主張 昨年の情勢総括と新年の展望 新たな60年へ向け、壮大な夢を持とう
「日本の若者もなかなか大人になれないそうですね」。先日、来日したベルギーの映画監督、ダルデンヌ兄弟がそう言っていたそうです。
「子供が大人に成長するさまを描きたかった」という彼らは、失業、貧困、無教養、家庭崩壊といった絶望的な環境に抗いもせず、子供のような無邪気さで場当たり的に生きる主人公にふとした瞬間、ともに盗みを働いた少年をかばう気持ちが芽生える様子を映像にしたといいます。一度見てみたい映画です。
冒頭の言葉は、その彼らが日本各地で自作を上映して回りながら、多くの若者たちと交流し、得た所感の一つだと言うことです。簡単に看過ごすことのできない言葉です。
大人になれるかなれないかと言ったとき、その重要な基準は他人のことを思いやり、思いはかることができるかどうかと言うことだと思います。ダルデンヌ兄弟は、それを主人公の仲間をかばう気持ちの芽生えに見たようです。そうして見たとき、電車の中などで周りにおかまいなく携帯で長話しする若者が増えた、等々はよく耳にする話です。若者たちの間で「ジコチュウ」が増えているのは事実だと思います。
だが、この話を聞いたとき、真っ先に思ったのは、わが国の首相、小泉さんのことでした。彼は、アジア諸国の反対にも関わらず、今年も靖国神社に参拝しました。それに抗議するアジアの声が高まる中、彼が言ったのは、またも「私は、戦没者を弔う気持ちから、アジアの平和を願って参拝しているのだ。なぜそれが理解できないのかねえ」というお決まりの台詞でした。
これは、どう見ても大人の言う言葉ではありません。周りの事情にはおかまいなく、自己主張を繰り返す駄々っ子のそれです。実際、先の東アジアサミットの際などにも、日中の間を取り持つため、小泉さんに靖国参拝の再考を促すマレーシア首相の姿などは、駄々っ子をあやすそれでした。
今、新しい年を迎えながら、小泉さんにも、日本にも、問われているのは、大人になることだと思います。アジア諸国の身になり、彼らの気持ちを思いやり、思いはかって、そこから日本のとるべき方針を決めていく大人の態度です。いつまでも相手の気持ち、相手の考えにおかまいなく、自分の「信念」を主張するだけだったなら、日本はそれこそアジアの孤児になってしまうでしょう。
主張 昨年の情勢総括と新年の展望
■アジアへの態度が問われた一年
戦後始めて対中貿易額が対米貿易額を超えた年として、05年は歴史に記録されるに違いない。昨年元旦の主要社説は概ね「アジアに夢を追い求めて」(朝日新聞)に代表されるように、戦後60周年を東アジア共同体元年とし、「入亜」への期待を寄せていた。
ところがこの「入亜」の気運は、小泉首相の靖国参拝を契機に一気に暗転した。中国では反日ナショナリズムが吹き荒れ、韓国でも竹島問題や教科書問題などで反日世論が噴出した。その当然の帰着として、国連創設60周年の昨秋、安保理常任理事国入りの悲願を果そうとした日本はあえなく失敗した。
なぜか。中国がアジア、アフリカ諸国に根回しをしたからだとされているが、そうではない。「国連安保入り問題で日本はアジア各国の支持を得ることが出来なかった。過去の出来事を直視しないかぎり侵略を受けた多くの国が支持するのは難しい」(シンガポール上級相ゴー・チョクトン)からだ。
靖国問題でのアジアの反発、竹島問題での韓国民衆の怒り、国連安保理問題での日本への不支持、そこには日本が歴史を正しく認識、清算し、襟を正してアジアとともに進んでほしいというアジアの切なる願いがある。この「入亜」の姿勢を問うアジア・ナショナリズムとどう向きあうのか。それが問われ続けた一年だった。
■アジアに背を向け、「脱亜入米」の新段階へ
だが日本はアジアに向きあうことなく、「脱亜」の新段階へと突き進んだ。
その一つは、日米防衛外相会議(2プラス2)において中間報告を発表したことだ。アジア太平洋地域で米陸海空と海兵隊を束ね、「不安定の弧」へにらみを効かせる機能を持つ米陸軍第一軍団司令部のキャンプ座間移転を核とし、中台の緊張、朝鮮の脅威を念頭にアジア太平洋地域の不安定要因に日米が共同で対処しつつ、自衛隊と米軍の融合化を進め、極東の枠を超え広範に活動する在日米軍への全面的バックアップを約束するものとなった。
この日米軍事融合化を進めるためには、桎梏となった9条改憲は避けては通れない。昨秋自民党結党50周年を機に提案された改憲試案は、9条2項で自衛軍の所持と国際協力を明記している。AEPEC釜山会議に先立つ日米首脳会談(11月京都)における「世界の中の日米同盟」宣言は、この「脱亜入米」新段階への宣言となった。
アジアサミット(12月クアラルンプール)において小泉首相は、ASEAN+3(中韓日)にオーストラリア、ニュージランド、インド3ヶ国を加えることを改めて提起した。ここでも対米配慮が色濃く滲む。アジア主導の共同体構想を嫌う米国の意向を受けての発言だ。中国対日本の対立がクローズアップされたが、そこには東アジア共同体をめぐるアジア対米国の対立の構図がくっきり浮びあがる。
「脱亜」を基本に生きてきた日本は、再び「入亜」を拒否し、新たな「入米」に日本の未来を託した。この「入米」への新たな一歩は、第二の「脱亜宣言」に等しいものだ。05年は、そう歴史に記録されるかもしれない。
■「長生きしたくない」国日本
日本社会に目を転じると、9月の総選挙では小泉自民党が圧勝し、護憲派、日本派と見られる抵抗勢力は自民党内からほぼ一掃された。もはや郵政民営化に象徴される新自由主義改革を押しとどめる勢力はない。医療制度改革、公共事業の削減、公務員人件費抑制、年金、税制改革など一連の米式経済をモデルとする構造改革と規制緩和は際限なく進むだろう。これまでの構造改革路線が新たな局面へ突入した年となった。
この構造改革は何をもたらしたのか。一つには経済のアメリカ化だ。外資による「日本買い」が進み、外国人持ち株比率が上昇、有力上揚企業では三割超が100社を越す。社会の二極化も一層進んだ。「億万長者」といわれる資産家は134万人、世界の「億万長者」の6人に一人は日本人だという。その対極には、貯蓄ゼロ世帯22%が存在し、世界一の長寿国日本で10人に4人が「長生きしたいとは思わない」(「世界」1月号内橋克人)社会となっている。
とりわけ昨年は、小学生への危害、凶悪犯罪の増加、尼崎脱線事故、耐震強度偽装など社会の崩壊を象徴するような出来事が相次いだ。学校、地域、交通、住宅など、「公」の最も基層をなす部分への「信頼」がいまや音を立てて崩壊しつつある。国家の右傾化や経済の不況はまだしも「個人」に徹するなら耐えることが出来る。しかし自分の拠って立つ最後の基盤さえも危ういものに変った。日本社会を覆っているのは、この不安感と寒々とした荒廃感だ。これが05年日本の現実、戦後60年にたどり着いた日本の姿と言えまいか。「民主主義と平和」の喪失、「公への信頼」の喪失、二つの戦後の財産がいまや消失しようとしている。
■一極化から多極化へ加速する世界
一方、世界に眼を転じて気づくことは、米国の孤立化と世界の多極化が決定的段階へと進んだことだ。何よりも米主導の国際会議で何一つ議決も合意もできない状況にそれは示されている。米国の意図した貿易自由化ルールつくりに向けて、香港で開かれたWTO閣僚会議は、多くの懸案を先送りし、06年末の交渉期限への目処を立てることなく終った。ブッシュと列国首脳との顔合わせセレモニー以上の何も残さなかった釜山でのAPEC会議。地球温暖化防止条約締結国会議(モントリオール)では、世界の二酸化炭素ガスの4分の1を排出しながら議定書への署名を拒否する独善的な米国の態度に世界の批判が集中した。
米国に抗した多極化の流れも一層はっきりした。中、ロ、印三カ国外相が史上初めてウラジオストクで会談し、上海協力機構の強化で合意した。米一極支配に対する三カ国の戦略トライアングル構想の開始だ。
南米ではベネズエラ、アルゼンチン、ボリビアなどで反米政権が次々に誕生している。米主導の自由主義経済圏構想は完全に失敗し、米州サミットも反米集会の様相を呈した。昨年10月、南米12カ国が米国抜きで独自のインフラの共同整備に着手した。総額4兆3千億円、鉄道、通信網など335件のインフラ計画だ。メルコスルとアンデス共同体がFTAで合意し、米国を排除した南米全域を統合する経済圏が誕生しつつある。
世界情勢の焦点となった朝鮮の核を巡る「6者協議」では、アメリカの意図とは裏腹に日米が朝中露韓の逆包囲網に陥っている。多極化が趨勢となった世界で米一極支配につき従う勢力はもはや少数派となり、この多極化の動きは今年加速するだろう。
■未来への夢と構想力が問われる日本
多極化へ加速する世界と、前にも増して米一極支配へ傾斜する日本。昨年、際立ったのは、世界と米国とのギャップの中で完全に引裂かれた日本の姿だったのではなかろうか。この60年間に染付いた対米基軸という時代錯誤から脱却もできず、胴体(経済)はアジアに、頭(政治)は対米基軸にという二重構造に日本は陥ってしまった。
一つや二つの超大国が世界を支配するという時代ではもはやない。とりわけアジアは変った。中国も韓国もASEANも共同体形成へと独自の道を歩みはじめている。近代150年の脱亜の思想に貫かれた「蒙昧なアジア」観から脱するときである。
東アジアは共同体形成という壮大な夢に燃えている。EUもまた欧州共同体という歴史的事業に挑戦しており、南米でも新たな時代がその幕をあけようとしている。日本人の不幸は、新たな時代への夢も展望も見えなくなっていることにある。
明治維新も戦後も、時代の転換点には新しい国家建設という壮大な夢に人々は酔った。それが新国家建設の原動力となった。明治や戦後に比した「第三の開国」といわれる今、私たちに明治や戦後と同じ胸の熱くなるような新時代の夢や気概があるのか。これまでの対米基軸路線という砂上に新自由主義改革という楼閣を築こうとする小泉改革に、どのような夢を紡ぐことができるのか。10人に4人は「長生きしたくない」という言葉が「夢のない日本社会」を象徴していないだろうか。
焦土から立ちあがり、日米安保体制の下で経済大国を築いた「戦後60年」は終った。この「戦後60年」に代る次の「60年」を構想することが出来るのかどうか。そこに胸の熱くなるような夢や気概を感じることができるのか。新たな出発への最大の課題はここらにあると言えそうだ。
小泉税財政改革については、すでにいろいろな角度からすぐれた批判が数多くなされている。
貧富の差や地域格差の拡大など二極化を促進する「改革」、国民に大きな負担をかける「小さな政府」、財政破綻を拡大する緊縮財政、等々。
それにもかかわらず、「官から民へ」「中央から地方へ」「できるだけ規制や介入をなくし、公正かつ自由な競争で」「自己責任」「応益負担」などという小泉税財政改革は、なにか新しいイメージをもって迎えられている。
確かに、これまでの自民党政府による税財政が政財官が癒着した官主導、中央が地方を支配統制する自治否定の税財政であり、様々な規制で支配層の既得権を保護した税財政だったのは事実だ。これに対し、新自由主義改革である小泉税財政改革が新しい側面を持っているのも事実である。
しかし、大きな税財政発展の歴史から見たとき、小泉改革は果たして新しいと言えるのだろうか。
税財政は、近代国民国家の登場とともに以前とは質的に違ったものになった。国民主権を掲げた国民国家の誕生によって、主権者である国民が自らの共同体の運営のため税を負担し、議会を通じてその使途を決めるという建て前が成り立つようになった。
国庫の収入源が王領地などからの封建的特権収入や関税などから消費税基本へ転換され、それが累進的所得税基本にまで至る税制発展の歴史は、国や地方など共同体の税はその主権者である国民、住民が負担すべきだという人々の意識、その中でも富を多く持っている者がより多く負担するのが公平だといった意識の発展に基づいている。ここで見られる税の公平性に関する観点も共同体の同じ成員だという意識を離れては有り得ないということが重要だろう。
こうして見たとき、今日の税財政の基礎に、国民主権、住民主権に基づく自主性の原理や、国家共同体、地方、地域共同体を前提にする共同体の原理があることが見えてくる。すなわち、税や財政というものは、その国や地方の主人である国民、地域住民が自らの共同体とその成員である自分たち自身のため、自主的な共同の意思で負担し運営するところにその原理があるということだ。
もちろん、現実の税財政がこの原理通りにやられていないのは周知の事実だ。支配層は、議会をもって国民主権、住民主権に代えながら、共同体成員の当然の義務として不当な重税を課し、自分らに有利に財政を運営している。これまでの自民党政治などは、その典型だと言えるだろう。
これに対し小泉税財政改革はどうだろうか。特徴的なのは、この原理自体まで公然と否定してきていることだ。すなわち、グローバリズムによる国民主権、国民国家の否定とそれに基づく自主性の原理、共同体の原理の否定だ。
なによりも小泉改革は、アメリカを国の上の国、超国家、超大国と見なし、すべての国は、その世界一極支配のもと、主権国家としての自己を否定し、アメリカの属国、属州として存在すべきだとする従属原理に基づいている。これまであった規制という規制を緩和、撤廃し、ボーダーレスを目指しながら、他方で、BIS規制や「公正な競争」のための各種ルールなど、アメリカン・スタンダードの法や規制を受け入れる「改革」にそれは端的に示されている。
それは、また、国民主権、住民主権の否定にも現れている。実際、小泉税財政改革には、国民、住民の主権者としての権利から出発し、それを保障するという原理がない。「自己負担」の社会保障、「自己責任」の地方財政といったとき、自己負担できない国民、自己責任とりたくてもとれない過疎地の住民のことは考えられていない。すべての人々を主権者と見、その権利を保障するという大前提自体が欠落している。あるのは、弱者は強者に従い、そのもとで弱者なりに生きて行くしかないという従属の原理だ。
一方、小泉税財政改革は、競争原理に基づきながら、共同体の原理を否定している。
税制改革で掲げられているのは、「広く薄く」「税を皆で公平に負担しよう」という消費税基本の税制への転換だ。これが、税を能力に応じて公平に負担しようという累進的所得税基本の税制からの後退であるのは先に見た通りであり、その根底には、共同体の原理よりも競争原理を重視する考え方がある。
この考え方は、社会保障改革でより鮮明である。それは、「自己負担」「応益負担」というスローガンによく示されている。すなわち、医療や介護など、共同体に頼るな、良い医療を受けたければ、より多くの負担をという競争原理だ。
地方の「自己責任」を強調する小泉地方改革も同様だ。国から地方へ税源を移譲しながら補助金をなくし、地方交付税を削減する「三位一体改革」は、国家共同体の役割を否定し、各地方間の税収拡大競争、歳出削減競争を奨励する競争原理だ。
小泉税財政改革の基礎にある、従属原理、競争原理は、税財政本来の自主性の原理、共同体の原理の否定だ。この税財政のあり方自体の根本的な転換を前にして問われるのは、どちらが歴史の進歩であり、新しい税財政のあり方なのかということだ。われわれは、従属原理と競争原理に基づく小泉税財政改革が本当に人々、地方のやる気、活力を生み出し、深刻な財政破綻を克服しながら、新しい日本の発展を実現できるのか、それとも、税財政本来の原理、自主性と共同体の原理を徹底的に実現していく道にのみそれが可能なのか、正しい判断を下して行かなければならないだろう。
私は五十代のタクシー・ドライバーです。マネーゲームなんて自分とは別世界の話で、毎日こつこつと働いて、それで生活出来れば良い。圧倒的大衆は株なんて絶対に手を出さない、そう思っていました。
しかし、いまや金利ゼロの時代です。少々の蓄えのある人は、銀行に預けようという気にならない。資産をどう増やすか、猫も杓子も株をやる時代になりました。私的なことになりますが、私もタクシー・ドライバーやっているとばかばかしくなるときがあります。一生懸命に働いても月に20万円ちょっと。一方で数秒で20万、30万稼ぐ人がいる。年間1億円稼いだというような話を聞くと汗して働くことが馬鹿馬鹿しいじゃありませんか。
しかも、今はコンピューターで簡単に個人でやれる時代です。ネットで簡単に株の売買ができるようになっています。リアルタイムで株の動きもチェックできます。金がなくても能力さえあれば、金儲けできる時代だ、そういわれています。
それでマネーゲームに狂奔するこの日本を少し勉強してみようと思ったわけです。わずか数十万円ですが、実際に運用して見ました。
始めて見るとこれが意外と面白く、はまってしまいました。わずかな金でもいざ株を買うとなると、やっぱり損は嫌ですから、真剣になりますし、勉強しなければなりません。パソコンで自分の銘柄を見ていると、瞬時に株価が変動することがわかります。どの銘柄を何処で買い、何処で売るか、一瞬が勝負です。金融株で一万円儲けてニンマリ。売ったら直後に株価がぐんぐん上り、儲け損ねてがっくり。株価の変動に一喜一憂する自分がそこにありました。
株をやって見えてきたのは、株価の上下が自分の利害になり、株が上がれば喜び、下がればがっかりする自分でした。株をやっていると、株があがる社会が良い社会だみたいな心理に陥ります。株には一種の魔力があります。小泉の郵政民営化、なぜ人々が支持するのか。株が上れば民営化であろうが何であろうが良いわけです。もし批判的視点がなければ、政治の是非も株価が基準になる。国のことより株の上下が気になる。小泉人気、実はその辺にあるのかもしれません。
勿論、誰でも簡単に儲けられるほど甘くはありません。証券会社は大口の顧客ほど優先しますし、本当に儲けようと思ったら、資金も時間もない貧乏人は圧倒的に不利なしくみになっています。
それにしても「楽して儲ける」人ばかりになったらこの日本はどうなるのか。株ブームの一方で、何か大事なものが心から失われていく、そんな気がしてなりません。
昨年は、朝鮮労働党創建60周年、祖国解放60周年という筋目の年でしたが、その祝典は勝利者の祝典として祝われました。
昨年、力を入れた農業では、雨が適時に降るなど気候も味方して、相当な成果をあげたようです。
電力事情も随分よくなりました。金剛山のアンビョン発電所やクムジンガン発電所など大規模発電所と各地の中小規模発電所が稼動を高めました。
首都の面貌も一新されました。大通りはショッピング街のようになり、敷石がカラー化され、アパートも見違えるようにきれいになりました。
今の朝鮮は、非常に活気付いています。表面的には、市場が各地にでき、中韓との合弁事業も著しく進展しています。しかし、ここで見落としてならないことは、朝鮮の社会主義的企業体やその仕組みがしっかりとしていることです。
農業でも、土地規格整理や、ぺクマからチョルサンまで280kmの水路工事や種子革命などの国家的な事業が大きな役割を果たしています。
朝鮮の場合、市場経済を応用しながらも、あくまで社会主義的なものを基盤にしています。そして、それを支えるのが先軍政治です。
米国の軍事力を背景にした圧力に屈しない姿勢は、朝鮮半島の平和を維持し、ますます米国を窮地に追い込んでいます。6者協議も、今では中国、ロシア、韓国が「今度は米国が譲歩すべきだ」ということで、米国の目論みは完全に外れました。
そして統一事業の進展。その「われわれ民族同士で」という基本理念は韓国人民の支持も受け、今では韓国の世論調査では、統一を妨害しているのは米国というのが46%、米韓同盟強化を支持するのは36%にすぎないそうです。
今年の「労働新聞」「朝鮮人民軍」「青年前衛」3紙の共同社説は「遠大な抱負と確信に満ちてより高く飛躍しよう」という題目でした。土台はできた、さあ、これから飛躍だという感じが伝わってきます。
社説の最後の章には、「朝鮮革命の前途には依然として難関と試練が横たわっているが最後の勝利はわれわれのものである」とあります。
今後とも多くの試練があるでしょう。しかし理念をもって生きていく、そこに未来があるという生き方は、米国についていくだけという現状にある日本を考えるとき、重要なことを示唆しているように思います。
朝日新聞の新年の社説「武士道をどう生かす」を読んだ。
社説によれば、武士道とは、忠義のため命を捨てる潔さが讃えられがちだが、その本質は決して好戦的ではない。新渡戸稲造は「武士道」の中で「いつでも失わぬ他者への哀れみの心」こそサムライに似つかわしいと書いた。競争や自助努力が求められる厳しい時代だからこそ、一方で必要なのは弱者や敗者、立場の違う相手を思いやる精神ではないかとして、対外問題も武士道で解決しようと提起している。
武士道が本当はどういうものなのか知りませんが、少なくともこの社説で言われているようなものであるとするなら、決して問題は解決されないし、日本の将来も打開されることはないのではないでしょうか。
第一に、ここでは、国や人に「勝ち組」「負け組み」があるのを前提にしています。そんな社会や世界のあり方が問題なのに、それを前提に、「勝ち組」が「負け組み」に対して、「哀れみの心」をもって接するようにしようと。
第二に、哀れみを受けることを望む人がいるでしょうか。人も国も対等な関係を望むのではないでしょうか。韓国も中国も、求めているのは哀れみではく、日本の真心からの反省であり、過去の歴史への真摯な態度であると思います。これがまた、日本のためなのではないでしょうか。
第三に、このような、勝者、敗者が前提となった社会で、果たして、弱者や敗者への哀れみの心や政策などが生まれ得るのでしょうか。現実の世界で、今日勝者と言われる人々、国々とは、非情に徹し、多くの人々、国々を切り捨て、踏みつけ、今日のそのような地位や立場を獲得してきたのではないでしょうか。一方で突き落とし、踏みにじり、一方で哀れみの情を施す、これは欺瞞以外のなにものでもないでしょう。
本当に朝日新聞には正月早々からがっかりさせられました。
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