研究誌 「アジア新時代と日本」

第39号 2006/9/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 靖国問題の本質は何か

研究 いま、なぜ国家論議か

論評 ヒズボラの勝利の要因

ヘルパーのつぶやき(No.5) 歳をとっても人間らしい老後を

サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(3) "占い"を愉しむ

寄稿 靖国神社とアジアの歴史教育

朝鮮あれこれ 朝鮮映画のヌーヴェルヴァーグ!?

編集後記



 
 

時代の眼


 今は、「力」礼賛の時代だと言ってもよいだろう。頭脳力、人間力、コミュニケーション力、等々、何でも力だ。人間の価値もまず力で測られるようになっている。脳力開発、会話力向上などの本が売れているのも一つの現れだろう。
 ところで、黄金万能の今日、力の中で最高の力は金力だ。「金で買えないものはない」と言い放った御仁もいた。
 だから、人間の価値も結局金だ。「清貧」は死語となり、「貧乏人」は蔑視の最高表現になっている。
 人間の価値を金や力で測るというのは、市場での価値、商品価値として見るということだ。人間が商品化された社会が良いはずがない。今の日本で「精神の荒廃」、等々が言われる根底には、こうした現実があるのではないだろうか。
 事態は簡単でない。だが、光はあると思う。それは、若者たちが行う人に対する評価の中にもほの見えている。
 今日、若者たちが求める望ましい人の第一は、場の空気を読める人となっている。最低は、その逆だ。
 「場の空気を読める」と言ったとき、それは単なる能力の問題ではないだろう。能力以前に場の空気を読もうとする意思と要求の問題ではないかと思う。自分中心で、まわりを気遣ったり皆の要求をまず考えたりすることのない人は、場の空気も読めないものだ。
 人々の要求、特に若い人たちの価値観にこういう自分中心を嫌悪し排するものがある社会は捨てたものではない。人間の価値が金や力など市場における価値から共同体における価値へと転換する未来への展望は、こうしたところから開かれてくるのではないかと思う。


 
主張 靖国問題の本質は何か

曖昧な歴史観と決別し、アジアとの「新たな歴史」創造へ

編集部


 終戦記念日の8月15日、小泉首相が東京九段の靖国神社を参拝した。現職首相による終戦記念日の参拝は中曽根首相以来21年ぶりだ。小泉首相は就任前に8月15日の参拝を公約していたが、過去5回はいずれも時期をずらしていた。しかし今回は違った。15日早朝、公用車で靖国神社を訪れ「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳。モーニング姿で本殿に上り、神道形式はとらず一礼、玉串料の代りに献花料を私費で払ったという。  内外からの批判については、自ら3点を挙げて反論している。「ひとつの意見の違いが不愉快だからと首脳会談を行わないことがいいのか」と靖国参拝を理由に首脳会談に応じない中韓両国の立場を批判。A級戦犯合祀については、「特定の人に参拝しているのではない。戦没者全体に対して哀悼の念を表するためだ」としている。また、憲法上の疑義については、「私は神道を奨励するために行っているのでも、軍国主義を美化するために行っているのでもない。憲法上の思想および良心の自由、まさに心の問題だ」と言う。

■軍国のシンボルとしての「靖国」
 靖国は明治2年に東京招魂社として創建された。脱藩して尊王のために戦死した維新の義士を祀るためだったという。日清、日露と続く対外戦争では天皇の軍隊の一員として戦死した人を祀った。戦争で死んだ日本人でも非軍属や民間人の戦争犠牲者は祀られていない。首相は「すべての戦没者への追悼」と言うが、靖国は「天皇の軍隊」の戦死者しか祀っていない。教義とはいえ、「死者を選別する」靖国のあり方は間違っているのではないか。作家・半藤一利氏は、こう指摘している(「朝日新聞」8・16)。
 78年に靖国はA級戦犯を合祀した。なぜ合祀したのか。「すべて日本が悪いとする東京裁判史観を否定しない限り日本の精神復興はない」、当時の宮司松平永芳はその動機をこう答えている(「世界」9月号)。それまでは毎年欠かさず参拝していた昭和天皇も合祀以降は参拝を取やめている。それまでの戦争犠牲者の「鎮魂の社」から、太平洋戦争を「自尊自衛の戦争」とする政治的施設へ、その性格を変えたからだ。A級戦犯7名を含む14柱を英霊として祀ることは、戦争責任を断罪した東京裁判も、また東京裁判を認めたサンフランシスコ講和条約をも真向から否定したことになる。
 多くの裁判所が憲法判断を避ける中で、特定の宗教施設に対する首相の参拝を「公約の実行としてなされた」職務行為と認め、昨年9月に大阪高裁では違憲判決が確定している。このように憲法の規定する政教分離の原則からも首相の靖国参拝には疑義が提起されている。
 明治以降の対外膨張と二人三脚して歩んできた靖国の歴史。軍人と民間人を選別した死者追悼のあり方。そしてA級戦犯の合祀と太平洋戦争を聖戦とする戦争観。靖国は単なる戦没者追悼の神社ではなく、明かに戦争のための神社だ。この点をごまかしてはならない。

■靖国問題は単なる「器」の問題ではない
 首相の靖国参拝には問題がある。ならば戦没者への慰霊はどうすべきなのか。合祀されたA級戦犯の「分祀」案や、靖国を非宗教法人にして国立の慰霊施設とする案、あるいは新たな「国立の追悼施設」を建設する案などが浮上している。
 一宗教法人である靖国神社に対して国が分祠や非宗教化を強制することは事実上できないし、たとえできたとしても、遊就館のような戦争賛美の特殊な施設を持つ靖国参拝には疑義が残るだろう。
 ではどうするのか。軍人や軍属に限らず、空襲や沖縄、原爆でなくなったすべての犠牲者への追悼する新たな国の施設を作ろうという意見は政府与党内部からも多く出されている。「無宗教の国立追悼施設を」(山崎拓、世界9月号)などはその代表であるだろう。
 「すべての戦争犠牲者に祈りを捧げることのできる新たな追悼施設」を作るなら、現職首相の靖国参拝がなくなり、少なくとも中国や韓国などの当面の外交問題は確かに収まるかもしれない。しかし、靖国問題は、そのような「形式」の問題なのかどうか。新たな「器」さえ整えれば、済む問題なのかどうか。

■靖国問題の本質は何か
 小泉首相は「外圧に屈しない」として参拝したが、靖国問題は決して外圧に屈するか否かの問題ではない。ましてや小泉首相個人の「心の問題」でも、「国際潮流に乗る」か否かの問題でもない。何よりもまず我々日本人自身の主体的問題であることが確認されなければならないと思う。
 靖国問題の根本にあるのは、日本という国があの戦争をどう総括してきたのか、正しかったのか、間違っていたのか。もし間違っていたとするなら、何を間違い、どこが悪かったのかという問題である。
 あの戦争をどう見るのかという問題は、決して小泉氏個人の「心の問題」ではない。国としての態度の問題であり、アジアとの関係においてはその平和友好関係の根幹にかかわる問題だ。
 つまるところ、我々日本人はあの戦争をどのように総括し何を教訓としてきたのか。靖国問題は私たち日本人ひとりひとりに自身の戦争観を問いかけている。
 あの戦争は帝国主義日本によるアジア侵略戦争だったのか、それとも欧米帝国主義列強に対する自尊自衛の「聖戦」だったのか。戦争評価をどうするか。この問題に対して、日本は国として腰が定まっていない。それが歴史教育における現代史の曖昧さと不徹底を生み、若者たちの歴史への無知と中国や韓国で渦巻く「反日」への反発を呼んでいる。
 この「曖昧な戦争観」をもたらした最大の要因は何か。それは、私たち日本人が戦争責任問題を自身の力で主体的に解決できずにきたところにある。戦争責任を追及した東京裁判は事実上、アメリカによるものだった。その結果、アジアへの侵略と戦争の誤り、責任は曖昧にされ、不問に付されてきた。
 主体的に戦争を総括するのか否か、それに基づき過去の帝国主義日本の誤りを認め正すのかどうか、まさにここに靖国問題の本質があるのではないだろうか。

■何を総括すべきなのか
 明治から敗戦にいたる近代日本の歴史を一言で総括すれば、覇権という言葉に集約できるのではなかろうか。日本はアジアと同盟して欧米列強のアジア植民地化に対抗しようとした。が、ついには「入亜」から「脱亜」へ、自らが台湾、朝鮮、満州を植民地化し、欧米列強と同じ帝国主義覇権国家の道に向った。朝鮮、満州を自らの権益と称して「大東亜共栄圏」を築き、中国大陸進出、さらには東南アジアへと侵略を拡大して欧米列強と覇を争い、310万人の犠牲者を出して敗北した。
 対米戦争を主に見ていく限り、あの戦争は「自尊自衛の戦争」である。そのどこが悪いのか。東京裁判も勝者アメリカの敗者日本に対する「復讐裁判」だ。等々といった側面しか見えてこないだろう。そのような側面があることは事実だ。しかし、アジアから見るとあの戦争の本質ははっきりする。アジア諸国の自主権を無残に侵害したこと、戦争の根源、最大の誤りはここにある。ここをきちんと総括できれば、首相の靖国参拝はありえず、「謝罪」も真摯なものとなり、歴史に対する曖昧な態度とはならないだろう。
 イラクへの自衛隊の派遣、在日米軍再編など、日本は今また、アメリカの一極軍事支配の下で覇権の一翼を担おうとしている。他国の自主権侵害への深い総括があれば、そうはならなかったと思う。靖国問題は単なる過去の歴史の評価に止まらない。これからの日本のあり様を左右する。日本の未来のためにも、この靖国問題は疎かにされてはならないと思う。曖昧な戦争観から脱し、アジアとの「新たな歴史」を築いていく、それが戦没者への真の慰霊となるのではなかろうか。


 
研究 「国家論」

今、なぜ国家論議か

魚本公博


 最近、国家論についての文章を多く見かける。それは、改憲案や教育基本法改正案などに「愛国心」が盛り込まれたことを契機にして、これをめぐって論議が行われる中、そもそも国家とは何なのか? 一体どういう国家を作るのかという風に論議が発展してきたものだ。
 こうした論議は、日本だけではなく世界的なものになっているようである。
 グローバリズム研究者の伊豫谷登士翁氏の「グローバリズムとは何か」という本によれば、「グローバリゼーションのさまざまな企図は、ナショナルな領域の中にある法や機構や制度の改編としてとして展開する…」として、「これをサッセン・S(学者の名前)は『脱国家化と再国家化』(1999年)と表現している」とある。
 すなわち、「国とか民族などの枠内で考えるのはもう古い、これからは地球的視野で考えるべきである」というグローバリズムは、これまでのナショナルな領域で作用してきた法や機構や制度を壊し(脱国家化)ながら、新たな制度や機構への再編(再国家化)が進んでいるということであり、こうした中で、国家とは何か? あるべき国家像はどのようなものか、などの論議が起きているということなのだ。
 今、国家論議が起きている背景には、米国がグローバリズム、新自由主義、新保守主義を掲げて世界を改編してきたことがある。
 グローバリズムは米国発の理念であり、それには新自由主義と新保守主義が同伴する。グローバリズムは、新自由主義と新保守主義によって内実を与えられているのだ。
 新自由主義は、「各人の利己的要求を放任すれば、あとは市場がうまく調整する」というものであり社会や国家の共同体的秩序を否定し破壊する。
 久しい以前から新自由主義を国是にしてきた米国は、これを各国に強要してきた。それは、米国金融が濡れ手に粟の賭博的な方法で世界を収奪する上で障害となる各国の垣根をなくすためのものであり、そのために各国が国民経済の育成、保護のために行ってきた国家的な指導や統制・規制の撤廃を要求する。そればかりでなく、人間を利己的存在とみて、利己主義競争を煽る新自由主義は、家庭から地域、職場、国家にいたるまでの人々の共同的関係を破壊する。それは小泉新自由主義改革による結果を見ても明らかである。
 新保守主義は、この新自由主義的でグローバルな秩序を保守するために、軍事力を前面に出して米一極支配を維持しようというものである。米国は、これによって、ネオコンが自ら帝国と自称するようにアメリカ帝国として他の国々を属国、属州化している。
 結局、グローバリズム・新自由主義・新保守主義は、米一極支配のための一体となった論理であり、その下では、米国だけが国(帝国)であり、他国は、国とは言えない「国」(属国)になってしまうということである。
 国家論は、以上のような現実を把握した上で論議されるべきだろう。しかし、日本では、この問題を論議することなく国家論があれこれ言われているような印象を受ける。
 例えば、国家をめぐる論点の一つとして、「国民国家か民族国家か」ということが言われている。朝日新聞(6月8日)に載った樋口陽一氏と山室信一氏の「国家とは何か」という対談でも、「今起きているのは、国民国家と民族国家という二つの国家観のせめぎあいだろう」と言っている。
 この対談で行われている考え方には傾聴に値するものも多く、今後、深く研究していかなければならないと思っている。しかし、日本が米国の属国と化し、その主権を踏みにじられる一方、その軍事戦略に従ってアジアを敵視しその手先傭兵国家となりつつあるという二重の意味での主権の否定が進む現実を問題にしないのでは、正しい国家論議はできないのではないだろうか。
 両氏は、この対談で、民族国家論は、「排除の論理が働く」としながら、民族国家ではなく、国民国家を提唱する。しかし、国民国家は、その原理を新自由主義の元祖である自由主義(自立した個人の契約)においている。絶対王朝に反対して登場した市民階級が登場した当時は、進歩的だったとしても、現代にそれが合うのか疑問である。逆に、人間の長い歴史の中で人々の集団が国家の成立に伴い民族として形成されてきた歴史を見れば、頭から民族国家を否定するのは、どうだろうか。
 両氏とも国民国家も民族国家も共同体と見ている。しかし、その共同的な関係が、前者が諸個人の契約であるのに対して、後者は運命共同体と見る所に違いがあるように思える。そして、運命共同体と考える場合、共同体の運命決定権としての主権の重要性が浮かび上がる。
 愛国心の問題で、小熊英二氏が「日本のナショナリズムには核がない」とか、樋口氏が「コアがない」というのも、そこで最も本質的なことは、この主権問題だと思う。
 いずれにしても今、国家論議は、日本の反動化に抗するに有利な状況を切り開くと思う。
 今、財界や政界では新たな国民統合を模索しているという。しかし、グローバリズム・新自由主義・新保守主義を受け入れつつ、国民統合など、論理矛盾もはなはだしい。それは、個の自立を言いながらファッショ的に押さえつけ、日本を米国の属国にしながら愛国を言い破滅と戦争に誘うような、矛盾に満ちたものにしかならない。
 だからこそ、国民の側が国家論議を行っていくべきである。今後、「国家論」の研究を深めていく上で、批判を含めた意見の交流を期待したい。


 
論評

ヒズボラの勝利の要因

赤木志郎


 周知のように、イスラエル兵士拘束に端を発したイスラエルのレバノン侵攻は、ヒズボラ(シーア派民兵軍事組織)の抵抗と国際社会の強い非難を受けて、国連部隊の派遣とひきかえによる撤退となった。イスラエルの当初の目的は、レバノン南部地域を支配しイスラエルと敵対するヒズボラを壊滅させることであった。アメリカも支援し兵器を緊急輸送しただけでなく、主権侵害と無差別爆撃にたいする国際社会の非難にたいしイスラエルを全面的に擁護してきた。
 しかし、ヒズボラはイスラエル侵略軍と果敢に戦い、ヒズボラへの支持はキリスト教右派をふくむ全レバノンにひろがり、反イスラエルの世論が高揚した。世界的にもイスラエルを非難する国際世論と抗議行動が大きく繰り広げられた。イスラエルとアメリカは自らできなかったヒズボラの武装解除を国連軍に託したとしても、国連軍は停戦監視などが基本的な役割であり、レバノンの住民と一体となったヒズボラを武装解除することは到底できない。結局、イスラエル軍の侵攻は、ヒズボラを壊滅させるどころか、ヒズボラのいっそうの政治的軍事的強化をもたらしその勝利に終わるようになったのである。
 なぜヒズボラは勝利したのか。アメリカやイスラエルは、ヒズボラをイランの支援を受ける「テロ組織」とし、レバノン侵攻を正当化してきた。
 しかし、アメリカやイスラエルの誤算は、ヒズボラが強い軍事力をもっていることであった。ヒズボラは同じシーア派のイランからの支援を受けるテロ組織ではなく、住民から強い支持を受け、住民と一体にゲリラ戦争を展開することのできる強力な政治軍事組織であったのである。イスラエル軍は強い抵抗を受けただけでなく、イスラエル領土に200発以上のロケット弾攻撃を受け深い傷を負った。
 イスラエルはこの間、パレスチナの合法的な政府であるハマス政権を認めず、ガザ住民を殺戮しハマス自治政府を瓦解させようとしてきた。このイスラエルの無道な殺戮に抗して反イスラエルの戦いの前面に立ったのがこのヒズボラであった。そして、ヒズボラがイスラエルの侵攻軍と戦うだけでなくイスラエル領土にロケット弾で攻撃する軍事力をもっていることは、イスラエルとアメリカの中東支配に大きな打撃を与えることになった。
 自主的な国やアメリカに従わない国を圧倒的な軍事力で侵攻し支配していこうとするのがアメリカの世界支配の戦略となっている。アフガニスタン、イラクがその例である。アメリカとその追随国が、自主的な国、組織を破廉恥にも「テロ国家・テロ組織」という烙印をおし軍事力で壊滅しようとしているとき、侵略者にたいし幾倍の懲罰を与えうる強力な軍事力をもってこそ、主権を守り平和と安全を実現していくことができる。
 ヒスボラの勝利の要因は、まさに強力な軍事力をもって主権を擁護しようとしたことにある。
 このことは、主権の擁護が生きる道であり、軍事力なしには大国のなすがままにならざるえず、軍事力をもってこそ国の主権と安全を守り、独立国家として生きていくことができるのが今日の現実であることを示している。


 
ヘルパーのつぶやき(No.5)

歳をとっても人間らしい老後を

A・M


 誰でも歳はとっていく。今はまだ若いから深く考えられないけれど、いずれ誰かの世話になることは確かだろう。でも誰かの世話になっても最小限、自分のことは自分でしたいと思う。トイレにもひとりで行き、食べるのも自分の手ではしを持って食べたいと思う。
 仕事を終え、ふと思う。老いたとき、ちゃんと歩けるか、人の言うことが理解できるか、家族の顔を忘れたりしないか・・・。自分が認知症にならないとは限らない。難病にならないとは限らない。それは歳をとらなくとも・・・。そしてどんな状態になったとしても尊厳ある人間として扱われるのか・・・。
 一年ほど前に開かれたある介護講習会で介護について本質的なことを学び、感銘を受けたことがいつも心の片隅にある。それは「新しい介護の考え方」という講義だった。介護とは、「人間らしい生活を支えるために援助していくこと」という。それは歳をとっても、障害があっても人間らしい、その人らしい生活ができること、「生きててよかった」「いい人生だった」と思ってもらいたい。そのために何ができるか?ということ。
 介護者の役割をはたしていくためには、その考え方を前提に、まず人間を知っていくことが大切だということだ。生理学に基づいた知識と技術をしっかり身につけ、総合的な人間にたいする理解を深めること、人間(その人)をかけがえのない存在としながら、信頼関係を築いていくことの重要さ。
 言葉では難しそうだが、たとえば、オムツをはいてみる。近頃のはとても機能的でさらっとして肌触りが良い。ためしに排泄してみようと思う。だが、したいのに出ない。出さなければと思うのに出ない。やっぱりトイレですわってしたいと思う(ちなみに尿意、便意は認知症になっても感じるそうだ)。なんとかオムツで排尿してみる。さらっとしているから、何時間かだいじょうぶ。でも重たい、気持ち悪い。できたらトイレで、自分ですわって排泄したい。これが人間。だからトイレにすわれるように介護したい。
 「人間らしさ」から出発した介護はまた、あくまで主体を本人として、なんでもない日常生活での人間の動きに応じた介護方法を創意工夫していっている。
 介護に携わる人々の良心と熱意にはほんとうに頭が下がる。私も介護者として先輩たちのなみなみならぬ努力に敬意をもって、介護者の役割をけっして忘れてはならないと思う。


 
サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(3)

"占い"を愉しむ

N・A


 「あのー、ちょっと! なかなか珍しい福相です。よろしければ、もっと詳しく占って差し上げます。きっと運が開けますよ。いかがですか?」 駅頭で、上品そうな占いのおばさんが声をかけてきた。 私:「まあ、そのように誉めていただいてありがとうございます!」 占い師:「さきほどからお見受けしてとても良いお顔なので声をかけました。是非、拝見させてください。」 私:「そうですか、そんなに言うなら、ここで簡単に開運のポイントを教えてください」 占い師:「いえ、今、資料を持ち合わせていませんので、近くですからちょっとだけお越し下さい」 私:「じゃあ、時間もないので結構です。占いも何かと宗教がらみのものが多いと聞いていますから・・・」 占い師:(一瞬、表情が変わる)「え、そのようなこと、体験したことあるのですか?」 私:「いやー、よく言われていますから・・・」 占い師:「では、せめてこのチラシだけでもご覧になってください」 私:「もらってもどうせゴミ箱行きですから、ほかの方に上げてください」・・・ 半年前の話だ。聞けば、知り合いもこの手の「誉め勧誘」を何回か受けているそうだ。
 日本で生活して驚くのは「占い」の多さだ。テレビでも雑誌でも街頭でも。そしてまた、どの会社に行っても縁起をかついで神棚が据えられている。面接で訪れた、ある金融関係の会社では、役員が神主さんで社内の一室そのものが神社だった。なんだか妙な雰囲気なので辞退したが、顧客の「金運を開く」というのがウリなのか。
 インチキだ、詐欺だといわれながらも細木数子や「新宿の母」・・・あまたの占いが盛んなのはそれだけ人生で悩み迷う人や金儲けに惑う経営者が多いということなのだろう。実際、成功したといわれる人々の話を聞くと「努力」もあるが、「運」も大きい。
 かくいう私もその後、就職の選択で悩み、デパート特設の占いコーナーで観てもらった。10分1000円。30分3000円の占い。生年月日とトランプでの占いだったが、これがなかなか当たっていた。今から思えばすでに私の中には答えが出ていたようだ。それを占い師は私の表情や対応の仕方から性格を推察しつつ内心の要求を引き出したように思う。結局、占いで肩を「ポン」と前に押してもらった感じだ。
 自分の運命はあくまでも自分の力で切り開くものだ。結婚や就職、引越しといった人生の岐路で決断を迫られるとき、人は身近な人の知恵や科学的な情報を参考に自力で決断を下していく。だが相談者もいず、情報検証の時間も金もない時、第3者としての「占い」に頼るようになるということを、今回、自身の体験を通じてよ〜く分かることができた。


 
寄稿

靖国神社とアジアの歴史教育

M・M


靖国問題に最も欠けているものは何か。それはアジア侵略への具体的な視点ではなかろうか。

@ 日中15年戦争について
 日本軍によるアジア侵略戦争の中で最も被害の大きな国中国ではどの様な行為がなされたか。日清戦争の勝利により「満蒙」の権益維持拡大のため強硬な対中国対策を展開した。1928年の張作霖爆殺事件。1931年には謀略、柳条湖事件を口実に満州に対する軍事侵略が開始された。
 満州侵略を開始した関東軍は愛新覚羅博儀をかつぎだしカイライ国家の建設を行う。
 1937年盧溝橋で日中両軍の衝突から全面戦争となる。南京では軍上層部指示と黙認のもとくりひろげた一大蛮行事件(南京大虐殺)である。
 1938年には首都重慶が大規模な無差別爆撃を受ける。対ゲリラ戦の強化のため抗日軍に対して「三光作戦」@焼きつくす、A奪いつくすB殺しつくすを実施した。中国をアヘン禍におちいらせてその抗戦力を低下させた。
 慰安所設置については軍中央が直接関与して慰安婦は日本人の他、中国人、朝鮮人など10万人以上。彼女たちは沖縄、中国、東南アジア、南海群島に送りこまれた。中国側が日中戦争50周年で死者2000万人以上、損失約1000億ドルと発表している。

A 日帝36年について
 皇民化政策によって各学校に神社参拝を強制し、「内鮮一体」のスローガンや創氏改名の強制、朝鮮語使用が禁止された。内地に強制連行された人は約15万人以上であり、彼らの中には日本人上官の命令で捕虜を酷使したため戦後戦犯として死刑になった人も多い。
 女性の戦時動員で「女子延身隊」を結成し内地の軍需工場で働かされたり、12〜16才の少女が朝鮮から名古屋の三菱重工業工場等に動員された。
 「労務協会」の役人、警察が有無を言わせず連行したり日本軍と業者が「軍隊で掃除、洗濯をすれば高い給料を払う」などとだまし従軍慰安婦にした。慰安婦にされた女性の数は10万人以上と推定される。
 以上、2国の被害の歴史を考えると、日本の戦争責任者(A級戦犯)を合祀している靖国神社に日本の最高権力者が参拝することは絶対認められないと思われる。
 最後に日本は戦後民主国家として発展した社会となったが、社会科教科書では国内での被害(原爆投下)(東京大空襲)(沖縄戦)の記述はあるがアジア侵略(南京大虐殺)(朝鮮人強制連行)(従軍慰安婦)(731生体実験部隊)(創氏改名)等に関した記述はない。
 アジア各国が日本軍による侵略で何千万人もの尊い命を奪われた真実を知っている現状とは逆に、日本は中国、韓国で行った事に目をつむり何でも反日教育として国民を騙す動きが見られる。同時期にヨーロッパを侵略し敗北したナチスドイツは旧敵国と共同で正しい歴史の教科書を作成し子供から成人まで平和教育を実施している。見習うべきと思う。


 
朝鮮あれこれ

朝鮮映画のヌーヴェルヴァーグ!?

若林盛亮


 朝鮮映画の新作、「ある女学生の日記」が話題を呼んでいる。上映前から人だかりの盛況というのは珍しい。中学のクラスで八割が観たという話も聞く。ストーリーのよさに加え、古い枠、マンネリを破った映画手法が人気の秘密だ。
 まず主人公が進路に悩む中学生、日本で言えば女高生だ。科学者を夢見るが、いざ卒業を控え理科系大学に進学するかどうか決めかねている。
 迷いの原因はずばり父親−彼女の父は機械工場の開発研究技術者。友達の父親は、すでに博士で国家的行事参加を示す記念写真が家には数多く飾られている。自分の父は科学者世界で「無名」だ。
 そのうえ彼女の家庭は母子家庭同然、母と祖母、妹の女所帯。研究一筋の父親は、職場が遠く家にいたためしがない。父は家庭でも「無名」だ。
 朝鮮では遠足などで弁当を分け合う。先生にオカズをあげようとして友人のが見える。粗末な自分の弁当、その場を避けて独りで食べる主人公。
 そして母の入院。医者に要手術の初期ガンと知らされ、夫に電話をする母。少しのためらいの後、病状を隠し「たいしたことはない」ととりつくろう。それを言葉通り受けとり即研究に頭を切り替えるであろう「そうかよかったな」の夫の声。そんな夫を理解はしても、こらえきれず電話口に崩れ落ちる母。父の「無神経」に憤激はついに爆発、遠路を押して父を呼びにいく主人公。
 自分を責める娘、自分のために進路を迷う娘にわびつつ自分を語る父。「無名」の父が俄然、カッコよくなるシーンだ。…科学探求の道で易しい成功はないだろう。自分の代でできず次の代でやっと成功する、そんなこともある。いっぱしの論文で博士になるよりも、朝鮮の産業が切実に解決を求め実際に役立つ研究に一生を捧げる科学者を目指すから私は生産現場を離れられないんだ…と科学者の信念を語る父。科学図書を送り続ける母はこの父の心の最大の理解者、父の最愛の同行者だった。「無名」の父は科学者として、家庭人として、娘にはとてつもなく大きな人だったのだ。
 主人公は初志の通り理科大学に進学、父の開発チームの研究は成功のラスト−いわゆる「教育映画」的パターン。だがこの映画、一味違うのだ。
 「うちの父さん、もしかして頭悪いんじゃないの?」という末娘のセリフ−「無名」の父への娘のもどかしさを爆笑呼ぶ一言で表現。深夜、久方ぶりに帰宅の父に気づき甘える娘たちを「そろそろお父さんをお母さんに上げなきゃね」と寝かしつける祖母の心遣い−どんなラブシーンより濃密な愛の空間描写。誰もが経験する生活、みながうちにもあるよなと思わせる自然さ。ちなみに女子サッカー志望の末娘役はプロチーム若手選手起用の凝りよう。いかにもの教育臭さやお芝居調を排し、流れる生活感で迫る人生哲学。二人の息子の父である私も身につまされた。朝鮮映画のヌーヴェルヴァーグ(新しい波)!?かも。


 
 

編集後記

小川 淳


 今年の靖国には25万人が参拝し、若者の姿が目立ったという。
 「日本ナショナリズムのコアにあるもの」(「世界」8月号)によれば、中国や朝鮮は抗日闘争の歴史というコアがあるが、いまの日本ナショナリズムはコアがない。だからつねに内と外に「敵」を作ることによってしか成立しない。外の「敵」が北朝鮮、韓国、中国であり、内の「敵」が官僚や公務員となっていると分析している。
 しかし、中韓へ反発する若者、靖国に行く若者だけが日本のナショナリズムなのか。靖国に反対するのも、アジアとの友好を求めるのも、一つの日本ナショナリズムだろう。
 9条改憲には多くの国民が反対している。戦後日本の出発点としての憲法9条は、日本ナショナリズムのコアだったと言えないか。
 今後の重要な論点の一つにナショナリズム論が浮上していることは間違いない。


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