研究誌 「アジア新時代と日本」

第213号 2021/3/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 コロナ後ではない。転換は今から

議論 「9条改憲」日本が「インド太平洋地域構想」 アジア版NATOを担わされる!

寄稿 森辞任騒動について思う

寄稿 広域一元化条例を廃案に

寄稿 「ゴミ人間」と私

寄稿 リラ・ピリピーナ 女性国際戦犯法廷20周年記念 オンラインイベント開催(2)




 

編集部より

小川淳


 3・11,本当の復興はこれからだ
 東日本大震災から10年を迎えている。2011年3月11日、私はちょうど大阪の職場にいた。大阪でさえ建物の床がゆっくりと左右にかなり大きく揺れる独特な揺れ方をした。その感覚を今でも覚えている。その1時間後に東北太平洋沿岸を襲った津波の映像の凄まじさに、身体が震え、戦慄した。3・11は、死者数19729人、不明者2559人、被災総額16兆9千億円という甚大な被害をもたらした。
 周知のように東北沿岸部はこれまで何度も大きな津波に襲われている。貞観地震(869)や慶長地震(1611)、明治三陸地震(1933)など、一定の期間で繰り返し襲ってきていることがわかる。つまりこれから先も何年後から分からないが、大きな津波は必ず起きる。太平洋沿岸に暮らす人々はこれから先もそのリスクとともに生きていく必要がある。
 これまでの東北を襲った津波と3・11が違った最大のものは、福島原発のメルトダウンを招いたことである。事故から10年を経ても、そこだけが別世界のような廃墟のままの原発周辺は、原発事故の悲惨さ、復興の難しさ、険しさを示して余りある。野生動物の住処と化した町や集落。炉心内デブリ取り出しのめどすら立っていない廃炉行程。日々140トンもたまり続ける汚染水。これまで54基の原発を作りながら、原発が生み出す危険極まりない高濃度放射能廃棄物の最終処理場すらいまだ決まっていない。もし福島原発がなかったら、もし東電がきちんと津波対策を取っていたら、3・11は違ったものになっていたはずだ。巨大津波が起こりうるという専門家の警告を無視した東電と、処理場のないまま54基もの原発を無責任に作り続けた政府を考えると、メルトダウンは「天災」というより「人災」なのであって、「想定外の天災」だったという彼らの言い逃れを許してはならない。
 54基ある原発のうち、21基の廃炉が決まったが、残り33基のうち、9基が再稼働し、24基が止まったままだ。事故を受け、40年を超えたら廃炉へという「40年ルール」が設けられたが、ここにも「抜け道」が作られている。電気がひっ迫した場合、20年まで延長できるという規定だ。高浜、女川は地元自治体の「同意」を取り付け、再稼働へ動き始めている。
 3・11は私たちに何を教訓とし、何を残したのか。政府や関電の原発再稼働の執拗な動き見ていると、3・11の反省も教訓もなく、まるで何事もなかったかのようだ。戦後の日本は「敗戦の総括」をしっかりとしてこなかったが、その結果が、沖縄の基地問題や戦後の対米従属政治に繋がっていると、私たちは見ている。3・11も「失敗から学べない」なら、日本はまたもや大きな禍根を残すことになる。原発のない日本へ、どんな地震や津波が来ても安全な東北へ、本当の復興はこれからだ。



主張

コロナ後ではない。転換は今から

編集部


 「コロナ後の世界」が話題になるようになってから久しい。実際、コロナ禍の進行に伴い、世界の様相は大きく変わってきた。働き方や会議、会合の仕方、等々、社会、経済、そして生活のあり方まで、すべてが目に見えて変わってきている。
 歴史的に見てもそうだ。過去、14世紀のペスト、20世紀に入ってのスペイン風邪など、世界的な感染大流行(パンデミック)によって、封建制から資本制、英覇権から米覇権など時代の転換が大きく促進された。
 では、今回コロナによって生じる時代的転換は、いかなるものになるか。

■コロナ禍と時代の転換
 コロナによる転換で、よく言われるのは、デジタル化だ。「三密」などが避けられるに伴い、人々の動きが社会、経済、生活、あらゆる分野、領域にわたり、著しくデジタル化された。またそうした中、折からの第4次産業革命、産業のデジタル化が大きく促進されるようになったのも特記されることだろう。
 だが、転換はそれにとどまらない。より大きいのは、グローバリズム、新自由主義の破綻が決定的になったことではないだろうか。
 コロナは、グローバリズム、新自由主義の矛盾の大爆発だと言うことができる。パンデミックは、グローバリズムで国境の壁が大幅に低くなり緩くなったこと、新自由主義の「自己責任」「小さな政府」などによって国の医療体制が著しく脆弱になったこと、等々によって、欧米をはじめ世界をコロナ禍の修羅場に落とし込んだ。
反テロ戦争の泥沼化やリーマンショック、そして自国第一主義の嵐ですでに明確になっていたグローバリズム、新自由主義の破綻がこのコロナ禍で決定的になり、それが米覇権の崩壊を一段と促進したこと、ここにコロナ禍による時代転換の核心の一つがあるのではないだろうか。

■転換のキーワードは国だ
 グローバリズム、新自由主義の真髄を一言で言えば、国の否定だと言うことができる。それ故、コロナ禍は、国を否定したこと自体が持つ矛盾の爆発に他ならないと言えると思う。
 実際、国境の塀が低くなり規制が弱められたこと、国の医療体制が脆弱になったことだけではない。国を否定したことにより、世界はコロナ・パンデミックへの対応そのものができなくなってしまった。
 検査、隔離、治療という感染対策の基本中の基本ができなくなったこと、緊急事態宣言、等々、コロナ対策に伴って支給しなければならない給付金や各種補償金など、国民生活と企業活動への保障が円滑に行えなくなったこと、それらすべてを全国的に統一して推し進める指揮体系の確立がなされていないこと、ワクチンや治療薬の開発などを国家的に強力に推進できなくなっていること、等々、その根底に国を否定したグローバリズム、新自由主義の深刻な矛盾があるのは明らかではないだろうか。
 コロナ禍に対応しての現実がこれ以上になく雄弁に物語っているコロナ対策の鍵は、まさに国にある。国の役割を高めてこそ、コロナを収束することができる。
 それは、グローバリズムと新自由主義によって国がなくなった欧米において今も続く惨状、それとは対照的に、コロナ対策で国の役割を高めた東アジアにおいて顕著なコロナの収束状況、そこに端的に示されていると思う。
 もはや国の役割を高めることを「強権」だと排斥し、無策を「民主」だと称揚する時代は終わったと言うことができる。

■問われる国のあり方をめぐっての攻防
 この数年来、グローバリズム、新自由主義の破綻の深まりとともに、世界的範囲で起こってきていた自国第一主義など国のあり方の見直し転換が、今回のコロナ禍を通して、一段と促進されてきている。
 コロナ禍にあって、何より切実なコロナの一日も早い収束、そして停滞する経済の活性化、建て直しにとって、決定的なのは国の役割であり、そのための国のあり方の転換だ。
 国のあり方を転換してこそ、コロナ禍に対しても、コロナ後の世界に対しても、国の役割を高めることができる。
 国のあり方の転換と言った時、菅政権は、これまでのどの自民党政権にも増して、そこに力を入れているように見える。それは、デジタル庁の創設など、国のデジタル化だけではない。米バイデン新政権提唱のグリーン革命、国の脱炭素化、グリーン化にも呼応する構えだ。さらに刮目すべきは、今国会で強行採決されようとしている国民投票法の改正だ。それが憲法改正に向けたものであるのは言うまでもない。それとの関連で想起されるのは、菅政権がその発足当初、日本学術会議への推薦名簿から安保法制や秘密保護法に反対した6名を任命しなかった事実だ。この戦後政治の歴史にかつてなかった措置は、九条改憲とも絡めて極めて重大な意味を持っていると思う。
 菅政権の国のあり方の転換で看過できないのは、それらが米覇権のあり方の転換と軌を一にしていることだ。
 今、米覇権は、フィンテック(新技術を駆使して生み出す新たな金融サービス)により金融寡頭制による覇権からGAFAなどIT寡頭制による覇権へと転換の時を迎えている。米中新冷戦と親米派ブロック内の「国際協調」、そして国のあり方のデジタル化、グリーン化はそのためのものだ。
 この覇権のための国のあり方の転換は、コロナの収束とは何の関係もない。それどころか、ウイズコロナでコロナ禍を長引かせ、コロナ禍を奇貨に、デジタル化や脱炭素化、ワクチンなどによる米覇権の強化を図るものだ。これに追随する菅政権の国のあり方の転換がいかなるものか、もはや論を待たないだろう。
 コロナ禍の今日、われわれ国民の側に問われているのは、「コロナ後の世界」を思い描き、それに向け準備することではない。コロナの収束、ゼロコロナを目指し、そのための国のあり方の転換に向け、今から闘争を開始することではないか。
 ウイズコロナで「集団免疫」を当てにし、米国のワクチン開発に依存するのか、それともゼロコロナを目標に、検査と隔離、治療を基本としながら、国産ワクチン、治療薬の開発に力を入れるのか。人々から職を奪い、人々をAIの補完物、隷属物にするGAFA支配下のデジタル化なのか、それとも人々の労働を軽減し、より高度で豊かなものにする自律と協調のデジタル化なのか。大企業のため、覇権のためのグリーン化か、国民のため、地方と国のためのグリーン化か。
 闘争の対決点は鮮明だ。そこに、コロナ後ではない、コロナ禍ただ中の今から、時代の転換を切り開いていく闘いの展望が開けているのではないだろうか。

「もう一言」

コロナ禍による時代転換のもう一つの核心
 「主張」本文では、コロナ禍による時代転換の一つの核心を、グローバリズム、新自由主義の破綻がコロナ禍により決定的に深まったこと、それにより米覇権の崩壊が大きく進行したことに求めました。
 それ故ここでは、「転換」のもう一つの核心について考えてみたいと思います。そうです。転換のもう一つの核心は、主体の側にあります。
 時代の転換や進展の主体は、常に国民です。それ以外の主体などあり得ません。
 そこで問題は、主体である国民の意思です。国民の意思が「転換」を求めるようになること、そこにコロナ禍における時代の転換のもう一つの核心があるということです。
 今日、コロナとの闘いを通して、日本国民は、多くのことを学んだのではないかと思います。中でもとりわけ、国が果たす役割の大きさについて学んだのではないでしょうか。
 「主張」本文で強調しましたように、国の役割なしにコロナとの闘いは考えることもできません。国があってのコロナとの闘いです。
 今日、時代の転換とは、国を否定したグローバリズム、新自由主義の時代から、自分の国を拠り所とする自国第一の時代への転換であり、国の上に覇権が君臨していた覇権時代から、ついにそこから脱却する脱覇権の時代への転換です。
 今度のコロナとの闘いを通じて、日本国民が国の果たす役割の大きさについて学ぶようになったこと、そこにこそ、今回の時代転換の最も重要な核心があるのではないかと思います。



議論 「9条改憲」日本が「インド太平洋地域構想」

アジア版NATOを担わされる!

吉田寅次


 菅首相は所信表明演説で「抑止力の強化」を打ち出し、今国会で「国民投票法改正」=9条改憲をめざす意思を露骨に表明した。
 これはいったい何を意味するのだろうか?
 抑止力とは「敵が攻撃をためらう報復攻撃力を持つ」ということだ。報復攻撃力を持つということは憲法9条の専守防衛(攻撃力を持たない)路線の転換、すなわち9条改憲を意味する。
 菅政権はなぜこの時期にこのような「平和国家」日本の形を変える路線転換を表明したのか?
 それはバイデン米新政権が明確化した「自由で開かれたインド太平洋地域構想」によるものだ。
 元来、「自由で開かれた・・・」は安倍前首相が提唱したものであり、日本がアジアでこれを主導せよとの米国の強い要求からくるものだ。
 これはトランプの米中新冷戦・宣戦布告踏襲の意思をバイデン新政権が明確にしたことを示す。
 「自由で開かれた」の文言は中国の国有企業保護策などを許さない「自由で開かれた」法秩序の地域にするという露骨な中国排除の概念であり、アジア地域を中国包囲の「インド太平洋地域」に変えるという米覇権回復の基本戦略概念だ。
 さらにこれに加えてトランプ時代のクアッド(Quad:米日豪印4カ国)構想推進を明確化し、中国包囲の軍事同盟化、「アジア版NATO」形成をめざす姿勢をいま露骨化しだしている。そのうえ英仏独をこれに巻き込み、「中国の海洋進出の脅威」を口実にすでに英航空母艦のアジア地域派遣を強行させ、フランス、ドイツもこれに従わせた。
 これがバイデン流の「国際協調」、米中新冷戦時代の軍事に及ぶ反中国際同盟強化だ。
 それは軍事的にも覇権力喪失の危機にある米軍の侵略武力補完を「国際協調」の名の下で実現しようとの企図でもある。もはや弱体化した米軍事力だけではアジア地域への覇権軍事力、「抑止力」が限界点に達している現実の反映でもある。
 一例を挙げれば中国の極超音速滑空体ミサイルDF−17、ロシアの空対地極超音速ミサイル「キンジャール」、朝鮮の変速軌道ミサイルKN−23には現在の米軍には防ぐ手だてがなくなっている。これを迎撃するには約千個の軍事偵察衛星を打ち上げ変則的に移動するミサイルを追尾監視するしかないとされるが、いまの米一国でまかないきれるものではなくなった。だからこれは米日豪印「アジア版NATO」に加え英仏独を巻き込む「国際協調」で対抗するしか方法がないという米国の窮余の一策に過ぎない。
 ゆえに「アジア版NATO」形成は米国が米中新冷戦で覇権的優位を回復できるどうかの死活的問題となっている。
 ここで問題になるのが日本の憲法9条だ。
 「アジア版NATO」はすべての同盟国が米抑止力の補助となる抑止力、報復攻撃能力で貢献することを求める。となると「報復攻撃力保有を禁じる」専守防衛の9条日本がネックとならざるをえない。
 すでに安倍政権時の改訂「防衛大綱」は、小型空母、射程900kmミサイル(日本海から平壌に到達)保有など実質的に「報復攻撃力」保有を認め、さらに菅政権はミサイル追尾監視用の軍事衛星コンステレーション・システム導入まで決めた。後はこれに法的担保を与えるのみだ。
 菅政権の「抑止力強化」表明、「国民投票法改正」=9条改憲意志は、バイデンの「インド太平洋地域構想」、その具現である「アジア版NATO」形成の要請を受けたもの以外の何ものでもない。
 トランプ政権が「自由で開かれたインド太平洋地域戦略」を打ち出したとき、アジア(ASEAN諸国)は「対抗ではなく対話と協力の地域にする」とこれへの反対意思を明確に打ち出した。
 これが「アジアの内の声」だ。
 脱亜入欧以降、「アジアの外」に出てアジアに覇を唱え、戦後はその覇権主義を対米従属に衣を替えて行ってきたわが国だが、「9条改憲」強要を受け入れてこれをいまもなお続けるのか、見直すのか? いま日本の出処進退が問われている。
それは「9条改憲日本」に転換してまで窮地にある破滅の瀬戸際の米覇権と運命を共にする「アジアの外の日本」を続けるのか、アジア(中国まで含め)と平和と繁栄を共にする「アジアの内の日本」に転換するのか、そういう正念場に来ているということではないだろうか。


 
寄稿

森辞任騒動について思う

横路征太郎


 日本の全てのマスコミにおいて「東京五輪組織委員会森会長は男女差別発言により辞任した」と報道されており、フランス紙のル・モンドでも「日本に根づいている男性優位主義の象徴」との見出しで森氏をとらえ、「今回の発言は口を滑らせたわけではなく、性差別は常に日本の政界にある」などと報道されています。しかし私は日本における問題の本質は少し違うのではないかと思っています。
 女性差別が問題であるということは認めますが、それでは男性が自由に発言できているのでしょうか。森会長は柔道の山下、ハンマー投げの室伏、スケートの橋本聖子など子分のアスリートをJOC(日本オリンピック委員会)、スポーツ庁、オリンピック・パラリンピック大臣などの要所に据えて意のままにあやつり、権勢を振るってきました。森会長やJOCの山下会長が関係したオリンピック関連の会議で、男性は会長の意向を忖度して黙って座っているか追従を述べるだけなので時間はかからない。ところが山口香、小谷実可子、高橋尚子などの一部の女性委員は忖度することなく意見を述べるので議論になり当然時間がかかる。これが森会長は気に喰わない。議論すること自体が不愉快であって、俺の言う通りにすれば良いという独善が基本にあると思います。正論を述べる奴は排除する。それがたまたま女性であったということです。そして、男性はその独善を容認し、権力側が抑圧する前に自らが自由に意見を述べるという権利を放棄しているのではないか。それならば男性優位であるどころか女性以下の存在であり、事実それが日本の現状ではないでしょうか。
 マスコミも同じです。東京新聞の女性記者望月さんの場合、彼女が菅官房長官に必死で食い下がっても、男性記者はそれを擁護することなく空気が読めないとあざけり笑う。
 今の政府自民党政権においても同様で、菅首相は「自分に逆らった官僚は左遷する」と広言し、官僚は萎縮してしまっている。「自分の意見を述べたら冷遇される」、これが現在の日本の逼塞した状況を生み、日本の活力を削いでいる大きな要因となっていることは明らかです。
 今回の森会長の発言後、バッハIOC会長、山下JOC会長、橋下聖子オリパラ大臣、東京五輪組織委員会など全てが、森会長を擁護し、謝罪のみで幕引きを諮ろうとしました。これは森会長を残しておいた方が東京オリンピックを強行開催するには有利であると考えたためです。しかし大スポンサーである米国ネットワークのNBCが森会長糾弾の旗幟を鮮明にしたため、IOCのバッハも手のひらを返して森会長を見捨てて非難する側に回りました。この時点で森会長はギブアップした訳ですが、結局これらの動きはそれぞれ自分達の利害のためであり、オリンピック憲章などは所詮上辺を飾るものでしかないことをまざまざと見せつけられる思いでした。菅は政権浮上、小池は主催者としての名誉と権力の強化、森はスポーツ界を統治する権力者としての総仕上げ、それぞれ思惑は異なるが全て自分のためだけの五輪であることは共通しています。
 東京オリンピックには、感染がおさまっていない状況下で諸外国が感染のリスクを賭けてまで選手を送り込んでくるのかという懸念があります。しかし、日本オリンピック委員会理事の柔道の山口香さんは「オリンピック、コロナについてリスクを負うのは海外からやって来る選手や関係者よりも、圧倒的に日本国民である。対外的にどうかというよりも、国内問題として考えるべき」と述べています。
 私は、世界でも日本においてもコロナ感染症が終熄していない状況下でオリンピック開催を強行しようとしているのは皆同罪であると考えます。菅政権はどう考えても無理なことを自分たちのために強行しようとしていると言わざるを得ません。国民はそのことを察して白けている。その事を肌で感じて正論を述べているのが陸上競技の新谷仁美選手です。彼女は「オリンピックは国民が望まないなら意味がない。選手だけがやりたいでは、ただのわがまま」と述べています。
 政府は「ワクチン接種も始まったし、感染者がある程度減っていればどうにかなるだろう」という希望的観測のみでオリンピック開催に漕ぎ着けようとしていますが、それは余りにも無責任です。
 私は1日も早く、東京オリンピック中止を決定してもらいたいと思います。



寄稿

広域一元化条例を廃案に!

堺一郎


 大阪の広域一元化条例は4月1日に施行されることが確実となった、と報道されています。条例案は都市計画などに関する政令指定都市大阪市の主要な権限を大阪府に委託する条例であり全国初です。条例案は「府・市の一体的な行政運営の推進」を目的に、大規模再開発や高速道路・鉄道など都市計画の7分野と成長戦略について、市の権限を府に委託する内容。個々の計画は、知事を本部長、市長を副本部長とする副首都推進本部会議で議論するとか。同会議は地方自治法で道府県と政令市に設置が義務づけられた「調整会議」の位置づけですが吉村・松井氏や維新の意向が強く反映されます。

大阪市乗っ取り計画!

■公明党議員に圧力を!
 公明市議団は、衆議院選挙での取引と脅迫に屈して維新に賛成するようです。しかし創価学会の、特に女性たちはこの取引に反対が多数との世論調査があります。松井市長が4日の市議会本会議で、個々の計画については「市長と知事が対等の立場で協議する」と公明の求める形で答弁し、条例案も修正される見通しとなったため、賛成方針を固めたと言いますがいつもの小手先の修正。創価学会員の造反が期待されます。

■維新による血税浪費はひどい
 吉村知事は府議会で「ポストコロナの大阪の成長のカギ」として万博の成功、カジノ誘致などを挙げ、「府市一体の大阪を継承、強化し、大阪の成長、まちづくりを強力に推進するため」と称していますが、万博はうまく行ってもとんとんの収支、カジノはアジア諸国やアメリカ・ラスベガスの例を見ても分かるように最初から破たんが見えています。結局我々の血税が雲をつかむような博打場建設に浪費されるだけではないでしょうか? しかし、松井市長は国から交付されるお金があるから大丈夫と本音を言っており結局それだけが頼りと思われます。要するに市民・府民の血税、国に収めている所得税などでまかなう事になります。しかしそれはコロナ禍・自粛地獄で苦しむ人々への給付金などに使うべきお金でしょう。松井市長などは住民投票敗北の責任を取って引退、と言ったのですからこんな条例を出す資格ゼロ。このかん、全国各地で維新政治家による犯罪・政治私物化が明かになりました。それを皆で広めましょう。

■3月最終週が決戦
 この3月いっぱいの攻防が行く手を決めます。圧倒的に賛成が多いと予想された大阪市廃止住民投票をギリギリではね返した昨年11月1日の「奇跡」をもう一度起こさねばなりません。あきらめや傍観は関西の市民生活の破たんにつながります。下記を緊急に呼びかけます。
1 地元の議員、特に公明・維新の大阪市議、府議、各級議員に
 「反対」を迫る要請を面談・電話・メール等で出来るだけ多く行いましょう。
 「こんな暴挙に協力する議員は議席を失うよ!」と。
2 反対署名運動が各地で行われています。積極的・大々的に協力しましょう。
3 万々一、通されてしまったとしても将来、廃止することは可能です。11.1住民投票の結果を亡きものにする議員は全ゆる選挙において、落としましょう。
(落選運動は公選法上、自由にできます。)



寄稿

「ゴミ人間」とわたし

大森彩生


 世界は果てしなく、広くもあるけれど、とっても狭い価値観を押し付ける社会の固まりでもあります。
特に、同じ境遇ではない少数派と呼ばれる人々の場合は、生きにくいことが多くあるように思います。
今回はそんな生きにくさを抱えながらも、信じて、挑戦し頑張っている人々を力強く応援する本「ゴミ人間」について書きたいと思います。
この本はお笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣さんが、2016年に発行し、発行部数63万部を超えるベストセラーとなった絵本『えんとつ町のプペル』(2020年12月公開)を映画化するまでに、彼が体験してきた話をとっても真っすぐに描いている圧倒的熱量の詰まったエッセイです。
本を読んだあと、映画「えんとつ町のプペル」がすぐに見たくなり、映画館へ足を運びました。映画からは彼自身が体験してきた事、伝えたい事を一生懸命にカタチにしようとしてることが感じられました。
「えんとつ町のプペル」の絵本制作にあたっては、クラウドファンディングで資金を募りスタートさせたこと、絵本界では一人で描く事が多いのに分業制をとり、総勢33人のクリエイターにより作り上げたことなど、異例づくめ。凄まじいバッシングを受けたその時の社会の反応。
この話から、私が憧れた絵描きの事を思い出しました。3人の画家が描いた壁画がまるで、1人の人が描いたように美しかったと。その事が私には憧れでした。相手を知り、尊敬と愛情がある中で完成したのだと感じて感動したからです。
だからこそ、西野さんの不器用ながらも夢と愛のある行動にとっても心が動かされました。
また、お金についての話が私には印象に残っています。「ゴミ人間」の<育児放棄した過去>の中から少し引用します。
「お金教育を受けてこなかった僕は、お金の話をする大人を『卑しい人』として捉えていて、『そっち側』に行きたくありませんでした。表現者として汚れたくなかったのです。(中略)でも、ある時、気がつきました。『作るだけで作って、売ることは他人に任せています』というスタンスは、一見するとクリエーターのあるべき姿のようですが、実際のところは、「育児放棄」です」。
私自身が悩んでいた事と同じでした。
特にここ数年は、お金について学び、考えることが多くなり、それをクリエーターの仕事なのにと批判される事がありました。『以前のように純粋に絵を描いたり、写真を撮ったりしている時の方が良かった』と言われる度に悔しい気持ちになりました。私だって、好きな事だけしたいです。けれど経理や営業を代わりにしてくれる人を雇う余裕もありません。好きじゃない仕事を受ける事もあります。その度に私は間違った選択をしてるのかな?と悩みました。だから、彼の「育児放棄」と言う言葉に心から共感し強く励まされました。
私なりに好きでもない経理やクライアントとの交渉を出来る様に新しい自分と必死に向き合ってきた事は、間違いではなかったのかも知れない、とそう思えました。
そう言えば、「えんとつ町のプペル」映画の中でもお金にまつわる話が出てきました。あまり話すとネタバレになるので詳しくは書けませんが。映画のあらすじを少しだけ書きます。

「信じて、信じて、世界を変えろ。
厚い煙に覆われた"えんとつ町"。煙の向こうに"星"があるなんて誰も想像すらしなかった。この町でただ一人、紙芝居に託して"星"を語っていたブルーノの 息子・ルビッチは、父の教えを守り"星"を信じ続けていた。しかし、ルビッチは町のみんなに嘘つきと後ろ指をさされ、ひとりぼっちになってしまう。そしてハロウィンの夜、ゴミから生まれたゴミ人間・プペルが現れ、のけもの同士、二人は友達となり、ルビッチとプペルは「星を見つける」旅に出ると決意する。父を 信じて、互いを信じあって飛び出した二人が、大冒険の先に見た、えんとつ町に隠された秘密とは。」

このえんとつ町の秘密にお金と時間について描かれています。
それを知った時に改めて、感じる世界があり、そこから私ならどう生きるだろうか?と考えるチカラを与えてくれる。そして、この物語の続きこそが私たちの「今」なのかもしれない。
さまざまな意見はありますが、私には、とっても不器用で優しいゴミ人間にそっくりな、西野さんの言葉に小さな勇気をもらいました。
明日も頑張ろうって。



寄稿 リラ・ピリピーナ

女性国際戦犯法廷20周年記念 オンラインイベント開催(2)

文責:沖本直子(在フィリピン) 提供:フィリピン慰安婦支援G「マキータの会」


■連帯のメッセージなど
 2人のコメントの後、フィリピン大学のガムラン民族音楽舞踊グループ・コントラガピの演奏ビデオ上映に続き、ロラネットの山田代表を含む、長年にわたりロラたちを支援してきた日本の3つの支援団体の代表からの連帯メッセージをロラたちとの思い出の写真などとともに紹介。この日、ロラズ・センターから参加していたロラ・エステリータが懐かしい日本の友人たちの顔を見つけて喜んでいました。
 また、フラワーズ・フォー・ロラズ・キャンペーン代表のテレシタ・アン・シーさんからも連帯の挨拶がありました。

 

■ロラたちからのメッセージ
 2人のロラたちから若者へのメッセージのコーナーでは、イベントの直前にスタッフがロラ・ヒラリア・ブスタマンテのお宅を訪問した際に撮影したビデオメッセージを上映。ロラ・ヒラリアは若者たちが「慰安婦」支援運動のために団結することを願っていると述べました。ロラ・ヒラリアの自宅は、11月の台風22号(現地名:ユリシーズ)の被害により甚大な被害を受け、リラ・ピリピーナは、ロラ・ヒラリアのお宅の修理のための寄付を募っています。
 そして、ロラ・エステリータ・ディがロラズ・センターから、ライブ出演。ロラ・エステリータは、若者たちと、日本の若い人たちへのメッセージとして、次のように語りました。自国の政府の動きに対し、常に批判的であり、監視すべきです。なぜなら、もしあなたの国の政府が再び戦争に携わったら、私たちに起こったことが、あなた方に起こるかも知れません。私たちはそれを望まないのです。 ロラ・エステリータは、キャンペーン支援者に感謝を述べ、自分たちの子どもたちが今はキャンペーンに加わり支えていることに触れ、既にとても高齢ですが、正義を求める闘いに参加したいと強く思っていると話しました。

■大成功のイベント
その後、質疑応答。カナダやドイツ、韓国からの参加者も質問を寄せ、ホロコーストにおけるナチス・ドイツの兵士への裁きと、「慰安婦」に対する加害者への裁きの違い、女性国際戦犯法廷における、人道に対する罪に対する裁きと戦争犯罪、今の若者にどのように「慰安婦」について教育していけばよいか、消えた「慰安婦」像はどうなったのか、など幅広い質問が出ました。
また、この機会に、存命中のお二人:ロラ・、既に亡くなられたロラを含む、12月生まれのすべてのロラたちの誕生月もお祝いしました。
最後に、リラ・ピリピーナのシャロン・カブサオ・シルバ代表が閉会の挨拶。東澤教授を迎えてのこのイベントは女性国際戦犯法廷20周年記念として、歴史を理解するだけでなく、「慰安婦」支援運動の将来の方向性を探る上でも大成功だったと語り、約1時間半のイベントを締めくくりました。


ホーム      ▲ページトップ


「アジア新時代と日本」編集委員会 〒536-8799 大阪市城東郵便局私書箱43号