主張―国民投票法案通過の新情勢に対処して― 「禍を福に転じる」憲法9条論議を
研究―新自由主義思想の特徴― すべてを市場に委ねる金がすべてを決定する
フランス大統領選は、世界の注視を受ける中、サルコジ氏の勝利で終わった。この結果をどう受けとめるかは現代世界にとって、そして日本にとって重要だと思う。
普通一般、サルコジ氏とロワイヤル氏の戦いは、アメリカ型競争社会かヨーロッパ型福祉社会かの戦いとして描写されていた。サルコジ氏の勝利を「より働けば、より稼げる社会」の到来として喜ぶ不安定雇用層の声などは、この戦いがそういう側面を持っていたことを示していると思う。
だが、この選挙結果をもって、米英型新自由主義、グローバリズムの勝利と決めつけるのは早計ではないかと思う。
重要なのは、サルコジ氏が「グローバル化時代こそ主権国家が大切」と主張し、外資参入阻止や国内産業保護のため「国家の介入」も辞さない姿勢を鮮明にしていたことだ。そうしながら同氏は、米国に対し主張すべきは主張すると「対米追随」の印象を避ける一方、最終遊説の地を「愛国の地」、グリーエル高原に求め、愛国烈士の墓に花を手向けて見せたという。これが最後の最後まで誰に投票するか決めかねていた投票者中35%に上る人々の心にどのような作用を及ぼしたか想像に難くない。
ここで想起すべきは、もともと米英型の新自由主義、グローバリズムはボーダレスの国家否定であり、「国家の介入」の否定だということだ。すなわち、サルコジ氏の意図はどうであれ、フランス国民は、今選挙の投票率が84%に上ったことに示されているように、自らの運命を自国の運命と切実に結び付け、その進路について思い悩みながら、国家否定の米英型新自由主義、グローバリズムを求めたというより、むしろ主権の強化と自国の自主的な発展を求め、それを実現する情熱と力をもった愛国的な強い指導者を求めたと言えるのではないだろうか。
主張 ―国民投票法案通過の新情勢に対処して―
■国民投票法案成立−禍を福に
国民投票法案が衆参両院で与党のみの賛成で可決された。この法案の早期成立をめざした安倍政権の狙いは9条改憲であり、政局としてはそれに向け一歩進ませたということになろうが、国民の現実はそうでもない。
5月3日、憲法施行60年の日、朝日新聞の世論調査では、改憲必要が58%を占めたものの、その内容をみれば9条改憲反対が49%、賛成が33%、また9条が「平和に貢献」78%と総じて9条への評価が高い結果となった。
時代の発展に即して環境権など新しい憲法規定が必要というのが当然の世論なら、9条護持が新しい時代にも必要だというのも国民の不変の意思だと言えるのではないだろうか。
今回の国民投票法案には、有効投票率を設けず、そのため例えば有権者の2割の賛成でも改憲でき、また公務員、教職員の政治活動が規制されるなど護憲勢力に不利な内容が多々あるのは事実だ。現に教育現場では「憲法をどう教えればよいか…」という戸惑いの声が出ている。だが改憲勢力のこの姑息さ自体がその弱さの表現であるのも事実だ。
国民投票法案成立という「禍」を「福に転じる」有利な条件は十分にあると言える。
■9条「戦争放棄」の真髄−「主権尊重」
9条の核心は、戦争放棄条項である。ところで、ここで言う戦争はわが国が行った戦争、帝国主義、覇権大国の覇権戦争、侵略戦争であり、9条の意義もいかなる覇権戦争、侵略戦争をも不可能にさせるところにある。
9条は「自衛戦争をも放棄」を打ち出し、このことに9条の革新的意義があると言われるが、それはどのような意義なのだろうか。
「自衛戦争をも放棄」というのは、これまで国際的に認められた「自衛戦争」、「自衛」の名による「制裁」「報復」「予防」のために相手国に宣戦布告し交戦状態に入る、そのような戦争を放棄するということである。9条は「交戦権の否認」という形でそれを明確に表明している。
このことの革新的意義は、「自衛」のためであれ相手国に侵攻し交戦すること自体を、相手国への主権侵害行為として否認したということにある。また9条の「戦力不保持」は、他国を攻撃し交戦状態に至る武力を主権侵害武力、戦力として否定し、日本の国防力の基準を示した。
戦争は、他国への武力行使、力による主権侵害行為である。「戦争放棄」とは、本質において武力による主権侵害行為の放棄を意味する。故に、9条の真髄は主権尊重にあると言っても過言ではない。
なお自衛権について9条は触れていない。これは覇権大国であったわが国にあって、自衛権が焦眉の問題ではなく二義的なものだったと理解すればよいと思う。その上で、「戦争放棄」の真髄が、主権尊重にある以上、主権の行使としての自衛の権利は当然あると見るべきである。その自衛は、交戦権を否定した自衛、つまり主権侵害に至らない自衛−自国領土、領空、領海から出ない「撃退自衛」とでも言えるわが国独特の自衛概念として理解すべきだと思う。その意味で日米安保と一体の今の自衛隊は、「撃退自衛」の範囲を超えた戦力(交戦能力を持つ武力)だから違憲の軍隊である。
■9条は国民の選択−「押し付け」が問題でない
改憲論者の「押し付け」憲法論にはきっちり反論すべきだ。安倍首相の言う「占領下でつくられた」などというのは単に歴史的事実を言っているに過ぎない。9条には連合国占領軍、主として米国の要求、軍国主義日本弱体化の意図も反映されているのは当然のことだ。だが一方、軍部の戦争拡大に反対してきた幣原首相の意見が取り入られたとも言われる。占領軍は日本国民の要求を重視し、それを積極的に利用したということだ。問題は、日本国民の意思が反映され、日本にとってよかったかどうかである。軍国主義日本の清算を誓った9条が日本国民の大歓迎を受けた歴史事実は、それが占領下でつくられたにせよ、いやいや「押し付け」られたものでないことを示している。
わが国が近代に行った戦争は、すべて「自存自衛戦争」の名のもとに行われた侵略戦争であった。幕末攘夷論以来、西欧列強のアジア植民地化からの日本防衛論は、その防衛線を「外へ」、アジア近隣諸国に延長、拡大した。吉田松陰の「東亜経略論」をはじめ攘夷論の多くは、そのために「アジアと結ぶ」を基本とした。それが「アジアは無力」と断定するや、「アジア悪友論」「脱亜入欧」に転化、以来、欧米列強とアジアで覇権を競う帝国主義国家として、わが国は危険な侵略、戦争勢力となった。帝国ロシアの南下を防ぐとして日清、日露の戦争を経て朝鮮併合・植民地化へ、そして満州事変、満州国建設からさらに「満蒙防衛のため」として中国大陸侵攻に至るや米英と利害激突、ついには帝国主義間戦争突入を余儀なくされ悲惨な敗戦を結果した。「外に」防衛線を求める果てなき「自存自衛戦争」、これが近代日本の行った帝国主義覇権戦争、侵略戦争であった。
9条の「自衛戦争をも放棄」は、この歴史を踏まえた日本国民の学習成果であり、「押し付け」論は歴史に学ばないものの屁理屈である。
■9条は20世紀の戦争の総括
9条は、日本近代史の総括に留まらず、二度の世界大戦の悲惨を体験した20世紀という時代の総括の結晶でもある。
20世紀初頭は帝国主義全盛の時代であり、植民地獲得競争、侵略戦争はある意味で「世界の常識」であった。しかしその植民地争奪戦が帝国主義列強間戦争として第一次世界大戦を勃発させ、史上初めての国家総力戦、大量殺戮兵器の登場など戦争を悲惨なものにした。この人類体験の教訓が戦争、特に侵略戦争を「犯罪」とする観点を初めて生んだ。第一次大戦後、米国での「戦争非合法化運動」や1928年のパリ不戦条約、「戦争放棄に関する条約」はその具体的結実であった。
しかし英国は自己の植民地圏防衛を、米国は南北アメリカ大陸防衛を「自衛権」と主張し、日本も「満州、蒙古防衛」を「自衛権」に含めることを主張、これを許した結果、戦争放棄というパリ不戦条約は空洞化され、ついには再び第二次世界大戦が勃発することになった。
二度の帝国主義戦争を体験した20世紀の人類は、「自衛戦争」の名で帝国主義列強が侵略戦争をできなくすることを求めた。「自衛戦争をも放棄」を盛り込んだ日本国憲法9条は、この20世紀人類の要求の結晶でもある。その意味で9条は、主権侵害、侵略と戦争を本性的に要求する帝国主義国家にそれを放棄させる憲法、反帝国主義憲法だと言える。
■9条実現で率先垂範、いかなる「帝国」も許さぬ戦争のない21世紀を!
主権尊重を真髄とする反帝国主義憲法としての日本国憲法9条は、21世紀の今、どのような意義をもつのだろうか?
20世紀後半、世界は帝国主義列強による直接の植民地支配も、かいらい政権を通じた間接的な植民地支配も許さない世界に一変した。いかなる国と民族も大国への隷属、従属をよしとせず、民族自主権、国家主権尊重は「世界の常識」となった。
新旧植民地主義に代わって登場したのが多国籍化した国際独占資本によるグローバリズム全面化、新自由主義と新保守主義、即ち市場至上主義による国家の規制撤廃と力によるその世界秩序樹立である。これは、「地球利益」、市場の自由を国と民族の利益より上位に置き、民族自主権、国家主権尊重の「世界の常識」を「20世紀の遺物」として葬り去り、主権侵害、覇権を再び合法化する21世紀の植民地主義、帝国主義の出現に他ならない。
米ブッシュ政権の打ち出した「民主主義の世界的拡大」のための「反テロ戦争」は、この新たな帝国主義の「21世紀型戦争」である。
「自由と民主主義の帝国」一極支配をめざす米国は、「反テロ戦争」を「テロリスト」「独裁者」の支配に反対する戦争であり、民族や国家に反対する戦争ではない「非対称戦争」だとしてこれを正当化している。この「非対称戦争の大義」の破綻は、主権無視の「押し付け民主化」の失敗、イラク国民の米軍占領反対の声で明らかである。
しかし今、この米「帝国」が日本に集団的自衛権承認を迫り、9条改憲を求め、これに応えて安倍首相が「反テロ戦争参戦国」への転換を日本の国際貢献だとしている。わが国にとっては戦後初めて戦争の危険が身近な現実として迫っている。
20世紀初頭、「植民地自衛の大義」という主権侵害思想を許したパリ不戦条約は世界戦争を阻止できなかった。21世紀の今日、「反テロ戦争の大義」の前に国連もまた無力をさらけ出している。
そうした中、主権尊重の9条こそが米国の「反テロ戦争の大義」を無力化しうる。「戦争する日本」化を9条で阻止し、米国と安倍政権の9条日本の実現で、わが国が率先垂範して交戦権否認、戦力不保持の戦争放棄実践国となり、いかなる「帝国」も戦争もない21世紀の世界に貢献していくべきではないだろうか。
研究 新自由主義思想の特徴
国家の役割を抑え市場において自由を主張する(市場主義)のは、かつての自由主義でも今日の新自由主義でも同じである。しかし、かつての自由主義がまだ資本主義生成期にあって国家を前提に生産物を交換する場として市場を考えていたのにたいし、新自由主義では国家の規制と国境をとりはらい、すべてのものを徹底的に商品とし市場で競争させ、人間を完全に市場に従わせ、金がすべてを決定するようにする。今回、このことを考えてみたい。
18世紀の自由主義者は、政治的自由を獲得していくとともに、経済的にも独立し労働の対価を正当に評価することを求めていった。それは市場における生産物の自由な交換によって実現される。そのためには商業を「ベニスの商人」のように詐欺と悪徳にみちたものではなく、人間にとって必要で正当な活動として実証することが要請された。この市場主義をはじめて確立したのが、「道徳感情論」「法学講義」「国富論」を著したアダム・スミス(英)である。
アダム・スミスは人間が自律的な個人として成長する条件を探り、自律的な個人が織りなす社会の存立条件を明らかにすることを追究した。まず「道徳感情論」で人間は自分の利益を追求するだけでなく相手の立場から自らの行為を律することができることを明らかにする一方、各人の利己心の追求がはからずも(みえざる手で)結果的に社会全体の富裕につながるとみなした。「法学講義」では個人の自由に対する侵害を防ぐ「正義」の遵守を万人に強制する「法と政府」の基礎を明らかにした。そして、「国富論」で交換価値法則に支配される経済社会としての市民社会の本質を明らかにし、商業こそが人間相互間の交通による人間の共同性を実現しうるとみなしたのである。つまり、国家を前提にし、人々の間に道徳規律が作用することを前提としながら、その一方で市場にまかせると人間の自律も社会の発展もよくできると考えたのである。
しかし、かつての自由主義者が描いた人々の自由と平等や豊かな社会の実現は楽観的な夢にすぎなかった。市場の自由化と発展は、工業制の発展とともに労働力が商品として扱われる資本主義的生産関係にもとづいて、土地、貨幣、人間、さらには良心まであらゆるものが商品として売買され、すべての生産物が商品として生産される資本主義生産様式の全面化をもたらした。自由主義で市場競争を放置すれば商品生産のための社会となり、大資本が生まれ社会的不平等が拡大するのは必然であった。
その後、市場競争をつうじて独占資本が生まれ、階級的矛盾が激化していく過程をたどりながら、国家がたえず市場を保護、調節、規制してきた。とくに1930年代以降は、市場にまかせると恐慌が深刻化し不況からの回復がよくできなくなる中、国家が積極的に市場に介入すべきだというケンインズ主義が各国で採用されてきた。だがこれも1973年の世界同時恐慌とスタグフレーション(不況下で物価が上がる)で完全に破綻してしまった。
ケインズ主義の破綻と民族解放闘争の勝利による植民地体系の崩壊で危機に直面した国際独占資本は、グローバリズム(地球統合主義)のもと国家そのものを否定し、国の障壁と規制を撤廃して世界単一市場を形成し、市場にすべてを委ねる市場原理主義によって資本主義の延命をはかった。通貨供給だけで市場を調節し市場での競争にまかせるというのが、新自由主義である。このことにより国家を越えた市場になんの制限もなくなったのである。公共部門も教育も医療福祉までも市場競争にさらされるべきだとし、その競争は国境を越えて地球的規模で繰り広げられている。
このように、新自由主義は、国家を否定して市場に無制限にすべてを委ねるようにした。
ここでは、肌の色や民族、学歴、出身などを問われず、実力で金さえ儲ければ誰でも上流階級(セレブ)になることができるという金の前での平等を実現したかのようにみえる。
しかし、金がすべてを決定するということは、人間や社会が資本の法則に従属していくということであり、互いに市場で食うか食われるかの競争を際限なく繰り広げていくことである。自分以外の人々についてはどうでもよく、自分さえ金を得ればすべてだというになる。
新自由主義者は次のように言っている。「これからはマーケットに情報をすべてさらけ出して、マーケットが誰が勝者であり、敗者であるか、あるいは何が善であるか悪であるかを判定すべき時代になった」(中谷巌一橋大教授)。
言い換えれば、より金儲けできるのが勝者であり、金を儲けるのが善で損するのは道徳的悪であるということであり、金がすべてを決定するという思想である。
このように新自由主義思想は、国家を否定するだけでなく、人間の道徳性まですべて否定し赤裸々な利己主義を人間の本性とみなしている。
新自由主義思想は人々を制限のない利己主義競争に煽り立てているが、その利己主義を満たすことのできるのはごく少数の国際独占資本だけである。
一方、メチャクチャ働いても生活保護世帯以下の収入のワーキングプアが増大しつづけていく。競争に負けた人々は、敗者として当然人間としての扱いを受けられなくてもかまわないという。それは、最大多数の最大幸福を統治原理とすべきとした自由主義(ベンサム)の社会像とはあまりにも隔たっている。財界がフリーターについて「勝手にのたれ死ねばよい」「彼らは結婚もできず、孫も残さないから、そのうち死に絶える」(中央公論06年4月号、P120)とまで言い放っているのが、その一端である。
まさに、市場にすべてを委ねる新自由主義思想は、弱肉強食の動物思想であり、金がすべてを決定するという物神崇拝の価値観であり、大多数の人々を金と資本の奴隷にする国際独占資本のための思想である。
オランダでは「%」労働が行われているという。勤労者は会社側に、自分は何%労働を行うと申し出る。90%にすれば、隔週一日を余分に休むことができるそうだが、各人、事情に応じて30%、70%と決める。
仕事を分け合う「ワークシェアリング」の一種だが、1980年代の不況時に政労使で「労働者は賃金抑制に応じ、企業は時短を進め、政府は減税する」ことで合意した「ワッセナー合意」で実現した。
これによって、女性の方が夫よりも多く働き、夫は主夫業に専念するライフスタイルや事情によって(旅行、趣味、研究など)数年間、勤務時間を減らすなどのスタイルも可能だという。こうして女性の社会進出が促進され、失業率も欧州で最低レベルだという。
オランダでこうした方式が発展したのは、オランダが互いに協力して干拓をして国土を作り、それを保全してきた歴史が作用しているとして、「ワッセナー合意」など、さまざまな政策決定で協力しあう方式を「干拓地(ポルター)モデル」と呼ぶそうだ。
一方、そこには、欧州全体に共通の土壌もあるようだ。欧州の場合、労組は職業毎の横断組織だから、全国的な一律条件を勝ち取ることが必然になってくる。日本のように、会社ごとに別々に賃金などを決められたら、労働者全体の権利が侵されるからである。こうして、欧州では、「働く者の権利の保障」意識が政労使共に社会的な価値観として共有されているといわれる。
日本で「春闘方式」の終焉が言われて久しいが、もはや会社単位に労組が組織され、会社単位で交渉・闘争するという方式は、とりわけ不安定雇用が増大する中で限界にきているし、それは一種の既得権層にまでなってしまうだろう。
だからと言って、横断的労組をと言うのではない。オランダの例が示唆しているのは、横断的労組をも乗り越えて、自分の国をどうするのか、その中で働く者の権利をどう保障し、皆がよりよい生活をするために、どのように「共同関係」を作っていくのかを考え実施する、新たな関係をどう構築するかだろう。
オランダに長年の干拓の歴史による「共同」の文化があるとすれば、日本は、1万年の縄文の歴史、あるいは弥生以来の共同稲作の歴史がある。重要なことは、それぞれの歴史・文化的特徴を反映した、それぞれの国の「共同」の文化的価値観を生かしていくことだろう。
寄稿T
国会前「連続ハンスト・座り込み闘争」は、去る3月20日から5月2日までの、連続44日間、午前10時から午後6時まで、土・日を除く・正味30日間にわたってねばり強く展開されました。
その成果は、当初の予想を2倍、3倍も超えるものでした。記帳やカンパなどを含めて、総勢延べ1000名を超える人たちが、全国各地から参加しました。いわば、国会正面の路上で闘い抜かれた「ハンスト・座り込み」は、安倍極右内閣がごり押しした「改憲手続き法」の強引な国会審議に対する、糾弾の切っ先でした。
その他にも多くの人たちが、抗議行動に参加しました。この院外の闘争に連動しながら、衆議院憲法特別委員会では、2対48という圧倒的少数派でありながら、野党は果敢な院内闘争を展開しました。審議が1日延びるたびに、露骨な欺瞞性、反動性がその度ごとに暴露され、改憲手続き法案の危険な正体が、相次いで明らかにされました。
このような院内外の闘争は、以下のような成果に結びついています。
@7年間にわたる自公民三党の「改憲トロイカ体制」の瓦解。
A翌日の朝日新聞が「国民投票法案を廃案に」という社説を掲げるような事態を引き出したこと。
B国会正面路上において、新しい「闘争空間」を切り開き、秋から本格化する「改憲審議」に向けた闘争戦術に、新たな1ページを加えたこと。
C行動することが、最高の社会的・政治的意思伝達手段であるという教訓を得たこと。
いま私たちは、これら一連の国会前行動の成果のうえにたって、500名を超える、「呼びかけ人」によって「9条改憲を許さない6・15共同行動」への参加を呼びかけています。
「6・15共同行動」は3つの特徴を持っています。
@「9条改憲阻止」の一点で結集すること。
A「呼びかけ人」には肩書きをつけない。代行主義を避けて、一人ひとりが運動の主体であること。個人参加を原則とすること。
B多様性を認め合う新しい運動体の形成。思想的立場、政治的主張における異質性を相互に受容し、小異を残して大同をめざすこと。
5月3日、「生かそう憲法!守ろう九条!改憲手続法はいらない!平和憲法60周年のつどい」に行ってきた。収容2千名の京都会館大ホールは多くの立ち見客がでるほど盛況。
はじめに、「憲法行脚の会」事務局長で弁護士である猿田佐世さんが、「国民投票法案」について述べたが、衆議院の採決の前に持たれた公聴会が1日の間に東京・福岡・大阪の3箇所を移動して2時間づつ、しかも改憲の意思を表する参加希望者だけを出席させるという、まったく国民不在の欺瞞的な公聴会だったことを暴露し、法案の廃案を訴えた。
興味深かったのはトルコで開かれたイラク国際法廷での話。一国の法を国際法廷の場で話しても仕方がないではないかという海外の人々の意見に対して、日本国憲法は単なる一国の法ではない、それは中国・朝鮮・フィリピン・インドネシアなどアジアの国々に、もう日本国は戦争をしませんと不戦の誓いを約束した国際法でもあるのだと訴えると、参加者の多くはそれはいいことだ、自分たちの国でもそのような憲法を作っていきたいと言ってきたというエピソードを披露し、安倍首相が6月下旬まで「美しい国」とは何かを公募しているので、皆さんで「憲法九条のある国」と書いて送りましょうと訴えていた。
次に、「九条の会」事務局長の小森陽一さんから「憲法と教育基本法をめぐる情勢と私たちの課題」が語られた。
小森さんはしょっぱな、「私は母から、あんたは朝鮮戦争休戦協定が結ばれた年に生まれたんだよと言われ続けて54歳になります。54年もの長い歳月、未だ朝鮮戦争は終結せず、休戦してるだけなんです」と語られ、何故このような異常な事態が今なお存在しているのか、その原因を歴史を遡って検証し要旨次のように語った。
…国連憲章でも国権の発動としての戦争は禁止しており、戦後繰り返し行われてきた戦争はすべて「自衛戦争」であり、イラク戦争でもイラクの大量破壊兵器によって攻撃を受ける恐れがあるという英米の軍事同盟による「自衛戦争」です。この「自衛戦争」と集団的自衛権を容認したところに国連憲章の弱点がある。ところが、一昨年10月に出された自民党新憲法草案では九条の第2項がきれいに削除され、集団的自衛権を織り込もうとしている。自民党政府が粛々と狙ってきた戦争の出来る国・日本の国造りがまさに改憲として国民の前に突きつけられている。しかし時代は今、朝鮮戦争休戦協定から平和協定へと動いている。そうなればアメリカが日本に基地をおく国際的な根拠もなくなる。だから安倍政権は、急いで憲法を変えて集団的自衛権で日米共同の戦争ができる国にしていこうといる。54年間の長きに渡った不安定なアジアは今、平和なアジアに生まれ変わろうとしている。あと少しです、皆さん共に平和憲法を守っていこうではありませんか!…と。
力と希望を頂いた一日でした。残念なことに、「国民投票法案」は可決されてしまいましたが、「諦めるが最後」、粘り強く憲法擁護を訴えていきたいと思っています。
国民投票法案が参議院本会議で与党賛成多数にて可決成立した。
日本国憲法第九条で交戦権の放棄、非戦平和の誓いを世界に宣言した日本が、再び「アジア最新鋭の軍事力」を備えて、「同盟国」の支援戦闘の名目で軍事政権の前段階に等しい軍備制覇の手段で国際紛争に臨もうとしている。
確かに日本の同盟国はアメリカだが、アメリカ政府がたとえどのような事情であれ第3国との間で巻き起こした争い事を日本に応援してくれというのは冷静に考えればおかしな話である。
単なる仲裁に入ってくれというなら一理はある。但し、その場合、中立的立場で割って入ることが原則だから、ケースによってはアメリカ政府と敵対する相手国の味方をする場合も仕方ないという事になる。だがそういう意味ではないだろう。それに同盟国へのパートナーシップというなら、たとえれば、自分がやられそうになったら味方して相手を倒すのに協力しろよ!という強制になってしまう。
これは互いにうるわしいパートナー関係ではない。慕われていない親分が金の力と脅しで強制的に従わせようとするみっともない姿でしかない。ところが厄介なことに、子分扱いしている日本には堂々たる平和憲法がドンと横たわっている。こいつがじゃまでたまらないのである。こいつさえなんとかなれば、子分国は従わざるをえないだろう。その為に前々から用意周到に流してきた「国際貢献」が平和憲法のヒットマンの役割を担おうとしている。その気分を高めるかのようなアメリカの戦争映画。一生平和な人生などあり得ない、いつの世にも存在する無法勢力=テロ集団と命をかけて戦う格好いい兵士やレンジャーが主人公、ヒーローという筋書きである。
平和憲法を「修正」しようとする魂胆が、そううまくいくだろうか? 日本国民の4割強が見直しに賛成という報道だが、政府主導の世論操作の匂いが立ち込める。思えば20年以上も前、旧日本社会党が最大野党でありながら、自衛隊を「違憲合法論」という解釈で、その存在を必要最上限以上に容認した事実がアリの一穴となったのかも知れない。
国民投票法案に反対する現有野党勢力は、政権奪取の野望はひとまず置いて、純粋に本気で共闘し、国民の平和意識の象徴である日本国憲法を誇る気持ちを高揚させ、国民と共に恒久平和の道をしっかりと歩んでいってもらいたいと思う。この世界のどこにも戦争を願う国民は存在しない。
◆ロシア人の多くがピオネール復活を希望
5月19日は、ピオネール(共産主義少年同盟)創立85周年になる。1922年のこの日、9歳から15歳までの児童を網羅するピオネールが創立された。24年からはレーニンの名が付され、子供たちは「偉大なレーニンの遺訓と共産党の教え通りに良く学び闘争しよう」と誓ったものだった。
ピオネールで多くのことを学んだ。真の人間になって集団を尊重し戦死した祖国守護者忘れず祖国に忠実でなければならないと教わった。また、集会、行軍、くず鉄拾い、キャンプ場・・・ そこでのランプの光もあった。
ソ連崩壊後、この組織もなくなった。一応その後継としてピオネール組織連合ができたが、活動は不活発だ。世論調査では、45歳以上の95%が、有益で必要だとしており、そのうちの40%は昔のピオネール復活を望み、45%は他の形態の組織を望んでいる。
プーチン大統領は、これについて「もちろん、あまりに政治化した面はあったが、一定の肯定的面があったのも事実だ。それは人間に必要な普遍的で有益なことを教えたからだ。しかし、過去と同じようなピオネールは再生されないだろう」と述べた。(タス通信)
◆中国はアフリカの灯台か
アフリカ諸国にとってアジアは一定の見本であるが、彼らがもっとも憧憬する国は中国である。最近、アフリカ開発銀行が年例総会を中国の上海で開いた。
中国側は、温家宝首相が開幕式に参加し、アフリカ諸国の中国への債務の大部分を取り消すと宣布し関係強化を明白にした。また、アフリカ大陸の遅れた国々から輸入する製品については無関税を適用するとし、持続的な財政支援を通じ、アフリカが自身の下部構造を固めることを助けるだけでなく、約1万6000人の医療人材を派遣し、教育と農業体系を強化する上でも協力を表明した。
日本は世界二位の経済大国だが、多くのアフリカ諸国が北京を仰ぐのは、中国が見本であるだけでなく、長期的な企業連携を強化できるからである。アフリカ開発銀行には、米国、日本、インド、英国、フランスなども参加しているが、どの国も熱心ではない。そこで中国は、ここに目をつけたようだ。(UPI)
◆最新兵機を日本に売るのがなぜ危険か
日本は、次期主力戦闘機に、F−22ステルス戦闘機を導入しようとしているが、これを導入すればアジアの軍事的均衡は一変するであろう。そうなれば、「米国とアジアの間に隙が生じる可能性がある。日本の役割強化を慎重に抑制する必要がある」(ヘリテージ財団)。中国や韓国も抗議の声を上げるであろう。
米国が日本に防衛手段を与えるのは義務だと多くの議員は言う。また、F−22の生産は今後縮小される予定だが、日本が輸入すれば雇用を維持できるという考えもあるようだ。しかし、この問題が対アジア外交でつまづきになる危険性もある。(NY・タイムズ)
9条改憲反対の集会や抗議行動が各地で熱を帯びて展開されています。国民投票法案の成立後、「戦争する国」に向けた改憲への危機感が高まっているようです。
今回の「主張」は、わが憲法は主権尊重を真髄とする反帝国主義憲法であるというところに、いつの時代にもまして切実な憲法の今日的意義があるということです。
自らを「帝国」と称して恥じない米国(ネオコン)は、反テロ戦争を掲げ、自国内の犯罪行為を取り締まるかのように好き勝手に侵略と戦争を行っています。その手先になって「戦争する国」に日本をするための改憲。こんなひどい改憲策動と対決するためにも、「主権尊重の反帝憲法」という捉え方が決定的に重要なのではないでしょうか。
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