研究誌 「アジア新時代と日本」

第210号 2020/12/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 崩壊する米覇権、問われるアイデンティティ 

議論 米中新冷戦、日本が進むべき道は?

議論 コロナ大流行、一年が経って

100年の物語(2)

寄稿 二度目のコロナ冬

読者からの便り




 

編集部より

小川淳


 種子は「公共財」という原点に戻れ
 12月2日、「種苗法改正案」が国会で可決成立した。
 種子が農家にとっていかに貴重なものか、私も畑を耕しているので良く分かる。種子の良し悪しで作物の出来は大きく変わるからだ。1952年成立した「種子法」は、コメ、麦、大豆など主要作物について定めたものだが、優良な品種の生産と普及を「国がすべき役割」と定めている。食糧確保に不可欠な優良な品種は「公共財」として国が責任を持って守っていく、これが「種子法」の基本的な考え方だ。
 どのような作物も「自家採種」は可能なのだが、同じ種を何年も使い続けると段々と生産量は落ちていく。栽培とはまた別に種子は作っていく必要があり、その開発と育成には膨大な時間と労力がかかる。一つの品種の開発には約10年を要するという。種子の生産を実際に行うのは都道府県で、南北に長い日本の国土の特性から、地域の土壌や気候にあった品種の開発を都道府県は行ってきた。ここで生まれた優良な品種が、たとえば「あきたこまち」や「ひとめぼれ」など「奨励品種」として農家に供給される。種子法によって日本農業は築かれたと言っても良く、外国には見られない大変優れたシステムだった。ところが、「民間の品種開発意欲を阻害する」という理由で、この「種子法」も2018年4月に突然、廃止となった。
 一方の「種苗法」は、コメや野菜など新品種を開発して登録した場合、開発者の「知的財産権」の保護を目的とする。同時に「種苗法」は、農家が購入した種や苗を育て、種を採取して再び育てること、つまり「自家増殖」をこれまで認めてきた。ところが今回の「種苗法改正」では、この「自家増殖」が原則禁止となった。「自家増殖」を許可制にし、開発者に栽培地指定の権利を与え、違反者には罰則を課す(故意に国外に持ち出した場合、懲役10年以下1000万円以下の罰金)など、開発者の権利保障を強く打ち出したものとなっている。
 懸念されるのは、種子の開発と普及を行ってきた「国の役割」を企業が担うようになれば、モンサントなど三大メジャーの日本進出を一挙に促すことに繋がらないかという点である。日本が蓄積してきた優良品種の遺伝子を活用した新品種で彼らが「特許」をとることも可能となる。
 新潟や東北の農業県では種子法を守る条例の動きも出ている。国がやらなければ地方からでも動かしていくしかない。
 種は「公共財」である。「公共財」であるからこそ国は種子の開発と普及に責任を持つ。外国のメジャーが日本の種子市場を狙っている今だからこそ、もう一度、この日本農業の原点に立ち帰る時ではないかと思う。



主張

崩壊する米覇権、問われるアイデンティティ 

編集部


 コロナで明け、コロナで暮れた2020年にあって、見えてきたものがある。
 それは、米覇権の崩壊とアイデンティティを求める時代の基本趨勢だ。このことが日本にとって何を意味しているか考えていきたい。

■完全に表面化した米覇権の崩壊
 今年一年を振り返って、鮮明になったことがある。それは、米覇権の崩壊だ。
 米覇権の崩壊は、十数年前、ブッシュ政権の末期、イラク、アフガン反テロ戦争の泥沼化、それに伴う米一極世界支配の行き詰まり辺りから顕在化してきていたと言うことができる。
 オバマ政権はそれを一段と進行させ、トランプ政権は、それ自体が米覇権崩壊の象徴だったと言えるのではないか。
 それが完全に表面化したのが今年の特徴ではないかと思う。
 コロナ禍は、国境を無くし、小さな政府の下、医療福祉の極小化を図った究極の覇権主義、グローバリズム、新自由主義の矛盾の爆発だと言えるし、米国が仕掛けた「米中新冷戦」は、中国との競争で劣勢が明確になった米国の最後の生き残り戦略だと言うことができる。さらに、先の米大統領選が、理念もビジョンも何もない、両候補の悪態のつきあいに終始したのも、覇権国家の終焉を端的に物語っていたのではないだろうか。
 もう一つ米覇権崩壊の表面化を挙げるとすれば、自民党総裁選があると思う。登場した菅新政権は、これまでの自民党政権が、多かれ少なかれ、そうであったように、米国に推されてつくられた政権ではない。中国への敵対を求める「新冷戦」に対し、この政権が全面追随していないところにもそれは歴然としているのではないか。

■今、イデオロギーが問われているのか
 崩壊が表面化した覇権の建て直しのため、米国がしがみついているのは、イデオロギーだ。「米中新冷戦」を宣言しながら、米国務長官ポンペオが突き付けてきたのは、「自由主義か全体主義か」だった。どちらのイデオロギーを選択するのかと言うことだ。
 これまで米覇権だけでなく、覇権という覇権は、古今東西すべて、圧倒的軍事力、経済力とともに、イデオロギーによってきた。古くは、仏教、キリスト教など世界宗教によって。新しくは、自由と民主主義、法の支配など「普遍的価値観」によって。
 70年前、米国が「米ソ冷戦」を引き起こし、「資本主義か社会主義か」、イデオロギーを突き付けて、世界を「西側」と「東側」二つに分断し、前者への覇権と後者への封じ込め、G2覇権体制をでっち上げたのも同じことだ。
 しかし、時代は変わった。今日、「自由主義か全体主義か」とイデオロギーを突き付けられ、米国に言われるまま、対中国敵視の道を選択する国が果たしてどれくらいあるだろうか。
 実際、この間、米国が突き付けた「新冷戦」のための、クアッド構想(アジア版NATO),「クリーンネットワーク計画」など対中国包囲・排除の戦術に参加の意を表している国は、今のところほとんど無い。
 イデオロギーで世界を分断し、覇権できた時代は終わったのではないだろうか。

■求められているのはアイデンティティだ
 自由と民主主義、法の支配などイデオロギーと覇権は一体だ。覇権が崩壊する時代にあって、覇権のためのイデオロギーが力を失うのは当然のことだ。覇権崩壊の今、覇権のためのイデオロギーで人々は動かない。代わって人々を突き動かすようになっているもの、それは、アイデンティティではないか。それが今、世界の基本趨勢になってきているように思う。これまで覇権によって抑え込まれ、眠り込まされてきた自分のものへの要求が覚醒され、その実現が追求されるようになってきている。それは、この間、当の覇権国家、米国にあっても、民主党が提唱する「アイデンティティ・ポリティックス」などとして、黒人やヒスパニックなどマイノリティ、性的少数者など少数派のアイデンティティを擁護し実現する政治、運動として現れてきている。
 今年も、そのイデオロギーからアイデンティティへの世界的基本趨勢は、一層力強さを増してきたように見える。大方の予想を覆した大阪都構想での維新敗北の底には、大阪市の廃止を嫌う大阪市民の「大阪愛」があったし、米大統領選の結果の背景には、コロナ対策で米国民の生活を破壊したトランプへの怒りがあったと同時に、破れたとは言え、予想をはるかに上回る7200万という前回をも上回る票がトランプに集まったところに現れているように、怒りと根元を同じくする「アメリカ・ファースト」への根強い支持と共感があったと見ることができる。バイデンが勝利宣言をしながら、「赤でもなく青でもなく、アメリカだ」とアイデンティティを強調して、「分断」ではなく「融合」を訴えるしかなかったところにもそれは現れているのではないか。
 実際、今、世界は「アイデンティティ・ポリティックス」の時代に入ってきている。そこで問題は、それが少数派分立、乱立、分断の政治になっていることだ。
 それに対し、民主党内左派のオカシオ・コルテスらが米国を「移民の国」だとしながら、そこにアイデンティティを求めることを主張してくるようになっているのは注目すべきことではないだろうか。

■日本としてのアイデンティティはどこに
 アイデンティティは無数だ。人の数だけある。集団の数も半端でない。そのすべてがかけがえがない。どれを実現し、どれは実現しなくともよいなどということはあり得ない。一つの漏れもなくすべてを実現するのがアイデンティティだ。
 しかし、そんなことができるのか。そのための鍵は、人と集団すべてを包括する国としてのアイデンティティを実現するところにあるのではないかと思う。
 「移民の国」としてのアメリカのアイデンティティが実現されてこそ、白も黒も黄もヒスパニックもなく、少数派も多数派もなく、どの人、どの集団、一切の差別なく、すべての人、すべての集団のアイデンティティを皆、実現していくことができるようになる。
 では、日本の場合はどうなるか。日本としてのアイデンティティと言った時、「軍国日本」を思い浮かべる人が少なくないという。だが、これでは国としてのアイデンティティを実現することがすべての集団すべての人々のアイデンティティを実現するための鍵になるなどあり得ない。
 鍵になるには、われわれが思い浮かべる日本のアイデンティティがわれわれ日本人の生活と運命を託しそれを切り開いていく主体としての日本のアイデンティティにならなければならない。
 そこで決定的なのは、あの戦争だと思う。第二次世界大戦、あの有史以来の、日本をこれ以上にないどん底に突き落とした大惨事の総括を抜きに、一億二千万、すべての人々のアイデンティティを担って時代を切り開く、主体としての日本のアイデンティティはあり得ないと思う。
 対米従属の下、今の日本にアイデンティティがないと言われる根因もまさにここにあるのではないか。総括のないところに、主体としてのアイデンティティはあり得ない。
 戦後75年、日本は、米覇権の下、自らの歴史に正面から向き合わないまま、米国による米国の歴史観を受け入れてきた。
 今日、米覇権崩壊の現実が表面化する中、日本としてのアイデンティティが問われ、あの戦争の日本としての総括が問われてきていると思う。
 一つは、あの戦争の総括からすっぽりと抜け落ちてしまっている、アジアへの侵略、アジアとの戦争の総括だ。その不正義と誤りの総括抜きにあの戦争への総括はあり得ない。
 もう一つは、あの戦争を「自存自衛」の戦争とした皇国史観の捉え方、「国際秩序への反逆」とした米国史観による規定の奥にある根因、明治以来の日本の総路線、「脱亜入欧」自体の総括が求められていると思う。
 そこから出てくる日本のアイデンティティは何か。アジアとともに進む、アジアの一員としての日本、アジアの内の日本の姿が浮かんでくる。
 未来に向けて日本が進むべき道、そのための日本独自の日本のためのイデオロギー、理念、路線、政策は、この日本としてのアイデンティティに基づいてこそ、われわれ自身、自らの頭、自らの手で、生み出していけるのではないだろうか。今、そうした時が開けてきていると思う。



議論

米中新冷戦、日本が進むべき道は?

永沼博


 新冷戦。トランプ政権で国務長官ポンペオが打ち出した米中新冷戦戦略。バイデン政権でこれがどうなるか。その名を使うかどうかは別にして、新冷戦戦略そのものは変わらない。何故ならば、これは米国の覇権維持・建て直しのための最後のカケとも言うべきものだからだ。
 バイデンは、「自由と民主主義」を掲げた「国際協調」を唱えるが、それは「米中対立」を「自由主義対全体主義」として描き「どちらに付くのか」と迫ったトランプ政権と同じものとなる。
 バイデン政権でも米国の新冷戦戦略は変わらず、日本はこれへの対応如何を問われる。

■菅政権の対応は如何に
 今、日本の保守層は「米国は頼りにならない」という共通認識をもっている。そうした中で、保守派の論客、北岡伸一氏が読売新聞「地球を読む」欄に寄せた寄稿文で「"太平洋連合"構想」なるものを提唱している。それは、先ず日本を中心に「中国外し」のASEAN諸国と「西太平洋連合」をつくり、これにオーストラリア、ニュージーランドに大洋州諸国(大洋州の島々)を加えて「太平洋連合」(PU)を作るというもの。
 そして、「これには、中国も米国も入れない。東南アジアには米国に強い抵抗感を持つ国もあるからであり、これを知る米国も日本を通じて間接的に結びつくほうが有効だと判断するからだ」と解説する。
 即ち、「米中対立」という新冷戦構図の中でその間隙を縫って日本がアジアのリーダー(盟主)になるという覇権主義的な構想だ。
 菅政権は、これを狙っているのではないか。しかし、アジアの盟主たらんとする小覇権は米国覇権を補完するものにしかならない。
 かくて日本は米国の新冷戦戦略の先兵にされる。それが本当に日本の進むべき道だろうか、他に道はないのか。

■ヒントはRCEPにあり
 米国にも付かず、中国にも付かず、そして米国も「有効」として容認する、日本のための自主的な道。ヒントは11月に締結されたRCEP(地域包括的経済連携)にあるのではないか。
 RCEPはオバマ政権下で米国が主導してきたTPP(還太平洋自由貿易圏構想)と比べ際だった特徴をもっている。
 それは第一にアジア域外の国の参加拒否。第二に各国の自主性を尊重していること。日本がTPP交渉で「死守する」としながら譲歩を強いられたコメや豚・牛肉、乳製品などの「重要5品目」も対象からの除外が認められた。
 RCEPについては、中国主導という見方があるがそれは違う。この構想はASEANがASEAN+3(日中韓)として推進してきたもの。この時、ASEAN諸国は、TAC(東南アジア友好協力条約)の締結を参加条件にした。
 TACとは、東西冷戦時代、「どちらの陣営にも付かない」としてアジア、アフリカ諸国がインドネシアのバンドンに会し「自主権尊重」を基本原則とし、外からの干渉拒否、内政不干渉、紛争の話し合い解決などを内容とするバンドン宣言を発した、それを踏襲したものである。
 日本は、この時「TACって何?」であり「そんなもの結べば米国が黙っていない」であった。とりわけ「米国外し」は問題ではないかと。そこで日本が考え出したのがこれにオーストラリア、ニュージーランド、インドを加えるというものだ。そしてTPP交渉への参加と前のめり。
 しかしトランプ政権のTPP離脱の中で進むRCEP交渉。それを無視できなくなっての締結。その理由を日本は「米国を国際協調へ引き戻す呼び水になりうる」と言う。
 今、米国のTPP復帰が取り沙汰されているが、両方に参加する日本は米国がRCEPへ関与をできるように「策動」する可能性は高い。それは、RCEPの「域外の国の参加拒否」「各国の自主権尊重」という根本理念を損なうものとなる。
 日本は、そうした「策動」にうつつを抜かすのではなく、RCEPが目指す、「主権尊重」に基づき互いに協力し全体の平和と繁栄の道を誠実に進むべきである。脱覇権が時代的流れとなる中、日本の進むべき道は、なおさら、「この道」なのではないだろうか。


 
議論

コロナ大流行、一年が経って

東屋浩


 昨年12月に中国・武漢で新型コロナウイルスによる患者が発生してから、はや一年になる。今なおコロナウイルスの感染は拡大の一途をたどっており、感染者は7千300万人、死者は163万人を突破した。(12月16日現在)。日本でも全国的に感染が拡大し、重症者・死者が増大している。そのため、社会経済活動が大きな制約を受け、大学生・高校生の就職率は激少し、非正規労働者が雇い止めになり、飲食業だけでなく中小企業全般が打撃を受けている。この一年、コロナ禍が示したものは何だったのか、主な問題を考えていきたい。
 第一にコロナ対策と経済の並行路線の過ちだ。
 並行路線は事実上、経済優先でコロナ対策を後回しにするものだった。封鎖や制限で経済活動が制約を受け、コロナ感染以前に生活自体が困難になり、経済活動再開が切実な要求となった。しかし、コロナ対策を優先させ徹底的に抑え込まなければ、結局は経済活動もできない。
 現在、欧州や日本で感染者が急激に増加しているのは、経済優先のためコロナ対策を疎かにしたからだといえる。もし検査と隔離、防疫とコロナ対策宣伝を強化していれば、コロナ禍を抑え、正常な経済活動を段階的に軌道に乗せることができたであろう。しかし、ウイズコロナとかコロナなど怖くないという宣伝がなされ、G0T0キャンペーンが行われ、それがコロナにたいする安逸と無警戒を生みだし、結果は第二波以上の感染の拡大となっている。
 感染症対策は人々の生命と健康を守る第一義的な活動であり、すべてに優先させるべきものだ。
 第二に、国民の生命を守ることを国の第一の使命とし、そのための国の戦略を立て、国の役割を高めることだ。
 経済を優先させたのは、国民の生命と暮らしを守ることを国の第一の使命にしなかったからだ。安倍政権や菅政権は検査を症状の出た人に限定し、海外からの入国者や軽症患者を自宅隔離にし、重症者だけを入院させるという措置をとった。無症状の感染者が放置されたため感染が拡大するしかなかった。県や個人の自己責任に委ね、国として全面的に責任負ってコロナ対策を講じなかった。
 日本は中国のように封鎖することはできないという声がある。しかし、和歌山県、北九州市が検査を優先させ、無症状感染者を隔離、治療し、制圧に成功している。北九州市は保健所での検査が限界あるので、民間を活用しドライブスルーを取り入れて検査数を増やし、今では第三波を迎えることなく抑えこみ、経済活動も再開させている。
 国がコロナ対策で全責任を負い、医療関係者を動員して検査を大々的におこない、医療従事者と医療物資にたいし保障し、人々の生活をケアしていけば、コロナを抑えることができただろう。
 第三は、グローバリズム、新自由主義の破綻を示したことだ。
 国の役割を否定してきたのは、グローバリズムと新自由主義だ。世界的な感染拡大により国境を越えたモノと人の自由な移動ができず、供給網も切られた。マスクひとつ作らない日本の対外依存の体質の弱点が露呈しただけでなく、ベッド数を減らすなど医療の削減、競争主義による格差がさらに人々の生命と暮らしを直撃した。
 グローバリズムと新自由主義は、国と民族を否定し地球的規模で弱肉強食の競争を繰り広げ、世界を支配しようとする究極の帝国主義だといえる。
 その発祥地である欧米がコロナウイルスを制圧できず、各国が数百万以上の感染者を出し、医療崩壊までに到り、なす術もない状態に追い込まれている。とくに米国がそうだ。超大国で文明を誇ってきたはずの国が感染者、死者ともにもっとも多く、その増大の勢いを止めることができないでいる。米国の権威は完全に地に墜ちた。
 このことは、グローバリズム、新自由主義でないまったく新しい社会原理による国と社会建設を模索することを求めていると思う。しかし、菅政権は新自由主義改革とグローバル経済にしがみつき独裁的手法で古い統治を守ろうとしている。
 今や、国民の生命を守ることを第一にした日本という共同体(国)を創っていき、その国の役割を決定的に高め、格差を生み出す競争主義ではなく協力と団結により社会を発展させることを社会の原理にしていくことが求められているのではないだろうか。



 

100年の物語(2)

平 和好


                

■中国の土
 1947年、父が連れて行った若妻は、牡丹江に取り残された。現地中国人民は日本の侵略・植民地支配に国土も人命もズタズタにされ、食べるのがやっと。共産党軍が東北地方は強かったが、国民党との内戦にぼう大な力を必要としており、残留日本人の事まで手や心が回らなかったのは当然だ。インフラも日本軍が引き上げる時に破壊して行って再建は大変だったと資料にある。ソ連と中国のせいで日本人開拓団25万人が犠牲になったと右翼などは言うが、中国の大地と膨大な中国人民の生命を奪ったのは「開拓団」も共犯であると言わざるを得ない。中国・朝鮮人民の犠牲者は1千万とも2千万ともいわれている。

■ソ連の遺族は数百万!
 ソ連・スターリンの残虐を言う論調も多いが、例えば牡丹江はソ連国境から百キロしかない。そのシベリアに直線距離でも千キロ以上離れた日本が1918年、7万人もの軍隊を4年間にわたり派遣してロシア革命の圧殺を図った。この時、日本をはじめとする帝国主義軍に殺されたロシア人は40万人。日露戦争でも8万人以上のロシア人が殺されている。牡丹江から数百キロ余りの位置のノモンハンをはじめソ連軍死者はわかっているだけでも数十万に達する。731部隊の人体実験に供された犠牲者にはソ連の捕虜も含まれている。四捨五入すると合計100万人を殺されたロシア・ソ連は遺族だけでも数百万人に達する。その遺族が兵士となり進駐した地域で完全な人道主義を日本が声高に要求するのはいかがなものか? 偽満州国は日本軍がおとなしく中国人民に返したのでは無い。居座る日本軍の武装を解除したのは強力なソ連軍の武力である。
 「開拓団の悲劇」だけを声高に言う論調にはそもそも侵略者の自己反省がない。
 話を戻すが、父が抑留から帰国出来て相当経ってから調べたところ、若妻豊子さんは1947年頃日本人村で病死したそうだ。30才になったかどうかという歳頃。後年、父はその中国へ行こうとしなかった。心中察して余りある。生活に手一杯だったのと、再婚して子どもも出来、死別した辛さも、現妻への遠慮も、あっただろう。私の母が、事実を知った私に「かわいそうに、連れて行かんかったらよかったのに」と父の死後一度だけつぶやいた。これも万感がこもっていた。一時的に良い目をしても、侵略した方も決して幸せにはなれない事を痛感する実話である。後年、日中友好瀋陽、長春、ハルピン、牡丹江をめぐる旅に参加した私は、すでに亡くなっていた父の写真を牡丹江の美しい川のほとりに埋めてきた。「何十年ぶりに父を連れてきましたよ。」と豊子さんに語り掛けながら。若いままの豊子さんは、ものが言えたらどう答えてくれただろうか?

■帰還策を取らなかった日本政府
 生きて帰れなかった満州移民は25万人と言われている。日本人を安全に帰国させる責任は唯一、日本政府が持っていたが、何もせず。つまりその犠牲を強いたのは日本政府である。敗戦と同時に「侵略しておいて言える義理ではないのですが、鉄道・車両・船舶・航空機を日本政府の負担で動かして満州移民を連れ帰りたいので通過の便宜をお願い申し上げます」と中朝の政権に頼み込めば、相当数の同胞が助かったであろう。出来ないとは言わせない。関東軍や満鉄の幹部はソ連軍進駐のはるか前に、日本へ逃げ帰っていたのだから。25万人の犠牲が出た原因は日本政府が国策として満州を侵略し、引き上げ策を無作為で過ごした事にあり、中国・朝鮮・ソ連を責めるのは筋違いと私は断言する。ロシア人百万、朝鮮・中国2千万の犠牲の責任は日本にある。それもあってか、父は「露助」と蔑称を言いつつ、息子.を赤軍合唱団ロシア民謡コンサートによく連れて行ったり「中国人に日本軍はひどい事をした」が口癖。私「どんなひどい事?」父「ひどすぎて言えん」。



寄稿

二度目のコロナ冬

大森 彩生


私はどうしても怒ってしまいます。
この冬は以前のようなクリスマス、忘年会はできないだろうという事は、春の段階でみんなが感じていた事だと思います。
けれど春からこの冬までの間になにをしていたのかなって思ってしまうくらいに、国は行動や考えを示すのが遅い。(なのに、どうしてか改正種苗法は2日の参院本会議でスピーディに可決、成立)。 GOTOキャンペーンって少し余裕のある一部の人しか恩恵を受けられないものだが、国民を動かしてコロナが増えるのも想像していたとおりになり、キャンペーン停止、またしても旅行会社はキャンセル対応等に追われています。
そして自殺者の急増。10月だけの自殺者数が、現在までのコロナ死者数を上回ったとのことです。1ヶ月で、1年のコロナ死者数上まわるって…。
私は亡くなった方の理由を知らないです。ですが、国に、社会に、罪がないとは思えないんです。私にはそうは思えない。
今回のコロナ禍で会社をギリギリで守れて社員も解雇してない会社があれば、倒産し解雇されてる人々がいます。
ずっと働きまくりの人生で、突然のコロナによるストップ。心が病んで未来に希望が持てなくなった人々。それぞれ抱えている問題は違います。それは分かっているけれど、でも、国は守れる命を守ろうとしてないことに私は怒りを隠せなくなります。
本当にいつまで私たちはこの状態に踊らされなくてはならないのでしょうか。
ウルグアイのムヒカ前大統領がスピーチで話していた言葉でこのようなものがあります。
「我々の前に立つ巨大な危機は環境危機ではありません、政治的な危機なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短く、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも大事なものは存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです」。
まさに今、この不況のお化けが現れています。
そして、私たちは本当に発展するために生まれてきているわけではなく、幸せになるためにこの地球にやってきたっていうことにもう一度向き合い、死にたくなるような世の中を育てていく、そんな私たちの生き方や社会をやめたい。
その為にどうすれば良いのか私はわからないでいます。
また耐える時期がはじまり、その準備がさらに必要になります。
いちばん必要な準備は人それぞれ違うと思います。お金、感染対策、支援、様々です。
でも、みんなに一番大切なのは"心を守る"事です。
家から出られなくて、仕事も無くなったらDV、コロナ鬱が流行りました。人は本当に鈍感です。傷つくまで頑張ってしまいます。
もうこれ以上は傷つく必要はないと、ここ最近はすごく思うんです。
愛は傷つく事を恐れてはいけない、若い時に買ってでも苦労はしろ。
それはほんとにそうだと私は思います。
でも、もう今は傷つくことも、苦労も必要ないんじゃないかなって思うんです。
来年の春には心がもっともっと豊かであるように自分の心を守ること。

"憲法の第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。"

人生はとっても不公平だけど…
生きてみないと、生き抜いてみないとわからない。でも、死にたくなるような国が悪い。
だから、死んじゃいけないよ。世界は変わる。わたし達が生きていれば変化する。
きっと…そう思って微力でも行動し私はこの私の中の怒りと現実と向き合っています。



 

読者からの便り

P・T


 アジア新時代、お送りありがとうございます。
 コロナ感染者数が日増しに増えていますが、あれだけ人が移動して飲食すれば、ふつうに広がりますよね。
 私の職場である書店でも連休中の賑わいは相当なものでした。
 まるで想定していなかったかのような政府、府、市のドタバタぶりをみていると、そもそも権力を預けてよいものなのかどうか。
 それでも18歳〜29歳の菅政権支持は80%だとか。この層はトランプすら支持するそうです。
毎日新聞でみました。
 日本の「Z世代」(いまの若年世代のことです)の権威主義体質は顕著ですね。
 がんばっている若い人たちをもっと励まして、連帯したいですね。ぼくたちが身体を張らないと・・・。
 アメリカではまた事情がちがっていたりするらしいです。
 サンダース支持者にも若者が多かったような・・・。アメリカのZ世代は移民の子たちも多いので、人口も圧倒的に多いそうです!今回の大統領選挙に、有権者として初めて参加した若者が多くいたのかもしれませんね。
 ますます寒くなりますが、どうか、ご自愛ください!

*Z世代とは、アメリカで生まれた言葉で、1960年から1974年生まれを]世代、1975年から1990年代前半生まれをY世代と定義した流れから1995年から2000年生まれの世代をZ世代と名付けた。10代からソーシャルメディアに触れてスマホを使いこなすソーシャル・デジタルネイティブと定義されている。
 Z世代には4つの特徴が指摘されている。1、社会問題への関心が高い。(スウェーデンのクレタさんなどはその代表かも)2、生活の中でSNSとデジタルデバイスの比重が高い。3、自分だけの個性を追求する。4、個性と多様性の融合(互いの個性を尊重し様々な価値観を受け入れようと言う考えをもっている)。だそうだ。
 日本のZ世代は権威主義的傾向が強いのか? Z世代、興味が湧きました! (編集部)


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