研究誌 「アジア新時代と日本」

第204号 2020/6/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 「コロナ」、出口戦略を問う

議論 脱自己責任のために

時評 賭博でも千点百円なら「訓告」?!

寄稿 コロナ禍の中の女性たち

ブロブより ポストコロナ社会

読者から




 

編集部より

小川淳


 コロナ後の世界を見据えて
 格差や貧困などそれぞれの社会の抱える病巣を暴き出しているコロナウイルス。コロナバンデミックが終息すれば、この世界は元の姿に戻っていくのか。それとも人々の意識や生活様式、社会構造は大きく変わるのか。
 世界を変えた感染症としては、14世紀のペストが名高い。全ヨーロッパを席巻し、ヨーロッパ人口の4分の1から3分の1を失ったとされるから、今回のコロナウイルスとは比較にならないほど社会を劇的に変えてしまった。農民などの労働力の減少による荘園の崩壊、人々を死の不安から救えなかったカトリック教会権威の失墜、そして人材の払底による封建的身分制度の崩壊へとつながり、経済も社会も人々の意識もペストが変え、資本主義やルネッサンスなど近代の夜明けを生み出したという。
 今回のコロナウイルスがこのような劇的な変化をもたらすのかどうかは分からないが、少なくとも私たちの意識の変化は生み出しつつあるのではないか。
 今回のコロナウイルスが直撃したのは、最も貧しい階層の人々だった。非正規労働者やシングルマザーなど、仕事を休むにも休めない労働者たち。彼らが増えたのは、金持ちらの税金を減らし、賃金を安く抑え、企業への規制を弱め、政府(国家)の役割が軽んじられた結果だ。「国家」よりも「市場」を重視し続けてきた新自由主義の帰結が目の前の惨状に他ならない。
 コロナウイルスによってサプライチェーンが分断されたことで、部品を海外に依存するメーカーは国内で何も作れなくなった。深刻なマスク不足も、日本では100%を海外に依存していたから起きた。必要不可欠な食料や医療品、生活必需品などは自国で作らないと国民の命さえ守れないことを私たちは痛感した。何よりも新自由主義が否定してきた「国民経済」の重要性をコロナウイルスは改めて教えてくれたのではないだろうか。
 三密が避けられない過密な都市に住むリスクもコロナウイルスは浮き彫りにした。テレワークの推進で、自宅で仕事ができるのであれば、無理をして都会で仕事を続ける必要はない。それならば都会よりも田舎で仕事をしたい人が格段に増えてくるだろう。地方の過疎化や都市と地方の不均衡発展なども少しは解消に向かうかもしれない。
 新自由主義は資本主義の極致だ。コロナウイルスの収束後を考えると、新自由主義とは違う新しい共同体や経済を作っていく―コロナ後の世界を見据え、古い社会の経済や構造や意識を私たちの力で大きく変えていく―そのような大きな時代の転換点を迎えているのかも知れない。



主張

「コロナ」、出口戦略を問う

編集部


 「コロナ」、感染拡大の勢いは収まっていない。それどころか、中国から欧州、そして米国、南米へと、その「爆発」の中心を移しながら、感染者、死者の数は、一層増大している。
 だが一方、先に感染拡大した国では、その終息への気配が見えてきているのも事実だ。
 日本においても、新規感染者数の減少が継続し、緊急事態宣言の解除がなされ、経済再開が「コロナ」収束と並行して行われるようになってきている。
 だが果たして、それでよいのか。敢えてそこに問題を見、提起してみたい。

■出口戦略、何が問題か
 もともと、「コロナ」からの出口を探る戦略は、「コロナ」の完全収束を先行させるのか、それとも経済再開をそれと並行させるのかと提起されていた。
 この選択で、欧米をはじめ世界の大勢は、後者に傾いている。日本も、「大阪モデル」など、地方主動で打ち出されてきている方針は、概ね、それに歩調を合わせているようだ。だがその一方、収束半ばでの経済の再開が感染拡大の第二波、第三波を生むことへの懸念が広く国民の間にあるのも事実だ。
 そうした中、「感染ゼロは無理だ」、「経済にも命がある」、等々が「並行」の根拠にされている。すなわち、感染の完全収束を求めるなど、そもそもできない相談だ。それより、一定程度収束できたら、経済を再開し、両者を並行させながら、長期間かけて「集団免疫」ができるようにするのがよい。そうしてこそ、経済が死なずに生き返り、人々の生活も保障されるばかりか、免疫もできるということだ。
 こうした「ハンマー&ダンス理論」、等々、「並行」の方針で問題なのは、(「封鎖」や「自粛」など、「ハンマー」で打った後の)経済再開にともなう感染再拡大とそれを抑えるための「収束」、その  長期に渡る繰り返し(ダンス)の中で、少なからぬ犠牲を覚悟しなければならないということではないかと思う。

■国民の犠牲をともなわない戦略はないのか
 これまで、人々の犠牲をともなうことを前提とした理論、方針、戦略戦術は多々あった。と言うより、それが普通だったと言うことができるのではないか。
 戦争はその最たるものだ。だが、戦争だけではない。そもそも、これまでの政治そのものがそうした面を多分に持っていたと思う。早い話、多数決原理の民主主義自体、少数者の犠牲の上に成り立っていると言える。
 この政治の現実にあって、「収束」と「経済」を並行させる出口戦略は、その最たるものだ。戦争と同様、人々の生命が掛かっている。
 実際、吉村大阪府知事が「経済にも命がある」と言ったのは、人の命も大事だが、経済の命も大切だ。経済を殺さないため、人の命を犠牲にする時もあるということではないのか。
 一方、「集団免疫」の思想自体、経済再開による感染の再拡大とそれによる高齢者、病弱者、貧困者など、免疫力の弱い無数の人々の犠牲が前提になっていると思う。
 そこで思うのは、「新規感染者ゼロ14日間(新型コロナウイルスの潜伏期間)連続」などを基準に、「コロナ」完全収束を先行させ、犠牲をなくした上で経済を再開する出口戦略は採れないのかということだ。

■国民の生命第一を貫徹するために
 「経済にも命がある」などと言いながら、国民の命を犠牲にする出口戦略は、どんなに言いつくろっても、経済第一の戦略でしかない。
 「生命」か「経済」かと問われて、「経済第一だ」と答える人はいない。誰もが皆、「生命第一だ」と答える。だが、この国民の生命第一を貫徹するのは容易ではない。だから、「並行」を主張する人々の第一の論拠は、「感染ゼロは無理」になる。
「先行」による出口戦略を完遂し、国民の生命第一を貫徹するためには、越えなければならない難関がいくつかある。
 何よりも、どうやって「コロナ」の収束を完成させ、「感染ゼロ」を達成するかだ。
 そのための最善の策は、国民皆に対する一人の漏れもないPCR検査と陽性者の重度に応じた隔離と治療、これにつきると思う。韓国などで多大の成果を上げたこの方法をより徹底的に最短期間で行うということだ。
 これを実現するために、最近日本で開発された全自動のPCR検査装置の全面導入、全国至る所への検査所の設置、隔離のための病院など施設と病床の段階別準備、治療のためのスタッフと人工呼吸器などの装置、物資の万端の準備、等々が必要だろう。
 「感染ゼロなど無理」という主張は、これができないということなのだろうが、もし、人的、物的不足があるのなら、それを補充するのが「国」の役割なのではないか。「不足」やそれにともなう「医療崩壊」などを理由に「無理」と言ってはならないと思う。
 もう一つは、完全収束、経済再開までの期間、国民の生活と企業の運営、存続をどうするかということだ。すでに、数百万の失業と数千の倒産、万余の営業縮小が言われている。
 ここで徹底的に問われているのは、「国」による補償だと思う。今日、史上まれに見る国難にあって、生活や企業運営の糧を失った国民の生きる道を保障するのは、「国」の役割であり責任だと思う。それは、「お上」による上からの「援助」や「施し」ではなく、「共同体としての国」「国民のための国」の当然の義務としての「補償」であり「保障」なのではないか。
 そこで、「遅れ」や「わかりにくさ」は許されない。その上で問題は財源だ。「医療」と「生活・経済」、この出口戦略、二大事業にかかる費用は半端でない。年間GDP総額にも匹敵する額さえ覚悟しなければならない。しかし、これもアベノミクス全期間を通して強行してきた無制限の量的緩和を考えれば、決して不可能ではないはずだ。日米大企業のために発行できた赤字国債を、この国難にあって、日本国民のため、発行できないことはないはずだ。

■「出口」から開ける「コロナ後」
史上まれに見る今回の惨禍は、今、この世のすべてをそのあり方に至るまで変えていくのではないか、そのような予感を少なからぬ人々に抱かせているように見える。
 仕事や生活へのオンライン、テレワーク、テレビ会議、そしてデジタル消費などの導入、普及。それとも一体に生まれる、東京一極集中から地方への見直しの気運。これまで外に開き、外に依存してきた経済から内を重視し、内に開く経済への転換。等々。
 そうした中、問われてくるのは政治のあり方の見直しではないだろうか。「並行」か「先行」か、出口戦略のあり方をめぐる問題は、その核をなしているのではないかと思われる。
 人の犠牲を前提とする経済第一の戦略か、一人の犠牲も出さず皆が生きるようにする国民の生命第一の戦略か、この戦略のあり方の違いの根底には、政治のあり方自体の根本的な違いがあるように思える。
 前者は、一人一人の利益を全体の利益、経済の利益の下に置き、それに服従させる古い支配の政治であり、後者は、全体の利益、経済の利益の中に一人一人の利益を見ると同時に、逆に、一人一人の利益の中に全体の利益、経済の利益を見、どちらの利益もともに統一的に実現する新しい共同体の政治だと言うことができる。
 実際、共通の意思と要求、利害関係で血縁的に結びついた共同体にあって、皆の喜びには一人一人の喜びが集大成されて反映されており、一人一人の喜びには、皆の喜びが各人なりの個性を持って独特に表現されている。
 この政治のあり方の違いは、「国」のあり方の違いと一体だ。「先行」を実現するために決定的な「国」の役割が、「支配のための国」から「国民のための国」「共同体としての国」への「国」のあり方の転換を切実に求めているのは、言うまでもない。
 「スペイン風邪」など、過去、疫病の大流行は、多かれ少なかれ、世界のあり方の転換につながってきたという。「コロナ」出口戦略をめぐる新旧政治の攻防が、世界最悪の「感染大国」、米国による覇権の決定的弱体化と相俟って、日本のあり方の転換を促進しないとは誰も言えないのではないだろうか。



議論

脱自己責任のために

東屋浩


 最近、BS放送の番組で枝野立憲民主党代表が「脱自己責任」を掲げた。「自己責任」はこれまで散々言われてきた新自由主義の謳い文句であり、国や社会に頼るのではなく自分で解決せよということだった、今回のコロナウイルスはこれまでの「自己責任」では到底解決できない、「公共の大きな力」が必要だ、と言う。
 「公共の大きな力」とは何なのか。何をもってこの未曾有の危機をもたらしたコロナ禍を解決していくべきなのか。
 新聞の投書欄にこういうのがあった。「普段から存在し、誰もが認識しているが、みんな見て見ぬふりをしている。日本社会の抱える、そんな幾多の問題がコロナ禍で一気に噴出したように思う。インバウンド客からの収入に頼る観光地。大規模事業者と中小規模の事業者の資金力の差。正規社員と非正規社員の待遇格差。ネットカフェで寝泊まりする日雇い労働者の状況。医療従事者や保育従事者が直面する過酷な労働環境。DV(家庭内暴力)の被害に苦しむ人々への社会的支援態勢の脆弱さ・・・・・」。18歳の大学生の投書だ。
 的確な指摘だ。コロナウイルス禍は突然、襲ってきた災難ではない。すでにサーズ、マーズでコロナウイルスを経験している。十分、予見し対処できたはずだ。昨年4月、共産党の田村智子氏は国会で感染症研究所について「いまの体制が弱体化すれば国民の生命と健康への重大な脅威となる」と政府を追及した。にもかかわらず感染症対策は毎年のように予算を削られ崩壊直前となっていた。

■新自由主義の矛盾の爆発
 これまで新自由主義により小さな政府路線がとられてきた。国民のために必要な医療体制への予算が削減され、医師の減少のなかでその過重な努力でやっと国民医療を保っている状況だ。PCR検査の調整などに当たる保健所数は1990年代からほぼ半減し、感染症に対応する保健師も減少傾向にある。だから、新型コロナウイルスが発生すれば、感染拡大の大流行が起こるのは必然だったと言える。
 このことは、教育科学、介護・年金など社会保障、郵便、交通などすべての公共分野で言える。
 周知のように、新自由主義とグローバリズムは個人による自由競争、すなわち市場原理が社会発展の原動力とみなし、自由競争を阻害する国家の公共部門や公共的役割を民営化と規制緩和で崩壊させてきた。
 新自由主義は、富をいっそう少数者に集中させ、社会をますます貧困化する大衆との格差を拡大させることによって、経済発展を停滞させ、国や社会の健全な発展を阻害した。コロナ禍は貧困層、老人、自営業者などの社会的弱者を直撃し、新自由主義の矛盾を露わにした。
 また、新自由主義は、教育・科学研究部門を冷遇し、国と社会の発展に不可欠な科学技術の発展を阻害してきた。今日、日本が通信5G世代に立ち後れてしまったのはその典型だと言える。
 新自由主義とグローバリズムは、マスク一つ生産しない国になっていたように、国と社会に不可欠な戦略的物資を生産できないようにしていた。
 今回、サプライチェーン(部品供給網)の崩壊が起こったのも安価な部品製造を求め、各国に進出し、国内産業を空洞化させてきたためだ。
 これら以外にも農業、郵政、鉄道なども民営化によって国民生活が犠牲になってきた。
 反面、大企業にたいする税金を軽減し、アメリカの戦闘機などは爆買いしている。国民無視の財界、アメリカ優先の政治のために、日本という国の力が弱化するだけ弱化してきた。
 つまり、コロナ禍は新自由主義とグローバリズムに蝕まれていた日本社会の矛盾を一挙に爆発させたと言える。
 だから、脱コロナ禍は従来の社会を復活させることではないと思う。新自由主義とグローバリズムではない新しい社会を目指すということになるのではないだろうか。

■公共のためにある国家の意味
 イギリスのEU離脱と欧州各国における反EU勢力の台頭は国家主権を守るための動きだと言える。アメリカ第一主義もまた、世界にたいする覇権に自国を犠牲にするのではなく、自国のことをまず守るべきだという国民の世論を背景にしている。欧米の自国第一主義はいわば自由、平等、市場主義などの「普遍的価値観」に国家が従うのではなく、まず国家主権が第一だという時代の流れを反映したものだと思う。
 今回のコロナウイルス禍は、共同体としての国家を否定した新自由主義とグローバリズムの破綻を宣告し、国家が国民のためにあり、公共のための役割を果たしていくべきだということを示したのではないだろうか。
 国家は、国民の幸せな生活のための共同体だということができる。共同体の強化発展のなかに個々人の利益と幸せを実現していくことができる。
 医療をはじめ、教育科学の発展、安定した労働条件、農業と地方の発展、国民に必要な戦略的物資の生産などあらゆる分野が国の力をもって発展させていくことができる。他国や一部企業のためにではなく、国民共通の利益のための公共の利益をはかる国家をつくっていくことが問われていると思う。そうしてこそ、徹頭徹尾、国民大衆の生命と生活のための国家を創っていくことができる。
 コロナ禍を克服できる「公共の大きな力」とは公共のためにある国家の力だ。

■国民の要求は国家の役割を発揮させていくこと
 国家は権力であり、間違えば国民を抑圧する道具となりえる。だから、私権を侵さないようにしなければならないという論議が起こるのは当然だといえる。しかし、今回、緊急事態宣言についてもっと早く出すべきだというのが国民多数の意見だった。また、安倍首相が首相としてコロナ対策で前面にたって指揮すべきだという声も多かった。
 小説家の真山仁氏はこう述べている。「私は以前から日本では、国家の意味が正しく理解できていないのではないかと懸念していた。そして、今、それは現実に起きてしまった。国家とは、国民が安心して暮らすためにベストを尽くす機構だ。時には多くの国民を救うために究極の選択も必要になる。・・・危機に追い詰められた時に、命がけで非常な決断をするからこそ、首相には、多くの権限が与えられている。それが危機管理ではないだろうか。」
 コロナ禍という未曾有の危機にあって、安倍首相が追求したのは「オリンピック開催」であり、「経済活動」であり、国民の生命ではなかった。そして、首相が先頭に立つべきなのに、都道府県知事や事業者、個人に丸投げだ。コロナ禍に対処すべき時に、どさくさに紛れて検事任期を延長できる法案などを成立させようとする首相だった。
 だから、国民の大多数は世論調査が示しているように安倍首相がコロナ対策をよくやっていないと思っている。国の役割をもっと発揮すべきというのが、国民の声だと思う。
 ここでいう国の役割とは、国民の生命を守るために国家という公共の力を使うことだ。
 互いに支え合う社会の力はSNSなどを駆使し様々な形で発揮されている。なによりもほとんどの国民が自粛要請に応えており、異業種間での人材のやり繰り、人材の余った航空会社の社員が防護服を作ったり、農業支援に出向いたり、医療関係者に食料の差し入れや、タクシーでの無料の送迎などなど、数えあげればきりがないほどだ。問題は国家の力が十分に発揮されていないことだ。
 国家がよくやれば、社会の力もさらに発揮されるはずだ。企業も含めた社会の力を十二分に発揮させるようにする機軸は、国家以外にありえない。
 ところが、安倍政権は、都道府県にコロナ対策を委ね、コロナウイルス感染を抑えながら社会経済活動を再生していく並行路線をとるようにしている。「コロナと共に」というのは、「コロナ撲滅」を最初からあきらめ、国民、とくに老人や有病者を感染の犠牲にさらし、不安に陥れるものだ。
 無症状感染者が多数いるゆえ、少し緩めると感染者が拡大してしまう。結局、検査しか方途はないと思う。にもかかわらず国がやらないから自分でやるしかないとして、県や機関で始めている。安倍政権は国民に「自己責任」をおしつけ、自分は国としての責任を果たそうとしないばかりか、この期に及んでも私利ばかり追求している。
「脱自己責任のために」は、国家が国民のための公共的役割を発揮していく責務を果たすようにすることだと思う。


 
時評

賭博でも千点百円なら「訓告」?!

平 和好


■そんなばかな!
 日本国法務大臣が、賭博罪の画期的な刑罰基準を示してくれた。その名も、もりまさこさん。もちろん安倍首相のお気に入りであることは十分想像できる。安倍首相からもらった1億5千万(自民党の相場の10倍)を使った買収で夫婦とも逮捕間近の河井さんの後釜だが答弁フラフラ、野党の追及にしょっちゅう答弁不能に陥ったが、安倍内閣の参画資格は「首相よりしっかりしていない事」だから、かろうじて職務を続けられる迷走大臣だ。
 そのもりさんが黒川弘務・東京高検検事長と言う大幹部が月に数回×数年間にわたり継続的に行った賭け麻雀という常習賭博について、「職責が特に高い」「影響が特に大きい」「過去に類似の行為をした」と認定しながら、ほとんど責任を問わない「訓告」という「無罪放免」を行った。「まあ、気を付けてください。処分はしません」と言うのが訓告だ。辞職した黒川さんには痛くもかゆくも無い。

■神代の昔から
神様を信じるわけではないが、日本は「建国」(時期に諸説あるが省略!)以来、賭け事を神も仏もお怒りになるご法度にして来たはずだ。学生時代に我々も麻雀はやった。しかし月に数回も、何年も連続でした人はそんなに多くないだろう。一応レートは設定するが結局、その日の食事のおごり程度の支払いが大多数だ。黒川氏の場合、2万円程度のお金が動く賭博を月に数回していたのだから、月10万前後の掛け金が動く事は容易に予想できる。また麻雀をやった人ならわかるが、相手に気に入られる方法は簡単。黒川氏が上がれる牌を読み取り、放出して上げ、点数の高い役をプレゼントすれば良いのだ。勝つのは難しいが負けてあげるのはかなり容易だ。「さすが検事長!容疑者を落とすお裁きだけでなく、こういう牌さばきもピカ一ですな!」とサンケイ・朝日の幹部が愛想笑いし、黒川氏が「いやいや天の配剤でしょう」とあのニタリ笑いする光景を想像してほしい。ハイヤーで送ってもらう前には札束を集めて・・・楽しくないはずがない!
 しかし首相から次期検事総長に招請される程の人物は常習賭博罪を認識できるはずだ。
 賭博罪は50万円以下の罰金または科料であるが、黒川氏は明らかに常習賭博なので3年以下の懲役に該当する。公務員法上の処分も軽すぎる。自衛隊員という国家公務員がしたら、単純賭博でも停職になったのに。

■賭博で捕まったら主張しよう
 年間数百件の摘発がある賭博。一日に一人は日本のどこかで捕まっている計算だ。賭博はいけない行為だが、これは皮肉として言おう。大人しく裁かれてはいけない。司法のトップである法相が「千点百円というレート」を理由に黒川氏への処分を見送ったのだから。低いレート、を自己申告し、無罪を取り調べ室で断固主張しよう。雑居部屋しかあてがわれず何十年の煙草の臭いすら染みついているような殺風景な職場や炎天下・寒冷下でも働く警官と違い、検察官は、広々とした冷暖房完備の個室スイートルームを持ち、いつも高級スーツで、容疑者の人生を一存で左右し、こんな悪さをしたにも関わらず、6千万円の退職金(みんな怒ろう)。容疑者さんは検察官の部屋に入ったら「黒川訓告」を連呼し、「もし起訴するなら訓告刑」を要求しよう。これは私が勝手に言っいてるのではない! 司法のトップが「常習賭博でも訓告」の見本を示してくれたのだ。刑法の量刑に「訓告」が無いって?! 警察・検察・裁判所が「訓告」に準じた刑事処分を容疑者に適用すればいいのである。もちろん、賭博だけでなく、弾圧事件、形式犯、政治犯などにも「もりまさこ」判例は広く適用されるべきである。



寄稿

コロナ禍の中の女性たち

M・S


 コロナ倒産失業が急激に増えているのはご存じのとおりです。今回の事態は中小零細の製造業から、当然サービス産業を頂点に全ての経済・社会領域に及んでいます。
 そうした中でマスコミ報道を見ていると非正規雇用の女性の困窮化が激増しているように感じていました。
そこで最も打撃の大きいなサービス産業における男女の比率を見たところ、現在休業、雇止め、会社倒産で失業状態の人は312万人となっています。さて、この内訳ですが男性109万人女性203万人となっているのです。なんとコロナ貧困・失業の大半は女性なのですね。圧倒的に女性の貧困が増加しています。その中には子育て中の単身女性も多くいるはずです。困窮の切迫度が違います。
これは全体の非正規雇用者男女別でも明らかです、男性の非正規雇用者、38,3% 女性56%となっています。
 報道では「非正規、パート、アルバイト」として一括され性別には触れていません。ちゃんと公表しろよ!
 このためか今日の読売では全国の生活保護受給者が僅か3カ月で前年比37%UPと出ていました、大阪市はその中でもダントツの3600世帯だそうです。ここでも男女比率は公表されていません。
 経済成長と観光立国 浅はかな政策とコロナが女性を窮地に追い込んでいます。「女性が輝く働き方」ってこんなものなのですね。



ブログより

ポストコロナ社会

大畑龍次ブログより抜粋


 新型コロナウイルスの猛威のなか、外食産業、観光業、イベント業、航空産業などに計り知れない被害をもたらした。しかし、コロナ禍でも業績を伸ばしている産業部門もある。宅配業、通信、販売業、IT企業などがそれだ。
 こうした経験を通してポストコロナ社会にも有効なものとして見直すが進むだろう。それらを列挙すれば、次のようだ。@テレワークの定着である。企業は業務の相当部分にテレワークでもやっていける実感を得ただろう。テレワークの拡大は、通勤交通費と事務所経費の削減をもたらすことから、テレワーク労働への切り替えが進みそうだ。A宅配業務の拡大がある。これまで宅配をしてこなかった外食業者にもポストコロナ社会でも宅配が拡大する可能性がある。Bオンライン・サービスの拡大。さまざまな教育産業では、オンライン・サービスが拡大すると思われる。オンライン授業やレッスンが広がる。C宅配業界では、「置き配」が増えていくだろう。「置き配」泥棒が横行しているから、なんらかの工夫は必要だろうが、「置き配」の拡大は宅配業の人手不足解消にも繋がる。Dサプライズ・チェーンの見直しが行われる。これまで海外から供給されて部品の国内調達が進むだろう。マスク、防護服などの海外依存から国内生産に切り替えられるだろう。稼働率第一思考から危機に対応できる設備投資が進み、いくつかの部門の国内回帰が進む。すなわち、効率第一主義から危機管理に強い生産体制への転換に向かう。
 つまるところ、新自由主義的グローバリゼーションがコロナ禍を拡大した側面があり、ポストコロナ社会とは、ポスト新自由主義とならなくてはならない。新自由主義政策のもとで国内の貧富格差は拡大し、国際的にも一部の富める国と貧困国に色分けされてしまった。新型コロナウイルスは、貧困層と貧困国に襲いかかり、収拾のつかない事態となっている。
 もっとも典型的な事例は、アメリカ社会におけるコロナ禍の拡大だし、ブラジルでの感染だろう。どんなに感染が拡大しても、危険を冒してでも働かなくてはならない人々がいる限り、感染の拡大にストップをかけることはできない。今後、アフリカ、南米などの南半球に感染が拡大すれば、新自由主義政策のもとに進んだ南北問題がどれほど新型コロナウイルス感染に無力なのかが分かるだろう。
 新型コロナウイルスとの戦争は、人類とウイルスとの間の闘いである。したがって、人類の不団結、すなわち国際協力の不在はウイルスの思うつぼ。この不団結の中心に米中対立がある。トランプ政権は、新型コロナウイルスは中国が人工的に作ったといい、中国が迅速に感染情報を提供しなかったことが感染拡大になったと主張。また、WHOが中国寄りだとして拠出金提供を拒否するといい、WHOからの脱退もほのめかしている。トランプ政権の主張には科学的根拠もなく、無理がある。
 トランプ政権のこうした主張は、米国内の感染者・死亡者の並外れた多さの責任を中国に転嫁すること、そして対中国強硬姿勢が11月の大統領選に有利だと判断がある。トランプ政権の一国主義からは当然な結果だが、いつにも増して国際協力の必要なときに唖然とするばかり。
 ポストコロナ社会には、米中関係を主軸とする国際関係の大きな変化が生まれるだろう。新型コロナウイルスとの闘いは、長期化しそうで、ポストコロナ社会に言及するにはまだ早いかもしれない。しかし、この危機は働き方、国家の仕組み、国際関係などに劇的な変化をもたらす歴史的なエポックとなることは間違ない。



 

読者から

★黒川弘務・元東京高検検事長の退職延期を初めとする「検察庁法」に対して、検察OBの意義申しての記者会見、日弁連の抗議、小泉今日子、ラサール石井、その他大勢の芸能人・文化人のツイッターなどでの反対表明、私はこの民意・民主主義を守る大事な闘いに感謝と感動で一杯です。
 安倍政権は国民、特に沖縄県民の心、玉城知事を無視して海底がマヨネーズ状態の辺野古の海に土砂を投入する始末。また何千本の杭を立て、20年以上の工事で国民の血税を何兆円も使う暴挙は許せない!!
 トランプには武器、航空戦闘機など、機嫌取り購入。コロナ禍では安倍の失策の為、生活苦で自殺者が多く発生しています。これも許せません!!
 みなさん、新型コロナウイルスに負けない様頑張りましょう。何より、安倍悪政を打倒するため、仲間と共に闘いましょう。

(怒り心頭のM・M)

★麻生氏の国民称賛
 「うちの国は国民の民度のレベルが違う」―4日の国会での発言だ。
 自分たち政権の無能は棚に上げ、何を上目線で自分たちの手柄でもあるかのように「自慢」しているのだ。あなたに「民度が高い」などと言われたくない!と思うのは私一人だろうか。
 あなた方は、その民度の高い国民の声に一度でも耳を傾け、尊重してきたことがあるのだろうか。
 沖縄の人々の「基地反対」の民意、戦争をする国になることを憂慮する「安保法反対」の国民の民意、森友・桜への真摯な検証と説明、そして今回の新型コロナへの国民への対応。
 「民度が高い」と称賛するなら、その民度の高い国民の意思と要求を尊重し、その実現のために働くべきだろう。
 「遅い、緩い、少ない」と評価されている日本のコロナ対策の方をもっと見ろ!と言いたい。都合の良い時ばかりに、しかも、他国と比較して相手国を見下すものとして国民を担ぎださないでもらいたい。

(麻生さんに民度が高いと言われたくないE・K)


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