研究誌 「アジア新時代と日本」

第206号 2020/8/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 「敵基地攻撃能力保有」と闘う論理

主張 大阪都構想との闘い、その対決点は何か

議論 今、「国」を問う

議論 米中対決と日本の在り方

寄稿 特別定額給付金をめぐって 

投稿 コロナ、出口戦略について思う

エッセー




 

編集部より

小川淳


 安倍・自民党の「身勝手」を許してはならない
 コロナ感染者がじわりじわりと増え続けている。日常生活の再開とともに増え続け、収まる気配はない。
 ニュースのたびに感染者数に一喜一憂する。コロナ過はいつまで続くのか。コロナ・パンデミックがこのまま継続していけば、「収入を絶たれて死ぬ」人が続出するだろう。経済が再開しても、以前の日常は戻らない。以前の日常がもどらない中で、なんとか4月から耐え忍んできた中小企業や個人事業主、非正規雇用者などが、次々に廃業、解雇、雇い止めに追い込まれている。日本はまさに国難の只中にある。
 これまで選挙のたびに「国難」を叫び、選挙に勝利してきた安倍首相が、この本当の国難のさなかに、テレビから消えてしまっている。さぞや国難に強い首相と思った国民もいただろうが、期待を裏切られた形だ。あれほどスタンドプレイが大好きで、嫌というほどテレビで拝見していたあのマスク姿が画面から消えてしまうとは、いったい何があったのか。
 国難の時ほど国民の先頭に立ち、国難に立ち向かい、国民を鼓舞する、それが一国のリーダーというものだろう。比較はしたくはないが、今、コロナを克服しつつあるいくつかの国(ニュージーランド、韓国、オーストリア、ドイツなど)は、間違いなく国難に立ち向かうしっかりとしたリーダーがいる。
 8月6日、安倍首相は広島で49日ぶりの会見に応じたが、質問は事前に通告された4つのみ、わずか16分で打ち切られ、足早に立ち去った。居合わせた記者によると「一刻も早く逃れたいという気持ちがにじんでいるようだった」という。
 これは与党も同じだ。野党4党による憲法の規定に基づく臨時国会の召集要求(これは国民の切実な声でもある)を、自民党森山国対委員長は真摯に向き合うことなく、にべもなく断っている。なぜ与党自民党は国会召集に後ろ向きなのか。国会を開けば、コロナ過の蔓延のさなかにGoToトラベルを行うという「ちぐはぐさ」が当然にも追及されるだろうし、公職選挙法違反に問われた河井夫婦の1億5千万の出所も追及される。いま「国会を開けば傷口を広げる」(朝日新聞)というわけだ。安倍首相にすればこれらの追求からなんとか逃れたい一心なのだろう。このまま政権を維持しても支持率もじり貧となるばかりだ。ならば議席を減らしても政権延命のために解散総選挙に打って出るのではないかという憶測も続いている。国民が塗炭の苦しみにあえぐこの国難のさなかに、政権延命と首相の保身のために、総選挙など、かような身勝手、もってのほかを許してはならない。
 「危機と闘う陣頭指揮に立つ意欲も失っているなら辞めるべきではないか」(枝野)。まさにそのとおりである。



主張

「敵基地攻撃能力保有」と闘う論理

編集部


■陸上イージス断念は安保戦略改定への序曲
 安倍政権が「陸上イージスの配備計画停止」を決めた、まったく唐突に。
 その理由を、「迎撃ミサイル発射時に落下するブースターが住民地域を直撃する危険性があるが、それを除去する技術開発には十年以上かかりコストも増すことが判明したからだ」としている。
 しかしこれには本当の理由が別にあった。
 すでに米国は、「迎撃を基本とする日米の弾道ミサイル防衛(BMD)システムの限界を悟り、敵基地攻撃を基本とする統合防空ミサイル防衛(IAMD)構想に変更」(朝日新聞6/20)していた。
 その理由は、朝鮮がこの間、開発した高度を自由に変更できるミサイル技術などによってイージスアショアでは捕捉不可能となり、配備自体意味なものになったと米国が判断したからだ。
 こうして「陸上配備型ミサイル防衛システム『イージスアショア』計画撤回の方針を受け、安倍政権は国家安全保障戦略(NSS)を初改定する方針を固めた」。(朝日新聞6/20)
 その改定方針の核は、「自衛隊の敵基地攻撃能力保有」にある。これを日本の国家安全保障戦略改定の基本とすることだ。自衛隊を「盾」ではなく「矛」にする、「抑止力」保有、これが基本眼目の改定だ。

■違憲論議以前に安保防衛論議を挑む!
 「敵基地攻撃能力の保有」に対して立憲民主党は「違憲の疑いがある」と反対を表明している。
 敵基地攻撃は相手国への攻撃、戦争行為であり、明らかに「交戦権否認」の憲法九条違反行為だというのが護憲の憲法感覚ではある。しかしながら歴代自民党政権は「元来、合憲ではあるが専守防衛という政府の政策判断によって敵基地攻撃の議論はしなかった」としている。この敵基地攻撃=合憲の根拠は、1956年鳩山一郎内閣時の以下の政府説明だ。
 日本に攻撃が行われた場合、「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」として「他に手段がない」場合に限り、敵ミサイル基地を攻撃するのは「法理的には自衛の範囲」とした。これを政府見解として歴代内閣は踏襲してきた。このように政府が合憲の立場を取っている以上、敵基地攻撃能力保有の正否を違憲・合憲の論議だけで問うならば、九条解釈の水掛け論に終始するのは火を見るより明らかだ。
 一言でいって、憲法論議だけでは闘えない。敵基地攻撃能力保有はなぜ日本の安保防衛戦略として不当なのか、日本の安保防衛はどうあるべきか、この安保防衛論議を正面から国民に問うべきだ。

■問題は「抑止力」防衛論にあることを問うべき
 戦後日本の安保防衛政策は、「自衛隊が"盾"、米軍が"矛"を担う」だった。自衛隊は報復攻撃能力を持たないゆえ、核を軸とする強力な攻撃能力を持つ米軍が日本を守る日米安保機軸、これが戦後日本の安保防衛政策だった。
 この安保防衛政策は抑止力という防衛論に基づくものだ。「報復攻撃を受けるという恐怖によって敵に手を出せないようにする」、これが抑止力論だ。だから報復攻撃能力の有無が防衛の要になる。
 この抑止力論に基づき「報復攻撃を受ける」という恐怖を与えられる米軍が「矛」として日本防衛の基本を担う、自衛隊は「盾」として専守防衛、副次的役割を担うというものだった。
 この日米の役割分担を大きく変えようというのが、安倍政権がこの9月にめざす国家安保防衛戦略の初改定、「自衛隊の敵基地攻撃能力の保有」だ。中谷元防衛相の言葉を借りれば、「自衛隊がもっともっと米軍の矛の肩代わりをする」ことだ。彼らは「いつまでも矛の役割を米軍に依存したままでよいのか」「もっと日本独自の防衛を考えるときだ」という積極的な議論を挑んできている。
 抑止力論に立つ限り、この種の議論が正当性を持つ。すなわち「敵基地攻撃能力の保有」は避けられないものになる。

■「抑止力」防衛はもう古い! 覇権時代の遺物
 昨年、閣議決定を見た「新防衛大綱」は、「敵基地攻撃能力」を装備面で保有することを決めている。「いずも」型護衛艦の小型空母化、これに積載可能な短距離離陸・垂直着陸戦闘機F35B,戦闘機積載の900km射程ミサイル、さらにはイージス艦積載の1,250?2,500km射程の巡航ミサイルはいずれも「敵基地攻撃能力保有」装備だ。こんなものに27兆円余の国民の血税が浪費される。9月に国家安全保障戦略改定が成れば、九条改憲を待たずとも「敵基地攻撃能力保有」は名実共に合法化される。ベトナム侵略戦争、アフガン、イラク「反テロ戦争」、シリア内戦介入、いずれも米軍敗戦。朝鮮を「核戦争」で脅しても逆に朝鮮の「米全土を射程に収める核・大陸間弾道ミサイル」保有に狼狽、「話し合いで非核化」の白旗外交に転換した。いまや米国の報復攻撃を恐れてホールドアップする国はない。
 「日本のために米軍が戦争をするのを日本人はソニーのTVで見ている」、このトランプの激怒は、米軍の抑止力が力を失った焦りの表現だ。こんなトランプ米国に恐れをなし、時代遅れの抑止力信仰にすがって日本の国家安保戦略を改定することは愚の骨頂、日本の平和と安全を脅かすものだ。

■「撃退力+外交力」防衛の提起を!
 抑止力論に代わる日本の安保防衛は何か? 九条自衛についてよく考える必要があると思う。
 九条自衛は一言でいって「撃退力」防衛?領空、領海、領土に限った自衛だ。自衛戦争で認められる相手国への報復攻撃さえ放棄、すなわち抑止力ではなく撃退力にとどめる防衛だ。その基本眼目は、自衛の名による相手国との戦争への転化の危険を排除した点にある。これはかつて「自衛」の名で侵略戦争の災禍をアジアと世界に及ぼした苦い戦争の教訓化であり、「二度と戦争する国にならない」という日本国民の念願と決意を国是として政治に実現することをめざしたものだ。
 「撃退力」防衛の前提は敵対国をつくらないことに尽きる。戦争が政治の延長であるとするなら、外交力によって戦争を防止する、敵対国をつくらない外交に徹する、そんな政治力を持つことだ。中国の「一帯一路」に対抗する軍事同盟「インド太平洋地域連合構想」参加を求める米国に対してASEAN諸国は「対抗ではなく対話と協力の地域構想」を逆提起するという外交力を見せた。
 「抑止力」に代わる日本の安保防衛は「撃退力と外交力」、憲法9条を国是とする防衛に徹する、これを国民に問うべきだと思う。



主張

大阪都構想との闘い、その対決点は何か

永沼博


 維新が大阪都構想実現に向け11月1日にも住民投票を実施する方針を打ち出した。
 「大阪都」実現の目的を維新は、日本を「多極分散型国家」にする。そのための「統治機構改革」にあるとする。
 「統治」とは、旧憲法で「(天皇が)統治権ヲ総攬シ」などと使われたものであり、そこでは国民は臣民として統治の対象物にされた。
 一方「統治」は、近年、新自由主義改革の一環として「企業統治(ガバナンス)」などと使われた。会社を統治するのは誰か? こうして統治者は株主とされ、大株主の金融が統治するものに「改革」された(CEO制度の導入など)。
 「政治に経営手法を導入する」とする維新は、新自由主義的な「統治改革」を狙っている。
 維新は、都構想と並行して、民営化を本格化するとする(マニフェスト)。この「民営化」は自治体がもつ各種事業の運営権を民間に譲渡する「コンセッション方式」というもの。水道民営化でも明らかなように、その民間とは外資(米国金融)。
大阪市が廃止され府に権限が集中すれば府下の基礎自治体が運営し住民生活に直結する諸事業の民営化は強制・誘導され一気に進む。こうして大阪府全体を外資が統治することになり、住民は統治の対象物に成り果てる。
 維新が言う「統治機構改革」とは、外資が地方を統治し住民をその対象物にしながら、国自体も外資が牛耳る、そのような「地域分散型国家」に日本を作り替えようというものだ。
 そのための「大阪都」実現。そこで問題にされるべきは、住民は統治の「対象」なのか、それとも自治の「主体」なのかにある。ここから対決点を「統治か自治か」にし、それを「大阪市は我々のもの、その自治を守り抜く」など大阪市民を主体とした闘いが求められているのではないか。
 コロナ禍に紛れて強行しようとしている「都構想」。住民投票など中止し、コロナ対策に全力を尽くせなど、主権者としての声を高めること。これが今切実に問われていると思う。


 
議論

今、「国」を問う

KT


 「国」には様々な顔がある。ある時は、「母」になり、ある時には「お上」にもなる。時によっては、「お国」「共同体」にも、逆に「強権」、「独裁」にもなる。
 そうした中、戦後日本で、「国」があまり良いイメージでとらえられてこなかったのも事実だ。自分の国のことを「わが国」と呼ばず、「この国」と呼ぶ人が多いのもその現れだと思う。
 何よりも「戦争」「軍国主義」のトラウマが拭い難かったし、「国」の代名詞とも言える「警察」や「お役所」は、どう見ても国民の「忠僕」ではなく、「お上」そのものだった。さらに言えば、反体制、インテリの間では、マルクス主義の「国家=階級支配の道具」や吉本隆明が唱えた「幻想共同体」論が少なからぬ影響力を持ったのも事実ではないか。
 そこで考えてみるべきだと思うのは、「国」というものが支配階級の要求からだけではなく、諸階級諸階層、広範な人々の共同の要求を反映して創られたという事実ではないかと思う。それは、洋の東西を問わず、世が麻のように乱れた乱世の中から「国」が生まれてきたという歴史的事実からも推し量ることができるのではないだろうか。
 また一方、歴史的に見て、「国」が覇権との闘いの必要性から生まれてきたのも事実だと思う。日本でも、聖徳太子による建国の背景には、氏族、部族入り乱れての乱世とともに、隋、唐など、中国からの覇権の脅威があったし、信長、家康による日本統一も、長期に渡る戦国の世にあって、平和や安定を切望する人々の願いとともに、当時、世界制覇の野望からアジアと日本に進出してきていたスペインなど欧州覇権勢力の圧力という歴史的背景があった。
 人々の生活を築き守り、覇権の脅威から防衛する上で、決定的役割を果たす「国」のイメージが戦後日本においてなぜ良くないのか。それについては先述した。だが、そこでふれなかったものがある。それは、米国が果たしてきた役割だ。
 戦後、日本における「国」のイメージの悪化、それには米国による操作が大きく作用していると思う。米国は、「戦争」「軍国日本」の負のイメージを最大限に利用しながら、それを保守と革新の政治的対立に反映させ、「国」=タカ派・保守反動、反「国」=ハト派(リベラル)・革新進歩のイメージを定着させた。一方、米国は、日本の反動支配層が米覇権を離れては、アジアに覇権できない構造をつくり出しながら、国と民族、集団そのものまで否定して支配する究極の覇権主義、グローバリズム、新自由主義を浸透させ、それに基づいて日本の国のかたちのアメリカ化を図り、日米一体化を促進してきた。
 今日、「ウィズコロナ」「ニューノーマル」の下、「新しい日本」への転換が、解散総選挙への動きとも絡め、図られてきているが、その背後に米国がいるのは火を見るより明らかだ。米国は、「新型コロナ」禍を奇貨として、古い新自由主義・グローバリズムを日本に押し付け、「新しい日本」の名の下に、あくまで日米一体化を強行しようとしてきているのではないか。
 この国家存亡の危機にあって、決定的なのは、広範な日本国民の心以外ではあり得ない。
 14世紀、ヨーロッパを中心とするペストの世界史的大流行にあって、人々の心に生まれたのは、この感染症に無力だったカトリック教会の権威の失墜だったと言える。それが宗教改革、ルネッサンスなど近代への道につながっていったのは、周知の歴史的事実だ。
 今日、「新型コロナ」禍が広く人々の心に生み出したものは何か。それは、この世界的大惨禍の根因となった国と民族、集団そのものを否定するグローバリズム、新自由主義とそれによって世界を支配する米覇権への幻想の最終的崩壊なのではないだろうか。
 「コロナ」禍との闘いで誰の目にも明らかなのは、「国」が果たす役割の決定的な大きさだ。「国」がないところにはコロナの蔓延があり、その役割が大きいところにこそその収束がある。
 「ウィズコロナ」などと、コロナとの共存、不安や恐怖との共生を強要し、その下での偽物の「新しい日本」、日本のアメリカ化を画策する謀略に対しては、自分の「国」を思い、「国」を愛する広範な日本国民大衆の心で!それが今もっとも切実に求められる戦略なのではないだろうか。



議論

米中対立と日本のあり方

東屋浩


 最近、いっそう米中対立が激化している。昨年は貿易戦争だと言われたが、今年は米国がITをめぐってファーウェイ排除を各国に強要しているのをはじめとして、ウイグル人権法と香港自治法など元来中国内で処理する問題を米国が自国法律で定めたこと、米国在住の中国人研究者、留学生にたいしビザ制限したこと、南シナ海の領有権について中国に領有権がないとしたことなど、なりふり構わない中国攻撃をおこなっている。
 さらに、テキサス州在ヒューストン中国総領事館の閉鎖を命令し、中国も成都駐在米総領事館を閉鎖するなど報復で応えている。領事館の仕事の一つは情報活動であり、スパイ活動を理由に領事館の閉鎖を命じたのはほとんど例がない。中米対立が外交分野にまで一段階、高まったことを示している。
 23日、ポンペオ国務長官は演説「共産党中国と自由世界の未来」で、@中国に関与するとした過去の政権の政策は失敗だった、A中国は通常の国として扱うことはできない、B習国家主席は共産主義にもとづく世界の覇権を狙っている、C国際社会が今、行動しなければ中国は法の支配にもとづく社会を破壊するだろう、と述べた。
 これは、中国にたいする公然たる冷戦の布告ともいえる。すでに昨年5月末、スイスのビルダーバーグに欧州の「超エリート」を集めて開かれた「完全オフレコ会議」で、ポンペオ国務長官、クリシュナー大統領特別補佐官が「米中百年冷戦」の開始を宣言したが、その第一歩を踏み出したといえる。世界の二大強国といえる米中対立は世界各国に及ぼす影響が大きい。とくに米国は7月国務長官が欧州をまわり対中包囲網を強要し、ファーウェイなどのIT関連中国5企業を閉め出す法を制定し、それにより世界各国がファーエイを使用する国とそうでない国に分かれ、ブッロク経済が形成されようとしている。
 米中対立は中国ではなく米国がしかけたものだ。それは米国が強大だからではなく、中国の軍事的経済的力の強化の前で追い込まれてあがく米国の弱さの表現だ。製造業だけでなく先端産業のIT分野でも中国が米国を圧倒している。コロナ禍ではこれを制圧した中国と、感染拡大を収拾できない米国との違いをはっきりと示している。
 米国の覇権が衰退しているということは、それに代わる新しい覇権国が登場することを意味するものではない。中国自身、米国が言うような世界支配をめざしているとは言い難く、また、覇権をおこなうことも各国の抵抗によりできないのが現状だ。すなわち、覇権の時代そのものが終わったということを意味している。
 こうした中、日本の進路として仲介役をおこなうとか、アジアのリーダーになるべきとか、様々に言われているが、米中対立の原因が米国の覇権のあがきにある以上、それに組みするのか、覇権と対立そのものと訣別するかの道しかないと思う。
 日本は対中貿易が輸出輸入とも第一位をしめ、中国を部品生産拠点、重要市場としており、経済的に密接な関係にある。しかし、日本政府はすでにファーウェイ排除を決め、生産拠点の東南アジア諸国への移転を始めた。軍事的には対中のミサイル防衛基地を沖縄県、鹿児島県に配置し、「敵基地攻撃論」をもって自衛隊がアメリカの手先として中国を攻撃する態勢を整えようとしている。
 今後、中国にたいする誹謗中傷が一段と強められるだろう。しかし、日本が中国を敵視し、ひいては戦争をしなければならない理由は一つもない。反対に同じアジアの一員、隣邦として友好関係を築き深めることこそが、日本の平和と発展に欠かせない外交の柱ということができる。
 この問題は米中どちらにつくのかという話ではなく、覇権の時代が終わっていくなか、覇権に組みするのかしないのかの日本自身の問題だと思う。
 米国の覇権力が落ちてきたということは、日本が覇権そのものに反対し自立していく大きな機会となるのではないだろうか。
 もしこのまま米国に従っていけば、日本が食い物にされるだけであり日本独自の発展をはかることができず、対中国敵視の手先に使われるだけである。それは日本破滅の道だと思う。
 日本は脱覇権、反覇権という立場を鮮明にうちだし、それにもとづいた米国および中国との友好関係を発展させていくことこそが、米中対立に巻き込まれない道だと思う。



寄稿

特別定額給付金をめぐって

釜日労・三浦俊一


 コロナ集団発生から既に6カ月以上が経過しています。政府の動きを見ていますと、4月17日の緊急事態宣言を最後に全ての対応を「専門家会議」「分科会」に丸投げし、更にそれを各自治体の判断に任せ、政府としての方針は皆無と言っていいでしょう。
 宣言解除以降今日に至るも感染は急増しています。再度の緊急事態宣言が取りざたされている今日、国民の多くが安倍政権は思考停止に陥っていると見ています。

■緊急経済対策と一体の宣言
 4月2日、臨時閣議が開かれ、安倍内閣は総額108兆円の緊急経済対策を閣議決定しました。緊急経済対策の柱は所得の減った世帯への30万円給付、中小企業は個人事業主支援のための現金給付、雇用助成金の特例措置の拡大などでした。しかし、感染症と緊急経済対策の整合性は全く議論されていなかったようで、一世帯30円給付は、僅か一週間で全住民に各10万円の給付に変わってしまいます。
 首相が緊急事態宣言をこの時期に発令した背景に、感染状況の拡大があることは間違いありません。ただ、もう一つの事情は緊急経済対策の策定でした。この時点での政府方針は「新しい日常」「自粛要請」「不要不急」「休業要請」等の具体性に欠けるものでした。
 安倍政権の7年の間に新自由主義(自由競争)は頂点に達し、貧困と格差が民衆の生活を破壊していました。コロナ感染症が発生していなくとも、日本経済の内実は十分に分かっていたはずです。その状況下で緊急経済対策と感染症の拡大防止を同時並行的にやれるはずもありません。結局「ウィズコロナ」「コロナと共に!」となってしまうのです。これは、感染症の拡大を「ワクチンが出来るまでは仕方ない」と白旗を掲げて、経済施策に重点を置く大転換でした。
 この対策は、個人向けで8項目、事業者向けで5項目もあります。それらが新規の経済対策ですから、その仕組みを作るには膨大な時間と経費が必要となります。そこで民間大手電通に丸投げしたり、アベノマスクが実体のない企業に委託されたり、GoToキャンペーンも然りです。皮肉な言い方をすれば「国難」利益の分け合い。安倍友達は大喜びでしょう。
 その間にもコロナ倒産、廃業、失業は連日うなぎ登り。政策実現のスピードと現実の災禍に大きなタイムラグが生まれています。コロナ関連倒産425件(8月7日)、完全失業者200万人と、前年度対比40%UP。これは、公式発表ですから実態はこの数倍に上るでしょう。
 また公的支援の特別定額給付金の混乱は目を覆うものがあります。
 全国民に1人当たり10万円を一律給付するとの正式表明を受け、総務省は5月1日に実施要項を公表。「人々が連帯して一致団結し、見えざる敵との闘いという国難を克服しなければならない」とし、このため、感染拡大防止に留意しつつ、簡素な仕組みで迅速かつ的確に家計への支援を行うとして、総事業費12兆8802億93百万円を計上。事業の実施主体は市区町村、給付対象者は、基準日(令和2年4月27日)において、住民基本台帳に記録されている者、受給権者は、その者の属する世帯の世帯主としました。
 この要綱はあまりも乱暴で実施主体とされた各自治体を大混乱させます。それは「給付対象者」が住民基本台帳に記載された住民登録者であることに限定した為です。住民票が職権消除されている例は数多くあります、居住実態が無いと判断されれば消除の対象です。毎年数万人とも言われています。その原因の多くは失業による住居喪失、ハウスレス、ホームレス化で登録すべき住所が存在してないことによります。図らずしも日本社会の一断面を露呈させています。その為に、6月17日、7月17日と2度にわたり各自治体に「総務省通知」を出して、住民票のない人への登録の特例措置を認めています。
 現時点での給付率は全国では93%、しかし大阪など大きな都市での遅れが目立ち、70%前後と発表されているところもあります。申請締め切りまで後15日間。相当数の人々が給付金から除外されることになると思われます。
 これではとても「人々が連帯して一致団結し、見えざる敵との闘いという国難の克服」には及ばないでしょう。安倍政権の限界と言えるでしょう。



投稿

コロナ、出口戦略について思う

Y・S


 204号主張「『コロナ』、出口戦略を問う」の考え方は、まず徹底した検査と隔離により、日本全体を昨年秋の流行前の状況にリセットする、または現在の岩手県のような状態にする。そこから感染対策に万全を期して封じ込めを行い、感染収束を追求するということだと思います。集団免疫ではなく、大多数の人が感染しないで収束することを期するならば、私もこの方法しかないと思います。
 先日、テレビ朝日のモーニングショーで、ドイツバイエルン州で感染第二波を防ぐために「住民全員一斉PCR検査を行う」ことを紹介していました。東京都の人口はバイエルン州とほぼ同じです。このところの東京都の状況を考えると、東京都でもこの方針が最適だと思います。このまま東京都で現在の中途半端な方針を継続するならば、緊急事態宣言を出そうが出すまいが自粛傾向は強まり、経済は大打撃を受けることは間違いない。
 現在の日本のようなやり方で経済優先を継続するなら、どうしても多数の感染者、犠牲者を出すことは免れないでしょう。ただこの提言を実行するには国民的合意と強力なリーダーが必要になってきます。国民を納得させるためには、科学的根拠を示すことができる専門家も必要です。

▲緊急事態宣言が解除され、6月19日からは自粛全面解除ということで急速に経済活動は再開され、人出も戻ってきています。その裏では安倍政権、小池都政、橋下・吉村維新などにより、経済を優先させてある程度の犠牲は容認する路線が選択され、徐々に浸透しつつあります。東京都、大阪府のトップがそのような考え方を選択し、政府もそれを容認するということであれば、日本全体がその方向に進む可能性は高い。中でも維新が突出しており、橋下、吉村の両氏はこれまでのコロナ感染症対策を検証するとして「緊急事態宣言は不要ではなかったか」という主張を展開し始めています。
いったん感染が本格的に拡大した場合、経済優先政策を継続する限りは弱者切り捨て路線を取らざるを得ない状況が必ずきます。そのときに維新の方針を国民がどう判断するのか、今後の国のありかたを問う大きな分岐点となるでしょう。

▲クラスター対策を感染防御の基本と位置づけ、検査を制限してきた政府ならびに専門家会議の方針が失敗であったことは、現状をみれば明らかです。その過ちを潔く認め、「徹底した検査と隔離」という基本に立ち返ることが強く求められます。
 しかし、現在も方針に誤りがあったとの反省がないまま、検査体制、医療体制の準備は進んでいません。国がどのようにして検査体制、医療体制を構築するかの戦略が示されないまま、指揮系統は相変わらずバラバラのままです。「危機管理の安倍」などと高く評価する向きもありましたが、自分の言葉ではなく官僚の作文を読むしか能がなく、今や全く無能であることを露呈したトランプに頼るしかない安倍首相は、危機管理における指揮能力に欠陥があると思わざるをえません。専門家会議も「クラスター対策により感染は制御できる」「医療崩壊を防ぐために検査を制限すべきである」という初期の方針を払拭できないまま今日に至っています。「検査をして診断をつける」ということは医療の基本中の基本です。

▲最後に純粋医学的問題について述べたいと思います。世界的流行とは言っても、世界の人口を考えるとほとんどの人はまだ感染していません。今回のコロナ感染が麻疹に近いものと考えると、人と人との交流を完全に遮断しない限り最終的には我々自身も含めていつかは感染する。そして、ほとんどの人が感染した時点で流行は終わる。それともSARSのように多数の人が感染しないまま流行が収まる可能性もあるのでしょうか。今回期待されているDNAワクチンはまだまだ開発途上です。それよりはコロナウイルスに対して効果のある薬剤が開発されることの方が期待できるのではないかと思います。私の後輩の研究者は一つの考え方として「新型インフルエンザがそうであったように、やがてウイルスは弱毒化し、その他季節性の流感とさほど変わらないものになっていくと期待されますが、この変化には年単位(3年くらい)の時間が必要です」と述べています。この感染症が最終的にどのような形で収束するのか、現時点で明確にできる人は誰もいません。我々は目の前の感染を防止することに全力を尽くすことと共に、一年先、二年先を自分なりに考えることが大切であると思います。



エッセー

 

金子恵美子


<風鈴>(1)
 風鈴を表の軒下に一つ、裏のベランダに五つ吊るした。
 なぜこんなに沢山の風鈴を吊るしたのか? 
 風鈴は日本の夏の風物詩だ。冷房器具などが無かった昔の日本人は様々な工夫をして涼をとった。風鈴のあの涼やかな音色もその一つとしてあった。また音色と共にその風に揺れる風情も楽しんだことだろう。私にとっても昨年までの風鈴はそのような意味合のものであった。
だが今年の風鈴は全く違うものになった。ただ眺めて聞くだけのものから、祈りや願いが込められるものへ。
 コロナで始まりコロナで終わる毎日。これまでの日常が一変した。出かける時の何よりもの確認は「マスクは持ったか?」。職場での検温、誰かが少し熱が出たと言えば緊張が走る。日ごとに膨らむ感染者と死者の数、医療現場の困難、困窮する店や人々。神や仏を信じない人でも何かに縋りたい心情になるというものだ。
 そこで、この沢山の風鈴となった。新聞に「風鈴の起源は中国で竹林に下げて風の向きや音の鳴り方で吉凶を占った線風鐸が始まりで、その後お寺では鳴っている間は災いが起こらないとして四隅に吊り下げるようになり、日本にも伝わった。今でも風鈴を家の鬼門に吊り下げると厄払いできるとされている」と。
 世界で159位のPCR検査、押し寄せる第二波只中のGoToキャンペーン、「日本モデル」どころかアジア諸国では中国を除き感染者数と死者数で群を抜いている。
 こんな中、国会は開かず会見はせず、自分の言葉で国民に語らない我が国の政治リーダー。オリンピック開催の華々しい舞台で脚光を浴びているはずだった自分と現実の余りの落差、何をしても外れる政策への苛立ち、もはや気力もやる気もまるで見えないこのリーダーに日本と日本国民の生命と生活、将来を任せていては暗澹たる未来しかない。風鈴に込める想いは一日も早くこの政権を終わりに、である。

<今年もまた・・・>(2)
 朝日新聞の川柳に「昨年の式辞と見比べて読む新聞」というのがあった。
 昨年、ヒロシマ平和記念式典での安倍首相の挨拶が、前年のものとほぼ同じであったことを受けての一句である。私も平和式典を迎えてすぐにそのことを思ったが、今年は広島と長崎でのあいさつ文を比べてみた。
 なんと、若干の表現の言い換えはあるが、ほぼ同じ構成、同じ文面であった。
 10日のネットニュースには早速「首相の文面ほぼ同じ」「参加する意味がない、市民の憤慨」という記事が流れた。日本中でどれ位の人が文面を比べると言う行動をとったのだろか? 「この人はまたやらかすよ」、いや「この人ならきっとそうするだろう」という確信にも似た思いを抱いて、新聞を見比べる国民、そして「あ―やっぱり」と。支持率がだだ下がりするのも当然だ。
 そして、そのうり二つのあいさつ文の内容も柱のない家のような、うわべだけを取り繕ったただの字面を並べ立てたものだった。<唯一の「戦争被爆国」として>と言えば後に続くのは「核兵器禁止条約」の批准であり、<その先頭にたって核のない世界を目指す>ではないだろうか。それが、批准はしないで「橋渡しの役割を果たす」という訳の分からないことを言うのでどんな立派な言葉を連ねても芯が通らない。そんなもの、国民にも世界にも通用しない。
 安倍首相の国民との乖離が露わになっている。今こそ国民の手で政治を変える時だ。「連帯」と「当事者意識」、ヒロシマとナガサキ両市長の訴えの中にその鍵があると思う。来年も新聞を見比べたくはない。


ホーム      ▲ページトップ


「アジア新時代と日本」編集委員会 〒536-8799 大阪市城東郵便局私書箱43号