座談会 ―新編集部から読者の皆様へ― 日本の現実に根ざした実践的な誌面に転換を
■10/21
京都円山公園で「このままでええの!日本と世界、10・21反戦共同行動IN京都」と題した集会が開かれ、私も大阪から数人の仲間とともに参加しました。祇園から八坂神社を抜けたほんとに京都らしい一角で、パンダさんの歌や沖縄民謡のエイサーがあったり、雨宮かりんさんの講演、辻元清美さんの国会報告があったりと密度の濃い内容で楽しむことができました。集会が終わってデモに入った頃にはすっかり日も暮れて、京都市役所までおよそ一時間をデモ行進しました。京都でもデモは久しぶりということで、50歳代、60歳代の全共闘世代が中心の1200名のデモ隊列に京都市民も何事かと驚いた様子でした。詳しくは7面に書いています。
■10/28
大阪城公園で開かれた「ワンコレアフェスイバル2007」の午前の部だけちょっと覗いてきました。今年はすでに第23回目。見るのは初めてでしたが、直前には南北首脳会談もあって今年は結構盛り上がるのではないか、という印象を受けました。メインのステージは特別公演、ファイナルステージと午後にあるのですが、最初のオープニングだけしか見れず、残念でした。屋台のチジミが美味しかったです。
■11/1
「格差社会を生きるー貧困化する若者たち」という連続講演会の第2回、「不安定就労から野宿へ、野宿者問題とフリーター」と題した生田武志さん(野宿者ネットワーク)の講演を聞きました。生田さんは1964年生まれで、大学在学中より野宿者支援活動を始め、今年6月には「フリーターズフリー」という本を出版し、フリーター問題でも注目を集めている方です。
野宿者は全国で約3万人、大阪府内で1万人、大阪市で5千人。つまり全国の野宿者の3分の1が大阪府に、その中でも特に大阪市、その中でも釜ヶ崎に集中しているという話でした。野宿者の約8割がアルミ缶とダンボールの収集でしのいでいること、アルミ缶1個が2円、夜明け前から夕方までアルミ缶を集めても約千円しかならず、時給100円にも満たないことなどなど、野宿者生活の「実態」を知ることが出来ました。
話の中で一番衝撃的だったことは、「今後数年中に、米国のように家族や子供の野宿者が増えるだろう」という生田さんの予想でした。すでに米国ではホームレスの総数350万人、子供が135万人。日本のホームレスの中心は高齢者ですが、社会が米国型になる中で、この予想は説得力がありました。
座談会 ―新編集部から読者の皆様へ―
11月号から新たに編集委員会を国内に発足させ発行するという体制になりました。当然内容的にも国内発行体制という新しい器に合ったものを盛り込んでいきたい、そう思っています。今回集まっていただいたのは長年読者であったHさんやWさん。忌憚のない意見をいただいて今後の新しい誌面作りの参考にしたいと思います。編集委員会からは編集長小川と編集委員金子が参加しました。
■もっと日本の現実に近づくべき
小川:編集委員会といってもまだ人数も少なく、経験もない中でどのように誌面を作っていくのか、手探りの状態です。率直な意見をもらい、それを指針に新しい内容で出発したいということで、遠慮のない厳しい意見をいただきたいと思います。まず長年読者として「アジア新」を読んでこられて、「アジア新」のどこが良いのか、逆にどこがまだまだもの足らんのか。そこら辺からまず確認したいと思います。
H:「アジア新」になって日本の現実と距離的に接近してきたと思うね。以前は外国にいて、例えて言えば地球の外から俯瞰的にものを見ながら、きっちりと言うべきことは言うみたいなスタイルやった。
日本の現場にいる人間として言うとやはり「現実離れ」していたと思う。最近はわりと日本の現実に接近して書いているなということを感じている。
上から俯瞰しているときは人工衛星で地球を写しているようなものだから、それはそれで地球は外から見るとそういう風に見えるのか、みたいに面白かったけれども、「アジア新」が日本の現実に近づいてものを言うんだったら、もうちょっと言うて欲しいみたいなところがあると思う。もし日本の現実に肉薄してくるんであれば、じゃどうしたらいいの、解決策は何なの、一歩先に出て何らかの方向性を出しているとか、これが解決策だよとか、こういう新しい芽が出ているよとかを出さないとあかん。このあたりになるとどこの組織や団体も出せていないんだけど。
今のままでも「情報誌」としては意味があるけれども、もし何らかの運動を作り出していこうと言うことであれば、まだまだ努力が足りんなと・・。
小川:「アジア新」の言ってることは正しいけれども、何か物足らないなと。もうひとつ現場に入っていない、解決策まで至っていない。ここらへんが足らないのかな。
H:どこもそこまでは言えてないんですよ。ほかのことでごまかしてる。自分たちの「理論」で正当化したり、自画自賛をしている。「アジア新」にはそれはない。そこはいいんだけども、本当に意味のあるものを出して欲しいし、「アジア新」が現実の問題に実践的に提起できればすばらしいことだと思いますね。
■誌面の性格をもっと鮮明に
W:党派のようなアジテートをする、そういう種類の機関紙でないのははっきりしている。一方で、さらっとしすぎて「主張」が見えず、皆さんで考えてくださいみたいな、インパクトの弱い印象を受けますね。ちょっと物足りないと思うときはあるよね。「アジア新」の性格というのは一般の新聞ではないし、党派の機関紙でもない。じゃ何なのか。そこがよく分からない。もうちょっとそこをはっきりさせたらよいのではないか。
そのためには読者の方から意見をもらえるような形を作ったらいいんじゃないか。直接聞きに行くとか。もっと読者の意見を聞いていくことが大切だと思う。時代の眼、主張など最初から「政治」ではとっつきにくい。もっと読者が読みやすい工夫が必要だと思う。
小川:確かに読者からの反応がない、少ないのは事実です。反対意見でもいいんですが、それもあまりない。手ごたえがない。どこかに問題があるのは事実。
W:半分は義理で読んでいるからじゃない。自分からぜひ送ってくれといって読んでいるわけじゃないから(笑)。
小川:あまり役に立っていない?
H:いい論文はあるよ。朝鮮問題とか。重要な論点、独自の視点とか、原則的に言うべきことは言うてるなとか。そういう原則や論点を自分で固めようとしたら時間がかかる。そういうとき「アジア新」を読むと分かるという経験はある。絶対にはずしてはいけない論点はあるし、それを求めている人には役立っていると思う。でも労働運動など各論にはいると「アジア新」はあまり光っていない。一所懸命に勉強はしているなとは思うけれども。
小川:今まで国外で書いてきたわけだから国内の現場の要求に合っていない、一定限界があるのはその通りだと思います。いま国内に編集部を作るというのはそのためにあるわけですから。
■大局的視点だけでは読者は満足しない
金子:帰国して選挙運動や学習会などに参加しましたけれども、現場で闘っていらっしゃる人達が具体的で実践的な問題を提起され、格闘しながらそこで深く悩んでいるということが分かりました。
「アジア新」は大局的な視点は出されているけれども、具体的で実践的な問題に触れていないのであまり評価されていないのが実情です。だからあまり読まれてない。何が足りないのかということをこの間、実感しましたね。
一方で深い論文を書こうとしたら時間がかかる。ピョンヤンはそれができる条件があるわけだから、ピョンヤンは理論面で日本に貢献して欲しいですね。
H:たまに文化論とか若者論とかで、日本のマスコミとは違う独特の視点が出ているものもある。これはヒットだね、というのがたまにある。視点が違う部分で日本のどこも出していないような斬新な文章もある。でもまだまだ少ない。
小川:ピョンヤンから出しているから、朝鮮派、朝鮮擁護の印象を受けるという意見が多い。そこはどうですか。
W:当然、それはありますよ。
H:独自性としてそれはあってもよい。問題は国内で力がついて、メインの記事がでるようになれば朝鮮の記事はあってもよい。たとえ朝鮮の記事があってもそんなに目立たないだろう。国内の記事が充実してくればそんなに気にならないと思う。
小川:朝鮮の実情的な記事は必要ですか。
H:あってもいいと思う。日本では書けないんだから。
W:朝鮮を書くんだったら、韓国の記事も必要になってくると思う。他の人に見せるときにバランスがないとちょっと異様な感じを受ける。知らない人が見たら、ええっとなる。どこの人が書いているのということになる。
■革命的ジャーナリズムで満足するのか
小川:今後どういう「アジア新」にしたら良いのか。「アジア新」の性格、新しい情勢の中で「アジア新」はどのような役割を担っていくのか。やはり「アジア新」独自の役割はあると思う。
今後の情勢を考えると北朝鮮が焦点になるだろうし、国内はもっと激動の時代を迎える。国内の変動とアジアの変動が結びついていけばすごく面白い時代を迎えるだろうし、そこに主体的にかかわっていけば「アジア新」ももっと面白い誌面が作れるのではないか、そういうものを作っていきたいと思っています。
新しいアジアの時代を迎える中で日本も対米中心からアジアへとその軸足を移していくだろうし、そういう新しいアジアの時代という視点から出発してきたわけで、そこがこの雑誌のひとつの売り物だった。私たちの独自性もそこにあった。
H:国内の政治方針などを書こうとしたらなかなか難しい。他のジャーナリズムや情報誌と同じように書いていくとしたら、「アジア新」は何が違うのか。下手をするとおなじような内容になる。国内で独自性を出すのは難しいからね。
小川:「アジア新」と競合する雑誌はどこでしょうか。
H:すべてじゃないですか。一般の雑誌が扱うテーマと競合するわけだから。良心的な革命的ジャーナリズムの雑誌も少なくない。だけどそこには実践論がない。今後の「アジア新」の性格を考える上で、ジャーナリズムなのか、それとも実践論まで踏み込むのか、そこがひとつのポイントになるだろう。
革命的ジャーナリズムは情報や分析は面白いけれども、闘いの現場にいる人間からすると「そうですか」で終わってしまう。日本に編集部をおいて日本の現実に入ろうとするなら、どこまで踏み込むのか。
小川:つまり個別の具体的問題に踏み込むべきだと。
H:踏み込めるかどうか。実践論もあってものを言うのか、革命的ジャーナリズムと違いを出すのかですよ。
金子:つまり、運動体として出していくのか。ジャーナリズムとして「アジア新」を出していくのか。
小川:性格としてそこが問題になると。
金子:私たちは一つの党派ではないでしょう。国民みんなに呼びかける性格のもので、党派の機関紙ではない。
小川:もともとものの見方とか、観点とか、そういう独自なものを出せたらなというのがあった。海外にいて実践論を書くのは難しいのだから。私たちは党派でもないし運動体でもない。また単なるジャーナリズムでもない。やはり研究誌だと思う。今後は徹底して国内に根ざした研究誌に変えていくべきではないか。
金子:国内で発行していくときに、単なる研究誌なの?
H:研究所とか、皆が研究したものを出していく、そういう組織のくくり方もある。研究所としての形で、運動論への意見もいくらでも出せる。悪くないと思う。
小川:研究誌という性格はやはり今後もベースになるし、それを基本にしながら実践的な問題を提起するみたいな形になるとは思う。
W:どのような読者を想定しているのか。世代的にどうなの?
小川:特定の世代を想定したことはない。読者としては一定の政治意識を持った青年層や現場で闘っている活動家などと思っていますが・・・。
■どう日本の現実に接近していくか
小川:今回一番聞きたかったことですが、どうすればもっと日本の現実に接近できるのかです。私としてはいろんな人に会い、いろんな現場に入っていって、インタビューをしたり、現場の人に書いてもらうとか、そういうイメージはもっているんです。そういう形にすればもっと現実に接近でき、誌面もかわっていくのではないかと思っています。もっと取材をしないとね。
H:運動家なり実践者と記者とじゃ、スタンスに違いがあると思う。一つ例を挙げればグッドウイルなどで労働運動をどうするかという問題がある。私らの立場からいうと非正規の組合をどう作るのか、それを模索しているから、現場にも行く。そこには「人民新聞」のような革命的ジャーナリズムの記者も来る。
最近、奈良でコミュニティ・ユニオンの会議があったんですが、そこに彼らも来た。情報は僕も欲しいから現場に行く。ただ僕は記事だけでなく、組織を作るために何がポイントなのか、そこに関心がある。
運動論の立場からいうと、なぜ非正規は組合ができないかなんです。それは経済力がないからそうなるんですよ。大きい組合なら月1万円を組合費として払う。非正規の組合は給料が10万だから、組合費は250円とかなる。記者の人はそういうことは関心がない。そこが僕との違いです。20人が500円払っても切手代しかならない。組合を作ろうとしたら財政力をどうするのかが、一番の関心事になる。
つまり非正規の組合がどうすれば作れるのか、組織が生まれるような実践的理論が必要なんです。記者はそこまでの問題意識がない。記者と同じことをやっていても、よく現場で会うけれども、視点が僕らと違う。テーマも違う。革命的ジャーナリズムだけでなく、運動を考えるならそこまで追求しないとあかんのと違うかと。
小川:自分の追求する具体的な運動なり実践がないとやはりそういう問題意識が生まれてこないですよね。結局、「アジア新」の編集に携わる人がどれだけ深い問題意識をもって日本の現実の中に入っていけるか、そこに「アジア新」の発展もかかっているということでしょうか。
今日はいい話を聞くことができました。参考にしたいと思います。どうもありがとうございました。
新自由主義思想において強調され実際に社会にもっとも強烈な影響をあたえているのは、「自己責任」という考え方である。新自由主義社会は「自己責任」を原則にした社会だともいう。
自分のことは自分で責任をとることについて、皆、そうすべきだと考えている。それは、自分の問題について自身が決定しその責任を全うしていくことが、自己の運命の主人となるかどうかの重要な問題であるからだと思う。
自分のことについて自身で決定できず他人の干渉を受けたり、自分の力で自分のことを解決せず誰かに依存しようとするなら、それは主人としての権利と責任を放棄するということである。つまり、自己の運命を自分で決めることができず自分で切り開けないなら、人間として生きることにならない。
誰かの干渉で動くのではなくどこまでも自分が考え自分で選択、決定し、自分で解決していく考え方が、今日、当然のこととなったのは、人々が自己の運命の主人となろうとするのが時代のすうせいであることを示している。だから、自己責任という考え方を誰もが受け入れている。
しかし、この間、支配層や企業は「自己責任」論をかかげ、「お前の責任ではないか」と正社員を酷使し、不安定雇用労働者を使い捨てし、医療福祉や地方で弱者を切り捨てていっている。しかも、さらに問題なのは、この「自己責任」論が支配層や企業の使い捨て、弱者切り捨てにたいし反対していくべき人々、とくにフリーターなどが「私が悪いんです」と自己を追いつめていく考え方になっていることである。フリーターがニートに、さらにホームレスなどに「甘えるな」というのも「自己責任」の呪縛にとらわれているからだといえる。一体、なぜ「自己責任」論に人々がこれほどまで縛られるようになっているのだろうか?
元来、責任というのは社会にたいする責任である。「自己責任」でいう、自分のことは自分で決め、その結果は自分で責任を負うべきだというのも、社会に負担や迷惑をかけてはだめだという意識があるからだといえる。また、自分がなにか自分を生かせることをやろうとするとき、意識しようがしまいが、多かれ少なかれ社会にとって意義あることを考えているはずである。人間は人々の中で生きており、結局、責任とは、人々に対し、社会に対して責任を負うということであり、社会の一員として自身がなすべきこと、責任をまっとうするということであると思う。
個人が社会の一員として社会のためになにかしようとするのも、社会の発展の中で自己の運命を切り開いていけるからである。もしそうできないのなら、社会が存在する意味がなく、社会というものの存在自体ありえないということになる。それゆえ社会はすべての人々が自己の運命を切り開いていくことができるように、社会としてのその責任を果たしていかなければならないと思う。
社会が社会としての責任を果たしていくことは、各人の運命にとって決定的な意義をもっている。なぜなら、国家が侵略戦争をおこなったり他国の干渉を受け入れたりすればそれが個人の運命も左右するようになり、社会がどう運営されるかで諸個人の生き方も大きく制約されるようになる。それゆえ、社会の運命と個人の運命は密接につながっているといえる。
雇用の問題や福祉、地方の再生など国家と社会がなすべきことが大きくあるはずである。安全の保障や経済の発展、教育と科学文化の発展なども、人々の平和で幸福な生活を実現するためにあると思う。このように、社会には大きな役割と責任があり、それが諸個人の運命に大きな影響を及ぼしている。
その社会の責任というのは、それを構成する人々の意思と要求を集大成して社会を運営するとともに、各個人にたいし保護し自己の運命を自分で切り開いていくことができるように機会と条件を保障していくことだといえる。
しかし新自由主義は、国家や社会ができるだけ責任を負わないで、個人が負うべきだと言っている。新自由主義のいう「自己責任」とは、まさにこれである。いいかえれば、社会と個人を切り離し、責任をすべて個人に負わせているのである。
財界が95年に流動的な不安定雇用層を作り出す方針を打ち出し、政府が労働基準法を改悪してそれを実現できるようにし、企業が正社員になる道を制限して安価で使い捨てできる派遣、請負、アルバイトなどを大量に雇用するようにしていったのに、フリーターでいることが「自己責任」であるとは言えないと思う。また、危険労働や過酷な労働で負傷したり過労死するのも本人の責任なのだろうか。
サッチャー英首相が新自由主義改革を開始するに際し、「社会などというものは存在しない。存在するのは男、女という個人だけだ」と宣言した。日本においてでも「集団から個人へ」が叫ばれた。
しかし、社会と切り離された個人でいる限り、国家や社会での決定に参加できず、自分だけが責任を負うことになる。まさしく、新自由主義の「自己責任」論は、人々を「社会のせいにしたくない」「社会に興味がない」「社会が何をしてくれた」など、社会が自分と無縁な存在だとさせ、社会の一員として自己決定もできえないようにする思想である。
「自己責任」を原則とする新自由主義社会は、あたかも自己の運命の主人として生きるような「錯覚」を与えながら、実は、自己の運命の主人として生きていけないようにする社会である。「自己責任」が人々が自分で自分を縛っていく考え方になるのは、ここにその理由があるのではないだろうか。
二度にわたる自民党・福田、民主党・小沢による党首会談は不調に終わった。会合の基本は、大連立をめぐってのものだったらしい。自民党の大連立提案を小沢党首は呑んだが、民主党執行部が拒否したということのようだ。
ここで問題は、大連立という国政上の大問題を国民に信を問わないまま、党首会談という密室での取り引きで決定しようとしたことだ。
大連立案の背景に、衆院は与党、参院は野党が多数を占めるという「ねじれ国会」があるのは周知の事実だ。「ねじれ」のため、すべての法案が国会を通過しにくくなり、政治が動かなくなっている、この異常事態を二大政党である自民党と民主党が大連立することによって打開しようということだ。
当然のことながら、この大連立には両党間の取り引きがある。今回の場合、それは、政策上の取り引きだったようだ。すなわち、焦点となっていたテロ特措法に関しては、国連中心主義など小沢氏の持論の採用などが検討されたということだ。
これは、大変おかしなことではないだろうか。国民の見えないところで、両党の政策が折衷され、大連立のもと、国会で成立され執行されていく。これでは、選挙でそれぞれの政党の政策を支持し投票した国民の意思はまったく無視されたことになる。
この間の日本の政治は、この国民無視が目に余るものになっている。あの参院選での大敗にもかかわらず、「基本的なところは否定されていない」と強弁して政権にしがみついた安倍前首相、大連立案を国民に問うのではなく小沢氏個人に問うた福田政権、彼らの頭には国民の意思に従うという観点自体がないようだ。それは、党首会談に乗った小沢氏にしても同じことだ。
民主政治においてもっとも重要なことは、国民の意思を反映し、それに基づいて政治を行うということだ。国民不在の政治は、いくら口で民主主義を叫び、形式的に選挙をしていても民主政治とは言えない。国民の意思にそって政治を行うため選挙で民意を問うことができる政治こそが民主政治だと言えるだろう。
今回、「ねじれ国会」で政治が動かないという事態に直面して、なすべきことは明確だ。それは、解散・総選挙で大連立がよいのか反自民連合政権がよいのかを国民に問うことを置いて他にない。選挙で自民党が勝てば、民主党は自民党主導の「大連立」に応ずる他なく、民主党をはじめ野党勢力が勝てば、反自民連合政権、もしくは民主党政権になるということだ。
小沢氏は、今回の事態と関連する党首辞意表明の記者会見で、民主党の政権担当能力について質問を受け、まだまだ未熟だと答えていたが、「未熟さ」の根拠は、「自民党の大連立の申し入れを利用することも知らない」に置かれるのではなく「民意に依拠し、民意に基づいて政治を展開することも知らない」に置かれるべきなのではないだろうか。
10月21日、京都円山公園野外音楽堂で開催された「このままでええの!! 日本と世界。10.21反戦共同行動in京都」に参加しました。
会場には1000名を越える人々がつめかけました。この誰もの予想を上回った参加者数が示しているように、何かが動き出しているという印象を強く受けた集会でした。
友部正人さん、パンタさん(イラクのフセイン元大統領の息子ウダイの14歳になる息子が米軍に包囲される中たった一人で1時間銃撃戦を行い壮烈な死を遂げた歌「7月のムスターファ」には胸が締め付けられるようでした)。
エイサー・まーちゃんバンド(小さな子供たちの無邪気で真剣な踊りには思わず頬がほころび、祭りの愉快な歌には皆で一緒に踊りに参加)、趙博さんらの熱いメッセージの伝わる。
歌、岡真理さんのパレスチナ報告、「生きさせろ」の雨宮処凛さんへの洛南ユニオン書記長のインタビュー。辻元清美さんの国会報告、「先輩たち、もう一花咲かせてください」と、大先輩方への火のつけ方は流石。会場からは拍手と笑いが沸き起こっていました。
安次富浩さんの力強い沖縄からのアピール、在日「無年金訴訟団」、「ウトロ」、「教育現場」、「反原発」、東京、京都からの各現場報告と連帯の挨拶、「集会宣言」の読み上げ、インターナショナル合唱からデモへ。
盛りだくさんの内容で、分散的なものになりはしないかと心配したのですが、これは全くの杞憂でした。
この日の集会を私として集約するなら「一つになった」ということです。音楽と講演・報告が一つになり、舞台と会場が一つになり、東京と京都が一つになり、日本とパレスチナ、在日・韓国の人々が一つにつながった集会。日本に帰国して初めて経験した感動的な一体感でした。
四条通りから川原町通りへのデモ行進では、首切りに反対して闘っている小さな労組の人々がデモ隊を持ちうけ拍手と連帯を交わしたり、歩道を歩く多くの人々が関心をもってデモ隊を見つめ、中には一緒に「ガンバロー」と拳を上げる若い女の子もいました。まだまだ一つになるとまでは言いがたいのですが、その眼差しは無関心でもなければ排斥でもありませんでした。それだけ、人々の不安や怒りが深いものになっており普遍的なものになってきているということではないでしょうか。
規模においても内容においても画期的な集会だったと思います。この流れはさらに加速されていく予感が漂っています。
■韓国17代大統領選挙の変数と展望
今回の大統領選挙の争点は、理念よりも誰が経済を再生できるかとなっている。
5年前、慮武鉉(現大統領)候補を支持した首都圏30、40代にも李明博候補(保守系ハンナラ党)の支持率が高い。同候補の優勢は変わらないが、残り60日間の点数を誰にどう付けられるかは予測が困難だ。
統合民主新党の統一候補選出を契機に鄭東泳候補が湖南地方で李明博候補を大きくリードする現象もすでに現れている。鍵となるのは残り60日で、このような現象が首都圏まで拡散するかどうかであろう。
南北首脳会談後の措置である11月の首相級会談、国防相会談などが、経済に傾いた争点を「韓半島の平和」の側に動かすかどうかも変数となる。
しかし何よりも関心は、ハンナラ党と李明博候補が1年余り続けてきた「大勢論」を残り60日で守りきれるかどうかに集まる。李明博候補の失策やスキャンダル(BBK株価操作事件の証人の米国よりの帰国など)も大きな変数としてあげられている。
■シンガポール投資視察団がピョンヤン到着
北韓の朝鮮中央通信は、10月13日、シンガポール、エンシンリ投資有限会社の理事長を団長とする投資視察代表団のピョンヤン到着を報道。視察団の性格、規模、目的には触れていない。しかし北韓ナンバーツーのキム・ヨンナム最高人民会議常任委員長がシンガポールを訪問、同国大統領との会談で関係増進を論議した経緯がある。
■ミャンマーのASEAN成員資格を停止せず
ミャンマー軍事政権の民主化デモ弾圧にもかかわらずマレーシア外相は、ミャンマーとの対話が継続されねばならないとしながら、対話においても威嚇的な条件を出してはならないと語った。
■カスピ海沿岸国首脳会議の開催
10月16日、ロシアとイラン、アゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタン各国大統領がテヘラン(イラン)でカスピ海沿岸国首脳会議を開催。共同宣言は25項目からなるが、以下の指摘が注目を引いている。
その一つは、沿岸諸国が、隣国への軍事的侵略に利用する目的で第三国に領土を提供できないとしたことである。これは特に米国にとっては欧州ミサイル防衛体系関連の軍事的配備を放棄せざるをえなくなるという事態である。これまで米国は、カスピ海に豊富な石油、天然ガスをめぐる資源紛争を利用してアゼルバイジャン、トルクメニスタンを引きこみ軍事的浸透を実現、ロシア及びイランへの圧迫を狙っていた。今回の合意でカスピ海の資源をめぐる問題も意見相違を克服し協力を基本姿勢とすることが首脳間で確認されたことは米国には打撃であろう。
また各国は、核拡散防止条約参加の全ての国が条約の範囲内において差別のない核エネルギーの平和的研究、生産、利用が可能であるという不可分離の権利を持つことを確認した。
■共同通信、韓国連合ニュース共同主催の高句
麗古墳壁画写真展示会、ピョンヤンで開幕
ユネスコの世界遺産に登録された北朝鮮の古代古墳壁画の写真展示会が支局開設一周年を記念して日本の共同通信、韓国の連合ニュース共同主催で朝鮮中央歴史博物館で開幕。
北朝鮮の中央通信社の協力を得て開かれるこの展示会は、三カ国通信社の協力が初めて実現して開かれた行事だ。開幕式には、石川社長とキム・ギソ社長を団長とする共同通信社と連合ニュースの代表団をはじめ約100名が参加した。
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