研究誌 「アジア新時代と日本」

第224号 2022/2/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

視点 国と民主主義

論点 敵基地攻撃論議を攻めの改憲阻止論議に!

論点 核廃絶のために、まず米国から

時事 驚き桃の木さんしょの木

随想 最後まで国民のお荷物―アベノマスク

寄稿 名護市長選を考える




 

編集部より

小川淳


70年周期説、問われる新しい国のかたち
 歴史を俯瞰すると、ほぼ70年を周期に大きな転換期を迎えるという説がある。ここから見たら2022年はどのような年になるだろうか。
 今から70年前の1952年は、日本の「戦後」の大きな転換点であったのは間違いない。対日講和条約、日米安保が発効したのが1952年で、それに反対するデモ隊と警察が皇居前広場で衝突、血のメーデー事件が起きている。またこの年に国内治安を目的とした保安隊が作られ、2年後には自衛隊が発足している。朝鮮戦争が勃発した後の厳しい米ソ冷戦下で、いわば戦後日本の新しい「国の形」をめぐる、憲法か安保かの激しい闘いが繰り広げられ、米国の指揮下で安保を基軸とした戦後体制が始まったのが70年前だったと言えよう。
 その70年前の1880年代はどうかというと、伊藤博文が憲法調査を目的にヨーロッパに向かったのが1882年で、その前年には植木枝盛が憲法草案を書いている。太政官制度が廃止され内閣制度が定められたのが1885年で、国会開設や憲法制定、地租改定、不平等条約撤廃などを掲げて立憲制の国家をめざして各地で闘われた自由民権運動がピークを迎えたのも1880年代末だった。これらの流血の闘いとその敗北後に大日本帝国憲法が発布されたのが1889年であり、いわば明治という国のかたちが作られたのが1880年代だった。
 このように見てくると、ほぼ70年(80年という説もあるが)を周期に、新しい国のかたちをめぐる激しい攻防があり、大きな社会転換、新しい国のかたちが生れていることがわかる。ここから2022年を見ると、安保を基軸とした「戦後体制」はすでに70年という耐用年数を超えつつあり、新たな転換期を迎えているのは間違いないわけで、今年(あるいはここ数年が)は日本にとって大きな分岐点になるかもしれない。
 歴史に「もし」は禁句だが、もし1880年代にもう少し立憲制度の整った国を作っていたなら、軍部の暴走や国家主義ファッシズムによる忌まわしい「戦争と敗戦」はなかったかもしれない。また1950年代の日本も「安保」ではなく「憲法」を基軸した国を作ることができたなら、対米従属ではなく自立したまっとうな政治が機能し、惨憺たる「失われた30年」はなかったかもしれない。それを考えると私たちの闘いが、これからの日本にとって決定的な意味を持つようになるのは間違いない。
 対米同盟を基軸とした新冷戦体制が本格化する今年、新冷戦体制の最前線に立つ、日本はその瀬戸際にある。これからの70年を見据え、安保基軸に代わる新しい日本のかたちを示せるかどうか、国民は重い課題を担っているわけで、その真価がわれわれに問われる年になるのかもしれない。



視点

国と民主主義

編集部


 今、なにかと国と民主主義が対立させられ、それを通し、国が否定されている。それにどう対するか、考えてみたい。

■対立させられる国と民主主義
 2年前、コロナ対策の初期、「民主」か「強権」かが騒がれた。国による検査や隔離に「強権」だとして批判の目が向けられた。
 昨年、バイデン米大統領は、米中新冷戦の本質は「民主主義VS専制主義」にあるとしながら、中国の政治は、国家による専制であり、民主主義への挑戦だと敵意を露わにした。
 戦後一貫して、何かと芳しくないイメージで語られてきた「国」や「国家」が、ここに来て、一段と悪者にされている。
 その際、対置されるのは、決まって民主主義だ。何かと言えば、民主主義と国が対立させられ、民主主義との関係で国が否定されている。
 だが、これは少しおかしいのではないか。もともと、民主主義は国の政治のあり方を言うものではなかったのか。

■なぜ対立なのか?その根底にあるもの
 もともと、国と民主主義は対立するものではない。コロナ対策で、国が検査や隔離を一つの規律、一つの秩序として定めるのが、どうしてそれ自体、民主主義に反する「強権」なのか。
 民主主義に反しているか否か、それを判断する基準は、どこまでもその政治が民意に反しているか否かにあるのではないのか。もしも、コロナ対策で、検査や隔離が民意に反し押し付けられたものであったのなら、それは「強権」だと言えるだろう。だが、それが民意に合い、民意に応えるものであった場合、どうしてそれを「反民主、強権」だと言えるだろうか。
 それ自体対立するものでない国と民主主義を対立させ、国自体を「強権」だと否定するのはなぜなのか。それは、米国が中国との「新冷戦」を「民主主義VS専制主義」の戦いとして正当化するためだけではないように思う。それにも増して本質的なのは、国の上に君臨する自らの覇権を正当化するためではないだろうか。
 これまで米国は、日本と言う国の上に君臨するため、国そのものを否定してきた。そのために、日本国民自身が第二次大戦を通して抱くようになった軍国主義、国家主義に対する拒否感は、大変好都合だったのではないか。米国は、米国式民主主義を普遍的価値観として、日本と言う国の上に置くことによって、日本に対する覇権を極めて容易に行うことができるようになった。
 それが今、米中新冷戦の中、一段と強められてきているように思う。
 今日、米国は、日本を米中新冷戦のフロントライン(最前線)に押し立て、軍事も外交も経済もすべて、日米の共同、一体化、言い換えれば、日本の米国への吸収統合を要求してきている。今度新たに赴任してきた「豪腕」で聞こえるエマニュエル米駐日大使がその指名承認公聴会で「(米中新冷戦が)経済規模で世界首位の米国と3位の日本との経済統合を強める好機」と述べたのは、決して偶然ではないのではないだろうか。

■国とは何か?その本質を問う
 米国が国を民主主義と対立させ、「強権」だ「専制」だとキャンペーンするのには、一定の説得力がある。それは、実際の国にそういう側面があるからに他ならない。
 マルクスレーニン主義にあって、国は「階級対立の非和解性の産物」、「階級支配の道具」とされた。資本主義社会にあって、それは「ブルジョア独裁の道具」、社会主義社会にあっては、「プロレタリア独裁の道具」だと言うことだ。
 実際、国にそういう本質的な側面があるのは事実だ。階級社会にあって、国は支配階級による「独裁」であり、「強権」、「専制」だ。その上、現実はそればかりではない。労働者階級が支配階級となったはずの社会主義社会にあっても、労働者大衆に対し、国が「強権」、「専制」として現れる場合が少なからず見られるようになっている。
 この間、米中新冷戦の深まりの中で、日本国民の米国への親近感が高まったのに対し、中国やロシアへのそれが激減しているという世論調査結果が出されているが、そこに一定の根拠があるのも事実ではないかと思う。
 ところで、国には階級支配の道具、「強権」「専制」という側面があると同時に、階級や階層の違いを超えて広く国民皆の共同体としての側面があるのも事実ではないだろうか。もちろん、それが「幻想の共同体」と言われるように、共同体としての体を完全には成していないのも事実だ。その内部は貧富の差をはじめ、ありとあらゆる差別と格差に満ちており、様々な利害関係の対立、分裂が錯綜に錯綜を重ねている。それが、とても共同体と言える情況にないのは事実だと思う。しかしその一方、そこに、個々の階級、階層を超え国民全体に共通する利害関係があるのも事実ではないだろうか。早い話、例えば、国の平和一つとっても、階級、階層を超えて、圧倒的多数,ほとんどの国民皆に共通した要求だと言えるのではないか。あるいは、山本太郎さんがよく言う「人間は生産性ではない。存在すること自体に価値がある」という考え方も、国が人々の共同体だという認識に基づいているのではないかと思う。
 共通の利害関係、要求があるところにはそれに基づく何らかの共同体が生まれる。増して、すべての国民が共通の言語、経済・生活様式、文化・風習、等々で結びつき、もっとも基本的な人々の社会生活単位を成す国が揺るぎない強固な共同体であるのは誰も否定できない事実だと思う。
 諸階級諸階層国民皆に共通する利害関係に基づく共同体、まさにここに国のもう一つの、と言うよりもっとも基本的な本質的側面があるのではないだろうか。

■国と民主主義が一体になることをこそ
 あの軍国日本の敗戦の後、一貫して日本では、国が人々の共同体であるという考え方は馴染まれてこなかった。50年前、あの全共闘の時代にも、国が「幻想共同体」だとする考え方の方が多くの学生の共感を呼んでいたのではないか。
 先述したように、これは、自由や民主主義、法の支配や市場価値など「普遍的価値観」を国の上に置き、世界に君臨してきた米国にとって好都合だったと思う。その米国が、今、覇権崩壊の危機に直面し、その回復のため、「米中新冷戦」を仕掛けながら、国と民主主義を対立させ、国の否定を迫ってきている。
 そのために繰り返されているのが、人権など民主主義に敵対する国の否定だ。それが功を奏しているのは、この間、日本人の米国への親近感が高まったのに対し、中ロへのそれが激減しているという先に挙げた世論調査結果にも示されているのではないか。
 これは、われわれ日本人、日本国民にとって良いことだろうか。自らの共同体としての国が、いくら共同体としての体を成していないにせよ、否定され、米国に吸収統合されるというのは、良いことであるはずがない。
 この重大な時点にあって、まずやるべきは、国と民主主義を対立させ、国を否定することの誤りを確認することではないかと思う。そうでなくても自らの国に共同体としての愛や親しみ、誇りを感じられなくなっているわれわれ日本人が国を「反民主主義」、「強権」、「専制」ととらえたらどうなるか。米国への日本の吸収統合に拍車がかかるだけではないか。
 その上で問われているのは、逆に、国と民主主義が一体だというこれまでにない新しい視点を持つようにすることではないだろうか。
 国という共同体の成員である国民一人一人がその政治の主体になる民主主義が発揚され実現されてこそ、共同体としての国が強化され発展するのは、容易に理解されることだ。
 一方、共同体としての国が強化され、発展してこそ民主主義がより全面的に実現されるというのはどうだろうか。国は「強権」だという従来の考え方からは生まれてこないこの視点も、国が共同体としての性格を強めると言うところから見れば、十分に納得されるものだ。共同体成員である国民一人一人の自らの共同体、自らの国に対する愛着や誇りの高まりが政治の主体としての各人の自覚の高まりを生み、民主主義の発揚を生むのはごく自然で当然のことではないだろうか。
 こうして見た時、明らかなのは、国と民主主義を一体のものとして見る上で、国を一つの共同体としてとらえ、民主主義をそこで行われる政治のあり方として見ることが決定的だと言うことだ。
 これは、国を「強権」と見、民主主義を個人の自由を保障するものとして見る米国式価値観とはあまりにもかけ離れていると思う。



論点

敵基地攻撃論議を攻めの改憲阻止論議に!

吉田寅次


■敵基地攻撃能力保有は米国の要求
 岸田首相が「政権の重要課題」と掲げる敵基地攻撃能力保有、それを明記した国家安全保障戦略の今年度中の改訂は、米中新冷戦体制下の日本に求める米国の強い要求に基づくものだ。
 敵基地攻撃論の登場は第二次安倍政権時「陸上イージスの配備計画停止」を決めたことに始まる。
その理由は「落下するブースターが住民地域を直撃する危険性」があり、是正には10年もかかるからとしたが、本当の理由は別にあった。
 当時すでに米国は「迎撃を基本とする日米の弾道ミサイル防衛(BMD)システムの限界を悟り、敵基地攻撃基本の統合防空ミサイル防衛(IAMD)構想に変更」(朝日新聞2020年6/20)していた。
 その理由は、中国の極超音速滑空弾ミサイルや朝鮮が開発した高度を自由に変更できるミサイル技術などによってイージスアショアでは補足不可能となり、配備自体が無意味なものになったと米国が判断したからだった。
 イージスアショア配備停止を受け「安倍政権は国家安全保障戦略(NSS)を初改定する方針を固めた」(朝日新聞同年6/20)という経緯をたどる。
 その改定方針の核は、「自衛隊の敵基地攻撃能力保有」にあり、安倍首相は2020年度内にこの国家安全保障戦略改定を行うとした。菅政権の誕生でこれは一時、棚上げされたが、岸田政権は2022年度中に国家安全保障戦略の改訂を公約、その基本を敵基地攻撃能力保有とした。
 そして1月7日「2+2」外務・防衛閣僚の日米安全保障協議委員会は日本の「敵基地攻撃能力保有の検討」を共同文書に明記、確認した。

■その本質は専守防衛放棄
 2017年度末に米国は、「国家安全保障戦略??(NSS)」改訂で中国を主な競争相手(主敵)と規定し「米軍の競争力(抑止力)の劣化」を認め、これを補う「同盟国との協力強化」を打ち出していた。米国のNSS改訂による「同盟国との協力強化」要求、日本に対するそれは「米軍の競争力(抑止力)劣化」を補う自衛隊の抑止力化、攻撃武力化への転換であり、言葉を換えれば「日本の国是」としてきた専守防衛の放棄であった。
 翌年、安倍首相は「専守防衛は国是ではありますが」としつつ「2018年度新防衛大綱改訂」で事実上の国是放棄である小型空母保有、900km長射程ミサイル導入など攻撃的兵器導入に踏み切った。この延長上に敵基地攻撃がある。

■敵基地攻撃論の弱点−言えない専守防衛放棄
 小野寺五典元防衛相・自民党安全保障調査会長はフジ系TV番組で敵基地攻撃は「盾を前に持っていくだけ」、すなわち専守防衛の範囲であると強弁した。この小野寺氏は昨年4月、「専守防衛はもう時代に合わなくなったのではないか」と公言した人物である。本音は、敵基地攻撃能力保有のためには専守防衛の放棄が必要とする人物だ。その当人が「盾を前に持っていくだけ」と詭弁を弄したのは専守防衛放棄を明言するのはまずいと判断するからだ。この一事は、敵基地攻撃論議を専守防衛放棄の議論と一体に行うのは国民の納得を得られないという岸田政権の判断があることを示すものだ。ここに敵基地攻撃論の弱点があると言える。

■敵基地攻撃論議を攻めの改憲阻止論議に!
 岸田政権の進める敵基地攻撃論議は、ことの本質上、専守防衛の放棄、すなわち憲法9条改憲の論議と一体の問題として論議されるべきものだ。  敵基地攻撃は「敵国」領土への攻撃であり、戦争行為、「交戦権の行使」以外の何ものでもなく、また敵基地攻撃能力を自衛隊が保有するということは、自衛隊の戦争武力化、「戦力」化である。
一言でいって「戦力不保持」「交戦権否認」の憲法9条の否定である。
 ゆえに敵基地攻撃能力保有が日本の安全保障に必要と考えるなら、小野寺氏の言うように「専守防衛は時代に合わない、古くなった」と明言し、専守防衛の根拠である憲法9条の改正を国民の前に正面から堂々と問うべきであろう。
 岸田政権は改憲問題を自己の重要政治課題としていながらも9条は変えずに自衛隊合憲を加えるだけと本当の争点を隠し続けている。
 この弱点を突き、敵基地攻撃論を9条改憲と直結する問題としてこれを改憲阻止論議の中心に据え、逃げる政権側を攻め立てる闘いが問われていると思う。


 
論点

核兵器廃絶のために、まず米国から

東屋 浩


1月21日、日米両政府は「核拡散防止条約」に関する共同声明を発表した。そこで、「核のない世界の実現」に向けて各国の首脳らに被爆地広島・長崎に訪問することをはじめて要請した。また、中国に対しては核保有状況を示し核軍縮への取り組みを、朝鮮に対しては核兵器と弾道ミサイルの完全で検証可能かつ不可逆的な廃棄を強く求めた。
 この共同声明の2週間前には、英米仏露中の5カ国による「核戦争をせず」という共同声明が発表された。
 これら一連の核軍縮への動きは、NPT再検討会議(1月4日予定を延期)、および3月開催予定の核禁止条約締結国による最初の会議を意識したものだといえる。核軍縮について何の行動もとってこなかったことへの非難をかわすためのポーズにすぎないと言えるだろう。
 そのうえで、日米共同声明は、核軍縮をあくまでNTP核拡散禁止条約の枠内でおこない、中国を制約し、朝鮮には核放棄を要求するという手前勝ってなものだ。周知のように、NTPは核を米など5カ国が独占し、他の国には核をもたせない不平等条約であり、親米国のイスラエルやインドの核を黙認し、朝鮮には核放棄を迫る、米国の核覇権ための道具となっている。
 そもそも核兵器を実際に使用し、その後、他国に核を使うぞという恫喝をかけてきたのは米国だ。朝鮮戦争時には核の使用が検討され、90年代の米朝間の緊張時にも駐韓米軍責任者が核を使用すると脅した。核ミサイル、核搭載戦略爆撃機の韓国への配備など、朝鮮は恒常的に核の脅威を受けてきた。まさに米国こそ、核戦争の元凶である。
 米国がもし核軍縮を言うならば、自ら率先して核兵器を廃棄すべきだろう。そうではなく、核軍縮を言いながら他国に核をもたせないというのは、詭弁を通り越して、大国の傲慢極まりない横暴でしかない。
 ここで問題はわが日本政府の姿勢だ。核兵器被害国として当然、核兵器廃絶の運動の先頭に立たなければならないが、核兵器禁止条約については、「日本の安全保障のためには米国の核兵器が必要不可欠」「核保有国が参加しない下では実現は難しい。保有国と非保有国の橋渡しをする」と反対している。そして、NTPのもとで核保有国以外の国で核拡散させないという米国の歩調に合わせている。米国の核に反対せずそれを容認して、米国の核覇権を擁護し、支えるという姿勢である。
 しかも、問題は、広島、長崎に各国首脳の訪問を要請したことだ。オバマ元大統領が行ったことをもっと大々的にやろうということだが、核廃絶の演説だけでノーベル平和賞を受賞したオバマは「核をなくすのは米国が最後だ」と述べたではないか。米国自身が率先して核兵器の廃棄をしなければ、どれだけ広島・長崎詣でしたところで、単なるポーズに終わり、何の意味もないのは明らかだ。広島・長崎は単なる観光地でもなければ、米国の「核軍縮のお芝居」をおこなう舞台でもない。
 広島・長崎への核兵器投下は、戦争終結を早める目的ではなく、戦後の世界支配の主導権を握るためにおこなわれたものだ。そのためにアジア人である日本人を標的にした。本土空襲も既に日本の敗北は明らかであったのに日本を無力化させるために徹底的におこなわれた。
 戦後も米国の水爆実験のために久保山さん(第五福竜丸での水爆犠牲者)らが犠牲になり、日本各地に放射能の雨を降らせた。
 核兵器廃絶の運動は、まさに米国の核兵器に向けて行わなければならないと思う。そして、米国が世界に向けて広島・長崎を訪問すべきなどという欺瞞を許してはならない。



時事

驚き桃の木さんしょの木!

平 和好


■菅直人さんへの維新の攻撃と、橋下徹氏による大石あきこ議員告訴
 首相在任中は浜岡原発停止以外パッとしなかった菅直人氏だが、久々にその実力を垣間見た思いだ。「弁舌さわやかで」とほめているのかと思いきや、「ヒトラーを想起させる」と橋下徹を論評した。私などは維新そのものがナチス政権時の突撃隊(SA)を想起させる第二暴力装置に見えて仕方がないくらいだが、菅さんは抑えた表現にしていた。橋下は「誉め言葉と受け取りましょう」と言ったり「もっと勉強してものを言ってもらいたい」などと偉そうに言っていた。(勉強もせずに放言しまくる人物がよく言えたものだ。)
 これに突如参戦したのが馬場伸幸・維新の会代表。維新への暴言で許せない!と息巻いてマスコミを引き連れて菅さんの議員事務所を訪れたのだった。この時、菅さんは落ち着きはらった対応で、「維新と橋下さんのご関係は?」。馬場は「創業者であるけれど、今は関係ない」と答えざるを得ない。「関係のない橋下さんへの私の発言に維新代表のあなたが抗議とは。お帰りください!」とキッパリ。完全に馬場の負けではないか!? こんな簡単な事もわからない維新の政治的学力を如実に表す出来事であった。

■橋下氏は名誉棄損で自身を告訴しなさい
   そこへ輪をかける珍事が起こった。橋下徹氏がれいわ新選組の大石あきこ議員他一名を告訴したのだ。名誉棄損と社会的信用失墜がけしからんと言う。どの口が言うてんねん! 総選挙投開票日に橋下氏が山本太郎さんを「詐欺師」呼ばわりしたのは明らかに名誉棄損ではないか。辻元清美さんの事をくそばばあと言ったのも忘れられない。数々の暴言・失言で自らの名誉も社会的信用も傷つける自傷行為を無数に繰り返してきた橋下氏に告訴された大石あきこさんと支援者は一瞬ポカーンののち、これは面白いわ!とお祭り騒ぎになり、一般の反応も、SNSで「♯大石あきこが橋下徹に訴えられたってよ」が即日、トレンド入りしたらしい。このところ知名度がアップしたとはいえ、段違いの「社会的認知度」を誇る橋下氏に訴えられるなんて、なんて名誉なのだろう。

■テレビ各局への親身なアドバイス
 なお、訴えられた「他一名」がこの度判明した。何と、最近「クオリティペーパー」の呼び声がある「日刊ゲンダイ」らしい。この間まで誰も知らなかった一介のペーペー議員(失礼!)大石あきこさんは橋下徹の逆上・八つ当たり告訴と、日刊ゲンダイとのセットでさらに社会的地位が向上してしまうではないか。
 人気絶頂の時に絶対勝てるはずの大阪市住民投票(第1回)や宝塚市長選や堺市長選に敗北しへこんで、そのまま引退すればよかったものを、毎日テレビに出演していること自体、おかしい。
 維新のスポークスマンなのにテレビがずっと出演させ続けている事が理不尽なのだ。馬場氏が自己暴露してしまった通り「維新の橋下」なのだからテレビ各局は直ちに出演停止にするべきなのだ。それによく聞いて見ると橋下氏の話は無内容に加えて面白くない。ここはユーモアも内容もはるか上の天敵・大石あきこさんを起用する方がよほど視聴率を取れるに違いない。



随想

最後まで国民のお荷物―アベノマスク

金子恵美子


 在庫8000万枚のアベノマスクの行方はどうなったのだろうか?
 この間の保管料6億、処分すれば6千万、希望者に配送すれば10億、この数字を目にして、国民の多くが「なんだ、それは?!」と思ったのではないだろうか。
 だいたい、なぜ、「廃棄処分」と決めたものに対して「配布希望」などを募ったのだろうか? すでに、令和2年8月以降、介護施設などに対して希望に応じた配布を行ってきており、その結果が在庫8千54万枚だったのだ。以前に配布されたアベノマスクの使い道がなく在庫が倉庫に積まれている映像をテレビで映していた。この時点では「廃棄処分」=妥当という流れであった。
 それが、新たに「配布希望」を募ったら37万件の申し出があったという。無償だから?いやいや、以前の配布もすべて無償=国税だった。それが、なぜ急に、小さく、洗ったら更に縮んでしまう、効果も不織布マスクに比べて低い「アベノマスク」にこれほどの希望があったのか?
 これを一番喜んだのが言わずもがな、安倍元首相だ。自分の名前が冠されたマスクが「廃棄処分」とされた時の気分やいかばかり。それが一転して、37万件もの申し込み。1月27日の自派閥の会合で「・・・希望を募ったところ、2億8千万枚もの申し込みがあった」とどや顔で報告。会場からは「オ〜」という声と拍手。「もっと早くやっておいて頂ければ良かった」と上機嫌の顔でしめくくった。この為に国民の税金がいくら使われようがいささかの痛みも感じないのだろう。こんな人物と取り巻く連中が8年以上も日本の政治を支配し、今なお絶大な影響力を持ち続けていることを考えるとやるせない思いしかないのだが、元首相は知っているのだろうか。「アベノマスク」がどのように使われているのか、またその国民の胸の内を。
 「アベノマスク」はマスクとして利用されているよりも、リメークして「子どもの名札・ガーゼや雑巾、おむつ、コースター、スプラウトの種まき用布」などに利用されているのだ。多くの人は、廃棄するのはもったいないと考えて希望したのだろう。ネットには「これだけ需要があるのだからオレがやったアベノマスクは正解だったと勘違いしそう」「マスクとしてではなく他での用途が大半なのを本人は分かっていないのか。それを自分の功績であるかのように笑いながら話しているが、間抜けに見える」「日本の国民をなんだと思っているのか。みんなが努力して無駄を無くそうと申し込んだのだから、その無駄を出した本人は国民に感謝すべきだ」といった厳しい声がならんでいる。普段あまり政治的なことについて話さない職場の同僚たちも「岸田さんは聞く力を言ってましたよね、誰の声を聞いているんでしょうね」「かかった経費はこうした事を招いた本人たちが払うべきですよ」などなどの声が聞かれた。
 問題は、政治に対するこの怒りや疑問を持続させ、巨大と思える壁に一つでも二つでも卵をぶつけることだと思う。
 現在「アベノマスク」は? 厚労省のホームページによれば、1月28日で配布希望の申し出は閉め切られ、集計作業が進められており、おおむね一か月程度で配布枚数等を精査し、その結果や配布方法について公表するとしている。3月上旬をめどに配送を順次開始するそうだ。
 政府・厚労省は配送料10億円の火消しにやっきになっていたが、国税を元首相のこんなアホみたいなしくじりに使われる国民としては、実際に幾らかかったのか、また、その使われ方=マスクとしてきちんと使われたのか否かの報告はきちんとしてもらわなければ困る。
 日々の生活に追われ、新しい情報に上書きされ、いくつもの?や怒りがすぐに消費されていってしまう現状だが、流されることなく、考え続け、声をだしていかなければと思う。
 岸田首相は「アベノマスク廃棄」でせっかく上げた株を自ら落としめた。国民に少しの希望を与えては大きく落胆させる、これが岸田政治の特徴か。なぜそうなるのか?この政権に国民の希望はあるのか?しっかりみつめていきたい。



寄稿

名護市長選を考える

釜日労・三浦俊一


 名護市長選挙の結果について、しばし沈黙を決め込むと決めていました。辺野古で出会った多くの人たちの悔しさが胸中をよぎり言葉を失います。
 長い闘いの教訓から「負けた軍隊ほどよく学ぶ」という格言があります。実は少し違うのです。「負けた軍隊ほどよくしゃべる」が本当のところでしょう。
 そして、「凱旋の歌を唄うものたちの声を聞け」。これがまた一つの教訓です。その中に必ず「おごり」や「大きな見落とし」が潜んでいます。耳を澄ませて聞いてみようではありませんか。
 政府はたった15億円の基地再編交付金で名護市民を買収したと思っています。しかし、実情は渡具知の「黙認」を手にしただけです。自民、公明の「辺野古新基地は日本の防衛上どうしても必要」との見解に距離を置かざるを得なかった、この渡具知の政治的な立場こそが沖縄民衆の底力ではないのでしょうか。これ(=「黙認」)を、議論の争点から辺野古を語ることのできなかった、渡具知陣営の弱さとは見れませんか?
 余談ですが、辺野古新基地建設阻止を実現しシュワブを返還させたときにどうしましょうかと、議論したことがあります。「ゲートに近い兵舎は新基地建設反対で頑張ったみなの高齢者住宅」が一番でしたね。もちろん介護付きの部屋も作り、みんなで昔話に花を咲かせてのボケ防止(笑)。如何でしょうか?
 今日も辺野古、名護市長選の事を考えていました。自分なりに渡具知政治とは何なのか?幾つかのヒントは得たつもりです。
 「黙認」、この言葉は歴史的には使い古された言葉であることも知りました。有名なのは「1931年に開始された満州事変に際して、イギリスなどは国際連盟で対日制裁を求める国々を抑えて日本への妥協的姿勢を取り続けたし、35年のイタリアによるエチオピア侵略にあたっても、侵略を容認する<ホーア・ラバル案>が英仏首脳の間で作成された。宥和政策が頂点に達したのは、ドイツによるチェコスロバキアのズデーテン地方併合を英仏が認めた38年9月のミュンヘン会談である。宥和政策にはこのように侵略による領土拡大を容認する<政治的宥和>のほか、「持たざる国」の経済的不満を解消しようとする「経済的宥和」、植民地を取引材料に用いる<植民地的宥和>が存在した。イギリスのN・チェンバレンなど宥和政策を積極的に推進した人々は、これらの方策によって相手国の穏健派が力を増し、対外侵略の勢いが弱まることを期待したが、実際にはこの政策によって日独伊の侵略衝動はいっそう刺激されることになった」(ウィキペディアより)。
 渡具知は基地建設を「黙認」しつつ、他方で名護市民の交付金での生活向上を目指しています。しかし、基地反対派からは「基地推進派」と呼ばれ、岸田からはもっと強く基地建設推進を迫られるはずです。この二つの圧力に抗するには「黙認」以外にその政治的立場はないはずです。基地再編交付金で名護市民の給食や学費の補填を進めながら、他方では戦争の為だけの基地建設を「黙認」する、完全な自己矛盾ですね。
 しかし、この宥和政策は必ず破綻します。ナチに対して宥和的だったイギリス首相のチェンバレンは結局ナチのポーランド侵攻を早めただけでした。言葉を現実に戻すなら、渡具知は貧しい名護市で起きた基地建設と経済的な混迷を「経済的宥和」で乗り切ろうとしたのでしょう。しかし名護市民の1・5万人以上はこの宥和を拒否しました。これは大変なことです。渡具知的政治は短命に終わる気がしてなりません。
 基地建設阻止の声が彼を政治の舞台から引き下ろすか、米中緊張をネタにした極右が引き下ろし、首のすげ替え、基地建設を強引に推し進めるか? その時期が早晩来ると思っています。


ホーム      ▲ページトップ


「アジア新時代と日本」編集委員会 〒536-8799 大阪市城東郵便局私書箱43号