時代の眼
いじめ隠蔽など不祥事が続く教育界。その対策はいろいろ言われているが......内容を読む
主張 「朝鮮の核実験への一つの視点、『核による支配の時代』の終焉、『核無効化の時代』の始りか」
朝鮮はついに核実験へ踏みきった。これを「核の脅威」と見るのか、それとも......内容を読む
研究 「国民国家か、民族国家か」
安倍流国家観への批判はこれでよいのか......内容を読む
研究 「実感なき景気回復と新自由主義改革」
実感なき景気の「いざなぎ超え」、一体なぜ......内容を読む
寄稿 「ぜいたく品禁輸」の実効性
朝鮮への制裁措置「ぜいたく品禁輸」で「特権層の動揺を」というが......内容を読む
視点 「大阪生野から核実験を考える」
大阪市生野区に住む日本人として......内容を読む
サバイバル・イン・ジャパン My試用期間
試用期間中、次々と同僚が辞めていった......内容を読む
朝鮮あれこれ 「朝鮮の相撲」
核実験直前のピョンヤンでは、相撲大会が盛大に行われていた......内容を読む
編集後記
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今、テレビもラジオも新聞も、ニュースといえば学校関連の諸問題だ。いじめによる生徒の自殺や必修科目未修問題などが連日取り上げられている。
そうしたある日ラジオで、リスナーからの提案として、「いじめが隠蔽され、子どもが自殺に追い込まれていっているのは、学校評価制度のためだ。これからは、いじめがあるかないかを上から評価するのではなく、いじめがあることは前提にして、いじめによく対処し克服するのを奨励するようなシステムをつくるのがよいのではないか」という声が紹介されていた。
同じ問題は、当然のことながら、学校評価制度など教育改革の先輩国、イギリスでも生まれている。教育の階層化、点数至上主義など、教育の閉塞情況が深刻の度を加えている。そうした中、競争原理に基づいて学校同士を競わせ、上から評価、締め付ける制度は廃し、あくまで教師たちを信頼し、教育現場の創意と努力にまかせる教育体制へ変えることが検討され始めているという。
ところで、わが安倍新政権はどうだ。こともあろうにそのイギリス改革をモデルに「教育再生」を強行しようとしている。安倍首相の著書、「美しい国へ」では、「誇りを回復させたサッチャーの教育改革」なる小題目まで掲げている。
市場原理、競争原理に基づくイギリスの教育改革は、部分的ながら既に日本にも導入されている。その結果がいじめによる自殺問題など深刻な矛盾だ。だが、残念ながら、それは教訓化されていない。されるどころか、それを根拠にさらなる「改革」の全面化、法制化がはかられようとしている。これは、教育現場、ひいては日本に対する罪深い愚弄ではないだろうか。
主張 朝鮮核実験への一つの視点
10月9日、朝鮮北部を震源とする「小さな地震波」が世界を揺らし続けている。今後は、核を保有した朝鮮の存在を前提に進むことになるだろう。これを「核の脅威の高まり」、「平和への重大な挑戦」と見るのか、それともこの半世紀続いた「核覇権時代」の終焉と見るのかで、今後の展望はおそらく180度違ってくるだろう。
言うまでもなく「核兵器」は悪であり、世界から無くさねばならない。しかし、ブッシュや安倍首相のように「核拡散」だけを問題視するなら、超大国の核の論理に足下を掬われかねない。要は、核拡散という現実を真摯に受けとめ、同時に朝鮮半島の非核化、世界の核軍縮をどのように実現していくのか、その展望を描くことこそ、重要ではなかろうか。
■米国の対朝鮮政策の破綻
昨年のインド、パキスタンに続く今回の朝鮮の核実験によって、世界はいまや新たな「核拡散」時代を迎えているかのようだ。中ロまで含め朝鮮を擁護できず、安保理は全会一致で非難決議を採択した。核実験の衝撃の大きさを示している。
衝撃とは、「最も避けねばならなかった事態」、つまり朝鮮の核保有という「最悪の事態」が現実のものとなったという衝撃であるだろう。核実験は、日米の外交にとって決定的な失態となった。そうであるなら、なぜそのような失態を招いたのか、自分たちのこれまでの対朝鮮政策のどこが間違っていたのかをきちんと検証してこそ、失敗は生きた教訓となるはずだ。
何よりもまず確認されるべきことは、これまでの米国の対朝鮮外交が「失敗した」という事実である。元来、米国の対朝鮮政策の主眼は、「ならず者国家」と見なす朝鮮の非核化、核の放棄にあった。クリントン政権時の「朝鮮政策見直しと軽水炉の提供」というジュネーブ合意の骨子も、そのためのものであったし、90年代末期には核放棄を前提に米朝正常化寸前にまで二国間の対話は進んでいた。ところが02年1月の一般教書演説で、ブッシュ政権が、北朝鮮をイラン、イラクと並んで「悪の枢軸」と規定し、「核先制攻撃」も辞さずとの立場を取ったことで、米朝関係は新たな対立(第二次核対決)へと逆行した。
以降、ブッシュ政権の6年間、軍事外交で朝鮮に圧力をかけ、体制転覆を図るという強硬路線がアメリカの対朝鮮外交の「基本」となった。それによって6者協議も完全に閉ざされ、制裁などの外交圧力だけが続行されるようになった。その結果が今回の核実験である。言い換えるなら、力づくで朝鮮に「核放棄」を迫ったアメリカの強硬路線が、最終的には「核実験」という米国にとって「最悪の結果」を招いてしまったわけで、その意味で、米国の強硬路線の「破綻」は明らかだろう。
■「瀬戸際外交」論の破産
一方で、今回の核実験については、日本国内でも理解できないという声が圧倒的だ。無謀な核実験を行えば、国際社会からの孤立や、経済制裁の強化を招くのは明かで、朝鮮が熱望している対米関係の正常化もますます遠のき戦争の危機は高まるだろう。なのになぜあえて無謀で危険な核実験を行ったのか。多くの人の疑問はここにある。
核実験は、危機を意図的に煽ることで米国の譲歩や見返りを迫る「瀬戸際外交」だろうという見方があった。しかし、米朝の核対決において危機をあおり、脅威を与え続けてきたのは誰か、きちんと検証する必要があるのではなかろうか。
「悪の枢軸」という言葉で露骨に敵意をあらわにし、体制転覆のためには「核先制攻撃」も辞さずとして、一貫して威嚇し、脅威を与え続けてきたのはブッシュ政権に他ならない。しかもアフガン、イラクへの侵攻は、このブッシュ路線が単なる口先の「脅し」でないことを示していた。
歴史的に見ても、朝鮮半島は核を振りまわす米国によって分断され、苦しんできた。朝鮮は半世紀以上も米国の核の脅威に晒されてきたし、今なお先制核攻撃の脅威を受け続けている。半世紀以上にわたって、米国と軍事的に対決し続けている国は朝鮮以外にない。
その意味で、アメリカが強硬な姿勢で来るなら更なる強硬路線で対抗し、「自衛のための核」を持ってこそアメリカの核先制攻撃の意図をくじき、自国の平和と安全は守れる。朝鮮が本気でそう信じているとしても、不思議ではない。これらの事実は、今回の核実験が朝鮮にとって「危険な綱渡り」でも、「瀬戸際外交」でもなく、半世紀に及ぶ米国との対決で培われた経験と冷徹な判断に基づいていることを示している。この確信なしに、核実験という選択肢はなかったのではなかろうか。
■「核による支配の時代」の終焉
「核なき世界」の実現は人類の理想であり、20世紀から受け継いだ最大の課題のひとつであることに異を唱える人はいない。しかし、この日本人の願いは過去半世紀に渡って踏みにじられ続けてきた。そして今回の核実験によって、また新たに一つの核保有国が加わった。核拡散の事態を憂慮する声が上るのは当然と言えよう。
現在、核保有国は、安保理常任理事国の5カ国に加え、インド、パキスタン、ほぼ確実視されているイスラエル、そして朝鮮の9カ国となった。
核拡散防止条約(NPT体制)は、形骸化して久しい。米ロ中など5カ国だけの核保有を認め、他の国の核保有を認めないという根本矛盾に加え、核保有国は核軍縮の努力義務を怠ってきたばかりか、米国は条約で禁止されている非核国への核の威嚇さえ行ってきた。これを批判する国際社会の声は聞かれない。しかも、インド、パキスタンの核実験によって、5大国だけに核独占権を与えるというその前提さえも崩れてしまった。インド、パキスタンの核は許し、朝鮮の核は許さないという二重基準も今後問題となるだろう。
包括的核実験禁止条約(CTBT)もいまだ発効できていない。96年に条文が合意され、約34カ国が批准しているが、この条約が発効しない最大の理由は、最大の核保有国である米国が反対しているところにある。米上院は99年に批准を否決、01年に登場したブッシュ政権は核兵器の製造、安全確認に実験が必要として条約には強く反対している。最大の核保有国、米国の批准なしに、中ロの批准はありえない。米一国に核の独占権を与えてしまうからだ。もし仮にこの条約が発効していたなら、インドやパキスタン、そして朝鮮の核実験はありえなかったはずだ。
自らは核軍縮にとり組まず、核拡散だけを問題視し、しかもその核を支配の道具として利用する、このような覇権主義が世界に存在する限り、核のドミノゲームは続くだろう。
いずれにせよ、核拡散防止条約という古い枠組によって守られた大国による「核の独占」と、それに基づく「核による支配の時代」は終った。
■「核無効化の時代」の始まりか?
核兵器は元来、侵略のための兵器であり、自衛のための兵器ではない。しかし、現実に大国の核が小国への威嚇の道具として使われている中で、小国がそれに抗して核を持つのは、覇権のためではなく、あくまで自衛のためのものである。同じ核であっても、「支配のための核」と「自衛のための核」とを同列に論じることは間違っている。
その上で重要なことは、小国が「自衛のための核」を持つことによって、「支配のための核」は無効化されるということだ。すなわち、大国は核を使うことができず、核を持つことの意味がますます小さくなっていく。そういう新しい時代が始まった、と言えないだろうか。
核拡散防止条約も包括的核実験禁止条約も機能しない中で、核軍縮の新しい構想こそ、今後問われてくるだろう。小国が核を持ち始めたことは、「核の拡散」であって、由々しきことかもしれない。しかし、核を支配の道具とする覇権主義が今なお跋扈しているパワー・ゲームの中で、どうすれば「核の廃絶」を実現していくのか。「支配のための核」の無効化という視点は、そういう「新しい核軍縮の時代」を示唆していないだろうか。
核による支配の現実を冷徹に見るなら、核の「終局的廃絶」は、核の独占と「核拡散防止」の延長にあるのではないことは明かだ。逆説的かもしれないが、核廃絶は、「支配のための核」を無効化する「自衛のための核」の存在にあるという極端な論理も成りたちうる。批判を覚悟であえて言えば、朝鮮であれ、イランであれ、「自衛のための核」を持つ国の増加という新しい時代の始まりは、終局的な核廃絶の「第一歩」となる可能性さえある。いまや「自衛のための核」による「支配のための核」の無効化、という覇権主義との核対決の中でしか、「核の終局的廃絶」の道はない、そういう時代を迎えているのかもしれない。
安倍新政権は、「美しい国」をスローガンに、「新しい保守主義」「新しい国家主義」を掲げながら、「自由と規律を立てる」ために教育を改革し、改憲を目指すことを公言している。
こうした中、樋口陽一氏などが、「今、起きているのは、国民国家と民族国家という二つの国家観のせめぎあい」(朝日新聞6月8日 樋口陽一氏と山室信一氏の対談)と問題を提起しながら、安倍流民族国家観に反対する論議を展開している。
「国民国家か民族国家か」、この二つの国家観について樋口氏は次のように言っている。 「人々が約束を取り結んで国家を作るフィクションで説明されるのが国民国家で、人々の意思で意識的に維持しないといけない。これに対して単数の民族や血のつながりでまとめようとするのが民族国家だ」と。国民国家が「人々が約束を取り結んで作った国家」だと言うのは、有名な社会契約論によって作られた国家だということだ。
一方、民族国家観については、先に述べたような言い方以外にも、「血縁的なもの(血)や自然的なもの(土)のまとまりとして国家をとらえようとする民族国家」(山室氏)などとも言っている。すなわち、血や土などという非論理的なもので作られた立ち遅れたものであるかのように説明する。
ところで、現実の国家はどうか。実際、国家は、どのように発生発展してきたか。歴史的に見ると、群れをなして進化してきた人間は、共同体を作って生きてきた。その共同体は家族的な集団から始まり、それが拡大発展して自然的な血縁をもった氏族、部族になり、長期にわたる抗争と内部の階級対立を経て一つの国家を作り、そのもとに統合されて、血統、言語、文化、領域を一つにした社会的な血縁集団、民族を形成した。
ここで、人間が共同体を作るのは、互いに力を合わせて生きていくためであり、それは人間の生をより良いものにするために、さまざまなもの(制度、技術、富など)を創造していく過程であった。すなわち、人間の共同体とは、能動的に自らの運命を切り開いていく運命共同体だということである。こうして人間は、国家形態もより良いものに変革してきた、奴隷制国家から封建君主制国家、そして資本主義段階における国家形態としての国民国家へ。そして、その結果、国家は、ますます人間の切実な社会生活単位となり、人々の利害関係は深まり、より強い「われわれ」意識が生まれるようになった。
それは、社会契約論のように利害関係が合わなくなればそこから離れるということではなく、共同の利害関係をもって、良くも悪くも運命を共に切り開く「われわれ」の共同体だということである。だからこそ、人々は自分の国に愛着をもち、そのために尽くそうとするし、国が悪い方向に向かえば胸を痛めそれを正そうとする。
すなわち国家とは、樋口氏などが言うように、「自然の情」で作られた非論理的な「民族国家」でも、一人一人が契約して作った「国民国家」でもなく、人々が一つの社会生活単位をなし、共同の利益と愛情をもって結びつき、一つの社会的血縁集団として形成された運命共同体だということができる。人々がスポーツの試合などで、知らず知らずのうちに自分の国を応援し熱くなるのもそのためではないだろうか。
ここで言えることは何か。民族国家か国民国家かという論議で安倍流の国家観を批判することは合っていないということだ。
現実の国家は、国民国家でありながら、民族国家であり、国民、民族の運命共同体である。この運命共同体において、生命は、運命決定権である国家主権である。国家主権なしには、国家は、国民、民族の運命を切り開く運命共同体としての役割を果たすことができない。
安倍流国家観批判は後日に譲ることにするが、今回、ここで言っておきたいのは、安倍流のそれが、この運命決定権、国家主権について否定していることだ。
安倍氏は、その著書「美しい国へ」で、米国のネオコン論客の一人ロバート・ケーガンがホッブスの「リバヴァイアサン」を引用した次のような文章を紹介している。 「人間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。(そのままでは)私利私欲が衝突しあい、破壊的な結果しか生まない。…だから人々は互いに暴力を振るう権利を放棄するという契約に同意するだろう。…人間社会を平和で安定したものにするには、その契約のなかに絶対的権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なのだ。このリヴァイアサンこそがアメリカの役割である。そのためには力をもたねばならず、力の行使をけっして畏れてはならない」
絶対権力をもつ怪物・米国には絶対服従しなければならないとするのが安倍の考え方である。そこには日本の主権などない。主権の否定は国家の否定だ。よって、安倍はナショナリストでも何でもない。これが最も本質的な安倍流国家観批判ではないだろうか。
景気の「いざなぎ超え」が確実である。2002年2月に始まった景気拡大期間がこの11月で58カ月となり、「いざなぎ景気」(1965ー70年)の57カ月を抜くということだ。
しかし、今回の景気回復、拡大には実感が伴わない。「さざ波景気」「牛歩景気」「格差景気」、等々が大衆的評価だ。なのに政府は、「改革の成果だ」と胸を張っている。
実質GDPの成長率や企業収益額から見たとき、景気は確かに拡大している。だが、それも「改革の成果」かと言うと、そうとは言いきれない。なぜなら、この間の景気拡大は輸出主導であり、05年からの設備投資の拡大も主として景気循環によるものだからだ。
02年1〜3月期から05年7〜9月期まで、実質GDPの増加が8・2%であるのに対し、輸出の増加は42%、消費や設備投資など国内需要の増加は6・4%である。ここから推定できるように、実質GDP増加の54%は輸出増加によっている。また、05年からの設備投資の拡大は、長期の建設投資循環、中期の設備投資循環、短期の在庫調整循環の波が20年周期で合わさったことによっている。「いざなぎ景気」「バブル景気」の時期はこの周期に符合する。
だからと言って、この輸出や設備投資の拡大に新自由主義改革がまったく無縁だと言うわけではない。改革による法人税引き下げなど各種企業減税、人件費の大幅削減を生む雇用形態の不安定化、そして外資の大量流入などが企業の国際競争力の増進をもたらしたのは事実だからだ。
しかし、一方、より重要なことは、新自由主義改革が景気の回復、拡大を押し止める方向により大きく作用するということだ。
今回の景気回復は、実質GDP成長率が年平均2・1%増と「いざなぎ景気」の11・2%増と比べ著しく低い(名目GDP成長率は、供給力超過=需要不足のデフレにより平均1%にも満たない)。その最大の要因が景気拡大の基本要素である消費の低迷にあり、新自由主義改革はその基本原因になっている。
今回の景気回復において、所得は2%減である。所得2倍増だった「いざなぎ景気」とは比較にならない。消費を低迷させるこの所得の減少、その張本人が新自由主義改革だ。
改革は、雇用者報酬の大幅な減少をもたらした。00年の271兆円から04年の255兆円へ、16兆円の減少だ(ちなみに、法人企業の経常利益は、01年の28兆円から04年の45兆円へ、17兆円増加)。その要因は、倒産、リストラによる雇用者数自体の減少と正社員の半分の人件費で済む非正社員への置換、そして、成果主義、能力主義導入による正社員の給与自体の引き下げにあり、そのすべてが主として新自由主義改革に基づいている。
一方、消費の低迷は、年金や医療保険制度の改革による自己負担、受益者負担の増大、定率減税の廃止など税制改革、それに伴う将来不安の深まりとも深く関連しており、新自由主義改革のもと強行される公共事業の削減や不良債権処理に伴う倒産や失業の増加とも連動している。
こうした消費の低迷の他に、グローバリズム、新自由主義のもと、企業は獲得した収益を海外に投資し、海外生産比率を高めており、投資収益は貿易黒字の額を超えるまでに至っている。これが景気拡大のもう一つの基本要素である国内設備投資を抑制する大きな要因になっている。
大企業が史上空前の高収益に沸く「いざなぎ超え」のかけ声とは裏腹に、所得の減少、消費回復の停滞という実感のない今回の景気回復、その背後には新自由主義改革がある。「改革の成果」を叫ぶ政府の見解より、「さざ波、牛歩、格差」景気と呼ぶ大衆的評価の方が、事の本質を幾層倍も正しくついているのではないだろうか。
朝鮮の核実験に伴う国連決議に従ったという安倍政権の経済制裁項目に「ぜいたく品禁輸措置」が盛られている。これは「北朝鮮の富裕層に対する締め付け」を狙ったものとのことだ。その理由は、「北朝鮮指導部が軍、党の幹部にぜいたく品を供給することで支持をつなぎ止めているから」とマスコミは伝えている。
本当にそうだろうか。私は何度も訪朝経験があり、朝鮮の実情も少しはわかる。幹部の生活水準が一般の人より多少高いのは当然だが、ぜいたくな暮らしができるというものには思えない。彼らは公用車を使うが自家用車はない。彼らの生活費(給料)は車を買うにはほど遠いものだ。自家用車といえるのは、国から贈られた科学文化、スポーツ功労者の車くらいだと聞いている。幹部に支給される官舎も退職すれば自分のものではないから、財産と言えるものはない。つまり幹部には「モノで買収」できるほどの「ぜいたく」が保障されているとは思えない。
ちょっと考えてみてもそうだ。もし特権層を金品で買収してしか維持できないような政権ならば、命綱の金品を失うような政治ではなく、制裁よりも援助、抵抗よりも従順を選ぶのが弱体政権の生存方式であろう。
ミサイル発射訓練でさえ米国の激烈な攻撃を招いたのに核実験はさらに厳しい制裁を呼ぶというくらいは素人でもわかったことだ。それでもやったという事実は、制裁を意に介さない朝鮮の政権基盤の強さを表すものではないかとなぜ考えないのだろう。ぜいたく品禁輸で特権層が動揺し、動揺すれば体制維持ができないような脆い政権なら、核実験に踏み切る「勇断」は下せないと思うのが論理的な思考方式だ。
私のようなものでさえわかる論理や実情を、ブッシュや安倍首相が知らないで対朝鮮外交をやっているとしたら肌寒い限りだ。もしわかっていて、それほど実効性のない「ぜいたく品禁輸」=「富裕層への締め付け措置」をやるのだとしたら、これは一種の「風評」狙いなのかと勘ぐりたくなる。銀行の経営が破綻するという噂だけで預金者の取り付け騒ぎを起こせるというのと似ている。朝鮮は「富裕層=ぜいたく品で買収された軍、党幹部特権層」の支持で体制維持をしている独裁国家という風評だ。
「イラクの大量破壊兵器」も意図的な風評だったが、ブッシュの反テロ戦争の大義名分に根拠を与えるのに十分だった。同様にブッシュや安倍政権の対朝鮮圧力一辺倒政策に危惧を抱く人も、「どっちもどっちだ」とあえて異を唱えさせない力をこの風評は持っている。
ブッシュや安倍政権のやっている対朝鮮政策は現実を反映しない極度の主観主義、あるいは謀略的なでっち上げだと、この一事からもわかる。いずれにしても危険極まりないことだけはたしかだ。
大阪に移り住むようになって三年八ヵ月になる。住んでいるのは生野区である。生野区と言って先ずみなが思うことは、朝鮮人の多い地域ということだろう。実際、人口約14万人中、3万5千人ほどが朝鮮・韓国系住民と言われている。4人に一人の割合だから、道を歩けば、ハングルが耳に入ってくるといった具合である。
家の近くには、朝鮮の初級学級や中級学級、また、ボクシング界で有名な世界スーパーフライ級チャンピオン徳山昌守(洪昌守)選手を生み出した金沢ジムなどもある。でもこれだけ朝鮮系の人が多いのに民族衣装を着た人を見かけることはめったにない。やはり、この十数年間の日朝情勢が関係しているのだろうか。いまや日本では「北朝鮮」は悪の代名詞、世界の厄介者のように取り扱われている。
特にこの間の、核実験に伴う日本政府の対応は、この国に住む朝鮮国籍を持つ人々の立場をますます苦しいものにしている。尋常でないのは、朝鮮系の人のみならず、日本人でも「北朝鮮」と商売をしているというだけで、肩身の狭い思いをしなければならいという現実である。本当に正義と公平はどこにあるのだろうか。
戦後、核実験を4千回も行い、1万個近い核をもち、6千発近い核弾頭を配備しているのはアメリカである。言うならば自分の思い通りにならない国々、北朝鮮、イラク、イランなどを「悪の枢軸」「ならずもの国家」と決めつけ、「核先制攻撃」でおどしをかけ、実際にイラクやアフガニスタンを武力侵略でメチャクチャにしたのもアメリカだ。こうした現実を前に、アメリカの0・03%の軍事予算しかない「北朝鮮」が自国の自主権、生存権のために核をもってアメリカに対抗しようとするのは、当然のことではないのか。北朝鮮は何の理由もなしに、またアジアや世界にただ脅威を与えるために核保有をめざしているのではないのである。北朝鮮の核を問題にする前に、核をもって世界を自分の支配下におこうとしているアメリカの核こそ、問題にされなければならず、こうした支配のための大国の核が廃絶されない限り、その核に脅かされる小国への核の拡散は防げないであろう。日本が「北朝鮮」の独自制裁に熱をあげている時、その頭越しに中朝米で6者協議再開が取り決められた。日本一人、振り上げた拳が下ろせなくならないよう願うばかりだ。
秋は祭り、当地でも毎年「生野祭り」が開かれる。地域に暮らす様々な人々や団体がプラカードを手にパレードを繰り広げる。色鮮やかな民族衣装を身につけた韓国や朝鮮の人々の入場にひときわ大きな拍手が送られる。ほんの少し救われた思いになる。
サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(4)
「とにかく、無事に会社辞められて良かったね」「うん、ありがとう。ほっとしたよ」
ある会社に正社員枠で入社し3ヶ月の試用期間満了時に退社した私と、その一ヶ月後に辞めた元同僚との会話である。
その会社は店舗設計・メンテナンスを業とし、その傍ら物販を試みていた。当初、「数年で数十億の会社にしよう」「創業者の自覚をもって共に頑張ってほしい」と社長に熱く語られ物販枠で4人が入社した。が、早くも10日目で「先が見えない」と1人が脱落。残った3人は「会社は創っていくもの」と意気込んでいたが、一ヶ月、二ヶ月たつにつれて会社の内情が分かってきた。
まず就業規則が無い。今回初めて分かったことだが、設計という業界は半ば徒弟制で入社数年間は低賃金の上にサービス残業が当たり前という。ローコストを売りにするその会社の場合は尚更である。社長が打算も無く仕事を請けるので社員に過重な負担がかかる。毎日終電まで仕事し、風邪をひいても仕事があるので休めず結局肺炎になった若い社員もいた。設計部門が毎日残業なので、営業・事務職が定時に帰宅しようものなら「おや、もう帰るの?」と社長から厭味を言われる。
それだけではない。気分や都合で社長の指示が頻繁に変わる。設計部門では常に社長が口を挟みやり直させては再び元に戻るといったことも、信じられないがあった。物販も新部門として「事業計画書」を作れと言われたが、商品原価を社員に教えないから卸値も出せず、「利益」の出しようがない。「価格が一人歩きする」「あなたたちは未経験だから」と口実を言って原価を教えなかったが、その実は社員を信じられないのだ。
場当たり的対応と社員への責任の擦り付け。毎日の昼食代も経費で落とす公私混同振り。もちろん2重帳簿である。問題を挙げれば切りが無い。
社長が帰宅したある夜、何とはなしに残った社員全員で、今後どうするかという話し合いになった。「このままでは会社が潰れる」と設計部門の責任者が言う。「社長に進言し仕事のやり方を正してもらうか」と誰かが言うと、「絶対無理!」と全員が首を横に振った。それぞれが、心の中で「いつ辞めるか」とカウントダウンが始まっていた。
そして、この10月、同期5人全員が退職した。新しく事務で入った社員も社長のずさんな仕事ぶりに呆れ2週間足らずで突然辞めた。そのあおりを受けて既に辞職願を出していた同僚は残留させられるのではないかと心配していたが、無事退職できたので、前記のような私の「退職祝い」の言葉となった。
この3ヶ月間、多くのことを考えさせられた。中でも経営者の資質の基本は社員を信じ任すことではないかということ、会社は個人の所有物であってはならず、集団の創意が生かされなければ潰れてしまうということである。最後に付け加えたいのは、この社長が取り立ててひどい人ではないということだ。誰でも会社という集団における己の位置と役割を知らず、自己の所有物のように勘違いすれば、結局、私欲を律することができず会社を駄目にしてしまうと思う。この「試用期間」中、私なりに学んだことだ。
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核実験、制裁騒ぎと朝鮮をめぐって国際政治があわただしく動いているが、共和国国内はいたって落ち着いている。
核実験実施の予告が行われた10月2日にはちょうど秋夕(中秋の名月で今年は10月7日)の決勝戦に向けた恒例の全国相撲大会が開催されていた。強い日差しを浴びるルンラ島にある相撲競技場で、太鼓などをもった大勢のオバサンパワー応援団が見守るなか各道の選手たちが、団体戦、個人戦(重量別)で力と技を競い合った。
どこの国でも力較べの競技として古くから伝統的な相撲やレスリングがある。朝鮮でも高句麗の壁画に相撲競技が描かれており、秋夕におこなう相撲競技が民族伝統の一つをなしている。
朝鮮相撲が日本の相撲と大きく異なる点は、土俵があっても出れば取り直しで相手を土に付けてはじめて勝つということであり、回しだけをつける日本と異なってサッパという帯を腰から右足の太股に巻き、互いに腰と太股のサッパをしっかり掴まえて両者が組み合ってはじめて競技が始まる点である。そのせいか日本の力士のように腹を出した肥え太った選手はおらず、肩幅の広いがっしりした体格の選手ばかりである。
サッパをつけてやるので、テレビで見ても、随分、日本の相撲と技や力の競い方が異なっている。高く相手をつり上げて落とす技が多いが、落とされるときすばやく足をかけて逆襲するなどめまぐるしい展開が面白い。太股に巻いたサッパまで掴まえているので腰のサッパとどう組み合わせて力を使うかが難しく、両者が離れることがなくくっつき合ったままで1人が倒れれば相手も一緒に倒れるようになるので、そのときどちらが上になっているかで勝敗が分かれる。
朝鮮では昔から力の強い人をヒムジャンサとかジャンスと尊敬をこめて呼んでいた。まさに、重量級の選手たちはそのようなジャンスを彷彿させるもの凄い形相をしたいかにも腕力が強く、戦いで先陣を開く勇者のような人たちで、私は彼らを映画俳優にしてアクション映画を作ればすごく面白いものができると思ったものである。
団体戦では1位平壌市、2位平安北道、3位江原道の順であった。個人戦では私は平安北道のジャンスが勝つと思っていたが、技をかけられた平壌市の選手が体が柔らかく同時に倒れるときに背中を曲げ頭を上げて一瞬の差で土に着くのが遅かったのである。優勝した選手には雄牛が贈られる。牛に乗った優勝した選手はそのまま天国にも昇るような破顔そのものである。反対に、負けた選手の悔しがりかたも大地を叩きすごいものである。この感情のむき出しが私には魅力的である。
太鼓と拍手が鳴りやまぬ相撲大会が終わった翌々日に核実験成功の報道があった。平和のための核もありえるのかも知れない、核実験のニュースを聞きながらそうした感慨をいだいた。
核問題は日本人にとって最も敏感な問題の一つだ。広島や長崎で被爆した犠牲者とその遺族など、いまだ苦しんでいる方も多い。今回の「主張」は朝鮮核実験をとり上げたが、どこまで読者の理解を得られるのかという不安が頭をよぎる。ただ、朝鮮の核だけを問題視するだけでは「核」はなくならない。小国の核が大国の核(覇権のための核)を無効化する中で、それがひいては世界の非核化につながるのではないか、という問題提起をあえて試みている。読者の方々に異論や波紋を呼ぶだろうことは覚悟の上である。これが契機となって一つの論議になれば良いのではないか。その意味で、読者からの異論、意見に期待したいと思う。
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