研究誌 「アジア新時代と日本」

第215号 2021/5/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 「米中新冷戦」の最前線と国益

議論 「台湾有事の安保協力」、突きつけられた踏み絵

議論 −コロナ禍対応と人権問題− 日本、米国に人権をとやかく言う資格はない

文化 韓ドラ!

投稿 モンテッソーリ教育から社会をみつめる

随想 混迷を深める東京五輪




 

編集部より

小川淳


 引き返すことのできない日本
 4月4日の朝日新聞に掲載された「辺野古可能性は低い」という米ジョージア大学の「戦略国際問題研究所」が出した報告書が波紋を広げている。
 「7万1000本も杭を打たなければならない辺野古の軟弱地盤は明らかに不安定で、現行の計画では完成する可能性は低い」という指摘だ。これまでは国内の専門家から、辺野古には軟弱地盤があり、完成は不可能という指摘が何度もあったが、安倍政府はそのつど「辺野古が唯一の解決策」と、無視を決め込んできた。しかし今回はこれまでとは違い、「権威」のある当事国のシンクタンクからの報告だ。
 報告書を書いたマーク・カンシアン元海兵隊大佐は「私的な見解だが、嘉手納基地への統合も考えられる」としている。常とう句である「辺野古が唯一の解決策」というのは敗北を認めたくない政権の誤魔化しで、嘉手納基地に海兵隊を一時移転させ、普天間は即時返還させたうえで米政府と交渉し、海兵隊を丸ごとハワイやグアムに移すという、鳩山政権が提案した嘉手納統合案は、最も現実的な解決策とされていたものだ。その振り出しに戻せばよい。
 辺野古のように、甘い見通しが外れてもなお当初のプランに固執し、専門家の科学的な知見や現地住民の民意を無視して無謀にも突き進み、ついに破綻を迎える。そして誰もその破綻の責任を取らない。このような事例は枚挙に暇がないのではないか。
 明治以降の天皇制ファシズムなどは好例の一つだ。明治誕生直後から台湾、朝鮮半島へとアジア侵略に着手。天皇制ファシズムで残酷な弾圧を繰り返しながら、ついには無謀な太平洋戦争に突き進み、国土を灰塵に帰してやっと天皇制ファシズムに終止符を打つことができた。
 原発もそうだ。多くの地元住民の反対の声を押し切り、地震の危険極まりない狭い国土に50数基もの原発を乱立させ、あの3・11という未曽有の被害を出しながら誰も責任を取らずにいる。
 今回のオリンピックも例外ではない。爆発的には増えないだろうという好都合な憶測に基づくGoToキャンペーンや、遅きに失した緊急事態宣言。この最悪のタイミングでもなお、菅首相は「安全安心な五輪は可能」「コロナ克服の証として」オリンピックを開催するという。まさに「変わらない日本」の象徴的事例の一つだ。
 悲惨な結果が予想され多くの反対があっても、当初のプランで突き進み、ついには破滅を迎える。これは日本の宿痾のようなものだが、破滅を迎える前に食い止めることはできないのか。そのような例を作りだし、その経験を積み上げていくしかないだろう。まずは今回のオリンピックを中止させ、辺野古の埋め立てを中止に追い込み、沖縄の海を取り戻すことだ。その一歩をわれわれ国民の力で作り出していくしかない。



主張

「米中新冷戦」の最前線と国益

編集部


 去る4月16日、予定より一週間遅らせて行われた菅首相の訪米と日米首脳会談、その結果出された日米共同声明は、日本政治の今後に大きく関わるものとしてあった。それにどう対するか。日本の国益という見地から考えてみたい。

■菅・バイデン会談は何だったのか?
 菅訪米は、バイデン新政権初の外国首班招聘だった。それがこの政権の「日本重視」の現れであるのは言うまでもない。問題は、なぜ「重視」するのか、その理由だ。それは、会談とその後出された共同声明にはっきりと示されていた。
 今回の首脳会談の際立った特徴は、佐藤・ニクソン会談以来実に五十二年振りという「台湾」という二文字の使用だったと言える。中国への敵対をあからさまに宣言した米国主導のこの「暴挙」が今回の事態の本質を端的に物語っているのではないだろうか。
 「二文字」の使用は、もちろん単なる「米中新冷戦」開始の宣言ではない。それならすでに行われている。重要なのは、その軍事的対立の最前線に日本が立たされたということだ。6年以内に起こり得るとされた「台湾有事」での日米共同とはそのことを意味している。
 軍事だけではない。対中敵視の「自由で開かれたインド太平洋」での日米共同は、昨年の貿易量が全体の27%と断然1位(対米は15%)の日中経済関係の切り離し、デカップリングに他ならず、米中経済対立の最前線に日本が立たされたことを意味している。

■「最前線」を担うのが日本の国益なのか?
 今回の菅訪米の結果がこうなるのは、概ね予測されていたことだ。だから、麻生副総理兼財務相などは、菅首相の訪米を前にして、「米ソ冷戦時のフロントライン(最前線)は欧米だったが、米中となった場合は、アジア、日本だ。・・・今まで以上に目に見える形で、日本の外交的地位が格段に上がった」と言いながら、米国の招聘に応える覚悟のほどを説いていたのだ。
 ここで問題は、これを日本の外交的地位の向上と単純に喜んでいいのかと言うことだ。「台湾有事」の突き付けなど、米国の常軌を逸した問題提起をみるにつけ、それに対する政府の重鎮として、あまりにも浅慮に過ぎるのではないだろうか。
 今回の共同声明のタイトルが「新たな時代における日米グローバル・パートナーシップ」となっているように、今、時代は「新しい時代」へと大きく転換してきている。それが単純に「米中新冷戦」時代への転換なのか、それとも、グローバリズム、新自由主義の破綻や米覇権自体の衰退、崩壊など、より深いとことからの時代的転換に基づいているのか。
  その如何によって、「米中新冷戦」の最前線を担うのが日本の国益なのか、逆に拒否するのが国益か、決まってくるのではないだろうか。

■日本の近現代史と政治の選択
 国の政治を行うに当たり、その方針採択の基準は、やはり「国益」だ。国益になるか否かで政治の選択は決まってくる。
 幕末維新以来の日本政治にあっても、やはりその選択の基準は国益だった。
 攘夷か開国か、アジアとともに抗欧米か脱亜入欧か、日米安保体制か脱日米安保体制か、等々。
 しかし、国益をめぐるこれら日本政治の選択にあって、そこには一つの特徴があったように思う。それは、多かれ少なかれ、欧米覇権との関係での選択だったということだ。
 この日本の命運をかけた方針採択において選ばれてきたのは、これまで概ね、欧米覇権の下、欧米覇権とともに進む道だった。今はまだ日本の力が弱い。弱い時には力を養い、時を待つ。そこにこそ国益がある。ということだったと思う。
 こうした日本の近現代史にあって、唯一、欧米覇権に抗する道を選択した時があった。それは、言うまでもなく、第二次世界大戦の時だ。
 その結果があの未曾有の大惨劇だったのは、日本の歴史に深く刻まれている。
 だから、戦後日本の政治にあって、日米安保、日米基軸が第一国益として、その選択の基準に据えられるようになったのはむべなるかなという側面があった。だが、今、日本は、そうすることが本当に国益なのか問われる事態になってきていると言えるのではないだろうか。
  それは、戦前・戦時、「近代の超克」が言われた当時、「脱亜入欧」の正当性が問われたのと同じ事態だと言えるように思う。

■これからが日本の正念場だ
 戦前、「近代の超克」の頃も、「新しい時代」を迎えていた。すなわち、覇権転換の時代だ。従前の英米覇権から日独伊覇権への転換、「歴史の新時代」が夢想されていた。
 そして今また、覇権転換の時代だと言われている。米国から中国へ、覇権の交代だ。この「新しい時代」にあって、日本はどの道に、自らの国益を見出すのか。その選択が問われている。今回の日米首脳会談では、そのことが菅首相に問われたのではないだろうか。
 そこで一つ提起したいことがある。それは、今進行している「新しい時代」が「覇権の転換」だけか、より本質的には、「覇権から脱覇権への転換」だと言えるのではないかということだ。
 この数年来、世界的な政治潮流として広がってきた自国第一主義は、マスメディアなどが言うような一時的で偶然的な「極右ポピュリズム」などではない。それは、国と民族を否定する究極の覇権主義であるグローバリズム、新自由主義を破綻に追い込んだ世界的範囲での脱覇権国民運動であり、国の役割が切実に問われるこのコロナ禍にあって、自由と民主主義など「普遍的価値観」を掲げ、国を超越した古い政治、覇権政治に換わって世界に広がる自国、自国民第一の新しい政治だと言えるのではないだろうか。
 この間、中国が呼びかけた「経済フォーラム」に百を超える発展途上国が参加したこと、ASEANや南北朝鮮をはじめアジアと世界の多くの国々が「米中新冷戦」に対し、それに賛同する何の反応も見せていないこと、そして「冷戦」を仕掛けられた当の中国自身、「中国ブロック」づくりの動きをとっていないこと、等々、米ソ両超大国の下、西と東に世界が分断された70年前とは様相が大きく変わってきている。その根底に見て取ることができるのが「脱覇権の新時代」ではないだろうか。
 この歴史の新時代にあって、日本の国益はどこにあるか。米国に付いて、中国と対決する道か。中国に付いて、米国と敵対する道か。それとも米中どちらにも付かず、米中双方と仲良くしながら、アジアとともに、世界とともに進む道か。答えは言わずもがなだと思う。
 この政治の選択をするに当たり肝要なのは、日本がアジアのリーダーとしてではなく、その一員として生きることだと思う。
 アジアの盟主として「大東亜」の共栄を目指した「近代の超克」にあって、日本は、英米との敵対に先立ち、アジアに侵攻した。アジア全域に広げた15年に及ぶ残虐非道な侵略戦争、その結果は、アジア人民の大海に飲み込まれた無惨な敗北だった。日本の第二次大戦における戦争総括から、このアジア戦線における惨敗がスッポリと抜け落ちている。それが、今日の「米中新冷戦」において鋭く問われているのではないか。
 アジアのリーダーではなく、その一員としてアジアとともに進むために決定的なのは、この総括だと思う。この総括をしてこそ、日本は、一度はその外に出たアジアの内に入り、その一員として自らの役割を果たしていくことができるようになる。それは、アジア諸国から許してもらえるようになるばかりではない。自分自身、世界で初めて自らの覇権主義、帝国主義の誤りを総括できた国としての誇りと自負心、愛着を持ち、まさにそこに、自らのナショナルアイデンティティーを抱いて進んでいけるようになる。
 「米中新冷戦」に対する政治の選択をするに当たり、もう一つ肝要なのは、ASEANをはじめ、アジア諸国に学ぶことだと思う。
  今日、ASEANをはじめ、アジア諸国は、「新冷戦」に対して、米国とも中国とも敵対することなく、世界の分断を阻止する強力な防波堤となっている。日本は、今こそ、彼らに学び、彼らと手を取って、進む時だと思う。そこにこそ、「新冷戦」の危機を乗り越え、日本の国益、アジアの平和と繁栄を実現する道があるのではないだろうか。
 先の日米首脳会談の結果が実行に移されてくる中、むしろそれを奇貨として、日本の国益をかけた決戦が問われていると思う。



議論

「台湾有事の安保協力」、突きつけられた踏み絵

吉田寅次


■「台湾有事の安保協力」は踏み絵
 「日米で取り組むべきメニューはつくられた」と読売新聞(4/18)は書いた。その基本メニューとして日米首脳会談後の共同声明に「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調する」が盛られた。「台湾有事の安保協力」約束とこれは受け止められている。このポイントは、日米首脳間の共同声明に「台湾」が明記されたこと、すなわち中国敵視の明確な意思表示を約束させられたという点にある。「一つの中国」を確認した日米の対中国交正常化以降は日米の共同文書に台湾問題に触れることはタブーになった。「一つの中国」を認めることによって台湾と断交後、台湾問題に触れること自体が中国敵視の姿勢を示すことになるからだ。
 そして「台湾海峡の平和と安定の重要性」を謳ったこと=「台湾有事の安保協力」を約束したことは、中国敵視を軍事領域にまで鮮明にしたこと、すなわち日本の安保防衛路線に変更を約束させられたことを意味するものだ。
 尖閣列島での日米安保協力までは建前として「あくまで日本の防衛」ではあるが、「台湾有事の安保協力」は日本の領域外での国際紛争への軍事協力であり、現行の専守防衛路線からの大きな逸脱を約束させられたことになる。そういう意味で日本にとって「台湾有事の安保協力」は一種の踏み絵と言える。専守防衛からの転換に踏み込む踏み絵を菅首相は踏まされた。

■焦点は「対等な日米同盟を阻むもの」に
 「台湾有事の安保協力」と関連して古森義久産経新聞ワシントン駐在客員特派員は同紙に「対等な日米同盟を阻むもの」と題してハドソン研究所前所長・ケネス・ワトソン氏の言葉を引用した。
「米国は戦後、日本の戦力を奪い、国際紛争の解決でも軍事力行使を禁じる特殊な憲法を押しつけた。このことがいま効果的な日米共同作戦や日本自身の予防攻撃能力への障害になっている」
 「台湾有事の安保協力」のためには9条改憲が必須、これが焦点化されるべきだということだ。
 日米会談直前に小野寺五典元防衛大臣は、「もう専守防衛という考え方は時代からすると合わないのではないか」と述べ、会談直後に安倍前首相は「自衛隊が守っている横で自衛隊が違憲だという国は日本だけだ」と言明、国民投票法改正(=九条改憲)案を早く採決すべきだと訴えた。菅首相は訪米時に米誌「News Week」取材で「日本は憲法を改正する意思があるのか」と問いつめられた。
 「台湾有事の安保協力」、それは「国際紛争解決でも軍事力行使を禁じる特殊な憲法」、九条の改憲を迫る米国の踏み絵だと見るべきだと思う。

■「押しつけ」でない日本独自の安保防衛論議を
 この露骨な中国敵視を約束させられたことについて日本の政財界でも懸念が広がっている。
 昨年九月、菅首相は「対中包囲網参加は日本の国益に資さない」(日米豪印・クアッド外相会談時)と明言したが、日本経済への多大な比重を占める中国との関係悪化を恐れるからだ。トヨタは電気自動車生産販売では中国市場を基本に考えているというし、経済界のほとんどが対中敵視をちゅうちょしている。
 国防の現場を担う自衛隊内部からも米国の一方的要求、専守防衛からの逸脱、「台湾有事の安保協力」を危ぶむ声が上がるものと予想される。
 そもそもこの安保協力は、米軍の弱体化という軍事的事情からも提起された身勝手な要求だ。台湾有事に際し、米第七艦隊の空母群は中国の極超音速滑空弾などミサイル攻撃の格好の的となり現場に近づけないとされる。そこで「多少の損失覚悟」で多数の小型艦艇群による作戦に変更し日本の小型空母などの出動が期待されているという。垂直着陸機F35B搭載の小型空母化された「いずも型」護衛艦がそれだ。日本版海兵隊、陸自新設の水陸機動団部隊の動員も要請されるだろう。
 元護衛艦隊司令官だった香田海将は、護衛艦の小型空母化はF35B戦闘機を搭載してもジェット燃料タンク、戦闘機用の武器庫のスペースもない実戦的に無意味なもの、むしろ本来の対潜哨戒任務、国土防衛に穴があくだけだと批判した。
 「国益に合わない」懸念ばかりの押しつけ「台湾有事の安保協力」、これに対処できる日本独自の安保防衛の論議を起こすことが切実に問われるときが来た、そう思う。


 
議論 −コロナ禍対応と人権問題−

日本、米国に人権をとやかく言う資格はない

鈴木綾子


 米国バイデン政権発足後、そして先月の日米首脳会談でも、人権、民主、法治中心の「価値同盟」による、「米中新冷戦」が焦点化されています。人権は、人間が人間らしく尊厳をもって生きていくための諸条件が保障される権利であり、基本的には自由権、参政権、社会権(生命・生存権)と言われています。
 現在、世界的なコロナ禍のなかで、自国民の「生命」を守ることが、緊急で切実な人権問題として各国政府に問われています。

■菅政権のウィズコロナ路線は経済第一、国民の生命は二の次
 安倍(前)政権は、昨年の5月、一回目の緊急事態宣言の解除後、今後は「ウィズコロナで長期戦」と位置づけました。「経済活動と感染防止を同時にやり、そのコロナ禍対策は、@新規感染者を抑えることA重症者と死亡者を極力なくすことB経済活動への影響を最小限にすること」(読売8/2 加藤厚生労相の発言)。
 ウィズコロナで長期戦? 感染症対策は時間との戦いなのに何を悠長なことを言っているのでしょうか。
 政府のコロナ禍対応とは、国民の生命より、経済を動かすことです。昨年5月の緊急事態宣言の解除時、専門家会議メンバーの多くは、新規感染者の「限りなくゼロ」を求めましたが、安倍首相が押し切りました。「専門家は経済のことを考えないから、そこは政治家が責任をもつ」との首相発言。首相が責任を持つのは経済であり、国民の生命は二の次ということです。
 政府のコロナ禍対策の一つが、経済活動への影響を最小限にすることです。では感染防止はどうするのかですが、それは、経済活動のために防疫原則の基準を緩和するということです。
 政府がやったのは、GoToキャンペーンなどで感染を拡大させることでした。4月に、ついに死者が1万人を超えました。今年1月に入ってからの死者が全体の6.5割です。国民の生命を守れないばかりか奪い続けています。
 コロナ禍に対する対応、特に防疫原則に対する態度は、国民の生命に対する観点問題と言えます。

■ウィズコロナのために「生命の選別」までが起きている
 防疫原則を緩和して経済活動を行うのですから、感染拡大は当然です。5月4日現在、日本の累計感染者数は61万人、死者が1万450人です。感染力が強い変異株ウイルスにより大阪を初め各地で感染拡大が急増、それにともない重症者数も増加し、医療崩壊により、「命の選別」が実際に行われるまでに至っています。
 医療が逼迫する大阪府で、ウイルス感染者の入院調節の担当者から保健所宛に「高齢者は優先度下」のメールが送られていたそうです。生産性のない高齢者は後まわしという命の選別です。人の命を生産性や効率で測ることは元来あってはならないことですが、そこまでの状況に追い込まれているということです。

■菅政権のコロナ禍対応こそ、人権侵害
 米国、英国をはじめとする欧州のコロナ禍対応は、典型的な経済優先のウィズコロナです。この根底には、「集団免疫」の考え方があります。
 「集団免疫」の考え方とは、一度コロナに感染した者にはコロナ抗体ができる。そして抗体のできた人が集団の7割を占めれば、集団免疫力ができたことになり、コロナが最終的に抑えられるとする方法です。「感染放置」を良策とするので、感染爆発で死者が多く出るのは前提です。
 感染初期、テキサス州副知事は、「私達の祖父母は経済のための(コロナによる)自己犠牲はいとわないだろう」とまで言い切りました。生産性の低い高齢者の犠牲は仕方がない、若い人たちは放っておけば直るのだから、コロナ封じ込めのために経済活動を犠牲にする必要はないという打算が基底にあります。
 誰であろうが、人間は存在すること事態に価値があるのです。生産性、効率などで人間の生の価値が決められ切り捨てられていく、これこそが最大の人権侵害です。
 米国のコロナ死者数は57万人。その内、アフリカ系米国人の感染者数は白人の3倍、死者数は2倍。健康生命権が最弱です。
 コロナ禍対応は、国民の生命に対する観点問題であり、現在、何よりも問われている切実で緊急な人権問題以外のなにものでもありません。
 コロナ禍対応でのひどい人権侵害、国民の生命を守れない日本政府や米国政府に、コロナ禍対応で封じ込めに成功し、国民の生命と安心を取り戻している国々をあれこれ言う資格はありません。
 このような日本、米国に「人権」をかかげての中国攻撃、「米中新冷戦」を行う正当性があるのでしょうか?



文化

韓ドラ!

平 和好


土日を除く毎日、正午からの韓国歴史ドラマ「トンイ」は面白かった。その前の「オクニョ」も良かったが。朝鮮王朝の史実にエピソードも思い切り加え、権力奪取や転覆工作や政権維持のための切った張ったにラブロマンスも入り、個性的な男女が一杯出てきて、筋書きも退屈させないようドラマチックを絵にかいたような内容だ。え?「韓流は脚色だらけやろ?」だって? あんた、日本の時代劇どれだけ厚化粧ですねん。英雄信長・秀吉の残虐行為だけでも何年分も大河ドラマできまっせ。信長なら叡山焼き討ち殺戮、浅井朝倉殲滅戦、秀吉によるぼう大な一族皆殺し、一向一揆・キリシタン弾圧、比較的寛容と言われる徳川時代もひどいもんです。明治以降も維新の英雄たちがどんなひどい事をしたか・・・日露戦争の最中、旅順で中国人が多数殺された(中国側の研究では1万人以上、日本の把握では千数百人、アメリカの調査では二千人)事を私が知ったのは訪中して記録を読んだ40才頃だ。大河ドラマでも教科書でも全然教えてもらってないぞ。

■権力!
 話を戻そう。韓国時代劇は第一のテーマが権力問題だ。しかも真剣勝負だから、今のように選挙で負けた方がしばらく冷や飯を我慢・・・と言うような甘いものではない。勝った方はやりたい放題、負けた方は打ち首、賜毒(自殺強要)、暗殺などで命を奪われる。男も女も命懸けなのだ。その権力を維持するには軍事力が必須で、軍隊を首尾よく動かし、作戦を成功させなければならない。そのために登場人物の全てがそれぞれの役割を果たす。しかし、思うように行かないのが権力。上司に「命に代えても遂行いたします!」と言ううちの相当部分が失敗や未遂に終わる。それで主役も敵役もスリリングになり、視聴者は画面に引き込まれ、次回が心配。我が家も最初は一人で見ていたが、今は夫婦で見て、それぞれの側に感情移入するほどになってしまった。私が敵役、向こうは主役の応援団・・・

■韓流は「女性活躍」
 韓国だけでは無いかもしれないが悪役に魅力的な女性を必ずと言ってよいほど配置するのも特徴である。朝鮮3大悪女と言う。張緑水(チャン・ノクス)、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、張禧嬪(チャン・ヒビン)。この3人を登場させないとドラマが盛り上がらない。才覚と美貌でのし上がり、王も精神的に支配してしまうのが共通の特徴。史実と離れるが、「善徳女王」に出てくる架空の悪役・美室(ミシル)もいた。私は、これらの悪役のファンになってしまい、お約束の破滅の場面では全てなぜか泣いてしまった。

■王に甘い韓流
 男女の悪役が山盛り出てくる中で、いずれのドラマも殆ど王は善人になる。また、王がしょっちゅう市井にお忍びで出ていき、世情を知る。吉宗将軍と一緒だ。被差別民とすら交流し、お妃に迎えたり、飢える民におかゆの施しをしたり、年に1回、子どもたちを王宮に招待してご飯を食べさせたりする。この点は巧妙な罪滅ぼし=慈善なのだろうか。なぜこうなるのか、日本の将軍家とも比較しながら研究してみたい。

■冤罪
 三つ目の特徴は「冤罪」。びっくりするような容疑が易々とかけられる。権力者とその周辺、庶民に至るまでその被害者が続出。トンイでは、被差別民の解放組織が権力者間の暗殺の数々の犯人にされてしまい、今なら裁判で無実を訴えるのだろうが、この時代では王の軍隊が問答無用で村を襲い、皆殺しだ。救いは王の周辺や主役も「冤罪」を無くすために努力する場面が出てくる事だろう。朴正熙軍事独裁の暴政で苦しんだ反省もあるのだろうか? 冤罪なんて殆ど光が当たらない日本のテレビと大きく違う。間もなく終わるトンイの次も期待したい。その前に、悪女・張禧嬪の最期に涙せねば!



投稿

モンテッソーリ教育から社会をみつめる

大森 彩生


 『最初に驚いたのは、その静けさです。子ども達は静かに移動し、穏やかに話し、丁寧に物を扱っていました。教室を散歩している子もいれば、床に転がっていたり、寝ている子もいる中で、他の子どもたちは作業を始めたり、 終えたりしています。』(映画・『モンテッソーリ子どもの家』の監督・アレ クサンドル・ムロ氏)。
 この監督のコメントから、私が教育者として現場に立っていた時に感じていた"教育者とは何なのか"という疑問の答えがモンテッソーリ教育にあるのではないかと感じました。
*モンテッソーリ教育とは、医師であり教育家であったマリア・モンテッソーリ博士が考案した教育法です。「子どもには、自分を育てる力が備わっている」という「自己教育力」の存在がモンテッソーリ教育の前提となっていま す。モンテッソーリ教育の目的は、「自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる」こと。その目的を達成するために、モンテッソーリは子どもを科学的に観察し、そこから得た事実に基づいて独特の体系を持つ教具を開発するなどして教育法を確立していきました。日本では将棋の藤井聡太八段が幼少期に受けた教育として有名。
 ドキュメンタリー映画『モンテッソーリ子どもの家』は、モンテッソーリ教育を2015年〜2017年の六月まで、2歳半〜6歳の28人のクラスを観察しながら撮影したドキュメンタリー映画です。
映画を見始めて最初に感じたのは、先生たちが子ども達のやる事に介入せずに観察をしている姿でした。子ども達だけで花バサミを使い花瓶に花をさし教室に飾り、野菜を切り、ロウソクに火をつけたり、普段なら危険だからと子どもを遠ざける事を、大人が介入する事なく、子ども達が自ら進んで作業していました。それはまるで子どもたちの『家』そのものであり、それぞれの役割を小さな大人のように淡々とこなしている様に見えました。ですが、先生が関わらないで自由に好き勝手にさせているのでなく、子どもたちが気持ちよく過ごせる環境を先生が整え、子どもにとっての障害となる 物は置かない事など、子ども達を尊重し丁寧にサポートをしていました。
 この映画で紹介されるクリスティアン・マレシャル先生があまりにも素晴 らしくて、そのような教育者を育成するモンテッソーリ教育がどうして難しいと言われるのかがわかりました。モンテッソーリ教育は、最低700時間の講習を受けてこそ理解できるモンテッソーリ自身が定めた詳細なガイドラインがあると言われています。『モンテッソーリ教師は、子どもの自由な活動をあたたかく見守り、子ども自身が自己を確立していく過程を大切にします。そのために必要なのは、きちんと教育・訓練された確かな目です。そして、 今子どもが必要としているものは何かを良く観察し、察知・理解出来るよう になければなりません。』(モンテッソーリ教育サンライズインターナショナルプリスクールWeb参考)その事を学んだうえで、それぞれの正しい成長する 瞬間を見逃さないように日常生活の練習、感覚教育、言語教育、数教育を導くと言うとても難しいものです。
 しかし、私が体験してきた教育現場では、騒がしい教室や先生が声をあらげたり、大人の都合に合わせて昼寝時間を作る、子どもの観察よりも行事の準備や親御さんとの連絡メモに時間を取られる、何よりも子ども達それぞれのペースではなく先生が常に介入して流れ作業のような時間になってしまう、そんな教育現場を見てきました。
 この映画で初めて気づいたのですが、映画の子ども達は教室の中で遊んでいるのでなく、仕事をしていたのです。小さな大人に見えたのは、子ども達が大人数の中でそれぞれの行動をしながらも相手の事を考え、どうするかを選び行動していたからだったのかも知れません。それに静かな教室の理由は、 子ども達が集中して仕事をしていたからだったのです。
 このような教育現場 を私は見たことがありませんでした。少年が何度も同じ作業を繰り返す映画 のワンシーンも印象に強く残っています。私の体験した教育現場では、一度完成したら、すぐに新しい問題を差し出す事が多くありました。でも、子どもは何度もくりかして学びます。少年の水を何度も入れなおす仕草に私の心が揺れ動くのは、何度も何度も挑戦して、そこから学ぶ姿こそが集中力を育てる環境だと感じたからだと思います。
 そして、このようなモンテッソーリ教育の環境作りは、子どもだけではなく大人の社会にも必要だと感じました。子どもだけではなく、大人社会も同じように仕事を学ぶ場であり成長をする場所なんだと思います。だからこそ心地良い環境で仕事を出来るようにその場を会社が提供し、スタッフはそれを維持しながら自分の役割を理解し、自ら行動をする。当たり前の事だと思いますが現実的にそれが出来ていない会社が多くあります。
 この社会が抱えてる問題を本当に解決するには、子どもたちの教育環境を変える必要があると思います。良い大学にいける様にするのではなく、敏感期の0歳から6歳までの6年間を大切な教育時期として、教育者は権力を持つのではなく謙虚さで子ども達を観察し、見守りながら一緒に成長をする。それは大人が子どもたちを信頼する事から始まる気がします。そしてモンテッ ソーリ博士が考案した教育法『責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる』は、集団行動の中で本当に学ぶ事は、争いや競争をする事ではなく、困っている人がいたら声をかけ、でも一人で頑 張りたい時は手を出さないと言う事、こうした事をしっかりと学び続ける事が平和を理解する大人に育つのではないでしょうか。
 大人の社会も、モンテッソーリ教育の様に競争ではなく、人を思いやる事が出来る環境なら良いのにと思うのは私だけではないと思います。 私の教育者とは?と感じた疑問についてはこのモンテッソーリ教育から、多くを知ることができました。ですが、いじめが小学2年生が一番多くなっていて、子どもが自ら命を断つ、親が子どもを虐待する、増え続けるこの残酷な現実を前に、何から考えれば良いのかわかりません。ただ私が今出来るのは" 生涯学び続ける姿勢を持ち続ける"事なんだと思います。
 映画の最後に少年がみかんを絞って友達に渡すシーンがあります。一人で頑張って絞ったジュース を女の子が『美味しいわ』と微笑む。その時の彼の嬉しい表情がたまらく愛しく感じました。私もその喜びを忘れてはいけないと気づかせてくれました。



随想

混迷を深める東京五輪

金子恵美子


 池江選手が東京五輪への切符を手に入れた。白血病からの2年。闘病を経ての快挙だ。
  菅内閣からも「感動した!」「勇気をくれた!」と祝辞が贈られた。「歴史を通して日本国民は不屈の精神を示してきた」とバッハもハッパをかける。 もはや「復興五輪」は言葉だけ、テレビでは「池江選手が優勝するたびにオリンピックが楽しみになる」と女子アナの明るい声が響いている。
 その池江選手に五輪辞退を求め、「中止」の声を上げるよう訴えるメールが届いているという。「・・・人の命より大切なものはありません。このまま選手として参加したら、コロナで多くの人を死なせた東京オリンピックにあなたも加担したことになります。」「影響力のある選手だからこそ、今の状況のオリンピックには出ない、という決断をして欲しいと思います」と。お願いはしているが、半ば脅迫と強制になっている。これはお角違いというものだ。問題なのは、様々な利害から何としてもオリンピックを強行したい人たちが、池江選手を利用して、オリンピックを盛り上げようとしていることだ。
 オリンピックを中止にできる権限があるのも責任があるのも選手個人ではなく、IOCであり、東京都であり、組織委員会であり、日本国民の生命と安全に責任をもつ日本政府である。こうした責任をとるべきところが、「五輪ありき」で事を進め、互いに責任を取ろうとせず、あいまいな状況が長く続く中で、いま様々な問題が噴出してきているのではなだろうか。
 国民の半数以上が中止を支持し、逼迫する医療現場に更なる負担を要請し、コロナ禍の不安の中、無観客で行われるオリンピックって、いったい何の為? 誰の為?
 バッハさんが来るということで、11日までとした(であろう)緊急事態宣言も、バッハさんが来なくなり、5月末までに延期された。誰もが11日では短すぎるだろうと言っていたのに。誰を見て、どこを見て事を決めているのか。日本政府のコロナをめぐる迷走につぐ迷走の根源もこれに尽きるのではと思う。


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