化する中で、ドルは唯一石油メジャーと産油国の決済通貨として、世界通貨を支配してきたが、湾岸諸国(UAやサウジ等6カ国)がドルペックをはずし、バスケット制の検討に入ったと伝えられている。いよいよドルの暴落がはじまった。
世界帝国の崩壊は、そう遠くない時期にきている。今後の3から5年間が正念場であろう。そののちは多極世界の中での共存と共生が世界のテーマになるであろう。
日本もいよいよ政治の再編の時期に突入しており、2008年には大連立、政界再編など、次々と政変がおこるであろう。現在の福田政権にはもう時間の余裕はない。ここ12月、1月に方針の大転換をはからねば、安倍氏と同様に政権を放棄せざるをえなくなるだろう。
研究 新自由主義思想批判
(編集部)これまで9回にわたって新自由主義思想批判を連載しましたが、今回はそのまとめとしてQ&Aという形式にしました。
Q:まず、新自由主義を経済理念としてではなく思想として批判しようという動機はなんでしょうか?
A:新自由主義は小さな政府でできるだけ市場に委ねるという市場原理主義と言われ、それにもとづいて社会のシステムを変えてきました。そこから生じる格差の拡大、一部の層への富と権力の集中などを批判し、どういう社会が良いのかを追究してきた学者、団体は多くいます。それは大きな意義があるのですが、若者が社会構造の問題としてより考え方として新自由主義を受け入れていった事実があると思うんです。若者が「良い社会とは思わないけれど、それでも一人でなんとか生きていくことができる」と言われると、かつての客観的にこうだから式では現在の社会の批判、反対していくことができないと思うのです。それで新自由主義の考え方を批判しなければ、新自由主義に反対する運動を起こせないのではないかと考えたわけです。
Q:以前は「ムラ社会」と言われいろいろなしらがみ、会社や地域、社会と国家の規制があって、それをとりはらって自由にやっていけるようになったのは事実ではないですか? だから若者たちが支持したのでしょう? 全共闘世代も賛成している面があると思う。新自由主義改革で自由にやりたいというのが認められたのではないですか?
A:そうですね。だから新自由主義を思想的に批判するのが簡単ではないのです。それで、読者の人にはなんで昔の自由主義をもちだすのかと思われたかもしれませんが、思想の基礎というのか原理的に検討しようとして、私はまず同じ自由を主張する近代の自由主義と比較して新自由主義を見たわけです。そこで、国家と個人の対立、すべてを市場に委ねる、人間形成の否定などの特徴が浮かび上がってきました。
新自由主義思想はハイエクなどが社会主義(集団主義)に反対し、資本主義を守るために自由主義を徹底化させていくことをうちだしたもので、「大きな政府」のケインズ路線が破綻した1970年代後半から世界を席巻しはじめるようになったのです。だから、王政の弾圧と闘った自由主義と異なり、国際独占体のためのそれに庇護されて生まれ広められた支配階級の思想です。
Q:そういう学問的なことは分かる人は分かるが、若い人が分かるような形で明確にできないのでしょうか?
A:痛いところを突いてきますね。新自由主義思想を一言で分かりやすくいうなら、国家や社会と無関係に一人で生きるという考え方だといえます。市場で自由に競争をやればよいと。それは個人の自由を徹底化させたものであり、国家や企業の規制をうるさく感じるなかで意欲をもつ若者には魅力的だったと思います。ホリエモンはまさにその象徴です。しかし、国家や社会と離れて一人で生きろと言われても、それはできないのですね。自分のことは自分で決定してと言われても、人は社会のなかで生きておりそれに関係なしに自分で自分のことを決定することはできないし、ましてや自分の運命を切り開くことなどできないのです。それと、人間関係で個人バラバラになってしまい、信頼したり助けあったりすることができなくなってしまっている。孤独と無関係、不信と排除、競争など人間関係が破壊されてしまっている。つまり、社会から切り離されることによって、人間らしく生きることができなくさせられていると言えるのではないでしょうか。
Q:それは、新自由主義思想が人間のあり方、生き方、その考え方を変えさせる思想だということなんですね? 今の若者たちは、親よりも金とか、新自由主義社会の中で育ち、それがふつうのことと身についてしまっている。しかも社会がそういうシステムになっている。だからといって、何も分かってないわけではないんです。なんとかしようにもできないジレンマに陥っているのではないでしょうか?
A:個人でいる限り自分で生きていくしかない、今の社会システムでは仕方がない、みんな必死に頑張っているのだ、そういう答えが返ってくる。ところが、それで誰もけっして満足していないのですね。自分のことだけやって他の人や社会とは無関係な生き方では虚しいと思っているのではないでしょうか。
Q:満足はしていないが、それ以上のものがあるのですか?
A:その虚しさが何なのかをつきつめることですね。社会のなかで生きているのに社会と無関係では、生きる意味、誇りというのが出てこないのではないかと思うのです。私自身は、それを解く鍵は、社会との関連のなかで人間のほんらいの生き方は何なのか、具体的に言えば日本人ですから日本人としての生き方はなんなのかを追究することだと思いますよ。
Q:ところで、自分で事業をやりたい、会社を興したいと思う若者が多くいますが、やっぱり能力ある人を雇いたいと思いますね。自分も能力を高めなければならないし、経営者も能力ある人を雇いたいと思うでしょう。だめな人はやめてもらうのが普通ではないでしょうか?
A:新自由主義は極端な利潤第一ですから、能力についても開発するのではなくまったく使い捨てです。今や偽装正社員、偽装管理職という言葉があるくらいです。残業代を払わず倒れるまで使い切るというのが、新自由主義の思想です。人は多くの、またいろんな能力を秘めているはずです。そしてそれを合わせた集団の能力はもっとすごいものです。それを開発したり、チームの力を発揮させようとしないで、すでにある能力を使いきるとか、異能をみつけだしてかすめとろうとするのでは、企業は一時的に利益を上げますが、それでは社会は発展せず次第に停滞、疲弊していくでしょう。
Q:生き方で言えば、「多くの人が大丈夫でない社会と思っている」という新聞記事がありました。大丈夫でないと思いながら、今を生きているのですね。そこで生きる力が言われています。
A:企業はいつ倒産したり首になるか分かりません。安定した未来がないほんとうに不安な社会ですね。財界がいう人間力、生きる力というのは、競争に耐えしのぐ力、金のために人を裏切ってもがんばれというもの。そんな彼らに人間の生きる力など言われたくないですね。
Q:生きるために生きる力が必要でしょう。生きる力とはなんですか?
A:生きる力とは、能力、スキルとも言われますが、それを発揮させるのは人間の思想、考え方ですよ。 今、市場競争で生き抜く力、負けずに勝つまで頑張り抜く力が求められている。それは市場が要求する生きる力であって、それで明日、未来が見えてくるのでしょうか。競争に勝っても明日はどうなるか分かりません。未来を自分が切り開けないし、いつどうなるか分からない不安に脅かされているのではないでしょうか。むしろその不安が人々の生きる力をなくしていると思いますよ。
Q:それでも、かつてと異なり今の社会は市場が公正に自分を評価してくれる。だから、市場に皆、目がいき、競争に参加しようと思うのではないですか?
A:たしかに市場は努力した者を認めると言われていますが、勝者と敗者を峻別するのが公平でしょうか。勝者となっても賞賛されるのはその人を見てではなく、その金を見てでしょう。スキルや財産で満足できないと思いますよ。やはり人間が人間として尊重され、正しく評価され、自己実現できるような社会を作っていくことですね。今、模索の段階ですね。
市場競争、市場での公平さというのは、人間をとことん個人にしてしまい、個人の自由はあるかもしれないが人間として喪失したものがもっと大きいと思います。なんの拘束もない自由でありながら、実際は自由でない。それは、社会との関係で自由になっていないからではないでしょうか。
自分のことは自分で決め、主体的に創造的に生きていくことを社会との関係で見つけだしていってこそ、この現状を打破できるのではないかと思っています。そういう見地で私自身は、人間としての生き方、日本人としての生き方を研究したいと思っています。
今、「金がなければ愛も生まれない」と言われていますが、本心はやはり愛のため、人のためにだと思います。人のために尽くすことが自分を生かすという生き方、そういう人と人の関係、生き方は何かをうちだせたらということです。汗をかくような質問ばかりで私も勉強になりました。今後とも叱咤、ご批判を宜しく願います。
■「プリンストン計画」−国連中心の集団安全保障へと転換する米覇権戦略
ブッシュ政権の打ち出した「先制攻撃」原則と単独主義的な軍事行動は、国際社会の疑問と大きな危機にさらされている。いま米国はこの苦境から脱する戦略の調整を迫られている。
ブッシュ以後の米覇権戦略はどう変わるのか?
2006年に出た通称「プリンストン計画」と呼ばれる「法治下での自由世界建設と21世紀の米国家安全」なる報告書にそれが示されている。ここではブッシュ政権の単独主義戦略の失敗を認め、武力と外交との均衡を求めている。
「9・11事件」以降、外交的手段ではなく軍事的手段に偏ったため民主主義国家からの協力が得られなかった。民主主義国家からの多務的協力を得るためには、「改革された国連」とNATOなどの支援を受けるべきだとしている。
また米国の企図する「改革された国連」実現のための論議では、「法治下での自由世界を建設するうえでは軍事力のバックアップが必要」だということが重点に置かれねばならないとしている。
また国連安保常任理事国の拒否権行使を解消(全理事国の賛成なしでも可決できるよう)すべきだとして、このように国連を改革できるかどうかに「民主主義同盟」の存立いかんが左右されるとしている。
「プリンストン計画」の狙う「民主主義同盟」は、国連に代わるものではなく、国連を修正補充するものとされる。この「民主主義同盟」が一旦、米国主導の武力使用の道具となった場合、国連を中心とする集団安全保障機構の権威と有効性は、強い衝撃力を世界に与えるであろう。
■保守化傾向を強めるハンナラ党の対北政策
同じ保守陣営からの対北強硬派の李会昌(イ・フェチャン)候補の大統領選登場によって、ハンナラ党の対北政策が保守化傾向を強める気配である。同党大統領選候補李明博(イ・ミョンバク)は在郷軍人会の講演会で「安保がなければすべてを失う」と主張した。また一時は評価していた「韓半島平和非戦」についても「自分の対北政策とは異なる」と批判した。
こうした発言は李会昌氏の出馬で動揺する保守層を狙ったものとされるが、李明博候補とハンナラ党が対北政策において強硬保守側に馬を乗り換えたような姿は国民を混乱に陥れている。
李明博候補は旧時代的な安保観を脱皮して未来志向の安保観を堅持することを望む。
■今年は米軍がイラクで最大の損失を受けた年
イラクで軍事力を展開した4年8ヶ月のうちで今年、米軍は、最大規模の損失をこうむった。
11月6日現在、イラクで853名の米軍将兵の死亡が記録された。これまでイラク駐屯米軍にとって最も厳しい年とされた2004年の849名死亡という記録を塗り変えた。イラクでの米軍の総損失は、現在3,856名となっている。
■ロシア教育科学相、教育の質を高めることを強調
「ロシア経済の安定成長は、中学生への教育の質を改善することによってのみ保障できる」
11月6日、ロシア教育科学相アンドレイ・プルシェンコがサンクト・ペテルブルク総合大学でこのような見解を以下のように述べた。
「ロシアが発展するうえで受けている資源上の制約は、人的不足である。今日各部門の専門家が不足している。大きな人口危機にある条件で、いまわれわれは中学生への教育の質が落ちつつあるという状況に直面している。1998年に中学生が2,200万名だったとすれば、いまは1,400万名となっている。
しかし今年に入って1年生の数が初めて増えた。経済は幾人かの中核的な骨幹部隊だけでは支えきれず、移民で補うこともできない。唯一の解決策は教育の質を高めることである」
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