研究誌 「アジア新時代と日本」

第47号 2007/5/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 日中、その「戦略的互恵」関係を考える

研究−新自由主義思想の特徴− 国家と個人を対立させる

論評 「赤ちゃんポスト」設置に思う

寄稿T 「連帯」が生きる道

寄稿U 「ペコちゃん」の涙

寄稿V あれは何だったのか?

世界の動きから

編集後記



 
 

時代の眼


 「憲法九条いまこそ旬」という言葉が人々に感動を与えていると言う。九条の会の代表の一人、小田実さんが初めて語った言葉のようだ。
 憲法も「還暦」を迎え、改憲理由の第一も、憲法が時代遅れになったことになっている。そうした中、この言葉はそれを真っ向から否定しつつ、護憲の必要性をもっとも分かりやすく積極的にアピールするものになっているのではないだろうか。
 実際、安倍政権が改憲を第一スローガンに掲げ、そのための国民投票法案を強行採決してきている今日、ただ改憲の危険性や反動的本質を説き、護憲を叫ぶだけではだめだ。憲法、特に九条そのものの持つ今日的意義や生命力について広く論議を起こして行くことこそ問われていると思う。
 「憲法九条いまこそ旬」と言うとき、今、世界がイラク戦争やアフガン戦争など、反テロ戦争の時代になっているのと深く関連していると思う。ブッシュは、反テロ戦争をアメリカの安全を守るための自衛戦争だといっている。だから正当だというのだ。
 第一次大戦の惨禍を目の当たりにすることによりアメリカで生まれた戦争非合法化運動、1928年のパリ不戦条約、そして第二次大戦後の国連憲章につながる戦争違法化の世界の流れを引き継いで生まれた憲法九条は、何よりも第二次大戦の惨劇を通して形成された日本国民の意思を反映して、戦争そのものを否定しながら、自衛のための戦争をも否定した。
 日米軍事一体化のもと、日本の反テロ戦争への参画が謀られ、そのための改憲が狙われている今日、その不当性を余すことなく明らかにし、日本を戦争の危機から救う武器は憲法九条を置いて他にない。九条は、制定当初、そしてその後のいかなる時期にも増して、今こそ旬なのではないだろうか。


 
主張

日中、その「戦略的互恵」関係を考える

編集部


 4月11日から13日まで、中国の温家宝首相が訪日した。この訪日では、昨年10月の安倍訪中で合意した「戦略的互恵関係」構築の具体化・加速化がいわれたが、この「戦略的互恵」ということについて考えてみたい。

■「戦略的互恵」は画期的だが
 「氷を溶かす旅にしたい」。訪日を前に、そう語った温家宝首相の訪日は、最近の日中のギクシャクした関係を改善していこうとする姿勢が感じられ、好評をもって迎えられた。
 国会演説では、懸案の歴史認識で「日本政府と指導者が何回も歴史問題について、深い反省とお詫びを表明しました」と述べ、これを積極的に評価した。また、「中国の改革開放と近代化建設への支持と声援を中国人民はいつまでも忘れません」とも述べた。
 昨年10月に安倍首相が訪中し、「戦略的互恵関係」の構築を合意したが、日中関係は新たな発展を見せるのか。
 戦略的互恵は、「共通の戦略的利益に立脚した互恵関係の構築」として、一時的、部分的ではなく、「長期的」に、経済だけでなく政治も包括する「全局的」に関係を強化し、互いに利益を得る関係だと日本側は説明している。
 日本側は、この用語を使うにあたっては、制度も違う国と互恵はともかく、それを戦略とするのはどうかという見方があったと聞く。しかし、そうした違いを乗り越え、「長期的、全局的」に互恵関係を築こうというのは、歓迎すべきことである。
 これまでギクシャクしてきた日中両国が「戦略的互恵」関係構築に合意し、経済だけでなく政治的な面も含めて、「長期的、全局的」に関係を深めていくというのだから、これは画期的なことであろう。そして、それは、日中両国のためだけでなく、東アジアの平和と繁栄のためにも有意義であることは言うまでもない。

■だが、「『政冷』は封印して」
 しかし、その具体化という面でいうと、経済に偏っているという感を強くする。驚異的な経済成長を続けている中国は今、資源、エネルギー、環境で問題を抱えていると言われ、日本の高度な省エネ技術=環境技術を切実に要求しているという。今回の訪日でも、この分野の連携強化は具体化され、経済界は、これを「商機」と手放しの喜びようであった。
 しかし、政治的な面ではどうか。歴史認識に関する「靖国神社参拝問題」でも、安倍首相は「あいまい戦術」でお茶を濁し、とても肝胆相照らした信頼関係とまでは行っていない。
 この点では、新聞なども、「あくまで経済先行」「『政冷経熱』のうち『政冷』部分は封印した格好だ」(朝日新聞)と指摘している。
 そればかりではない。温家宝首相の国会演説があった翌日(13日)、その国会の場で、改憲のための国民投票法案が衆院で可決された。この日は、米軍再編特別措置法案も衆院を通過した(米軍基地の整理で必要な経費を自治体に交付金の形で出すもの。その額は海兵隊のグァム移転費2兆円などを含め天井知らずとされている)。
 米軍再編も、改憲も中国やアジアから見れば、日本が過去の侵略の歴史を忘却し、再び軍国主義の道を進むものでしかない。
 こうしたことが、温首相の訪日と時を同じくして進行しているという現実は、安倍の言う「戦略的互恵関係」が文字通り、それに値するものとしてあるのか、そうでないとすれば一体どういうものなのかということを考えざるをえなくする。

■米アジア戦略と日中「戦略的互恵」関係
 今年2月、アーミテージ報告第二弾、「米日同盟―2020年までアジアをいかに正しい方向に導くか」が発表された。
 この報告では、「アジア地域のあるべき政治状況」と題する章がある。その背景には、東アジア共同体構想などアジアで進む多極化の動きがあるとされる。すなわち、東アジア諸国が、米国を除いた形で地域の自主的な経済圏を作るなどということは「あってはならない政治状況」であり、そうではなく、昨年11月、ブッシュが提唱した「アジア太平洋自由貿易地域構想」(FTAAP)のように、米国を入れた「アジア・太平洋経済圏」を形成し、米一極支配の下で生きていくことが「あるべき政治状況」だということであり、その方向に「正しく導く」というものだ。
 ここで、アジアを正しく導く上での環は、中国をどう導いていくかであり、そのための狙いは経済である。
 中国の弱点は、貿易額の半分以上を外資が占めるなど、経済発展の多くを外資に頼っていることだ。
 米国は、ここを狙っている。それゆえ、まず経済関係強化の先行である。米国は、すでに「中米戦略経済対話」を進めて、知的所有権保護や米国企業の活動の自由拡大などを要求している(中国は、外国人は株主議決権を行使できないなど、様々な規制を設けている)。
 その一方で、米国は、日本を積極的に利用しようとしている。この5月、三角合併が解禁された。今後、米系企業による日本企業の買収合併が本格化する。そうなれば、日米の経済的融合はさらに決定的なものになる。この日米の融合・一体化した経済力で中国経済を取り込み、融合するということである。
 そして、これによって、中国社会をますます資本主義化=新自由主義化しながら、政治制度の変革まで狙っていることは、米国側の様々な発言でも明らかであろう。
 もちろん、これは中国の「戦略的利益」に合わない。その証拠に、中国は、国産化を進め、外国企業の買収もやって、経済の自立性を高めようと必死の努力を傾けている。中国が東アジア共同体形成に積極的なのも、東アジア諸国との経済的連携を強めて自国経済の自立性を高めようということである。
 米一極支配に反対し、東アジア共同体を形成して世界の多極化を進め、自国の自立性を強化すること。まさに、中国にとっては、それが「戦略的利益」であろう。そして、それを実現する一環として日本との「戦略的互恵」関係も位置づけられているということだ。

■戦略的互恵関係の真の確立を目ざして
 「戦略的互恵」、同じ言葉を使いながらも、日本、中国ともに、その思惑に違いがある。
 安倍政権がとなえる「戦略的互恵」は、一極支配を追及する米国の対アジア戦略の下で、中国との経済的連携を深めて経済的利益をあげようとするものだと言えるだろう。それに対して、中国の場合は、その意図を分かった上で、自国経済の強化・自立化を強めるために、日本の要求にも合う形で、まずは経済的連携の強化をという側面がある。
 そういう意味では、同じ言葉を使っていても、それは同床異夢であろうし、そのような関係は、結局、うまくいかなくなるだろう。それは両国にとって不幸な結果をもたらす。
 「戦略的互恵」関係を本当に構築しようとすれば、まず、日中が共通の戦略的利益は何なのかを探さなくてはならないだろう。
 だが、果たして、そのようなものがあるだろうか。ある。それは、日中が共同で米国に対抗する領域、共同で米国と連携する領域、そして、米国と関係なく推し進める領域がかならずあるということだ。それを探していくことこそが問われているのではないだろうか。
 そのためには、互いに主権を堅持し、徹底的に自主的、主体的になることである。そのためにも、互いに相手を尊重し、とりわけ互いの自主権を尊重することが重要となる。
 そして、そのためには、日本が相手を蔑視し、その主権を踏みにじった過去の侵略の歴史を真摯に反省しなければならない。それは、過去の問題ではなく、現在の問題である。
 「戦略的互恵」は、元来、すべての国々と結ぶべきものだろう。アジア諸国とも、米国とさえも。そして、それが相互に矛盾のないものであってこそ真の「戦略的互恵」ではないだろうか。そうなれば、日本がアジアに敵対する米国の戦争に駆り出されることもありえなくなる。そして、それは、米国も他の諸国と互いに助け合って生きる道に進まざるをえなくするだろう。それは米国にとっても良いことだ。
 「戦略的互恵」、その真の意味を考え、真の実現に向かって努力すること、それは日本自身のために切実に問われていることではないだろうか。


 
研究 新自由主義思想の特徴

国家と個人を対立させる

赤木志郎


 新自由主義思想は、ブルジョア民主主義革命時期に確立された自由主義と同じく自由と平等の原理を基底においた思想であるが、かつての自由主義とは異なった特徴をもっている。そのひとつが国家と個人を対立させた自由論である。今回そのことを考えてみたい。
 17世紀、王と議会の争いで市民革命が勝利するなかでホッブズ(英)は、人間はかつて国家もない自然状態において生活し、そこでは生きるためには自由に行動できる権利(自然権)をもつという点で平等であり、その自然状態のままでは「万人の万人にたいする闘争状態」となり不安定であるから相互に契約を結び国家などの組織をもつ政治社会をつくる、つまり社会状態に入るとした。だから、国家(主権)は自由に生きる平等な権利を保障するためのものであり、王や特権階級もすべて平等に契約によって撰ばれた議会、政府に従わなければならない(=社会契約説)、と主張した。
 これがブルジョア民主主義革命時期の最初の自由論であり、その後、ロック(英)が所有権と議会制民主主義(3権分立)、ルソー(仏)が人民主権論、アダム・スミス(英)が自由放任論、ベンサムやミルが功利主義など展開した。
 これにたいし新自由主義は国家を否定する。新自由主義者は、「市場は競争を通じて効率的な資源配分を実現する極めて優れた仕組みである。経済社会の運営を可能な限り市場に委ねることが基本とされるべきである・・」(1997年経済同友会「市場原理主義宣言」)と、国家の役割を最小限に抑え、個人の自由な競争が公平で効率よく発展する社会をもたらすと主張する。
 かつての自由論は人々の自由と平等が国家(主権)を確立してこそ保障されるとしたが、新自由主義思想は個人の自由と平等のためには国家の介入と規制に反対し、市場に委ねるべきだとしているのである。
 このことを「国家と市場の対立」としてとらえ市場の優位を唱える説が多いが、この問題の本質は自由と平等を実現するために国家が不可欠なのか、それとも国家の役割をできるだけ縮小すべきかである。
 ここで国家(主権)の役割は何なのか、検討してみる必要がある。
 国家はかつて君主や王家のものであり、いわゆる国民国家として確立したのは近代からである。このときから国民の負託をうけて国家が財政、国防、産業、教育などの施策をおこなうようになった。議会制や国民の義務と権利などもこの国家の確立と離れてありえない。
 国家を単なる暴力装置としてだけみてはならない。人間は社会的存在であり、人間のみが社会的集団を形成しそれを発展させながら自己の運命を切り開いてくることができる。その社会的集団のなかでも国家は権力(政治的支配権)を背景にしてすべての人々を包括しその活動を統一的に組織・指揮する人々のもっとも基本的な政治組織であり、人々の運命開拓の基本単位であるといえる。
 新自由主義者が自由とは「(国家も含めた)他人による強制なしに個人が独自の判断で行動できる状態」(ハイエク)として、産業、教育、医療福祉などすべての分野で民営化と規制撤廃を進めたことは、国家が国民の利益と要求に沿ってそれらを組織し指揮する役割を放棄したということであり、それは国民の生活と運命に責任をもつ政治組織としての国家を否定したことを意味する。
 政治組織としての国家の解体は国民にとって自己の運命を切り開いていく武器を失ったということであり、それは社会的存在として生きることを奪われたのと等しい。
 そして、国家は戦争を遂行し市場競争の秩序を守っていく暴力的機構としてのみ強化され、人々への監視と規制、抑圧を強めるようになっている。新自由主義思想は個人の自由を謳いながら、実際は人々の社会活動、政治活動の自由を抑えていくものである。
 国家と個人を対立させるのは、集団の決定権を否定し個人の自己決定権を主張するところにも表れている。
 かつてJ・S・ミルは自由権を行使するための権利として「自己決定権」を明らかにしたが、それはどこまでもあらゆる抑圧と拘束から抜け出て自由を行使するためであり、社会的集団の一員であることが前提であった。新自由主義思想の「自己決定権」は、集団とは関係なく、個人が選択し決定するというところに特徴がある。
 社会の中で生活している人間にとって集団で決定すべきことは多くある。そしてそれがいかに決定されるかで人々の運命が左右される。そのなかでも国家の政策決定は諸個人の運命を左右し大きな影響をあたえる。したがって国家の政策決定に関与することは人々にとって切実な問題である。それにもかかわらず、国家の政策決定に関わることなく個人のことだけを決定していけば、国や社会のことを考え、そのために行動する社会政治生活はなくなり、きわめて限られた自分の物質生活だけに汲々とするようになる。そうなれば、財産や人脈、基盤などをもたない弱者ほど不利となり、絶対多数の人たちにとって、その自由は底辺に向かう自由でしかなくなる。
 「自分がやりたいこと」をみつけ、必死に働きながら身体がボロボロになっても「自己責任」として甘んじなければならず、仕事で生きがいをみつけられなくても趣味などでの「自分らしさ」で自分を慰めていくしかなくなる。  一体そのどこに人間の自由があるのだろうか。集団なき「自己決定権」とは、運命開拓権の否定であり、自分の首を締めながら自分を慰める「権利」でしかない。


 
論評

「赤ちゃんポスト」設置に思う

若林佐喜子


 熊本市の慈恵病院が、県内で起きた新生児遺棄事件をきっかけに「新生児の産み捨てや不幸な中絶を減らしたい」と、「赤ちゃんポスト」の設置を申請し、熊本市は許可した。
 「生活に困窮する保護者、命を失いそうな赤ちゃんを見過ごせない」という切実な声の一方、子供を置いていく親に匿名を許すことに疑問の声が出るなど、設置をめぐっては様々な意見があった。
 安倍首相は、「お父さん、お母さんが匿名で赤ちゃんを置き去りにするのは、私は許されないのではないかと思う政府として、認めるということはありません」と発言(朝日新聞4月6日)。
 一方、海外で赤ちゃんポストの調査をしたノートルダム清心女子大の坂本恭子講師は「「捨て子問題」として後ろ向きにとらえるのではなく、こうした暗部に目が届くまでに社会が成熟しつつあるとみるべきだ。・・・子供は将来的に正式に養子縁組されることが望ましく、社会全体で支える必要がある」と話す(日経新聞4月6日)。
 2人の意見は対象的な見解である。親が子供を置き去りにする現象をどうとらえるのか? 「事情があって育てられないが生きて欲しい」という親心をみるのか、責任放棄、無責任と見るかによって対応は180度違ってくる。
 1970年代の初め、子殺し、コインロッカーベイビー事件が相次ぎ、社会に衝撃を与えた。当時、保育専門学校に在学していた私は、「どうして?」という疑問が拭いきれずにその背景を調べた。都会では生活の困窮が圧倒的であった。また、考えさせられたのは、地方では親子無理心中という形での「子殺し」が多かったことである。親が死亡しているので子供が殺されたことはあまり事件化されず、人々の記憶にものこらず過ぎていく事実を知った。「子供を一人では残せない」「子供の将来が心配」、それで親子無理心中である。
 その時から、子供の将来を悲観し殺してしまったとしても、ただ、捨てたい、殺したい親はいないということが、私の心の中に焼きついた。
 家族崩壊が問題化する日本社会において、私は、坂本講師の「・・・社会全体で支える必要がある」との考えに賛成であり、今回の赤ちゃんポストの設置を見守りたいと思う。
 今の日本社会で赤ちゃんを置き去りにするしかない現実がある以上、それを社会的に支えていこうとする「社会の成熟」に、母子ともにどんなに救われることだろう。
 それにしても、赤ちゃんを置き去りにしてでも何とか生きて欲しいという親心を見ようとせず、また、そうした心痛い事件が多発する中で、何とか社会全体で支えようという人々の心を一顧だにせず、それを認めれば捨てる親が増えるかのように考える安倍首相の冷たさはどうだろうか。


 
寄稿T

「連帯」が生きる道
ロストジェネレーション

金子恵美子


 統一地方選挙が終わったが、低調だった。私の住む生野区でも、宣伝カーや立候補者がのぼり旗を掲げてやってきても誰も手も振らないし、関係ないって感じ。元気がいいのは当の本人たちだけ。何かこっちの方が気恥ずかしい。唯一、人だまりができていたのは、スーパーの前での公明党公認候補の立会演説。これは動員された人々だろうなーと横目に見て通り過ぎる。
 本当に盛り上がらない選挙であったが、全国的に見ても東京都を除く多くの知事選でも投票率が前回よりも下がったとのことだ。
 このような中でちょっと興味をひかれた動きとして、35歳未満の若者の地方政治への熱い動きがある。ここ5回(91年〜07年)の統一地方選で、25歳以上35五歳未満の道府県議と政令指定市議の立候補数は、県議が93人から171人、指定都市市議が39人から108人と右肩上がりで増えている。特に市議は政治改革論議が白熱した90年代前半(新党ブームに沸いた時代)に次ぐ急上昇ぶりとのことだ。
 保守王国で知られる熊本市でも、この世代が定数48の市議選に前回の倍の6人が立候補。大阪在住だった女性(26歳)もUターンして立候補した。その理由は「皆で当選してこそ変えられる」。長崎県の市議選に立候補したM(27歳)の師匠は大阪府議選に出たKだ。二人は議員事務所のインターン同期生という。他に30代の候補が二人も出そうだとこぼすMに、師匠の助言は「同じ目的や政策をもった若手議員が横でつながることで、今の議会を変える原動力になるはずだ」。また、札幌市議選に民主党から出た女性候補(30歳)は「身近な問題をどうにかしたいと悩んでいたら、政治家という選択肢があった」と話す。
 25歳以上35歳未満のこの世代は、格差を体験したさまよえる世代、または、雇用が失われた世代、切り捨てられた世代=ロストジェネレーションと呼ばれているそうだ。
 個人格差、地域格差が露に出ているこの時代、その荒波をまともに受けているロストジェネレーションが、身近な問題の解決や地方議会の改革に「連帯感」をもって向かうのは時代の要請と言えるのかも知れない。
 最近、派遣や請負といった非正規社員による労働組合が続々と生まれているという。ロストジェネレーションによる連帯→変革の新しい波が生まれようとしているのだろうか。


 
寄稿U

「ペコちゃん」の涙

秋山康二郎


 「ペコちゃん」の不二家が期限切れの原料を使用した事件があったが。ここには、企業の責任管理問題以上に、食品の廃棄のシステムも問題でもないかと思う。消費期限や賞味期限というものを我々消費者はどこまで正確に認識しているのだろうか。
 期限切れの物を食べても、別段、体調をこわした経験が私には無い。程度の問題こそあれ少々の期限切れの物を食べてもどうということはないというのが生活実感だ。
 では、この期限とは何なのか。賞味期限は、比較的長持ちする食品(6日以上〜年単位)、「期限を過ぎても品質が保持されている」缶詰や調味料などがこれにあたる。これに対して消費期限は、比較的傷みやすい食品(おおむね5日以内)が表示の対象となり「腐敗、変敗その他品質の劣化に伴い安全性を欠くおそれがないと認められる期限」とされている。
 このように設定された食品が年間どれ位廃棄されているのか正確なデータはない。が、農水省などのデータを推計すると毎日約300万人分に相当するという。また、別のデータによると、年間、約2300万トンが廃棄され、そのうち、製造、流通、外食産業、コンビニなどが約1100万トン、一般家庭から約1200万トンになるという。
 一方、世界ではいまだ飢餓にあえいでいる人々が8億とも9億とも言われている。そして、その食料援助の総量が年間約860万トンになる。我々は上手くすればまだ食べられるであろう食品を、世界の年間食料援助総量の約2.7倍廃棄している計算になる。
 この捨て続ける日本の食糧自給率は現在40%(カロリー換算)を下回った。昔の人から「この罰当たりめ」と叱責されそうだが、これが日本の現実だ。我々が少々の疑問を持ち、あるいはまったく当たり前と思っている日常生活行動、食生活そのものが問われているといっては大袈裟すぎるだろうか。
 コンビニの弁当などの廃棄は、設定された期限よりももっと前に行われる。まだ食べられるのに「もったいない」と感じられた経験をお持ちの方は少なからずおられるだろう。
 販売側からすればお客様の安全のため、あるいはチャンスロスをなくし販売収益を上げるためという言い分もあるだろうが、大きな社会問題なのだと受け止めてほしいと思う。
 アメリカでは「フードバンク」とボランティア組織がある。低所得者のために製造、流通過程でパッケージなどの傷んだ中身に問題がなくても販売できなくなった食品などを事業者から提供を受けたり、家庭で余っているものを集め、無料で配る。事業者は税金上の優遇が受けられることで大きな活動となったといわれる。日本はいまだ霧の中だ。
 私たち日本人は世界一厳しい目を持った民族だといわれている。些細なキズにこだわり多くのものを廃棄へと追いやっている。我々は自らの知恵で食べ物の寿命を延ばす工夫と、表示に依存せず自らの5感で良し悪しを見分ける能力を身に着けることが求められている。日本人は、自らの食文化に対する再思考を迫られている。そのような時代が来たのだ。これが「ぺコちゃん」が我々に発したメッセージと受け止めたい。


 
寄稿V

あれは何だったのか?

A・I


 4月6日、中央大学駿河台記念館で開かれた「朝鮮総聯と在日朝鮮人への不当弾圧真相報告集会」に行ってきた。報告で一番驚いたのは、昨年11月「薬事法違反容疑」で家宅捜索された高齢の在日朝鮮人女性の件だ。
 昨年5月、女性は朝鮮民主主義人民共和国への祖国訪問に際し知り合いの医師から「強力モリアミンS点滴薬・栄養剤」を購入したという。数年前に甲状腺ガンなどで大手術をした彼女はこれまで何回かこの栄養剤を携えて訪朝している。昨年、約10日間の滞在予定にもかかわらず60パック購入したのは以前、訪朝時に体調を崩し当地で2ヶ月以上入院したことがあったからだという。
 このことが、約6ヵ月後、「薬事法」でいう「医薬品無許可授与」「教唆」容疑となり、警察庁公安部270名が女性宅はじめ、医師の医院と自宅、朝鮮総連東京都本部など7ヶ所以上に強制捜査をすることとなった。だが、果たしてこれがテレビや新聞に「生物兵器に転用可能」「被爆症治療」という活字が躍るような大事件だったのかである。
 何より、昨年5月の訪朝時、新潟の税務当局が彼女に栄養剤の携行を許可しているのである。もっといえばマンギョン峰号の出航前日、税関当局は彼女に医師の処方箋がないので栄養剤を持っていくことができないという説明をした。その時、彼女はそれを了承したばかりか、もし何らかの問題になるなら、迷惑をかけてはいけないので訪朝自体もやめると当局に言ったそうだ。ところが出航当日、新潟税務職員は栄養剤60パック中55パックはだめだが、残りの5パックは携行して構わないと許可したのである(残り55パックは自宅に送り届けられた)。それが、訪朝後6ヵ月たった後の突然の強制捜査である。しかもその後、その女性は未だに起訴はおろか何のお咎めも受けてない。要するに事件でもないことを大事件かのように宣伝したといえる。
 このような軽微事案での強制捜査が昨年11月から今年2月まで約70箇所にのぼり、幼い子供を含めた多くの在日の方々が少なからぬ精神的苦痛を受けている。
抑圧民族は決して自らも自由ではない。改憲・戦争国家化策動が急速に進む今日、日本人として一連の弾圧事件を深刻に受け止めずにはいられない。


 
 

世界の動きから

 


◆朝鮮、南北鉄道連結試運転、5月17日に
 南北経済協力推進委員会、第13回会議が、4月22日、ピョンヤンで開催。東西、両海岸線を走る鉄道連結区間での試運転を5月17日に行うこととし、関連の実務接触をケソン(開城)で持ち、早期に開通できるよう協力していくとした。
 双方はまた、軽工業及び地下資源開発協力と第三次ケソン工業地区建設、第三国への共同進出に関する実務接触を5、6月にケソンで行い、水産協力分科会議、商社仲裁委員会、ケソン・金剛山出入及び滞留共同委員会の日程を文書交換形式で協議確定するとした。(新華社通信)

◆朝鮮半島とシベリア横断鉄道が連結
 4月21日、ピョンヤンでロシア鉄道会社と朝鮮鉄道省の代表団が覚書に調印。
 その具体的内容は明らかにされていないが、ロシアの国境駅、ハッサンから朝鮮東北部のラジン(羅津)港までの鉄道区間復旧事業を担当することになる合弁企業創設に関連するものである。この合弁企業は、その他にもラジンに新しい貨物駅を建設する。この建設事業が終われば、東北アジア諸国からロシアとヨーロッパへの貨物を輸送する新しく建設されるインフラは、共同で利用される予定。
 ハッサン−ラジン間の鉄道区間が復旧すれば、将来、朝鮮半島縦断鉄道とシベリア横断鉄道が連結されることになる。(イタル−タス通信)

◆訪日中の伊首相、「米国に同意できぬ」とイラク戦争を回顧
 日本訪問中のイタリア首相、ブロデイが4月17日、記者会見で「(イラク戦争に反対した)私は反米主義者と批判を受けているが、イタリアは米国の友邦国だ」としながらも「今後は、国連の存在感を高めながら、多極主義を重視する」と表明。
 ブロデイはイラク戦争開始当時、EU委員長であったが、彼は「あの戦争でイラクに平和をもたらすのは不可能と考えたので反対した。米国の友邦国だとしても米国の決断に全的に同意できない」と当時を回顧した。(毎日新聞)

◆ブレジンスキー前大統領補佐官、ブッシュの外交政策を失敗と評価
 ジミー・カーター前大統領当時の国家安全保障担当大統領特別補佐官であったブレジンスキーが、最近、彼の著書「第二の機会:三人の大統領とアメリカ超強国の危機」でブッシュ現大統領の外交政策評価は「F」=失敗だと烙印。
 特にテロとの戦争について、「テロ」は非武装民間人を狙った政治的脅しの一つの戦略にすぎないのであって、過去のナチスドイツのような「戦争の相手」ではないと指摘。
 換言すれば、テロを制圧するうえでは、テロの温床となる政治的案件を解決していかねばならず、多くの国々との協力がなされてこそテロを退治できる。ところが今、米国独りだけでテロ問題を騒いでおり、米国自らが恐怖を呼ぶ社会をつくりつつあるとしながら、これは世界で米国を孤立させるだけだと批判。(VOA放送)


 
 

編集後記

魚本公博


 三角合併の5月解禁目前に米国シティグループが証券大手3位の日興コーディアルグループへのTOBを成功させ傘下に。買収額は9000億円。日本経済の米国経済への融合統合は、ますます進みそうです。
 こうして日本はますます米一極支配体制の下で生きていくことが「国益」となる国になっていくのでしょうか。しかし、その行き着く先は、アメリカによるアメリカのための戦争。
 3日の憲法記念日では、護憲勢力が各地で集会をもちましたが、どんな名であれ、あらゆる対外戦争を禁じた憲法9条を守るのは、「今こそ旬」。次号は憲法問題を扱っていきます。読者の皆様の投稿も歓迎です。


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