若干、古い話になりますが、アテネオリンピックに向けた日本野球チームメンバーが発表されました。それによると、シドニーオリンピックでメダルが取れなかった苦い経験からか、全員プロで構成されています。それも、巨人など前回選手の出し渋りをしたところまで含め、全球団が一線級を惜しみなく出してきています。
だがしかし、そこにはイチローや松井、野茂など大リーグで活躍する日本第一等の超一流選手は含まれていません。理由は簡単です。大リーグが配下選手のオリンピック参加を認めていないからです。
アメリカにとって、野球の世界一を他のところで決める必要はない、「ワールドシリーズ」があるではないかということです。実際、われわれ自身もさしたる疑問もなく、この「ワールド」なる言葉を使っていました。しかし、よくよく考えるとこれはおかしな話です。なぜ、日本では「日本シリーズ」で、アメリカでは「ワールドシリーズ」なのか。
そこで想起されるのは、サッカーの「ワールドカップ」。これは文字通り「ワールド」です。だから、中田や中村、高原などヨーロッパをはじめ世界各国のリーグで活躍している選手たちが日本の国家選手として国際大会に出場することができます。
この「ワールドシリーズ」と「ワールドカップ」、どちらがよいか。答ははっきりしていると思います。もちろん、イチローや松井が大リーグで活躍すること自体はよいことです。それによって、本人たち自身はもちろん、日本の野球の発展という見地からみても随分大きな寄与になったのではないかと思います。しかし、彼らが日本の国家選手として試合に出れないのは大きなマイナスです。なにか、日本の優秀選手をアメリカに取られてしまったような気になりませんか。実際、アメリカのリーグの覇者を決めるのが「ワールドシリーズ」だというと、他の国のリーグがすべてアメリカの大リーグによい選手を供給するためのマイナーリーグ、ファームだということになってしまうのではないでしょうか。
ところで、少々乱暴ですが、この「ワールドシリーズ」か「ワールドカップ」かは、世界の一極化か多極化かと似ていると思いませんか。超大国アメリカが世界に君臨し、他の国々は「ファーム」としてそれを支えるという体制がよいのか、それとも、すべての国々がそれぞれ対等の国家として独自の政治と経済、文化を持ち、互いに学び合い、人も交流し合いながら、発展していくのがよいのか。この答もやはりはっきりしているのではないでしょうか。
最近、日本では、東アジアとの提携を強化し、EUのような「東アジア経済圏」「東アジア共同体」を作るべきだという論調が強まっている。しかし、ここには、東アジアの自主、自立、連帯を志向するものと世界経済のグローバル化を目指すものが錯綜しているように思える。
■高まる「東アジア経済圏」熱
「東アジア経済圏」構想が大きく動き始めている。それは、何よりも東アジア諸国自身がそれを切実に要求するようになっているからである。
ASEAN諸国は、すでにAFTA(ASEAN自由貿易協定、92年発足)を形成しているが、まだ域内貿易量が4分の1に満たないなど域内経済基盤が弱いことから、これに「+3」と言われる日本、中国、韓国などを加え、欧米に依存しない自立的な経済圏を目指している。とりわけ、ASEAN諸国は、米国ファンドの賭博的な金融操作(急激な資本流入と引き上げ)によって引き起こされたアジア通貨危機(97年)で大きな傷を負った悪夢を繰り返さないためにも、これに切実な利害関係をもっている。
また、経済成長著しい中国も、まだ資本投下の半分が外資であるという条件の下、経済の自立性を強めるために東アジア経済圏を追求している。中国の場合、すでにASEAN諸国とは01年、ブルネイで行われた「ASEAN+3」サミットで大枠合意している。
こうした中、日本も02年にシンガポールで小泉首相がASEAN諸国との「包括的経済連携構想」を提唱し、政府レベルでは、事務協議が今年3月からすでに4回開かれ、10月には「枠組み合意」が行われる予定だという。また、経団連の奥田会長が今年1月に、「遅くとも2020年までには東アジア自由貿易圏を作るべきだ」とする「奥田ビジョン」を発表するなど、官民一体となった取組がなされており、これを背景に多くの学者や識者も「東アジア経済圏」「東アジア共同体」「東北アジア共通の家」などと主張するようになっている。
■二つの顔
地域経済圏構想は、二つの顔をもっている。その一つは、上で述べたように、東アジア諸国が要求している地域の自主、自立、連帯の顔である。そして、もう一つ、見落としてならないのは、米国が進める「世界経済のグローバル化」を補完するものとしてのそれである。
米国の基本的な経済戦略は、「世界経済のグローバル化」である。すなわち、これまで各国ごとの「国民経済」を単位にし、国内産業保護のために関税をかけ、外国資本の自由な活動を制限してきた各国の経済主権を否定し、市場原理を唯一の基準として世界経済をグローバルな単一の経済にしてしまうという戦略である。
自国産業を空洞化させた米国の経済的武器は金融と知的所有権だと言われる。世界に先駆けデリバティブ、ヘッジファンドなど他国が追いつけないと言われるほどの金融操作術を開発し、マイクロソフト・ウィンテルのように基本ソフト(ウィンドウズ)をグローバル・スタンダードにすることで莫大な利益を上げてきた米国は、「貿易と資本の自由」を掲げ、各国の経済主権を否定した「世界経済のグローバル化」を進め、自分が得意な金融、知的所有権、さらには食糧、石油、軍需などをもって経済覇権を確立しようとしている。
それは、米一極支配体制の経済的基礎であり、米国金融による賭博的な収奪、知的所有権の身勝手な占有、各国農業を疲弊させた上での食糧戦略、そしてその背後で軍事的な恫喝と強制を伴う、世界奴隷化とも言える米国横暴の極致を現出する世界である。とりわけ、それは第三世界の経済を破壊する。南北格差の拡大。アジア通貨危機やアルゼンチンの通貨危機もその具体的な表れである。
米国は、これまでWTOの場で、「世界経済のグローバル化」を推進してきたが、グローバル化の矛盾が明らかになる中で、この交渉は停滞している。そこで、二国間によるFTA(自由貿易協定)を拡大しつつ、一定の地域に経済圏を形成して、グローバル化を補完しようとしている。それは、かつて米国がメキシコ、カナダとFTAを結び、それを基にNAFTA(北米自由貿易地域)を形成したのに基礎して、今日、中南米にまで拡大してFTAA(米州自由貿易地域)を形成しようとしていることを見ても明かである。
これに対して、MERCOSUR(メルコスル=南部共同市場、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイの南米4カ国で構成)は、「米国の勝手にはさせぬ」(ブラジル・ルラ大統領)。「国民の労働を踏みにじる投機的な取り引きを許さない。米国との親善な関係はあり得ない」(アルゼンチン・キルチネル大統領)などと米国との対決を鮮明にしてきている。
FTAAとMERCOSURの対立は、今日、世界的に広がるFTAや地域経済圏構想が米一極支配の経済的基礎である世界経済のグローバル化を補完する側面と米国の支配と横暴に反対し地域の自主、自立、連帯を目指し世界多極化を促進する側面の二つの顔をもち、その二つは対決するものとしてあるということを示している。
■危惧される現状
「東アジア経済圏構想」を推進するにあたって、日本は、この二つの傾向のどちらに立つのかが問われている。しかし、現状のままでは、米一極支配のための「世界経済のグローバル化」のために動くようになるのではないか。
元々、「東アジア経済圏構想」はマレーシアのマハティールが90年代の初めに提唱し日本の参加を呼びかけたことがある。しかし米国は、欧米を入れない東アジアだけの経済圏という自主、自立的な志向を警戒して日本に圧力をかけた。円の力を強めてアジア円圏を形成する目的があったと言われる橋本内閣の財政健全化法も、橋本内閣の崩壊と法案の凍結という形で終わった。アジア通貨危機後、アジア諸国の要望に応え日本が出した「AMF構想」も米国の圧力を受け挫折した。
そうした中、日本では経済的、軍事的な対米融合、手先化が進んだ。金融では、りそなグループだけでなく4大金融グループの一部も国有化から外資への売却が取り沙汰されている。こうなれば、アジアに進出する日本企業が上げる利潤は日本金融を仲介して米国が収奪していくことになる。また軍事的な融合手先化は、日本と東アジア諸国との関係を敵対的にさせていく。
このような条件の下、日本が「東アジア経済圏構想」に関与していくことは、米国にとって危険なものではなく、日本をうまく操縦すれば、米国の狙う「世界経済のグローバル化」を補完するものにしていくことができる。そう踏んで、米国はGOサインを出したのであろう。
■恐れず大胆に
世界経済のグローバル化を補完する東アジア経済圏への道。それは、米国を背に負ってアジア諸国を収奪し、その多くを米国に貢ぎ巻き上げられながらも、そのおこぼれにあずかって生きて行こうとする道であり、この道を進めば、結局、米国の手先になって軍事的にもアジアと敵対するようになる。それは、かつての「大東亜共栄圏」を米国を後ろ盾にして現在に再現するものであり、その結末は歴史が証明しているものとなるしかない。
日本は、米国のために辛酸を舐めさせられてきた。バブル崩壊とその後の不良債権処理をもっての日本の銀行の弱体化・買収策動。知的所有権の問題でも、日本独自の基本ソフトTORON開発の妨害を見るまでもなくゲノム、ナノテクノロジーなどでも米国は日本つぶしをはかってくるだろう。あるいは、イランのアザデガン油田開発を妨害され最後に残った「自主開発」まで奪われようとしていることなど・・・。
米国によって苦渋を飲まされてきたのは、東アジアも同じである。それゆえ、東アジア諸国は、自主、自立、連帯の「東アジア経済圏」を望み、日本の参加を期待しているのだ。
日本と東アジア諸国は利害が一致している。それにもかかわらず日本は、「米国とアジアの仲介役になる」などと米国の顔色をうかがい、優柔不断である。この崇米、恐米思想こそが問題である。
ところで、米国がこれまで警戒してきた「東アジア経済圏構想」にGOサインを出したのは、中国、ASEAN諸国の自主的な動きを無視できなくなったからである。この時代の流れ、東アジアの流れを食い止める力は米国にはない。
そうであれば、日本は、「仲介役になる」などと米国の目を気にして、東アジア諸国を落胆させるような行動をとるのではなく、東アジア諸国の自主、自立の要求を尊重して、それに誠実に応えるというスタンスを確固と立てるべきである。こうして、日本が東アジア諸国の支持を得れば米国は日本に圧力をかけることができなくなる。日本が進むべき道は、東アジア諸国が望む自主、自立、連帯の東アジア経済圏の道であり、それは、日本が東アジア諸国と自主性の相互尊重を基本にして互いに協力し助け合いながら生きていく平和と繁栄の道であり、今日の多極化趨勢にも合致した明るい未来ある道である。
日本企業の海外生産比率は30%まで増大し、輸出型企業だけでなく、内需型企業、中小企業まで、業種、規模の大小を問わず海外へのシフトを強めている。地域経済を支えてきた地場産業も例外ではない。諏訪の精密機械、山形の電気、東大阪、東京都大田区の中小金属加工企業なども海外へ拠点を移す動きがある。
一方、全国3230自治体の中で過疎と呼ばれる地域は1171(36%)、国土の48%に相当する。不況と内需低迷、企業海外移転などによって、どの地方も高齢化、過疎による衰退が著しい。地域経済の再生は焦眉の課題となっている。
■対米融合による地域経済の再生
空洞化対策の成功例としてよく引き合いに出されるのが、新技術の創造、資本コストの削減、人的資源の開発などを柱とするアメリカの空洞化対策で、特にITとベンチャーがアメリカの経済を牽引したとされている。
小泉構造改革路線は、従来の公共投資による地域振興や護送船団方式と呼ばれる企業優遇策を完全に放棄し、米国式の徹底した市場原理に基づく活性化を打ち出している。この小泉構造改革路線を強力に後押ししているのがアメリカだ。国内産業の保護や規制を撤廃し、日本市場をグローバル・スタンダード化することで、米系外資など競争力ある企業がいくらでも国内市場に参入できるようになる。
アメリカが最も重要視したのが、経済の生命線ともいえる金融分野での構造改革だった。もともと大和など地方金融機関に過ぎないりそなグループに四兆円という膨大な公的資金を投入、国営化したのも、アメリカ、シティグループへの売却するためだという見方もある。銀行、証券、保険などの対米融合は当然にも地域経済への米金融独占の浸透を促すだろう。都自ら銀行を作り、無担保融資を行い、成長企業を発掘しようという東京都の新銀行構想も、米国式銀行経営の導入である。
医療、農業分野では大胆な規制撤廃が始まっている。20兆円の市場規模を持つ医療分野では、
厚生労働省が病院の資金調達で債権発行を認める動きがある。これは、営利行為は合わないとされ、企業参入を認められなかった医療分野でも米国式経営の導入を意味する。すでに農業分野では、株式会社の参入を認める特区方式を2005年をメドに全国に解禁する施策を農水省が発表した。現在、8件の特区が認定され、今後も拡大されるのは必至だ。
教育分野での対米融合の例としては「産学連携」がある。ベンチャービジネスを起こすにも大学に法人格がなければ特許の取得も契約主体にもなれず産学連携は進まない。すでに施行が決まった国立大学の独立行政法人化は、国の援助で誕生した新技術でも国立大学に特許を与えることができる米国のバイ・ドール法を真似たものだ。今後は、国立大学と外資との産学連携も自由化されるだろう。また、教育改革で強調されるいわゆる学校間競争や「エリート教育」も、教育営利化の一環といえるものだ。
これら医療、教育、農業分野への大胆な規制撤廃や営利化は、対米融合による「地域経済活性化」と言えるだろう。
■地域に根ざした「地産地消」の地域経済の再生
このような対米融合とはまったく異なる地域に根ざした下からの地域経済再生の動きも始まっている。これまでのような企業誘致やダム、道路など公共事業に頼らず、自分たちの地域の自然環境や農林業、風土に依拠し生かす「地産・地消」の地域再生運動である。
地域で最も力を入れているのが雇用の創出だ。丹後大宮町では、「村の活性化は人から」と村落ごとに「村つくり委員会」を発足させ、資本金350万、80平方メートル、3千のアイテムが並ぶ「村営百貨店」を生み出し地域活性化の拠点となっている。また愛知県高浜市のように、総合サービス会社を設立し、公共施設の管理、ビル清掃、学校給食など市の広範な業務を請け負い、二百人の職場を確保。売上高約四億の黒字会社の一方、介護サービスの宅老会やパソコン教室のIT工房などを立ち上げている例もある。
和歌山県では、林業労働者の不足と高齢化の中で荒れた山林の再生と新ふるさとつくりを兼ねた「緑の雇用」に着手、数百人の新規雇用を生みだした。森林だけではなく今後は「緑の雇用農業版」も視野に入れている。「地方の実状にあった公共事業」「全国一律から地方最適へ」を掲げ、高知県では、森林環境税を創設することで、県の84%を占める森林の荒廃を食い止め、同時に県民を森林再生事業に直接参加させ、将来は国の森林保全政策を動かすという壮大な実験が始まっている。
「町つくり基本条例」を制定し本物の民主主義を実現しようという北海道のニセコ町や、自治の町つくりに励む広島県高宮町、常設の住民投票条例制度や一八歳以上の青年に投票権を与えた愛知県高浜市などのように「地方の運命は自ら決す」という自治・自決の動きは、地方において一つの時代潮流となった。
■自主、自治、自決で地域経済の再生を
地域が自治、自決をめざす上で、最近、注目されているのが補完性原理と呼ばれる概念だ。
補完性原理は、92年、EU設立条約(マーストリヒト条約)で定式化された概念で、「大きな集団は小さな集団が自らの目的を達成できるときは介入してはならない。逆に、小さな集団が目的を達成できないときは介入しなければならない」とされる。
個人ができないことはコミュニテイが担い、コミュニテイができないことは市町村が、市町村ができないことは都道府県が、都道府県ができないことは国が担う・・・というように、地方、地域ができることは自分達で解決する。しかし、地域ができないことは、国が助けるという仕組みだ。
いま、多くの市町村が、過疎に苦しみながら地域ができることは自分達の手で解決しようと必死に努力している。だが、地域でできることは限られている。地域の自治、自決のためには、国の支援、協力が不可欠だ。
国が地域を助けるとき、問われるのは理念だ。ニセコ町長が批判するように、小泉構造改革路線には、どのような国つくりをめざすのかという理念がない。
日本とアメリカとの関係と、国と地域との関係はパラレルな関係にある。国がアメリカに従属する中で、国が地域の自治、自決を尊重するような関係は望めない。何よりもアメリカとの関係で国が自主化することだ。そうしてこそ、国と地域の関係も、これまでのような上下従属関係から真の自治・自決の補完関係に転換できるだろう。
「自国の運命は自ら決す」、国に自主があってこそ、「地域の運命は地域が決す」ことができる。地域の自治、自決のためには、国の自主がなにより必要だ。
鳥取大学名誉教授の遠山正瑛さん(96)が「アジアのノーベル賞」と呼ばれるフイリピンのラモン・マグサイサイ賞「平和・国際的相互理解分野」の受賞者に内定したという新聞記事を目にした。中国内モンゴル自治区の砂漠に、ポプラ等を植樹して緑化を進めてきた80年代からの取り組みが評価されたとのことである。
最近、遠山先生について書かれた本を読み、砂漠を農地化して食料問題を解決しようとその活動に親子2代に渡って取り組んでこられたことを知って感動していた矢先だったので、先生の受賞の記事はひときわ嬉しかった。
先生は、農学は農民のためにあるという考えをもたれ、農学を研究して生徒に教えるのも大切であるが、もっと大事のは農民の生活を助けることであるとその立場を生涯かけて実践された。そのきっかけは先生が37歳の時、教え子が出征する時に「砂丘で農家を営む貧しい母親と兄弟を残していくことが心残りである。学んだことを活かして、砂地を野菜で一杯にするのが夢だった」と涙ながらに語ったことであった。
先生は自分が彼の夢を実現しようと決心され、砂地で農作物が育ったら太陽が西から昇ると中傷され、たび重なる失敗を繰り返しながらも実験を続け、ついに砂丘で山芋を育てることに成功する。こうして、山芋は鳥取砂丘の特産物にまでなったのである。
その後、先生は、イラン、メキシコ、エジプト、アフリカの各地で砂漠での農作物栽培を成功させていった。それは、「日本に砂漠農地化の技術あり」という世界的な評価を受けるものであった。
そして晩年、先生は中国の砂漠を緑化する事業に取り組む。それは、自分が若い頃に農業を学び恩義を感じながらも戦争で迷惑をかけた中国に日本人として罪ほろぼしをしたいという気持ちからであったという。
このような先生の日本人としての誠実な生き方がアジアの人たちから評価されたことは、うれしい限りである。
いつになく気温の上がらない冷夏でしたが、ここ朝鮮半島では南北交流で熱く燃えた8月でした。
まず、「平和と統一のための8・15民族大会」。3年前の6・15共同宣言以降はじめて南北、海外の統一運動関係者が一同に会したピョンヤン。南からは2百余名が参加。大同江の中島、ルンラ島で開幕式、テソン山で閉幕式を行い、期間中、名勝地モランボンの麓で南北による「のど自慢大会」も開催。南の歌手も交え、子供から老人まで自慢の喉を披露し、皆の心はすっかり「一つ」。
同時開催として南のソウルでも「統一のための民族大会」が開かれ2万5千人が参加。深夜まで様々なイベントが催され盛況だったようです。
ピョンヤン大会で印象的だったのは各運動団体の討論。どの代表も《6・15共同宣言》以降の3年間の運動の成果は分断58年間のそれとは比べることもできないほど大きかったと《共同宣言》を評価し、外国の力ではなく「わが民族の力で統一を」という《民族共助》を強調していました。
一方、南の地では15日、親米的な極右保守勢力がアメリカの星条旗と韓国旗を掲げ、共和国の旗を燃やす等の反共和国集会を開きました。これは、南北会談での確認事項「誹謗中傷禁止」に反することから北のユニバーシアード派遣も一時危ぶまれましたが、南の「遺憾表明」で参加に至ったのは周知の通り。北選手団の到着以来、南の大会組織委員会は入場券問い合わせの電話で業務がマヒ。「美女応援団」を一目見ようと会場に詰めかける市民たち。このような現象を南のMBC放送は「北選手団に対する関心は人気を超えて症候群化している」と報じ、取材に当たっていた「韓国日報」記者は、「テグは元来保守的な地域だが、北の応援団が来たためにテグ市民がまったく変わってしまった。市民の統一熱望が非常に高まった」と驚いていました。
ユニバーシアードでは南の極右勢力の不穏な動きもありましたが、北の参加者は南の地に響いた「われわれは一つ」コールや『握った手、絶対離すまい。6・15宣言で力強く握った手、剣が振り落とされようが、装甲車がやってこようが、わが民族同士力を合わせ、真っ向から進んで行こう』と書いたハンカチを振って沿道で歓迎してくれた市民の姿を熱く心に刻んだようです。
他にも、ピョンヤンでは、25日には昨年に続き2百数十名の済州島民訪問団が到着。ソウルでは26日から28日まで「南北経済協力推進委員会第6回会議」が開かれ、情勢がいかに変化しようとも《民族同士》で協力しあっていくことを再確認しました。次回は10月下旬ピョンヤン開催で合意。9月からは中断されていた金剛山陸路観光も再開されるとのこと。
紆余曲折はあっても、この統一への流れはもう止まらないだろう、そう感じた日々でした。
世界陸上での末続選手の活躍、感動ものでした。日本人の体質を生かした独特の走り。自分の特性を生かせば世界に伍していくことができる。考えてみれば、日本の経済発展もそうした自主的な気概と努力に負うところが大だったのですが・・・。
今回の「主張」、東アジア経済圏構想について考えてみましたが、思うことは日本の政治家に根強い崇米、恐米の思考です。イラクの事態などを見ても、米国の強大神話は幻想にすぎないことが段々と明かになっているのに。小泉さんや安倍さん! その崇米、恐米、何とかならんもんかね。
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