朝鮮の「核開発」問題が世界政治の一つの重要な焦点になっています。核による世界一極支配をもくろむアメリカにとって、この問題はおろそかにできない問題のようです。
ところで、この問題が日本のマスコミで取り上げられる度に気になる言葉があります。「体制の保証」という言葉です。すなわち、朝鮮が核開発をやめる代わりに「体制を保証」してくれと言っているというのです。
そこで、念のため調べてみたのですが、朝鮮の報道で出てくるのは、「不可侵条約の締結」であり、「敵視政策の中止」であって、「体制の保証」という言葉はどこにも出てきません。
当の本人が言っていない言葉を言ったとするのは、それ自体アンフェアーな訳ですが、それにもまして問題なのはその中身であり、それがごく当たり前のこととして言われている現実です。
もともと、国と国との間で「体制を保証する、しない」の問題はあり得ないことです。あるとすれば、第二次大戦後、戦勝国であるアメリカが日本の「国体」を保証したなど、どちらか一方の国が相手国に対して絶対的に優位にある時のみでしょう。
この言葉がアメリカ発の言葉なのか、日本のマスコミが自主的に使っているものなのか定かではありません。しかし、どちらにしても日本マスコミがアメリカの絶対的優位を前提にごく当たり前のこととしてこの言葉を使っているのは間違いないと思います。
すなわち、日本のマスコミ界では、アメリカが国の上にたつ「超国家」になっているということです。あるいは、アメリカだけが国で、他の国々は国としては認められないということなのかもしれません。
アメリカの一極支配の横暴が世界の指弾を浴び、もはや誰からも認められなくなってきているときに、このような時代錯誤的言動がマスコミ界で通用し、また、国全体で受け入れられていっているのは、実に深刻なことではないでしょうか。
他国に従属するのが当たり前になっている国は、他国を従属させることにも鈍感になるものです。世界の趨勢が多極化の方向に進み、アジア新時代の幕が開けてきている今日、日本にとってこれは取り返しのつかない禍根になる問題です。
国の上に国はなく、国の下に国はありません。アメリカの言いなりになっている自分を自覚し、独立自主の精神でアジアの国々を尊重すること、ここから日本の新しい未来も開けていくのではないでしょうか。
■自民党総裁選が教えてくれたもの
例年になく熱い今秋の政局は、自民党総裁選で幕が揚げられた。
結果は、御存知、小泉圧勝である。大方の予想通りだったとも言えるが、一、二位決戦になった場合逆転もあり得る、地方は反小泉が圧倒的、などと言われていたのを思えば、予想を超えた圧勝だったとも言うことができる。
なぜこうなったのか、原因を考えてみよう。まず、四人も立候補者が出ながら、小泉氏が最初から過半数を制することができたのはなぜか。また、地方、地域の崩壊により小泉改革への不満が充満していると言われるなか、地方一般党員がなぜ小泉支持にまわったのか。
派閥が従来通りの派閥であり、地方、地域の自民党基盤が従来通りであったならとても考えられなかったことである。しかし、状況は大きく変わっていた。橋本派の分裂と野中引退宣言、若手議員を中心とする派閥横断の小泉支持勢力の形成、そして地方、地域の崩壊にともなう地元有力者の没落、無力化とその影響から抜け出た広範な一般党員の新しい政治、「構造改革」への期待、これら従前にはなかった新しい時代の流れがあった。
野中氏の引退記者会見を見ながら、古い時代の終焉と言った人がいたが、グローバル化の矛盾が深まるなか、古い自民党派閥政治の基盤が崩壊し、新しい政治が求められてきていること、まさにここに小泉圧勝、「抵抗勢力」惨敗の秘密があったのではないだろうか。
■「マニフェスト」の登場
新しい時代には、新しい政治が求められる。今回、派閥政治の崩壊を印象づけた総裁選の後、「新自民党」をキャッチフレーズに掲げる第二次小泉改造内閣が支持率を20%も高め、60%台に乗せたのも、そうした期待感があってのことだと言える。
この新しい政治への要求に応えるものとして、今日盛んに喧伝されているのが「マニフェスト」である。
今や流行語大賞を取るかとまで言われるこの言葉が日本政界に登場したのは、今年に入ってからのことである。改革派知事の旗手だった北川前三重県知事が一月、彼らの集会でマニフェストを掲げた政治を提唱したのだ。
それから幾らもたたないうちに、四月の統一地方選でのマニフェストを掲げた無党派候補の大量当選、そして今、小泉マニフェスト対菅マニフェストを焦点に盛り上げられる総選挙への動きと、日本はマニフェストを抜きにしては政治を語れないまでになっている。
では、この「マニフェスト」とは何ぞや。七月、21世紀臨調が発表したマニフェストに関する提言では次のように言われている。
政党が政権任期中に推進しようとする政権運営のための具体的な政策パッケージ(政権公約)のことであり、検証や評価が可能な具体的な目標(数値目標、達成目標、財源的な裏付け等)、実行体制や仕組み、政策実現の行程表をできるだけ明確なかたちで示した「国民と政権担当者との契約」であると。
これを見てもわかるように、マニフェストは、単なる政治家個人の選挙公約でも、その信念や願望の「一覧表」でもない。政党が政治的リアリズムに基づき、財源や具体的な手順まで明らかにしてその実現に責任を持つ「政権公約」だということだ。
ここで問題にされているのは、できもしない「無限責任」、無責任であり、やってもやらなくてもいい曖昧さと温情主義だ。
マニフェストはこのように喧伝されている。
■マニフェスト政治は、新しい政治なのか
マニフェストを掲げた政治への転換は、何を意味するだろうか。「提言」で言われているような温情主義と一体の無限責任・無責任型政治との決別だろうか。いや、ことの本質はそこにはないと思う。
重要なことは、なによりも、今回の総選挙が小泉マニフェストと菅マニフェストの争いだと言われているように、衆院選が首相候補とマニフェストがワンセットにされ争われる政権選択選挙になるということであり、それが小選挙区制と相まって、二大政党制と首相の強力な指導力を生み出すことである。このマニフェスト政治の強権性は、小泉氏が「総裁選で勝ったなら、小泉の公約が党の公約になる」と公言したところにも暗示されていると言えるだろう。
だが、それにもまして重要なのは、マニフェスト政治が財源の裏付けや具体的な手順の明示を不可欠の要件としているように、徹底したリアリズムを標榜しており、アメリカへの従属と融合を誰も異論をはさめない日本の現実、動かし難い政治の前提としていることだ。
もちろん、政治は現実から出発しなければならない。だが、現実を動かし得ない政治の前提とするのは誤りだ。伝えられる小泉マニフェストと菅マニフェストの草案がともにアメリカに対する従属問題、融合・手先化問題を問題にもしていないところに、これが単なる杞憂でないことが示されているのではないだろうか。
この十数年間、アメリカと「抵抗勢力」との間で繰り広げられてきた日本政治の構造改革をめぐる攻防は、このマニフェスト政治の出現で決着がつけられそうである。だが、この対米従属と対米融合・手先化をファッショ的、強権的に推し進める政治が果たして新しい時代の新しい政治だと言えるだろうか。
米一極支配に抗し、世界の多極化が歴史的奔流となり、アジアがその先頭に立っている歴史の新時代にあって、アメリカをその先兵になって支える自民、民主のマニフェスト政治が時代を前進させる新しい政治になり得ないのは明かではないだろうか。
■時代の要求に応える新しい政治を
自民党総裁選での小泉圧勝と派閥政治の崩壊、民主、自由両党の合併とマニフェストの提示、等々、「新しい政治」、マニフェスト政治の幕開けは着々と準備されている。
古い自民党派閥政治を打破する「新しい政治」のイメージは、これに反対する政治勢力の存在をそれ自体許さないほど鮮烈なものになることが予想される。
しかし、いかなる事物現象もその本質を隠し通すことはできない。マニフェスト先輩国であるイギリスの現実は、われわれがこの政治にどう対処すべきか教えてくれているように思う。
ブレア・労働党政権のもと、今、イギリスでは、脱小選挙区制化、脱二大政党制化、脱政党化が進んでいると言われる。それは、投票以外の多様な政治参加の方法を工夫して広範な大衆的政治参加への道を開くこと、選挙制を比例代表制中心へ転換すること、そして諸政党がラディカルな理念を選挙公約として打ち出すことなど一連の動きが出ているところに現れている。
こうしたイギリスにおける経験は非常に示唆的である。問われているのは、なによりも、自民、民主のマニフェスト政治が生み出す現実の矛盾を直視し、この政治が大前提とする対米従属と対米融合・手先化自体を疑うことであり、それを根本的に否定するラディカルな理念を打ち出し、それをマニフェスト化しながら、選挙まで含む広範で多様な全国民的政治運動に具現していくことではないだろうか。
カンクンでのWTO会議が発展途上国を中心とする第三の政治勢力の反対により決裂したように、今日、一極化か多極化かの世界史的攻防は、新しい発展の段階を迎えている。それは、アジアやヨーロッパ、南アメリカ、アフリカなど各経済圏、共同体を構築する動きのなかにも現れており、それぞれの国の地域とその経済をおこし再生する動きのなかにも現れている。
アメリカと融合し、その一極支配のもとアメリカのために生きる日本になるのか、それとも、「超国家」アメリカのドルと核による専制支配に反対し、アジアと世界の大多数の国々と連帯して日本のための日本として生きるのか、国の進路の根本を問うこのラディカルな問題を不問に付して、新しい時代の新しい政治を語ることはできない。
答えは明解だ。新しい時代の要請に応える新しい政治は、アメリカのためではなく、日本のためのマニフェストを掲げた政治である。
もちろん、これは容易なことではない。とくに、財源の裏付けのある日本のための政策をあらゆる分野と領域にわたり打ち立てるなど至難の業だといってよいだろう。しかし、この難関を乗り越えていくところに、第三の政治勢力が政権担当に責任をもてる勢力へと成長する契機があるのではないだろうか。
○ナショナリズム論議が盛んというが
最近、「愛国」「ナショナリズム」などを冠した書物が多く出ている。今年の8・15を前後して、多くの雑誌、新聞なども「ナショナリズム」に関する特集を組んでいた。
90年代に入って、国と民族を否定するグローバリズムが流布されて以来、ナショナリズムについての論議が盛んになったが、最近のそれは、イラク戦争を契機に「北朝鮮のことを考えればイラク戦争を支持することが日本の国益だ」「日米安保維持こそ国益」などという対米従属国益論がナショナリズムの装いをもって登場したことを契機にしている。
これについて、渡辺治一橋大教授は「新しいナショナリズムを生み出したもの」(週刊金曜日8・8月号)という文章で次のように言っている。「現在進行中の軍事大国化を正当化するため。もう一つは経済のグローバル化と政府による構造改革の結果、解体状況にある社会の統合を引き締めるため」だと。
確かに、上記の「国益論者」たちの「ナショナリズム」にはその側面があると思う。しかし、この軍事大国化と日本解体の背後には米国があり、現実的に軍事大国化は米国の手先化として、また日本解体は対米融合として進んでいることを見るとき、果たして、それでいいのだろうかと思わざるをえない。
本来であれば、ナショナリズムはこうした融合、手先化に反対するものとなるはずである。しかし、それを「国益」だとする主張を「ナショナリズム」だとしてナショナリズムそれ自体を批判するというのは何かおかしいと思う。
○国家、政治欠落の文化主義
朝日新聞が8月15日を前後して、「議論の焦点を新たな視角から問い、ナショナリズム論の輪郭を描き直したい」として「ナショナリズムを問い直す」という6人の識者の主張を連載していた。そこで目についたのは、まず「国家の否定」である。これはグローバリズムが流布されて以来の論説だが、国民国家は近代に入って形成された歴史的産物にすぎないのであって国民国家にこだわっていてはだめだ(国民国家幻想論)ということを基本にしている。こうして、国民国家の内部にはさまざまな民族集団(エスニシティ)があるのだから、それを重視すべきであるとか、国民国家を単位にした民族主義は幻想だとか、パトリオティズムとはパトス=源郷を愛するということであって愛国と訳すのは間違いだとか、いずれにしても、国家を否定する論理が横行してきた。
朝日新聞の連載でも、多くの人がその立場に立って論理を展開していた。その中でも、青木保氏(政策研究大学院大学教授)は、一つの国に存在する複数の民族の「文化的アイデンティティー」を重視する「多文化主義」を評価しつつ、それも現実的には「混在化」しているとする。そして、それでも文化とナショナリズムが結合する可能性があるとし「文化の政治化」に警鐘を鳴らしている。
これはどういう意味だろうか。
国際独占資本が民族自主勢力を抑え込み、「ヒトとモノ、カネの往来の自由化」を実現して世界的な収奪を実現するための論理であるグローバリズムにとって、最大の障害は国民国家とその主権である。
国民国家内部にある複数の民族(エスニシティ)の文化的アイデンティティーを強調し、そしてそれすら混成化しているとしながら、「文化の政治化」に警鐘をならすのは、ナショナリズムを国家と政治から切り放し、それによってナショナリズムを骨抜きにするところにその目的があると言えるだろう。
○米一極支配のための融合戦略
最近、日本のマンガ、アニメが評価され、あるいはチャンバラ映画や日本のホラー映画が米国でリメイクされ、日本人監督がハリウッドに招かれたりしている。最近、マイクロソフトがTORONと提携するという報道があった。東大の坂村教授が84年に日本独自のOSとして開発したTORONは89年に貿易障壁だとして潰された。しかしその応答速度の早さゆえに携帯電話や情報家電に広く使われるようになった。そこにマイクロソフトが食指を伸ばしてきたのである。
構造改革を強要して、日本を弱体化させてきた米国は、銀行、企業の買収を進め、日本経済を融合させるだけでなく、文化の分野でも、それを溶解し融合して自分のものにしようとしているのではないか。
元来、グローバリズムは国と民族を否定するが故に、ナショナリズムを敵視した。しかし、民族自体をなくしてしまうことはできないので、その骨抜きが行われてきた。それでも民族的な感情を抜き去ることはできない。先月メキシコのカンクンで開かれたWTOの会議では、第三世界諸国が農業問題で欧米と対立し会議は決裂した。まさに世界経済のグローバル化に対して第三世界のナショナリズムがこれと対決する姿を見せつけたのだ。それはまた、米軍の軍事占領に対しイラク人民が武力をもって反対し、これを支持する多くのアラブ人が義勇軍として参加しているイラクの事態にも見ることができる。
こういう中で米国は、民族と対決するのではなく、これを溶解して利用する方向に進むようになったのではないか。文化は政治、経済ほどには融合への抵抗は弱い。また逆に文化は思想意識と強い関係をもつだけに、この分野での融合は政治、経済分野の融合を容易にする。まさに、それゆえに文化の融合なのであろう。
先月号で述べたように東アジア経済圏も、米一極支配のためのアジア経済圏構想と東アジア諸国の自主と連帯の地域経済圏構想が錯綜している。それと同じことがナショナリズムの面でもあるのだと思う。
その基本方向は、ナショナリズムから政治を抜きとることにある。
原理的に見るなら、共同体を作って生きてきた人間はその長い歴史の中で、それまでの部族や氏族を超えたより大きく強固な共同体として民族を形成してきた。それは、社会生活単位として国家形成を同伴した。したがって、国家と民族を切り離すことはできず、国家機能である政治を切り離すことはできない。そして、政治とは共同体としての民族の運命を切り開いていく活動であるから、そこで最も重要なことは、自分の運命を自分で決める自主権である。
ナショナリズムにおいて最も基本的なことは、国家の自主権を守ることに置かれなければならないのである。とりわけ今、米国が唯一の国家、言いかえれば超国家として横暴の限りを尽くしている中で、政治的自主権を守ることを基本に置かなければ、そのようなナショナリズムは何の意味ももたないだけでなく、それは、結局、米一極支配に服務するものにしかならないだろう。
○アジアとの関係の中で
確かに、日本ではナショナリズムに強い警戒がある。過去、ナショナリズムが侵略と戦争に利用されたからである。しかし、世界を見ればそうではない。とりわけ第三世界では、ナショナリズムは素直に愛国、愛族であり、自主と独立の旗印であった。そして今も、米国のグローバル一極支配、その独善的で横暴な戦争と略奪に反対する武器である。とりわけアジアは、ナショナリズムの強い地域である。かつて欧米の植民地としてあり血をもって独立を果たしてきたアジア諸国は自主ナショナリズムであり、その歴史の共通性の故に、連帯の気持ちも強い。またアジアでは、民族国家としての歴史も古く、ナショナリズムとは愛国であり、民族主義なのが当然となっている。さらに言えば、東アジア諸国には社会主義国家も多いし、非同盟諸国運動で培われた団結の気持ちも強い。
その東アジアと日本は経済的に強く関わりをもつようになり、これを離れて生きていくことすらできないというのが厳然たる現実である。
そこで二つの道がある。一つは米国を後ろ盾にして、対米融合した日本が東アジアとの融合を進めることで、この地域のナショナリズムを骨抜きにして米国を頂点としたグローバル化された東アジアにするという道であり、もう一つは、アジア諸国のナショナリズム、その自主性を互いに尊重し真に連帯し共に生きていく道である。
そのどれが正しい道であるかは明らかではないだろうか。前者の道は、米一極支配の下で手先のように従属に甘んじ、おこぼれをもらい、戦争に駆り出される哀れな道であり、後者は、多極化するアジアと共に自分たちの運命を連帯した力で切り開いていき、互いに尊敬し助け合う平和、繁栄の道である。
そして、そのどの道をアジア諸国が歓迎するかもまた明らかだろう。自主意識、民族意識の強いアジアを前に日本の行く道を考えるとき、日本のナショナリズムを正しく捉え発展させる可能性は強まると思う。日本という国民国家を単位にして、その政治的自主権を守ることを第一にするナショナリズム、この確立が今の日本には切実に問われている。
NHK「おーい、ニッポン(愛知県)」を見た。県内の様々なものづくりや食自慢など、故郷なつかしさに最後まで見入ってしまった。
愛知県は何といっても日本一のものづくり県。自動車、瀬戸物、繊維、鰻、蜜柑、メロン…と多種多産で工業、農業製品とも出荷額が25年連続日本一だ。そんな愛知県人の特徴は、枠にとらわれずちょっとした思いつきや遊び心をものづくりに活かすし、「とにかくやってみにゃわからん」とすぐ取り組むところらしい。
番組では江戸時代から伝わる「からくり人形」と現在のハイテクロボットとの関係が興味深かった。世界のからくり人形の四割が日本にあり、その七割(380体)が尾張に集中しているという。山車(だし)の上のからくり人形は筆で字を書くのやら変身するのやら様々だ。また、客に茶を運び客が茶碗を盆に戻すと方向転換し引き下がる「茶運び人形」や弓を的に当てる「弓引き人形」もあった。バッテリーやICも使わず、よくまあここまで複雑に動くものだと感心した。
まさにこのからくり人形の伝統技術が今日、愛知でのロボット研究の基礎となっている。若い青年研究者が人形を動かす仕組みを学びながら、ロボットの動きを技術化するのだそうだ。そういえば、今年タイで行われたアジアロボット大会の日本代表も確か愛知工業大学のチームだった。
地元の人が「先代が残した技術を後世に伝えていかねば」と熱く語っていたが、地域の良き伝統技術を守りながら大胆にハイテク技術に活かす中にものづくりの強さを見た思いだ。長引く不況で何かと暗い時世だが、愛知県の元気な姿に日本の力を感じることができて嬉しかった。
広大な平安平野をゆったりと流れる大同江が緩やかな丘陵地帯で大きく蛇行する平安南道ケチョン郡の大閣(テカク)と呼ばれる辺りは、広々とした川面になだらかな山塊が悠然と迫り、昔から風光明媚な所として知られています。ここに、高さ20m全長720mのダムを築いて取水口とし、南浦市テソン湖に至る全長154キロの長大な用水路が昨年10月に完成しました。これによって、水の乏しかった平安南道西部の広大な丘陵地一帯が水利化され、八つの市郡の工業、飲料用水にも利用されるようになりました。水利面積は約10万ヘクタール。
この用水路の最大の特徴は、自然流下で水を流していることです。いま共和国で最も苦慮しているのが電気。標高差23・5m、換算すれば100mでわずか2・5センチの傾斜を利用して、地形の複雑な台地に一つも揚水機(電気)を使わずにどう水を流すか、これが最大の難問でした。レーザー測量機で計測しながら6キロと4キロのトンネルを堀削し10年の歳月がかかると言われた難工事を約3年で完工。6万kwの電力が節約されたばかりか7500kwの発電も行っています。
一緒に弁当を食べながら工事従事者の話を聞きましたが、私たちが一番感動したのは、食料も燃料も機械力もない最も困難な「苦難の行軍」時期に、平安南道の数万の人々が立ち上がり、モッコを担ぎ、ハンマーで岩を削りながら自力でこの難工事でやり遂げたという事実でした。
この工事完了後、感動と喜びの余り、水路を数日かけて歩き通した老人がいたそうです。その老人の気持ちが分かるような気がしました。
巨人原監督の突然の辞任。彼の「ジャイアンツ愛」を評価していただけに残念でした。阪神の星野監督も「こんなことで日本の野球はどうなるんや」と怒っていましたが、そこには野球への愛を感じます。
マニフェストも新ナショナリズムも欧米発。日本への愛なくして新しいものも何も生まれない。そういう思いを強くしている編集後です。
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