研究誌 「アジア新時代と日本」

第2号 2003/8/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 それでもアジアは待っている

研究 日本の愛国のキーワード―「個を尊重する愛国」

評論 医療の営利化、アメリカ化を問う

文化 文化も融合!

朝鮮あれこれ

随想 公園

編集後記



 
   

時代の眼


 時代の転換にともなって、家族関係などとともに男女関係も、これまでの常識を打ち破る新しい関係、在り方が求められてくるのは当然のことだと言えるでしょう。
 「君はペット」というドラマもその一つでした。29歳の東大出のキャリアウーマンが21歳のバレーダンサーの美少年をペットとして自分のマンションに飼うのです。背の高さも、学歴も、収入も彼より高い彼女は、彼をあくまでペットとして扱います。一方、彼にとっては、彼女は「御主人様」であり、彼女のマンションは最高に居心地のよい居場所です。外で傷ついた彼女が帰ってくると、彼がじゃれつき、食事や入浴をねだります。彼女は、彼とのなんの気兼ねも警戒もいらないしゃべりと彼の世話を通して傷と疲れを癒します。
 こうした二人に転機が訪れます。大学の先輩である恋人は彼女に結婚を迫り、バレーの師である彼の母親は彼にヨーロッパでのバレー修行を勧めます。だが、二人が選んだ道は、結婚でも、ヨーロッパ行きでもありませんでした。それは、以前と同様の主人とペットの生活だったのです。
 なぜ?この問には主人公たちが答えてくれます。バレーダンサーとしての可能性などに挑戦しなくてもよい、将来を約束された結婚生活などなくてもよい、そこに自分という存在が必要とされている居場所があればそれでいいじゃないか。それは、まったく新しい男女の関係、在り方についての一つの問題提起だと言えます。
 ところで、この彼と彼女の関係、在り方を観ながら、なぜか連想されたのは、今日の日本とアメリカの関係でした。たとえ国扱いされず、言いなりになっていてもいい、相手が自分を必要としてくれ、そこに居心地のよい居場所があるなら、それでいいじゃないかということです。
 だが、人間が人間扱いされないところに人間にとっての居心地のよい居場所があるはずがないように、国が国扱いされないところに国にとっての居心地のよい居場所があるはずがありません。  事実、ドラマのなかでも、彼と彼女はお互いが人間であることを、男、女であることを要求するようになっていきます。
 新しい男女関係が、それがどんなかたちをとろうが、やはり相手を人間として認め、男、女として認めることを抜きにしてありえないように、日米関係も、互いに国として認め合うところから出発するのが重要なのではないかと思います。日本が自主独立国家として、自分の頭で考え自分の力に頼りながら、日本とアメリカの真の利益を統一的に実現していくようになったとき、それは、アメリカにとってももっとも大きな利益になるのではないでしょうか。


 
主張

それでもアジアは待っている

編集部


 有事法制、イラク特措法を成立させた日本は、米国の手先になってアジアに敵対する道をさらに一歩進めた。しかし、アジア諸国は、あくまで日本が「アジアと共に」進んでほしいと願っている。

■アジア諸国の日本への期待
 植民地支配との熾烈な闘いによって独立を勝ち取り自主の気概が強いアジア諸国は今、自主と平和と繁栄のためにアジア人同士が協力して生きていこうという志向を強くしている。それは、米一極支配に反対する多極化時代にあって、アジアがその重要な極を占めるアジア新時代を象徴するものとしてある。
 日本に対してそれは、同じアジアの国として米国から離れアジアと共に生きていく国になってほしいという願いとなって表れており、とりわけ日本の経済的役割に対する期待は強い。
 かつてマハティール(前マレーシア首相)は、アジア人だけの経済圏として「東アジア経済圏構想」を提唱し日本への期待を表明した。米国ファンドの暗躍によって起こされた97年の「アジア通貨危機」を契機に「アジア経済圏」形成の要求は、ますます強くなり、東アジア諸国は、EUにならった「アジア通貨圏」「アジア経済圏」の実現のために動いており、最近、アジアの資金はアジア経済のために使おうという趣旨の「アジア債権基金」が創設された。経済発展著しい中国も、この構想実現に動いており、ASEAN各国と二国間「自由貿易協定」を締結し、これを「アジア通貨経済圏」にまで発展させようとしている。またASEAN諸国の日本への期待は、中国が支配的な国になることを危惧しての側面もある。
 その中国自身も日本への期待を強めている。昨年末、「新思考」と言われる論調が人民日報に掲載されたが、その内容をかいつまんで言うと、謝罪問題が提起されるたびに、中国では反日感情が高まるが、日本は10兆円もの経済援助をするなど中国の発展に寄与してくれたとし、アジアの安保、政治協力、経済の安定、繁栄など多国間問題で日本が大国として参加するよう中国自ら呼びかけるべきだというものだ。
 この論調の真意は、日本は米国の手先になってアジアと敵対するのではなく、アジアの一員として共にやっていこうではないかという誘いであると見るべきであろう。この論調を紹介した「中文導報」(日本で発行する中国雑誌)の題は「中国は辛抱強く待つ」だった。
 それは単に、中国だけではない。韓国のノ・ムヒョン大統領が訪日に際して「謝罪問題」に言及しなかったこと。あるいは、昨年の日朝首脳会談で、その合意文に「賠償」という言葉がなかったことなどもその表れだということができるだろう。

■日本はアジアの期待に応えているか
 最近、日本が採掘権をもっていたイランのアザデガン油田開発に対し、米国がいちゃもんをつけてきた。開発資金が「イランの核開発」に使われるというのである。米国は日本がアジア諸国と仲良くし連携を強めようとすることを好まず、それを妨害するという一例である。
 マハティールの「東アジア経済圏構想」に対しても米国にそれに乗らないよう釘をさされ、これを敬遠してきた日本であるが、今、中国が加わることで、現実味を帯びてきた「アジア経済圏構想」について、米国の目を気にして動きがとれないでいる。さりとて中国の動きに焦り、かつての「アジア通貨圏構想」の印象を薄くした「東アジアコミュニティー」(小泉首相)、「東アジアビジネス圏」(経産省)などをおそるおそる出している。
 しかし、日本が米国を怖がって、いつまでも煮え切らない態度でいれば、アジア諸国は日本抜きで進むであろう。アザデガン油田に対してもイランの石油相は怒りを隠さず「日本がやらなければEUや中国にやらせる」と言っている。イランとは地下鉄建設や資金援助など経済的関係を深めている中国や、かつて同じように中東の油田開発で経済制裁をちらつかせた米国に報復措置を発表して黙らせたEUはありがたくそれを受けるだろう。
 アジアでEUのような共同体を作ろうとする動きとして、アジア集団安保の問題がある。アジアの平和と安全はアジア人同士で守ろうという「アジア安保」は、アジアを押さえるための最大の力は軍事力であると考える米国の最も嫌うものである。それ故、94年、「防衛問題懇話会」(座長、樋口)の報告で、「アジア集団安保」を「日米安保」の先に置いたことに対する米国の怒りは大きかった。こうして、95年に安保再定義問題が起き、日米安保はアジア・太平洋地域の安全のためと再定義された。それに基づく新ガイドラインに沿って周辺事態法が制定され、今、有事法制、イラク特措法制定にまで至ったのであり、それは、アジアの期待に対する日本のNO表明以外の何ものでもないだろう。

■親米アジア敵視の歴史
 互いに相手を尊重し世界の諸国とりわけ顔も文化も似ているアジアの国々と仲良くやっていこうと考えるのは、昔の帝国主義の時代ならともかく、現在にあっては、誰もがそうしたいと願い、その方がよいと思う自然な考え方である。まさに、それが多極化時代の今日の「時代精神」だといえる。
 それにもかかわらず、アジア諸国の期待に応えるどころか、米国への従属を強め、アジアと敵対する国へとますます傾斜していく日本。それは、歴史的に形成された親米アジア敵視路線の結果、体質化された。
 戦後日本は、敗戦による駐留米軍という圧力の下に、対米従属アジア敵視の路線を歩むようになった。それは、朝鮮戦争、ベトナム戦争など「日本がなければ遂行不可能であった」と言わしめるアジアにおける米国の戦争に対する強力な後方基地として、また米国の新植民地主義支配に対応した「経済援助」によって、さらには東側陣営に対する西側陣営のショーウインドーとしての役割を果たすことで遂行された。
 さらに逆のぼれば、親米アジア敵視は、ペリーの黒船による開国以来の近代日本に始まっている。欧米がどうしても開国できなかった朝鮮に対し、日本が欧米式の不平等条約を結ばせた雲揚号事件のとき、米国に「このようにやればうまくいく」とペリーの「日本遠征記」を渡され励まされて以来、ロシアの南下に対し日露戦争を戦い、タフトー桂密約で朝鮮権益を保障されて、日本はアジア侵略への道を突き進むようになった。
 そして今、それは第三の段階にある。「第三の開国」、「第二の敗戦」と言われる今日の事態は、親米アジア敵視の手先国家としての完成である。
 明治以降、第一段階の手先化は、少なくとも外面的には日本の主体性があった。戦後の手先化も主として、米アジア侵略の後方基地としての役割を果すという限られたものであった。しかし、今日の第三段階の手先化は、軍事的には米軍の雇用軍として戦場に引き入れられ、その指揮の下で動くまったくの手先化であり、経済的には対米融合し、とりわけ金融面で融合しながらアジア、中国で上げた利益を米国に捧げる、そのようなものになっている。
 そして、憂うべきことは、このような手先化、融合化は日本の国として民族としての解体を伴って進行しているということである。

■アジアの期待に応える新しい歴史を
 このアジア敵視の第一の対象は朝鮮であり、朝鮮敵視をテコに日本はアジアを敵視し侵略する道に進むようにされたということを忘れてはならない。この間の有事法制、イラク特措法も、朝鮮の脅威が口実にされた。
 このままでは、日本は、米国が狙う新たな朝鮮戦争の先兵にされてしまうだろう。それは、アジアとの敵対の道にいっそう深く引き込まれるということであり、日本破滅の道である。
 一方、「アジアと共に生きる」道は、アジア諸国が望み待っている道であり、それは自主、平和、連帯の道であり、日本とアジア繁栄の道である。
 あまりにも明白なこの事実を前に、だからこそアジア諸国は、アジアの仲間として、日本が一緒に進むことを願って「待って」くれている。
 今、日本の政治家や識者の多くは、近代から戦後にかけての親米アジア敵視の歴史の中で、あまりにも崇米、恐米に凝り固まっている。彼らは「アメリカの優秀な『子分』をめざせ」(三枝成彰)、「この現実を受け入れなければならない」(山崎正和)などと言いながら、「しょうがないんじゃないの日本は米国の何番目かの州みたいなものだから」(久間章正元防衛庁長官)などと開き直っている。
 崇米、恐米思想に毒されれば見えるものも見えなくなる。それはイラクの事態一つとっても言えるのではないだろうか。われわれ皆が国の自主性を大事にすることによって、日本を自主的な国にする。それが恥辱にまみれた過去の歴史に決別し、アジアの期待に応え、新しい歴史を創造する道につながっていく。


 
研究

日本の愛国のキーワード―「個を尊重する愛国」

若林盛亮


■日本の愛国問題
 最近、国益だとか愛国が論議されるようになった。教育改革の目玉として個性教育とともに愛国心教育が盛り込まれようとしている。しかしながら愛国心というとかつての国家主義教育を連想させるというので、「国」を「クニ」と言い替え「クニを愛する心」としたり、「郷土愛」などとする案が検討されたりしている。
 しかし元来、自分の国を愛するということ自体は、現実にわれわれが日本人として存在し、国と民族を生活単位としている以上、当然の人間感情であり、これ自体、否定されるべきものではない。
 日本人が愛国というと、かつて侵略を受けたアジアの国々から警戒されるということで、自国の利益のみを追求し他国を侵略する「閉じられた愛国」ではなく「開かれた愛国」というようなものを考えるべきではないかと主張する人がいた。これは大日本帝国、皇国日本の復活を恐れるアジア諸国はじめ諸外国の「愛国アレルギー」を考えた日本の愛国のあり方としてうなづけるものである。
 同様に、日本国民自身にあるかつての忠君愛国のような国家主義的な愛国にたいするアレルギーを克服する愛国とはどのようなものでなければならないのかをここでは考察してみたい。

■小林よしのりの提起した問題
 この数年、「戦争論」「『個と公』論」などの著書で小林よしのりが一種の愛国論を展開しており、これが一つの問題提起となって一定の若者の間に人気を呼んでいる。このことを分析することも日本人の愛国問題を考えるうえで重要なことではないかと思う。
 小林は、「個と公」の問題を正面から取り上げ、公の重要性、あるいは愛国の大切さを訴えている。しかし彼の言う「公」は、かつての「滅私奉公」であり、国家主義的な愛国である。小林の思想の根底にあるのは、人間は元来、エゴ的存在であり個々の人間はエゴが本性である、だから公で個を縛らなければらない、その最高形態が国家主義による戦争への個の服務、滅私奉公である、このようなものである。
 では彼の提起した「個と公」の問題提起が、若者に一定の歓迎を受けたのはなぜだろうか。小林の「戦争論」を読み、ワールドカップで「ニッポン・コール」や「日の丸」ペイントで盛り上がった彼らは、小林の「滅私奉公」論、国家主義を歓迎しているのであろうか。けっしてそうではないと思う。
 小林の主張が一定層の若者に受け入れられたのは、「個の尊重」をうたいながら個人主義をまんえんさせた「戦後民主主義の罪悪」を痛烈に批判しているからである。それはある意味で公をなくした個のエゴを暴き出したという点、公という視点を欠いてはならないという点で彼の主張は正しく、その限りで小林の主張を若者が受け入れたということだと思う。

■個人主義は個の尊重をもたらさない
 民族主義的な論陣を張る論客として知られる松本健一氏は次のように述べている。 「戦後の民主主義教育がそのように『私』の価値を絶対化したのは戦前の『公』がすべて『国家』に一元化された裏返しにほかならない。そのため、戦後は、『私』が『国家』を越える理念として立ち現れた」
 戦後の日本において、戦前の国家主義、滅私奉公に反発するあまり、「公よりも個」という「私」を絶対化する傾向を免れえなかった。それゆえ、個人主義に走り「エゴ化する日本人」という精神的荒廃を招いたという、戦後日本のあり方への一つの反省の視点であると言える。
 ところで、ややもすれば「公」を否定し「私」を絶対化し、個人主義に走った戦後の日本で、はたして個の尊重が実現されたのか。
 特にグローバリズム思想潮流の全面化とともに、市場原理万能の風潮の中、日本的集団主義に批判が集中され、会社から地域、家庭に至るまで共同体の崩壊を招き、さらに日本人は個々ばらばらの個人に分解されるようになった。社会は一握りのエリートと流動的労働者、フリーター、勝者と敗者に二極分解するなど、社会は分裂状況に陥っている。こうした中で社会に居場所を見いだせない若者たちの間で、いじめ、少年犯罪、ひきこもり、自殺願望が一般化している。個人主義が促進されればされれるほど、ますます個人が尊重されなくなってくることが生活実感となっている。
 イラク反戦デモで若者の愛唱歌になったというSMAPの「世界に一つだけの花」という歌がある。この歌にこめられているのは、「ナンバーワンではなくオンリーワンを!」という思想である。「私」の絶対化、個人主義がゆきつくところは、優勝劣敗の競争原理、市場万能主義原理のナンバーワンをめざす思想であり、それは個を尊重するものでなく、「敗者」という形で個を切り捨てるものだ。大きな花、小さな花、どんな花でも世界にたった一つしかないかけがえのない存在なのだ。この歌が反戦歌になりえたのは、アメリカのブッシュ政権に代表されるネオコンの「市場万能原理主義、優勝劣敗の競争原理主義というアメリカの価値観で世界を一色化する」という思想、各国、各民族の個性、独自性を否定する思想にたいする痛烈な批判がこの歌にこめられているからである。イラクもイランも朝鮮もそれぞれの色を持っている、国だっていろんなあり方があっていいではないかという思想が、先に述べた日本の若者の置かれている生活実感と重なり、彼らの心をとらえたからだ。
 それは同時に、極度に個人主義化し、ナンバーワンをひたすらめざせのいまの日本において、もっと個が尊重されるべきことを若者は訴えているのではないだろうか。

■個と公の対立の克服―個を尊重する愛国
 個と公は対立するものというのが、これまでの「滅私奉公」論であり、その逆説として公なき個人、個人主義の主張であった。公を尊重する個、個を尊重する公ということは不可能なものだろうか。
 私たちはだれしも個性を持つ個人として存在する個的存在でありながらも同時に、日本民族、日本国民、ありいは○○県民、市民、町民、村民という社会人、社会的な存在である。この個と公、個的存在と社会的存在というのは対立するものなのだろうか。
 個と公の対立の克服、個と公の正しい結合を考えるうえで興味深い現象がある。「新まじめ主義」と一部で言われている現象である。
 今日の若者の共通の意識変化として「自分のことは自分で」「自分で決めたことだから」「流行にのらない」という自己決定主義があると言われている。ここで興味深いことは、この自己決定主義がたんなるエゴ、自分勝手主義のようなわがままではなく、社会に貢献したいという公意識として現れているということである。その一例として以下のようなことが紹介されている。
 小学校では高学年から、クラス自治が理念になっていて、自己決定原理でクラスが動いている。学級委員というリーダーが選挙で選ばれ、その下に班が五人一組で編成され、行事の日取り、机の配列、席順まで全員の話し合いで決定されている。例えば、席順を決める場合、学級委員の子は、「嫌われ者」が除け者にならないように、あるいは「おしゃべり」には授業中、私語をさせないよう考えて席順を決めるという。学級委員の選出では、「クラスの皆のために教師にしてもらいたいことを要望します」「環境をよくするため、頑張ります」、こういう演説でないと当選できなくなっているそうだ。ひと昔前の個人主義ではだめだということだ。
 ある調査によると「自分で決定して自分で責任をとる」という若者たちの多くは、「自分の国のために何か貢献したい」という一勢力をなすまでになっているという。
 この「新まじめ主義」と言われる若者の一現象にも日本の愛国を考えるヒントがあるように思う。
 愛国心もそれが個々人にとって利益になってこそ形成される。今、日本で愛国心がないと言われるのは、日本が個人の自主性を尊重し守るものになっていないからだ。
 個と公の対立を克服する新しい個人、個を大切にしながらも「国のために貢献したい」新しい日本人にふさわしい愛国を考えるべきだということである。そのキーワードは、「個を尊重する愛国」ということではないだろうか。


 
評論

医療の営利化、アメリカ化に問う

魚本民子


 最近、治療を必要としながらも病院へ行けない人が増えているという。吐血しても病院に行かず死亡した男性、ガンの痛みに耐えきれず病院にはいったものの治療を拒み「痛みだけを取ってくれ」と懇願する男性、医者から「治療を中断すれば命に関わる」と警告されていながらも通院を止め死亡した男性など、生命の危険を知りながらも医療費を払えず治療をあきらめる人々。これは1997年の「国民健康保険法」改定に起因する。国民健康保険料の滞納者から「国民健康保険被保険者証」の返還を義務化し、従わない場合は過料10万円以下の罰金、そして「被保険者証」返還者は受診時に医療費の全額支払いとなった(後で7割還付)のだそうだ。
 不況の中、払いたくても払えなくなった人は多い。今までずっと保険料を払ってきたのに、たった1年半、滞納しただけで「被保険者証」を取り上げ、実質的に治療を受けられなくしている現実はあまりにも冷たい。
 それに拍車をかけるように、今、政府は「医療も商売」と医療の営利化を押し進めている。アメリカで「医療産業こそが経済成長のエンジン」と言われるや、即、それを真似たのが小泉「医療構造改革」、医療における規制緩和であった。医療・介護分野の市場規模は20兆円、規制緩和で最大20%拡大の余地があると公然と語ってはばからない。医療の営利化が出された動機は、国家が責任もって果たすべき医療を削減し、それを経済活性化に利用しようとするところにある。そのような考えからは到底、国民のための医療改革などなされるはずがない。
 小泉「医療構造改革」の弊害は医療を受ける国民のみならず、医療を担当する医療機関にも深刻な影響を与えている。「医療法」の改定によって、2000年の病院数はピーク時から830カ所減少した9266病院となり、それに加え昨年4月の診療報酬の引き下げが追い打ちをかけ、現在、全病院の78%が赤字状態(全国公私病院連盟調べ)、倒産件数も昨年は過去最悪の47件(帝国データバンク調べ)となっている。
 政府は、小泉「医療構造改革」による医療の営利化が、あたかも医療サービスを多様化し医療の質を向上させ国民にとってよいことであるかのように宣伝している。しかし、それは医療の営利化を押し進めるうえでの国民的コンセンサスを得るための詭弁でしかない。
 そのうえで留意すべきなのは、日本での医療の営利化を誰よりも待ち受けているのがアメリカ企業であることである。厚生労働省が病院の債権発行を含めた資金調達の多様化案を発表するや、アメリカ大手格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)やフィッチ・レーティングス、ムーディーズなどが競って市場への参入を表明した。彼らは病院経営のノウハウを教える事業も始めるという。今、アメリカの医療は、保険会社が複数の病院と契約し、その病院経営を統括管理する「管理医療」(マネージド・ケア)が幅をきかせている。そこでは保険会社=管理会社が徹底した市場原理によって病院経営を管理指導し、投薬など治療方法にいたるまで効率第一に統制し血の通った患者本位の医療ができなくなっているという。
 病院の債権・格付け化は、日本医療の営利化、アメリカ化を促進するだけでなく、こうしたアメリカの保険、医療管理会社の日本医療分野への進出を促すものになるだろう。医療に市場原理を導入しアメリカ型医療を目指した小泉「医療構造改革」は、国民皆保険制度にもとづいた日本医療を崩壊させアメリカ医療のもとへの融合、統合をもたらしていくだろう。
 市場原理、競争原理にもとづいて運営されるアメリカ医療と融合し、そのもとに統合され牛耳られる医療が、人間愛、同胞愛にもとづく真心からの患者中心の医療になりえないのは火を見るよりも明かである。真心からの真の医療を求めて連綿として推し進められてきた医療分野での闘いが、この大きな歴史的転換点にあって、新しい発展を切実に求められていると思う。


 
文化

文化も融合!

森 順子


 衛星放送を見ていたときのこと。画面はCMになり、突如、着物姿のアメリカ女性が現れた。「日本人は日本のいいところを忘れています」。履き物を揃えながら、その女性は言った。画面には「日本人にはニッポンが足りない」というタイトルだ。たしかに私たちは日本のよさや文化を知らない側面があるし、気づいていないこともいっぱいあるなあとうなづきたいところなのだが、どうしてか頭の中は???である。青い目の人が日本のよさをわかり宣伝してくれているじゃない、と一方では納得するのだが、でも、アメリカ人にそう言ってもらいたくないという気持ちになったからだ。言葉もファッションも料理も生活様式もアメリカナイズされてしまったと言われる日本で、外国人でも日本人でも日本文化の見直し、日本志向が広まっていることはよいことだと思う。しかし、気になるのは、こういう中で日米の文化的融合ともいえる状況が進んでいることだ。
例えば今のアメリカ大リーグだ。世界中の一流選手は皆アメリカに行き大リーグで競い合う。それを世界中の人々が衛星放送で同時観戦する。地球規模のアメリカ中心の現出だ。アメリカの野球が一軍なら日本や韓国、中南米の野球は完全な二軍だということだ。映画界では「あずみ」を製作した監督がアメリカ映画界に抜擢され、さむらい映画をつくることになったそうだ。めったやたらに切りまくるだけのアメリカ式さむらい映画。それは、マグドナルドの「照り焼きバーガー」のように、形は日本的でもアメリカ文化そのものというのに似ている。
日米文化の融合、それはいいものはアメリカに行って、残ったものは日本でという日本の二軍化。そして、形だけは日本であって肝心の中身はアメリカというような形で進んでいる。あのCMのように日本は良いところがたくさんあるなどと長い歴史を経て創造され守られてきた日本の民族文化をアメリカ人が分かっているかのように言えば、やはり浅く感じられる。日本のよさを本当にわかり、本当に守ることができるのは、やはり私たち日本人自身なのに、アメリカ人が言えば、日本志向も表面的なものに流れてしまうのではないだろうか。そう考えると、やっぱりあのCMは気分が悪い。


 
 

朝鮮あれこれ

小川 淳


☆飛び跳ねるマスの群れ
 ここ数年、朝鮮では、牧場や鶏工場、養魚場など各地で建設が進んでいます。先日、そのうちの一つ、黄海北道ボムアン里にある養魚場を見学しました。
 ニジマスの養殖場ということで山の中の養魚場を想像していたのですが、平壌と開城のちょうど中間点、高速道路脇の田園地帯にあり、ちょっと意外でした。
 一秒間に650リットルという湧水量の豊富な泉を利用した小規模な養殖場が昔からあったそうで、それを20数町歩という大規模なものへと一新したもの。今では数万匹のニジマスを主に、鯉、鮒、あひるも飼育しています。大きく区画された池が24個も整然と並び、餌を投げると数千匹もの鱒が餌に群がる様は、壮観です。岸には柳を植えて水温が上昇しないように管理も行き届いていました。
 すごいなと思ったのは、発電所を併設し電力を自力で解決していることで、すこし離れた所に流れる川をせき止めて小規模の発電所を建設。三台の発電機が並ぶ225キロワット級のものですが、ほぼ養魚場と家庭用電力は自給できるそうです。
 このように農場や企業所が国に頼らず、自力で電力を解決しながら生産するという自力更生の生産単位が全国いたるところで生まれています。エネルギーや食料など不足している中で、こうした農場、企業所がどんどん増えれば、近い将来、経済分野での高揚も充分可能ではないか。清れつな水の中で悠々と泳ぐニジマスの群れに、そんな元気をもらった一日でした。

☆都市改造に着手
 最近、いくつかの都市で改造工事が進展中です。黄海北道の沙里院(サリウォン)市では、伝統的な町並みを復活させる「民族街」建設が進んでいます。市中心部から信川へ向かう幹線街路約一万平方メートル内の建造物を朝鮮式の外観に作り直すというものです。
 一方、平壌市では、平壌駅から大劇場、大同橋に至る区間の改造工事が進行中で、中心街を首都にふさわしい外観に一新するというものです。年初から電車線路の撤去が始まり、いま建物一階部分の改装工事が進んでいます。
 朝鮮が、このように民政や経済部門を重視するのは、おそらく20年後、30年後の国つくりを見据えているからであって、一部の報道のように戦争準備におおわらわというような見方は一面的です。


 
随想

公 園

赤木志郎


 私たちの事務所の横に公園がある。大きくもなく小さくもない立ち寄りやすい公園である。真ん中に噴水の池があり、周りに木が植えられ、セメントで作られたテーブルと椅子があちこちにある。よく散歩やランニングのために行くが、そこで見る光景が楽しみでもある。まず目につくのが老人たちである。大体、一かたまりになって将棋をやっている。そして早足散歩をしている老人も多い。早朝と夕方は老人たちの憩いの場になっている。
 次に、学生である。ベンチを占領し本やノートを片手に暗記ものなどやっている。近くに機械大学、人民経済大学、音楽大学などあって学生が多いので、この公園が勉強の場となっているようだ。とくに3月の試験シーズンの頃は寒い中を早朝から学生で一杯であった。数年前、日本の大学生が訪朝しこの公園を一緒に散歩したとき、その学生が「あっ! 勉強している!」と叫んだのには少々驚いた。朝鮮では道を歩きながら暗記する学生もいるくらいで、静かな公園で勉強して何もおかしくないのにと思ったが。もちろん勉強だけでなくトランプしている学生もいる。
 中学、小学生たちは、数人がかたまって空手や体操などの運動をやっている。あるとき、小学生3人が顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔をして立っていた。どうしたのかと見ると、老人がボールの上に座って説教していた。芝生の上でボール遊びをして老人に叱れたのであった。
 時には、職場の帰りに集まって酒を飲んでいる人もおり、春の花見の季節には家族づれで弁当をひろげている光景も見られる。もちろん若い男女のカップルもいる。
 平壌市には、大きな公園以外にもこうした公園が多い。大抵、遊園地に見られる遊技施設まで備えている。滑り台やブランコなど備えた小さな公園などは、そこの地域の住民が自分たちで公園を作り整備する。日曜日や早朝の時間を利用して住民が集まって、ペンキを塗り替えたり、器材をもちよって整備するのである。だからアパートがあれば手作りの小さな公園、遊び場があるということになる。
 人々の生活に公園は欠かせない。都市における自然との接点であるとともに、共同体のさまざな生活の場を提供する。都市の中の公園つくりは、共同体作りの視点から見ていかなければならないと考えさせられる。


 
 

編集後記

魚本公博


 朝鮮の梅雨「チャンマ」、日本の梅雨に比べれば随分、降雨量が少ないのですが、今年は例年になくよく降り、トウモロコシなど畑作物の作況はよいようです。
 今回の「主張」では、「アジア人のためのアジア」を志向する東アジア諸国の日本への期待について書いてみましたが、どうでしょうか。
 米国のイラクに対する侵略戦争も決して彼らの思うようには行かず、ブッシュ政権も長続きしないだろうと思わせる兆候が見えてきました。
 アジアを侵略して敗北し「過ちは二度と繰り返しません」と誓った日本。他国を侵略する者は敗北するという歴史の教訓を深刻に思い返し行く末を真剣に考えるべきときが来ているようです。


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