時代の眼
今、「多文化主義」「文化の多様性」「文化力」、等々、文化についての論議が花盛りです。が、そこで一つ気になることがあります。それは、この「文化ブーム」がアメリカの戦略論に基づき、それを補完するためのものになっているのではないかということです。というのも、今日の「文化論議」がハンチントンの「文明の衝突」論やナイの「ソフトパワー」論など、1990年代に出されたアメリカの戦略論の影響を多分に受けていると思われるからです。
もちろん、少なからぬ論者がそのことを自覚した上で論陣を張っているのは事実です。「多文化世界」を著した青木保氏などもその中の一人だと言えるでしょう。氏は、ナイの「ソフトパワー」論から大きな刺激を受けたことを隠していません。
そのうえで氏は、「文化を政治化するな」という自説を述べながら、自分が決してアメリカの戦略論に組みしているわけではないことを力説しています。
確かに氏は、ソフトパワー論に目を開かれたとしながらも、文化の多様性を擁護することや世界各地の文化の担い手たちが自らの文化を魅力的なものに鍛え、世界に発信して、地球全体の文化をより豊かなものにするため努力するよう呼びかけています。すなわち、アメリカのためではなく、あくまで各国各地域の文化を尊重し、地球全体の文化を発展させるためだということです。
しかし、ここで問題なのは、氏が文化力と言うとき、その評価の基準をどこに置いているかということです。それが世界のどこででも受け入れられる「普遍性」の高さに置かれているのは、氏がスニーカーやポップス、コーラなどアメリカ文化の「抜きん出た魅力」について言うのを見れば明白です。
これは明らかに、他と比較するナンバーワンの思想です。もちろん、文化にも普遍性があり、自分の文化がより高い普遍性をもって、地球全体の文化の発展のため、より大きな貢献ができるようにするのは大切なことでしょう。
しかし、文化というものは、なによりもそれぞれの国の自然地理的、社会歴史的条件に合うように、そこで生き生活する人々のために発達してきたものです。そこには当然、その国の人々にとってかけがえのないものとしてのオンリーワンの思想があるべきです。すなわち、文化力評価の基準は、なによりも、その国の人々にどれだけ意味のあるものになり得るかに置かれるべきだということです。
このことを度外視した文化論は、いくら「文化を政治化するな」と叫んだとしても、結局、アメリカの世界戦略にからめとられ、アメリカが一極支配する画一的なグローバル世界を一時的に多様化し、延命させるのに利用されるだけなのではないでしょうか。
主張アジア共同体参加に問われる理念
編集部
■アジアは動いている
10月8日、インドネシアのバリ島で開催されたASEAN首脳者会議は「ASEAN協和宣言U」を発表した。
宣言は、2020年までに安保、経済、社会・文化の3分野での共同体づくりに合意した。ASEAN諸国は、これまで「自由経済圏」をめざして協力関係を強めてきたが、この宣言によって、安全保障体制まで含めた「東アジア共同体」に発展させることが確認されたわけである。
この会議に参加した中国は、そこでASEAN諸国と「東南アジア友好協力条約」を締結。インドも遅れじと同様の条約を締結した。中国は、この会議で、現在、ASEAN諸国と合意しているFTA(二国間自由貿易協定)締結を早め、現在550億ドルの貿易額を05年までに1000億ドル(現日本水準)にまで上げることも表明した。
これについて朝日新聞は「アジアは動いている」という題目の社説で、「日本がもたついているうちに、南の隣人たちは中国と一緒に走りだした」と指摘し「ASEAN、日中韓、インドを加えた30億人の自由貿易圏構想が動き始め」「夢物語だった構想が現実味を帯びて語られるようになったことにアジアの可能性を肌で感じる」などと述べている。
「動きだした30億のアジア経済圏構想」。しかし、日本はこれに「遅れている」と認めながらも対応できないでいる。こうした煮えきらない態度にASEAN諸国の日本を見る目も厳しくなっている。「日本との関係は分岐点に来ている。・・・一種の失望感が出始めている」(タイ高官)。
この失望感について、新聞などは「農産物自由化」に日本が踏み切れないことだなどと言っているが、それだけが原因なのだろうか。
■農業問題から見ても問題は
「遅れをとりもどす」として、始まったメキシコとのFTA(二国間自由貿易協定)も豚肉、オレンジジュースの関税撤廃をめぐって失敗に終わった。これをもって、小泉首相は「農業鎖国はいけない」と言っているが、本当にそういう問題なのだろうか。
周知のように、農産物問題は、9月にメキシコのカンクンで行われたWTO会議でも大きな争点になった。米国が農業、資本の完全自由化を求めたのに対して、発展途上国が欧米先進諸国の農業補助金撤廃をもとめたのである。
米シンクタンク「国際食糧研究所」の分析によれば、先進諸国の農業補助によって途上国は農産物の対外販路を毎年235億ドル失っているという。例えば、アフリカでの綿花の生産価格は米国の5分の1だが、米国の保護政策と流通機構の掌握によって、アフリカ産綿花は市場から不当に排除されている。
発展途上国の要求は公正であり、これは、日本にとっても悪いことではない。日本は世界最大の食糧輸入国であるが、その大部分は米国産及び米国食糧メジャーを介したものである。こうして、日本の穀物自給率は32%にまで低落しているだけでなく、「聖域」であるコメまでもミニマムアクセス(最低輸入量)が決められ、順次輸入量が増やされているのだ。
日本は決して「農業鎖国」ではない。米国には門戸を広げ、途上国からは入れないという農業政策における対米従属性こそが問題なのである。途上国から見れば、決して安くもない米国農産物を膨大に輸入するのなら、その一部を自分たちから輸入してくれということにすぎない。それは「市場原理」を標榜する米国としても文句のつけようのないことのはずである。日本が農業政策の対米従属性を正し自主的な政策を打ち立てれば、途上国やアジアからの農産物輸入を増やしながら、国内農業を保護し自給率も高めていくことさえ可能なのである。
確かに、これまでは、米国は日本の最大の貿易相手国であり、工業製品輸出のために米国産農産物輸入はやむをえないという考え方でいけたかもしれない。しかし、今、アジアとの貿易が米国のそれを上回り年々拡大している現実の中で、こうした考えを再考する必要があるのではないか。
これは決して、農業だけの問題ではない。アジアの失望感は、日本の対米従属性に対する失望だということを銘記すべきなのである。
■隠された問題−アジア安保
実は、「ASEAN協和宣言U」で一番重要で本質的な問題は、「アジア安保」に言及していることにある。「経済協力による平和」から「安全保障による平和の道」へと言われるように、この宣言は、東アジアの平和を自らの力で解決しようというものである。
これは日本にとっても、衝撃的な内容であり、これに対する立場をしっかり立てなければならない問題なのだ。
1994年に行われた「構造改革諮問会議報告」(いわいる樋口報告)で、日本の安保問題について、記述の順序を日米安保よりもアジア安保を先にしたというので、「日本は日米安保を軽視しているのか」と米国が激怒したという事実がある。そして、この問題は、96年の安保再定義によって、日米安保をこれまでの日本防衛のためから、グローバルな範囲での、あるいはアジアでの米軍の動きに日本が追随するものと再定義されることで決着したのは周知の事実である。
しかし、今、東アジア自らが「アジア安保」を主張するようになった。これにどう対処するのか。「アジア安保」に対する立場を明かにすることなく、日本はアジア経済圏構想への取り組みはできないのである。
アジア安保において、ASEAN諸国は、これは「軍事同盟ではない」と米国の警戒を解きながら、「内政不干渉」と「全会一致」を原則にすることを確認している。これは各国の自主権を尊重し互いに平等の関係で問題を解決していこうというものである。
「日米安保」でいくのか、それとも「アジア安保」でいくのかという問題を突きつけられている日本は、ここにおいて自主か従属かの選択を迫られているのだ。
「日米安保」は、米国を盟主に、その手先になって世界、アジアににらみを効かせる米一極支配に追随し、それを補完する道であり、「アジア安保」は、各国の自主性を尊重しながらアジアの問題は他人に口出しさせずアジア人同士で解決しようという多極化・自主の流れに合流する道である。
日本は、今、安全と平和で、テロ、中国の台頭、朝鮮問題などを問題にしているが、その是非はひとまず置いて、この「脅威」なるものに対処するにしても、米国の軍事行動に従う「日米安保」がいいのか、互いに話し合って共同で解決していく「アジア安保」がいいのか、その答ははっきりしているのではないだろうか。
■米国の策動に乗るな
米国は、ASEAN会議の後、行われたAPECの会議で、あくまでもアジアにおいて日米安保を基軸にし、これをもってアジアを統制するための策動を行っている。
APEC会議でブッシュは、フィリピンへの軍事支援拡大を表明し、イスラム原理主義「ジェマ・イスラミア(JI)」の掃討作戦を東南アジア全域に広げる方針を打ちだした。アジア安保が実体化する前に、反テロ戦線を作り、これにアジアを巻き込むことによって、アジアの多極化、自主化を押しとどめようということなのだろう。
こうした米国に対し、東アジア諸国は強く反発している。「APECは米外交のための貸し座敷に成り下がった」。マハティール前マーレーシア首相が豪ハワード政権を「アジアにおける米国の保安官代理」と批判するや、ブッシュが「いや保安官そのものだ」という笑い話のような反論をしたことに対して親米派フィリピンのオプレ外相さえも「この地域に保安官はいらない」と発言したことなど・・・。
そして、米国の家来のような日本に対しては「日本はなぜ、ああも米国べったりなのか」という非難の声が。それは、日本がこの会議で「北朝鮮の拉致問題」を議題とし、声明に取り上げるように働きかけたのに対して、誰も耳を貸さなかったことにも現れている。
この問題では、日本は米国を頼りにして草案も見せたらしい。しかし米国に「内容もないこんな文章を出す必要はない」と一蹴され「米国が応援してくれたら、文書化できたのに」と泣き言をいったという。
こうした事情を日本の新聞も「米頼みの日本誤算」と書いているが・・・。自主なき日本のぶざまな姿は悲しいかぎりである。
今、日本は「東アジア経済圏」への「立ち遅れ」に焦っている。しかし、日本のどうしようもない対米従属姿勢、自主性のなさを問題にすることなく、やれ農業問題だなどと騒ぎ立てながら、農業のさらなる自由化、対米融合化の口実にしているようでは、日本は、取り残されるしかないだろう。
研究対米融合に向かう教育改革
小川 淳
「聖域なき構造改革」の一環として、文科省の諮問を受けた教育基本法改正論とともに、国立大学の独立法人化や高校の学区制廃止など、教育現場では急速な教育改革が行なわれ始めている。いじめや不登校、さまざまな問題が指摘される大学の現状など考えれば、何らかの改革が必要であることは確かだ。しかし、現状の改革が、真に子供のため、日本のための改革になっているのかどうか、再考する必要がありそうだ。
●急激に進む教育改革
大学改革の目玉である 国立大学の「独立行政法人法」は、今年10月から施行される。国立大学をスクラップ・アンド・ビルド方式で統廃合し、民間的経営手法を導入した「大学法人」に移行させるものである。すでに、「21世紀COE(卓越した拠点)」計画(10分野別に30大学を選び、5年間に年間1〜5億円を重点配分してCOEを作ろうというもの)に基づき、「トップ30」を目指した大学間の競争が展開され、外部認証機関による評価や競争原理の導入などによって、「世界最高水準の大学づくり」「活力に富み国際競争力のある国公私立大学」づくりが推進されていっている。
初等・中等教育では、「ゆとりの中で子どもたちに生きる力を育む」「画一的教育ではなく個性と多様化の尊重」などを改革の柱にかかげた完全学校5日制、教育内容の三割削減、総合学習、中高一貫校、大学飛び入学制度の導入・拡大、習熟度別学級編制の促進など現場では改革がすでに実行されている。
このような競争原理に基づく教育再編の一方で、学校教育法、社会教育法が改正され、「社会性や奉仕・献身の精神と態度の育成」という道徳教育の義務化、奉仕の義務化、問題を起こす子どもや教師の排除など、国家主義的な教育手法も導入されつつある。
その最先端が、東京都の「教育改革」だ。学区制を廃止して学校間競争を押し進めるとともに、進学重点校の選定、「中高一貫制高校」新設、教職員の管理統制を強化する「主幹制」の創設、学外者による「学校評価制度」の導入などを柱とする改革が進む。
●教育改革の本質はなにか
小泉構造改革の重要な環としての教育改革が、政治、経済、軍事などあらゆる分野における改革と同じく、その本質において対米融合であるのは容易に推定されるところである。
すでに施行が決まった国立大学の独立行政法人化は、国の援助で誕生した新技術でも国立大学に特許を与えることができる米国のバイ・ドール法を真似たものと言われている。大学に法人格がなければ特許の取得や企業の委託研究もできず、また契約主体にもなれず産官学連携は進まない。「世界最高水準の大学つくり」のかけ声の下で進められる大学改革が、国立大学側の反対論を押し切って、産学連携を経済活性化の起爆材と望むアメリカと日本財界の強い圧力によって生まれたことを重視する必要がある。
一方、石原都政のもと進められる東京都の教育改革は、中等教育における米国的教育手法、経営管理法の大胆な導入であり、教育システムのグローバル・スタンダード化、アメリカ化だ。
これは、大学も都立高校もその性格を変え、企業と同じように教育市場で競い合う一つの経営体となることを意味する。学長や校長の権限を強化し、トップダウン方式に学校運営権を集中し、教授会や教職員組合の権限は大幅に弱まる。より重要なことは、このような学校制度の変化、トップの権限強化や管理運営方式の転換は、必ずや教育内容にも根本的変質をもたらすだろうということである。学校の管理運営権がトップダウンになることで、競争力を持つ米国などの知識産業が日本の大学や高校に非常に参入しやすくなる。
換言すれば、教育改革とは日本の教育システム全般をアメリカ化することによって米国の資本参入を許し、ひいては教育内容さえもアメリカ化する構造改革であり、政治、経済、軍事と同じ対米融合化の一環だと言うことができる。
一連の教育改革は、あくまでも小泉構造改革の一環であり、他の対米融合的経済改革や政治改革と密接に連動している。国立大学が、強力に進められようとしている地方分権化、道州制と連動しながら米国資本と自由に提携し、共同研究、新事業を展開するなど対米融合化の強力な地方拠点になるのは、そのひとつの典型だと言えるだろう。
●対米融合の教育改革は何をもたらすか
教育とは本来、子供の自主性や創造性、社会性を豊かに育て、社会のために尽くせる人間に育てるためのものである。公教育の目的もそこにある。子供の自主性、創造性、社会性は他者との関係や社会の中での自己の存在を自覚する中ではじめて身につく性格のものだ。対米融合の教育改革は、利己的競争や自己の商品価値を高める教育に主眼がおかれている。それは必然的に社会にきちんと折り合うことのできる子供、自分の国と社会のために何か貢献できる人間になりたいと志す子供を育てるより、逆に人をけ落としてでも勝ち残るというような利己主義だけを助長していく危険性がある。
とりわけアメリカ式の弱肉強食、優勝劣敗の原理の導入は、ごく少数のエリートやスペシャリストと絶対多数の非エリート層の二極化を生み出すようになる。それは教育改革が掲げる学力低下や落ちこぼれ、不登校など悲惨な現状の改善どころか、子供間の競争を激化させ、できる子とできない子の差別化、選別化を一層加速させるだろう。
一方で、上からの式の道徳教育の義務化、奉仕の義務化、問題を起こす子どもや教師の排除、そして教師に対する全面的統制の強化など国家主義的な教育手法は、教育内容の従属愛国的な変質と相まって、教師の教える喜びや自主的な創意工夫を失わせ、学校を教師にとっても子供にとっても無味乾燥な牢獄に変えてしまうだろう。
これは子供にとってばかりでなく、日本にとっても良くないことだ。教育の二極化は、いじめ、不登校などをより一層深刻化させ、それによる膨大な非エリート層の形成はアメリカのように国の未来に大きな負の遺産を残すようになる。
大学においては、日本の発展や未来のための研究よりも、大学発ベンチャーの育成や特許開発のために研究や起業からの委託研究に主眼が置かれるようになり、国立大学の本来の使命である国の有能な人材育成や国のための学問的研究が無視・軽視されるようになり、今後、国の力の衰退をもたらすことは確実である。
アメリカのための対米融合の教育改革ではなく、子供のため、日本のための教育改革こそ、求められている。
文化「愛より金」、キャバクラ経営志望
若林盛亮
「十代真剣しゃべり場」という番組。そこにキャバクラ経営志望の十代の若者。なぜキャバクラ経営なのか?
医者とかは時間がかかる、自分の実力でいきなり階段をかけ上がる、つまり楽してお金を稼げるのはキャバクラだからだ。彼の持論−お金がなければ幸せになれない!
当然、猛反発が返ってくる。「そんなにお金稼いで何に使うの?」−当面は、大きなマンションに住みたい、いま二DKに家族四人だから勉強部屋を妹と二人で使ってるから。次に車、そしてどんどん上をめざしていく。男は女を養わなければ、先だっては金がいる。「じゃあ愛よりも金なわけ?」の疑問には、30才でフリーターやってる男にどんな女がつくわけ? と反論する。
この彼は、金髪をかっこよくきめ、ナンパが趣味という自称、遊び人。40歳になれば、金で愛人をつくる、子どもにはお金でおもちゃを買ってやるから淋しい思いはさせない、とまで言う人だ。
なぜ彼はそこまで金に執着するのか? 小学生の頃、父親が体をこわして収入が半分になった、それで母親が働きに出て、一人になる時間が淋しかった、これまで買ってもらえたおもちゃも買ってもらえなくなった、両親の稼ぎをめぐるケンカも見てきた。いま浪人中だが、金がないから予備校には行けず自宅で受験勉強、志望は東大、キャバクラの夢のため経営学を学ぶと言う。
私は当初、どうしようもない若者だと思った。しかし貧乏で幸せが壊れたという彼の人生体験の前には、「貧乏でも愛さえあれば」とか「愛より金」という正論で彼を納得させられないのも事実だ。
実際の彼は、十歳の妹のために毎日、夕食もつくってやり、その妹がナンパするような男についていくようなら怒るという若者だ。彼は「金より愛」が正論だとわかっている。しかし金がすべてのいまの日本社会の現実を無視して「金がなくても幸せになれる」という空論に彼なりの逆説的やり方で反抗しているのではないか。優勝劣敗、二極化の現日本社会の告発者として聞けば、彼の「キャバクラ哲学」は傾聴に値する。
朝鮮あれこれ
草を肉に換えよう
小川 淳
黄海北道ポンサン郡にある、山羊の優良品種を全国に送るためのウンジョン山羊種畜牧場。ピョンヤンからケソンへ高速道路を1時間半あまり、サリウォン市に近い山間部に昨年建設されたこの牧場を参観してきました。山はちょうど紅葉の時期で、途中にあるジョンバン山や牧場の背後にひかえるラジャン山は見事な紅葉でした。
「草を肉に換えよう」というスローガンが掲げられた農場には、山間部の広大な丘や山すそを利用して水ナラなどを植樹した3200ヘクタールの牧草地が広がり、貯水池を囲んで整然と並ぶ数十戸の畜舎では山羊だけでなく豚やアヒル、ガチョウが飼育され、山羊の採乳場や乳の加工工場も整備されていました。
案内人の話によれば、現在、約500頭の山羊が飼育中ですが、将来的には牧場も拡大し3000頭まで増やす計画だそうです。ニュージランド産を中心にタイプの違う5種類の山羊が飼育中で、採乳量の多いジャネン種やアルペン種、食肉用のボーウ種など、それぞれの用途に応じた優良品種を大々的に増やして全国の牧場に送るそうです。
ミズナラの葉90%、トウモロコシ10%の加工飼料を与え、最盛期には一頭当たり一日に3〜4キロのミルクを機械で採乳し、毎日約300キロの乳を加工して、チーズやバターを作るそうです。今はちょうど、種付け妊娠期にあたるため採乳や乳の加工はやっていませんでしたが、保存中のチーズを試食。癖がなく独特のコクがあって美味しいものでした。
優良種とされるジャネン種、地面につきそうな股間の巨大なおっぱいをぶらぶらさせて餌を食べている姿を眺めていると、なるほど案内人が言う「優良品種」という意味が納得できました。
餌は山にミズナラを植えて自給し、山羊のフンは豚の餌にし、豚の糞はアヒルやガチョウの餌にし、池では養魚も行うなど循環型農業が実践されています。
雄大な自然の中で豊富な山の幸を餌にして育つ山羊。なぜヤギに山羊(山のヒツジ)の漢字を当てるのか、わかる気がしました。確かに山間部を利用すれば山羊は幾らでも飼うことができ、経済価値のなかった雑木をバターやチーズ、肉に換えることができます。
穀物生産に適した平野部が限られている中で、国土の八割を占める広大な山間部がもっと有効に活用されるなら、食料自給も充分可能になる、そう実感した一日でした。
編集後記
魚本公博
中国の有人宇宙船「神舟」の成功に、自民党強硬派の中から、対中国ODA見直し論。有人衛星を打ち上げるような国になぜ「援助」しなければならないのかというわけですが、そこには他国の成功を素直に喜べない優劣感情があるようです。
1990年、日米貿易摩擦で日本の商業用衛星は国際入札に付されることになり事実上撤退に追い込まれ、宇宙技術者の多くは挫折感を抱いて散っていった・・・。(89年には、日本独自のOS、TORONも同じ目にあった)
米国との関係では、屈服、譲歩をこととしながらアジア諸国には強く出て、その成功を喜ばない。まさに米国崇拝、アジア蔑視の思考。
東アジア共同体構想でも、その夢ある未来に対して、対米従属性ゆえに動きがにぶい自身を捉え返すことなく、やっかみ半分では何もできないでしょう。
アジアへの嫉視、敵視でますます米国に頼るようになるのか。それともアジアの新しい流れに真摯に対応するのか、日本は「分岐点」にきていると思います。