研究誌 「アジア新時代と日本」

第35号 2006/5/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 「教育基本法改正」はどのような教育への転換をめざすのか

研究 反米、反グローバリズム、反新自由主義の力はどこからか?

論評 領土問題─アジアを挑発する日本の狙いは?

職場から ヘルパーのつぶやき

生活から サバイバル・イン・ジャパン

朝鮮あれこれ 平壌で南北共同メーデー

編集後記



 
 

時代の眼


 フランスの学生、労働者は、「使い捨て労働反対」のスローガンの下、300万を超す波状的なデモとストで、26歳未満は理由なしで解雇できるとした新雇用制度(CPE)の撤回を勝ち取った。フランスの高い労働条件を嫌って若者の新規採用を取りやめ外国に逃げ出す企業を引き留めて、20数%に及ぶ若年失業率の改善と経済の建て直しを図ったドビルパン首相の権威は大きく傷ついた。
 世界の耳目を引きつけたこの闘いは、民主主義のあり方の問題など多くの問題を提起している。だが、中でも深刻で本質的な問題は、尊厳ある労働と雇用の拡大をどう両立させるかの問題ではないかと思う。
 日本においても、自由化、グローバル化の進展とともに、労働環境は大きく劣悪化した。ボーダレスの大競争時代にあって、より安い労働力を求めて、企業の海外移転と低賃金外国人労働者の流入が促進される一方、無権利・不安定雇用が一般的なものになった。
 この時代的趨勢の中で、「労働の尊厳」を求めることなど、「甘い」ことになっている。事実、世界の少なからぬメディアは、「使い捨て労働反対」を叫んで立ち上がったフランスの学生、労働者を「既得権益にしがみつく保守主義」者と決めつけた。
 だが、彼らの闘いを単なる既得権益擁護の闘いと見るのは正しいと言えるだろうか。そこには、尊厳ある労働と雇用の拡大を対立させる自由化されグローバル化されたEUのあり方への鋭い疑問と新しい経済、真の地域共同体を求める根源的な問題提起が秘められているのではないだろうか。


 
主張

「教育基本法改正」はどのような教育への転換をめざすのか

編集部


 自民、公明の両党でつくる「教育基本法改正に関する協議会」は、4月23日、教育基本法改正の「最終報告」案を合意・了承した。
 最大の焦点となった「愛国心」の表現について、自民、公明の両党は「伝統と文化を尊重し、それらを育んできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与」という文言で合意した。
 合意したとはいえ、公明との調整に手間取った「愛国心」「宗教教育」「教育行政」などについて、自民党からは異論が続出したという。「教育は不当な支配に服することなく」との文言については、自民党は削除を求めていたが、最終報告では残すことにした。自民党からは、「愛国心」を表現した部分にある「他国を尊重し」にも、「日本国憲法の精神にのっとり」などの文言にも強い異論がある。

■教育改革の両輪
 周知のように、「教育基本法」は国の教育の基本方向やその理念を示したものだ。戦前の「忠君愛国」から民主主義教育へ転換を掲げた現教育基本法は、決定的意義を持っていた。今回の基本法改正はどのような教育への転換をめざすのか。
 安倍官房長官は、今年二月、ライブドアの堀江社長が逮捕されたことについて「やっぱり教育の結果だ」として、「教育基本法は改正しなければならない。『国を愛する心を涵養する教育』をしっかり書きこんでいきたい」と語っている。
 なぜいま教育改革なのか。ポイントは、02年教育審議会中間報告(以下「前報告」と略)にありそうだ。なぜなら、今改革案は「前報告」を踏まえたものだからだ。
 「前報告」は、第一に日本の社会と教育が危機にあり、自信の喪失、規範意識の低下、若者の閉塞感、この状況を打破する必要があること。第二に、グローバル化が進み、世界的な大競争という新しい時代の課題に直面しており、先端科学技術分野での競争力を強化する「知の世紀」への対応が迫られていること、を挙げている。
 ここで明かなように、教育改革の理念とは、政治的にはニューライト、新保守主義と、規制緩和や市場主義、競争を重視する新自由主義という、二つの理念が組み合わされたものだ。言い換えるなら、新保守主義と新自由主義が基本改正の両輪なのである。

■新保守主義が前面に
 今回の改正案を見ると、伝統と文化、公共心、愛国心という言葉に象徴されるように、新保守主義的側面が前面に掲げられた内容となっている。
 現基本法との比較で、何が加わったのか。まず前文では、「公共の精神を尊び」という文言が加わった。教育の「目標」として「主体的に社会の形成に参画」、「自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う」、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできたわが国と郷土を愛する」、この三点が新たに加わった。
 「前報告」で、教育の基本理念として掲げられた「自然への感性」、「公共の精神」、「日本人としてのアイデンティティ」、「生涯教育」などの教育改革のキーワードは、文言は異なっても、今回の報告にもそのまま生かされていることがわかる。
 「愛国心」には「伝統と文化を育んできた国」、「他国を尊重し、国際社会の平和に寄与する」という文言が加わったことで、いくぶんかは国家主義的色彩が和らいでいるが、自民党が意図した「愛国心」ということはしっかりと書きこまれている。教育の新保守主義的改革の内容は、ほぼ網羅されたと見てよいだろう。

■教育危機を増幅させる新自由主義改革
 今回の改正案を見る限り、教育の新自由主義的改革の意図を文言に読み取ることは難しい。しかし、経済がグローバル化し、世界的な大競争時代を迎え、教育改革の必要性は、過去10年、政界からも産業界からもいくども提起されてきた。
 この視点から見ると、ポイントは改正案17条の「教育振興基本計画」にありそうだ。17条は「教育の総合的かつ計画的な推進を図るため基本的な計画を定める」としている。
 問題はその中身なのだが、ここでも「前報告」が参考になる。そこで掲げられた「基本計画」とは、第一に、「確かな学力」「個性、才能を伸ばす教育」、「科学的素養」「柔軟な教育」などとともに「豊な心」「日本人のアイデンテイテイ」「国際化」「情報化」を挙げている。第二に、大学改革の推進、国立大学の法人化や大学マネジメント体制の確立、評価制度の導入である。第三に、「家庭の教育力の回復、学校、家庭、地域の連携」「生涯学習社会の実現」である。
 「基本計画」は、個性や才能、学校選択制、評価制度など、新自由主義的な言葉がキーワードとなっている。すなわち、教育の新自由主義的改革は、基本法17条で定めた「教育振興基本計画」で押しすすめていくということである。
 今、教育の本当の危機はどこにあるのか。多くの識者が指摘するように子供たちが大量に学びから逃避していることだ。少数の勉強できる子と多数の勉強嫌いな子との乖離である。
 これまでは「教育の平等」を建前に、国が公教育に責任を持ってきた。しかし実際には、社会の二極化とともに、教育の二極化、階層化は進み、階層の低い子供、親の収入の低い子供ほど学習意欲が低いのが現実だ。教育における二極化は、当然、学習意欲と学力の階層化を伴う。こうした教育の二極化の中で、才能、個性、学校選択制の導入など、新自由主義的改革は、一部エリート層と大多数非エリート層という階層化をより増幅する。学ぶことの意味を見失った大多数の子供たちは、ますます学びから逃避することになるだろう。
 日本経済や産業構造自体が二極化している中で、市場が要求する人材も一部エリートと大多数の非エリートに二極化した。もはや時代は、すべての国民を等しく教育する時代ではなくなっている。基本法「改正」は、教育に国が責任を持つという、「公教育」理念の解体である。国家の責任から自己責任へ、全国民ではなく一部エリート層の選別的教育制度へと、教育の基本方向は大きく変わろうとしている。

■「愛国」という国の中身
 新保守主義と新自由主義、一見、矛盾するこの二つの教育理念は、どう結びついているのか。
 教育の新自由主義的改革は、公教育を否定、解体する市場、資本の要求だ。資本にとって、一部の才能あるエリート、知的階層があれば、残りの大多数はフリーターで充分なのだ。一昔前までは、学校で勉学に励み努力すればそれが報われる社会だった。しかし、いまや多数の非エリート層にとって勉学することに意味を見出すことが非常に難しい時代を迎えている。学校や教育に意味を見出さなくなれば、必然的に学校は荒れ、子供たちの引きこもりや不良、少年犯罪は激化するだろう。
 一方、新保守主義においては、国家や日本人が強調され、「公共心」や「愛国心」、子供や教師の心のあり方、魂の問題や教育現場への国家主義的統制は、むしろ強まる。
 国家より市場を優位におく新自由主義と国家にウエイトをおく新保守主義と、この矛盾した二つの論理はどう統一されるのか。
 その答えは、新自由主義と新保守主義の国、アメリカにあるのではなかろうか。アメリカでは、経済は市場原理に基く徹底した新自由主義であり、政治はネオ・コン(新保守主義)が政権の中枢の握っている。なぜアメリカでは二つの路線が矛盾しないのか。ポイントは、軍事力をどう見るかにありそうだ。新自由主義によるグローバルな世界単一市場の創設は、米国の飛びぬけた軍事力抜きにはありえない。米国にとって軍事力は死活的意味合いを持つ。世界の米一極支配を支える軍事力、この軍事力を強固に支えているのが新保守主義であり、ここにおいて新保守主義と新自由主義は見事に統一されている。
 一方の日本は、この米国の世界一極支配を支える最も忠実な国の一つとなった。それを歴代政権の中で最も熱心に推進してきたのが小泉政権だった。日本においても、米一極支配を支える上で在日米軍と日米軍事同盟などの軍事のウエイトはますます重要性を帯びつつある。
 改正派が次の目標とする9条改憲は、世界の米一極支配を軍事的に支える日本に、アメリカと一体となって「戦争できる国」に日本を根本から変えるためのものだ。このように見てこそ、なぜ今、教育基本法改正なのか。なぜ、「愛国心」や「公共心」なのか、教育がどう変るのかが、はっきりするのではなかろうか。
 米軍再編の日本側負担は総額三兆円という。神奈川県知事は政府の態度を痛烈に批判した。「米国への思いやりはあっても、基地住民への思いやりはない」。「愛国心」が一番、問われているのは、子供たちではなく、「愛国心」に固執した、彼ら自身ではなかろうか。


 
研究

反米、反グローバリズム、反新自由主義の力はどこから

魚本公博


■強まる中南米諸国の反米姿勢
 4月20日に行われたペルーの大統領選挙で革新派のオリャンタ・ウマル候補が一位を占めた。今後、1位、2位の候補による決選投票が行われるが、ウマラ候補の当選が確実視されている。
 ウマラ氏は、反米、反グローバリズム、反新自由主義を掲げ、米国との自由貿易協定を再検討し、ペルーの資源を国有化し、民営化や外資の導入に歯止めをかけること、先住民など貧困層の生活向上、その重要な収入源であるコカ栽培を保護する政策を打ち出している。
 今年1月に、ボリビアで先住民出身のエボ・モラレスが、チリでも中道左派のミッチェル・バチェレ女史が大統領に当選。今回ペルーでも反米政権が誕生すれば、南米12カ国のうち完全な右派政権はコロンビアだけになる。
 中南米で続々誕生する革新政権は、反米、反グローバリズム、反新自由主義を明確に打ち出しているのが特徴である。
 5月1日、天然資源と石油の国有化に踏み切ったボリビアのモラレス大統領は、選挙戦で米国を帝国主義として糾弾し、当選を祝う群衆を前に「人々の力を味方に植民地的な国家体制や新自由主義の経済体制を終わらせる。この闘いは歩みをとめない」と述べたが、ベネズエラのチャベス政権や大国ブラジルをはじめ、全ての政権が反米姿勢を強めている。

■現実の生活からの切実な要求
 こうした姿勢は、現実の生活実感に根ざしたところに強さがある。
 中南米の新自由主義改革は、1989年の「ワシントン・コンセンサス」によって、米国がこの地域に貿易・金融の自由化や政府系企業の民営化などを基軸にした「改革」を押し付けたことに始まる。
 それは一時的にはうまくいくかに見えた。米国金融が流れ込み経済を活況化し、メキシコのマキラドーラ(輸出加工工業団地)のような輸出振興が起きたからである。しかし、結果的には、外資だけが旨い汁を吸い各国の民族経済は衰退し、米系金融の賭博的な操作による金融危機(メキシコ、ブラジル、アルゼンチン)が経済を破壊した。
 中南米では、グローバリズムや新自由主義改革は、明確に人々の生活を破壊するものと実感されている。その破壊された生活からの切実な願いを背景に反米政権が連続的に生まれている。

■その力の背景
 それにしても、米国の裏庭と言われた中南米諸国が、このように反米を強く打ち出す力はどこにあるのだろうか。
 第一に、中南米全体の共同・協力である。
 ベネズエラのチャベス政権が新ボリバール主義(ボリバールは南米をスペインの支配から解放した19世紀の革命家)を唱え、地域の共同・協力を訴えているが、これに南米諸国が賛同し、キューバとの連携も強めている。今回のペルーのウマル候補もチャベス政権との連係を訴えている。
 それは、米国の米州自由貿易圏構想に強く反対し、南米諸国全体を加えた南米諸国市場連合の結成(キューバも参加を表明)へと動きだしているところにも現れている。
 第二に、基礎共同体に依拠していること。
 南米には、ムニシピオ自治の伝統がある。ムニシピオというのは、この地域を征服したスペインが先住民の住む地域にムニシピオ(行政と議会)を作って統治したことが始まりで、中南米全般にムニシピオ共同体が強い力を持っている(ブラジルでは連邦を構成する単位として州と同等の権利をもっており、ペルーは02年まで州、県などの中間行政単位はなかった)。
 ムニシピオは、ボリビア、ペルー、メキシコなど先住民の比率が高い国では先住民の共同体になっており、ボリビアの先住民の生活と文化を守る「パクチャクティク運動」、メキシコ・チアパス州の先住民による「連帯経済」、ブラジルのポルト・アレグレ市など南米各地に広がる予算編成に地域住民が直接関与する「参加型予算」の例なども、こうした基礎共同体に根ざしている。チャベス政権の強さもムニシピオ的な基礎共同体に基盤を置いているからだと言われる。
 第三に、それらの結節点として国家主権が強化されていることだ。
 南米地域全体の共同・協力は、各国で反米的で自主的な政権が誕生し、それが強化されることで深まっている。そして、それがまた各国の主権を強化するという関係になっている。
 一方、各国の政権の強さは、基礎共同体を基盤にし地域住民の支持を得ているところにある。新自由主義改革で起きた生活破壊の中で基礎共同体を単位にした生活を守る運動が起き、その力が反米政権を誕生させた。その政権はまた、基礎共同体を強化することで自らの力を強化している。
 これらの国では、活動家がさまざまな形で地域住民の意識化、組織化に力を注いでいる。そして、国家も政策的に地域の運動を支援している。
 今、世界は米一極支配に対抗し多極世界形成へと動いている。その特徴は、中南米の動きで見たように各国が互いに主権を尊重しながら共同・協力を強め地域の発展を図ろうということにある。それは、主権尊重のバンドン精神を基軸にした東アジア共同体構想の動きと軌を一つにしている。
 そうした世界の現実を見ることもなしに、米一極支配の下で生き、グローバル化し新自由主義化した「現実」だけを「現実主義」と称して、それ以外ないものかのように考えるのはいかがなものか。日本が中南米の動きから学ぶことは多いと思う。


 
論評

領土問題─アジア諸国を挑発する日本の狙いは?

赤木志郎


 先月、日本政府は韓国と排他的経済水域が重なる海域において海洋測量を実施しようとして、韓国政府が20隻の警備艇を出動させ、一気に緊張関係が高まった。8日後、日本政府は6月のドイツでの「海底地形名称小委員会」で韓国が名称変更を提起しないというのと引き替えに測量を中止したが、国境問題でも日韓の対立が深まった。
 排他的経済水域が異なるのは、竹島(独島)の領有権を双方が主張しているからである。日本がこの竹島(独島)を島根県に編入し領土としたのは、朝鮮国の外交権を奪う乙巳条約を結んだ1905年のことであり、日露戦争のさなかである。それゆえ、韓国・廬武鉉大統領は「侵略した土地の領有権を主張している」と非難している。
 今回の事件で特徴的なのは、韓国が反発するのがわかっていて、なぜあえて測量船計画を立て韓国に同意を得ようともせず実行しようとしたかである。周知のように、昨年、島根県議会は「竹島の日」を制定し、これに韓国が反発した。「独島はウリソム(わが島)だ」という歌謡曲が流行したほどである。靖国神社問題で日韓関係が冷え込んでいる中、ことさらに相手国の神経を逆撫でするような行為をおこなった。
 これまで、竹島の帰属問題は棚上げにして互いの漁業操業を認める暫定水域を設定してきた。韓国は国際機関での海底地名変更を提起しようとしていたが、「日本海」を「東海」に変更する問題まで意識されていなかった。海底地名変更を口実に領土問題で紛争を起こそうとしたのが日本政府であるというのが実相であろう。
 日本政府は中国にたいしても領土問題で対立を拡大している。尖閣列島周辺にある天然ガス田の開発をめぐって中国政府の共同開発提案を日本政府が拒否し、問題をこじらせている。
 国境紛争はしばしば起こりうる問題であり、それは対決や武力ではなく話し合いで平和裏に解決していくべきである。
 とりわけ、アジア諸国との領土問題は過去、日本がアジア諸国を侵略した問題がからまるだけに慎重に対応していく姿勢が問われている。単に双方が領有権を争う問題ではなく、過去の侵略にたいしどう反省しているのかをアジア諸国は見ているというのを忘れてならない。
 にもかかわらず、領土問題で韓国、中国との対立関係をわざと作りだしそれを拡大していっているのはなぜだろうか?
 日本には何一つ得るものはない。日本政府の意図的な対決姿勢に、中国の台頭や東アジア共同体つくりを警戒するアメリカの影を見ざるを得ない。とくに東アジア共同体は中国・韓国と日本が協力しなければやっていけないものである。
 日本はあくまでアジアの一員である。日本政府がますますアメリカ一辺倒になり、アジア諸国との距離を遠ざけていくかぎり、アジアの一員としての日本自体の存亡が危ぶまれていくだろうし、過去の侵略戦争を反省せず、世界の多極化、自主化の潮流に逆らう国として内外の矛盾を激化させていくことになるだろう。


 
職場から

ヘルパーのつぶやき

ヒツジ


 今私は50歳です。2年前にヘルパー2級の資格を取り、新聞に挿まれてくる求人広告を見て、ピンときた事業所に面接に行き、めでたく採用が決まって、以後ずっとそこの事業所で登録ヘルパーとして働いています。
仕事の内容は知的障害者(男性5人)のグループホームでの夕食作りと介助です。若い頃、保育士として知的障害児の施設で働いたことがあり、この仕事は自分の天職ではないかと感じたこともあり、その時のイメージをもっていたのですが、なんと仕事の内容は料理が基本。しかも、スタッフの分まで合せると、時には10人分もの食事を作らなければならないとのこと。料理にもともと自信はないし、そんなに沢山の人数分、どうやって作るのだろう?と初めは困惑し、実際、時間をオーバーし、スタッフや他のヘルパーさんまでキッチンに入って、てんやわんやなんてことも。
 でもこれも懐かしい昔話となりました。自分で言うのもなんですが、今では手際もよくなり、料理にも大いに興味を覚え、メンバーさん(知的障害を持っている人たち)やスタッフにも安心して喜んで台所を任せてもらっています。どんな事でも、初めて取り組むことには不安がつきものですが、たいていのことはクリアできるものですね。やはり経験を積むというのは大切なことだと思いました。
 さて、ここで一つ皆さんに知って欲しいのは、今、介護の世界では、というより、医療を含め福祉全般なのですが、障害者自立支援法、介護保険制度、医療保険制度の改定により、大変な事態が発生しています。当事者の自己負担(家族への負担も含む)が増えるのに加え、ヘルパーを使える時間数も減り、うちのグループホームでも、これまでヘルパーと一緒に病院や銀行に行っていたメンバーさんが、一人で行かなくてはならなくなり、不安を抱いている様子が伺えます。今度の制度や法の改定により、しわ寄せを受けているのはヘルパーも同じです。既に昨年の段階から、仕事量が減りはじめ、ヘルパーの数も制限されるため、これまで、スタッフ一人とヘルパー3人が入っていたのに、ヘルパーが一人減り、スタッフ、介助ヘルパー、調理ヘルパー(私)の3人体制となり、週二日は、スタッフが調理も兼ねて二人体制となっています。当然、給料も減給となり、スタッフが誰か一人のメンバーさんを連れて外出している時などは、調理をしながらメンバーさん2人くらいに目を配らなければならなくなっています。放浪癖のあるメンバーさんもいて、調理の手を止めて外に出ていってしまったメンバーさんを追いかけるなんてこともあります。
 ちょっと楽になったのは、今まで夕食をとっていたヘルパーが夕食をとらなくなり、多くても7人分くらいの仕度でよくなったことぐらいでしょうか。不幸中の幸い?補足ですが、何故、夕食をとらなくなったかと言えば、これまで夕方の4時から9時までの介助時間が1時間減って8時までとなり、夕食代500円の出費が大変だからということです。
 そして、この4月に、いよいよ障害者自立支援法が施行され、報酬基準額の引き下げに伴い、私たちヘルパーの時給も2%引き下げられることになりました。仕事は減るわ、負担は大きくなるわ、給料は減らされるわ、で、いったいどんな明るい未来が描けるでしょうか。
 実際、つい最近にはこんな事故を体験しました。その日はスタッフが会議があるということで、メンバーさん一人を連れて出かけ夕方の6時から9時まで、私とヘルパーのSさん(男性、ヘルパー暦10年以上)2人の体制で4人のメンバーさんを見ることになりました。私は調理なので、Sさんがメンバーさんの介助を行っていました。夕食時間になり、みなテーブルにつき食事を始めたのですが、Sさんが大きな声で「大丈夫!」と言いながらY君の背中をドンドン叩いています。初めは何のことか分からなかったのですが、どうも、おかずの大根がのどに引っかかってしまったようです。Y君の顔はみるみる青くなり、本当にあぶなかったのですが、一人のヘルパーが4人を見ているため目が行きとどかなったのです。こんな事は今までなかったことでもあり、私も今思えば、大根をY君の分はもっと小さくして出すべきだったし、また、調理場はそのままにしても、テーブルに行ってSさんと一緒に介助にあたるべきでした。本当に胃がきりきり痛む苦い体験でしたが、決して偶然の事故ではないと思います。
 こんな中でも事業所のスタッフの皆さんも、メンバーさんも、東京まで集会に出かけたり、必死でやりくりもし、より質の高いグループホーム運営を考え努力しているので、文句も言えず、登録へルパーのつぶやきは大きくなる一方です。小泉改革の「小さな政府」って言うのが、このようなものであるなら、私は絶対反対です。


 
生活から サバイバル・イン・ジャパン

学びの日々(1)

N・A


 「日本社会、そんなに甘いもんや、おまへんで!」。最近、ある人から言われた言葉だ。
 料理で言うなら砂糖だけでケーキを焼こうとしているような、私の右往左往、徒手空拳、青息吐息ぶりを見ての親切な忠告である。うーん、まったく、そのとおりです!!
 25年ぶりの帰国。まずは、生活のためにアルバイトをはじめた。だが、一家を支えるためには、また、自分に合った仕事をするには、「起業しかない!」と思い、暗中模索している。しかし、現実は実に「ビター」だ。面白そうだなーという話はあっても漠然としたものばかり。というか根本のところで資金が引っ掛かっている。
 そして、金は信用(=実績)がなければ生まれない。初心者の起業がしんどい所以である。さらに、運よく金を借りて会社を立ち上げても激烈な競争の中で生き残るのはどれほどか。
 あまたのベンチャー企業が生まれ、その大半が潰れ、死屍累々となっている現実がある。学歴・経験もあり、それなりの実力を持っている人ですら、成功するかどうか予測不能のため、独立・起業を躊躇、断念する。
ましてや私のように高年齢、無キャリア、無資本、非常識…とマイナス条件ばかりが勢ぞろいしている人間では、「100%不可能!」と断言されてしかるべきだろう。昔だったら「何とかなった」ことも、今は「何とかならない時代」なのだそうだ。夢一つで「何とかしたい」と出発した私は、冒頭の言葉通り、まったく「甘い!」といえる。
 だが、落胆はしたくない。そういった、日本社会の現実と自分自身を少しでも知ることができたことを有難く思っている。そして、今後の肥やしにしていきたい。今はそんな心境だ。
 それでタイトルはしばらく「学びの日々」にしたい。

※    ※    ※

 ロバート・キヨサカ氏の書いた「金持ち父さん、貧乏父さん」で注目されてからかどうか知らないが、最近、いろいろな場面で「欲望と恐怖」という言葉を目にする。人間は金(権力・名誉)獲得への「欲望」と失敗の「恐怖」という2つの心理に動かされ投資行動などさまざまな行動を起こしているということだ。よく言われる「アメとムチ」は、この人間の深層心理を操作する「方法論」ということなのだろう。
 この「欲望と恐怖」という心理は、当たり前のことだが、やはり実際に資本主義社会で生きてみなければ分からない。もっといえば、社会的サポートが多少なりともあったかつての日本ではなく、公的補助が削減され「自己責任」が叫ばれる今後の日本において、ますます実感されていくのではないかと思う。
 昨年、某外資系生命保険会社の代理店でテレアポの仕事をした。実力主義が徹底し成績次第で昇給昇進もすれば落ちもする、いわば「アメとムチ」の典型のような職場だ。ここではその会社についてではなく、その職場への通勤時、目にした光景について触れたい。
 ビルディングの生垣に男性が横たわっている。頭は建物側に置かれ、手にはビジネスバックが握られている。バックもスーツも靴も上品でいかにも高級そうである。会社でいえば経営者か。だが、ひどくやせ細り疲労衰弱しているのが見て取れる。借金返済のため金策に駆けずり回ったが万策尽きたのか…。弱肉強食のジャングルで傷つき倒れた一匹の獅子を連想させる。付近の路上には常連のホームレスが徘徊している。
 その光景を見ながら通勤する人々の胸に去来するのはおそらく、「明日はわが身」と己を律する恐怖心だろう。
 日本の現実は、生きることは決して「甘くはない」ということを日々この私に強烈に教えてくれている。


 
朝鮮あれこれ

平壌で南北共同メーデー・「労働者もハナ(一つ)」

若林盛亮


 韓国から労働者代表が来るというので、テソン(大城)山で開催されたメーデー会場に行った。
 朝早くから会場は、派手なチョゴリ姿の女性、子供連れも多く華やかなお祭り気分だ。
 会場のアナウンスが韓国労働者代表の到着を伝えるや、いっせいに拍手。2台の大型バスから南の労働者たちが降りだすと北の労働者から歓声があがり、いっせいに手が振られる。両手をあげて応える南の労働者。行事はのっけから高潮気運だ。
 「労働者もハナ(一つ)だ」と韓国代表が演壇に立つやいっせいの拍手。南での労働者の闘い、主に反戦や反基地の反米統一闘争の話が続く。「なぁーんだ、われわれと同じ話をするじゃないか」−近くでささやき合う北の若い労働者たち。
 「われわれ(北)と同じ話」−「米帝による朝鮮半島での対北戦争準備反対」、「米軍基地撤廃」など反戦平和闘争を三大愛国闘争の一つとし、アメリカを「米帝国主義」と非難断罪する南の労働者の話し振りが、米帝の戦争圧力と闘う北の労働者の日常の会話と「同じじゃん」という実感。
 それが「なぁーんだ」という感覚−新聞報道など目にしていたけれど、実際、目の前で会ってみると「やっぱりそうなんだ」という皮膚感覚でわかったということなのだと思う。
 北と南の代表の演説が終わって、芸術公演があり、南の労働者は「労働者が主人」の北の第一級の芸術人の歌や踊りを堪能した。その後、そのまま運動会会場に流れて、北と南の労働者混成で、テソンサン(大城山)とテドンガン(大同江)の二つのチームに分かれての運動会に合流。
 北の女性と南の男性労働者がサッカーボールを互いのおでこで落ちないよう支えあって走る競技は、大爆笑とやんやの喝采だった。ボールを支えようと互いに力を入れすぎて、男女がおでこをガッチンコとやって北の女の子がばったり倒れ、バッチギ(頭突き)食らわせた南の男が心配そうに抱き起こす、それがなんとも言えない感動を呼ぶ。
 6・15南北共同宣言の「ウリ・ミンゾク・キリ(わが民族同士)」精神、「会えばすべて解決する」という民族和解が現実のものと南北の労働者が実感したメーデーだった。傍らで見ている外国人でも胸熱く、かつうらやましくもなった。
 この日、モランボン公園や大同江べりなど公園という公園は、家族連れ、友人同士の野遊会で立錐の余地なく、一日中、焼肉のにおいが市内にあふれていた。


 
 

編集後記

小川 淳


 WBC優勝もあってプロ野球が盛況だ。6月からはワールドカップも始る。
 しかし、スポーツ観戦を心から楽しめる時節ではなさそうだ。後半国会には日本 のゆくえを左右するような重要法案が目 白押しである。
 実行犯がなくても犯罪の合意があっただけで処罰を可能とする「共謀罪」。「出入国管理法」の強化、「教育基本法」の改定や公務員の削減を狙う「行革推進法」。改憲を視野に入れた「国民投票法」。基地住民の声を黙殺するかのように米軍再編の最終報告もまとまった。
 9月までの任期を残すだけになった小泉政権。これら諸法案は、小泉改革が何であったのかを余すところなく示しているのではなかろうか。


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