研究誌 「アジア新時代と日本」

第43号 2007/1/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張―昨年の情勢と今年の展望― 米一極支配の終焉と9条改憲阻止闘争

研究 安倍の国家観を、その「公共心」から探る

論点―朝鮮の核保有をめぐって― 米ソの核抑止論と同じか 朝鮮の核保有をめぐって

遺稿 歩く人が多くなって、そこが路に

編集後記



 
 

時代の眼


 旧年のベストセラーは、「国家の品格」(藤原正彦著)だったようだ。220万部というのは簡単な数字ではない。そこで問題は、なぜこの本がそんなに売れたかだ。
 読んでみると、本の基本内容は、現状の矛盾を欧米で生まれた近代合理精神の破綻としてとらえ、破綻の原因となる論理のもつ限界性を補うものとして日本人がもつ「情緒」と「形」を挙げていることだと思う。ここで情緒とは、「野に咲く一輪の花を美しいと思う」など、もののあわれとか懐かしさといったものであり、形とは、「卑怯を憎む」など、主に武士道からくる行動基準のことだ。
 これがなぜ、人々の心を魅きつけたのか。一つは、人々がもっている現状への不満を根拠付けてくれているからではないかと思う。現状は、犯罪や家庭崩壊、教育崩壊など矛盾に満ちている。それも、論理を絶対的なものと見、論理を徹底させることですべてが解決できるとする近代合理精神の限界性に原因があり、当然のことなのだと。
 もう一つは、この矛盾を解決する力がわれわれ日本人にこそあるとしながら、日本のもつよさに目を向け、自信をもたせてくれているからではないだろうか。確かにこの本を読んでいると、豊かな自然に恵まれたわれわれが誰よりも自然に対する繊細な感受性をもった民族と改めて思えてくるし、そのことが現代世界において果たす役割も素直にうなずけるような気になる。
 もちろん、この本が発するこうしたメッセージについては、多々異論もあることだろう。だが、重要なことは、この本をもっとも多くの人々が買い求めたところに、人々の現状への不満と怒りを見、自分の国を愛し、誇りを持ちたいと思っている心を見ていくことではないかと思う。


 
主張 昨年の情勢と今年の展望

米一極支配の終焉と9条改憲阻止闘争

編集部


■米一極支配の終焉
 ソ連崩壊後、「唯一の超大国」として世界に君臨してきた米国。しかし、この米一極支配構造も、いまやその面影はなく、音を立てて瓦解しつつある。昨年はそれを象徴した年となった。
 米一極支配の支柱は二つ、すなわち核に象徴される圧倒的な軍事力と、ドルを基軸通貨とする支配体制だ。
 その支柱の一つ、「軍事力」の限界を象徴したのがイラクだった。「9・11テロ」の報復として始まったイラク戦争での米軍死者数は3000人と、すでに「9・11テロ」の犠牲者数を超えた。これだけの犠牲者を出しながら、イラク戦争の目的とされた「テロとの戦い」に終りは見えず、「憎しみの連鎖」となって世界中に拡散した。「イラクの民主化」という目的も破綻し、内戦状態に足を取られたままだ。
 米軍事力を象徴するのが核だ。米一極支配は、米国の「核独占」によって支えられていると言っても過言ではない。核拡散防止条約という古い枠組によって守られてきたこの米国の「核独占」に大きな風穴を空けたのが朝鮮の核実験だった。これは単に米朝対決レベルの問題に止まらない。米国の「核独占」の崩壊は、すなわち核による米一極支配の屋台骨を大きく揺るがし、その崩壊を促すだけの衝撃力をもつ。朝鮮の核実験は、イラクの泥沼化とともに、米一極支配の終焉を最も印象つける出来事となった。
 もう一つの支柱、ドル支配体制も揺らいでいる。ラテンアメリカでは、アメリカの新自由主義経済化に反対する変革の波が一挙に広がっている。ボリビアのモラレス、ニカラグアではサンデニスタのオルテガが大統領選に勝利し、12月にはベネズエラで反米の旗手、チャベス大統領が再選された。ここ数年、ラテンアメリカで次々に誕生する反米政権は、米国主導による新自由主義経済に反旗を翻しつつ、「米国の支配」からの脱皮という南米諸国の時代的要求を反映したものだ。
 アジアでは、「上海協力機構」が存在感を増した。昨年6月の首脳会議には、中、ロ、中央アジア4カ国に加え、インド、モンゴル、パキスタン、イランもオブザーバーで参加。安全保障分野での協力に加え、域内の「経済統合」を視野に入れた動きが加速しつつある。
 EUの通貨「ユーロ」の影響力はドルを凌ぐ勢いだ。
 昨年11月の米中間選挙では、ブッシュ共和党が敗北した。これを単なるブッシュ路線の敗北と見るのは早計であるだろう。米一極支配は、民主党の国際協調路線でも失敗している。「先制攻撃」「反テロ戦争」を軸とするブッシュ路線は、米一極支配の最後のあがきと言えるもので、その敗北は、もはやいかなる方法でも米一極支配が機能しないことを示すものだ。

■「米一極支配」の終焉は何を意味するのか
 国家の上の国家として、世界のリバイアサンとして米国が世界に君臨する「ひとつの時代」は終った。世界はいまや、EU、東アジア、ユーラシア、南米、アフリカなどを核とする「多極化の時代」を迎えている。米国はもはやその多極世界の一つの極を占めるに過ぎない。これが時代の趨勢だ。
 だが、「米一極支配」の終焉の意味するものは、「多極世界の形成」だけに止まらない。「覇権の時代」からの転換であり、世界の自主化である。
 米一極支配の終焉とは、力ある者が弱者を支配する、軍事力や経済力で覇権を争う、そういう時代の終焉ということだ。イラクや北朝鮮の事態は、まさに米軍事力による「力による支配」の時代の終りを意味し、ラテンアメリカやアジアでの新たな共同体結束の動き、中国、インド、ロシアを筆頭とするBRICsの台頭は、米ドルによる世界支配の凋落が始まったことを示すものとなった。このような軍事力や経済力で弱小国を超大国が支配し、従属させながら一極の世界秩序を形成する、そのような時代ではない。
 米一極支配の「覇権」に対して、いま世界が求めているのは、国家主権の尊重であり、自主である。東アジア共同体、上海協力機構、アンデス同盟などが共通して掲げる理念は何か。そこで謳いあげられている基本精神は、主権の尊重であり、内政不干渉、紛争の平和的解決である。ブッシュ路線が追求してきた国家主権の否定とはまったく逆の反覇権、自主の理念であり、国家主権の擁護か否定か、自主か覇権か、ここに米一極支配の時代と多極化の時代との最も本質的な対決点がある。
 自主という時代精神は、強固な「共同体」に基礎してこそ可能だ。自らの共同体に依拠した共存共栄への志向だ。国と民族を否定し、世界をボーダーレス化し、市場原理の導入を押しつける新自由主義に対して、今や世界は、それぞれの地域が共通の利害を基礎に独自の経済圏や共同体を形成し、大国に依存も支配も許さないだけの強固な経済的基盤を持つようになった。NAFTAに対するアンデス同盟や、APECに対する東アジア共同体の動きなどは、各国の主権擁護と共同体の形成が一体であることを示している。

■時代に逆行する日本
 このような新しい時代趨勢にひとり逆行してきたのが日本だ。
 2000年以降、小泉政権下に進められた「改革」の本質は、「米一極支配」を支えるための日米の軍事一体化、経済一体化にあったといえよう。
 この間、日米の軍事一体化は一挙に進んだ。周辺事態法、有事立法、イラク特措法などの一連の戦争法規の制定、自衛隊の旅団化などの改編、国連決議も経ずに強行されたイラク自衛隊派兵、米基地強化のための「在日米軍再編」など列挙すれば切りがない。一方、日本を監視社会化する住基ネットの形成や個人秘密防止法の制定などファッショ化も進んだ。
 経済の一体化も進んだ。小泉構造改革による自由化によって、金融、会計から農業に至るまであらゆる分野にわたる規制の緩和、公社、公団の民営化、教育や福祉における市場原理の導入などが、米国の要請のもとに強引に進められてきた。
 これらの「改革」が日本国民の要求ではなく米国からの要求によって進められ、それが米一極支配を支えるためのものであったことは、すでに多くの識者が指摘している。
 小泉から安倍へと政権は変ったが、米一極支配の基盤を日本が支えるという政治構図は、安倍政権の下で、むしろ強化し、加速しつつある。それを象徴したのが、昨年12月の「教育基本法改正」であり、防衛庁から「省」への昇格だった。
 このまま日本は、米一極支配を支え続けることで米国と運命をともにするのか、それともアジアとともに、アジアに依拠しつつ、米国との従属関係から正常な関係(イメージ的には「アジア、米国、日本の正三角形」)へと、日本の進路を転換していくのか。この進路が問われてくるはずだ。

■闘いの基軸を憲法に
 新年初頭のインタビューで安倍首相は、今年夏に予定されている参院選では、改憲を前面に掲げて闘う決意を述べている。言い換えるなら、安倍政権が進める政治、経済、軍事の対米一体化の要諦が、改憲にあるということである。
 今年、日本の進路をめぐる歴史的な闘いの軸は、この改憲阻止にある。改憲阻止の歴史的なうねりを巻き起すことができるかどうかに架っていると言えそうだ。
 そのためには、憲法9条に込められた平和主義を、時代の流れに合ったものとして捉え直し、生かす時代に入ったという時代の視点こそ、重要ではなかろうか。
 「撃退自衛」と「交戦権の放棄」という憲法9条の理念は、反テロ戦争体制によって破壊された国際秩序を立直すべき現世界にあって切実に求められている平和理念として日本が誇りうるものだ。
 冷戦下で日本は憲法9条を生かすことができなかった。しかし、今や世界は自主の時代へ大きく変貌しつつある。「押しつけ」ではなく、近代史の日本人の主体的な総括に基づいた独自の憲法として、また、古い時代、覇権の時代の思考方式を克服した自主の時代に見合う先見性ある憲法として、憲法9条が持つ時代精神が生きる時代に、生かされる時代に世界は変りつつある。
 9条理念を日本が自ら率先垂範し国際社会の平和と共存に寄与することで、アジア侵略の汚名を晴らし、国際社会に名誉ある地位を占める。この戦後60年経てもできなかった戦後日本の歴史的課題を果す時代が到来している。戦後日本の大きな転換の年にしたいものである。


 
研究

安倍の国家観をその「公共心」から探る

魚本公博


 12月15日、国会で教育基本法の改正と防衛庁が防衛省に昇格する法案が成立した。これについて、朝日新聞の社説(16日)は、「『戦後』がまた変わった」という題目で、こうした事態に憂慮を示しながら、「この臨時国会が、戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが」と結んでいる。
 こうした憂慮に対抗するかのように、安倍は、「戦後レジュームから脱却し新しい国家建設のための基礎を築く上で大きな第一歩」(20日のNHK放送)と自画自賛しているが、安倍の「新しい国家建設」とはどういうものか、その国家観が問われている。
 安倍が「美しい国へ」や今回の改正教育基本法審議過程で強調してきたのは、「愛国心」とともに「公共心」である。今回、「公共心」をキーワードにして、その国家観を分析してみたい。
 公共という言葉には、政府など統治機構を意味する側面と社会一般を意味する側面がある。従って、公共心という場合、「お上に従う心」というような意味合いと、「社会のために尽くそうとする心」という意味合いがある。
 人間に公共心があるのは、人間が社会的存在だからである。社会的存在である人間は、共同体を作って生きていく。そこから必然的に仲間意識、同胞意識が生まれ、仲間を大事に考え、そのために何かしたいという意識、共同意識が芽生える。
 従って、「お上に従う」という意識も、その根底には共同意識がある。実際、人々が「お上に従う」というときも、単にお上が怖いからではなく、「お上」を共同体の代表と見、それに従うのが、共同体のためになるという意識があるからだ。
 ところが、安倍の唱える「公共心」は、それとは異なるようだ。それを具体的に見ていこう。
 例えば「いじめ問題」に対する対応である。教育基本法改正の国会審議中に「いじめ問題」が浮上したが、ここで安倍は、「教育委員会や教員への処罰」や「いじめ児童への処罰(出席停止処分)」を提起し、この問題は「教育再生会議」でも焦点の一つとなっている。
 今や「いじめ」は、新自由主義改革(市場原理主義)を取り入れた国々に共通する世界的な問題である。それゆえ、多くの識者は、利己主義競争を奨励する新自由主義的な仕組みや風潮そのものを問題視している。
 「小泉改革の継承」を掲げる安倍は、そのことを決して問題視しない。問題が出てくれば「処罰」で取り締まるという考え方である。そして子供まで処罰しようというのだから、教育現場や教育再生会議のメンバーの中からも、「これでは教育の放棄だ」「こういうやり方ではいじめが陰湿化するだけだ」という声がでるのも当然であろう。
 新自由主義改革のひずみは、「いじめ」ばかりではない。格差拡大、福祉切捨てなど生活苦の深化、不安や精神的苦痛の増大、倫理の崩壊や犯罪の多発凶悪化などにも現れている。このような社会の崩壊とも言われる事態の根本的な原因は、新自由主義によって、人間の共同性が否定され、利己主義競争が奨励されていることにある。
 アダム・スミスなどの古典的自由主義は、キリスト教的な倫理が前提にされ人間の共同性を完全には否定していなかったと言われる。だが新自由主義の場合、これを全面的に否定する。彼らは、「人間の共同性と言われるものも結局は自分の利益になるからそうするのであって、共同性などない」と主張する。
 人間が本来もっている共同性を無視し、人間を完全な利己的存在だと見ればどうなるだろうか。「利己的存在である人間を放置すれば、オオカミの世界になるから、国家はリバイアサン(怪物)でなければならない」とするホッブス的な考え方になるしかない。
 安倍の考える「公共心」は、まさにホッブス的に人々を恐怖でもって統制することによって作られるというものではないだろうか。
 それは、利己的な存在である人間は上から恐怖をもって統制しなければならないとする強権的な支配のためのものであり、「お上は怖い」「お上には逆らえない」という従属精神でしかない。
 そればかりではない。安倍の巧妙さは、新自由主義改革によって、人々の共同的関係がズタズタにされ、さまざまな矛盾や社会問題が噴出する中で、共同的関係の再構築を希求するようになっている状況を利用し、「公共心」という言葉を使うことによって(公共心という言葉は、そうした誤解を招くような所がある)、人々が国家の強権化を支持するように仕向けるというというものである。
 安倍は「公共心の涵養」を云々するが、そのような強制で公共心は決して育たない。
 公共心とは、先に述べたように、仲間、同胞を思いやりそのために尽くしたいという共同意識を土台にしている。「公共心」は決して、恐怖で従わせることで涵養されるものではなく、一人一人が、公共(国)を自分自身の共同体と自覚できるような政治が行われることによって涵養(水が染みこむように徐々に育つの意味)されるものだ。
 公共(国)が自分の共同体だと自覚できるような政治を行うためには、民主主義が不可欠であり、それを執行する主権が重視されなければならない。
 安倍の「公共心」には、それがまったくかけていることも、その国家観への批判として付け加えなければならないだろう。


 
論点 ―朝鮮の核保有をめぐって―

米ソの「核抑止論」と同じか?

若林盛亮


 朝鮮の核保有について日本の平和勢力の間で、核そのものに反対の立場から「核実験は遺憾」としつつも、現在の大国本位の核拡散防止体制そのものの持つ矛盾を指摘し、朝鮮をそこまで追い詰めたブッシュ政権の圧力一辺倒政策、「核先制攻撃論」に非を求める意見が多い。
 しかしながら本紙41号の主張にあった「支配、覇権のための核無効化」へのひとつの道を示すものではないかという問題提起に対しては、核軍縮、非核化に相反するのでは? という疑問が提起されている。そのひとつとして、朝鮮の「戦争抑止力としての核」という考え方は、冷戦時代の米ソの「核抑止論」と同じになるのではないかという疑問について考えてみたい。
 たしかに今回の朝鮮の核実験で示された「戦争抑止力としての核」、「核で核戦争の危険を抑止する」という考え方は、かつて「恐怖の均衡」とされた米ソの「核抑止論」に似た側面も持っている。つまり相手に核攻撃を思いとどまらせる「威嚇のための核保有」という点においては似た考え方だ。
 米ソの「核抑止論」は、冷戦時代を規定した東西二超大国による世界支配秩序維持のための「恐怖の均衡維持」論であった。米ソ両大国による縄張り確保が目的だった。しかしながら朝鮮の核抑止力は、米国による核先制攻撃の危険から自国を守るための自衛の核であり、その点で決定的に異なる。自衛のための核は主権、民族自主権擁護のためのものであるが、大国支配のための核は主権、民族自主権侵害のためのものである。この本質的差異をしっかり見ておく必要があると思う。
 冷戦時代、米ソの「核抑止論」に依拠して東西両陣営に属する国々は、米ソいずれかの「核のカサ」に入ってこれを自国の安全保障とした。しかし他方で大国支配の国際秩序を認めながら主権の多少の侵害を仕方ないものとし、米ソいずれかの大国の統制下に入ることを余儀なくされた。わが国は米国の核に守ってもらう代償として、対米従属を受容せざるをえなかった。ちなみに朝鮮は冷戦時代から今日まで一貫して非同盟自主の立場からいずれの「核のカサ」にも入っていない。これは「脱亜入欧」以来、覇権、自主権侵害に対し「仕方ない」としたわが国と「許さない」とするアジア、朝鮮との歴史体験の違いの反映でもある。
 冷戦時代を通じて世界の非核化の道とされてきた核拡散防止体制を是とするなら、朝鮮の核保有は非難されてしかるべきであろう。しかし冷戦の終焉によって大国の支配秩序は崩壊し、大国の核独占も大国の「核のカサ」も、それを支えた国際的な核拡散防止体制も時代遅れの代物になった。
 ところが冷戦の終焉を、そのような時代の到来と見ず、ソ連が崩壊し「世界唯一超大国」になったと錯覚した米国が相も変らず圧倒的な核軍事力優位を保持しており、ブッシュ政権にいたっては、「核先制攻撃」恫喝で世界を米国にひれ伏させうるとまで妄想している。核拡散防止体制は、こうした米国に核軍縮を迫るのではなく、逆にその核優位を保障するものとなっているというのもまた今日の世界の冷厳たる現実でもある。
 「核先制攻撃対象」とされた朝鮮やイランのような非同盟自主の国が提起しているのは、核拡散防止を第一の基準にするのか、それとも主権、自主権擁護を第一基準にするのかという問題であり、さらには自衛のための核保有は、支配のための核の無効化、世界の非核化へのひとつの選択肢ではないかという問題だ。おおいに議論すべき問題だと思う。


 
遺稿

歩く人が多くなって、そこが路に

田中義三(熊本刑務所にて)


■魯迅の言葉
 今、日本国憲法を擁護し、実現していくのは信念、覚悟、勇気に裏付けられた希望のように思う。
「希望というものはもともと有ともいえないし、いわゆる無ともいえないのだと。それはちょうど地上の路のようなものだ。実際は地上にはもともと路というものはなかったのを歩く人が多くなってそこが路となったのである」
 魯迅のこの言葉には深奥な意味がこめられている。信念のもと希望に向かう捨て身の挑戦の中で人々がついて来る道が切り開かれる。
 その人の固有な思想精神、人格というのは、過去の考え方、生き方の結果である以上、現在どのように生きていくのか、闘っていくのかが未来の自分を形づくり出していくのであり、自分の運命を決定していくことになるのだ。

■憲法9条は、わが国近代史の深遠な総括
 文明化とは、歴史に学び、未開の分野を新たに開拓し、さらに開化的な歴史を創造していくことではないだろうか。外国から学ぶこともあるだろうが、自国の歴史の教訓から学んでいくことが基本だと思う。戦争克服、恒久平和実現についても、わが国は他の国以上に戦争の悲惨さを体験した国であり、最も文明的な平和実現の道を示しうる位置にあるはずだ。

・・・・・・中 略・・・・・・

 私たち日本人としては過去から教訓を導き出すことで未来に思いをはせ、真剣に将来を模索しながら過去の原罪を問い続ける、この絶えざる反復にこそ、古くて新しい人類史的なテーマであり、同時にわが国に突きつけられている極めて特殊な問題でもある戦争の完全廃棄と恒久平和実現への王道といえるのではないだろうか。そしてその途上でこそ中国、韓国、朝鮮といった国々の国民感情の深層を探りあてることができ、彼らの憂慮や危惧をぬぐい去り、名実ともに友好親善関係へと向かう門出があるであろう。またそこに必ず、日本独自の主体的な反戦平和運動の大きな波を起こす源があるだろう。
 憲法九条は、わが国近代史に対する冷徹、正確な認識、戦争に対するこの上ない深遠な総括であり、日本独自の新しい文明潮流をつくり出していく出発点、基礎土台である。私はそう信じている。

■老いは嘆くに足らず、嘆くべきは…
 老年期に向かい年齢を積み重ねていくことの最大の悲劇は、ではもう一度、よしもう一度という「やり直し」すらが困難になっていくことではないだろうか。しかしそれはやはり敗北主義か。それより「老いは嘆くに足らず、嘆くべきはこれ老いて虚しく生きることなり」を座右の銘とすべきなのか。りっぱに年をとることは、潔く死ぬことよりはるかに難しいことなのだろう。


 
 

編集後記

小川 淳


 2007年が明けた元旦の早朝に、近くの山に登った。同誌会員である田中義三氏の病状回復を元旦の日の出に祈願するために・・・。だが、朝日は雲間に隠れたままついに姿を現さなかった。時すでに遅く、同氏は年が明けた直後に亡くなっていた。享年58歳だった。
 獄中から受けた叱咤激励が忘れられない。義理と情に溢れ、どんな人でも包容できる懐の深い人だった。一方で、全共闘世代として時代を駆抜けた闘士でもあった。なんとも残念である。
 遺稿「歩く人が多くなって、そこが路に」は、同氏が熊刑で書き溜めた手記から抜粋した文章だ。故人の人柄が行間から滲み出ている。
 意気消沈したこの三が日、なんとか自分を鼓舞しながら43号の発行に漕ぎ着けた。内容のある文章を書いていくことが故人に対する私たちの義理だ。恥かしくない「アジア新時代と日本」にしたいと思う。故人の冥福を心から祈りたい。


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