研究誌 「アジア新時代と日本」

第40号 2006/10/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 安倍新政権のゆくえ 「戦後レジームからの脱却」のまやかしと危険性

研究 地方・地域の新しい発展とつながるか コミュニティ・ビジネス

論評 非同盟諸国首脳会議 世界を変える「バンドン精神」の流れ

ヘルパーのつぶやき(No.6) 「美しい国」より「普通に暮らせる国」で

寄稿 小泉退陣に思う

書評 「美しい国へ」を読んで

朝鮮あれこれ −U20女子サッカーワールドカップ優勝!− 国民的アイドルとなった「ドンマイ」娘達

編集後記



 
 

時代の眼


 最近、安倍さんの政権構想を聞く機会が多いので気づいたのだが、彼の話には、時代や情勢への評価というものが全くと言ってよいほどない。ただ、頭から「美しい国」を言い、「改革の継続」を言っている。改憲についてもそうだ。時代がこう転換している、だから改憲というのがない。口をついて出てくるのは、「祖父(岸元首相)の願いだった」とか「(自民党)結党以来の意思だ」とかいった類の言葉だ。
 もともと政治は、客観の要請に基づいて行うべきものだ。いや、政治ばかりでない。どんな仕事だって皆同じことだ。すぐれた芸人は、多かれ少なかれ、観客の反応を第一にし、どうすれば客を喜ばせることができるかから出発している。発明家だってそうだ。ある人は、「発想は顧客から出てくる。自分からではない」と言っていた。
 まして、広範な人々の実利に多大の影響を及ぼす政治は、自分個人の主観でやっては絶対にならない。政治家は、誰よりも時代の流れを深く見通し、人々の要求の変化に敏感に、それに応えるのを自らの本分にするようにしなければならない。
 特に、時代が大きく転換している今日、そのことの重要性は一層増していると思う。アメリカによる一極支配の時代は終わったと言われ、1980年代から始まった新自由主義改革の誤りはもはや世界的に公認されたものになっている。わが国にあっても、小泉改革の矛盾が、格差や地方崩壊など、至るところで吹き出てきている。
 こうした時代と人々の要求、即、客観の要請を考慮せず、それに目をつぶり、耳をふさいだ「破壊から創造へ」は、力を持たないばかりか、日本とわれわれの生活に大きな不幸をもたらすのではないだろうか。


 
主張

安倍新政権のゆくえ 「戦後レジームからの脱却」のまやかしと危険性

編集部


 5年余にわたる「喧騒」の小泉政権が終り、破壊から創造へ、安倍政権が誕生した。安倍政権が掲げるのは、「戦後レジーム(体制)からの脱却」という言葉だ。安倍新政権は、この日本をどこへ導こうとしているのか。「戦後レジームからの脱却」とは何を意味するのか。新政権のゆくえを占う。

■戦後レジームからの脱却ならぬ、その強化
 安倍氏は、総裁選立候補にあたって自らの決意をこう述べている。「憲法も教育基本法も占領下でできた。自分たちの手で、この国の姿かたちを、子供たちをどう教育していくかを書こうではないか。この目標は残念ながら後回しにされた」。
 憲法と教育基本法の改正は、自民党立党時の「政綱」に盛られたがいまだに実現していない。「保守の再構築」をめざす安倍政権にとって「祖父の代にも、おやじの代にもできなかった」憲法改正と教育基本法改正は、その生命線と見られている。
 自民党は、戦後一貫して現憲法は米国によって「押しつけられた」ものであり、日本の手で「自主憲法」を作ろう、と主張し続けてきたが、そのたびに国民世論の反対を受けてきた。そのため安倍氏の祖父に当る岸信介首相以降、中曽根政権を例外として憲法改正を前面に掲げた政権は登場していない。
 教育基本法も現憲法の基本精神を忠実に受け継いだ法律であり、憲法と教育基本法は、戦後日本の一つのバックボーンをなしたと言ってよい。その意味では、確かに安倍氏の掲げる「戦後レジームからの脱却」というスローガンと憲法改正と教育基本法改正は「整合性」を持つかもしれない。
 だが、日本の骨格を成した戦後体制は二つあったと言われる。一つは、いわゆる憲法体制といわれもので、これは、現憲法に象徴される軍国主義や戦争への反省に基礎した平和国家日本の建設を志向するものだ。もう一つは、安保体制と呼ばれるもので、憲法よりも日米安保を重視し、対米軍事同盟を中心におく政治の流れである。戦後日本は、安保闘争や護憲運動のように、この二つの体制下で、激しい対立の歴史を刻んできた。
 この二つの体制が拮抗する中で、「戦後レジーム」の主軸が、実質において憲法よりも安保体制にあったことは、戦後史を見れば明かだろう。憲法を無視した海外派兵や沖縄県民の意思に反した米軍基地の強要など、例を挙げればきりがない。
 憲法や教育基本法がアメリカによって作られたと声高に言われてきたが、日米安保体制の下、現憲法を踏みにじってきたものもアメリカなら、また今日、その改正を日本に強く要求しているのもアメリカに他ならない。
 天皇制を温存し、多くの戦犯を復活させ、朝鮮特需で日本独占資本を復活させたのも、敗戦から10年、保守合同による自民党の結成と自衛隊の創出もアメリカの対日政策の結果だった。経済における対米依存はもとより、周辺事態法制定やイラク派兵に見られるような軍事部門での対米一体化も、アメリカの要求だった。
 「戦後体制からの脱却」とは、何よりもまず、この戦後安保体制からの脱却でなければならないはずだ。にもかかわらず、安倍氏はその政権構想で、「世界とアジアのための日米同盟」を強化し、日米双方が「ともに汗をかく」体制を確立するという。これは「戦後レジームからの脱却」ではない。脱却どころか、その更なる強化だ。ここに「新しい政治」を装う、最大のまやかしがある。

■「憲法体制からの脱却」へ
 小泉政権は、徹底した対米追随路線を取りつつも、一点において日本独自の外交を展開しようとした形跡があった。それは対朝鮮外交である。2002年9月、小泉首相自らがピョンヤンへ乗りこみ、日朝ピョンヤン宣言に署名した。少なくともこの時点で小泉首相に日朝関係正常化の意向があったのは確かだと言えるのではなかろうか。
 その後の拉致問題で日朝関係はギクシャクし最悪な状態へと進むが、小泉首相は、つねに「対話と圧力」と言い続けて、党内の対朝鮮強硬派の動きを牽制してきた。官房長官として小泉政権を支える一方で、中国や北朝鮮への強硬路線を体現して頭角を現したのが安倍氏だった。
 安倍政権発足後、まず最初に着手されたのが、官邸直属の「拉致問題対策本部」の新設だった。その本部長に首相自らが就任し、全閣僚を部員に任命している。このことは拉致問題解決を安部政権の最重要課題に位置付けたことを意味している。
 日本版NSC(国家安全保障会議)の新設、あるいは人事面でも、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の中川昭一、山谷えり子、「平和靖国議連」の高市早苗など、そうそうたる保守強硬派を閣僚や補佐官に抜擢した。親米保守論客の中西輝正、「新しい歴史教科書を作る会」元会長、八木秀次、「拉致被害者を救う会」の西岡力など、そのブレーンにも、対アジア強硬派が顔を揃える。
 アジア外交の再構築が内外の注目を集める中で、中国や韓国との首脳会談は実現するだろう。その一方、朝鮮に対しては、これまで以上の強硬路線を選択するであろうことが、はっきりしてきた。これが安倍政権の外交のスタンスだ。
 拉致問題を新政権の最重要課題に掲げ、対話より圧力でという強硬路線は、もしそれで相手国が屈服しない場合、行きつくところは「力」による屈服でしかなく、最終的には何らかの「軍事的手段の行使」を想定せざるを得ない。
 戦後日本は、再軍備を果し、対米同盟強化や日米軍事の一体化が進んだが、それでも海外における自衛隊の武力行使だけは唯一「歯どめ」がかけられてきた。もう一つの戦後体制である憲法体制は、安保体制の下で外堀も内堀も埋められながらも、海外での自衛隊の武力行使禁止という一点だけはかろうじて死守してきた。しかし、その最後の本丸も危いものとなっている。それは、これまで政府見解で禁止されてきた集団的自衛権の見直し発言に、端的に示されているといえよう。
 つまるところ、安倍氏のいう「戦後レジームからの脱却」、そしてそのための改憲とは、戦後、現憲法の下で、かろうじて守られてきた「専守防衛の原則」を崩そうというものに他ならない。言い換えるなら、自衛隊の海外での武力行使を許してこなかった「憲法体制からの脱却」ということであり、それはもうひとつの戦後体制である憲法体制への完全な死亡宣告となるほかはない。そしてその矛先は一点に、明かに朝鮮に向けられている。ここに安倍政権最大の危険性がある。

■真に「新しい政治」が求められている
   総裁選は安倍氏の圧勝に終った。戦後生まれの初めての首相、若さが売りだという。しかし、これから「新しい政治」がはじまるという盛りあがりはほとんど感じられない。事実、総裁選は視聴率が下がり、中でも安倍氏の登場場面は麻生、谷垣氏に比べても下がることが多かったという。
 安倍氏が総裁選で圧勝したのは、その政策や政治見識、手腕への評価というより、イメージ的な人気のゆえであったのは、世論調査を見ても明かだ。朝日新聞の政権発足直前の世論調査によると、総裁選での安部支持は54%と他を圧倒しつつも、その人気の理由は、「人柄・イメージ」25%、若さ11%、実行力10%で、「政策や主張」は最も少なく5%でしかなかった。支持率は高いが、小泉政権発足時のような熱気がないのは、政策をめぐる議論に誰も期待していないことの現れであるだろう。新政権に対して一番取組んで欲しい政策は、「年金・福祉の改革」が48%、「財政再建」が17%で、「格差是正」10%、「アジア外交の改善」9%、「憲法改正」はわずか2%である。
 これは何を意味しているのか。安倍政権がやろうとしている憲法や教育基本法の改正と、国民の要求する年金や福祉政策の改革の間にあるギャップだ。このギャップにもかかわらず、安倍政権に対する支持率は高い。それは、安倍政権の掲げる「戦後レジームからの脱却」と、国民の要求する「新しい政治」との決定的な違いに由来するのではなかろうか。
 国民は確かに「新しい政治」を求めている。しかし、それは安倍首相の言うような「憲法体制からの脱却」でないことだけは明かだ。戦後体制の軸が安保体制にあったことを考えると、本質的にそこからの脱却といえるのではないか。
 戦後政治を根本から変える、真の意味での「新しい政治」は、この少しも新しくない安倍政治との闘いの中から生まれてくるのではなかろうか。


 
研究 地方・地域の新しい発展とつながるか

コミュニティ・ビジネス

小西隆裕


 店舗面積や営業時間などに関する規制緩和、すなわち、新自由主義改革にともなう大型スーパーやチェーン店の都市郊外への大々的な進出は、旧来の商店街のシャッター通り化、地方都市中心街の空洞化を促進し、地方、地域の崩壊を促す大きな要因の一つになっている。「商店街はまちに根を張っている植物で、大型店やチェーン店は獲物を求めて生きる動物です。動物が来て、食い荒らして、植物を枯らして去っていけば、まちは荒廃します」。地域振興にたずさわる一活動家の言葉だ。
 新自由主義がもたらすこのすさまじいまでの破壊に直面して、大店法による規制の撤廃を日本に強要した当のアメリカでは、各地方、地域毎に様々な形で大型店への規制が始まっている。しかし、日本ではまだまだだ。それは、いまだに「違法な規制」、「競争制限的な時代への逆行」となったままだ。
 こうした中、今、日本では、シャッター商店街活性化のため、大きく二つの方向で運動が興ってきている。一つは、中心市街地の活性化を目指す「まちづくり三法」を基盤にした地方、地域の行政の動きであり、もう一つは、地方、地域住民たちが自分自身の力で始めた新たな取り組みである。「コミュニティ・ビジネス」は、その後者の動きの一つとして注目される。
 このビジネスのあり方は、地元農家と連携した野菜、惣菜の寄り合いクラブ併設の直売店、プロの料理人でないワン・デイ(日替わり)シェフによるコミュニティ・レストラン、急増する空き店舗を対象にした起業支援事業や高齢者や障害者の生活を支援する宅老所、そして病院の売店、レストラン経営、学校・保育園給食の受託、高齢者への弁当宅配など、総合的に事業を展開する「まちづくりの会社」、等々、千差万別だ。
 全国各地に興ってきているこうしたコミュニティ・ビジネスに共通する特徴は、それらが皆、地元住民の切実な要求にきめ細かく応えながら、経営的にも成り立っているということだ。高齢化が進む地域の特性に合わせた家庭料理主体のレストランや宅配サービスのメニューやそれと併設された寄り合いクラブ、「お金じゃないんよ。空いた時間に外へ出たいのもあるし、世の中の役に立ちたいのもあるし、みんなで集まりたいのもあるし」という地元のおばさんたちの低額有償ボランティアに依拠した運営、地域に根ざし地域のために活動することを願っている少なからぬ市民起業家たちへの空き店舗の斡旋から企業運営のノウハウのきめ細かな指導、等々、これらには、旧来の商店にも大型店にも見られなかった刮目すべき特徴が示されている。
 コミュニティ・ビジネス共通のもう一つの特徴は、それらが地元の農業や中小製造業、地域金融機関、物流業者と密接に結びついていることだ。それは、大型スーパーやチェーン店が地元の産業、金融、流通と関係なく経営されているのと著しい対照をなしている。この違いが地方、地域の振興に及ぼす差は甚大だ。後者が地産地消の地域循環型経済を破壊する方向に作用するのに対し、前者はそれを育むのに大きな効能を持つ。
 大型店とはもちろん、旧来の商店とも異なるコミュニティ・ビジネスのこうした特徴は、どこから生まれてくるのだろうか。それは、なによりも、このビジネスを支える人々の自分が暮らす地方、地域への強い愛着と帰属意識だろう。地域の高齢者たち、いや住民皆を自分とつながった人々と肉親的に思うが故に、そのサービスはかゆいところにも手が届くきめ細かなものになる。また、安いボランティア料でもやめる人がいないのも地域のためになると思うからこそだ。地域への愛は、また、地元の野菜、地元の商品、地元の銀行というこだわりにも現れている。一方、消費者の側からの支援も忘れてはならない。自分たちの商店に対する消費者たちの愛情なしに、このビジネスの存在はあり得ない。
 しかし、ビジネスは愛情だけでは成り立たない。いくら愛着、帰属意識があっても、利益にならなければ、ビジネスとして成立しない。重要なのは、大型店を向こうに回して、このビジネスが担い手にとっても、消費者にとっても利益になっているということだ。
 「どんな企業にもいえることですが、事業や経営には誰のために何をするかという戦略が必要です。日本の商店街は、ほとんどのところがそれを見失っているのではないでしょうか。たとえばお年寄りがたくさん住んでいるのに、それに向けてのお店があるかといえば、ないわけですよ。大切なのは、事業が世の中に有用なものとして存続するようにつくりあげることです」というコミュニティ・ビジネス先導者の言葉は意味深長だ。
 自分の地方、地域への愛があり、大型店の存在を超えるコミュニティ・ビジネスと消費者共同の利益の創造があれば、商店街の新しいかたちでの発展も、それと結びついた地産地消の地域循環型経済の再生と新たな発展も、その実現の道は大きく開かれてくるだろう。
 問題は、国と地方、地域の行政だ。これが全国チェーンやグローバルな大型店ではなく、コミュニティ・ビジネスの後を押すものとなったとき、崩壊の一途をたどる地方、地域の前途には光が射し、共同体の破壊、国と地方、地域の経済の破壊をこととしている新自由主義を超える新しいコミュニティ社会と産業経済構築の地平が具体的に展望されてくるのではないだろうか。


 
論評 非同盟諸国首脳会議

世界を変える「バンドン精神」の流れ

魚本公博


 9月15、16日、キューバの首都ハバナで開かれた第14回非同盟諸国首脳会議は、世界の新聞が「反ブッシュ首脳会議」「反米機運が濃厚な会議」「反米聖戦で彩られた会議」などと評したような反米色の強いものになった。
 その背景には、「反テロ」や「民主化」を口実にして他国に一方的に戦争を仕掛ける米国の横暴さに対する強い批判と共に、それと対決する戦いが前進していることがある。
 イラクはベトナム化し、アフガンでもタリバンが勢いを盛り返えし、米国が唱える「民主化」の欺瞞を吹き飛ばしている。レバノンでのヒズボラの抗戦はイスラエルをして撤兵を余儀なくさせ、ソマリアでも「イスラム法廷連合」が勢力を伸ばし「急速にアフガン化」している。
 経済的にも、非同盟諸国、発展途上国では、米国が押し付ける新自由主義改革によって自国経済が破壊される中で、これと対決する経済発展が模索されていることがある。 今回、会議の場となったラテンアメリカでは、1989年の「ワシントン・コンセンサス」によって、米国が新自由主義改革を押し付けた結果、自国経済が破壊され、二極化が進んだ。この惨憺たる状況の中から、下層人民を主体にして南米伝統のムニシピオ共同体に基礎した再生運動が起きた。南米で続々と誕生する反米政権は、そうした基礎共同体を基盤にした経済再生を進めており、国家相互の協力を強めながら、米国に頼らない経済発展を進めつつある。
非同盟諸国運動は、ソ連東欧社会主義の崩壊後、一時精彩を失った感があった。しかし、ブッシュ政権の横暴に直面する中で、再び、その原理、使命の正しさを再確認することによって、その輝きを取り戻しつつある。
 今回の会議では、反米基調の「最終文献」と共に、「現情勢下での非同盟諸国運動の原則と目的、役割に関する宣言」が採択され、運動創立時に掲げられた「理念と原則、目的」が再確認された。
 非同盟運動の原点は、1955年、インドネシアのバンドンで採択されたバンドン精神にある。それは一言でいえば「主権尊重」ということに尽きる。欧米の植民地支配に呻吟し独立をかちとったアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国にとって主権尊重は絶対的な理念であった。この一点を原理にして、バンドン会議では内政不干渉、地域外勢力の干渉の拒否、紛争の平和的解決などがうたわれた。そのために新興独立諸国が団結・協力していくことが確認され、この「バンドン精神」に基づいて、非同盟運動が開始される。
 会議は、非同盟諸国、発展途上国が、自主精神を堅持し、団結・協力を強めて、国際舞台で主導力を発揮していくことを表明した。
 日本では、新聞報道などでも軽い扱いでしかなかったが、「バンドン精神」の旗を高く掲げて進む世界117カ国(+パレスチナ解放機構)の流れを無視することはできないであろう。それは確実に世界を変えつつあり、米国に追従するだけの日本に再考を促している。


 
ヘルパーのつぶやき(No.6)

「美しい国」より「普通に暮らせる国」で

A・M


 たしかにヘルパーの仕事はやりがいがあるのだが、ちょっと誰かに聞いてほしい、言わずにはおれないと思うことが多いのも事実である。利用者によっては、ヘルパーを「使用人」と考え、「使わな損」とばかり、訪問するごとに大掃除を準備している人もいる。「利用料を払っているんだから」と高飛車に出てくる人もいる。あるいは同居する家族がまったく世話をせず(十分世話をする時間的,肉体的余裕もあるのに)、何から何までヘルパーにまかせっきりで、部屋に排泄物が散らばっているとか・・。細かくいえばきりがない。
 しかし、こんなことは介護保険のしくみをきちんと伝え、話し合って説得すればある程度は理解してもらえるし、介護の目的、目標を明確にして、利用者に誠実に接していけば、少なからず解決していくものだ。ヘルパーも一時的に目くじら立てたり、屈辱に思うことはあっても、誰かに話せばたいていすぐ笑顔でつぎの訪問先に向かうことができる。
 さて、介護保険制度の見直しがおこなわれてから、福祉の現場でどんなことが起こっているか、現場に携わらなくとも最近の新聞記事に目をやれば、問題の深刻さに気がつくはず。
 私の知っている施設は訪問入浴介護を七月で止めた。看護士とヘルパー二人の計三人つければ採算があわないということだ。寝たきりでお風呂に入れないお年寄りが、これまで訪問入浴を利用して気持ちよさそうに体を洗ってもらっていたのはいったいどうなったのだろう。利用者も家族もさぞがっかりし、介護するほうもなんと後味の悪いことか。
 事業所はしかたがないという。経営がやっていけないから、削れるところは削って、儲けられるところから儲けようとする。障害者やお年寄りが安心して生きていけるようにと、福祉事業をはじめた人たちが、その理念をかかげ続けようと努力すればするほど矛盾につきあたる。こんなふうに助けてあげたい、もっとよく助けてあげたいと思えば思うほど、経営がなりたたなくなる。
 なんとおかしな世の中になったのだろう、と考えるが、そもそも福祉に「儲け」は相容れない関係だと思うし、国が全面的に責任を持って援助するべきではないのだろうか。
 お金のある人は自費で高級老人ホームに入るか、使用人をたくさん雇えばすむだろう。だけど普通の人がまじめに働いてきて、老後、安心してヘルパーにみてもらい生活することが困難になってくるのにはなんともいいがたい怒りがわいてくる。
 「美しい国」よりも「普通に暮らせる国」で、ヘルパーはいつも笑顔で仕事がしたい。


 
寄稿

小泉退陣に思う

秋山 康二郎


 小泉丸が航海を終えた。次期政権のリーダーたらんと名乗りを上げた安部氏は、「私の政治手法は破壊的要素よりもなるべく多くの人たちに参加していただいて国を造っていくスタイル」と言い、谷垣氏は、「多様な考え方を取り入れ、自民党というるつぼの中で政策を鍛え、たくさんの声を生かすことが大事」、麻生氏は「小泉流の敵味方をはっきりするやり方でなく、対立から融和の方向を目指すことが次の自民党総裁の義務」だと。
 次のようにも言う。安部氏は、「光が当たっていない人をどう救うかが大事」、谷垣氏は、「戦後の発展で溜まった体内脂肪を取り払わないと展望はない」。麻生氏は、「首相の改革は後世評価されよう。だがこの5年間で日本社会はぎすぎすしてしまった」。
 三氏が感じている(認識のズレは別にして)ように、破壊の結果として「格差」という言葉が共通認識となるほどに、日本の現状は一体感を喪失し、社会は孤独と不安に凝縮されている。それが近年の自己中心的社会犯罪の現状に反映されている。犯罪者の個人的人格に原因を転嫁するのはたやすいが、その背後にそれを誘発する大きな社会的原因があると認識しないとこの解決もままならない。
 この改革のしわ寄せが弱者に及ぶとの指摘は当初からあった。にもかかわらず、壊すことに聖域を設けない手法は現在、医療・介護保険の縮小、生活保護基準の見直しなど我々の現在から将来に対する負担増と不安となって現実のものとなった。現在、生活保護受給世帯は100万件を超えた。まさに、新自由主義経済の弱肉強食、適者生存の結果として現れたものだ。
 しかし見逃してはならないのは、雇用関係の変化で増大した派遣社員などの低所得層を形成する多数の予備軍が控えていることだ。財界の強い要望で、小泉首相が就任後失業率を改善するためとして打ち出した「終身雇用を前提とした制度の見直し」は、景気回復にともなう正社員の増加につながらず、何時でも首切りが可能な非正規社員の増加を加速した。現在、3人に1人が非正規社員だとする統計もあるほどに大きな問題となっている。少子化問題は、経済的理由や子育て環境に起因するところが大きいといわれている。この少子化が、将来の年金、医療、介護・福祉といった懸案の懸念材料になっていることは明らかだ。
また、1割の人が9割の富を得、残りの1割の富を9割の人で分け合うような社会構造はゆがんだ社会といわざるをえない。直接には富に結びつかず社会のために働き、社会を支える人たちに日々の安定と安全、将来の安心があってこそ真に成熟した社会といえるのではないのか。たとえ新自由主義経済改革が一時的な効果をカンフル剤的に果たしたとしても、人間の社会的絆を破壊するような改革は長続きはしないし、決して後世に評価される改革たりえないだろう。
 「改革継続」、「再チャレンジのできる社会」を目標に掲げる安部氏の具体的政策はどうなるのか判らないが、この本質的問題の解決なくして対処療法だけではもはや氏が願う「美しい日本」の未来は「絵に書いた餅」にも等しい。


 
書評

「美しい国へ」を読んで

金子恵美子


 安倍内閣が発足した。内閣に年々重みが感じられなくなっているが、これほどの軽さ、小ささ、危なさを感じさせる内閣も初めてである。
 安倍晋三の「晋」は、高杉晋作の「晋」であること、また母方の祖父が岸信介であることはよく語られるが、父方の祖父が、戦前体制翼賛会に反対して闘った安部寛であることなど、初めて知った。二人の歴史に名の残る人物を祖父に持ち、高杉晋作から名を借りたにしては、この新総理の印象は、どこかひ弱で首相などという激務をこなせるのかなというものである。
 実際、この間の所信表明や代表質問などを見ても、小泉さんとはえらい違いだ。本人も「棒読みだと非難されている」と小泉前総理に嘆いているそうだが、あの小泉前首相のふてぶてしさ、余裕、強靭さ、俳優顔負けのパフォーマンスなどなど、どれひとつとってみても、差がありすぎる。本当に若輩に感じられてしまうのは気の毒なのだが、この新しい総理を応援する気にはなれない。
 その著書「美しい国へ」は七月の発売以来、42万部のベストセラーだそうだ。読んでみたが、上滑りと言うか、実感をともなわない言葉だけが全開している。有名な映画や、歌、格言や事例が多数引用され、様々なことが語られているが、我田引水であり、言葉だけが浮いているという感じ。何も心に伝わるものがなく説得力がない。みんな持論に都合よく引用しているからだろう。一言でいったらご都合主義の薄っぺらで危険な主張という感じである。
 「美しい国へ」ということは、今が美しくないということを前提にしている。今も美しいなら「もっと美しい国へ」となるからだ。しかし、安倍さんのやろうとしていることは、古い自民党とともに、日本社会を「ぶっ壊した」、日本を戦争のできる国へと大きく進ませた小泉改革の継承である。
 憲法「改正」による「集団的自衛権」の行使、教育基本法「改正」による「愛国心」教育などなど。美しくない現在を生み出した改革路線を引き継ぎ、さらに、いつでもアメリカと歩調をあわせ戦争ができる国へ、そんな「国」のために命も惜しみなく捧げられる人間育成をしようとしている。これでは「もっと悲惨で、もっと醜い国へ」ではないだろうか。
 また本書には「闘う政治家」「主張する外交」など勇ましい言葉が踊っているが、小さな子供がチャンバラで刀を振り回しているような感を受ける。すでに多くの方がご指摘だが、何に対して闘うのか、誰に対して何を主張するのかが問題である。勇ましいだけにここを取り違えると、とんでもない方向に私たちの運命を運んでしまう。国民の冷静な判断が問われる。


 
朝鮮あれこれ −U20女子サッカーワールドカップ優勝!−

国民的アイドルとなった「ドンマイ」娘達

若林盛亮


 9月3日、U20(20歳以下)女子サッカーワールドカップ決勝戦で5:0という圧倒的な力の差を見せつけ朝鮮優勝! 全国がわきにわいている。ピョンヤン到着の凱旋パレードには数万の市民の花束、紙吹雪、いまだに各競技の再放送や後追い番組、記事が出るわで、童顔の女の子達が国民的アイドル、英雄だ。私たちがよく借りるバレー場横のサッカー練習場でリフティングやミニゲームに汗を流す地域青少年チーム、特に女の子にいちだんの活気を感じる。小中学校でも話題の中心とのこと。初参加であっさり優勝だからこの人気は当然だ。
 これまで朝鮮女子は日本のライバルとして「アジア最強クラス」ではあっても、ワールドクラスは欧米勢が圧倒的だった。アジアの快挙でもある。
 とにかく強い。前回優勝のドイツと緒戦で2:0、スイス、メキシコにいずれも4:0、準々決勝、準決勝でフランスと2:1、ブラジルに1:0、決勝の中国戦は5:0。実に全6試合で18ゴール、このクラスのワールドカップ、最高得点記録更新。また失点わずか1という数字が示すのは、攻守にバランスのとれたチームということだ。
 日本代表監督のオシム氏の名言に「日本サッカーの近代化とは日本化だ」とあるが、朝鮮化をやっての優勝だと言える。とにかく全員がよく走る。欧米女子との体格差を俊敏さと組織的な動きでカバー。ただ走るだけでなくボールがよく回る、すなわちむだのない走り、組織的連係、意思統一あっての走りだ。そのうえ臨機応変、相手チームに合わせて自在に人が動く、すなわち各自が考えて走っているのだ。ボールがくるところに面白いように人が湧いてくる。そしてどこからでもゴールを狙い、決める決定力、個々の技術も高く実に見ていて楽しいサッカーだ。また全員の高い守備意識、前線や中盤で敵のボールを奪い攻撃への素早い切り替え。「考えて走る」オシム・サッカーは、もしやこれではないかと思わせるものがある。
 ハナから優勝しか考えていないような彼女達のモチベーションの高さ、でも「国」を背負っている気負いでカリカリすることもない。ミスしても笑ってドンマイの明るさ、余裕がこのチームの魅力。自信に裏付けられた笑みに見えるから不思議。
TVサッカー解説者によれば、このチームは朝鮮でも新しい世代とのこと。前世代と比べ小中学生の年齢から全国各地のクラブで新たな強化プログラムが組まれ系統的に育成された少女達なのだが、国際大会未経験の期待の原石がいきなり新方式の勝利を象徴する「黄金世代」に変身したのだ。
 この彼女達が国民的アイドルになるキーワードは、圧倒的強さだが、笑みと自信、明るさと余裕で表すそんな強さじゃないかなと私には思える。思えば、彼女達がサッカーを始めた頃はこの国が「苦難の行軍」の渦中にあった最も厳しい時期。「苦難の千里の後に楽園の万里」「最後に笑おう」というこの国の人たちの楽観と希望を現実化したそんな「ドンマイ」娘達に自分達の未来を重ね合わせているのかもしれない。


 
 

編集後記

小川 淳


 「靖国参拝に行くか行かないかは明言しない」「日本の過去の歴史評価は歴史家の判断に任せたい」・・。 何とも腰の据わらない曖昧な政権が誕生したものだ。
 歴史認識が曖昧だから明言しないのではない。彼自身の歴史観を明言すれば、アジアから孤立し、逆に、「負の歴史」を認めればそれは彼が批判してきた「自虐史観」となる。切羽詰った挙句のだんまり戦術だ。
 小泉首相は間違ってはいたが、筋は通した。安倍首相は間違った上に筋も通っていない。これではアジアとの心の通い合った真の友好関係は一層困難になるのではないか。


ホーム      ▲ページトップ


Copyright © 2003-2011 Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.