研究誌 「アジア新時代と日本」

第218号 2021/8/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 米中新冷戦のアキレス腱

議論 「専制主義VS民主主義」に潜む企図

議論 「台湾有事は国家存立危機事態」が招く日本の存立危機

随想 二病息災(1)

時評 第五福竜丸事件 大石又吉さんの遺したもの




 

編集部より

小川淳


 東京五輪は何を残したのか
 無観客、コロナパンデミックという異例ずくめの五輪が終わった。自国開催であったにもかかわらず、これほど高揚感のない五輪も初めての体験だった。64年東京大会は今でも語り継がれるほど感動と記憶を残したが、2020東京大会はレガシーとして何を残したのか。何のための誰のための大会だったのか、大きな疑問が残る大会となった。
 五輪誘致の当初から五輪を願う国民の声は聞こえてこなかった。そしてコロナパンデミックによる1年延期、緊急事態下での無観客という強引な開催。ここに五輪を何とか政権浮揚につなげたい菅政権の政治的思惑があったのは明らかだ。そして連日35℃を上回る最悪の時期での開催も異例なら、男子100メートル決勝が午後10時半から、マラソンは午前6時からというようにほとんどの競技時間も夜半か早朝かという異例さだった。米NBC放送の1200億ドルという巨額な放映権料欲しさに、IOCは大会時期も、決勝の時間も米国の視聴率が取れる時期、時間に合わせた。アスリート・ファーストではない、マネー・ファーストの大会であることを、これほど世界に知らしめた五輪もなかったのではないか。
 日本国内の差別と人権、歴史認識がつぎつぎにさらけ出されたのも今大会の特徴の一つとなった。2020東京大会は「多様性と調和」を開催理念に掲げたが、それを世界に向けて発信できたとは思えない。大会組織委員会森会長という大会の顔が、女性蔑視発言で引責辞任した。また開閉会式のクリエイティブディレクターが渡辺直美の容姿を侮辱して大会直前に辞任に追い込まれた。同じく音楽ディレクターが過去のいじめ問題で、もう一人はユダヤ人へのホロコーストを揶揄したことが発覚して辞任に追いこまれた。開閉会式が退屈で感動をもたらさなかったのは故無きではなかったようだ。
 とはいえ、27個という過去最多の金メダル数に象徴されるよう、若い選手たちの健闘ぶりは称賛に値するものとなった。盛り上がりに欠ける大会の中で、それが唯一の救いとなったのではないか。
 東京五輪は「多様性と調和」という理念は発信できなかった。むしろ差別や偏見、歴史認識式のなさを世界に向けて発信してしまった。それが日本の実情であり、今大会の「レガシー」といえば言い過ぎか。今大会はちょうど、ヒロシマ、ナガサキの原爆記念日と重なった。戦後日本はヒロシマとナガサキを「負の遺産」として、戦後日本の「原点」とし語り続けてきた。これから先、今大会が残した「負の遺産」をうやむやにせずに、どう引き継で行くのか。コロナの犠牲を払ってまで五輪を開催した意義はそこにある。



主張

米中新冷戦のアキレス腱

編集部


 米中新冷戦の始まりは、2017年トランプ政権誕生の頃にさかのぼる。同年末、策定された米「国家安全保障戦略(NSS)」で、中国は「米国の価値観とは対極にある世界を形成しようとする修正主義勢力」と規定された。
 以来、米中新冷戦は、2019年5月のスイス・ビルダーバーグ秘密会議での「米中百年冷戦」宣言を経て、今、バイデン政権の下、全面的に推し進められてきている。
 日本と世界の政治、経済、軍事、すべてを巻き込むこの「新冷戦」にどう対するか考えてみたい。

■米中新冷戦の本質を問う
 バイデンは、米中新冷戦を指して「民主主義VS専制主義の闘い」としながら、それを「米中覇権競争」だと言っている。
 何事でもそうだが、事の本質は言葉ではない、行動に現れる。
 「新冷戦」と関連して、米国がやっていることは何か。何よりも、クアッド(日米豪印)構想、クリーンネットワーク計画など、「人権」「強権」を理由とする中国に対する包囲、封鎖、排除だ。「テクノデモクラシーかテクノオートクラシー(技術独裁主義)か」を掲げ行われた先のクアッド閣僚会合での中国・先端科学技術への敵視などはそのことを明示している。
 米国の行動で目立つのは、もう一つ、アジア重視、とりわけ日本重視だ。菅訪米をバイデン首脳外交の最初に持ってきただけではない。「日米新時代」を掲げながら、「台湾有事」などの口実で、「新冷戦」のための日米の軍事一体化、デジタル、グリーン経済一体化などが国会審議もろくに通さないまま、実質化されていっている。
 米国のこうした動きに現れている米中新冷戦の本質、それは、何よりも、デジタルIT大国、宇宙軍事大国として急成長し、自らの覇権を脅かす存在に台頭してきた中国を包囲封じ込め、排除することによって、自らの新しい型の覇権、デジタルIT覇権、宇宙軍事覇権を確立するところにあるのではないかと思う。

■問題は、中国と敵対すること自体にある
 かつての米ソ冷戦と比べた時、米中新冷戦にはいくつかの大きな弱点がある。
 その一つは、敵対する相手が中国だということだ。かつてのソ連と今の中国では大きく異なっている。「東側陣営」を形成した社会主義ソ連との敵対は、日本を含む「西側陣営」諸国の利害と大きな矛盾はなかった。
 しかし、今の中国は違う。中国は自分たちの陣営をつくっている訳ではない。それに何より、中国と敵対するのは世界のほとんどの国にとって利に合わない。各国と中国との経済関係は、場合によっては、米国にも増して深い。そして、宇宙軍事超大国、中国との敵対は、各国にとってあり得ないことだ。それは、日本にとっても同様だ。財界、自衛隊を含む多くの日本国民が中国との敵対を望んでいないのではないか。
 これは、日本を「新冷戦」の最前線に押し立て、同盟諸国を動員して、中国を封じ込めようとする米国にとって、最大のアキレス腱だと言うことができるのではないだろうか。

■時代の趨勢と矛盾する米中新冷戦
 米ソ冷戦との違いはそれだけではない。何よりも、当時と今では時代的趨勢が違っている。
 今は、イデオロギーを押し立てて「冷戦」をする時ではない。
 米ソ冷戦の時、闘いは、「自由主義か共産主義か」、イデオロギーの対決だった。しかし、今、「民主主義か専制主義か」と言われて、立ち上がる国や人がどれだけいるだろうか。
 今求められているのは、米国が普遍的価値として掲げた自由や民主主義といったイデオロギーではない。求められているのは、自分の国、自分の国民を第一とするアイデンティティーだ。自国、自国民第一の新しい政治が世界的範囲で広がってきているのはその証に他ならない。
 もう一つは、時代の趨勢、デジタル化、グリーン化をめぐっての矛盾だ。
 今、米国は、デジタル化、グリーン化をもって、新しい型の覇権をしようとしている。しかし、デジタル化、グリーン化自体、その本性的特徴からして覇権と矛盾しているのではないか。
 デジタル化がその本性としている「所有ではなく利用」、「秘密ではなく公開」などといった特徴は、すべてを独占し、欺瞞と隠蔽で国々の上、人々の上に君臨する覇権とは、その根本からして矛盾している。それは、すでにネット主権、データ主権をめぐるGAFAと諸主権国家との間の紛争などとして現れていると思う。
 グリーン化もそうだ。再生可能エネルギーによるグリーン化、脱炭素化は、その本性として地産地消であり、化石燃料の独占に基づく覇権とは本質的に矛盾している。
 時代的趨勢と「新冷戦」の矛盾として忘れてならないのは、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、そしてヨーロッパに広がる自国、自国民第一主義、即、脱覇権の時代的趨勢と米国による「新冷戦」との矛盾だ。
 米国は、中国を封じ込めることにより、中国との連携を強めるこの脱覇権の時代的趨勢を抑え込もうとしている。
 だが、それは大きな誤算だと言えるのではないか。脱覇権の時代的趨勢は、それ自体として力と勢いがあり、「新冷戦」による中国攻撃は、中国と脱覇権の自主勢力、両者の関係を一層強めることにしかならないのではないだろうか。
 時代の趨勢は、どこから見ても、「新冷戦」にとって致命的なアキレス腱になっていると思う。

■日本国民は日米一体化を望んでいるのか?
 米中新冷戦にとって、その最前線に押し立てる日本の役割は切実だ。弱体化した米国を補完する軍事、経済的力の源泉が日本に求められている。
 そのために米国がやろうとしているのは、日米一体化、即、日本の軍事、経済の米国のそれへの組み込みだ。改憲に基づく自衛隊の米軍補完部隊化、「第二の敗戦」で崩壊した日本経済のデジタル化、グリーン化、地方地域活性化など、外資主導による建て直しとそれに伴う日本の米IT覇権、宇宙覇権の下請け化が図られており、その一方、アジアを米国の下に統括するアジアのリーダーとしての日本の役割が期待されている。
 この日本のアメリカ化、日米一体化戦略の弱点は何か。それは、日本国民の心の中にあると思う。
 今の日本国民は、米ソ冷戦時の日本国民ではない。当時、「自由主義陣営」の一員としての日本の位置や日米同盟基軸の日本のあり方は、ほとんどの日本国民にとって、ごく当たり前のことだったのではないか。しかし、今はどうか?そこに疑問符が付いてきているのが現状ではないのか。
 コロナ禍でオリンピック問題など腰が定まらない菅政権への支持率の急落、地方選での「自分の地域第一」への票の集中、等々、人々の目は実際に国のため、地域のためになる政治をするか否かに向けられている。「自民党」や「自由、民主主義」など、看板はどうでも良いということだ。
 「米中新冷戦」も「日米一体化」も同じことだ。それが日本と日本国民のためになるか否か、そこに人々の判断の基準は置かれている。まさにそこにこそ、米中新冷戦のもう一つのアキレス腱があるのではないだろうか。

【もう一言】

問われるアキレス腱を攻める闘いの対決点
 米中新冷戦に反対して闘う上で何より問われるのは、「新冷戦」のアキレス腱を攻める対決点を正しく見つけだし、それをめぐる闘いを通して、その主体を形成していくことだと思う。
 中国を敵に回して戦うのか、それとも、中国とも米国とも争うことなく、アジアとともに世界とともに進むのか。
 「民主主義」を掲げ、「民主主義」のために闘うのか、それとも、日本人としてのナショナルアイデンティティーを掲げ、そのために闘うのか。
 雇用をつくるデジタル化か、雇用をなくすデジタル化か。格差を広げるデジタル化か、格差をなくすデジタル化か。全国民の科学技術人材化か、それとも、極少数科学技術エリートの育成と外国からの人材招請か。等々。
 対決点をめぐる闘いは、広範な国民の間で限りなく広がっていくだろう。この国民的大論議、大闘争の中から闘いの路線が生まれ、主体が生まれてくる。そこに米中新冷戦との闘いが持つ日本と日本国民にとっての意味もあると言えるのではないだろうか。



議論

「専制主義VS民主主義」に潜む企図

東屋 浩


 周知のように、バイデン米大統領は「米中新冷戦」戦略における理念の柱として「専制主義VS民主主義」を掲げている。6月のG7首脳会談でも「民主主義国家が中国や世界の専制国家との競争に太刀打ちできるのかという課題に直面している」と強調。それにもとづいて先端科学技術分野でも技術独裁主義VS技術民主主義をかかげている(クアッド閣僚会議)。米中対立ははたして専制主義と民主主義の戦いなのだろうか。
 今年、7月20日バイデン大統領は執権半年を総括する閣議で「我々は、中国や他の国々との間で21世紀を決定する競争の最中にある・・・こうした国の多くは、専制主義に未来があり、民主主義は対抗できないと信じているが、我々は完全にこれを拒否する」と述べた。ここに「専制主義VS民主主義」を掲げる核心的な企図が述べられていると思う。

国の役割強化を「専制主義」と非難  バイデン氏のいう専制主義とはどういう意味なのだろうか。端的な例は、コロナ禍対策だ。中国は国家の力を発動させ、都市封鎖を実施し、かつ医療資源を動員し、短日内に二つの専門病院を建設して、いちはやく制圧することができた。これにたいしバイデン氏らは強権だと非難した。つまり、国の役割を高めることを強権と言い、国と民主主義を対立させている。
 国と民主主義とは対立するものだろうか。民主主義は主権者である国民の意思を反映させた政治であり、コロナ対策ではいずれの国でも国の役割を高め、統一的な指揮のもとで強い対策を実施することが国民の要求であり意思だった。もちろんそれに反発する若者たちがいたが、結局、コロナ感染を増やしただけで、国民総体の要求は国の役割を高めることだったといえる。
 中国の先端科学技術の発展、経済発展と軍事力の急速な強化は国家の主導的な役割によってなしとげられた。自国第一主義を掲げる国も、国の役割を高めることによって自国を発展させている。
 これは専制主義ではなく、国の役割をたかめ発展した国を創って欲しいという国民の意思を反映させた民主主義だ。

国の役割を否定する「民主主義」  つぎにバイデン氏のいう「民主主義」とは何を指しているのだろうか。それは、一言で「個人の自由」に政治を委ねることだと思う。コロナ禍対策では自己責任、自助努力にまかせた結果、米国でコロナは爆発的に拡大し、感染者、死者も世界で一番多かった。ワクチン接種で抑えようとしたが、今も一日30万人の感染者を出している。
 バイデン氏が言う「民主主義」(=個人の自由)とは、「国」の役割の否定であり、「国」そのものの否定だと思う。国民は国の役割を高めることを要求しているのに、個人の自由、自己責任に委ねている。
 何のために「国」を否定するのか。それは「国」のうえに君臨する覇権のためだといえる。
 米国の言う「民主主義」はいわゆる個人の自由、市場競争、法の支配などの普遍的価値観の核をなすものだ。かつて米国はこの価値観を基準に対外政策をおこなってきた。その内容は、他国にたいする米国式民主主義の押しつけと政権転覆、人権を口実にした内政干渉と米資本に開かれた自由な市場である。アメリカ式「民主主義」は国家を否定する覇権の手段だといえる。

覇権回復のための「専制主義VS民主主義」  「米国の価値観とは対極にある世界を形成しようとする修正主義勢力」というのは、中国だけではなく、自国の主権を守り、国家の役割を強化して国家主導で経済的軍事的力を強化し、米国の従属下に入らない国々、自国第一主義勢力、脱覇権勢力も含まれている。「我々は、中国や他の国々との間で21世紀を決定する競争の最中にある」とバイデン氏が述べたのはそのことだ。
 国の主権を守り、自国を強化しようとする自国第一主義と対立するのは、民主主義ではなく覇権主義だ。すなわち、「専制主義VS民主主義」ではなく、「自国第一主義VS覇権主義」だ。これこそが世界の基調をなしていると思う。自国第一主義勢力、脱覇権勢力の台頭の前で、衰退していく米国が「米中新冷戦」を打ち出し、「専制主義VS民主主義」を掲げたのは、あくまで覇権回復のためであり、滅びゆく米国の最後のあがきではないだろうか。


 
議論

「台湾有事は国家存立危機事態」が招く日本の存立危機

吉田寅次


■「台湾有事は国家存立危機事態」-その意味
 麻生副総理兼財務相は7月5日、台湾海峡情勢で問題が起きれば、「存立危機事態に関係してくると言ってもおかしくない。日米で一緒に台湾の防衛をしなければならない」と述べた。
 4月の日米首脳会談で「台湾有事の安保協力」を約束させられたわが国だが、その安保協力の内容については明言されなかった。新聞報道に安保法制に定める「重要影響事態」の「後方支援活動」などが推測されるなどの記事が出た程度だ。
 この麻生発言はさらに一歩踏み込み、「台湾有事=国家存立危機事態」と規定したのだ。
 安保法制に則り、「我が国と密接な関係にある他国」(米国)に対する武力攻撃が発生し、これによって「我が国の存立が脅かされる」「国民の生命や自由が根底から覆される」といった事態と認定されれば、自衛隊の集団的自衛権行使、「限定的」とはいえ武力行使は可能とされる。
 これが日本にとっての「台湾有事の安保協力」であり、それは自衛隊に米軍と一体に戦える攻撃武力化が求められるということだ。

■「米抑止力劣化」を補う安保協力
 そもそも米中新冷戦は2017年末のトランプ時代に新しく米「国家安全保障戦略(NSS)」が策定され、ここで中国を「米国の価値観とは対極にある世界を形成しようとする修正主義勢力」と定義、「力による平和の維持」への転換を図ったことに始まるものだ。
 この中国を主敵とした新たな米国家安保戦略では、「米軍の競争力の劣化を認め」、「友好国との同盟の強化」を大きく打ち出した。
 インド太平洋軍のデービッドソン司令官は上院軍事委員会の公聴会で、この地域における「通常戦力による米国の抑止力が崩壊しつつある」と警告した。
 「空母キラー」と呼ばれる中国や朝鮮の最新鋭ミサイルによって第7艦隊空母機動部隊が接近すらできないという「米抑止力の劣化」、これがアジア地域での動かしがたい現実になった。これを補う切り札が「日本の安保協力」だ。
 麻生発言三日後の7月8日、朝日新聞は「米軍、対中ミサイル網計画」、「九州・沖縄−フィリッピン結ぶ第一列島線」と題する米国発の記事を掲載した。日本列島を軸とする第一列島線に地上発射型中距離ミサイルを分散配備するという米軍の計画だ。
 すでに今年3月、日米外務・防衛閣僚会議(2プラス2)で「日本自身が『国家防衛を強固』にすることを約束、日本独自に開発する長距離射程ミサイルの自衛隊配備」を合意している。これは従来の迎撃用ミサイルではない、対中敵基地攻撃用ミサイルの自衛隊配備であり、専守防衛・「盾」の自衛隊から攻撃武力化・「矛」化された自衛隊となるものだ。
 すでに「台湾有事は国家存立危機事態」を前提に事は進められている。いずれは安保法制に依らずとも集団的自衛権行使を可能にする日米安保の攻守同盟化、自衛隊・「矛」化を常態化、合法化する9条改憲が日程に上らざるを得ないだろう。

■それこそ「日本の存立危機」
 しかしよく考えてみよう。本当に台湾有事は「我が国の存立が脅かされる」事態になるのか?
「台湾問題」はあくまで中国の内政問題である。ましてや「台湾海峡問題」自体は日本にとってはシーレーン、海上交通路の安全に関する問題ではあっても、それ自体が「日本の存立危機」に直結するものではありえない。
 「台湾防衛のために日本が米軍と共に戦えば、中国のミサイルが、沖縄はもちろん本土の米軍や自衛隊の基地などに飛んで来て多くの死者が出る」と古賀茂明氏(元経済産業省官僚)は週刊朝日誌上(7/30号)で指摘している。それこそ「日本の存立危機」を招くものではないだろうか。
 しかし残念ながら野党からもマスコミからもこうした懸念も反対の声も上がってこない。ただ自民党内の親米3A(安倍、麻生、甘利)対アジア派2F(二階)の暗闘として現れているだけ、暗闘だから国民には明らかにならない。
 「台湾有事は国家存立危機事態」とする「台湾有事の安保協力」こそが日本の国益を著しく損ねるものである!と米国の押しつけをはね返す国民的議論を起こすことが問われてくると思う。



随想

二病息災(1)

平 和平


 20キロの減量に成功!お昼のテレビの通販の広告ではない。実体験を恥ずかしながら紹介させていただく。「あほやなあ」と、かすかな娯楽として読んでいただくもよし、「もって他山の石となすべし」の気構えで一字一句読んでいただくもよし、読者にお任せしたい。

■「食べよ増やせよ(体重を)」
 私は2年前頃、体重が88キロあった。我ながら堂々としたものだ、と密かに自慢(慢心)していた。よく食べよく飲み・・・その動機は約半世紀前にさかのぼる。ごくたまに行く東京で生まれて初めて食べた「ラーメンライス」に一生ものの感動を覚えた。安くて一杯食べられる。これが半世紀の思想と言っても良いくらいだ。なに?身体に悪い? 外食でも数百円、自炊なら1食100円以下で済むのだから、こっちに理がある。
 現に病気になっていない。細かい事にくよくよ悩んで病気になる方が多いではないか。
 しかし、これは若い頃に通用する理論だった。体重が70キロ台になり、60キロ台に進むと、周りから「やせた」と言われるようになった。そこで色々忙しかったのを片づけて、息子も出て行って結婚式も済んだ機会に検診を受ける事にした。行こう行こうと思ってから2年近く。何科に行ったら良いのかわからない。そこで総合診療科というのがある大病院にした。近所の町医者の紹介状が無いと5千円の自費負担が必要だが迷わず出した。血液・尿・レントゲン・CTスキャン・胃カメラ・喉スコープ・心電図・脈波・大腸カメラ・腹部エコーと検査のほぼフルコース。これほどするのは今までなら1〜2泊の人間ドックだろう。しかし今はこれを何回かに分ける通院型ドックになる。
 診断は「糖尿病です」それも血糖値が300超えてます。先生、通常はどれぐらいですか?だいたい100前後です。その時点でお医者さんのモニターに「入院推奨」とあるのが見えた。2週間、教育入院してください。痩せの原因はやっぱり糖尿病だった!

■S字結腸
 そこに追い打ちをかけるように「S字結腸に腫瘍があります。断定は出来ませんが、ガンと思って間違いない」ガーーン! 洒落を言っている場合ではない。両方だったのか・・・心理的には目の前が真っ暗。しかし、これは多分、自業自得だろう。 治療の優先は糖尿病の改善との事であった。数値が余りにも悪いと、ガンの手術ができないらしい。
 2週間の「教育入院」は、まあ皆さん一度は経験して見られたし。ご飯150グラム計って、おかずは絶対揚げ物がない。でも焼き魚・鶏肉・豚肉と野菜を組み合わせて薄味、ほぼ毎食フルーツもついて、朝食など普段より豪華。悪くは無かった。これで1食500キロカロリー、一日三食で1600キロカロリー以内を厳守する食生活を叩きこまれた。これを守らないとどうなるか、も教育される。毎日のように1時間弱の学習会があって、看護師・栄養士・医師が合併症の恐ろしさを力説してくださる。実は糖尿病は脳・眼・心臓・脚をはじめ全身の疾患の元である。腎臓・脾臓・肝臓にも害を及ぼす「万病の元」であることを人生の終盤近くになって初めて知った。そういえば知人や親せきで脚を切った人もいるな。くわばらくわばら。前向きに受け止めて今後の方針を「二病息災」とした。

■二病息災
 これまで野放図な食生活を送って来たにもかかわらず、幸いにも倒れることは無く、2週間の教育入院で血糖値が120ぐらいに落ち着いて退院できたのは、この食事指導とインシュリン注射(終盤は飲み薬だけ)のおかげであろう。実はこれで改善していなければ提携病院に転院して引き続き教育されたかもしれない。医療改悪のために、長期の入院は病院収入を激減させるので、追い出されるらしい。(次回「入院で垣間見た医療改悪」に続く)



時評

第五福竜丸事件 ―大石又吉さんの遺したもの―

金子恵美子


■第五福竜丸事件
 「ヒロシマ」「ナガサキ」は知っていても、「第五福竜丸」事件について知っている人は少ないのではないだろうか。かく言う私もその一人であった。その乗組員の一人であった大石又吉さんが今年の3月7日に亡なり、その追悼番組「死の灰の記憶ー大石又吉が歩んだ道」が放映された。偶然見た番組であったが、目が離せなかった。そこで学んだこと、考えさせられたことを書きたい。
 事件は1954年3月1日に起きた。遠洋マグロ漁業に出ていた「第五福竜丸」が、マーシャル諸島のビキニ環礁で行われたアメリカ軍の水爆実験(ヒロシマ型原爆の約1000倍、15メガトン級)により、多量の放射性降下物(「死の灰」)を浴び被爆した。「第五福竜丸」に乗船していた乗組員23名が大量の「死の灰」を被った。大石さんはその時20歳になったばかりの青年だった。  頭痛や吐き気、眩暈や脱毛という症状を抱えながら「第五福竜丸」は、二週間後に静岡県焼津港に帰港。すぐさま、東京の病院に移され放射能などの検査が行われた。致死量の半分に近い放射能が示された。
 無線長だった久保山愛吉さんが「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」という言葉を残し、40歳の若さで半年後に亡くなる。世界初の「水爆被害者」として世界的に注目を集め、日本における反核運動のきっかけになり、翌年の第一回「原水爆禁止世界大会」にもつながった。世界各地の市民や科学者も最大の地球環境汚染と位置づけ、直後から強力な反対運動を起こした。日本でも3人に一人、3200万人が核反対署名をした。
 こうした中、日本をソ連に対する「反共の防波堤」として西側陣営に留め置きたいアメリカは、反米感情の高まりを抑える事を急務とし、敗戦国日本に圧力をかけ、事件発覚後わずか九カ月で政治決着をはかり解決済みとしてしまう。アメリカに頼って、原子力発電事業を本格的に推し進めようとしていた日本政府の利害もあいまって、「第五福竜丸」事件は急速に人々の意識から消しさられていった。大石さんたち「第五福竜丸」の乗組員たちは、どうなったのか。
 「日本政府はアメリカ政府の責任を今後も一切追及しない」という確約のもと、事件の翌年1955年1月に賠償金ではなく「人道的考慮とアメリカ側の好意による見舞金」と水産業界への補償金という形で200万ドルが支払われ、大石さんたちには一人200万円が渡された。日本側はこの「人道的考慮と好意」に対して「光栄」と言う言葉を何度も使ってアメリカ側に書簡を送っている。そして、まだ治療が必要であったにもかかわらず、その年の5月には全員一斉に退院となる。乗組員がいつまでも入院していたのでは都合が悪かったのでしょう、と大石さんは語っている。その後仲間たちは60歳にも満たない年齢で次々に肝臓がんや肝硬変、肝繊維癌、大腸がんなどで亡くなり、生存者の多くに肝機能障害が認められ肝炎ウイルス検査でも高い陽性率が示された。
 これは、治療時の輸血での針の使いまわし、売血による肝炎ウイルス感染が原因とされるが、そもそも被爆しなければこのような治療を受ける必要もなかったのだから、アメリカに責任がないとは言えない。しかし、200万円で一括解決とされて以降、被爆関連と思われる病気が発生しようが、死亡しようが一切の補償はなく被爆手帳も受け取れず、打ち捨てられていた。大石さんも初めての子供を異常出産(奇形)で亡くしているが、どこにも訴える術がなかった。
 ビキニの水爆実験で被ばくした日本の漁船は実は「第五福竜丸」だけではなかった。実に1000隻、2万人とも言われる遠洋漁業船と乗組員が「死の灰」を被っていたのだ。
 しかし、200万円の「見舞金」を渡されたのは、注目を浴びた「第五福竜丸」だけであった。その他の人々は闇に葬られていた。この為大石さんたちは、世間からの妬みや嫉みを買い、放射能被害への恐怖、C型肝炎ウイルスをかかえながら、故郷を離れざるを得なかった。

■責任はあるのかないのか
 大石又吉さんは人生の後半を「第五福竜丸」事件の語り部として生きた。亡くなる数日前に行われた今年の3・1「ビキニデー」の集いにもメッセージを送っている。まだまだ語り足りなかった、伝え足りない思いがあったのでしょう、と娘の圭子さんは番組の中で語っている。
 大石さんが語り足りなかった思いとは何であったのだろうか。
 東京都・夢の島にある「第五福竜丸展示館」の学芸員で、大石さんの良き理解者、半奏者である市田真理さんはこう語っている。「こんなに真剣に怒る人、怒り続ける大人を見たことがない。それが大石さんを尊敬するきっかけだった」。
 2011年の福島原発事故後に大江健三郎さんとの対談が展示館でもたれた。後ろでそれを聞いていたそうだが、大石さんの次の発言に思わず飛び出して大石さんの顔を見つめたという。「お伺いしたいのは、長年抱いてきた疑問。太平洋戦争の中であれだけの軍国教育を受け育ってきた。そして負けた。その時指揮してきた人たちが責任をとらない。はっきりと責任あるよなということをしてきているのを見ている。あれだけ大きな犠牲を生んだのに、新憲法ができてからも国の中でいい地位を占め居座って動きだした。福島の原発事故もあれだけ大きな問題が持ちあがったのに、それを導入したもの、推進してきたものが一切顔を出さない、責任をとらない。いい地位に居座り大きな顔をしている。一般国民としてどう受け止め理解して良いか。どうも私には我慢できない。あの戦争もビキニ事件も福島事故も誰か責任をとるべき人がいるんじゃないか」と。
 「責任」、大石さんのこだわりはここにあると市田さんは感じたという。「又吉の海」(NHKで放映された番組)を後で見ても「責任」について口にしている、著名人に自分のこの思いを口にして確かめたかったのではないかと市田さんは大石さんの胸の内をおしはかった。
 「白い灰の記憶・大石又吉の歩んだ道」の中での大石さんは「責任をとってもらいたいとまでは言わない。ただ責任があるのか、ないのか知りたい。もしかしたらないのかもしれない。その答えくらい聞かせてもらいたい。やった側に責任があるのかないのか。そういう事すら答えとして何も出されていないできちゃったから。どちらかと言うと無視されてきている状態。非常に不満ですね。何のための犠牲なのか、誰かのためになっているのか、無駄の犠牲だったのか、何かわけの分からない、うやむやで消されてしまっている」と思いを吐露している。大石さんが怒り続け、もち続けてきたこの疑問に、今の日本は答えを出しているのだろうか。何か解決されているのだろうか。

■期待と希望
 「責任問題」という大きな宿題を遺して大石さんは逝った。だが大石さんの胸にあったのは「怒り」だけではなかった。
 番組の中で娘の圭子さんが話される。「人生の前半は嵐に翻弄される船のように自分の意志ではどうしょうもなく流されてきた辛い人生だったけれど、後半は自分がやりたいと思って動いて、いろんな人にお会いし、いろいろな事に気づかされ、勉強もするようになり、父自身が大きく変わっていった。80歳過ぎてもこんな風に皆さんに気にかけて頂き、そういう人生をおくれた素敵な人生だったと思う。前半はつらかったけど、後半はとっても豊かだったんじゃないかな」と。
大石さんが人生の後半(50歳から87歳まで)に行った講演は700回を優に超える。中心は中学生などの子供たちであった。「既成観念に固まっている大人はダメ。真っ白で生まれてくる子供たちに新しい未来を託すしかない」が持論。大石さんに新たな人生のきっかけを与えた、初めての講演に参加していた盲目の少女は特別支援学級の英語の教師となり、今も大石さんの思いを心に置いて日々を生きて居る。また別な女生徒は、社会科の教師となり母校で、大石さんの講演を生徒と共に何度も聞いている。
 そして、そうした生徒たちから寄せられた多くの感想文は、大石さんから学芸員の市田さんに託され、活かされ守り続けられている。
 この紙面ではまだまだ伝えきれない事があるが、今年の夏、大石又吉さんという生き方を知ることができて良かった。それはまた大きな宿題を受け取ったことでもあるが、これにどう応えていくのか。私なりにこの宿題を解き続けていきたいと思う。


ホーム      ▲ページトップ


「アジア新時代と日本」編集委員会 〒536-8799 大阪市城東郵便局私書箱43号