研究誌 「アジア新時代と日本」

第199号 2020/1/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

情報展望 混迷の時代、日本の針路はどこに

随想 朝昼晩

時事 世界の「真ん中」で妄言を叫ぶ安部首相




 

編集部より

小川淳


 明けましておめでとうございます。
 2020年は波乱の幕開けとなった。イランの革命防衛隊司令官ソレイマニをイラクで殺害するという暴挙を敢行したトランプ。他国の指導者を公然と殺害することが国際法上許されるはずもない。当然にもイラン側は報復攻撃を行い、イラン側が米軍に死者を出さないよう自制することで戦争は避けることができたが、トランプはまたもや中東に大きな火種を残す結果となった。
 トランプの中東政策に大きな影響力を持つとされるのが、キリスト教福音派と呼ばれる保守派勢力だ。アメリカの有権者の4分のTを占め、一昨年の大統領選ではその81%がトランプを支持し、トランプ勝利を決定的なものにしたという。福音派とは、特定の宗派ではなく聖書に書かれたことをそのまま信じる人々のことで、パレスチナにおけるイスラエル国家建設を信仰の柱の一つに据えており、イスラエルと敵対するイランを仇敵としてきた。トランプが、彼らへのアピールを狙ってソレイマニ暗殺を謀ったとする見方は少なくない。もしそうなら覇権国家「アメリカの闇」は救いがたいほど深いと言わざるを得ない。
 この正月、世界における宗教間や民族間の紛争、イスラム内部の宗教的対立など、混沌とした情勢を眺めながら、ハンチントンの「文明の衝突」(1997年)をぱらぱらとめくった。知られている ように「文明の衝突」は、冷戦終結後の世界はどうなるのかを予測した本だ。イデオロギーの終焉にともない世界は西欧の価値観で統一され、対立のない調和した世界が訪れるという見方(フクヤマの「歴史の終焉」)に対して、いやそうではなく、イデオロギーに代わってアイデンティティをめぐる文明間同士の紛争が激化すると予測し、事実、冷戦後も世界は多くの紛争が起きた。その意味で、ハンチントンの予想は当たった。
 イデオロギーからアイデンティティという時代への転換というハンチントンの予測は確かに正しかった。いま世界の人々は自らのアイデンティティを探し求めてさまよい、戦い続けている。しかし、世界の紛争の原因をそこに求めるのは間違っているのではないか。パレスチナはその典型だろう。それが流血や戦争になるのは、アイデンティティ求める集団(文明)同士の戦いなのか、それとも民族の自主権を認めない大国主義や覇権主義によるものなのか。見方をかえればその様相はかなり違ったものになる。今回の紛争は明らかに後者だ。イデオロギーからアイデンティティの時代への転換が、紛争や衝突の原因ではなく、むしろ冷戦時代の大国主義、覇権主義の幻想こそ、いま世界で起きている紛争の主なる原因でではないか。この覇権主義の亡霊がさまよう混迷の時代はまだ続きそうだ。この混迷の時代の「羅針盤」に本誌が一歩でも近づければと思う。今年もよろしくお願いします。



情報展望

混迷の時代、日本の針路はどこに

編集部


 「失われた10年」の中、21世紀を迎えながら、早20年が過ぎた。
 しかし、混迷は晴れない。この先、何年が失われ続けていくのか。
 淡い期待とともに出発した「アベノミクス」がもたらしたのは何だったか。それは、案の定、格差と貧困拡大の加速化と景気低迷の中でのいつ暴落するか知れない株価の高騰でしかなかった。
 その根底に、日本の国と社会のあり方、その日本が従属し依存する米覇権の持つ深刻な矛盾と衰えがあるのに思いを致す人の数は急速に増えてきている。
 事実、旧年は、米覇権の脆弱性、有限性が誰の目にも明らかになった一年だったと位置付けることができるのではないだろうか。

 

1 一段と進んだ新旧政治の交代と米覇権の崩壊過程

 旧年、世界の政治を見渡して何が特徴的だったかと言えば、それは、米覇権崩壊過程の劇的な進行とともに、古い政治の没落と新しい政治の勃興、新旧政治の交代が決定的になったことだと言える。  そうした中、この二つの現象が密接に結びついて進行したこと、そしてそれが日本の政治にも顕著に現れてきたことを銘記する必要があるのではないかと思う。

■決定的になった新旧政治のあり方の転換
 この数年来、世界的な範囲で、政治のあり方が大きく変わってきた。
 人々の生活を破壊し、居場所を奪う新自由主義、グローバリズムの現実。それへの対応力を全く持てないまま、人心を完全に失った古い政治、政党。そうした中、自分たちの国、自分たちの地域、自分たち当事者自身を第一に、当事者自らの手でそれを実現しようと立ち上がった各階各層かつてなく広範な人々の政治への進出。その熱狂的な大衆的支持を受けて、新しい政治、新しい政党が、雨後の竹の子のように、政治舞台に登場してきた。
 この「ナショナリズム」とも「ポピュリズム」とも呼ばれるかつてなかった時代的趨勢が、旧年、ヨーロッパ、中南米でも、アジアでも、全世界でさらに勢いを増し、圧倒的に支配的なものになったということだ。
 それは、様々な形態をとって進行した。イギリスでは、米国で共和党が「トランプ党」になり執権しているように、保守党が「ジョンソン党」になり、脱EUを強行するようになった。一方、南欧では、すでにイタリアで新しい政党「五つ星運動」の執権が実現し、フランスでは、ルペンの国民戦線、黄色いベスト運動が、スペインでは、ポデモス等々が力を伸ばしており、中欧では、ドイツでメルケルの執権党が凋落し、新しい党、「ドイツのための選択肢」が躍進、東欧では、ハンガリーをはじめ多くの国が、新しい政治、政党の執権下に入っている。ヨーロッパだけではない。南米でもアルゼンチンなど、新しい政治による執権の拡大が勢いを増している。
 新しい政治への動向は、また、暴動などの形態をとって世界に波及した。香港やウイグル、カザフスタンやジョージア、チリ、そして、シーア派とスンニ派、宿命の宗教対立を乗り越え、両派連合してのイラク、レバノンでの反イラン自主独立の闘いなど、覇権に反対する新しい政治の暴動は全世界に広がった。

■促進された米覇権の崩壊過程
 今日、米覇権は、自国第一主義・新しい政治の闘争対象であったグローバル覇権ではない。米国第一主義を掲げるトランプ・ファースト覇権だ。
 そのアメリカ・ファーストによる覇権がなぜ世界の自国第一主義・新しい政治と衝突し、その熾烈な攻防の挙げ句、覇権崩壊の過程を早めているのか。
 トランプは、3年前の大統領就任演説で、世界のすべての国が自国の国益を第一にするのを支持すると表明した。だが、現実のトランプ政治はどうだったか。アメリカ・ファーストの露骨な押しつけ以外の何ものでもなかった。大統領就任直後のメキシコに対する国境の壁建設費用の強要は、その「宣言」だったと言えるだろう。
 「理念」も何もない、米国のエゴ丸出しの覇権が、国民的支持の下、自国第一主義を強める世界に通用するはずがない。しかも、米覇権の源となる米国の経済・軍事力は世界を従わせるだけの力をすでに相対的に失っている。
 米覇権の崩壊過程は、旧年、どこにも増してアジアで顕著に現れ進行した。
 東北アジアでの朝米交渉は、昨年2月のハノイでの「不調」から年末の「決裂」まで、受動に陥った米覇権の弱さを露呈しただけだった。
 その「弱さ」は、東南アジアでも顕著だった。中国の一帯一路戦略に対抗して米国が打ち出した「インド太平洋戦略」がASEANによって軽く一蹴されたのだ。その理由は、「対抗ではなく対話と協力を」だった。
 西アジアでこれまで続いていた米覇権の崩壊過程は、旧年、一段と進展した。シリアやアフガンでの敗退と撤退。イランやトルコとの攻防でも、米国の苦戦は誰の目にも明らかだ。
 米覇権の崩壊過程は、また、中国やロシアとの覇権抗争との連関でも一層浮き彫りになったのではないか。
 中南米やアフリカへの米覇権力弱体化の背景には、自国第一主義気運の高まりとともに、この地域への中ロの浸透が少なからず与っている。
 ベネズエラ、マドゥロ政権が米国による露骨な政権転覆策動や天文学的インフレなど経済崩壊の危機を乗り越えて続いているのは、デジタル人民元の導入や軍事支援など、中ロによる支え抜きには考えられない。また、アフリカ諸国の大部分が中国「一帯一路」に加盟していることなども、米覇権崩壊の一つの現れだと言うことができる。
 旧年、米国は、中国との「百年冷戦」をヨーロッパ諸国との間で内的に「宣言」し、「貿易戦争」や5Gをめぐる「通信戦争」などに踏み出した。
 だが、「戦果」ははかばかしくない。昨年末には、あのキッシンジャーが「米単独覇権不能」「米中二極化」を吐露するに至っている。

■日本に押し寄せた世界政治の今日的趨勢
 旧年、日本政治をふり返った時、その特徴は、この数年来、「新しい政治」が現れては消えてきた中、その内容と方式、風貌など、これまでになかった真の意味での新しさを持った政治、政党が生まれてきたこと、もう一つは、これまで日本外交で考えられもしなかった現象が日韓間に生まれてきたことではないだろうか。
 何よりもまず、「れいわ新選組」。旧年、参院選を契機に現れたこの政党は、生活崩壊、居場所喪失の現代日本の「生き苦しさ」の中から生まれてきた。
 「死んでしまいたい」社会から「生きたい」社会への転換を訴え、救いを求める人々と一緒に苦しみ、一緒に出口を探し考える。演壇の上から一方的に支持と声援を求めるのでなく、聴衆の中に分け入り、質問に答え、人々との対話を通して、生活と経済、社会と政治、国のあり方など、ともに模索し答えを探し深めていく。
 かつて、こんな選挙演説、活動があったろうか。なけなしの財布をはたいての無数の人々からのカンパ、演説会場で列を成す応募の若者たちのボランティア、国民主体、当事者主体に支えられたこの運動が、マスコミによる無視と黙殺の中、2%を超える得票と二人の当選者を出したのは一つの奇跡だったと言うことができる。しかも、その二人が重度の身障者、筋萎縮性側索硬化症患者だったとは。当事者第一、当事者主体の政治を体現したこの一事に、消費税廃止を掲げ、公務員数の増加、奨学金チャラなど、人々の現実の血の叫びに応える政策で、近未来での政権交代を構想する「れいわ」政治の新しい政治としての所以が凝縮されていると思う。
 旧年、日本政治に顕れたもう一つの特徴は、最悪の日韓関係にあったのではないだろうか。
 元徴用工の賠償請求から始まった日韓衝突は、日本による半導体原料の輸出管理規制、ホワイト国からの韓国排除、これに対する韓国による軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄と続き、従来の日韓関係ではとても考えられなかった最悪泥沼の様相を呈している。
 なぜこういうことになったのか。そこには、南北朝鮮主体の東北アジアの地殻変動、そして今日の世界政治の動向が色濃く反映されているのではないかと思う。日本による対朝鮮植民地支配への歴史認識は見直されねばならず、米覇権の下での日米韓の秩序ももはや絶対ではない。韓国における米覇権の牙城、検察庁の改革とそれをめぐる米韓水面下での対決はその象徴だと言うことができる。

 

2 米覇権崩壊、新しい政治進展の新段階、新年、闘いの展望はいかに

 旧年中、決定的になった新旧政治の交代と一段と促進された米覇権の崩壊過程。その行方やいかに。新年、その展望が問われている。
 混迷の時代にあって、それを見通すのは容易ではない。停滞か後退か。そこで敢えて言おう。そのどちらでもない。それは、新たなより高い段階への発展だ。
 なぜそう言えるのか。朝米交渉は「決裂」してしまったではないか。イランも米国による自分たちの司令官殺害に対し、あの程度の反撃しかできなかった。年末から年初にかけて連続するこうした事態の進行は、むしろその逆を示しているのではないのか。

■本物か偽物か、新しい政治をめぐる攻防の激化
 最近、メディアなどで、「左右のポピュリズム」について言及される時が少なくない。支配的な政治になった新しい政治に、左右の違い、対立があるということだ。
 そこでまず提起したいのは、新しい政治を大衆迎合の政治、「ポピュリズム」と言うのは正しいのかということだ。新しい政治は、政党や政治家が自らの目的達成のため大衆に迎合する政治ではない。それとは真逆に、大衆が自分たちの国、自分たちの地域、自分たち当事者第一を実現するため、自らが主体となって、政党、政治家を動かす政治、それが新しい政治だと思う。
 その上で、もう一つ提起したいのは、新しい政治を分類する時、「左右」という古い政治の基準を使うのはおかしいのではないかということだ。
 国と民族そのものを否定する、究極の覇権主義、グローバリズムに反対する闘いから生まれてきた政治、新しい政治にとって、問題は左右ではない。自分たちの国第一に覇権に反対するのかどうか、そうした人々の意思、民意に忠実に反覇権を貫く政治であるのかどうか、この真に新しい政治、本物か偽物かこそが問題なのではないか。そこにこそ、この政治を分類する基準も置かれるべきなのではないだろうか。
 早い話、アメリカ・ファースト、新しい政治を掲げながら覇権するトランプの政治は明らかに偽物だ。英ジョンソンや伊サルディーニ、独「ドイツのための選択肢」の政治、等々も同様だと思う。そして、わが日本ではどうか。トランプ政治に従い気脈を通じる「維新」の政治は、どう見ても本物とは言えないのではないか。
 覇権と闘う本物の新しい政治と覇権に従い自ら覇権する偽物とが対立し、確執、闘争するようになるのは必然だ。新年、世界と日本の政治を展望する時、もはや支配的な政治となった新しい政治をめぐる、この本物か偽物かの攻防の激化、そして、それを通しての米覇権との闘いの激化、それが基本趨勢となるのは、不可避なのではないだろうか。
 この攻防、闘いの激化がどれだけ米覇権崩壊過程の促進につながり、それと一体になるかどうか。それは、本物の新しい政治が、自分たちの国第一、自分たちの地域第一、当事者第一を目指し、その実現のため、国民主体、住民主体、当事者主体の闘いを求める民意にどれだけ忠実に応え、それをいかに全面的に反映して闘うか否か、その主体的な闘いのいかんにかかっているのではないかと思う。

■東北アジア新時代の終息か新しい発展か
 新年の情勢発展を展望する上で、旧年末の朝米交渉「決裂」をどう見るかは極めて重要だと思う。
 もともと、この「決裂」をめぐっては、朝鮮が決裂などできるはずがない。口でそう言って米国の譲歩を引き出そうとしているだけだ。そうしようとするあまり、自ら交渉の期限を年末に切ってしまったのは失敗だった。結局あれこれ惨めな口実を設けて、交渉を続けるしかないのではないかというのが大方の見方だった。
 だが、現実はそうはならなかった。「決裂」が現実のものになってしまった今、彼ら評論家諸氏の間で言われているのは何か。やはり、「交渉の続行」だ。その心は、朝鮮が制裁に耐えられるはずがない、「自力更生」などかけ声に過ぎない、というところにある。
 だが、こういう見方こそ、主観に過ぎないのではないか。客観は明らかに半世紀を超える制裁に自力更生で耐えしのいできた朝鮮の歴史にこそあると思う。
 ところで、今回朝鮮が打ち出した、難関を突き抜ける「正面突破戦」とは、単に制裁を自力更生でしのぎきるということではないようだ。それは、この戦いがよい情勢が来るのを待つのではなく、主動的に打って出る攻撃戦だと言われているところに端的に示されている。
 その上で注目すべきは、去る1月7日、文在寅韓国大統領が行った「新年の辞」だと思う。そこで大統領は、南北朝鮮が共に生きていく「生命共同体」だと言いながら、朝米が動かないなら、自分たちで南北のことを進めるとまで訴え、その演説の直後、米国が「非核化抜きの経済協力は許されない」と言ってきたのに対しても、直ちに反論している。
 このこれまではあり得なかった事態のこうした進展に、朝鮮半島をめぐる東北アジアの地殻変動、時代的転換が終息するどころか、新たな発展段階を迎えていると見るのは決して無理なことではないと思う。
 ちょうど2年前、ピョンチャン・冬季オリンピックを契機に始まった南北朝鮮主体の地殻変動は、米国との「協同」抜きに自力で推し進めるより高い段階に発展したと言うことができるのではないだろうか。
 すなわち、トランプの偽の新しい政治と「同床異夢」で進んでいたこれまでの段階から、南北朝鮮主体の南北共同、民族の力、自力で難局を切り開いて進む、東北アジア新時代のより高い段階への発展だということだ。
 これは、本物と偽物、新しい政治をめぐる世界的な闘い、米覇権との闘いの先端を担い、そのもっとも厳しい一環を成していると言っても決して過言ではないのではないだろうか。

■問われる日本の針路
 新年、日本の情勢発展の展望は、世界のそれといつにも増して密接に結びついていると思う。特に、東北アジアの地殻変動、その新しい段階との連関は、一層具体的なのではないだろうか。
 これまで朝米「同床異夢」で画策されていた東北アジアにおける米覇権のあり方の転換。そこへの日本の軍事、経済力動員のため、推し進められてきた日米の軍事、経済一体化。それが「決裂」によって、さらに一段と促進されるようになるのは目に見えている。
 そこで焦点は、日本のあり方自体を根本から変える「改憲」だ。南北朝鮮主体に推進されるようになる東北アジア新時代の新段階にあって、日本が米国と共同で戦争する国になることは、米国にとって一層切実なのではないだろうか。
 こう見た時、世界と東北アジアの「新段階」が持つ意味は、日本国民にとって、米国とは全く異なったものになってくるのではないか。
 この「新段階」をめぐる日本国民と米国の間の利害と要求の対立が深まる中、それに米中の覇権抗争が絡まり、財界、自民党など、日本の支配層の間にも意思と思惑の様々な対立、確執がすでに生まれてきているように見える。
 どこまでも米国と運命をともにするのか、中国に乗り換えるのか、それとも、中国でも米国でもない、アジアとともに、そのリーダーになって進むのか。こうした大国主義、覇権主義的な思惑が様々に生まれ渦巻く中、真に新しい政治を求める意思が国民の間に一段と強まってくるのは必然だ。
 そこで問われてくるのが、この新しい政治をめぐる闘い、本物か偽物かの闘いではないだろうか。実際、世界的趨勢になってきているこの闘いは、日本でも問われてきているように思う。
 「れいわ」と「維新」に代表されるこの傾向は、今、生きているだけで価値があるのか、それとも生産性か。一人一人を大切にするのか、効率か。協力か、競争か。「ともに」と統一か、排除と分断か。等々、様々な対立点、対決点を持ちながら、日本政治におけるその位置を高め、存在を大きくしていくのではないか。
 この真に新しい政治なのか否か、本物か偽物かの闘いにおいて決定的なのは、やはり民意に応えるのか、民意を利用するのかであり、覇権と闘うのか、それともそれを容認し、自らも覇権するのかではないだろうか。
 その上で、この新しい政治の真偽を分ける重要な基準として、今、東北アジア新時代の新段階にあって、それに対しどう対するのかが一層切実に提起されてくるのではないかと思う。
 混迷の中での日本の針路、それは今や具体的に提起されてきている。



随想

朝昼晩

平 和好


 新年は香港記事を小休止して、年末年始によく見たテレビの話題を。
 最近、家に居る時間が少し多くなった。そこへ、定年をお迎えになったパートナー様がずっとテレビをつけるので音だけは聞こえてくる。朝は10時頃から、昼は1時頃から、夜は7時以降の「ゴールデンタイム」に聞えてくるのが圧倒的に警察ものなのだ。特に警察ファンでもないようだが、毎日のようにそのパターンだ。近頃はハードディスクに録画したものも見ておられるので、すごい頻度である。

■西部警察もすごかったが
   込み入ったドラマと違って筋はいたって簡単。事件が起こって、科学捜査と人間性あふれる刑事の活躍で、犯人を追い詰め、自供に持って行き解決するまでを追うものが大多数だ。登場人物は極めて多彩。十津川警部、杉下右京、鶴太郎さん、沢口靖子(実はファン)、あ、京都府警(署をあげての不正事件連発で滋賀県警と覇を競っている)版もある。全国観光のおまけもつく。美男美女が多く、とても素晴らしい人間性!「冤罪は防がなければ!」と叫ぶ(だけで防がないが)刑事が中にはいて、お味噌汁を吹きそうになった。警察刑事局長(現実では準強姦事件もみ消し)の親族の探偵?まで出てくる。幼少の頃に見た「部長刑事」はなかなか面白かった。しかし、その頃から現代に至るまで流れるテーマは「正義の警察を信頼して、反社退治に全面協力しましょう」の一本調子なのだ。

■実態と相当な差があるように・・・
 ドラマ展開は相当激しく、荒唐無稽が多い。刑事を誘拐して殺害したり、巨額の身代金を要求し、無差別大量殺人を図ったり、絵にかいたような極悪犯罪人が出てくるが、まず現実にはない。でも、テレビに従順なパートナー様は「えーっ!」「きゃああ」「なんでー」と叫んで展開に協力しておられる。もちろん、労働運動・市民運動を弾圧する警察など画面には一切登場しない。「弾圧すべき反社」に労働運動・市民運動を指定したい現政府や総理達と資本家の思惑をテレビ局や創作者は十分わきまえて作りこんでいるのがうかがえる。 そういう意見を少し言ったら「偏ってるんちゃうの?」と言われてしまった(*_*;

■誰がお金を?
 ところで朝昼晩×連日、つまり年中休みなしに放映するその費用、何百億はくだらないと推察できる。警察の活躍を宣伝するのが主眼だから道府県警や警察庁・警視庁がスポンサー料を出すのが順当だがそれは一切ない。番組の最後を見ればわかる。「協力」とは表示されていても「提供」ではないからだ。多分テレビ局の判断、あるいは何らかの調整機構のもとで各番組ごとにスポンサー企業が割り当てられ、お金を出させるのだろう。結局、商品を買う我々のお金がその原資だ。

■特別・超優遇
 巨額が乱れ飛ぶテレビ界にあって一番の超優遇が警察ものと言って良い。これを補強するのが検察ものと弁護士もの。しかしその数は圧倒的に少ない。(検察官はさらに政権と大資本のしもべなのでより極悪なのだが。例としてはゴーンは捕まえて14か月もぶち込むが、共犯と言って良い西川元社長は司法取引で放免。今となっては犯情薄い籠池氏は10カ月拘留するが、れっきとした不正の財務官僚は不起訴、昇進。関与鮮明な安倍夫妻は放置)。
 しかし、犯罪防止に警察は不要ではない。テレビで表現されている公正・科学・緻密・慎重の捜査をお手本に「市民を守って」くれればよいだけだ。なお、不祥事続きの所もあれば実直に職務を行うテレビ画面中のような公正警察官もいると噂には聞いている(*^_^*)。がんばってほしい。


 
時事

世界の「真ん中」で妄言を叫ぶ安部首相

金子恵美子


 明けましておめでとう゛と言って笑えない心境だ。
 昨年12月21日、日本橋三越本店で開かれた「2019年報道写真展」を訪れた安部首相。毎年同展を訪れ1年を振り返るのが恒例とのことで、ラグビー・ワールドカップでの日本代表のプレーなどを収めた約300点のニュース写真を鑑賞した後、こう述べた。
 「・・・日本が世界の真ん中で輝いた年になったのではないか。来年は東京五輪・パラリンピックが開かれる。躍動感あふれる中で新しい国づくりを進めたい」。
 「日本が世界の真ん中で輝いた年」。ギャグ?確かにラグビーW杯における日本の活躍は素晴らしかった。また、吉野さんもノーベル化学賞に輝いた。天皇の代替わりもあり各国の国賓が日本を訪れ晴れがましい報道がなされた。もうあったか無かったかも忘れてしまった大阪G20サミットの集合写真では確かに首相は真ん中に座っていた。でも、こうしたことを全部拾い集めても、「日本が世界の真ん中で輝いた年」とは、この人以外誰も思っていないのでは。
 この言葉を聞いた瞬間の違和感がどうにも止まらない。昨年を思い返してすぐに思うのは甚大な災害だし、又もやの安部政権による政権の私物化、公文書の隠蔽、忖度、準強姦罪で逮捕状まで出ていた親安部ジャーナリストへの「無罪」放免、政治家の不正・腐敗、大学入試制度のゴタゴタ、五輪会場を巡るドタバタ・・・。そうした中の明るい話題としてラグビーやノーベル賞、スポーツ選手の活躍などがあった。今の日本のせめてもの救い的出来事と言った方が当たっているのでは。
 国内政治に輪をかけて酷いのは、国際社会における日本の凋落ぶりではないだろうか。大きく報道されたのは男女の格差だが、日本は153カ国中121番目(世界経済フォーラムの報告書)。男女が対等になるまであと何年かかるかという試算では世界で最も歩みが遅い東アジア・太平洋地域は163年後、そのなかでも日本は遅れているという現状。それだけではない。相対的貧困率(もっとも標準的な手取り世帯の半分以下の状態)は15・7%(2016年)6人に一人にあたる。アメリカに次いで2番目の高さ。日本の標準的手取り額は245万(2015年)なので相対的貧困の基準値は122万円。月額にして約10万円だ。
 特にひとり親(母親)世帯の貧困率は50%を超えている。ちなみに相対的貧困率を出す基準となる可処分所得の中央値(標準手取り額)だが、1997年には297万円、この約20年で52万円も下がっている。月にしたら4万3千円だ。実質賃金が下がり続けているのも主要先進国では日本だけである。日本の貧困は相当に深刻なのだ。その影響をもろに受けているのが、子供たちである。7人に一人の貧困率、子供食堂の増加、虐待やいじめ、不登校は年々増え続けている。
 日本の子供たちの惨状をよく表しているのがその自殺率の高さだ。15歳から34歳までの自殺率は17・8%で主要先進国と呼ばれる7カ国中1位だ。平成30年の自殺対策白書によると14歳から19歳までの死因の一位が自殺。10歳から14歳でも2位。これは日本だけの現象だ。どの国も事故や病気による死亡が第一位を占めている。これが普通だろう。いじめや虐待、希望や生きる意味の喪失など自殺の原因とみられるものも親の貧困、家庭の不安定さと大きく関係していると思う。これは親の責任だろうか。政治の貧困に大きな原因があると言わざるを得ない。
 日本のGDPに占める家族関係への給付率は0・75%でアメリカに次いで低い。1位のスウェーデンは3・54%だ。税収入の再分配後でも子供の貧困率が上がっているのは日本だけである。
 世界9カ国(米、英、独、中、韓、越南、インドネシア、印)の17歳〜19歳の意識調査では、「自分を大人だと思う」「将来の夢をもっている」「自分で国や社会を変えられると思う」「社会の課題について積極的に議論している」という質問において日本は、どの項目においても最下位、特に「国や社会を変えられると思うか」は5人に一人しかそう思うと答えていない。そこには、ほぼ半数が「自分には誇りに思う事が何もない」という自己評価の低さや政治や社会について議論しないという日本の土壌が関係しているのかも知れない。
 年末にはその他さまざまな世界ランキングが出されたが、そのどれもが日本の国力の衰退を示すものばかりであった。それは経済的分野だけではなく、特に政治的に日本の実質的存在感と言うものがまるでなかった。中国、特に韓国との関係は最悪と化し、ロシアには軽くあしらわれ、激動の東アジア情勢では蚊帳の外。トランプ米国の要求には兵器の押しつけ、経済協商での無理難題にも素直に従い、ヒロシマを訪れたローマ教皇には唯一の被爆国としての存在価値を示せず、国際NGOグループからは、温暖化対策に消極的な国に贈られる「化石賞」を二度も「授与」された。これの一体どこが、「世界の真ん中で輝いた一年」なのか。聞いて呆れる。
 それどころか、今年になって初めての「サンデ―モーニング」では、寺島実郎さんが「今や日本は各国の草刈り場になっている」と指摘した。IR事業参入や防衛装備品=兵器の売り込み、水資源の争奪戦、更には跡継ぎや資金問題で先細りしている日本の伝統工芸にも外資の「支援の手が」が伸びているという。
 「世界の真ん中で日本が輝いた」などと臆面もなく言っている首相にこれ以上日本の政治を任せていたらどうなるか? 「安部政治」と共に沈みゆく日本丸と運命を共にするのか。私たち大人はこんな政治を許した責任があるからそうなっても文句は言えないが、こんな日本を残された後代たちはたまったもんじゃない。そんな後味の悪さを抱いたまま朽ちる前に、この史上最悪・最低の政権を一日も早く終わらせるために奮闘努力しよう。


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