研究誌 「アジア新時代と日本」

第219号 2021/9/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 高まる国民意識と日本政治の転換

議論 横浜市長選が示すもの

議論 アフガニスタン勝利が示すもの

随想 二病息災(2) 入院して分かる医療制度あれこれ

随想 私のエンパシー

投稿 あー腑に落ちない




 

編集部より

小川淳


 〈私〉と〈コモン〉から資本主義を読み解く
 「人新世の『資本論』」が良く売れているようだ。斎藤幸平さんにはいつも刺激を受ける。「脱=私へ、田舎と都市の二項対立ではなく」(朝日新聞8/23)もそうだ。
 〈コモン〉とは何か。元々、自然や環境は誰のものでもないそこに住む人々の共有財産であるコモン(公)だった。ところが私的所有の拡大によってコモンはどんどん縮小され、〈私〉が拡大していく。資本主義が生まれる前まで私的所有の領域はごくわずかだったはずだ。今アマゾンの自然破壊が問題になっているが、巨大なコモンであったアマゾンの熱帯雨林も、私的所有者(私)によってどんどん切り開かれ、破壊されていっている。それをイメージすると分かり易い。斎藤さんはコモンとは自然だけではない。「民主的に管理された社会的富」という斎藤さんの定義に従えば、道路や水道、インフラなどの社会的富もその範疇に入るという。
 資本主義とは何かも〈私〉と〈コモン〉から紐解くと分かりやすい。そもそも海も山も河川も誰のもでもない、そこに住み生きている人々皆のもの〈コモン〉だったと思う。例えば、企業によって埋め立てられた海は、〈私〉へと変貌していくが、そのような環境や自然の破壊に異議を唱えて全国で展開されてきた地域闘争は、〈私〉と〈コモン〉との攻防といって良い。このように資本主義は〈コモン〉を奪い取ること「脱=コモン」を成長の糧としてきたが、その〈私〉を最大化したものがいわゆる「新自由主義」だったのではないかと思う。
 「脱=私」への転換の鍵は、どこにあるのだろうか。斎藤さんはパリの水道民営化での市民の闘いを紹介していたが、「都市」そのものも〈コモン〉の一つと考えてはどうだろうか。なぜなら都市は〈私〉の集積体であると同時に、〈コモン〉でもあるからだ。都市全体のデザインをどうするのか、道路一つ作るにしてもそこに住む人々の利害が絡む。都市のアニメニティや景観を考えると、〈私〉的権利の制限が避けられない。ヨーロッパの都市がなぜ魅力的なのか。ヨーロッパの都市は中世の景観を守るために私権に制限をかけてきたからだ。そこには「脱=私」の実践がある。〈私〉を制限することで〈都市〉の価値を高めていくことが結局は〈私〉の利益にもなる。そのような合意があってこそ「脱=私」は可能となる。
 「都市」の延長に「国」がある。国家もまた、人々の運命を共にする利害共同体、一つの〈コモン〉といえば言い過ぎだろうか。ここは異論があるだろうが、安倍・菅政権の9年を見ると、モリ、カケ、サクラに象徴されるように〈私〉中心の政治を繰り広げてきたことは間違いない。いかに国(コモン)を取り戻すのか、「脱=私」の政治への道筋をどう示すのか、自民党の総裁選では最低、そこだけはきちんと総括しなければならない。誰が総裁になろうとも、それができないなら、自民党に未来はない。



主張

高まる国民意識と日本政治の転換

編集部


 自民党総裁選と解散総選挙が期限ぎりぎりの日程で近づいている。コロナ禍にあってとは言え、日本政治の行方を左右する日程がこのようにどん詰まりにならなければ決められないところに、日本政治に何らかの激変、転換が生まれる兆しが現れているのかも知れない。

■日本政治激変の兆候
 日本政治激変の兆候は、どん詰まりでしか決められない重要日程にのみ現れているのではない。
 昨年9月、大きな期待を持って迎えられた菅政権への支持率がコロナ禍への無策、等々により、20%台へ大激減し、菅氏自身、退陣を余儀なくされたこと。このところ続く、地方選での自民党系複数立候補と落選。そこに見られる自民党内分裂の深まりとその背景にある、米国か中国か、「米中新冷戦」の進行。
 この状況下で行われた横浜市長選。総選挙の行方を左右すると注目されたこの選挙の予想を遥かに超えた結末。それを受けて、「選挙の顔」をどうするか、総裁戦に向けた自民党内の右往左往が激しさを増している。しかし、提起されている問題は果たして「顔」をどうするかの問題なのか。
 政権交代、政界再編成まで、日本政治の大変動と激変、いやもっと大きな転換の可能性まで含み、事態は遙かに深刻なのではないか。

■兆候の根底にあるもの
 事態進展の根底には、深まる米覇権の崩壊と米国か中国か、覇権抗争の進行、そのどちらにも組みしない、世界に広がる自国、自国民第一、脱覇権への動向、そして、それとともに高まる日本国民の国民意識の広がりがある。
 国民意識と言った時、それは、日本国民としての自覚や自負、誇り、愛着などといった、文字通り、自分が日本国民だという意識のことを指していると思うが、この当たり前の意識をはっきりと持てていなかったのが、これまでの日本人だったのではないか。戦後のわれわれ日本人には多分にそうしたところがあったように思う。それは、よく言われる「アイデンティティーを持てない日本人」と多分に重なっているように思う。
 ところが最近、この日本国民の国民としての意識の高まりが顕著だ。それは、このところ地方選挙、住民投票などで見られる「わが地域、わが地域住民第一」意識の高まりとして現れてきているように思われる。先の「大阪都構想」をめぐる住民投票で、大阪市民が大阪市をなくそうという大阪維新の会の提案を否決したこと、そして今回、横浜市民がコロナ禍から横浜市民を守る意思が見られない菅首相と横浜市議会自民党、公明党本部が推す本命、小此木氏ではなく、ジバンもカバンもカンバンもなしにコロナ禍から横浜と横浜市民を守ろうと必死に訴えた元横浜市大教授、医師の山中氏を圧倒的多数で選んだことなどは、その端的な現れだと言えるのではないだろうか。
 ここでとらえ返すべきは、この国民意識、地域住民意識の高まりが国と国民、地域住民の上に君臨してきた覇権の崩壊と軌を一にしているという事実だ。「パクスアメリカーナ(アメリカ覇権の下での平和)」の崩壊とは、このことを指しているのではないか。アフガニスタンの米国統治の崩壊が米覇権下の世界に恐慌を引き起こし、各国における国民意識、地域住民意識の高まりを促しているところにもそれは現れているのではないだろうか。

■誰の要求に応えるのか
 今、日本の政治は、二つの大きな要求の間で揺れていると言える。一つは、必死に崩壊からの回復を図る米覇権の要求であり、もう一つは、自国、自国民第一、わが地域、わが地域住民第一に高まる国民意識、地域住民意識からの要求だ。
 戦後76年、日本の政治は、米覇権の下、自らの覇権的利益の実現を目論む日本独占大企業の要求に基づいて行われてきたと言うことができる。自社二大政党制と言いながら、事実上、自民党独裁政治だった戦後政治とはそのような政治だったと言えると思う。
 しかし、米覇権の崩壊が誰の目にも明らかになってきている今日、その回復を図る米国の要求は、「米中新冷戦」の最前線に日本が立つことを求めてより赤裸々なものになってきている。台湾有事をでっち上げ、「国家存立危機事態」を口実とする日本軍事の専守防衛から攻撃的防衛への転換、米国軍事へのその下請け軍事としての組み込みを図ってきており、経済もそのデータ主権なきデジタル化を通して、米国経済の一部としての日米一体化を図ってきている。
 一方、日本国民の要求も以前とは大きく異なってきている。自分たちのコロナ対策の大失敗から来る矛盾を「自宅療養」などと国民に押し付ける自民党政権に対する鉄槌は、国民意識の高まりを余すところなく明らかにしている。もはや、ジバン、カバン、カンバンによる従来の「自民党政治」は許されなくなっている。
 回復を求める米覇権の要求と高まる国民意識の要求、この対立する二つの要求にどう対するのか。日本の政治には、今、まさにそのことが問われていると思う。

■国民意識の高まりに応える政治の転換
 「民主主義VS専制主義」を掲げ、イデオロギーを国益に先立てることを求める「米中新冷戦」の要求は、自国、自国民第一の国民意識の要求とは矛盾している。そこでもっとも問題になるのは、言うまでもなく、対中国政策だ。
 今日、中国の力は米国に限りなく迫り、いくつかの分野、領域ではすでに米国を凌駕するまでになっている。米国が自らの覇権回復のため、「新冷戦」を仕掛けているのもそのためだ。そこで米国と中国、どの覇権に付くのか、覇権の乗り換えということが考えられるようになる。
 しかし、日本にとってこれは決してあり得ないことだ。何よりも、対米従属から対中従属への乗り換えなど、高まった日本国民の意識が許すところとは絶対にならない。
 また一方、それは、中国が覇権をしようとしてもできないからに他ならない。今日、米国による包囲を打破するため、中国が友好関係を拡大しようとしている国々の多くは、アフガニスタンにしろ朝鮮にしろ、長期に渡る反米脱覇権自主の闘いをあらゆる艱難を乗り越えてやり抜いてきた国々だ。まさにそれ故、中国は、覇権をやらないことによってのみ、友好関係を拡大し、米覇権の包囲網を突き破っていくことができる。実際、「米中新冷戦」と米ソ冷戦との決定的な違いは、中国が自らの陣営、ブロックをつくらず、友好諸国との間に覇権、被覇権の関係をつくっていないところにある。
 米国が新冷戦の本質を「民主主義VS専制主義」の対決とし、「民主国家」による「民主主義陣営」VS「専制国家」による「専制主義陣営」の構図をつくろうとしても、それは絵に描いた餅に終わるだろう。それは、中国が自らの覇権による何らかの「陣営」をつくろうにもつくれない脱覇権の巨大な時代的趨勢があるからに他ならない。
 日本政治が高まる国民意識に応え、自国、自国民第一に中国との協力関係を築いていこうとすれば、それは、必然的に米覇権の手段と方法を選ばない妨害を受けずにはあり得ないだろう。  だが、今日、日本の高まる国民意識は、決して孤立していない。時代の基本趨勢と一体だ。まさにここに、日本の政治が日本国民の国民としての意識の高まりに応え、米覇権に屈従してきた歴史に終止符を打つことができるもっとも強力な根拠の一つがあると言うことができる。
 その上で、最後に、高まる国民意識の要求に応えて政治の転換を図るため決定的なのは、やはり主体の問題に他ならないと思う。
 これまで日本の政治は、欧米式代議制による民主主義だった。しかし、高まる国民意識に応える政治を行う上で、何よりも追求すべきは、国民主体の直接民主主義なのではないかと思う。  今日、自国、自国民第一の政治は、世界的範囲で「ポピュリズム」の名で言われるように、国民大衆の政治への大幅進出と一体だ。日本においてもそれは、大衆的示威に加え、国民投票や住民投票など国民大衆の直接的政治参加といったかたちをとって、実現されていくべきではないだろうか。
 そうなってこそ、日本の政治は、高い国民意識に基づき、それを国民大衆自身の力で実現する真に国民主体の政治となり、「米中新冷戦」など、日本と日本国民の要求と対立する米覇権の要求を徹底的に排撃する、真に民主的な国民の国民による国民のための政治になるのではないだろうか。戦後日本の悲願、対米従属からの脱却も、この高い国民意識に基づく政治によって実現するものと確信する。



議論

横浜市長選が示すもの

東屋 浩


 8月の横浜市長選は当初から注目を浴びた。それは、自民党公認の林文子前市長にたいし、小此木衆議院議員が国家公安委員長を辞職して市長戦に名乗り出、しかもそれまでのIR推進を変えてIRとりやめを掲げての立候補だったからだ。菅首相自らが小此木氏を全面的に支援したことも異例のことだった。そのうえ、田中康夫氏(作家、元長野県知事)、松沢礼文氏(元神奈川県知事)という有力候補が立候補し、混沌とした選挙戦となった。一方、立憲民主党推薦、共産・社民支援の山中竹春氏(元横浜市立大教授)は無名の新人としてあった。結果は周知のように、山中竹春氏が圧勝した。
 なぜ小此木氏が敗北し山中氏が勝利したのか。
 横浜市は代々続いた小此木氏の地盤であり、自民党市議のほとんどは小此木氏を支持し、70万の自民党基礎票があるといわれていた。だから、小此木氏には自民党公認の林氏が存在しても、十分に勝利する計算があった。山中氏については相手にもしなかった。実際、山中氏を推薦する立憲民主党は支持率を下げるほどであり、立憲民主党支持層と共産党支持層は投票した人全体の13%に過ぎなかった。
 しかし、山中氏が18万票の圧倒的な差で勝利した。勝因は山中氏が感染症専門の医者であり、IRにも反対を明確にしていたところにある。
 争点は決定的にはコロナ対策だった。菅政権のコロナ対策での無策ぶりに国民は怒っており、その国政問題が市長選挙にも影響を与えた。とくに神奈川県は感染者で東京都を上回る時があるほど感染者が多かった。そこに小此木氏がコロナ対策に触れず、菅首相が直接支援するにいたって、「自宅療養」方針を云々するなど、コロナ対策をまともにやらず市長選に必死になるのかと反発され、菅首相が支援すればするほど小此木氏が不利になるという皮肉な結果となった。
 また、勝敗を左右した要因は無党派層の動向だった。50%をしめる無党派層の41%が山中氏に投票した。投票率が前回より11・8ポイント高かったのも、山中氏への支持に繋がった。
 いかに強力なジバン、カバン、カンバンがあっても、国民の切実な要求であるコロナ対策を掲げた斬新な候補者が勝利するということを示している。またIRをめぐっての住民投票を求める署名にたいし、市議会が否決するなかで、横浜市民の政治意識が高まったことも大きい。国民としての主権者意識、横浜市民としての主権者意識、地元愛が確実に高まっている。山中氏はその要求に応え勝利したといえる。
 衆議院総選挙を目前にした横浜市長選はその行方を左右するものとされていた。
 菅首相は党役員人事と内閣改造で、総選挙にもちこみ、総裁選を先送りしようとしたが、そうした奇策は、横浜市長選での小此木氏擁立と同様に、行き詰まった。横浜市長選は実に菅首相の自滅の道への始まりだったといえる。
 「日本学術会議の任命拒否問題」などにある異なる意見を排除する強引な手法、コロナ対策やオリンピック開催をめぐっての説明拒否など、国民の声を全く聞こうとしない菅政治に国民は完全にそっぽをむいたといえる。
 これにたいし、野党も主権者意識を高めている国民の声に応え、コロナ対策をはじめとする具体的政策を打ち出してきたかといえば、心もとない。
 立憲民主党をはじめとする野党は、いかに競合選挙区で一本化させるかを焦点にしている。その前にもっとも重要なことは政策であり、国民としての主権者意識の高まり、地方住民としての主権者意識、地元愛に応え、その切実な要求を反映した政策をしっかり打ち出すことだ。それさえあれば、半数をしめる無党派層を惹きつけることができる。一本化はその次の問題だ。
  術策を弄する前に、国民を主権者として尊重し、その声に耳を傾け、その要求に応える政策を打ち出すことこそが、今、要求されているのではと思う。


 
議論 ― 二つの8・15 ―

アフガニスタンの勝利が意味するもの

永沼博


 8月15日、タリバンが首都カブールを制圧。8月30日には米軍が完全撤退し20年という長きに渡ったアフガン戦争はタリバン・アフガニスタンの勝利に終わった。
 しかし日本のマスコミの論調は、米国の権威失墜を嘆き、タリバンが復活すれば、女性の人権などが侵害され、テロの温床になるのではないかなど、この勝利を貶めるようなものになっている。
 タリバン・アフガニスタンの勝利がどういう意義をもち、それが日本に問うものは何なのか。それを考えることが何にもまして大事だと思う。

■米覇権の終わり、覇権そのものの終わり
 最新兵器を装備し220兆円という膨大な戦費を費やしての米軍の占領。その米軍に対し貧弱な装備しかもたないタリバンの戦い。それも20年という長きに渡る戦争の末に実現したアフガニスタンの勝利は、侵略は必ず失敗するという哲理を再び証明した。
 20年前、米国のアフガン侵略は、イラクと共に「反テロ」「民主化」を掲げて行われた。米国は、両国で勝利し、米国に従おうとしない「悪の枢軸」「悪の帝国」をも制圧し「世界民主化」を目指した。すなわち、米ソ冷戦に勝利した米国は唯一の超大国として世界一極支配を実現しようとした。
 しかし戦費700兆円を費やしたこの戦争は、米兵7000人、一般市民80万人という犠牲者を出し、IS(イスラム国)などの過激なテロ組織を生むような結果しかもたらさなかった。
 アフガニスタンでは、米軍占領下のカブール政権はまったくの傀儡であり2兆ドルという戦費を食い物にする腐敗が横行。そして「民主化」の名の下でアフガニスタンの宗教や習慣、それに根ざした社会システムは敵視され攻撃された。こうして数十万人が犠牲にされ、国土は極度に荒廃した。
 こうした「民主化」をアフガニスタンの人々は憎悪した。そのことは8月6日から始まったタリバンの進撃がわずか10日間でカブールを制圧したことに如実に表れている。各地の軍閥指導者、有力者、はてはカブール政権の政府軍までも戦うことなく「降伏」し、大統領を始めとするカブール政権の要人たちは国外逃亡した。
 他国を侵略すれば必ず失敗する。「反テロ」と「民主化」を掲げ、一見正当かのように見える新たな侵略方式。しかし、それも失敗した。そのことは、米国覇権が終わりを告げ、覇権そのものが通用しない時代であることを示したのではないか。アフガニスタン勝利の歴史的な意義はここにある。
 そして示した。どんな国でも主権を守り自主的に生きていく、それが脱覇権の時代の生き方だと。今後アフガニスタンで新政権が樹立され、アフガニスタンがその方向で発展していくことを期待してやまない。

■日本に問われていること
 「イラク、アフガニスタンを日本のように民主化する」。20年前、イラク・アフガン戦争を始めたブッシュがいみじくも述べた言葉である。
 そうであれば、「日本の民主化」とは一体何なのか。アフガニスタンが米国押しつけの「民主化」と戦い勝利した今、それを捉え返す必要がある。
 日本の「民主化」、それはあくまでも米国のための民主化であり、日本を米国覇権のために利用するための「民主化」であった。こうして日本は、米国覇権の下でアジア覇権を狙う従属覇権の道を進むようになった。
 米国のために米国が押しつける「民主化」。それは今でも続いている。90年代からの「構造改革」も米国のための「民主化」ではなかったか。そして今、米中対決の中で、日本は「民主主義陣営に立て」と「民主」の名で、米国覇権維持のために日本の軍事力、経済力を差し出すことが要求されるようになっている。
 アフガニスタンの勝利は、米国覇権が終わり、覇権そのものが通用しない時代であることを示した。この時代にあっても、日本は米国覇権を信じその下で生きていくのか。そこに日本の未来はあるのか。それが今、切実に問われている。
 奇しくもタリバンがカブールを制圧した日は、日本敗戦の日と同じく「8・15」であった。それは偶然の一致ではある。しかし私には、それが8・15に始まる「民主化」を捉え返せという天の啓示、時代の啓示のように思えてならない。



随想 二病息災 (2)

入院してわかる医療制度あれこれ

平 和平


1 食事療養費 
 教育入院とはいえ、立派な13日間の経験をさせてもらった。
 その中で経験したことを紹介してみたい。
 基本的に入院中の食事は選べず、1日3食、決まった時間(8時・12時・18時)に出されてくるものを大人しく食べるしかない。特に糖尿病はカロリーなど叩きこむものだから、それ以外を足して食べてはいけない。
 昭和の時代、社会保険のある職場に就職してから1週間入院したが料金を払った記憶がない。それがいつの間にか負担がじわじわ増えるようになった。そして入院時の食事療養費として徴収されるようになり、近年その負担額が増やされてきた。私は低所得(住民税非課税)なので1食210円=1日630円払う事になる。ところが一定以上の収入がある人は460円=1日1380円負担となった。(安倍内閣時)13日間なら17940円で結構な額だ。

2 入院期間
 私は13日の入院で血糖値が食事とインシュリン注射で劇的に改善したので、当初の2週間より1日早く退院することができた。ところが入院前の説明で医師が「民間のI提携病院で継続治療の可能性も・・・」と言っていた。ここで入院と決めたのになぜそういうのか理解できなかった。しかしこの病院をいくら気に入ってもらっても、生活習慣病の場合、2週間過ぎると保険者から病院が受け取れる医療費がゼロに近くなるのだ。お医者さん・看護師さんの労働、治療費・薬代に至るまで病院の無料奉仕になってしまう。厚労省が決めた計画に「医療費適正化」が大文字で強調されている。そこで他の病院に行ってくれという事だ。これは脳卒中みたいなもっと重篤で長期の症状の入院でも約30日が限度みたいだ。つまりベッドから動かせない状態の人でもそのまま転院先を自分で見つけなければならない。これが約20年かけて続いている状況。

3 まだまだ締め付けと値上げの大波が
 上に見て来たように政府・厚労省は医療費支出を減らすことに大変な情熱を傾けてきた。それはエンドレスと思われるのでこれからも次々出されて来るはずだ。その第一弾が75歳以上の医療費負担1割を倍の2割に、来年秋にも引き上げるものである。「現役並み収入のある人」という限定(該当者370万人の見込み)であるがごまかされてはならない。必ず医療費制度改悪は「小さく生んで反対を小さく抑え」「ほとぼりが冷めた頃に多数の人に拡大」するパターンを踏んで行われ続けてきた。
 これで2025年度の節目に、医療費国庫支出を8兆円切り縮める計画らしい。しかし、何とけちくさい事か。例えば不用不急の極である辺野古の米軍基地建設は当初の3千億円が軟弱地盤などの影響で1兆円を越すことが確実。安倍前首相が世界中を外遊して回ってばらまいた(その殆どが反中戦略のための国際買収)額は何と26兆円に及ぶ。米国製の兵器の爆買いはローンなので総額5兆円を越してしまうようだ。人の命と生命を救う事に全く役立たないこれらの究極の無駄使いを見直せば、楽々、市民の安心医療を維持できるのだ。と言っても、そんな声を聞く気など現政権には全くない。来月にもやって来る総選挙でちゃんと投票に行かなければ自分の首を厚労省と一緒になって絞める事になる。



随想

わたしのエンパシー

大森彩生


 コロナのざわつきが収まることなく、梅雨のような夏が終えようとしています。
 近頃よく耳にする言葉があります。それは『エンパシー』という言葉です。初めはピンときていませんでした。そんな時に最近話題になっていたメンタリストDaiGo氏が「ホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない?」といった問題発言をして炎上した問題について、身近な人から『頭は良いのにエンパシーができていない。エンパシーは能力なんだよ』との発言が。そして、エンパシーの説明を聞いて興味が強くなり、ブレイディみかこ(『ぼくはイエローでホワイト』の作者)の新刊『他者の靴を履くアナーキック・エンパシーのすすめ』を読み始めました。タイトルの『他者の靴を履く』、この言葉の意味を本の初めにこう書かれていました。
 「私の息子が英国のブライトン&ホーブ市にある公立中学校に通い始めた頃のことだ。英国の中学には『シティズンシップ教育』というカリキュラムがある。息子の学校では『ライフ・スキルズ』という授業の中にそれが組み込まれていて、議会政治についての基本的なことや自由の概念、法の本質、司法制度、市民活動などをを学ぶのだが、その科目テストで、『エンパシーとは何か』と言う問題が出たと言いう。息子は『自分で誰かの靴を履いてみること』と答えたらしい」。
 エンパシーの訳を『自分で誰かの靴を履いてみること』と聞いた時に、すっーと心に言葉が入ってきました。つまり、エンパシーとは相手が体感していることを自分の身を持って体感できる能力と言えるのかも知れません。
 今回のコロナで厳しい状況になった人々を『自己責任』と言う人がいました。私はその言葉があまりにもこの社会をみてない発言だと感じていたのですが、そもそもエンパシーが育ってないと言う問題でもあると気がつきました。そう考えた時にエンパシーは<この社会が必要としている事なんじゃないかな?>と感じ、自分なりにエンパシーについて考えて、最近の出来事を振り返ってみました。
 初めに頭の中を横切ったのは、相手の立場に立って想像する能力がとっても疎かになっていることでした。メンタリストのDaiGo氏の発言がまさにそうでしたが、それ以上に黒人差別、アイヌ問題、ユダヤ人問題、いじめ問題、婚活問題、コロナ差別…この数ヶ月間ネットで騒ぎになっているこれらの問題に対する発言は、どれも相手の立場に立って考える事が出来ていないところからの発言であり、これまでの差別問題よりも怖いのは差別が『無自覚』で起きていることです。
 エンパシーが能力という事はエンパシーを身につけるには努力が必要になります。ただ注意しなければいけないのは、エンパシーの使い方を間違える事もあると言う事です。例えば、ワクチン問題「『貴方がワクチンを打たないと私がコロナに知らない間になって、貴方を重症化にさせてしまうかもしれない。だから打つ事をあなたに進めたい』と言ったら、エンパシーの使い方を間違えてしまったパターンになると私は思います。自分の靴を履いてもらおうという行動は、相手の事を理解するよりも、自分の考えを押し付けてる形になってしまいます。他人の靴を履く事は自分の靴を脱ぐことも必要になります。でも、その靴を他人に押し付けちゃだめなんだと思います。
 絆創膏問題(アメリカのヘルスケア関連商品を扱う大手ジョンソン・エンド・ジョンソンの「バンドエイド」が、今後、様々な肌の色にあう新商品を発表すると声明を出した)にも肌の黒い人用に黒い絆創膏ができた事を『些細な事を気にしすぎ』と言う意見がありました。私は黒い絆創膏だけの世界を知らないけれど、黒人の彼らは肌色という絆創膏だけの世界で生きてきた。相手の立場に立って考えてみると黒い絆創膏ができた事は些細なことなのか。当人にしか分からない問題ではありますが、私たち人間は想像する事はできます。
 『自分で誰かの靴を履いてみること』、それが今この国には必要だと、差別問題から強く感じています。人は簡単に変わる事はできないけれど、失敗から学びます。そしてもし人々が『自分で誰かの靴を履いてみよう』と動き出したなら、社会がその人を応援する社会でないとだめだと思います。一度の失敗や過ちをもって、全てを奪う権利は誰にもないはずです。エンパシーの根付く社会になるためにも、自分自身が相手を傷つける発言を無自覚にしていたら気が付けるように努力をしなければと思います。
 『人間とは失敗、誤るもの、そのことを正面から見ていく度胸をもとう!なかなか難しいが、、、』この言葉は父が実家の壁に貼っていた言葉です。正面から自分と向き合うのは本当に大変だけれど、私も正面から見る度胸を持ち続けたい。



投稿

あー腑に落ちない

S・K


 毎日、腑に落ちない事ばかりが世の中で起きている。
 菅首相の8月25日記者会見での「(コロナ感染収束の)明かりははっきり見え始めている」発言。毎日感染者数が最多を更新し、重症病棟が逼迫し、入院できない自宅療養者が増え続けている最中でのこの発言。思わず「何処に?」と突っ込んでしまった。もし、ほんとに見えているなら、「幻覚」だから是非休みを取ってもらいたい。
 と、思っていた矢先に、総裁選辞退の報。その理由が「コロナ対策に専念したい」であった。いやいや、そうじゃないでしょ。コロナ対策での失政で支持率がだだ下がり、何とかしなくてはと二階幹事長の交代など人事刷新で乗り切ろうとしたけれどうまくいかず、総裁選を総選挙の後にもってこようとしたが、これも若手の「菅首相では選挙戦を戦えない」という反発にあって、二進も三進もいかなくなっての幕引きなのでは? みんなそう察知しているのに、「コロナ対策に専念したいから」とは。本当にお笑い草だ。それに、国民はその「コロナ対策」からこそ菅首相の一日も早い退室を願っているのに。「裸の王様」ってこういう事か。本当に悲しい。自分の国のトップリーダーが、私のような者にまで嘲笑の対象になっていることが。
 で、菅首相の話が続くが、9日の官邸での記者会見で、この一年を振り返り「避けては通れない課題にも果敢に挑戦した」として、一部高齢者の医療費の窓口負担の引き上げや原発処理水の海洋放出方針の決定などを具体例として挙げた。私には分からない。なぜこれらが、「果敢に挑戦」などという業績自慢の内容になるのだろか。国民からではなく、自分たちの政権運営の都合から考えているから「業績」になり、疑う余地もなく誇らしく語ることが出来るのだ。
 そして、「緊急事態宣言」下での行動制限緩和の政府案。9日の政府対策本部で決定されるという。ワクチン接種・陰性証明を活用して、11月頃をめどに飲食店での酒類の提供やイベントの人数制限も緩和するという。何故?この時期に緩和案? 感染者は減少傾向にあるとは言え、まだまだ医療は逼迫し、入院できない自宅待機者も10万人を越えている。新たな変異株の感染者も発表されている。ここで気を抜けばせっかくの減少傾向も一気に逆戻りしてしまうのではないか。「見通しを示し国民と共有して議論することは重要」と言うのはもっともなことだ。でも何故今なのだ。そして国民と議論って、どうやって? これまで、一般市民や事業者の話をじっくり聞いて、国民的議論なんてしたことがあっただろうか? やはり、選挙前に国民の前にぶら下げる人参としか思えない。自民党を支持してくれたら、今の厳しい状況から抜け出れるんだよという何の根拠もない「明かり」を示しているように私には見える。
 仮にワクチン接種が8割に達したとしても5人に一人は未接種であり、接種を受けた人でも何割かは再感染することが示されている。今主流のデルタ株は従来の株よりもワクチンの効果が落ちるというデータも出ている。政府の分科会は「希望者がすべて接種を終えたとしても集団免疫の獲得は困難」としている。つまり、政府の打ち出した行動制限緩和案と言うのは、「ウィズコロナ」で、多少の犠牲はしょうがないものとして、経済活動を回して行こうという方針に他ならない。唯一の頼みの札としたワクチンも限界がある以上、もう踏み切ろうということなのだろう。菅首相の口癖、「国民の生命と財産を守るのが私の使命」と、これは相いれるのだろうか。腑に落ちない。
 接種証明と陰性証明の活用というのもどうなのか。日本では接種は任意のはずだ。なのに接種した人だけに特典が与えられるような案では、差別が生じ、暗黙の圧力となる。接種していない人が不利益を被り、肩身の狭い思いをすることになる。すでに同調圧力は目に見えない空気の中にどんよりと垂れこめている。欧米諸国が進めているように「ワクチンパスポート」の義務化の方向を日本も目指していくのだろう。「ウィズコロナ」で経済を回そうとするならそれが必須になるからだ。国民としての義務をすべて否定する考えはないけれど、格差を拡大させ富める者たちが益々富むようになる今の経済活動を回すための義務行為には与したくない。
 あー息が詰まるこの腑に落ちない日本社会。思いのすべてを込めて総選挙に臨もう。


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