研究誌 「アジア新時代と日本」

第37号 2006/7/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 ─存在感を増す上海協力機構─ 「米一極支配」終焉の始まりか

研究 上村上ファンドとは何だったのか

論評 自殺者が急増する自衛隊 「正義なきイラク派兵」の象徴か

職場から ヘルパーのつぶやき(No.4) ヘルパー受難の季節

サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(2) 飽和状態

サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(2) 消える日本の風景

朝鮮あれこれ 

編集後記



 
 

時代の眼


 「独り善がり」ならぬ「二人善がり」。今回の小泉訪米でのブッシュさんと小泉さん、御両人のパーフォーマンスは、この言葉を彷彿とさせた。
 訪米中、幾度となく強調された「世界の中の日米同盟」は、その象徴だと言って良いだろう。単に二国間だけではなく、世界に影響を及ぼし、世界に責任を持ち、世界に貢献する日米同盟。だが、彼らのこの「思い」とは裏腹に現実ははかばかしくない。
 「世界の中の日米同盟」として行ったイラク戦争はどうなったか。反テロがテロを呼ぶ泥沼化の中で、結果は、米国内でのブッシュ政権支持率、および世界の対米好感度の大暴落、そして何より米軍撤退を要求する米国内外でのデモンストレーションの高揚として現れている。政権支持率30%台への低落、各国の対米好感度20%前後もの低下は簡単な数字ではない。
 現実は日本においても深刻だ。小泉首相は、先般、陸自のサマーワからの撤収を表明しながら、イラク戦争の現状への一片の憂慮も反省もないままに、(自衛隊が)一定の役割を果たしたと胸を張った。だが、当の自衛隊員たち自身、この評価をどう受けとめただろうか。自衛隊員同士、イラク派遣について話題にしたがらない現実、その夫を送り出した妻たちの多くが「子どもたちに何と説明していいのか」と悩み続けて来たという事実、そして、イラク派遣自衛隊員の自殺率が自衛隊の中でも異常に高いという現実、等々はその答えを推し量らせてくれる。
 ブッシュ、小泉御両人がある種の使命感までにじませながら繰り返す「世界の中の日米同盟」は、その実、「アメリカの世界一極軍事支配を支えるための日米同盟」に他ならない。世界は、その本質を知っている。それが故の冷淡さなのだ。「二人善がり」の甘い夢から覚めること、それこそが今の日本に問われていることではないだろうか。


 
主張 ─存在感を増す上海協力機構─

「米一極支配」終焉の始まりか

編集部


 6月15日、中国とロシア、中央アジア4カ国が加盟する上海協力機構(SOC)の首脳会談が上海で開催された。加盟国首脳は、政治、経済、安全保障分野などで関係強化や国際問題の解決に向けた協力拡大を確認した。とりわけ核問題で欧米と対決するイランのアハマディネジャド大統領がオブザーバーで参加したことで、上海協力機構の政治的姿勢はかなり鮮明化したといえるのではなかろうか。

■上海協力機構の高い潜在力
 SOCはこれまでテロ対策など安全保障分野を中心に域内協力を深めてきたが、創立5周年を迎える今回の首脳会談は、中国主導で域内の経済協力を加速することが主要議題の一つになった。首脳会談に先立って企業経営者が経済交流の拡大を話しあう「経済委員会」も発足し、タジキスタンとウズベキスタンを結ぶ道路建設等、中央アジアでの幾つかの共同事業にも調印した。長期的には貿易や技術協力などを通じて域内経済の統合を進め、特に中国は、「10年から15年で域内の貨物、資本、技術、サービスの自由な移動を実現する」ことを提唱している。
 正規加盟6カ国から構成されるSOCは、面積がユーラシア大陸の5分の3を占め、準加盟国4カ国(インド、モンゴル、パキスタン、イラン)を合わせると、世界人口のほぼ半数を占める。しかも経済成長が著しいブリクス(BRICs)4カ国の内、中国、ロシア、インドの3ヶ国を擁している。3カ国はいずれも核保有国であり、ここ数年、国防力強化に力を注ぎつつ、軍事面での協力関係も強化してきている。
 SOCの歴史は、江沢民政権が中国と国境を接する4カ国に呼びかけて始まったもので、1996年に「国境地域における軍事的信頼強化協定」に調印。以降、5カ国による協議が定例化した。その後、ウズベキスタンが2001年に加盟したのを機に「上海機構」が正式に発足。同時に加盟国域内の安全保障問題に協同で対処することが確認された。
 02年には組織の規約に当る「SOC憲章」を策定、04年には事務局を北京に、地域対テロ機構をタシケントに設置するなど制度化が進んだ。昨年にはイラン、インド、パキスタンの準加盟国入りが決定。国際機関としての存在感も急速に高まっている。
 昨年の経済成長率を見ても、中国9,5%を筆頭に、ロシア7、1%、インド7、1%と、2%台の日本とは比べようがないほどの勢いがある。しかも市場潜在力で言えば圧倒的だ。人口で世界一位、二位の中国とインド、7位のロシアと、SOCだけで世界人口の半分を占める。BRICsの名付け親ゴールドマン・サックスの予測では、現在の国内総生産(GDP)のトップ5は、米、日、独、英、仏の5カ国だが、2025年にはこのトップ5に、中国とインドが加わり、2045年にはBRICsのGDP総額は、先進国7カ国(G7)を上回ると予測しているほどだ。

■中国とロシアの「エネルギー同盟」
 石油や天然ガスなど資源が非常に豊富なこともSOCの強みの一つだ。石油の価格は1バレル70ドルを突破、他の鉱物資源の高騰もあって、世界は静かなエネルギー戦争の様相を示しつつある。
 ロシアは、石油では確認埋蔵量でも産油量でもサウジアラビアに肩を並べる世界最大のエネルギー大国となり、天然ガスの生産量では年間6千億立方メートルと世界第一位を占めている。天然ガスが徐々に石油に取って代る流れのなかで、世界の天然ガス埋蔵量の3分の1を保有するロシア。しかもロシアの広大な国土は欧州、米国、中国、極東と、四つの地域のどれとも隣接している地理的な優位性もある。
 戦略的パートナーシップ宣言から10年になる中ロは、エネルギー資源分野での相互補完を深めてきた。世界第二位の石油輸入国となった中国は、エネルギー資源の安定的輸入を求めており、現在の中東依存から将来はロシアや中央アジアへと輸入先をシフトしたいとしている。一方のロシアも輸出先の多様化に加えて、後れているこの地域の開発に中国の協力を得ることができる。エネルギー分野は、両国の協力関係の中でもっとも成功している分野の一つだ。06年3月の首脳会談で、両国はシベリアのタイシェットから中国東北部の大慶まで石油パイプラインの建設、また二つの天然ガスパイプライン建設でも合意している。ソ連時代、西シベリアの天然ガスを西欧諸国に送るパイプラインが通じることでソ連と西欧のデタントが進展したように、これらユーラシア・パイプラインの施設は、ユーラシア各国の相互依存関係をより緊密なものに変えていく可能性がある。

■「上海精神」で米「一極支配」に対抗
 今回の会議で最も注目されたことは、SOCが米国の一極支配に対抗する姿勢をより鮮明にしたことではなかろうか。
 昨年8月には、ロシアと中国がSOCの枠内において史上初めての対テロ軍事合同演習を中国の山東半島で1週間にわたって実施した。
 そして今回の「共同宣言」には、「ダブルスタンダードを認めず、相互理解を基礎に解決すべきだ」「加盟国の主権や領土の一体性を脅かすような形(米軍の基地使用の意)での領土を使用することは許されない」など、米一極支配を暗に批判する文言が随所に盛りこまれた。
 また「共同宣言」は、SOCのめざす価値観として、米国式の「民主主義」や「市場万能経済」とは異なる「上海精神」を掲げている。そこでは、「相互信頼や相互の利益、相互尊重」を合言葉に利益を分ちあう「ウィンウィン」関係をめざすと強調し、「政治、社会体制や価値観の違いが内政に干渉する口実とされるべきでなく、社会発展のモデルは輸出できない」と謳われている。この「上海精神」が、主権の尊重や内政不干渉、武力の不行使を謳ったTAC(東南アジア友好協力機構)を念頭においていることは間違いない。TACの理念から出発する東アジア共同体と、この上海協力機構は、めざす共同体の理念において共通しているといえそうだ。

■米「一極支配」との闘争時代
 冷戦が終結して、世界では相次いで地域協力機構を作る機運が高まっている。90年代に市場と通貨統合を果したEUを筆頭に、東アジア共同体やアフリカ連合、アンデス同盟などの動きがここにきて加速している。そして世界で最も不安定で、政治的に最も複雑と思われてきた巨大なユーラシア大陸で、しかもアメリカがもっとも重視する「不安定の弧」の中心部で上海協力機構が米一極支配に反旗を翻したこのインパクトは計り知れないものがある。
 はっきりしてきたことは、欧米中心の時代、あるいは冷戦時代のように、一つや二つの超大国が世界を分割したり、支配する「帝国主義の時代」はもうとっくに過ぎたという事実ではなかろうか。
 ところがソ連崩壊を機に唯一の超大国となったアメリカは、「反テロ戦争」と「先制攻撃戦略」を掲げ、世界の「米一極支配」をめざしてきた。米国を盟主にした「有志連合」によるアフガンやイラクへの侵攻は、その象徴と言えた。
 しかしいまや、それぞれの地域が共通の利害を基礎に、独自の経済圏や共同体を形成し、大国に依存することなくまた超大国の支配を許さない強固な基盤を持つようになった。これは冷戦が終焉した以降の最大の変化だ。
 世界の主要国・先進国の中で、地域共同体に加盟していない国は、むしろ日本や米国など圧倒的に少数派となった。言い換えるなら、世界の主要国は、EUの独仏や、SOCに依拠する中露、アンデス同盟をめざす南米諸国のように、ほとんどの国が自己の拠って立つ共同体を持つか、持とうとしているということだ。  戦後の冷戦時代、対米同盟という選択は、二者択一しかなかった日本にとって、仕方がなかった面があったのかもしれない。しかし今の時代に、対米同盟一辺倒を取り続けなければならない理由はない。
 アメリカとの「良好な関係」はできるだけ維持しつつ、そのうえでアジアの一員としての日本が自らの拠って立つべき共同体は東アジア以外にありえない。東アジアの域内貿易依存度はNAFTAをしのぎEUに近い。日本のもっとも合理的な選択は、多くの識者が指摘するように、東アジア共同体への積極的な参与であるだろう。
 アメリカだけに翼を広げただけの片翼の日本から、ユーラシア大陸へ東西に大きく両翼を広げた日本へ、今ほど日本が生まれ変る好機はないのではなかろうか。


 
研究

上村上ファンドとは何だったのか

魚本公博


■新自由主義の「法とルール」
 6月5日、村上ファンドを率い、「株主価値」を唱え、「もの言う株主」として鳴らした村上世彰氏が逮捕された。ニッポン放送株の共同買い付けをライブドアに働きかけて株価が上がるや自身の所有株を売り逃げて30億円の利益を得たことがインサイダー取引にあたるという容疑である。その前にはLD(ライブドア)の堀江氏が粉飾決算容疑で逮捕された事件も起きた。
 一連の事件を受けて、言われているのは、「法とルール」の確立である。
 元々、利己主義競争を奨励する市場原理主義(新自由主義)では、何でもありであり、法の隙間をつき、他人をだまし、扇動し、詐欺師まがいに錬金術を駆使する手法が横行するのは必然である。
 新自由主義的見方からすれば、どこまでが不法であるか決めるのは難しい。したがって、「法とルール」といっても、LDのニッポン放送株取得で問題にされた時間外取引を規制するとか、ファンドが株式を大量取得する場合の報告猶予期限を短くするとか、インサイダー取引や株価操作の罰則を強化するくらいしかならないのではないか。
 規制に反対し無制限の自由を主張しながら、自由にも規律が必要だという本質的な矛盾の上に成り立つ新自由主義の「法とルール」にいかほどの説得力、効力があるだろうか。

■米系ファンドの本格進出
 今後、「事業経営や事業再生の実力が劣るファンドは淘汰される」と予想されている。
 これまで日本では、不良債権企業を安く買い叩き、高く売って暴利をあげる「買収ファンド」や村上ファンドのように、「もの言う株主」として経営に口を出し株価上昇や配当増を狙うといった「アクティブファンド」が幅をきかせてきた。彼らの多くは、儲け第一で経営の改善など二の次という「ハゲタカファンド」と言われるものだった。
 こうした手法は、不況で企業経営が思わしくない時こそ旨味を発揮する。しかし、不況を脱しつつある日本では、その旨味は減少する。そこで、今後、経営ノウハウやそのための人材を有し、堅実に企業経営にもタッチできるファンドが生き残るというわけである。
 そうなれば、米系ファンドである。世界最強の米国KKRもこの4月に日本に事務所を開設した。その投資総額たるや1620億ドルである。2位のカーライルの運用総額は390億ドル。長期信用銀行を10億円で買い叩くなどして悪名を馳せたリップルウッドは持ち株会社化して名前をRHインターナショナルと変え、堅実な「買収」体制を整えたという。
 ちなみに、この買収劇で風当たりの強さを感じた米系ファンドは、日本人をマネージャーにする戦術をとるようになったという。運用資金の6割が米系とされる村上ファンドもその一つなのだろう。しかし、今回の事件で日本人ファンドがイメージを悪くしたことでそうした迂回路は不要になったろう。そして来年は、米本社の時価総額を買収に利用できる三角合併が解禁になる。これによって、米本社−日本支社−日本企業によるM&Aが全面化することになるだろう。

■米国のための「法とルール」
 村上ファンド事件を報じた、米英系メディアは、「(村上氏は)根を下ろしかけていた自由な資本主義のシンボルだった」としながら、「より公正な市場の時代の幕開け」に期待を表明している。
 堺屋太一氏も、「(村上氏は)日本的資本主義をただす意味でとても大きな機能を果たした」としながら、日本的なものとして「官僚主義、業界協調体制、終身雇用や含み資産頼りの経営、個人よりも集団」などを上げている。
 堺屋氏言うところの日本的資本主義を標的にして「構造改革」を要求してきたのは米国である。それは、小泉改革によって相当進展した。その中で日本式と米国式の食い違いが随所に現れている。
 例えば、村上ファンド事件を契機に論議されている問題の一つに「株主主権」がある。この「会社は株主のもの」という米国式の考え方に対して日本では「会社は従業員のもの」とか「会社は社会公器」という考え方が根強い。米国式、日本式、その優劣をにわかに判定するのは簡単ではない。
 もちろん、日本的資本主義は悪い。しかし、それをもって、米国式がすべてよいとして、企業の社会性まで否定するのはどうだろうか。そういう考え方が、儲けのためには何をやってもよいという風潮を強め、社会を二極化させ、国民の大多数を貧困化させているのではないだろうか。
 しかし、米国式の考え方でなければ、米系金融やファンドには都合が悪い。彼らにとってみれば、米国式の考え方をスタンダードにすること自体が彼らの望む「法とルール」であり、「公正な市場」ということになるだろう。
 そのために彼らは、規制撤廃を要求し、会計基準の米国化(時価総額で計算するなど)、株主主体の企業統治、三角合併の解禁などを要求してきた。今後も、彼らは自身が有利に活動できるようにさまざまなアメリカンスタンダードの「法とルール」を押し付けてくるだろう。

■対米融合の果てに
 産業を空洞化させた米国経済は、久しい以前から金融を操作して利益をあげる「カジノ経済」化し、そのための手法が色々と開発された。ファンドもその一つであり、それによるM&Aの横行で米国経済はいっそう疲弊したと言われる。
 米国ファンドの本格的な日本進出で日本経済はかきまわされ疲弊しながら、米国経済にいっそう融合していくだろう。
 そして経済的融合は、日本をしていっそう米国と利害関係を共にする国にする。それは、政治における米国一辺倒、軍事におけるアジア敵視の手先傭兵化を進めていく。村上ファンド事件を巡って、考察し研究すべき点は多い。


 
論評 自殺者が急増する自衛隊

「正義なきイラク派兵」の象徴か

小川 淳


 2005年度の日本の自殺者は3万2552人。8年連続で3万人を超えた。人口10万人当りの自殺率は25、2人(04年度)。日本の自殺者が世界で突出していることはよく知られているが、その中で自衛隊員の自殺率が異常な高さを示していることはあまり知られていないようだ。今年度だけでもすでに101人の自衛官が自殺しており、最高を更新した。イラクから帰国して自殺した隊員も5人(陸自4人、空自1人)を数えるという。
 イラクに派遣され帰国した隊員は約6000人。帰還自衛官5名の自殺を人口10万人あたりの自殺率に換算すると85人となり、日本全体の自殺率25人と比較しても、3倍以上の高率だという(「SENKI」3月25日号)。
 自殺した自衛官の一人は元中隊長で、イラクでは百数十名の警備部隊を指揮し、一昨年に帰国。昨年参加した日米共同訓練の最中に「彼ら(米軍)と一緒にいると殺されてしまう」と騒ぎ出したことがあったという。死と隣り合せの日常がイラクの自衛官に極度のストレスを与えているのではないか、「SENKI」はこう分析している。
 自衛隊より深刻なのは米軍志願兵で、イラク戦争開始以来、17万人の米兵帰還兵のおよそ15%から17%が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)やうつ病に苦しんでいるという。米国で進学も就職もしない若者の一つの選択肢は、命の危険のあるイラクに志願することだという。給料以外に2万ドルから5万ドルのボーナスというのも彼らの垂涎の的だ。
 自衛隊と米軍志願兵に蔓延する精神の病。進学も就職もしない選択肢の一つでしかない米兵にとって、自爆テロの頻発するイラクの現実はあまりにも厳しすぎたのでのはなかろうか。ブッシュのため、「日米同盟」への証(あかし)のために派遣された自衛隊にとって、「敵」を殺すことも、殺されることも許されない状況は米軍以上に過酷だったかもしれない。
 死と隣り合せの戦場にストレスがあるのはあたり前の話であって、そのストレスに耐えるかどうかは、そのことによって得る金銭の多寡よりも、やはり戦争の正義性や使命感の強さに帰結する。単純化すれば、その戦いが人々にどれだけ支持されているかだ。イラクの人々が米兵や自衛隊にどれだけの感謝を捧げたのかである。
 正義の闘いであれば、人々は支持し感謝する。感謝されれば進んで命を賭けて闘う、それが本来の軍隊だろう。米軍の志願兵が病み、イラク派遣自衛隊員が自殺する。そこにイラク戦争の不正義性が象徴されていないだろうか。反テロ戦争時代の「軍隊と戦争の変質」にこそ、問題の本質があるのではないかと思う。


 
職場から ヘルパーのつぶやき(No.4)

ヘルパー受難の季節

ヒツジ


 「我がなき後に洪水よ来たれ」、確かこんな本が昔あったような気がする。9月に総裁を辞める小泉純一郎氏に送りたい言葉だ。「『痛み』で始まり『いじめ』で終わる小泉改革」と老年者控除全廃で大打撃を受けている老齢者の現状を表わした標語も紙面に踊っている。今日本中で老人たちの憤りと不安が噴出している。
 事態は介護の現場においても同じである。介護保険料の値上げ、介護報酬金の単価の切り下げ、自立支援法による障害者へのしめつけは、結局、現場で働くヘルパーにもしわ寄せとなって押し寄せてくる。前回、私の働く知的障害者グループホームでの、賃金の一律2%カットやヘルパー数の削減などの実態について報告させて頂いたが、今度は何とヘルパーの食事の中止が言い渡された。
 これまでは、夕方4時から9時まで介護に入るヘルパーさんたちも夕食を利用者さんたちと一緒にしながら食事介護を行っていたのだが、原則ヘルパーは食事なしで、働くということになったのだ。弁当持参もご法度。食事介護に専念してもらうか、別な仕事をやってくれということのようだ。もちろん介護訪問で利用者さんのお宅を訪問するような時は、そこでの飲食は禁止されている。しかし、この場合時間が1時間と2時間である。それくらいはお腹がすいてもがまんできるというものだ。
 しかし、グループホームの場合、4時から9時と拘束時間が長く、何人もの利用者さんを風呂に入れたり、外出に付き添ったりと結構な肉体労働である。まして家が遠い場合、仕事を終え食事にありつくのが夜の10時になるなんてことにもなる。ある男性のヘルパーさんは2リットル入りの水を持参して、それで空腹をしのいで働くようになった。あの皆が集う夕食の一時がスタッフとヘルパー、利用者とヘルパーの貴重なコミュニケーションの時間でもあったのに。このようにしてどれだけ効果が期待できるのだろうか。もしかして得るものより失うもののほうが大きかったということに後になって気付きはしないだろうか。
 事業所でも、やりくりに四苦八苦しているのは良く分かる。ヘルパーたちの理解を得るために平身低頭である。が、事業所で掲げる「尊厳ある介護」という言葉が空しく響くのをどうすることもできない。しかし、本当に頭を下げなければならない者は事業所でもなんでもない。こうした下々の姿など眼中にもなく、軽々とした足取りで、涼しい顔で舞台から去っていくであろう小泉首相こそ、その張本人である。


 
サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(2)

飽和状態

N・A


 「あー、くっだらねえ。世の中。ばかばかしくてやってられねえよ!」
 客との会話を終えたBが受話器を置くや吐き捨てるように言った。
 ここは某外資系保険代理店、通信販売業務の現場。数百人のテレホンアポインターが全国各地に保険資料送付の電話をかけ、資料請求してくれた客には数日後、サービス担当が営業をかける。Bはチームの中でも断トツの成績を誇るSV(スーパーバイザー)。新卒入社後、数ヶ月でSVとなったやり手だ。その話術は立て板に水の如し、初回の営業で契約を成立させることも珍しくない。その彼がここしばらく元気が無い。
 昨年来喧伝されている「保険料自己負担」問題で、人々の不安が大きくなり一時期は資料請求が急増した。しかし、それも今年に入って頭打ちになり、請求が減っている。当然、これは契約件数に影響しマネージャーからはチーム目標を達成しろと毎日、毎時刻突き上げられる。マネージャー自身、上司に活を入れられているのだ。成績第一で簡単に昇給もすれば降格もするシステムでは職場倫理も危うい。社内では成績のために顧客をコンピューターで「横取り」することも起きる。だが、これを非難するよりも「むしろ、それくらいの意気地があってもイイ」くらいの風潮がある。気を抜くと「横取り」される職場にどうして愛着が湧こうか。ストレスが溜まらないはずがない。退勤後は上司に付き合わされ酒を飲まされ、休日は自分の鬱憤発散のためにめいっぱい仲間と遊ぶ日々。精神と肉体の安息がない。結局、不規則な生活で健康を害したBは時々貧血や頭痛に見舞われている。
 そんなBと昼の休憩時間に時々出会う。
 「資料が送れなくて困ったちゃう!」と鬱屈した思いを伝える私。
 「いいんですよ。あれは確率の世界ですから。たまたま当たった地域が良かったら資料が送れるし契約が取れるんです。気にしなくていいですよ」と慰めてくれるB。  「でもね、送れないと『アウト返しが悪い』とか、『もっと明るく』とか言われる。いつもと全く同じようにやっているのに」と私。
「ほんと、くだらないですよ。大体ね、電話で保険に入る人間の気が知れない。なんで、電話の説明なんかで簡単に保険に入るのか、俺だったら絶対入らないですよ!」・・・
 この会話から半年がたった。自分の思いとは裏腹に電話で保険を勧める会社に入ったことに悩んだB。今年はじめ退社した私はその後、彼がどうしているか知らない。
 毎日8時間、平均600コール・6通の資料を送り、月6件の契約をとっていた私。いわば中堅どこのテレアポが見た保険市場は「飽和状態」といえた。金のある人は「いっぱい入っているから」と断り、金のない人は「生活が苦しくて入れない」と訴えた。そこに見えたのは日々狭まる市場であり、進行する社会の二極化だった。
 日本人の平均保険加入率は約4、3件。その「保険大好き民族」に保険料の安さと手軽さを売り物に従来の日本保険会社を押しのけ蹴散らし入り込んできた外資。この金融緩和政策が日本にとって良かったのか悪かったのか、時が明らかにしてくれるだろう。


 
サバイバル・イン・ジャパン 学びの日々(2)

消える日本の風景

花岡


 出生率、1、25、日本の人口はピークを過ぎてこれから徐々に人口減少社会に向うという。しかし、都市から地方に目を転じると、人口減少社会の事態は深刻なようだ。NHKのクローズアップ・現代、「消え行く日本の風景」を見て衝撃を受けた。
 江戸時代から数百年に渡って存続してきた東北の山村。この日本の原風景ともいうべき東北の茅葺の集落が、いまやどんどんなくなりつつあるというのだ。
 周知のように屋根を茅葺で葺くには多くの労力が必要だ。集落の人たちは結を作り、村人総出で労力を出し合う。お金は一銭もかけなくてすむ。しかし、村の高齢化や過疎化で、働ける人が減り、もはや地域の力で村を維持することは限界に来ている。
 もし茅葺の集落を維持しようとすれば専門の業者に頼むしかなく、数百万の負担が強いられる。だから手間のかかる茅葺より現代風の屋根に変える農家が増えざるを得ない。こうして数百年続いた日本の風景が消えていく。
 日本の農村で脈々と受け継がれてきた茅葺の家や手入れの行き届いた田畑や山林、道路と河川の維持、改修なども、総じて農村自体が、地域の強固な共同体なしには存在できなかったという事実に改めて気づかされる。魂が洗われるような日本の風景も、人々の生活の営みの中から生まれ、受け継がれてきた。
 今、都会に住む人たちが村人を手伝うことで、これらの集落を維持、存続させようという新たな試みも生まれている。人口減少社会にどう向きあっていくのか。経済効率中心の価値観に代る新たな価値観が問われてくるのではなかろうか。


 
朝鮮あれこれ

子供が中心の国

赤木志郎


 市内を散策し街のすみずみまで歩いていくと、いたるところに学校(小学校、高等中学校)や幼稚園、託児所があることに気づく。朝鮮の高等中学校は日本の中学と高校を合わせたようなものだが、それもほんの1キロ離れると、別の高等中学校があるのである。小学校、幼稚園、託児所などはそれ以上にいたるところにある。それだけ、少人数クラス編成であり、居住地と学校が非常に接近しているということを意味している。
 また、大通りに面したところは商店が主であるが、その奥に入ったアパート群の合間はほとんど手作りの子供たちの遊び場である。鉄棒やブランコ、砂場など、近くの住民たちが協力しあって作ったものである。日本のように専門業者が作った公共施設のようにきれいではないが、たえず手をいれたり、作ったりするのでどんどん拡充されていっている。
 それで、学校の授業が終わった夕方の数時間は、いたるところで子供たちがあふれており、そうした遊び場で遊びまくっている。朝鮮でも以前よりは少子化の傾向があるのに、こんなに子供が多いのかと思わせるほど、あふれかえっている。
 どろんこになったり、シーソーに3・4人ずつつかみ合ってギッコンバッコンやっていたり、夢中に遊んでいる小さな子供たちをみていると、ほんとうに遊びが子供たちの世界だなと思うのである。ここで、一人で過ごすとか考えられない。皆と一緒になって遊ぶのが当たり前のことである。
 そして、この遊び場はアパートの傍にあるので、主婦や大人たちが行き来し、自然に見守るようになる。ときおり、子供に声をかけたりする。子供たちが皆で遊んでいるのを大人たちが暖かく見守っているのがよくわかる。
 教育システム、街づくり、大人と子供の関係など、子供を中心にして社会のシステム、生活がある。
 これまで、朝鮮では子供が「国の王」として、教育の完全無料制、学生少年宮殿、少年団野営所、数多くの遊園地など、子供たちを優遇する施策がよくとられていることに目がいっていたが、社会のシステムそのものが子供を中心にした国であり、日常生活が子供を中心に営まれているのである。
 そのなかで育った子供たちは、自分たちを大切にしてくれた国と社会のために働き、大人としての責任を自覚し次の新しい世代をさらに大事に守り育てていくであろう。
 子供を中心にした社会を建設するかどうかが、その国の未来を決定するという意味がこういうことかとつくづく思うのである。


 
 

編集後記

小川 淳


 6月はドイツW杯で盛りあがりましたね。一次リーグ敗退が決ったジーコ・ジャパンには落胆したとはいえ、あれが日本の実力だったのではないでしょうか。パス回しの正確さ、攻撃のスピード、守りの強さ、どれを取っても我彼の技量の差は歴然でした。
 敗因はいくつもあるでしょうが、私が一番感じたのは、ジーコ・ジャパンに日本のサッカー・スタイルが見えてこなかったことです。他の強豪チームを見ていると、どのチームにも独自の完成されたサッカーの型があります。ドイツにはドイツの、ブラジルにはブラジルの型です。アジア勢は全敗でしたが、唯一韓国には独自のスタイルを感じました。
 一人一人の技量をいくら底上げしても、チームとしての完成されたスタイルがなければ、おそらく世界では通用しないのではないでしょうか。
 次のワールド・カップまで4年。オシム監督の下、どれだけ日本のサッカー・スタイルを築けるか、そこに期待したいものです。


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