研究誌 「アジア新時代と日本」

第33号 2006/3/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 −不祥事がもたらす法化社会− 誰のための「法とルール」なのか

研究 今回の景気回復をどう見るか

世界多極化の動き 「さらばワシントン」

朝鮮あれこれ 初めてのデッサン画展覧会

編集後記



 
 

時代の眼


 格差社会−「所得格差は広がっていない」と小泉首相は強気ですが、お膝元の自民党内から「改革7割、格差是正3割でいく」と次の選挙対策を考える声が上がっているように、それはすでに日本の現実です。
 「結果平等から機会の均等へ」「頑張った人が報われる社会を」が小泉改革の方針ですから「結果平等から結果格差へ」は必然です。所得格差の拡大を74%の国民が感じる一方で、競争で活力が高まると考える人が59%という世論を見ると小泉首相の強気にも一理があるように見えます。
 競争で活力が高まり、頑張った人が報われるなら、結果において格差という「痛み」は受け入れるべきであり、「敗者復活戦可能な社会」や「弱者救済」のセーフテイネットで格差の「痛み」が和らげられるのだからそれでよい−これが小泉改革です。
 日本人の三人に一人は一日十時間以上働いているという統計が出ています。またフリーターの若者はかけもちバイト、あるいは昼は資格取得の勉強、夜はバイトに精を出しています。公務員の「親方日の丸」式働きぶりは、民営化で一掃されました。たしかに国民すべてが「よく働き、よく学ぶ」ようになりました。「ヒルズ族」と若者からも憧れの目で見られるベンチャー起業家群はまさに、「頑張った人が報われる社会」を象徴しています。
 しかしながら社会の活力源の基本を「結果格差」の競争に求めるのは、大いに疑問です。
 「勝ち組、負け組」という二分法に「抵抗を感じる」というのが66%の世論になっています。この意味をよく考えてみる必要があると思います。「明日が知れない不安に追われて」と多くの人が答えています。負け組になる恐怖が「よく働き、よく学ぶ」の「活力源」になっています。その頑張りが不安に追われる苦役になっていることに抵抗を感じるのだと思います。また敗者となった多数の貧困化、少子化を必然とする社会、一体感喪失からくる犯罪凶悪化、自殺や子供の危険増加を止められない社会、こうした社会の冷たさも人間として抵抗があります。人間が「抵抗を感じる」ことは、人間社会の「活力源」になりえません。
 市場競争は公正さを図る一つの手段ではありますが、人間の労働を苦役に転化し社会を勝者と敗者に分裂させる魔力も持っています。市場はあくまで人間が利用すべきものであって、市場万能論のごとき人間社会の全ての価値を規定する尺度ではないという冷静な認識の上に立って、国民の本当の頑張り、活力源の基本を「結果格差」の競争、市場中心主義ではなく、働きがいと社会の一体感、皆が共に幸福になることを願う人間の要求に置くべきこと、そのような改革の道を探るべきことを、格差社会論議は教えているのではないでしょうか。


 
主張 −不祥事がもたらす法化社会−

誰のための「法とルール」なのか

編集部


■「法化社会」に向う日本
 証券法違反で摘発されたライブドア事件は日本社会に大きな衝撃を与えた。一方、昨年末からの耐震強度偽装事件の波紋や防衛施設庁談合の発覚など、一連の不祥事が続出している。このような中で、「市場の透明性」、「規律と公正なルール」を求める声が一挙に高まっている。
 来春施行の「公益通報者保護法」は、不正の告発者の解雇、左遷を禁じている。確かに企業の不正の告発者を保護すれば企業ぐるみの談合や偽装はやりにくくなるだろう。証拠隠しの恐れがあればマスコミに通報しても保護するなど、企業の不正を防ぎ公正な競争を促すのが目的だ。
 来年一月から施行される「独占禁止法」の改正案も、談合やカルテルを最初に自首すれば刑事告発を免除する初の「司法取引」を採り入れている。「司法取引」は日本の法に馴染まないとされてきたが、その慣例を打破するほど踏みこんだ改変となっている。
 昨年11月施行の「不正競争防止法」は、秘密を入手した法人も処罰の対象となった。この背景には雇用制度の激変がある。好条件を理由に移籍する人材ともに会社の知的財産も動く。これまでのように意図的なスパイ行為はもちろん、中途採用の増大による「秘密の流入」にも警戒せざるを得ないという、笑えない事態もうまれてきている。
 ライブドア事件に端を発した証券取引法違反事件では、実質的な買収の事実を隠し、株式の分割で株価の高騰を誘い、支配下の投資組合で売り抜け、売却益を還流させたその手法が問題視された。金融庁から切り離し、米国の証券取引委員会(SEC)並の捜査権と監督機能を持った本物の「日本版SEC」を、という声が高まっている。
 周知のように、これら一連の改革は、すべてがアメリカの市場ルールを手本にしたものだ。新自由主義経済を掲げる小泉改革が、アメリカ型市場原理の導入であれば、日本より数歩も先を行くアメリカ型市場ルールを積極的に日本に導入することに異を唱える必要はないのかもしれない。グローバル経済を前提にするなら欧米との「共通なルール」があってこそ、「公正な競争」も可能となるからだ。

■「公正な法とルール」という欺瞞
 耐震偽装や官製談合などの不祥事が日本市場の透明性と信頼を損ねたことは間違いない。その防止策として「法とルール」強化の必要性もわからないでもない。しかしここ10年来の日本の進めてきた構造改革路線は、日本の主体的選択によるというより、そのほとんどがアメリカによって突きつけられ、改変を迫られてきたものだった。今回の「法とルール」も小泉構造改革路線の一環である。問題は、誰のための「法とルール」なのかという点にある。
 アメリカが改変を迫ったその実例として、多くの識者が指摘しているのがBIS規制の導入だ。
 BIS規制とは、銀行の自己資本比率規制のことで、これが8%を下回った銀行には国際金融業務を認めないとする国際協定である。日本は自己資本に株や土地の含み益の一部を算入したために、バブル崩壊後の過程で日本の銀行は自己資本比率の維持に苦慮し、国際金融業務から次々と撤退を余儀なくされた。クレジット・クランチや不良債権問題が表面化し、平成不況を長引かせる原因となった。このBIS規制が、日本の銀行を弱体化させ国際金融市場での覇権を狙った米国資本の戦術であったことはもはや周知の事実となっている。
 もう一つ米国基準の導入の例を挙げるなら、95年の「保険業法改正」による簡易保険の自由化がある。日本保険市場の開放はアメリカが早くから求めてきたターゲットの一つだった。95年の大改正によって保険業界では生保と損保の垣根が撤廃され、保険商品の開発、料金が自由化され相互参入が可能となった。重要なのは、95年改正で導入されたソルベンシー・マージンと呼ばれる基準だ。ソルベンシー・マージンとは保険会社の保険金支払い余力を測るものさしで、そこに保険会社が保有する株や土地といった資産の含み益も算入された。株や土地が下落したバブル崩壊の真只中だっただけに、支払能力に不安視された会社には解約が殺到し、次々と経営危機に陥り、最終的にはほとんどの保険会社が外資に買収された。 
 では、今回の「法とルール」の大幅な改正は、どうなのか。
 関岡英之氏の「拒否できない日本」によると、アメリカの「年次改革要望書」は、94年以来、一貫して日本の「公正取引委員会」を問題視してきたという。アメリカの要求は、職員数の増加ばかりか、公正取引委員会に国税庁並の捜査権を与えること、内部告発者との司法取引など、極めて具体的だ。
 今回、新たに施行される「公益通報者保護法」、独占禁止法改正による「司法取引」導入も、証券取引委員会の権限強化も、アメリカの「年次改革要望書」の内容と完全に一致しており、すべてアメリカの要望に基づいたものだ。
 確かに防衛庁談合事件や耐震偽装事件などを見れば、日本の市場に「公正さ」「透明さ」はないのかも知れない。しかしアメリカが自国の「法とルール」を日本にうけ入れさせるのは、それが「公正」「透明」だからでも、日本のためだからでもない。BIS規制、保険法改正を見ても明かのように、それはあくまでもアメリカの国益、アメリカ資本ためのものである。

■強者のための「法とルール」
 アメリカのための「法とルール」であっても、それが「公正な」ものであり、日本社会の繁栄をもたらすものであれば良いではないかという論理も確かに成りたつ。また、一般論として、市場での自由競争がイノベーションを生み、社会の発展を生む、という意味でそれは正しいかもしれない。
 しかし、このような市場原理主義は本当に市場の公正さや社会の発展をもたらすのだろうか。
自由化した市場にあって「法とルール」が、アメリカのため、アメリカ資本のためのものになるのは必然だ。なぜなら、自由化した市場、新自由主義市場には、原理的に「公正な法やルール」などありえず、あるとすれば勝つための手段としての「強者の法とルール」でしかないからだ。
 新自由主義経済の考え方は、徹底した自由放任主義、民間企業の経済活動に対する一切に政府の規制や介入を拒否するものだ。経済活動に対する政府の介入を制限して市場原理に委ねるべきだとする自由放任主義は、80年代のレーガン政権に採用され、「小さな政府」の理論的支柱となった。
 自由放任という考え方は、すでに18世紀市民社会形成過程で、ブルジョア的個人の利益追求を自由に競争させておけば、「見えざる手」の導きによって、社会全体の繁栄が実現されるという主張として現れてくる。それまでは社会の破壊者とみなされてきた利己心が、逆に社会を発展させる原動力と見なされるようになった。
 この徹底した利己心と利己心の競争にあって、そこに貫かれるのは、常に強いものが勝ち、弱いものが負けるという「弱肉強食の法則」でしかない。そのような経済下での「法とルール」は、徹底して強いものに有利な、強者のための「法とルール」となる以外にない。
 この間出されてきている「法とルール」がアメリカのため、アメリカ資本のための「法とルール」になるのはそのためだ。

■共同体原理に基づく「法とルール」を
 日本市場で「法とルール」がことさら強調されるのは、これまで日本国内の商習慣や企業間の談合・カルテルが米系外資の日本市場参入を阻止し、自由な競争を阻害してきたからに他ならない。
 そうした中、アメリカのための「強者のルール」が日本市場に適用された結果、日本経済はどうなってきたか。保険業界や金融市場、流通業界などにあって、多くの日本企業が経営破綻に追いこまれ、アメリカ資本による日本支配が生みだされてきた。そればかりか、ライブドアや耐震強度偽装に見られるような倫理の崩壊ももたらされている。
 「倫理なき自由経済は破滅に向う」と日本経団連の次期会長、御手洗富士夫氏は警告を発している。正にその通りである。企業倫理は利己心の競争原理からは生まれようがない。いかに「法とルール」を強化しても第二、第三のホリエモンは後を絶たないだろう。
 元来、倫理とは利己心の対極にあるものだ。企業が提供する財とサービスの質の保証、従業員の雇用確保や地域社会への貢献など、企業が担う社会的責任は競争原理からではなく、消費者、雇用者、地域とともに利益を分け合う共同体原理に基礎して初めて確立する。日本のための「法とルール」も、この共同体原理に基礎してこそ見えてくるのではなかろうか。


 
研究

今回の景気回復をどう見るか

小西隆裕


 このところ、景気の回復を断言する声が高まっている。1990年のバブル崩壊後、長期に渡った経済停滞が終わり、新しい好況の時代が来たというのだ。
 昨年10―12月期のGDP成長率前期比年率換算5・5%増、消費者物価3ヶ月連続上昇、求人倍率1・00倍回復(13年3ヶ月ぶり)、等々、景気回復を思わせる数字が並んでいる。単にそれだけではない。重要なのは、短期の在庫循環(3―4年)、中期の設備投資循環(10年前後)、長期の建設投資循環(20年)などがそろって上昇に転じてきていることだ。
 そうした中、株価の上昇が著しい。03年に日経平均、7000円台にまで落ち込んだ株価が05年12月には1万5000円台に回復し、株式売買高は、すでにバブル期を超える水準にまで膨れ上がってきている。株式投信残高も昨年一年で倍増し、ケータイ投資家の株売買も6割増と跳ね上がっている。それを受け、証券各社が軒並み営業網の新規拡大に大童だ。
 事態がこうなってくると、当然出てくるのは、実態経済とかけ離れ買いが買いを呼ぶ株式相場、投機相場の膨張、いわゆる「バブル」への警戒感だ。実際、現況は20年前のバブル発生期と共通点が多い。総選挙での中曽根自民党と小泉自民党の圧勝、NTT、郵政の民営化、それに続く外資の大量流入と日本株買い、人為的な過剰流動性の放置(公定歩合2・5%利上げ自粛と量的緩和解除の引き延ばし)、そして先述した在庫循環、設備投資循環、建設投資循環の同時上昇。すべてが驚くほど酷似している。これだけの共通点があれば、バブルの発生を警戒しない方がおかしい。
 もちろん、歴史に完全な繰り返しはない。当時との相異点があるのは事実だ。主なものだけ見ても、二極化の進行、膨大な貧困層の形成による消費の伸びの抑制、「貯蓄から投資へ」の政策誘導やIT化によるネット取引の加速、等々にともなう個人投資家の増大(株売買の約3割)、そして外資による日本株取得の進展(主な上場株式の約3割、株売買の約3割を占めている)などが挙げられる。だが、ここで留意すべきなのは、これらの相異点がバブルの発生を抑える側面を持っている反面、それ以上に促す側面が強いことだ。
 こうした中、重要なのは、今回の景気回復が外資によって誘導され、外資のために促進されているという事実だ。昨年、小泉自民党の圧勝を契機とする日本株式市場活況化の主役は、徹頭徹尾外資だった。外資による日本株の大量買い、一人買いが話題になり、それに続いて、個人投資家が大挙参入しての株価の急上昇が始まった。
 それにも増して、この景気回復が外資のためのものであるということが重要だ。バブル崩壊後、これまで二度あった景気回復局面で、緊縮財政、デフレ政策を採り、回復の芽を摘んできた自民党政権が、今回は、通貨流通量を増やす量的緩和の解除を遅らすなど、景気回復を促進する策に出てきているということだ。この矛盾する不可解な動きの背後には、緊縮財政、デフレ政策による外資の日本企業買いの促進とその一段落がある。すなわち、デフレ、不況が労働市場のアメリカ化(非正規・不安定雇用化と成果主義導入)を促すと同時に企業経営の破綻を促進し、外資による日本企業買いに有利な条件をつくったこと、日本企業買いが一段落した今、景気回復による利益の拡大が要求されるようになったこと、ということだ。このただひたすら米系外資の利益をはかる自民党政権の動きの背後に、量的緩和解除の時期などに関するIMFの指令があるのはもはや公然の秘密になっている。
 今日、好況感は、世界的範囲に広がっている。04年初めから05年11月までの世界各国の株価の動きを見ると、日本株の上昇率は、44・6%で、13番目にすぎない。そして、日本自体の景気の循環を見ても、今の景気回復は、その上昇局面にそったものだ。逆に言えば、IMFと米系外資は、こうした世界と日本の景気の動向をにらみ、それに合わせて今回の景気回復に向けての準備を周到に行いながら、満を持して「日本買い」を仕掛けてきたと見ることができるのではないだろうか。
 その上で問題は、この外資による外資のための景気回復が日本にとっては大変危険なものになる可能性大だということだ。
 一つは、これがバブルの発生と崩壊をもたらすことだ。それは、20年前の現実が示している。外資は、どこまでも外資である。米系外資の日本企業買いが進み、彼らと日本経済との利害関係が一致してきているといっても、それには限界がある。バブルの発生・膨張に対する彼らの責任性に期待するなど、到底できないことだ。まして、バブルが崩壊するか否かの極限状況で、彼らの逸早い逃亡を阻止できるなど、想像することもできない。それに加えて、個人投資家の増加も、バブル崩壊の危険性を大きくする方向に作用するだろう。ホリエモン転落の報に接し、ライブドア売りに殺到した彼らのパニックは、そのことを雄弁に予告しているのではないだろうか。
 もう一つは、今回の景気回復が前回同様、アメリカによる謀略の一環である可能性が大きいということだ。前回のバブルの発生と崩壊は、それを「第二の敗戦」と呼ぶように、アメリカの掌の中でのことだった。すなわち、自由化を強要するアメリカの巧妙な誘導に乗って、日本は自らバブルをつくり、はじけさせられたのではないかということだ。その後の長期経済停滞のもと、著しく進展した日本のアメリカ化、アメリカの属国化、傭兵化は、もはや歴史的事実になっている。
 歴史は、やはり繰り返すのか。一度目は悲劇として、そして二度目は喜劇として。だが、この喜劇は、日本にとってはこれ以上にない悲惨な現実となるのではないだろうか。前回を幾層倍も上回るバブル崩壊の衝撃が戦争を含む最大級の不幸を日本にもたらさないという保証はどこにもない。事態は重大だ。誤りが繰り返されてはならない。今こそ、長らくアメリカに追随してきた日本のあり方自体の根本的見直しが問われているのではないだろうか。


 
世界多極化の動き

「さらばワシントン」

 


 04年にウルグアイで左派のバスケス政権が誕生したとき、その就任式に集まった南米の首脳たちの共通のメッセージは「さらばワシントン」。その動きは、今年も勢いを増している。

■今年も年初から
 1月にボリビアで先住民出身のエボ・モラレスが大統領に当選。同じくチリでも初の女性大統領で中道左派のミッチェル・バチェレが当選。これで、南米12カ国のうち、完全な親米政権はコロンビアだけになった。ラテンアメリカ全体でもパナマが反米政権であり、メキシコ、エルサルバドル、ニカラグア、コロンビアでは首都に革新派が首長。今年に予定されているメキシコの大統領選では、そのメキシコ市長ロペス・オブラドルが有力視されている。

■新自由主義改革反対
 ボリビアの新大統領エボは、当選を祝う群衆を前に「人々の力を味方に植民地的な国家体制や新自由主義の経済体制を終わらせる。この闘いは歩みをとめない」と述べた。  ラテンアメリカでの新自由主義改革は、1989年の「ワシントン・コンセサス」によって、米国がこの地域に貿易・金融の自由化や政府系企業の民営化などを基軸にした「改革」プランを押し付けたことによって始まった。  しかし、結果は、ほんの一握りの億万長者が生まれる一方、国民の大多数が貧困化する極度な社会の二極化であり、アルゼンチンでの通貨危機など、各国経済の壊滅的な打撃であった。  その打撃は、下層に行くほど大きく、先住民の比重が大きいボリビアでエボ大統領が勝利したのもそういう事情が背景にある。

■「米国の侵略に備えよ」
 ラテンアメリカでの反米自主政権の嚆矢は89年に誕生したベネズエラのチャベス政権。チャベスは「ボリバール革命」(ボリバール=南米をスペインの植民地から解放した19世紀の革命家)を掲げ決定的な人気を集めている。  最近、スパイ行為を行ったベネズエラ駐在の米大使館付き武官を追放したことをもって、米国が国交断絶の脅しをかけるや、チャベスは、「米政府が我々との関係を断絶するというのならすればいい。そうすれば私は米国にある我が国の原油精製所を閉鎖せよと指示するであろう」と反撃。  これに対処して、チャベス政権は、防衛力強化に力を入れ、TV放送で、米国の侵略に対処して戦争準備に備えることを国民に呼びかけ、万一、米国が侵略してくれば国防軍と予備役、地域住民で構成する地域軍がこれに立ち向かい、ラテンアメリカの多くの国々の人民も立ちあがるだろうと述べた。


 
朝鮮あれこれ

初めてのデッサン画展覧会

赤木志郎


 二月中旬、国際文化会館にて初めてのデッサン展覧会が開かれた。市内に走るすべてのバスにそのポスターが張れており、気になって時間をみつけ出かけてみた。
 そもそも素描にすぎないデッサンで展覧会を開くということから変わっている。入ってみると雰囲気が異なっている。いつもなら美術学校学生などが主なのだが、かなり年輩の人もいれば中学生もおり、学生が多いとしてもいろんな学校の学生たちであり、しかも皆、熱心に展示されている絵を見入っていた。専門的な美術展覧会にない、大衆的な活気がそこにあった。
 なぜ、デッサン展覧会なのか。この数年間、共和国の人々は「苦難の行軍」という厳しい闘いをくりひろげてきたが、デッサン画のテーマのほとんどがその闘いのなかで生まれたものである。歌と踊りのない生活がないように美術のない生活もない。闘いが新しい芸術を生み出していたのである。
 これを見いだしたのは、金正日国防委員長だとのこと。軍人のなかに入って若い兵士たちが鉛筆で絵を描いているのを見て、それらを作品として評価し、この展覧会をおこなうように発議されたとの話である。主催者は初めての試みでどうなると心配したそうだが、数多くの作品が寄せられ、そのうち800余点の絵が選ばれ展示され、数多くの人々が訪れており大成功だった。
 中学生、学生、軍人、美術家など部門別に展示されていた。素材は鉛筆、黒炭、マジックペンなどである。陰影を出すために人物画が多かったが、英雄の姿や先軍時代の生活を反映した作品のために人物を描いたのだと思う。写真と見間違うような作品もあり、淡い幻想的な絵もあった。それはもはや単なるデッサン画ではなく、時代と生活が生んだひとつの芸術作品であった。
 私が一番、興味を惹かれたのはリ・ドンチャン氏の作品であった。他の作品に比べそこに独特な世界があった。聞いてみると、美術を専門的に学んだ人ではなく、製靴工場で靴を毎日書いていて上手になったのこと。街に出かけては絵を描き、歌も好きで、今や平壌靴工場の支配人でありながら、功勲美術家として個展まで開き、ドイツの展覧会でも有名になったそうである。ドイツ人が工場の支配人でありながら美術家であることを信じられず、工場に行って確認し驚いたそうである。
 芸術は大衆が創造するものであり、その厳しい闘いと生活のなかから生まれるものだと実感した。


 
 

編集後記

小川 淳


 今年に入って、小泉改革の総仕上げが叫ばれる一方、景気の回復や、法化社会が声高に叫ばれるようになった。あたかも「新しい時代」が幕開けたかのような雰囲気が漂う。
 今、日本が、明治、戦後に続く第三の転換期を迎えていることは事実だろう。彼らの叫ぶ「新しい時代」が日本にとって、わたしたち国民にとって良い時代であるかどうかは定かではない。むしろ生活実感や世相に浮びあがる日本の実相は、まったく逆のことを示していないだろうか。
 なぜそうなのか。その大きな原因として「新しい時代」がアメリカや外資によって作られてきていることがあげられるのではないかと思う。古い時代が崩壊し、日本自身による「新しい時代」の創造、その胎動を何処に見つけ、どう開いていくのかが問われているのではなかろうか。


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