新しいマルクス主義の復権
話題の書、斎藤幸平著「人新世の『資本論』」を読んだ。いま最もラディカルな資本主義批判の書と言ってよい。
人間の活動の痕跡が地球の表面を覆いつくした時代、それをノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは「人新世」と名付けた。その、地球を大きく変えた人工物の中でひときわ増大しているのが大気中の二酸化炭素だ。産業革命以降、化石燃料を大量に使い二酸化炭素の濃度は産業革命以前の280ppmから2016年には400ppmを超え、400万年前の「鮮新世」と同じ水準という。地球文明はすでに気候変動という大きな危機に直面している。そして二酸化炭素の排出がこれほどまで増えたのは産業革命とともに勃興した資本主義の生産様式にある。
気候変動に対応するために大いに期待をあつめているのがSDGsであったり、グリーン・ニューディールであったり、様々な論議が生まれてきているが、それらはすべて資本主義を前提にしたものだ。しかし本書は、資本主義下での持続可能な成長は不可能であると切り捨てる。この危機的状況に処する唯一の方法は脱成長経済、つまり無限に利潤追求しつづける資本主義からの決別しかない。明確なデータに基づいた資本主義の限界及び、資本主義こそが環境破壊の元凶であるとの指摘は説得力がある。
本書が衝撃的なのは、これまで「常識」と思われてきた思想や考え方、パラダイムを根本から覆しているからだ。その最たるものは、「資本論1巻」執筆後、亡くなるまで晩年のマルクスが残した膨大なノートに基礎して、新しいマルクス像に光を当てたことである。そこから浮き上がってくるのは、「階級主義」でもない、「生産力至上主義」でもない、「進歩史観」からも決別した新しいマルクス像だ。ベルリンの壁崩壊によって、社会主義体制が崩壊し、資本主義の勝利が高らかに宣言された。資本主義に代わる経済システム、資本主義以外の選択肢はもはや存在しない、これが世界の常識になった中で、本書はこの常識に衝撃的な一石を投じている。
「拡張し続ける経済活動が地球環境を破壊しつくそうとしている今、私自身の手で資本主義を止めなければ人類の歴史は終わりを迎える。資本主義でない社会システムを求めること、コミュニズムこそ『人新世』の時代に追求すべき未来なのだ」という。本書が未来に向けた一筋の光になるのかどうか。
「気候、マルクス、人新世。これらを横断する経済思想がついに出現したね。日本はそのような才能を待っていた」(松岡正剛)。本書の問題提起をしっかりと受け止めていきたいと思う。
情勢展望
コロナで明け、コロナで暮れた2020年。新年を迎えても、そこからの出口はいまだ見えていない。
その間に、時代は大きく進展した。米覇権崩壊の完全表面化だ。それは、覇権のあり方、国のあり方の転換とそれをめぐる闘争を同伴する。
2021年、新年をこうした視点からとらえることが問われているのではないだろうか。
■すべての根底にあった米覇権の崩壊
コロナをめぐって、その発生源がどこか、中国か米国か、責任のなすり合い、水掛け論が繰り返されている。しかし、今確認すべきは、コロナが窮極の覇権主義、国そのものを否定するグローバリズム、新自由主義の矛盾の大爆発だという事実ではないだろうか。
実際、コロナ・パンデミック(感染症の世界的大流行)の根因に、国境を否定し、検査、隔離、治療といった国の役割を否定するグローバリズムがあり、「小さな政府」の下、国の医療体制を崩壊させた新自由主義があるのは、動かすことのできない事実だ。
そのコロナの最大にして最悪の感染国に、グローバリズム、新自由主義の総本山である米国がなり、もともとすでに進行していた覇権国家としての威信と力の失墜が決定的になったのは必然だと言うことができる。
旧年、コロナとともに世界を困惑させたのは、米国が仕掛けた「米中新冷戦」だったのではないだろうか。「貿易戦争」「ハイテク戦争」「外交戦争」と中国を相手にエスカレートされた「新冷戦」が米覇権を脅かす中国の台頭を抑える一方、「米国に付くのか、中国に付くのか」、各国に迫り、世界の分断、G2覇権体制づくりを狙ったものであったのは、もはや公然の秘密になっている。
この米覇権崩壊の危機が生み出した「新冷戦」が、「自由主義か全体主義か」の米国による突き付けにもかかわらず、自らの国益を第一にする各国の態度不表明の前に、行き詰まっているのは、旧年の現実を象徴的に示していると思う。
米覇権の崩壊は、旧年、米大統領選にも現れた。理念も政策もなく、互いの誹謗中傷に終始した「史上最低」の大統領選は、これまで「普遍的価値」を掲げ、イデオロギーで粉飾されてきた米覇権の終焉を意味していたと言うことができる。バイデンが自らの勝利を宣言しながら、共和党と民主党、イデオロギーによる米国の分裂、分断を憂えて、「赤でも青でもなくアメリカだ」とアイデンティティーによる統一を訴えざるを得なかったところにそれは象徴的に現れていた。
たがの外れた桶そのままに、世界中至る所で吹き出す水漏れとなって現れたのが、旧年、米覇権の崩壊だったのではないか。日本における菅新政権の出現も、その中の一つだったと言えると思う。米中新冷戦のための戦術として打ち出された対中国包囲のクアッド構想、「アジア版NATO」や中国を排除する通信計画、「クリーンネットワーク」への不参加を表明した菅政権の動きを日本のメディアは対米全面追随からの転換としてそれとなく扱ったが、実はこれ自体、従来の自民党政治には考えられなかった戦後日本政治の大転換だと言うことができる。
■米覇権崩壊の根因を問う
完全表面化した米覇権の崩壊、それがなぜ起こったのか、その原因についてはいろいろ言われている。そこでもっとも一般的なのが「中国の台頭」だ。弱肉強食の覇権争奪戦、新たに出現した強者の前に衰弱し力を失った古い覇権の崩壊は一気に進む。それが今の米国の姿だということだ。
だがこの分析は、いささか表面的にすぎるのではないか。問われているのは、なぜ米国が衰弱し中国が隆盛したのか、その根因を探ることにあるのではないだろうか。
米国衰弱の直接的要因がグローバリズム、新自由主義の破綻にあるのは明確だ。国を否定する宣戦布告なきイラク、アフガン、そしてIS反テロ戦争、このこれまでになかった新しい型のグローバル戦争の泥沼化、あらゆる金融規制を取り払った結果生じた金融大恐慌、リーマンショック、そしてそれらに伴う全世界数千万に及ぶ国を失った移民、難民の大群が何よりも雄弁にそのことを物語っている。
その上で、グローバリズム、新自由主義の破綻、米覇権の崩壊を決定づけたものがある。それこそが全世界に広がった自国第一主義の大衆的政治進出に他ならないのではないかと思う。一般的にメディアや既存の政界などによって「極右」あるいは「極左」の「ポピュリズム」と烙印され、それが常識にされているこの政治潮流の歴史的意味を見誤ってはならないと思う。そこにこそ、米覇権崩壊の謎を解く鍵があると思うからだ。
これまでの歴史は、覇権と各国国民の国をめぐる闘争の歴史だったと言えるのではないか。実際、覇権国家は周辺の国々、世界の国々を従え、それを通して各国国民を支配してきたし、各国国民は自国の支配層と闘いながら、覇権に対しては、国を掲げ、国として抗し闘ってきた。そこで、その間に立つ各国支配層は、往々にして、覇権に従い、その下で自国を統治し、自国国民を支配してきたと言うことができる。
こうした覇権と各国国民の国をめぐっての攻防の歴史にあって、国そのものを否定して世界を直接支配しようとする窮極の覇権主義、グローバリズムによる米覇権に対し、各国国民が自国第一主義の旗を掲げ、自らが直接政治を握り、新しい政治を行っていくようになるのは歴史の必然なのではないだろうか。
実際、米中の力の逆転もこうした歴史の大きな流れに基づいて見る必要があると思う。中国の若者たちの間で広がる中国愛国主義の高揚とその土壌から輩出する無数の人材、そしてアジア、アフリカ、中南米に拡大する自国第一主義の台頭と結びついた中国勢力圏の広がり、こうした中国隆盛の基にあるものは、必ずしもそれが米覇権から中国覇権への交代を意味しているのではないことを示しているのではないだろうか。
■覇権のあり方の転換とIT寡頭制
米覇権の崩壊が誰の目にも明らかになった今日、新たな覇権はどうなるのか。それが単純に、中国による覇権にならないのは先に述べた。
では世界は、覇権のない世界になるのだろうか。事態はそれほど簡単ではないと思う。
資本主義が世界的な体系となり、帝国主義の時代になって、世界の覇権は、一握りの超巨大独占資本によって握られてきたと言えるのではないだろうか。それら国籍のないグローバルな超巨大独占資本が英国を握り、継いで米国を握って覇権を行使してきたのがこの間の歴史だと言っても決して過言ではないと思う。
今、この超巨大独占資本は、米覇権の崩壊に直面して、どうしようとしているのか。一つの選択肢は、中国への乗り換えだ。しかし、それは容易ではないだろう。
実際、グローバル超巨大独占資本が狙っているのはそれとは違うようだ。狙っているのは、アメリカファーストをはじめ各国ファーストを土台にしたIT寡頭支配ではないだろうか。
アメリカファーストによる覇権はすでに4年前、トランプ政権発足時から開始したことだ。しかし、それがうまく機能しなかったのは、周知の事実だ。その上、コロナでトランプ政権は、2期まで続けることができず倒壊した。
だが、この路線自体は執拗に継続されるに違いない。バイデン新政権がオバマ路線ならぬトランプ路線を踏襲し、「穏やかで洗練されたアメリカファースト」を掲げざるを得なくなっていることがその何よりの証だ。
今や世界は、グローバリズムの時代ではない。自国第一主義、ファースト主義の時代であり、イデオロギーではなくアイデンティティーの時代だ。これまでの自由や法の支配など普遍的価値観ではなく、ナショナルアイデンティティーに基づく自国第一主義、ファースト主義こそが国民大衆の支持を得ることができる。
4年前のトランプの勝利がそれを証明していたし、今回敗れたが、コロナ対策の失敗にもかかわらず、歴代共和党候補最高の7200万票を獲得したことにもそれは示されていると思う。
ところで、覇権と「ファースト主義」とは本質的に矛盾している。米国の利益を前面に押し出して他国のファーストを認めず、その利益を侵害する覇権がトランプ米国のエゴとして非難ごうごう糾弾されたのは当然のことだ。
だからバイデンは、「洗練された」アメリカファーストで行くということだ。世界のグリーン化を喧伝し、脱炭素を基準に制裁を行うなどはその一環と言えるだろう。
そうした中、今コロナ禍にあって、全世界のデジタル化が進められ、それに基づいて、IT寡頭支配が一段と促進されている。米国のGAFA+Mと中国のBATH、9大IT資本が技術とデータ、資本を独占し、その覇権をめぐり熾烈に争奪戦を繰り広げている。
ITを制する者が世界を制する。今や金融も軍事もITと融合している。ITなしの金融も軍事もあり得ない。
アメリカファーストをはじめ、各国ファーストに土台を置きながら、それをグローバルな国境を越えたIT寡頭支配で統括する。ポスト米覇権、超巨大独占資本による新たな覇権のあり方への転換が見えてくるのではないだろうか。
■菅政権と国のあり方の転換
菅新政権は、「安倍政権の継承」を掲げ、「改革」を政策の基本として登場してきた。しかし、掲げられた看板と実際にやっていることとの間には、何か大きな乖離があるように見える。
何よりも目を引くのは、先述したように、何事も米国の言いなりだった前政権と比べ、新政権は、メディアの表現を借りれば、「全面追随ではない」ということだ。
その上にもう一つ、新政権の基本政策、「改革」は同じ改革でも、前政権とはかなり趣を異にしている。一言で言って、国のかたちを変えるという意思が強く表に出ていると言うことだ。
日本学術会議の人事に敢えて口を挟んだこと、デジタル庁の設立を掲げ、日本の経済社会のデジタル化を政策の目玉として打ち出していること、軍需産業の再活性化を図ってきていること、等々、枚挙にいとまがない。そこには、よく言われる「菅政権には国家観、国家像がない」どころか、「国家」が強く意識されている。
こうした前政権とは異なる新政権の特徴を見ながら見えてくるもの、それは、戦後日本政治からの転換、すなわち、日本の国のあり方の転換だ。
それが、米覇権の崩壊、覇権のあり方の転換と連動しているのは、新政権が超巨大独占資本の代理人とも言える竹中平蔵との連携を強めているのを見るまでもない。
竹中の言動などから見えてくる新政権による国のあり方の転換、それは、一言で言って、彼が言う「デジタル資本主義」「国家資本主義」などといった言葉に表されているように、国家が主導する国のデジタル化、グリーン化などといったことではないか。中国による5G覇権を超える6G通信の開発、脱炭素化を標榜する電動自動車の開発などを国家的プロジェクトとして大手大企業を支え推進することなどはその一端を示しているのではないかと思う。
グローバリズム、新自由主義の世にあって、国が国としての体をなさず、役割を果たすことがなかった日本からの転換だ。
それがアメリカファーストなど各国ファーストに基づくIT寡頭制という覇権のあり方の転換と一体であることが重要だと思う。
菅政権による国のあり方の転換、それは、対米従属から「ファースト」へ、戦後日本政治の転換というかたちをとりながら、その本質に置いて、米国への従属からIT寡頭支配への従属という従属先の転換に過ぎず、グローバル超巨大独占資本による覇権の下にあるという点では何の変わりもない代物なのではないだろうか。
言い換えれば、菅政権による国のあり方の転換は、「覇権のための国」から「国民のための国」への転換ではなく、従属する覇権のあり方が代わるだけの転換だと言うことだ。
その上、菅政権にあって、日本支配層による国民に対する「支配のための国」という側面は一段と強められることになる。
コロナ禍のどさくさで法制化された「スーパーシティー構想」や経済社会の全面デジタル化とその環としてのマイナンバーカード普及の促進などは、人々の「便利志向」を利用した極めて狡猾な支配と統制、独裁の強化だと言えると思う。
菅政権による日本の国のかたち、あり方の転換、それが「国民のための国」への転換ならぬ、それとは真逆の「覇権のための国」「支配のための国」のさらなるもう一段の転落であるのは明らかなのではないだろうか。
その集大成として、憲法改悪が目論まれているのは、次の国会で国民投票法改定が強行されようとしているところにも示されていると思う。
■問われる「国民のための国」への転換
今、日本でもっとも切実に求められていること、それは、国のかたち、あり方の「国民のための国」への転換であるに違いない。
コロナで衰弱し崩壊する経済の復旧のためにも、コロナにより生活が破壊され、不安と困窮に苦しむ人々の救済のためにも、そして何より、そもそもコロナ撲滅のためにも、今ほど国の役割が問われている時はない。
それは、この間のコロナとの闘いを通して人々が得た貴重な経験、深刻な教訓だったのではないか。コロナに無策で、GoToキャンペーンなど失策を繰り返す菅政権への支持率急落がそれをよく示していると思う。
問題は、今、こう提起されなければならないのではないか。「覇権のための国」「支配のための国」なのか、それとも「国民のための国」なのか。国のあり方をめぐる闘いこそが、今、切実に求められている。
わが国にあって、戦後一貫して、「国」が避けられてきた。「国」を言えば、軍国主義と烙印され、「国」は右翼、「国」に反対するのが左翼とされ、この左右が争い、保革、タカとハト、リベラルが争って政治が行われてきた。実際、今現在、コロナ禍にあっても、「国」はそれ自体、「強権」として退けられている。
覇権国家、米国が陰ながら支えてきた、この古い政治から脱却する時が、今、来ているのではないだろうか。
覇権のあり方が転換される中、菅政権の側が国のかたちの転換を訴え、「ファースト」を唱えてくるのが十分に予測される時、国民の側はどうすべきか。「ファースト」自体に反対して闘うのか、それともどちらが真の「ファースト」か、「ファースト」をめぐる闘いでの勝利を目指すのか。
それは言うまでもないことだろう。国民のための自国第一への転換、真の「ファースト」。それが覇権のため、支配のための偽りの「ファースト」への転換とどこがどう違うのか。そこで問われるのがそのための政策であり、その基礎となるナショナルアイデンティティーだと思う。
「国民のための国」としての日本のアイデンティティーは何か。それは、国民が自らの生活を成り立たせ、切り開いていくため拠って立つ日本という国がそもそもどういう国かと言うことだ。それに基づいてこそ、国民は日本が進むべき進路を定め、そのための政策を打ち立てていくことができる。
日本のアイデンティティー、ナショナルアイデンティティーをどこに求めるかと言っても、それはいろいろある。人によって、それは「軍国日本」「皇国日本」であるかもしれないし、「平和な国、戦争しない国日本」であるかもしれない。
そこで問われるのは、日本の国の悠久な歴史、特に有史以来の大惨事、第二次大戦を総括して、そこに日本の国としてのかけがえのないあるべき姿を見いだすことではないだろうか。
それに基づいてこそ、日本は、「国民のための国」としての自らの地位を守り役割を果たしていくことができるのではないかと思う。
このナショナルアイデンティティーに基づく「国民のための日本」の政策は、当然、菅政権の政策とは似ても似つかないものとなる。安保防衛、外交、経済、地方・地域、教育、社会保障、等々、すべての分野、領域に渡って、国民のためか、覇権と支配のためか、その対立、対決は鮮明だ。
それは、これまでの左右、保革の対立とは異なる対決点を持つことになるだろう。一言で言って、同じ自国第一であっても、国民の求める自国第一であるか否かだ。例えば安保防衛ならば、国を守るための力は必要だ。だが、米軍と一体になった抑止力ではなく、どこまでも自力の撃退武力と外交力だ。経済も、IT寡頭制の傘下に入る大企業中心のデジタル資本主義、国家資本主義ではなく、自力、均衡、革新の高度知識経済革命、民間と国家、地方地域一体となったプロジェクトだ。
2021年は、総選挙の年だ。ここで問われているのは、何をめぐっての選挙戦かだ。こちらの側から国のあり方をめぐっての政策戦を仕掛け、それを広く国民に問うことが問われているのではないだろうか。それを受けた国民自身が主体となって立ち上がる選挙戦になった時、日本の国のあり方を「国民のための国」に変える端緒が力強く切り開かれるのではないだろうか。
寄稿
202×年10月、ついにその日は来た。立憲野党の中の元気なグループが怒涛のように活動し、サンダース・オカシオコルテスを見倣って仲間を増やし、高齢者軍団の集合体「旧社会党」を味方にし、れいわ新選組の政策を取り入れ、共産党とも長年の衝突を克服し、さらに無党派層を巻き込んだ結果、総選挙で過半数の議席を得た。公明党の中からも「もう自公を卒業してこっちにつこう」という議員たちが現れて、あれよあれよというまに政権交代の日が来てしまったのだ。
■政権は政策次第
また政策が良かった。消費税は減税→廃止、コロナが収束するまで臨時給付金支給、奨学金は「当面、返済猶予」、水道料などの減免はずっと継続、富裕層には説得の上増税(納税増加額に応じて少しバックペイ)、宗教団体の課税も実施するが税率は協議の上、無理のない範囲で。保育・子育て・教育・医療・介護は基本的に公費と高所得者の利用料で、対米関係は平和条約に切り替え兵器爆買いを最小限化、アジアとは恒久平和相互援助条約・・・自衛隊は、需要が多く一番感謝されている災害救助・雪かき、お城の石垣の草取りなど民生出動予算を倍増、そちらの隊員を1・5倍の給料で募集・・・
■政治もやっぱり「人」だ
閣僚名簿は選挙前に作った。第一野党の枝野首相。官房長官は辻元清美。法相志位和夫・共産党委員長。総務相田村智子・共産党副委員長。女性活躍相福島瑞穂社民党党首。財務相山本太郎・れいわ代表。厚労相長妻昭。文科相水岡俊一(史上初の日教組出身)国交相+α公明党(1席増)国民党からも入閣・・・そうそう、小沢一郎さんには副総理席でにらみを利かせてもらい、女性閣僚は自公政権の倍以上だからあと二人ほど・・・これを有権者に明示してイメージを持ってもらい投票を促したのだ。
巨額を使って各地に作りかけたカジノはやめて、その半分のお金で、子どもと働き盛り世代と高齢者がそれぞれ遊べる施設を全国に設置。
■戦略選挙
これらのネクスト閣僚名簿と政策を提示した上で、全国の選挙区候補を完全一本化。泣いた人もいるが処遇はおこたりなく。統一候補はポスターに同一のシンボルシールを貼り、一体感でたたかった。忘れてはいけないのが経済。日銀と財務省のブレーンに松尾匡さん、井手栄策さんらを起用して思い切り腕を振るってもらい、経済的恩恵を市民に感じてもらうようにしたが、その効果実感は数年後かもしれない。しかし予測だけでも期待は大!
■さて選挙結果は?
圧勝とはいかないまでも、小差で野党連合が勝った。まあ今の時代、全世界で僅差の選挙結果が大多数だから仕方ない。しかし勝ちは勝ち。この機会を逃したり、2009年せっかく政権奪取したのに3年余りしか維持できなかった民主党の轍を踏まないように顧問団や政権監視機構も整備した。なお、首相も含めて、過ちを犯さず実績を上げないと解任になるよという「全閣僚行動規範」が提示され、就任前にサインが義務付けられた。
これでスタートした新内閣の支持率は7割を超え、1年間維持できて来た。間もなく行われる参議院選挙でも同様の戦略選挙が実施されて、ねじれ解消は確実な情勢である。電車に飛び込んでしまう人も、廃業せざるを得ない人も減り、中小・個人企業の業績が伸びたら大企業の収支もさらにゆとりが出てきた。資本家は明るい顔で賃上げ・福利厚生充実に努めはじめ、平和な国に生まれ変わった日本にアジアのマネーがさらに流入。政治が変わってほんとに良かったなあ、と言ったら夢が覚めた。でもこんな夢ならいつでも見たい!
書評
激しい雨が降る時にふっと、世界の中に自分という"存在"が生きている事の意味を感じる時があります。その瞬間、自然と共に暮らしていた時期に読んでいた本を思い出します。
『今日は死ぬのにもってこいの日』。著者のナンシー・ウッドは白人ですが、タオス・プエブロ・インディアン(ニューメキシコ州に現存する1000年の歴史が継続しているインディアンのプエブロ部族の集落)との30年以上に渡る交流の中で、インディアンの古老から聞いた言葉、口承詩がこの一冊にまとめられています。インディアンの死生観、哲学が描かれている本です。私が10代の時に、生と死について学んだ本の一つです。
子ども時代の私にも、力強くて、美しい世界観でした。何故かこの本を読むと心が満たされる感覚がありました。今なら少し分かるのですが、私には田舎に居ながらも祖母という存在がいませんでした。この本と自然が祖母のような存在だったのかもしれません。本の中で一番好きだった詩があります。
もしもおまえが
枯れ葉ってなんの役に立つの?ときいたなら
わたしは答えるだろう、
枯れ葉は病んだ土を肥やすんだと。
おまえはきく、
冬はなぜ必要なの?
するとわたしは答えるだろう、
新しい葉を生み出すためさと。
おまえはきく、
葉っぱはなんであんなに緑なの?と
そこでわたしは答える、
なぜって、やつらは命の力にあふれているからだ
おまえがまたきく、
夏が終わらなきゃならないわけは?と
わたしは答える、
葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ。
死を知る事は命を頂く意味を知り、生きる命の儚さを知り、自然の仕組みを理解する事なんだと思います。私は小さな時から鶏を捌き、自分の手で命を頂く体験をしてきましたが、今は簡単に食べ物が手に入る時代です。それでも誰かが鶏、豚、牛を捌いているから食べられます。
魂は自由でも、命には終わりがある。それは植物から動物、人、みんな平等です。けれど、人は欲が多く自然のように泰然とそれを受け入れるのは難しい。それでも、この本には死を恐れない生き方が描かれています。
死を恐れない生き方について、大人になればなる程、恐れが増えて臆病になってしまいます。
私は10代の頃は環境が厳しく、生きるためにも働かなければならなく、今よりも必死に生きていました。人と自然は同じ命なんだと、葉っぱに終わりがあるように、私にも終わりがいつか訪れる事を感じると、不思議と私自身が自然の一部なんだと知ることができて、心が救われていました。
それでも、生きるとは? 死ぬとは?と考える事がきっと、どの年代になってもある気がします。人生が何年あるかわからないけれど、この本に出会えてよかった。だから、この先何度もこの本を私自身が思い出してほしい。読む度に、人は自然から離れ過ぎると不自然になってしまうと教えてくれる。最後に、私が今この詩と同じ感覚で、故郷を思い出していると感じた詩です。
わたしは醜いものを眺めながら、そこに美しいものを見る。
はるかわが家を離れていながら、故郷の友たちに会う。
うるさい音を聞きながら、その中にコマドリの歌を聞く。
人込みの中にいても、
感じるのは山の中の静けさだ。
悲しみの冬の中にいて、思い出すのは悦びの夏。
孤独の夜にあって、
感謝の昼を生きる。
けれど悲しみが毛布のように広がり、
もうそれしか見えなくなると
どこか高いところへ目をやって
胸の奥深くに宿るものの影を見つける。
どんなに離れて暮らしていたとしても、故郷は私の側で呼吸をしている。
この新しい一年もこれまでと変わらずに。
コロナ感染症に対してワクチンも有効な治療法もない状況下では、限られた医療資源をどのように活用して日本全体の医療体制を維持するのか、医療崩壊を防ぐためにいかにして感染者数を減らすのか、経済的に困窮している人をどのようにして救うのか、このようなことは政府、厚労省、各自治体の政策、トップの力量にかかってきます。
コロナ感染症に対する対応は非常に難しい。それは認めますが、貴紙に書かれている通り日本政府のコロナ感染症対策は精神論だけで具体的には何もやっていないに等しい。GOTOトラベル、GOTOイートは経済的にも時間的にも比較的余裕のある人に対して税金を使って旅行や飲食をすることを奨励する政策であり、本当に経済的に困っている人に対する援助ではない。
GOTOが一定の経済効果を生み出したとする説もありますが、金をばらまいているのだから当たり前のことで、結局は将来国民の負担となって返ってきます。「少しでも得したい」という心理を利用した卑しい政策であり、菅首相が自分の功績として自慢している「ふるさと納税」やインバウンドツーリズムの要とする「IRカジノ誘致」と同じ天下の愚策と言わざるを得ません。さらに政府の政策に反対する人には目を光らせており、裏から圧力をかける。日本医師会の中川会長が11月18日の記者会見で、「政府の旅行支援策語GOTOトラベルが感染拡大のきっかけになったことは間違いない」との見解を示しましたが、すぐさま翌日自民党から呼び出され、その発言に対して自民党の議員から吊るし上げられたとのことです。そのことがあって後、12月14日に菅首相がやっとGOTO停止の方針を打ち出した時に、中川会長はその遅れを批判することなく「首相の英断に深く感謝する」と述べ、その夜の首相のステーキ会食に対しても「それはそれで構わないのではないか」と首相の立場を擁護するものに変わっていました。
元々自民党支持で学術的機能を持たない利害団体である日本医師会に多くを求めるのは無理かもしれませんが、医師会以外に医療従事者の立場を守る団体はない現状で、この姿勢の変化は残念です。
東京都医師会の尾崎会長だけは堂々と正論を述べていますが、彼は自分の身を捨てても、自民党からの圧力に屈しないという強い覚悟があるように思われます。自分達の無策を恥じることなく、政府批判は許さないという菅首相の官房長官時代からの姿勢は全く変わっていません。夜間の労働がいかに大変か。自主性さえあれば自分の身や家族を犠牲にしてでも働く覚悟の医療関係者は多数います。しかし、その情熱を引き出し、継続させるだけの誠意が菅首相以下今の政府には感じられない。「首をすくめてじっとしていれば嵐は過ぎ去る」「医療関係者の努力と国民の自主規制でどうにかなるだろう」という首相や自民党幹事長の姿勢に対して大多数の国民は何の期待もしていないのではないでしょうか。メルケル首相のスピーチに感動したとする意見が数多く寄せられているのは、間接的に日本の首相を批判していることに外なりません。
「アジア新時代と日本」編集委員会 〒536-8799 大阪市城東郵便局私書箱43号
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