研究誌 「アジア新時代と日本」

第254号 2024/8/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

視点 政権交代か、変容か

論点 非核放棄まで迫る日米安保基軸の防衛?「何を護る防衛か」?

論点 地方の資産は日本のために、地方のために使うべきである

投稿 南海トラフ地震がやってくる!?

時評 「百年変局」の中でのオリンピックと平和式典

資料 「あの時と同じように、沈黙することを繰り返してるじゃないか」




 

編集部より

小川淳


 東アジアで戦争はいつ起きてもおかしくない
 6月号のこの欄で、「食料・農業・農村基本法」が改正されたことを書いたが、なぜ今改正なのかについて踏み込んだ分析ができずに終わった。
 内容的には「食料自給率向上」から「食料安全保障」へと「農基法」の基調が大きく変わったのだが、振り返ってみると、なぜ今、わざわざ「食料安全保障」などという緊急時の対応を「農基法」に書き込む必要があったのか、である。
 今年の上半期、政治資金規正法が表面化し政界やメディアが大騒ぎをしているどさくさに紛れて、妙な法案が次々と上程、可決、成立している。
 例えば6月14日には、上記の「農基法」を具体化した「食料供給困難事態対策法」が成立している。異常気象や紛争などで大幅な食糧不足が起きた場合などを想定し、政府が農業生産者にコメやサツマイモなどへ生産を要請・指示できるとする内容で、きわめて有事色が濃い内容となっている。
 5月10日には、「重要経済安保情報・活用法」が可決成立している。2013年に成立した「機密保護法」は外交や防衛機密に限られていたが、この法律は、機密保護の対象を軍事防衛以外の経済分野に大幅に拡大したものとなっているばかりか、何が「重要経済安保情報」なのかも恣意的であり、それに関わる者への身辺調査の権限を国に与えるものとなっている。
 6月18日には、「地方自治法の一部改正」が成立した。国民の安全に重大な影響を及ぼす事態があれば、国が地方に指示を出す権限を与える内容で、国と地方は「対等な関係」とされた2000年の「地方分権一括法案」の内容を根本から覆し、明治以降の古い「上下関係」に引き戻すという時代逆行の内容となっている。
 「食料安全保障」も「食料供給困難事態」も、また「重要経済安保情報」も「地方自治体法の一部改正」も、共通するのは「国民の安全に重大な影響を及ぼす事態」がどのような事態なのか判然としないが、それが「有事」を想定していることは明らかで、戦争への備えのためのものということになる。疑問に思うのは、なぜ今年の前半に、こうも次から次へと有事を想定した法案が可決成立するのかである。
 岸田政権発足後、防衛費の倍増や日米防衛協力・一体化が一挙に進んだが、4月の岸田訪米以降は、軍事分野に留まらず、いつの間にか、経済や食料、地方自治などの民生分野にまで国家の統制と中国や朝鮮を想定した戦争への備えが着々と進められている。
 在日米軍司令部を「統合軍司令部」に再編するという。戦争はいつ起きてもおかしくない。事態はもうそこまで来ている。



視点

政権交代か、変容か

編集部


■出されてきた二つの政権交代論
 岸田内閣への支持率が史上最低を更新する中、政権交代要求が政権継続要求を上回った。
 2024年3月16日、17日、ANN世論調査、政権継続要求38%、政権交代要求46%。2024年4月6日、JNN世論調査、政権維持要求34%、政権交代要求48%。そうした中、注目の二論者が相次いで政権交代論を出版した。
 泉房穂、「政権交代、始まる」(「光文社」・5月20日出版)。橋下徹、「政権変容論」(「講談社」・7月19日出版)。
 政権の交代と変容、この同じテーマをめぐる両者の相異なる主張を通して、今、日本政治に何が問われているか考えていきたい。

■交代と変容、両者を分けるもの
 泉房穂と橋下徹、この当代注目の二論者の「政権交代論」を見ていると共通しているところがある。
 まず何より、「政権交代」の当事者を二人とも国民に見、国民の要求に、それが「交代」になるか、「変容」になるかその根拠を求めている。
 これは、当たり前に見えて、当たり前でない。事実、この当事者が米国である場合も十分に有り得るではないか。
 もう一つ両者に共通しているのは、ともに野党予備選挙による候補者の一本化を唱えていることだ。これも簡単には言えないことだ。これまでの選挙は、一、二の例外を除いて、執権党自民党の独り勝ちだった。その主たる原因は、野党の足の引っ張り合いにあったと言える。野党が候補者の調整を行い、一本化を図ってきていたら、自民党の天下は覚束なかった。
 こうした共通性を持つ両者がなぜ、政権の「交代」か「変容」かと対立するようになっているのか。そこには、両者が共通して注視する「国民の要求」への互いに相異なる認識がある。
 泉房穂氏の場合、それは単純だ。国民の生活苦はかつてないものになっている。この苦しみから抜け出るためには、政治を変えるしかない。だから、政権交代であり、それにより打ち立てる「救民内閣」の下に国民生活の救済だ。それが切実な国民の要求になっているということだ。
 これに対し、橋下徹氏は、「国民は、自公政権から野党による政権への転換を求めている訳ではない。政権の交代と言うより、野党予備選で候補者の一本化を果たし、本選での与野党逆転を実現した上で、野党側が石破氏など国民的に人気のある自民党有力者を総理に担いで与野党合同とも言える政権への変容を実現するのを求めている」「なぜそう言えるのか。根拠は、政党支持率を見た時、自民党への国民の支持率、23・4%。これに対し、立憲民主党への支持率、10・2%。後は軒並み、日本維新の会の4・6%をはじめ一桁。野党全部足しても自民党に届かない。これは何を意味しているか。国民が自民党の政治に嫌気がさしているのは事実だ。しかし、野党に政権を託すまでは考えていない。これが国民の感覚の核心だ」。ここに橋下「変容論」の根拠がある。
 これに対し、泉房穂氏は、国民の自民党への支持率が野党全党への支持率の合計より高いのなどまったく問題にしていない。重要なことは、国民のより多くが自民党政権の継続よりも交代を望んでおり、自民党への支持率は23%に過ぎないと言う事実だ。問題は、国民の政権交代要求に応える「救民内閣」をオール野党で樹立することであり、その「救民内閣」が国民の要求に応える政治を行うことができるか否かだ。橋下徹氏はそれができないと決めつけているが、「救民内閣」に結集した野党とこれまでの個々バラバラの野党とを同じに見てはならないのではないだろうか。

■なぜ「変容」なのか
 橋下徹氏は、政権「変容」という言葉を自分がつくった造語だと言っている。確かに、政権「交代」に対して政権「変容」は、彼がつくったものなのだろう。
 しかし、「変容」という言葉自体は、4月の岸田訪米に際し、日米首脳間で合意された「日米同盟新時代」とともによく使われるようになっている。
 駐日米大使ラーム・エマニュエル氏は、「日米同盟新時代」における日米関係の「転換」について言いながら、それを「日米関係の変容」と表現した。そればかりではない。この間、時代認識の前提になってきている感のある「時代の転換」も「時代の変容」と表現されることが多くなってきているのではないか。
 今は、転換の時代だ。DX,GXもデジタル、グリーンへの転換だ。それは、経済、社会のあり方自体の転換をともなっている。しかし「転換」と言った場合、それにも増して大きな影響力を持つのは、米覇権の衰退、崩壊にともなう転換だ。
 「時代の転換」「転換の時代」が日常化するのは、米覇権の衰退、崩壊の日常化につながっていく。実際、「転換」にはそのような物事の根本からの転換の響きがある。それは米覇権にとって面白いことであるはずがない。
 それに、今日、米覇権が企てている一極覇権から多極覇権への「転換」は、根本的な変化ではない。覇権そのものの否定ではなく、覇権のあり方の否定であり、その変容だ。「変容」という言葉の登場の背景にはこういう事情もあるのではないだろうか。
 その上で問題は、この「変容」という言葉を橋下徹氏が使ったことだ。すなわち、氏はこの言葉を「政権交代」にぶつけて使った。それは、「政権交代」を否定するばかりでなく、他のあらゆる事象についても、表面的な「変容」が問われているとしながら、政治と社会の転換をすべて、「変容」のレベルに引き下げることにつながる可能性を秘めている。
 転換の時代から「変容の時代」へ、人々の意識を変えようという魂胆か。何のために。それが米覇権崩壊の時代への転換を破綻させるという目的を持っていないなどと誰にも言えない。

■求められる日本政治の大転換
 今日、日本国民は、政治の根本的な転換を求めていないのだろうか。政権交代を求める人は、求めない人より多くなったが、それは、橋下徹氏が言うように自公政権から野党による政権への交代を求めているのではなく、自民党と野党の連合政権への変容を求めたものなのだろうか。
 それを知る上で、最高のバロメーターになるのは、昔から言われているように、選挙だと思う。人々が自らの生活を託して行う国政選挙や各種地方選挙への投票以上に人々の意思や要求が反映されるものは他にないからだ。
 実際、この間の選挙には、政治に対する国民的要求がこれ以上になく鋭く、全面的に反映されていると思う。その一つは、この間ますます顕著になっている、選挙をやる度に問題になる投票率の史上最低の更新だ。そこには選挙に何の意味も意義も見出せない国民の現行政治への絶望が端的に示されている。
 もう一つは、無党派層の増大だ。この間、過半数を超え、60%近くを記録するまでになっている無党派層の増大は、もはやいかなる党にも望みを託せなくなった人々が有権者の大半を占めるまでになっていることを物語っている。
 この二つの事象に示されているのは何か。それは、今の政治、政党に何の意味も期待も持てないことの現れだ。この思いからは、当然のことながら、政権交代を求める心も生まれてこない。誰が政権の座に就こうが同じことだからだ。だが、こうした中、泉房穂氏が選挙に関わった時、その選挙の投票率が必ずと言ってよいほど高まる現象が生まれている。これはなぜだろうか。それは、そこに政治が変わる可能性が見えたからに違いないと思う。
 投票率の底無しの低落、過半数を超える無党派層の増大から見えてくる重大事がもう一つある。それは、戦後日本政治の大本とも言うべき「日米基軸」が国民的に否定されてきているのではないかということだ。
 現日本の政治とは、とりもなおさず「日米基軸」の政治だ。それが圧倒的多数の国民に拒否され否定されている。それは、「日米基軸」自体への拒否であり否定を意味している。それは、米覇権の崩壊、時代の転換と一体だ。
 今日、「日米同盟新時代」、この時代の変容にあって、石破氏など自民党の面々が米国の要請に忠実に「対米従属の日米基軸」から「自主独立の日米基軸」への変容を宣言し、「日米基軸」堅持を誓っている。そのような自民党と野党の連合政権への変容を国民が支持するだろうか。支持するのは、「日米基軸」から脱却した「救民内閣」への政権交代なのではないだろうか。



論点

「あの8月」を迎えて
非核放棄まで迫る日米安保基軸の防衛−「何を護る防衛か」?

吉田寅次


■「8月の誓い」危機のいま考えるべきこと
   8月6日、9日は広島、長崎への原爆投下の日、15日敗戦の日と共に戦後日本の新しい出発に当たって「非戦非核の誓い」を日本人が心に刻んだ日だ。この8月の誓いはいま危機に晒されている。
 日米安保の攻守同盟化で非戦は放棄されたことはすでに述べたが、いまは非核放棄、その目的は自衛隊"核"武装化を迫る事態へと移行している。
 この自衛隊"核"武装化、対中・代理"核"戦争国化はこれまでとは異次元の日米同盟新時代の事態だ。これは米覇権秩序瓦解進行の反映であり、日米安保基軸の防衛政策究極の現住所である。
 非戦非核の放棄を迫る日米安保基軸の防衛とはいったい「何を護る防衛」だったのか? それに換わるべき日本の防衛政策とは「何を護る防衛」であるべきかを真剣に考えるべき時に来たと思う。

■「拡大抑止(核の傘)」米国だけの任務から日本にもへ!
 7月28日、日米外務、防衛担当閣僚による日米安全保障協議会(2+2)が開かれ、在日米軍司令部を「統合軍司令部」に再編、自衛隊の統合作戦司令部との連携強化を決めた。在日米軍司令部への指揮機能付与によって有事には自衛隊を作戦指揮できる権能を在日米軍が持つことになる。
 新たで重大な問題は、これとは別途に拡大抑止に関する閣僚協議が持たれ、自衛隊にも「拡大抑止の任務」付与へと一歩、事態を進めたことだ。
 拡大抑止とは「核の傘」提供を指すが、今回の協議では、これまで「核の傘」提供、核抑止力担当は米国だけの任務だったのが、日本の自衛隊もこれを担うことが暗黙の内に合意された。
 もちろんこのことは明文化されてはいない。しかし閣僚協議後、米戦略国際問題研究所(CSIS)クリストファ・ジョンストン日本部長は「日本が導入した長射程ミサイルを組み込むことは有用だ。これまで拡大抑止は米国だけの任務だったが、今は日本にも果たすべき役割がある」と述べていることでも米国の目的は明らかだ。
 このことは日米同盟の重大な変容である。
 これまで拡大抑止協議は実務レベルだったが、今回、閣僚級レベルに引き上げられた。エマニュエル駐日米大使は「閣僚級協議は今回が初めてだが、これが最後とはならないだろう」と述べた。

■非核放棄を迫る日米安保基軸、迫られる対応
 上記の事態が示すことは、昨年239号で「まずは米韓"核"協議体新設、そして次は」と書いたが、対中(朝)有事の核使用に関する協議体設置が今後、日本でも本格化するということだ。
 具体的には「核持ち込み容認」そして日米「核共有」を迫る協議体だ。その狙いは自衛隊新設の中距離ミサイル部隊への有事の米国の核提供、自衛隊"核"武装化による日本列島の中距離"核"ミサイル基地化、つまり日本の対中・代理"核"戦争国家化にある。
 6月のフジTV番組に出演した兼原信克・元国家安全保障局次長は番組最後の提言ボードにこう書いた。「持たず 作らず 撃ち込まさせず」!
 日本の非核3原則のうち「持ち込まさせず」を「撃ち込まさせず」に換えること、要は「核持ち込み容認」の提言だ。
 「安全保障問題第一人者」兼原信克氏は昨年、G7広島サミットを前に持たれた広島でのシンポジウムで「日本の最大の弱点は"核に対する無知"だ」と言い切った。更にはあるTV番組で「非核の国是を守ることが大切か、国民の命と安全を守ることが大切か、議論すべき時が来た。答は明らかでしょう」と日本国民を脅迫した。
 いま非核放棄まで迫る事態に至った日米安保基軸の防衛を根本から考え直す時に来ている。

■争点は「国際秩序を護る」防衛なのか「日本を護る」防衛か
 4月国賓訪米時に岸田首相は「米国はたった一人で国際秩序を護ることを強いられる必要はない」「同盟国として日本もその役割を担う」としたが、まさにここに日安保基軸の防衛が「何を護る防衛か」が雄弁に語られている。
 この「国際秩序を護る防衛」がいまや非戦非核放棄、対中・代理"核"戦争国家化を迫るに至った。急務は日米安保基軸からの転換、「国際秩序を護る防衛」から「日本を護る防衛」への転換、その防衛政策を明示することではないだろうか。 次号でこのことを考えてみたい。


 
論点

地方の資産は日本のために、地方のために使うべきである

永沼 博


 岸田内閣が6月に「金融・資産運用特区」の計画案を発表し4地区を特区に指定した。その内容と狙い、それへの対応策について考えてみたい。

■地方の資産を米国外資、米国に売る
 指定されたのは、東京都、大阪府・大阪市、福岡県・福岡市、北海道・札幌市の4特区。
 その内容は、日本での事業登録手続きに英語で対応する開設支援の拠点を設ける。また外国人投資家が特区内に居住し地元などの新興企業に投資することを念頭に置き新たな在留資格の創設を検討する、などである。
 この「特区」は、昨年6月の「骨太方針」で「資産運用立国」を打ち上げた岸田首相が、9月にニューヨークで、米国の金融関係者200人を前に上に述べたような優遇策を示しながら、「資産運用特区」を作るとして米国投資家の積極的な参加を要請したものである。彼らは、リーマン・ショックを引き起こした「金融商品」などの開発と運用に長けている。政府はそれを「投資商品」と名を変えて開発して貰い、2000兆円の個人金融資産をそこに投資させるということである。
 米国外資や投資家は、あくまで自己の利潤追求、米国の利益のために動く。その彼らに、地方の資産運用を委ねるというのは、地方の資産を米国外資、米国に売る行為以外の何物でもない。

■「国の形」が変えられる
 元々、特区は、安倍政権の「国家戦略特区」で、「国の岩盤規制に風穴を開ける」と言われたように、国の規制を地方から切り崩し、「国の形を変える」ものとしてあった。
 今回、具体的に言われている規制緩和は、薬局での調剤業務の一部を別の薬局に委託することや、外国人医師が臨床研修を出来るようにすることなどである。医療、薬剤業務は、国民の命に関係する業務だけに様々な規制が設けられている。医師や薬剤師は専門教育を受けた後、国家試験を受けて国家資格を持たねばならず、薬事法によって、薬は医師の処方に従って薬剤師が調剤しなければならない。
 今回の規制緩和は、これらを撤廃していく「風穴」となる。
 見逃せないのは、政府が今回の特区での規制緩和の状況を見て、これを一挙に「全国化する」と言っていることだ。今後、医療、薬剤分野にとどまらず、様々な規制が一挙に「全国化」されていくのではないか。
 国には、自国の経済を守り、国民の命と暮らしを守るために様々な規制がある。その規制を撤廃していけば、日本は国とは言えない「国」になる。
 それが日米統合を進める米国の狙いであり、日本は米国の一部として地方末端まで統合された「国」に「国の形」を変えられてしまう。

■地方の資産は、地方のために使う
 地方の資産運用を米国外資に委ね、米国に貢ぐようなことをしてはならない。あくまでも日本主体、地域主体で、地方の資産は、日本のため、地方のために使わなければならない。
 地方には多くの資産がある。優れた景観や世界的な文化遺産を持つ観光、地域に基盤を置く多くの有力企業、伝統的な地場産業、地域発のベンチャーや起業も各地で起きている。自然エネルギーの適地も地方にある。温泉資源も地方にある。
 とりわけ、気候変動、人口増、戦争などで高騰が予想される食料を生産する漁場や農地は地方にある。世界的な水不足が予想される水資源も地方にある。
 まさに「地方は宝の山」であり、この貴重な資産を米国外資・投資家に委ねるのではなく、地方自治体が主体になって、日本の金融(銀行、証券会社)特に、地方地域と密接な関係を維持してきた地方銀行と手を組んで、日本のための、日本の地域のための「投資商品」を開発し、そこに2000兆円を投資して貰うようにする。そうすれば大いに地域を発展させることができる。
 その可能性があるのに、地方の資産を米国外資に委ね売るようなことを許してはならないと思う。
 「日米同盟新時代」を謳うような「日米基軸」の政権をこれ以上存続させてはならない。一日も早く、「日米基軸」の政権を交代させ、「国民基軸」の政権を立てなければならない。
 「金融・資産運用特区」一つ見ても、そのことが切迫して問われていると思う。



投稿

南海トラフ大地震がやって来る!?

古賀 滋


 今年元旦の能登大地震に続いて、8月8日、南九州を最大震度6という強震が襲った。気象庁や政府は「南海トラフ地震の前触れかも」と言い続けている。災害への備えを、と呼びかけるのだが、家具を固定したり、防災グッズを買いそろえ点検を、とか、イザと言う時の避難方法を家族で話し合って、身を守ってなどと深刻な顔で言うのだが、しかし、肝心な事を政府もマスコミも言わない。巨大地震や大津波で原発が破壊されたら核爆発が起こり、膨大な放射能が広範囲にまき散らされるのは明らかだ。

◇防災の備えを吹き飛ばす原発災害
 人々に襲いかかる原発事故の惨禍は原爆や水爆実験に引けをとらない。そこから避難してください、と言われても寸断された道路、元々大規模災害からの避難など考えられていないのだから、逃げられない。日本を核兵器で爆撃しなくても全国にある33基の原発に通常爆弾を撃ち込んだら核攻撃と同じ効果があると言われる。ましてや巨大地震と大津波に襲われたら、人為的なものでないからますます、容赦ない事態になってしまう。安全保障など吹き飛ぶ。「そう言う事は想定できない」などとは言わせない。13年前の福島原発過酷事故は未だに収まっていない。
 原発の怖い所は、稼働中でなくても、使用済み核燃料を冷やし続けないと核爆発に至ってしまうことだ。プールの中で膨大な電力を使って24時間365日冷やし続けなければならないが、大地震や大津波で大変な事態になる事は多くの専門家が指摘している。また40年超えの老朽原発も稼働できるようにしてしまったので、これまた涙ぐましい努力で超老体を働かせてしまっているが大地震と大津波に襲われたら一たまりもない。

◇原発廃炉こそ最大の防災、日本の生きる道
 地球が太陽に飲み込まれて破局を1億年ぐらい先に迎えると言われているが、利益のために原発を稼働させ続けたら、その破局を私達の手で近い将来もたらしてしまう事になるのは子どもでも分かる。そんな暗黒の未来しかないのだろうか? いや小泉元首相が言ったように、政府が決断すれば破滅を回避し、逆にチャンスを呼び込むことが出来るのだ。あのぼーっとしてあまり功績がなかった菅直人元首相は東北大震災で日本中がショックを受けている時にいち早く浜岡原発の稼働を止める大英断を実行した。
 既につくってしまった原発を稼働させ続けると短期的には経済利益になると思っているかもしれないが一旦事故が起きれば莫大な損失になる。本当の賢さを政府と電力業界に求めたい。能登半島の珠洲に原発を作っていなかったばかりに正月早々、北日本が廃墟にならずに済んで、必死に反対してくれた能登の住民に深く感謝しなければならない。原発過酷事故さえなければこの先巨大地震に襲われても復興できるだろう。

◇廃炉技術で世界の最先端に!
 数ある原発を次々廃炉にする技術は世界に十分普及していない。
 しかし政府・自治体・産業界・科学者が手を携えれば十分可能だし、その技術を世界に輸出すれば日本経済は再び輝ける。軍需産業はいつか不況のしっぺ返しを食う。世界一の軍需産業国家アメリカが豊かになっていないのが何よりの証明だ!原発は核湯沸かし発電機でしかない。そこから生み出されるマネーにつかの間潤いを感じ、放射能まみれの悲惨な廃墟に後悔するのか、日本にたっぷりある再生可能エネルギーの活用と原子炉廃炉技術で持続可能な明るい未来を築けるのかの選択を、近い将来来る南海トラフ警告が私達に迫っている。



時評

「百年変局」の中でのオリンピックと平和式典

金子恵美子


「ゲルニカとサーカス映し出すテレビ」。
 8月10日の朝日川柳に載った一句である。
 ウクライナでもガザでも戦闘は止まず、イスラエル軍によるガザへの破壊・殺戮攻撃は「ジェノサイド」の様相を呈し、すでに表に現れている数字だけでも4万人に及ぶパレスチナ人が命を失っている。家を追われ、やっと辿り着いても安住の地はなく、次から次へと命が奪われ続けている。人の命が羽毛よりも軽く取り扱われているこの現実。メダルが何個と一喜一憂しているその最中にも同じこの地上で人々の命が奪われ続けているのだ。オリンピックに政治や利権が持ち込まれて「平和の祭典」とはかけ離れたものになって久しいが、このパリオリンピックほどにグロテスクな「平和のスポーツ祭典」を知らない。
 また、オリンピックの本来的価値を貶めているものに、「二重基準」がある。
 今回の「祭典」にもロシアとベラルーシの参加はない。ロシアによる「ウクライナ侵攻」を理由に国としての参加は認めず、「中立な立場の個人資格の選手」(AIN)としてIOCが95人を認めた。しかし、辞退した選手が多く、結局30名が「個人資格」として参加しているだけだ。表彰台での国旗の掲揚もなく緑を基調にしたAINと期された旗と賛歌が使用されるという。
 一方、「ハマスの排除」を口実にガザ市民の命を毎日奪い続け、その指導者を次々に暗殺しているイスラエルには「国としての参加」を認めている。露骨な「ダブルスタンダード」だ。現国際政治、アメリカを中心とするその同盟国の利害を反映した措置と言わざるを得ない。ロシアは「新オリンピック」開催も示唆しており、一歩も引かない立場だ。
 今世界は、これまで世界を一極支配してきた米国を中心とする米欧覇権主義勢力とこれに反対する非米反覇権主権尊重勢力との激しい攻防が繰り広げられている。
 日本ではロシア・中国・「北朝鮮」などが、力で世界秩序を乱す「悪玉」のように扱われているが、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国によって2006年に設立。2024年1月からエジプト、イラン、エチオピア、アラブ首長国連邦、サウジアラビアが参加、タイも参加の準備中)や上海協力機構(中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタによって設立。その後インド、パキスタン、イラン、ベラルーシが加盟)、また上記の国ともダブルが、最近よく聞かれるグローバルサウス(アジア・アフリカ・ラテンアメリカの新興国・発展途上国の総称)も欧米とは一線を画した立場をとっており、欧米中心のこれまでの国際秩序になびかず、自らの国益にかなう新しい国際秩序を創ろうとしている。昨年の3月にロシアを訪れた習近平中国国家主席は「百年変局」という言葉を用いて、世界秩序が変わる歴史的な時期に来ている認識を示し、これを一緒に促進しようとプーチン大統領に伝えている。

平和祈念式典に参加する各国大使と挨拶する鈴木史郎長崎市長 (8月9日)
平和祈念式典に参加する各国大使と挨拶する鈴木史郎長崎市長 (8月9日)
 米国やその同盟国の利害を反映したオリンピックもそうした攻防の一舞台になっているということではないだろうか。
 そういった意味では、今回の長崎の「平和祈念式典」におけるイスラエル不招待問題に端を発した、米英など主要6各国とEUの大使の式典不参加事態も本質的に同じではないかと思う。
 不参加の理由は「イスラエルを招待しなかったことへの抗議」だという。鈴木史郎長崎市長は「厳粛な雰囲気の下で円滑に実施したいからの思い」「ロシアやベラルーシを招待しないのと同じ」と説明。これに対し米英側は「イスラエルをロシアと同列に扱うのは誤解を招く」と反発。いったいどんな誤解を招くというのだろうか。私などは、反対の意味で、入植と迫害、ジェノサイドを繰り広げるイスラエルとウクライナのNATO加盟反対とロシア系住民へ迫害をやめるよう再三呼びかけながらもこれに応じなかったウクライナ(バックにいる米)への軍事的行動に踏み切ったロシアとは同列にならないと思っている。
 いずれにしても、これは「平和式典」への参加、不参加の問題ではなく、日本を米国に同調し、G7として足並みをそろえて進む国にしようとする米英基軸の覇権主義勢力と、非米主権尊重の新しい国際秩序を構築しようとする勢力の闘いの表出だと言えると思う。
 こうした中、そのG6+EUの圧力(「懸念の書簡」)にも日本政府の「考え直せ」圧力にも揺るがず、「イスラエルの不招待」を貫いた鈴木史郎市長に私は敬意を表したい。集団殺戮を繰り広げるイスラエルへの招待は集団殺戮を受けて命を落とした被爆者を二度踏みにじる行為であるのだから。岸田首相のように広島出身を売りにするだけの政治家でなく、被爆二世として信念をもって行動するこのような人に日本の運命を託したいものだ。



資料

「あの時と同じように、沈黙することを繰り返してるじゃないか」

村本大輔instagram「8月6日に考える」より


元安川で行われた灯篭流し(8月6日)
元安川で行われた灯篭流し(8月6日)
 1945年8月6日午前8時15分に広島に原爆が落とされた。たくさんの人たちが亡くなった。毎年、この日、日本国内ならず世界中から政治家たちが、黙祷しに来る。有名な芸能人も、たくさんの日本人たちがTwitterなどのSNSで「この日、広島は原爆が落とされた、私たちは同じことを繰り返してはいけない 黙祷」と言う。・・・だから8月6日だけ「同じことを繰り返さないように平和を祈る」と言うけど、いまパレスチナでは無関係市民の大虐殺が繰り返されてる。今起きてるパレスチナの大量虐殺に「しょうがない」と思う人はあの時亡くなった広島の人たちにも「しょうがなかった」と言えるんだろうか。戦時中や、戦争が近づいてくると、最初に奪われるのは声だ。「戦争反対」と言いにくい空気になってきて、みんなが、触れないようになり、戦争になり、そのときに声をあげても逮捕されたり、牢屋に入れられる。
   今の日本ではなんでも好きなことが言える、一番言える時、みんながSNSをやっていて、誰でも声を発信できる。そんな時代に言えない人は、多分ずっと、黙りながら生きていくんだろう。
 8月6日、僕らは「同じことを繰り返してはいけない」と言う。しかし僕は思う、あの時と同じように、沈黙することを繰り返してるじゃないか、と。戦争、戦前と同じように、黙ると言うことを繰り返している。こんな自由に政府や社会を批判できる時代に、個人がSNSで、なんでも表明できる時代に、沈黙する。いろんな理由をつけて沈黙する。沈黙するのは黙祷の時だけでいい。


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