歴史に学ぶ ―「今の『改革』は戦前の革新ブームと同じ」― 盟主信仰が国を滅ぼす
東アジア共同体参画のために 脱「脱亜」論 アジアのナショナリズムへの理解、共鳴から
時代の寵児、ホリエモンが不正容疑で逮捕されました。その報に接して、茫然自失した若者も少なくなかったようです。
徒手空拳で立ち上がり、新興IT産業とともに急成長し、在来大手メディアを乗っ取り寸前まで追い込んで青くさせたその「英姿」は、まさに現代の信長でした。一言でいって、彼は現代に生きる若者たちに夢を与えたのだと思います。
もちろん、「カネがすべてだ」「人の心もカネで買える」などと放言し、すべてをカネで解決しようとするホリエモンに若者たちも人間的には好きになれないものを感じていたようです。だが、この閉塞状況にあって、既成世界に単身切り込むその起業家魂に、それにも増した共感を覚えていたのではないでしょうか。
そのホリエモンの凋落に愕然とし、涙まで流す若者たちの姿に思うのは、こうした「起業」にしか夢を見出せない現代日本の現実です。
あの逮捕劇の直前、ホリエモンは、自家用ジェット機で女優同伴のパラオ旅行としゃれこみ、続いてラスベガスへのギャンブル旅行へと繰り出していたようです。一夜にして数十億のカネを稼ぐ、その結果がそんなものでしかないとしたら、少し寂しい気がします。
一方、「勝ち組の象徴」であるホリエモンを小泉改革の寵児として先の衆院選にかつぎ出した自民党は、今は、「あれとこれとは別問題だ」と、彼との関係を打ち消すのに懸命です。その背後では、今回の「不正」を口実にアメリカン・スタンダードの市場のルールづくりが始められています。
所詮、ホリエモンは、お釈迦さんの掌の中で飛び回っていた遜悟空にすぎないのではないかと思います。アメリカ主導の市場という釈迦の掌の上で、彼は、いいように使われ、利用され、挙げ句の果てに捨てられた現代の遜悟空だと言えるのではないでしょうか。
だが、そんなことを言っても、あまり大きな意味はないように思います。「自分はホリエモンの轍は踏まないで・・・」という、無数の若き起業家たちの群れがあとを絶たないと思うからです。
「起業」を超える夢が見当たらない。まさに、この現実を変えることこそが今もっとも切実に求められているのではないでしょうか。
■アジア観が問われた年
戦後60周年という節目の年であった昨年は、歴史認識をめぐってアジアの反日ナショナリズムに揺れ、日本のアジア観が問われた年だった。
近代日本のアジア観の源流を辿れば、福沢諭吉の「脱亜論」に行きつく。しかし、明治以降の日本人のアジア観が「脱亜論」一色であったわけではない。戦前には、幕末の攘夷ナショナリズムを受け継ぎ、欧米の侵略に苦闘する中国を見ながら、アジアとの連携に活路を求めた先駆者も少なくなかった。孫文の辛亥革命を支援したアジア主義者や「アジアはひとつ」と提唱した岡倉天心などは、その好例と言えよう。
戦後にも多くの親アジア派が存在したが日本の政治の主流にはなれなかった。戦後の日本の政治を担ったのは、冷戦構造下で対米同盟を基軸とする親米派だった。戦後政治の改革を唱え、自民党を「ぶっ壊す」と華々しく登場した小泉首相もまた、この対米一辺倒の戦後政治を旧来の自民党政権の誰よりも忠実に継承し、更なる「入米」の新段階へと突き進んでいる。
■アジアとは何か
私たちがアジアという言葉に思い浮べるものは何か。アジアという地理的概念一つとっても、中国、朝鮮から、広大なイスラム諸国に至るユーラシアは広大無辺だ。例えば、私たちは「ヨーロッパ」という言葉を聞けば、一つのくっきりした輪郭をイメージすることができるが、そこにはヨーロッパという一つの概念で括ることのできる文化や伝統があるからだ。アジアをそのような一つの概念で括るのは困難だ。が、アジアにはやはりヨーロッパとは違う、米大陸、アフリカとも違う、アジア独特の魅力がある。
アジアには中国のような社会主義国もあれば、西アジアのイスラム諸国、タイやビルマのような仏教国、フィリピンのようなキリスト教国もある。豊かな資本主義国もあれば、貧しい国もある。一つに括ることのできない文化や歴史の多様性、異質なものが共存・融合する寛容性、それらが幾重にも複雑に重なり絡み合っている、この混沌とした奥行きのある多様性こそアジアの魅力かもしれない。
しかし、欧米に比べてアジアは近代化で大きな遅れを取った。近代以降、アジアの大部分は欧米列強の植民地になり、太平洋戦争の舞台となった。戦後は資本主義と社会主義という冷戦のイデオロギー対立が持ちこまれて朝鮮戦争からイラクに至るまで、今でも戦火にまみれている。その結果、経済的にも正常な発展を阻害され、文化的後進性の下でバラバラな苦難の歴史を強いられてきた。それがアジアのもう一つの顔だ。
私たち日本人は明治以降、福沢諭吉を典型とするように、欧米を理想のモデルとし、アジアは三流国と見下してきた。取るに足らない劣等国アジアからの脱出こそ日本の文明開化だった。戦後もまたアメリカに負けたと総括することによって、欧米の一員になることを国つくりのモデルとしてきた。私たち日本人には、「進んだ欧米、後れたアジア」というアジア観が今尚色濃く残っているのではなかろうか。
■輪郭を現した「新しいアジア」
しかし、アジアは変りつつある。
一つには「アジアによるアジアの再発見」(シンガポール外相)がはじまったことだ。東アジア地域の域内貿易シェアは、すでにNAFTAを上回り、EUに迫っている。これらの経済的連携の高まりを背景に、昨年12月にはクアラルンプールで初めて東アジア・サミットが開かれ、アジアでEUのような地域共同体を形成しようという構想が動き始めた。岡倉天心がインドの詩人、ダゴールとともに「アジアは一つ」と提唱してから百年、時代は大きく回転しつつある。
東アジアばかりではない。ユーラシア大陸でも地殻変動が起きつつある。中国、ロシア、インドというユーラシアの三大国が、これまでの大国主義を乗り越え対立から連携へと大きく転換したことである。世界一の産油国、エネルギー供給国にのし上ったロシア。アメリカを抜いて世界最大の経済大国になると予想される中国。ITを軸に経済成長が著しいインド。
この三カ国は、仲が悪かった。中ソ関係は、おたがいに仮想敵国とみなし、冷戦後も軍事衝突の可能性を抱えていたほどだ。中印関係も国境紛争を抱え、小さな軍事衝突を繰り返してきた。そのため中国はインドと対立するパキスタンに接近し、逆にインドはソ連に接近したという歴史がある。この歴史的関係からみれば三国の戦略的連携の可能性は低いと最近まで見られていた。
ところが、96年にスタートした「上海ファイブ」は、中ロに加え、ウズベキスタン、モンゴルも参画する「上海協力機構」として結束を強めている。昨年6月の会合には、インド、イラン、パキスタンもオブザーバー参加した。8月には中国、ロシア合同軍事演習を実施し、10月には史上初めてロシア、中国、インドという三外相がウラジオストックで会合を開いた。大国同士のいがみ合いは過去のものとなり、眠っていたユーラシアがダイナミックに動き始めている。
2000年6月15日の南北共同宣言以降、冷戦構造の象徴と見なされた朝鮮半島でも、歴史的な和解と協商が始まっている。昨年のソウルで開かれた解放記念式典はまさに和解の象徴と化し、統一前夜を思わせる雰囲気となった。経常利益で松下や日立を追いぬいたサムスン電子、生産台数で日産に急迫する現代自動車、鉄鋼生産量で新日鉄に迫るポスコと、韓国企業の躍進が著しい。ケソンで進む経済特区の開設は、アジアで飛躍する南北経済のカンフル剤となる可能性がある。
欧米志向からアジア再発見へ、対立から協力連携へ、冷戦から和解統一へ、このアジアの流れは、世界的な多極化の流れに合流しつつ、それを加速するものとなっている。重要なことはこれまで政治的にも経済的にも欧米に依存してきたアジアが、自己のアイデンテイテイに目覚め、アジアとしての自信と誇りを持ち始めたことである。言いかえるなら輪郭の見えなかったアジアがその輪郭を現し、欧米の後塵を拝し眠っていたアジアが目覚め始めたと言えなくもない。古いアジアから新しいアジアへ、時代は確実に動いている。
■覇権の呪縛
ところで、これらアジアの新しい動きを日本はどのように見ているのだろうか。
強引な東シナ海での資源開発や、経済力を背景にした軍事力の強化、靖国を契機にした反日ナショナリズムの高揚など中国の動きを「脅威」と見る識者は少なくない。また、資源を武器にアジアとの提携を強めるロシアを「大ロシア主義」への回帰として警戒する論調も目立つ。確かにアジアの内部には様々な対立や矛盾があり、また中国に日本に対する対抗意識があることも事実かもしれない。
だが、現在のアジアの変貌を覇権主義の一面からだけで見ると変化の本質を見誤ることにならないか。例えば、東アジア・サミットが東南アジア友好協力(TAC)への加盟をその参加条件としていること、中国がその条約に日本に先んじて加盟したことはその一例だ。TACの基本精神は、主権の尊重、内政不干渉、武力行使の放棄など、徹底した反覇権精神であり、この主権尊重という一点においてEUやNAFTAなどの他の共同体とは一線を画している。そこにアジアが求める共通の価値観、アジアの歴史が生んだアジア独自の新しい価値観がある。そしてこのTAC精神を生んだのは、50年代の中国やインドなど非同盟運動だった。
これまで古いアジアは世界列強の覇権争いの場となってきた。アジア内部でも大国主義があった。それらは多かれ少なかれ大国の覇権主義的志向から生れている。この覇権を乗り越えようという、新しいアジアの形成がいま始まっている。東アジア共同体構想も、上海ファイブも、朝鮮半島の統一への動きも、その萌芽であるだろう。
「脱亜」から「入亜」へ、日本が転換するために何よりも重要なことは、日本自身が覇権の「呪縛」から解放されることである。今、日本は、自分自身がアメリカの覇権の同調者となっているからか、覇権的視点からしか新しいアジアを見ることができないでいる。日本にこの覇権の呪縛からの目の曇りがある限り、アジアの新しい姿は見えてこないだろう。
アジアが求める歴史認識問題も、覇権の呪縛ゆえ、徹底した反省ができずにいる。ただ、覇権の呪縛から抜けだし新しいアジア観に立つとき、「後ろ向き」ではない未来志向の歴史認識がうまれ、そこから新しい「入亜論」が生れてくるのではなかろうか。
歴史に学ぶ ―「今の『改革』は戦前の革新ブームと同じ」―
■昭和史の語り部
「日本のいちばん長い日」という映画が1967年にヒットした。この原作者で「昭和史の語り部」とされる作家、半藤一利氏が「エコノミスト」誌(1/17号)で「『改革』が国を滅ぼす」と述べている。
「昭和元年から約10年間の日本では、『革新』という言葉が一世を風靡したんですよ。『革新将校』『革新官僚』が、『革新』『革新』と叫びながら、とんでもない方向に日本の国を引っ張っていったんです」。
半藤氏は「今の『改革』は、戦前の革新ブームと同じです」と危惧する。
「革新将校」による1931年の満州事変の時に、日本のマスコミがいっぺんに軍部に同調、それから「革新」が盛り上がる。これが昭和史の転換点だったとすると、今、イラク派兵、憲法の埒外で自衛隊が出ていくというのが「戦後の終わり」、まさに平成の転換点だ。だから戦前と今とを等値で見ると、「満州事変」「革新将校、革新官僚」、それが「イラク派兵」「改革、改革」の流れになる、と指摘。
これを昭和史の語り部の改革ブームへの警鐘として受け取るべきだと思う。
■時代閉塞感打破の「挑戦者」
戦前の「革新」派も今の「改革」派も時代閉塞打破の国民感情を代弁する挑戦者として登場した。まさにブームとなり、国をあらぬ方向に導く危険性をはらむ所以だ。
昭和初期の「革新」派は、西洋的原理への懐疑を背景に登場した。
「当時、『西欧の没落』という言葉が定着し、英米仏の自由主義、資本主義は末期的段階に入り、『世界の歴史の大転換点である』と左翼も右翼も、そして軍部もぶちあげていた」(田原総一郎「日本の戦争」)
第一次大戦後、世界は平和と安定に向かうのではなく、敗戦処理をめぐる列強間の軋轢に決着をつけるべき新たな世界戦争が必然とされた。1929年のウォール街株価大暴落に始まる世界大恐慌は、資本主義経済を大混乱に陥れ、自由主義経済の「修正」を各国に迫り、チャップリン「モダンタイムス」の描く機械奴隷化される人間は、欧米式機械文明への懐疑を人々に抱かせた。
この時代閉塞感打破をかかげて「革新」派の軍人、官僚、民間右翼は、来るべき世界最終戦争に勝利する全体主義への国家改造−昭和維新を訴え、西洋文明と東洋文明の決戦に生き残るため東亜諸民族の団結体、大東亜共栄圏建設を唱えた。「昭和維新」の2・26事件、「五族協和」「王道楽土」建設の満州事変、そして日中戦争、太平洋戦争の惨敗まで「革新、革新」が続いた。
今日の「改革」派も同様である。
平和をもたらすはずだった東西冷戦の終結は、紛争と戦争のより予測不可能な世界に平和憲法下で国際紛争不介入を誇った日本を異端視するようになった。グローバリズムはこれまで日本の成長神話を支えた「日本型集団主義」を停滞の代名詞とし、市場主義は日本固有の家族主義、共同体主義の温情を怠慢の象徴とした。「改革なしに未来はない」と、国民の不安を背景に果敢な「挑戦者」、「改革」派は勢いづく。
この「改革」派が国を滅ぼす。それは何故か?
■盟主信仰の「革新」「改革」
「あの頃の革新将校といわれた人たちは、みな40代、50代なのです。日露戦争の栄光を背負っているだけであって、戦争の悲惨を何も知らないのですね。今、改革を唱えている人たちは、太平洋戦争の悲惨が終わった後の世代だけを生きた人たちです」
半藤氏の述懐だが、「革新」「改革」は何を「知らない」から国を滅ぼすのか?
「日露戦争の栄光」−西欧列強に勝利した最初で唯一のアジア民族、皇国日本が遅れたアジアを欧米の植民地化から救う大東亜の盟主となるべきだという幻想、これが「革新」派の信仰であった。現実は、日本を東亜の盟主と仰ぐアジアの団結はおろか逆にアジアを反日にし、「対米最終戦争」で日本は孤軍奮闘、惨敗を余儀なくされた。アジアは盟主なぞ望んでいなかったのだ。「革新」の無知が国を滅ぼした。
今の「改革」派は、米国が「自由と民主主義」世界の盟主であり、米一極世界にこそ日本の未来はあるという信仰に支えられている。その改革は、アメリカンスタンダード(米国標準)の国内改革であり、「世界の中の日米同盟」による世界改革だ。
東アジア共同体への日本の参画を呼びかけるアジアはもちろん、多極化志向のヨーロッパ、中南米、アフリカも、いかなる盟主も必要としておらず、それを認めてもいない。アジアの「反日」は、戦前の「革新」派と同じ盟主信仰の「改革」派に向けられたものだ。イラク派兵に最後までつき合うのが英国とわが国くらいという孤軍ぶりは、米国の「自由と民主主義拡大」、反テロ戦争に従う平成「改革」派の描く未来の危うさを示している。米国を盟主と仰ぐ「改革」は、戦前同様、時代と世界からの孤立、戦争と亡国のいつか来た道である。
盟主信仰のパワーポリテイクス的思考が国を滅ぼす。平成の「改革」派は、昭和「革新」派の教訓を噛みしめるべきであろう。
耐震強度偽装、ライブドア、東横イン事件が連日紙面を賑し人々の不安と不振が渦巻いている。官から民への規制緩和の行過ぎと改革の影がでたのだと識者は言う。また、別の識者はこれは単なる経営者のモラルの問題であってこれをもって改革の流れを止めてはならないと。人々は時代の寵児「ホリエモン」の逮捕に唖然とし、マスコミは昨日までのヒーロー扱いから犯罪者扱いへと方向転換だ。
企業の経営者に儲けすぎるのを止めろといえば、企業が成り立たず失笑を受けるだろう。しかし、企業の経営者に高潔な人格を求めるとすれば、実現は難しいとこれも失笑されるに違いない。では、金儲けの為に何をやっても良いかと問えば、否と答える人が多数に違いない。おのずと企業活動にはルールがあり、そのルールなくして社会の秩序は成立し得ない。今回の事件の経営者は、利益を上げるためには、法の盲点をつくなり、判らなければ何をやっても良いという安易な経営手法と拝金主義があったということだろうか。
構造改革の下、規制緩和、競争至上主義なる新自由主義経済が推し進められてきた。競争すればより良い物が安くなり国民の利益になる。限りなく規制を撤廃しハードルを低く低く、そして官から民へ。このことが企業に熾烈な競争を強い、企業の在りようを変質させたのではないか。
企業とは本来利益を追求するのと同時に、社会に貢献する責任があるはずである。商品やサービス、雇用や地域にたいする利益還元である。昨今の過度な競争社会においては、不安定雇用の増大、それに伴う、賃金の低下など、企業が利益を追求するあまり、一方の社会的責任を放棄し、それが格差を増大し不安定社会の増大を招いている。
本来、規制緩和など社会の変革をもたらす改革は、国家としてのグランドデザインを描き行うのが正道のはずである。産業革命のころ、6割の産業が大きな転換を強いられ、多くの労働者が塗炭の苦しみを味わった経験を我々は忘れてはならない。情報革命が叫ばれる今日、同じような改革が迫られているのは時代の必然としても、その社会的リスクをどう軽減し、社会を安定させて改革するのか、その視点を今の構造改革に見てとることはできない。つまり、なし崩し的改革であり、新資本主義、グローバル化の波に翻弄された改革にすぎず、どこぞの国の追従、盲従の域を出るものではない。誰の為の改革なのか。今回の事件を通して、我々は日本のこれからを真剣に考えることを迫られているのではないだろうか。共存、共生、共栄の社会を目指して。
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先日(1月中旬)、昨年10月に操業開始した「平津(ピョンジン)自転車合弁会社」を訪ねました。
「平津自転車合弁会社」は、朝鮮対外経済協力推進委員会と中国の天津デジタル貿易責任有限公司との合弁会社で、「モランボン」という商品名の自転車組立生産をおこなっている会社です。
敷地面積は9800平方メートル。部品倉庫に連結された生産工場は、オートメーション化された作業ラインが設置され、1工程が1分で終わるとのこと。年間10万台の生産を予定しており、都市用、農村用、スポーツ用、子供用など各種の自転車、その他乳母車、車椅子、カートなど全部で26種類を生産しています。
小さいものまでいれれば1千余の部品があり、カゴのような大きな部品は運搬費がかさむので、今後は朝鮮で生産する方向です。1年間の品質保証つきで、部品販売もするので大変喜ばれているとのことでした。
今は、国内むけの農村用自転車を生産しており、特に協同農場の需要が多いとのことでした。2月から子供用とベトナム向けなど輸出用生産が本格的に始まるそうです。
もともと「ピョンヤン自転車」を製造していた工場だったので、自転車生産での苦労はそれほどないが、工場建設が大変だったとのことでした。工場設備一式が相手会社から送られてきたが、皆で知恵と力を出し合って170日間で建設したそうです。
ガラス張りの展示場には、可愛らしい乳母車や子供用自転車など各種の自転車が並んでいました。用途別、国ごとにも特徴があるとのことなので、「朝鮮での特徴は?」と尋ねると、農村用には前にカゴがあり後ろにも荷物を置く台が設置され肥料運搬などに便利との返事が返ってきました。そして、以前生産していた自転車の特徴は、丈夫なことと、にっこり笑いながら重たかったとことだと。現在の「モランボン」自転車は丈夫で機能的、しかも軽いので人々にとても喜ばれていると、実に嬉しそうに語る若い支配人の姿が印象的でした。
その日は、色とりどりの自転車が軽やかに走る農村風景を想い描きながら、私もかわいい自転車を購入してピョンヤンサイクリングをしたくなりました。
東アジア共同体参画のために 脱「脱亜」論
明治18年、福沢諭吉は「アジアの悪友を謝絶して西洋文明国と進退を共に」という「脱亜論」を説いた。以後、福沢の予言どおりに欧米列強に伍しアジアに覇を求めた日本は、1945年、敗戦の悲運を舐めた。
その敗戦から60年の昨年、東アジア共同体参画という新たな「入亜」の熱気から一転、新たな「アジア悪友論」が台頭してきている。
日本が東アジア共同体構想に積極的に参画、「入亜」を果すためには、「アジア悪友」観の克服が先決である。「アジア悪友論」克服の上で最も重要なことは、アジア・ナショナリズムへの正しい理解であり、そのためには近代日本ナショナリズムへの評価が不可欠である・・。この小冊子はこのような問題意識から書かれている。アジアへの態度が問われている現在、「脱亜」から「入亜」への歴史的転換のために、是非、読んで欲しいブックレットです。
「今、私たち日本人は様々な問題に直面しています。これらの問題は戦後だけの問題ではなく、日本近代化127年の問題なのです。8月15日の前の歴史と後の歴史は正確に分けられる歴史だと日本人に言えるでしょうか。」
戦後50周年の時の「世界」編集長、安江良助氏の言葉です。この言葉は、戦後60年の今もそのまま当てはまるのではないか。昨年の靖国問題などはその一例です。
黒船によって開国した明治以降の137年を、日本は「脱亜」で生きてきました。歴史の「常識」から見れば、軍国主義から平和主義へ、天皇主権から国民主権へと、戦後は大きな変革でした。しかし、この変革も、対アジアの視点から見ると、一つの幻想だったことが分ります。第三の転換が言われている今、これを「脱亜」から「入亜」への転換につなげるためにも「新しいアジア観」が必要なのではないでしょうか。
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