「ヌチドゥタカラ」(命こそ宝)。今では広く知られるようになったこの言葉が、戦争でたった一人の息子を失い、その百歳になんなんとする生涯を沖縄の反戦闘争に捧げた阿波根昌鴻さんの言葉だということを彼の著作を通じて最近知った。
その阿波根さんが心がけたのが、「相手を責めるのではなく、相手のことを考える闘いを」ということだったという。米兵を前にしては、他人の国に基地を置いて戦争準備をしていると、戦前の日本のように滅んでしまうよ、やめなさいと言ってやり、「日の丸」を掲げた団体に対しては、皆さん方、今歌われた「君が代」のように、天皇の御代を千年も万年もあらしめたいと思われるのでしたら、私たちと一緒に闘いましょうと呼びかけたという。
「責めるのではなく、相手のことを考える」。この考え方の根底には、相手の利益と自分の利益は深いところでつながっている、相手の利益を実現してこそ、また、自分の利益も実現されるという共同体的な真理が隠されていると思う。
すべてを対立的にとらえ、利己と利己のぶつかり合いを奨励する新自由主義の世の中にあって、このものの考え方はいっそう、その重要性を増していると思う。
今日、支配的な思想になっている「自己決定、自己責任」の思想をとってみてもそうだ。人に自己責任をせまるのではなく、皆のため、まず自らの責任を問うこと。自分の自己決定よりもまず、相手の自己決定を尊重し、それに合わせ、それを実現する方向で自らの決定を下していくこと。今、こうした共同体的なものの考え方こそが問われていると思う。今日懸案になっている領土問題なども、東アジア共同体をともに築くという立場に立ったときのみ、正しい解決策を見出していくことができるのではないだろうか。
■国民排除の国民投票法案
5月26日、与党と民主党がそれぞれ独自に国民投票法案を提出した。この国民投票法案は、現在の憲法96条で規定されている改憲手続きは明確でないとして、その手続きを具体化しようというものである。
憲法改正の手続きは、96条に、「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」と規定されている。
改憲派にとって、「国会総議員の3分の2」「国民投票で過半数」という2点は高いハードルである。それをクリアするために、ハードルを下げようとするのが、国民投票法案の目的であるというのは、これまでの経緯やその内容などから衆目の一致するところである。
法案を見れば、衆院100名、参院50名以上の賛成で憲法改正原案を発議できるとしている。これまでなかった憲法改正原案という概念を新たに作り、その原案は、新たに設置される「憲法調査会」で審議され一つの改正案として国会本会議に提出される。そこで可決されれば、国会が改正を発議して国民に提案して賛否を問うことになる。
この調査会は、当然改憲派委員が多数を占めるから(現行の「憲法調査特別委員会」では50名の委員のうち改憲反対派は社民、共産の2名だけ)、実質的には、改憲反対意見は無視され、与党と民主が原案に基づいて互いに意見を擦り合わせる作業になるだけである。
96条で規定された「国会議員の3分の2の賛成で国会が発議する」というハードルはこれによって、いとも簡単に乗りこえられることになる。
そして、わずか60日から180日の間に国民投票が実施される。さらに、この法案では「憲法改正広報協議会」が設置されるが、これは、改正の宣伝・解説を行うものになるしかない。一方、「国民投票運動」(改憲に関する集会・デモ・表現など)は禁止され、メディアが「国民投票運動」を広告放送することも禁止される。また、公務員、教育者の運動禁止も盛りこまれている。
以上見れば、国民投票法案は、できるだけ国民を改憲論議から遠ざけ、その意見発表もできないようにしながら、改憲に賛成の政治家だけで一挙に改憲に持ち込もうという法律であり、その本質は「国民排除」にあると言える。
■国民の意思を反映してこそ、「自主憲法」では?
自民党は結党以来、自主憲法制定を宿願としてきた。その論理は、現憲法は、米国が作ったものであり、日本人の手で日本の憲法を作り直さなければならないというものであった。
昨年11月に発表した、自民党の新憲法案でも前文冒頭に「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」と記し、ここに自主憲法たる意味を込めたとされる。
確かに、憲法とは、何よりも主権者である国民が、そこに自らの意思を反映させ、自らの意思で決定したものでなければならないだろう。
しかし、国民投票法案のごとく、できるだけ国民を除外し、改正案の作成も国会の中で決め、その賛否を問う段階でも、国民の意思表示を抑えるようにして、とにかく早く改憲してしまおうというのものであれば、そこに国民の意思を反映させることなど到底できないだろう。
そうであれば、言葉で自主憲法だと言っても何の意味もない。そのような憲法は自主憲法などとは到底言えず、憲法としてもまったく権威のない代物になってしまうだろう。
今日、国民投票法案に対する世論調査では、「憲法改正の議論が不十分なうちに決める必要はない」が53%にのぼる(今年6月の朝日新聞調査、他に国民投票そのものに反対が8%、賛成は32%)。また、この間、改憲派が仕掛けた改憲論議について、改憲派の議員からでさえ「いま一つ盛り上がらない。こんな関心の低さで改憲などしてよいのか」との声もあがっている。
国民の多くが、改正論議は不十分だと考えている。まず正すべきは、この点にあるのであり、これは、護憲派にも改憲派にも問われていることだと思う。改憲派が、憲法論議を避けて手続き法を先行させるというようなことをして、たとえ改憲できたとしても、それは、「自主憲法」だと胸を張って言えるものには決してならないだろう。
■なぜ国民を排除するのか?
今日、自民党は「米国によって作られた憲法を改正して自主憲法を」なるスローガンを下ろしている。いかに厚顔無恥な彼らといえども米国によって強要された改憲を「自主憲法」制定とは言えないからだ。
イラク戦争で「ブーツオンザグラウンド」と自衛隊を引っ張り出すことに成功した元米国務副長官アーミテージは、ことあるごとに「日本にとって大事なのは憲法でなく安保だ」「憲法9条で集団的自衛権を行使できないなど話にならない」「日本で改憲の動きが高まっているのは歓迎すべきことだ」などと、米国が改憲を望んでいることを表明してきた。
そして米国は、在日米軍再編という自身の決定をもって、アジアを狙った米軍司令部(統合作戦司令部)を座間に置くことを日本に認めさせたばかりか、そこに自衛隊の核をなす「中央即応集団」司令部を併置させるなど、さまざまな分野で日米軍事の一体化、自衛隊の対米手先化傭兵化を進めている。
こうした米国主導で進む現実に対して、もう解釈改憲のごまかしはきかない。だから、「とにかく9条を改憲」なのである。昨年発表し党議決定した自民党の改憲案が、ほとんどの条項は踏襲し、9条についても、1項の「戦争放棄」はそのままにしながら、2項に自衛力をもつということを明記し、第3項で、その任務のひとつとして国際協力を入れるというやり方で、米国が行う戦争に自衛隊が参戦できるようにしようという姑息なやり方になったのにも、とにかく米国の要求にこたえるだけこたえて、法案を無難に通してしまおうとする意図がよく示されている。
米国の要求がまずあり、それに応えるという精神は、安保協議(2+2)を国民の目の届かないワシントンでやり、その結果をいきなり公表するというやり方や在日米軍再編で基地住民の意思を無視して、「納得してもらう」と上からの意思をあくまでも押し付ける態度にも現れている。そして今回だされた、国民排除の国民投票法案…。
それは、政府為政者にとって、日本の主権者は米国であり、その意思こそが大事だということの証左ではないだろうか。
■護憲と改憲どちらが自主なのか主権在民なのか?問われる憲法論議、9条論議
国民投票法案は今国会での通過は難しい状況である。しかし、それは今後また上程されるのも確実である。そうであれば、今回の上程を機会に、その本質が国民排除にあることを深く捉え、すべての国民が憲法論議を主体的に行っていく手立てが求められているのではないだろうか。
護憲か改憲かは、単なる平和か戦争かの問題ではない。それは、この日本の主権者は米国ではなく日本国民自身であることを明確にした上で、現憲法と改正憲法のどちらが日本国民の意思を反映した自主的な憲法なのかを問う問題なのだ。
この問題を正しく解決するためには、国民投票法案を作るのではなく、憲法自体の大論議が必要である。
その上で、その中心はなんといっても、9条であろう。実際、米国および改憲派は、その他のことはどうでもよく、とにかく9条を改憲できればよいという立場であり、護憲派も、それだけは許せないという立場である。
しかも、この9条をめぐっては、世論調査で、「自衛隊容認」が7割を占める一方、「9条改憲反対」も6割から7割を占めるという、一見、矛盾した結果が出ている。
だからこそ、この9条をめぐっての論争は憲法論議の最重要課題にされなければならない。
この一見矛盾するような世論を統一できるような9条に対する正しい解釈を含めて、9条に対する国民的な意思一致をはかるための大論議が問われている。
そして、この論争には、これまでの改憲派、護憲派の枠に囚われず改憲派の中でも真に自主憲法を志向する人やアジアとの関係が深まる経済界も引き込むべきであり、自身の将来と直接関係する青少年が積極的に参加するような文字通りの国民的論議として行うことが重要だろう。
今日、格差社会について関心が非常に高まるなかで、格差社会をめぐる論議が活発となっている。今回、そのおもな論点について考えてみたい。
第一は、格差の原因についてである。
格差拡大が顕著になったのは95年ごろからであるが、この原因について長期不況に求めるものと、小泉構造改革に求めるものとがある。
不況主因説者は「生活保護の受給者が増えたのは経済の長期停滞が原因である。構造改革で増えたわけではない。むしろ保護を受けている人を減らすためにも構造改革を進めなければいけない」(八代尚弘国際基督大教授)、「不況が貧困層を増やした可能性が高いが、規制緩和との因果関係は明確ではない」(大竹文雄大阪大教授)と言う。
たしかに長期の不況が雇用環境を悪化させ、その結果、失業者と就業者の間に決定的な格差が生じるようになったのは事実である。しかし、雇用政策として構造的に正社員を減らし派遣、アルバイト、パートなど不安定雇用を増やしていったことが、労働者のなかで正社員と不安定雇用勤労者という格差を作り、新たに格差社会を作りだしたのも事実である。その上で、重要なのは、このところ景気が上向いて来ている中にあっても、雇用の不安定化が一層進み、格差の拡大に歯止めがきいていないという事実だろう。
また、医療、福祉年金、教育などで「自助努力」がうたわれ、高所得層と低所得層の格差は、生活のすべての領域に広がるようになった。これも小泉構造改革の結果である。
こうしてみると、格差のより本質的な原因は長期不況でなくやはり構造改革にあるといえるのではないだろうか。
第二に、格差は良いのか悪いのかという問題である。
競争原理が勝者と敗者に分け格差を拡大するのは最初から想定されていたことであって、「格差はあっても良いのではないか」(小泉首相)というように、格差擁護論者は格差を「競争の結果、健全な証拠」とみなしている。そして、格差を肯定する競争こそが経済効率を高めるゆえ、社会を発展させ雇用を増加させると主張する。
これに対し、格差拡大はすなわち貧困層の増大でありそれ自体が問題であり、さらに格差の拡大が少子化や犯罪増加などで社会問題を深化させ社会発展を停滞させていくという批判がある。
これらは格差で得する富裕層と格差の縮小を求める勤労者層の立場の違いともいえるが、公正と効率の問題など社会発展と人間の利益にとってどうかを基準に見ていく必要があるだろう。
格差社会が人々の意欲を高める側面をもちながらも、一方でそれよりはるかに多くの人びとに生きる希望と意欲を失わせているという事実が問題である。それは、引きこもりと自殺、犯罪のための犯罪、学力低下など深刻な事態が増加していることに示されていると思う。
新自由主義者は公正の原理で再分配をおこなって平等にすることが人々の意欲を低下させ経済効率を停滞させると言うが、むしろ公正でないことが人々の意欲を著しく失わせるのではないだろうか。競争も活力の手段であるが、それはどこまでも公正の枠内で実現されなければならない。競争と公正を対立させ、競争がすべてで敗者のことなどどうでも良いというのは、社会と人間の利益に合致しない。それは、独占資本の利益率を高めるかもしれないが、人々の精神の荒廃と社会の衰退を生みだしていくのではないだろうか。
第三に、格差社会にたいする対処である。
格差擁護論者は「市場の歪みを正し弱者に配慮を」とか「格差が固定されてはならない」として、敗者が復活できる機会をもてるようにすることやセーフティネットの構築を唱える。小林慶一郎氏は「格差是正を考える際のポイントは、二つだ。第一に企業間の競争は制限すべきでないこと。第二に企業ではなく個々人を救済すべきだということだ」と言い、「希望格差社会」を唱える山田昌弘氏も「リスク・二極化に対応できる個人公共的支援を作ること」だと主張している。
しかし、橘木俊詔京大教授は、「過去十数年の日本のセーフティネットは削減の方向にあると理解する。…貧困者の子弟には挽回する機会が与えられない社会になりつつある」と指摘している。つまり、現実は格差擁護論者の言うようにはなっていないということである。
今日の格差を拡大させている主な要因が、不安定雇用、および医療福祉・教育、地域などでの公的支援の削減であるゆえ、不安定雇用労働者の賃金、雇用期間、保険などの労働条件を抜本的に改善するのか、医療福祉・教育における国家と社会の保障を十分するのかが、重要なポイントになるだろう。
一部の勝ち組と負け組に分ける競争社会では、負け組とされた多数の人々、若者は、社会から排除され、「彼らは結婚もできず、子孫も残さないから、そのうち死に絶える」(財界)道しか残されていない。少数の富者のために大多数の人々を犠牲にしていく社会が、日本の向かっている新自由主義社会である。
敗者、貧者を必然的に生み出す競争社会がはたして良いのか?新自由主義そのものにたいする姿勢が問われていると思う。
イランの「核問題」をめぐって国際社会が大きく揺れている。
「イスラエルはいつか消滅する」、「米国の真の狙いは核技術の独占だ」。イランが押しすすめるウラン濃縮をめぐって、イランのアフマディネジャド大統領が、米国やEU諸国からの制裁論議に一歩もひるむことなく強硬な発言を繰り返している。
日本のメデイアを通して映るイランという国は、大統領の過激な発言もあいまって、「核兵器開発を密かに進める危険な国」、「ならず者国家」のように見える。しかし視点を180度ずらして、イスラム世界から、あるいは米一極支配に対決する世界から、イラン「核問題」を見ると、まったく別のイラン像が見えてくるのではなかろうか。
このイラン「核問題」を通して、はっきりしてきたことがいくつかある。
一つは、米国が、ある国に核開発を認めるか否かの「基準」が「親米」であるか否かにあることだ。ここ数年、核兵器は急速に拡散している。98年にインドが核実験を強行すると直ちにパキスタンが続き、その後朝鮮も核兵器の保有を宣言した。ところが米ブッシュ政権は、核実験直後には経済制裁を行ったが、その後パキスタンへはF16戦闘機の売却凍結を解除、インドへは原子力技術の供与まで約束した。米政府にとって核兵器は根絶すべき「絶対悪」ではなく、あくまでも米国の「国益」に照らして判断すべき相対的な存在に過ぎない。つまり認められる核と認められない核があるということである。なぜインドやパキスタンの核兵器保有は認められても、イランには核の平和利用さえ認められないのか。それは、その唯一の基準が、その国が親米なのか、反米なのか、この一点にあるからだ。
二つには、いまや米一極支配はますます弱体化してきており、私たちが想像以上に世界の多極化が進展しているという事実だ。
イランを見るアジアの眼は日本のメデイアとかなり違っている。この5月、イスラム途上国8カ国首脳会議のためにインドネシアを訪れたアフマディネジャド大統領は、インドネシア市民から熱烈な歓迎を受けている。国立インドネシア大学を訪れた同大統領を迎えたのは「心の友イラン」「核の平和利用支持」と書かれたプラカードと大きな拍手だったという。アフマディネジャド大統領が強硬な姿勢を崩さないのは、イランがアメリカの軍事的威嚇を少しも恐れていない何よりの証拠であり、この強気の背景には、訪問先のインドネシアで大人気を集めたように、イスラム世界ばかりではなく、インド、マレーシア、南アフリカなど、世界の圧倒的多数の国々が反米自主イランへの支持に傾いている事実があるからだろう。
三つには、米国が軍事的な手段で他国の内政に干渉したり、核先制攻撃など振りかざして軍事的威圧を繰り返せばするほど、世界での核拡散はますます拡大するのではないかということである。
超大国による核の威圧外交はその対抗手段として必ず核拡散を生みだす。核兵器の使用も選択肢に入れた先制攻撃による世界一極支配という米国の国家戦略そのものが「核拡散」という、米国の墓穴を掘っているわけである。イランの核問題は、この事実を如実に示しているといえそうだ。
職場からT ヘルパーのつぶやき(No.3)
ホームヘルパー歴3年目の私は、年数からいえばまだ新人かもしれませんが、常勤ヘルパーとして8ヶ月、それ以前も登録ヘルパーとして月曜から土曜日まで毎日4,5時間は働いていたから、ベテランとよばれてもさしつかえないと自分では思っている。
なにしろヘルパーとして最初の仕事が、寝たきりのお年寄りの排泄、食事、移乗などの身体介助(4時間)だったから、ほんとうに大変だった。排泄介助、ベッドからイスに移乗、清拭、食事、口腔ケア、足浴、排泄、移乗……と時間内にスムーズに介助していくのは新米の私にとってドギドキものだ(私よりも利用者の方がもっとドキドキだったでしょうが)。
もちろんはじめの数日は、事業所の方からは懇切丁寧に指導を受けながら進めるのだが、いざひとりで任されると排泄介助で手間取って、食事時間が足りなくなったりしてはらはらするし、移乗で体を抱えるたびに腰が痛くなるしで泣きたくなりそうだった。最初、事業所から仕事の打診があったときに断るべきだったと後悔するばかり。が、いま思えば、そのとき無我夢中でやったことが良かったと思っている。それから少しずつ自信がついて仕事も増えた。
いまは高齢者だけでなく、精神・身体障害者の方や難病の方のお世話もしている。私の同僚の一人も勤めて5年間一度もやめたいと思ったことがない、ほんとうにやりがいがあると言っているけれど、私もつくづくヘルパーという仕事はやりがいがあるなと思う。(きつい仕事だけれど)今日も利用者さんが待っている。「ヘルパーさんが来てくれるから、私も元気になるんですよ」「ヘルパーさんと話をするのが楽しみ。また来てね」という言葉からヘルパーは元気をいっぱいもらっている。
朝、事業所の駐輪場に自転車をすべらすとつぎつぎと訪問先に向かうヘルパーさん。「いってらっしゃーい」「気をつけて」。街のあちこちで、ヘルパーさんとすれ違う。自転車を全速力でこいでいる人もいれば、お年寄りの車イスを押したり、手をとったりしてにこにこしている人もいる。向こうの方で手を振り合うだけで、心がぐっと軽やかになる。
しかし、新聞記事によれば、「介護労働者年21%退職」という現実もある。勤務先の定着率が低く、人材の入れ替わりがはげしいといわれるのは事実だと実感するのもたしかだ。そのへんの問題は、またつぎの機会に。
小生、いわゆる一身上の都合による退職のためただ今求職中であります。職を探す手段として巷に多くの求人誌などがあふれております。私は50歳にして初めて職安なるところにおせわになっております。
周りを見渡せば、一部屋60―70人の集まりです。20歳代の若者から私と同年輩の人、赤ちゃん連れの若いおかあさんなど幅広い年代の人々が見て取れます。顔を見ながら年齢を推し量り、同じ境遇の人だとじぶんと重ね合わせながらあれやこれやと思いをめぐらし待ち時間を過ごしております。
いまや職探しもパソコンの時代です。求人情報検索可能なパソコンが50−60台はありましょうか、求人情報検索システムを使って画面と睨めっこです。勿論職安職員との個別の相談もあるのですが、待ち時間の長さがちょっと大変です。
求人そのものの件数はたくさんあるのですが、年齢と相談の身の上であります。いささか厳しい現実に直面しております。家族を持つ身であります。ある程度の給料を望まざるを得ないので限られた数しか該当しません。派遣、パートなどの割合の多さに時代の流れを再認識させられます。
当方が願う正社員などそれなりの経験年数を条件とするものがほとんどであります。専門での就業を望まない者には厳しい。そもそも、希望の職種の少なさにも唖然とするのですが希望年齢の厳しさにはいかんともし難いものがあります。
一方、若者の方は選択肢がある程度あるようです。とくに、近年の若者の就業支援が社会の要請となっていることからして当然ではありますが、キャリア形成のための職業訓練などがあります。これは専門学校などに委託した職業訓練で、期間も3−4ヶ月と短く、専門的な能力を付けるには疑問がありますが、それを取っ掛かりにして後は自分で頑張りなさいということでしょうか。対象をもっと拡大してほしいものです。
いやはや、時代を呪うべきか、己の不甲斐なさを呪うべきか、中年の職探しは厳しいです。
最近、さだまさし氏の「本気で言いたいことがある」という本を読んだ。
この本の中に、「感謝を忘れた日本人」というのがあるのだが、これを読んでいて思い出したことがあった。
以前目にした何かの雑誌に、高史明(作家)氏のこんな言葉が載っていたのである。「12歳で自らの生命を断ってしまった息子への反省は、中学入学に際して<他人に迷惑をかけないように>と話してきたこと。そうではなくて<これまでどれだけ多くの人たちのおかげで育ってきたか、もう一度思い返して欲しい>、こう言うべきであったと」。
なるほどと思った。前者<迷惑をかけないように>からは、生きる力や意味は生まれてこないが、後者<おかげを思い返す>からは、人々への感謝の気持ちが生まれ、「生きなくちゃなー」「その恩に応えよう。応えられないまでも、裏切ってはならない」という想いに行き着くと思う。
<他人に迷惑をかけないように>というのは、昔は誰もが一度は親から聞かされた日本人の不文律(その組織の人々が暗黙の了解のうちに了解しあって守っている決まり)だったように思うが、それよりも、<どれだけ多くの人のおかげで育ってきたか思い返して欲しい>という方が、ずっと深い内容のものだと思う。
<他人に迷惑をかけないように>というのは、共同生活をして行く上での最低限のルールだが、迷惑をかけないでそれぞれが生きるという、必要だけどちょっと淋しい生き方、消極的で他人的な生き方であるに対し、<人々のおかげを考える>というのは、生きていく意味や意義を見いだし、人と人とが結び合えていく、より積極的な生き方であると思う。
今、自殺者が8年連続で3万人を超え、「誰でもよかった」という無差別殺人や「人に迷惑をかけなければいい」と「援助交際」という美名に名を借りた売春行為までが、まかりとおっている時代の中で、<他人に迷惑をかけないように>は薬効切れというか、パワー不足になっているように思う。<おかげ>を考えてこそ、人様も自分も共に大切にできるのではないだろうか。
日本人は昔から「おかげ様」という言葉で他者への感謝を表現してきたと思う。娘、息子たちには<これまでどれだけ多くの人たちのおかげで育ってきたかもう一度思い返して欲しい>の方を贈りたい。
昨年完工したペンマ―チョルサン水路の源であるペンマ湖を見学してきました。
ペンマ湖は、中国との国境にある新義州市の東側20キロほどのところにあります。ピョンヤンから3時間ほど長旅に疲れた頃、車は山の中に。しばらく山村地帯を行くと、かつての工事跡か山を削って作った大きな道路にでくわしました。
そして、ここから農村風景が一変。瀟洒な瓦屋根の新しい家でできた部落が見られます。後で分かったのですが、新しい湖の出現で立ち退きをした人たちの新しい部落でした。その近くには、飯場のような建物が並んでおり、飯場にしてはきれいなので聞くとそれはヤギの畜舎でした。
しばらくして丘のような山を越えると、大きな湖が目に入ってきました。ペンマ湖、車はその堤防の上を走り湖が見渡せる展望台で止まりました。
そこから見る景色は圧巻。アムノッ江に流れ込む、サムゲ川をせき止めたてできた湖面面積2万2000町歩、貯水量2億7000万トンの大きな湖。複雑にいり込んだ山肌を縫って湖水が広がり、実に壮観な眺めでした。
ここから南東に50キロほどのところにあるチョルサンまで総延長280キロの用水路が伸び、下流のピヒョン郡、チョルサン郡、ドンリム郡をはじめとする西部地区の多くの田野を潤し、新たに稲田化された4万6000町歩の土地からは10万トンの米が生産されます。
かつて紹介したケチョン−テソン用水もそうですが、最近の用水路はかつてのように電力を使って山上の人造湖に水を貯めて流すのではなく、自然の落差を利用しています。ペンマ湖も65mの高低差を利用して自然に流れるようになっています。これによって、これまで、この地域の用水に使っていた電力を4万Kw節約できるそうです。
堤防は、高さ45mの高さに石を積み上げたロックフィル方式で作られています。ここでおもしろいのは、基本堤防とは別に自然流水の堤防を築いていること。これは急激な増水時には一定の水位で堤を超えて水が流れるようにして基本堤防を守るためのものですが、ジグザグに堤防を組み合わせて強度を保障しています。
もう一つの特徴は、湖の堤防近くに取水塔があり、そこから用水路に取水していることです。というのも、このあたりは寒い地域ですから水が非常に冷たく、そのために春の田植え時期には表面の温かい水を取り入れるためにそうしています。
ここには国家科学院の自動化研究所の所員が派遣され、水門の開閉や適温の水の取水などのコンピュ−タ化に取り組んでいます。
壮観な自然景観、人民的な景観、そして科学的景観を満喫した一日でした。
6月下旬に予定されている小泉首相の訪米は異例づくめとなるようだ。プレスリー邸宅「グレースランド」をブッシュがエスコート。ホワイトハウスでの大統領主催の晩餐会も予定されている。これは日本側が熱望したわけではなく、大統領自らが発案したものだというのも意外だった。4月のカリフォルニアでの演説では、「小泉首相とは特別な関係にある」「彼は面白い男だ」と幾度も言及したという。
泥沼化し出口も見えないイラク情勢、過去最低を更新中の国内支持率。世界においても孤立化は深まるばかりだ。イスラム諸国や中南米を始め、米一極化に抗した世界での反米多極化の流れは動かしがたい時代の趨勢となった。もはやブッシュ政権が唯一、友人とし、頼りとするのは、小泉首相くらいでしかない。小泉首相に対するこの「厚遇ぶり」。そこに米ブッシュ政権の「孤立無援ぶり」を見るのは、私たちだけなのだろうか。
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