研究誌 「アジア新時代と日本」

第197号 2019/11/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 朝米交渉の行方と改憲問題

議論 アジアに対しどう向き合うべきか

随筆 現代イタチ考

読者からの手紙




 

編集部より

小川淳


 国つくりも野球型からラグビー型へ
 先月のラグビーのワールドカップ、日本の躍進もあり、「にわかファン」があふれ盛り上がった。視聴率で見ると、決勝トーナメントの対南ア戦は40%を超え、同時間に行われた野球の日本シリーズの7%をはるかに凌駕してしまった。大衆的スポーツも時代ともに変遷していく。野球一色だった昭和の時代からすると、隔世の感がある。
 この野球とラグビー、スポーツとしてもかなりの違いがあるようだ。ラグビーはバックスもフォワードも15人の選手それぞれに重要な役割があり、一人一人がその役割を果し、知略を尽くし、肉弾戦を展開する。そこにラグビーの醍醐味がある。野球は4番でエースという圧倒的存在がチームを引っ張るが、ラグビーにはそんな選手はいない。ひとりひとりがオンリーワンだ。
 中世以来、イングランドでは数千人の人たちが村と村の対抗試合で一つのボールを追いかけ試合をする風習があったという。その頃は手も足も使え、ゴールを狙って争ったフットボールも19世紀に入るとルールが洗練され、1867年、足だけを使うルールが適用され、サッカーが生れた。その後、手を使うことが認められなかったフットボール愛好家たちが別のアソシエーション作り、それがラグビー始まりとなったという。手も足も使えるラグビーの方が古来のフットボールのルールに近いのかも知れない。
 ラグビーには他の競技にはない独特の文化もあり、ノーサイドになれば互いに健闘を称えあい、ファンは隣同士で競技を楽しみ、いさかいになることもない。自国の歴史やネイティブな文化と融合したオールブラックスのようなチームは、日本人ファンも魅了した。
 日本という国をスポーツに例えると、これまでは「野球」に近かったのではないかと思う。東京という不動の4番でエースがいて、日本という国を引っ張っていくというイメージだ。ヒト、カネ、モノ、情報が東京に集中すればするほど、地方は衰退していく。平成とはまさにそのような時代だったのだが、しかし近年、この国の在り方の歪さが露呈しつつある。
 外国人観光客の眼から見ると、日本の魅力はむしろ「地方」にあることが、数字に表れているのだ。例えば北海道だが、いまオーストラリアや香港、シンガポールを中心に多くの外国人が押し寄せている。沖縄も観光客の数では昨年初めてハワイを抜いた。韓国人や中国人で賑わう九州もそうだ。北海道、沖縄、九州だけでなく、日本の地方は自然や文化、風土など、どこにもないオンリーワンな魅力に溢れている。その地方独自の歴史や風土などに磨きをかけ、オンリーワンの魅力を更に発揮することで、国のグレードも高めていく。そのようなラグビー型の時代へ、日本も変わっていっても良いのではないか。



主張

朝米交渉の行方と改憲問題

編集部


 昨年6月シンガポール、今年2月ハノイ、そして6月板門店と続いた朝米首脳の会談と対話。その朝米の交渉も、朝鮮側が期限を切った決着の時を迎えている。これが日本の改憲問題と密接に結びついていると言ったら、あまりに唐突だろうか。考察してみたい。

■どうなる朝米交渉
 今年4月、朝鮮の金正恩委員長は、その施政演説で、「自分の要求だけを押しつけようとする米国式対話法」ではなく、互いに「共有できる方法論」を持って米国が出て来る時に限り、もう一度だけ朝米首脳会談をやってみる用意があるとし、その期限を今年度末までとした。そうした中、去る10月5日、ストックホルムでもたれた朝米実務者協議で朝鮮側は、米国側が「手ぶら」で来たとして「協議」の「決裂」を表明した。
 もともと、昨春、朝鮮側が米国に対話を要求したのは、「非核化」の代わりに「制裁解除」を求めてのことではなかった。これまで米国による制裁の中で生きてきた朝鮮が、さらなる制裁の強化をも覚悟の上で始めた核武装を一昨年末ようやく完成しながら、なぜ制裁解除を条件に放棄したりなどするだろうか。
 米本土全域を射程に入れた核武力完成に基づく対米対話の要求、それが朝鮮戦争の終結宣言、停戦協定の平和協定への転換、そして国交正常化まで含めた朝米、そして南北朝鮮、東北アジア全域の戦争と敵対から平和と繁栄への時代的転換を求めたものであるのは、昨年、朝米および南北の首脳会談でも明らかにされた通りだと思う。
 それがなぜ「非核化」と「制裁解除」の取り引きになるのか。それは、「制裁」を手段に覇権する覇権国家としての米国の「示し」「面子」「格好づけ」以外の何物でもないと思う。
 交渉の合意を図るのか、それとも「示し」にこだわって交渉を決裂させてしまうのか、今、米国にはその選択が迫られていると思う。

■「朝米」と「改憲」の間
 「戦争と敵対」から「平和と繁栄」への時代的な転換、米国にとってそれは、覇権そのものの放棄ではない。そのあり方を変えるだけだ。
 今、米国は、破綻したグローバル覇権から米ファースト覇権へ、その覇権のあり方を変えようとしている。型破りの大統領、トランプによる、TPPやパリ協定の破棄、海外米軍基地の撤退やその維持費の法外な請求、等々、これまでの常識を破る「奇行」の数々はそのためのものだ。
 朝米交渉は、そうした中の重要な一環だ。核軍事力による覇権から、朝鮮の「改革開放」、資本主義化、アメリカ化による覇権へ。「平和と繁栄」への時代転換の本当の狙いが「非核化」ならぬそこにあるのは、推測するに難くないと思う。
 それが、今なぜ難航しているのか。それは、社会主義か「改革開放」か、南北朝鮮の統一か分断支配か、朝鮮半島、東北アジアの脱覇権自主化か米覇権かをめぐる攻防が朝鮮の側に有利に展開して来ているからに他ならないと思う。今年2月、ハノイでの首脳会談を大統領であるトランプを「ロシア疑惑」で脅して破綻させておきながら、それを朝鮮側のせいにし、金正恩委員長の権威の失墜を図ったのも、今また「ウクライナ疑惑」を持ち出して事態を複雑にし、朝鮮が決着をつけられないような情況をつくってきているのもすべて、形勢の逆転を狙う米覇権中枢によるものではないかと思う。
 米覇権の崩壊・終焉がこの境地にまで至ってきている中にあって、その米国があくまで覇権にしがみつきながら、そのためにもっとも頼りにしているのが日本だと思う。朝鮮の「改革開放」のため、米国経済と融合一体化した日本経済の朝鮮浸透は、米国にとってこの上ない「援軍」であり、朝鮮核軍事の抑止のため、米軍とともにその矢面に立って戦争してくれる日本の軍事力ほど「有り難い」存在はない。日本の対イラン「有志連合」への参加を要請する米国の狙いも、本当はこの辺りにあるのではないだろうか。
 先の参院選で安倍首相は、敢えて改憲問題をその争点に掲げ、今また、臨時国会でも、「改憲」を最大の焦点に揚げながら、そのための国民投票法改正まで準備している。これは口先だけではない。本当に改憲だ。いつにないこの異例の事態の進展に、野党などからは、「国民の要求もないのに、今なぜ改憲なのか?」と反対とも当惑ともつかない声が挙がっている。その根底には、戦後70数年来初めての覇権崩壊の危機に直面した米国の切羽詰まった要求の転換がある。それが、自民党改憲案の第一、「自衛隊の明記」による憲法9条第2項(交戦権否認、戦力不保持)の死文化にあるのは言うまでもない。

■東北アジアの「外」から「内」へ
 昨年生まれた朝鮮半島を中心とする東北アジアでの地殻変動、時代的転換にあって、日本は終始「蚊帳の外」にあった。南北、朝中、朝米、朝ロと首脳会談が連続していく中、東北アジア関連国にあって、日朝のそれだけが例外だった。
 それをどう思ったのかは、あずかり知らないが、安倍首相の方から、「前提条件なしの首脳会談」の申し入れが朝鮮側になされた。それに対する応えは、いまだ返ってきていない。
 一方、その利害関係からしても、米国による日朝会談への促しが朝鮮側になされたのは当然だ。だが、それに対しても応えがないままだ。
 なぜ応答がないのか。理由ははっきりしている。米国の一部である日本との会談を急ぐ必要は全くないからだ。
 言い換えれば、今日、日本は、東北アジアの成員としての存在感を完全に欠いている。すなわち、日本は、今、米国とともに東北アジアの外にあって、内にない。だから、東北アジアのことを話し合うに当たり、日本は米国の後でよい。先に話しても何の意味もないということだ。
 この東北アジア新時代の現実にあって、今、朝米交渉は、決着をつける時を迎えている。それが「合意」になるか「決裂」になるか。
 そうした中、日本に問われる選択は何か。「合意」の場合、はっきりしているのは、東北アジア新時代の内で生きる道だ。朝米が戦争終結、平和協定、国交正常化と進む中で、日本だけがその外で生きるというようには絶対にならない。
 では「決裂」の場合、どうなるか。東北アジア新時代の内に入らなかった米国とともに、日本も外に出たままでいるのか。そうはならないだろう。覇権国家としての「示し」を選択した米国を説得しながら、自分は内に入るようにすること、それが、米国にとっても日本にとってもよい道ではないのか。

■憲法の「改正」ではなく「実現」を!
 東北アジア新時代の内で生きる時、日本にとって決定的なのは、憲法をどうするかという問題だ。
 安倍政権は、今、「改憲」という国の命運を分ける道を、その口先とは裏腹に、社会の分断回避を口実に、国民的大論議を避ける方向で、「穏便に」推し進めようとしている。
 この現実にあって、今、日本政治にもっとも問われているのは、この「改憲」をめぐる大論議を起こし、日本国民の意思の総結集でこの問題を正しく解決することではないだろうか。
 そこで、何よりもまず求められているのは、議論の対決点を正しく定めることではないか。
 これまで、憲法問題をめぐる対決点は、「護憲か改憲か」だった。しかし、「令和新時代」、「日米新時代」、「新しい日本」、等々、「新しい」が時代のキーワードになっている今日、「護憲」は、国民的意思や要求にはならないのではないか。
 そこで求められる対決点は、「憲法を変えるのか、実現するのか」ではないかと思う。
 これまで、古い戦後政治にあって、尊重されてきたのは安保であって憲法ではない。憲法は蔑ろにされ実現されてこなかった。覇権と戦争、敵対から自主と平和、友好へ、この歴史の新時代にあって、今こそ、覇権と戦争のもっとも徹底した総括であり、アジアの内からの切実な要求である憲法を実現する時が来たのではないだろうか。
 その上で提起されるのが安保防衛問題だ。憲法実現と安保防衛、この一見矛盾した問題解決の鍵は、「東北アジアの内の日本」にあるのではないかと思う。この観点に立った時、憲法実現による専守防衛とアジア安保こそが新時代にふさわしい「最強」の安保防衛になるのではないだろうか。
 朝米交渉決着の時が迫る中、その如何が日本政治に及ぼす意味は大きい。しかし、日本が東北アジア新時代の内の日本として、憲法を実現して生きること、そこに新しい日本として生きる道が開けてくるのには変わりはないと思う。



議論

アジアに対しどう向き合うべきか

東屋浩


■アジアにどう向き合うか
 周知のように、日本がアジアとの関係を深く全面的にもつようになるのは、開国し近代化の道を歩み始めた明治維新以来である。
 明治維新後、日本の歴史はアジアに対する侵略の歴史だった。まず朝鮮侵略が重要な対外政策となり、朝鮮の江華(こうか)島を攻撃し、江華条約(日朝修好条規)を押し付け(1876)、朝鮮を開国させた。これは完全な不平等条約で、日本は欧米列強に押し付けられたことを朝鮮に押し付けた。それから敗戦までの69年間は、中国、インドシナ半島、フィリピン、インドネシア、ビルマまで含むアジア全域にたいする侵略戦争と植民地支配を拡大し続けた。
 戦後の今日にいたるまでの74年間は、アメリカに従って西側陣営の一員として、アジア社会主義と朝鮮、ベトナムなどの民族解放闘争と新興独立国の非同盟運動に敵対してきた歴史であるといえる。そして、今日、歴史認識をめぐる日韓関係の悪化、依然と続いている対朝鮮敵視政策、それに中国、ロシア(極東地域)をみても日本は周辺アジア諸国・地域との友好関係を結んでいるとはいえない。むしろ東アジア諸国・地域との摩擦が強まっている。
 そういう意味では、アジアに対する姿勢は、近代に入ってからも真の友好関係を築くことはなかった点で大きく変わっていないと思う。その原因はどこにあるのだろうか。
 日本の国の在り方を見る上で、アジアの国々に脅威を与えているのか、友好関係にあるのかは重要な指標になる。それだけに、アジアに対する姿勢をどうとるかが重要だと思う。とくに今日、アジア諸国が台頭し、世界におけるアジアの役割が高まっているなか、いっそうアジアに対しどう向き合うかが重要になっていると思う。
 アジアとの関わりを強調した考え方として、かつてアジア主義があった。アジア主義は欧米の植民地主義に反対しアジアの連帯を目指した考え方だ。
 本稿ではこのアジア主義を検討しながら、アジアに対してどう向き合うかについてみていきたいと思う。

■アジア主義の陥穽
 かつて日本が日ロ戦争で勝利したこともあり、インド、西南アジアを含むアジア全域でアジア主義が勃興した。日本でも欧米の植民地化にたいしアジア諸国との連帯を謳ったアジア主義を掲げたさまざまなアジア主義者が活躍した。
 欧米のアジアに対する植民地化に反対し、アジアが連帯して戦っていくというのは、まったく正当で意義があるといえる。
 しかし、アジア主義は最終的には大東亜共栄圏の名のもと、アジア全域を侵略していく理念となってしまった。
 欧米の植民地主義に反対しアジア諸国との連帯を言いながら、なぜ、アジアを侵略する理念、大アジア主義に溶解していったのだろうか。
 中島岳志氏によると、アジア主義は、「アジアは一つ」と叫んだ岡倉天心の「思想としてのアジア主義」、欧米の植民地化に抗しアジアの連帯をはかる「抵抗のアジア主義」(宮崎滔天)、ロシア南下に抗したり対米戦争に備える「政略としてのアジア主義」(頭山満、樽井藤吉、石原莞爾)などに大きく分けることが出来るそうだ。
 岡倉天心はアジア諸国の人々が欧米の奴隷となっていくのに憤慨し、中国、インドを旅し、そこに西洋にはない思想、宗教、文化を見いだし、欧米に十分、対抗できると考えた。
 宮崎滔天などは、当時、まだ封建国家だった中国革命を献身的に援助した人として有名であり、インド人ボースを助けた中村屋の相馬黒光もいる。
そうした中政略としてアジア主義をとらえた人々が、典型的には閔妃虐殺など侵略の先兵の役割を果たしていった。
 アジア主義が日本を盟主としアジアを支配するという大アジア主義にたやすく転化していったその原因は何か。それは、当時、帝国主義時代で強者が弱者を、大国が小国を支配し指導するのは当然だという考え方があったからだと思う。つまり覇権の思想だ。
 だから、欧米の植民地主義そのものを原理的に否定することができず、自分が強くなって欧米に代わりアジアを支配するという侵略思想に容易に変わりえたと思う。
 言うまでもなく、各国の主権はその国人民にあり、各国のことはその国人民が決定していかなければならない。他国の人があれこれ干渉し指導しようとしてもそれは必ず誤ったものになる。
 樽井藤吉は朝鮮を併合し植民地にするのに反対し、対等合併を企図したが、いくら植民地化をめざしたのではなかったとしても、上から指導するのも武力で侵略するのもその国人民の意思を無視する点では同じであり、対等合併は結局、日韓併合に巻き込まれるようになった。
 岡倉天心の「アジアは一つ」という言葉も大アジア主義に盛んに利用された。かつてのアジアの希望の星だった日本はアジア諸国の期待に応えることなく、韓国を併合し、満州事変をはじめ中国侵略戦争を拡大し、日本はアジア諸国の独立を助けるどころか、欧米とおなじく侵略の道に進んでいった。これに対し孫文やタゴールは覇権の道を進む日本に失望し警告した。
 強国が弱国を支配すべきという覇権思想ゆえ侵略の道に進んだといえる。覇権思想とともに、日本のアジア主義には、自分の国をどうするのかという主体的な姿勢に欠けていたのではないかと思う。
 宮崎滔天は孫文の革命に大きく寄与した点で評価されるが、一方、国内の自由民権運動の敗北から中国革命に目がいった面もある。自国の革命に展望を見いださず何もしないで、他国の革命に期待をかけるのでは、本当の連帯というものにならない。樽井も自国が朝鮮をどんどん侵略していっているのに、対等合併を主張すること自体が現実的でない。まず自分の国をよくすること、このときは日本の侵略に反対することを抜きに、他国の反植民地主義の闘いを理解することも連帯することもできないと思う。

■東アジア共同体、東北アジア共同体へ
 アジア主義という言葉は、欧米ではなくアジア独自を主張する点で人々を惹きつける響きがある。それは日本がアジアの一員であるからだ。
 しかし、今日、アジア主義を掲げている国や人々はいないと思う。それは現在、かつてのように欧米の植民地化に危機感をもっていた時と異なり、独立したアジア各国が勃興しているからだと思う。
 現在、アジアで起こっているのは、東アジア共同体、東北アジア共同体への志向だ。東南アジア諸国だけでなく、中国、朝鮮と韓国も賛成している。アジア近隣諸国で協力しあい、経済発展のみ成らず平和と安全も保障していくものだ。
 国家主権を守り尊重していく立場がアジアの中では強いので、それを基礎にして内政不干渉、国家主権尊重の共同体を築いていくことができると言える。とりわけASEANの貴重な経験がある。 政体、宗教と理念、歴史と文化、地理的環境など多様なアジア諸国がひとつの共同体を築いていくためには、内政不干渉、国家主権尊重が重要な原則となるだろう。
 この動きに対し日本政府はこれまでアメリカの顔を伺い、ブレーキをかけてきた。
 しかし、朝米関係の変化により朝鮮半島における平和と繁栄の新時代を迎えている現在、東北アジア共同体形成の動きは加速化されていくだろう。
この時、日本政府の姿勢が問われていると思う。いつまでもアメリカの腰巾着として行動していくのか、独時的にアジアに向かい合っていくかだ。
 これまでの外からアジアに向き合う「脱亜入欧」から転換して、アジアの内からこの声を聞き向き合うアジアの一員として生きていく時が来ているのではないだろうか。
 アジアの人々の要求は、植民地支配の反省と謝罪、賠償を徹底的にやることと、九条平和憲法を実現し、アメリカの言いなりになるのではなく独自性をもって国の政治をやっていくことだ。このとき、日本はアジアの内に入っていくことができ、連帯と友好を深めることができるだろう。
 かつてアジア主義を掲げ、その実、欧米に見習いアジア諸国を侵略し植民地にしたとすれば、今日、日本は覇権主義、植民地主義を清算、克服し、アジアの声に耳を傾け、アジア諸国とともに東北アジア共同体を築いていくときだと思う。


 
随想

現代イタチ考

平 和好


■「ガタッ!ドタッ!」
 妻の両親の家は拙宅から公園を隔てて西隣にある。いわゆる「スープの冷めない距離」だ。当家の子どもが幼少のころは放課後学童保育みたいで便利に利用させていただいた。子どもが社会人となり、逆に両親が年老いてくると様子を時々見に行ったり、認知症が進んだかもしれない祖父の話し合い手になりに行っている。その家の秘かな関心事が、時間構わずどたどたと鳴る音だった。何せ築半世紀以上の民家だ。
 ネズミ程度の音ではなく、イタチではないかという推測がやがて出てきた。ある日向かいの家に何かが走るのが目撃され、ネズミでも猫でもない細長い姿で推測が裏付けられた。

■対策
 市を通じて専門家に来てもらい調査を依頼したところ、屋根や床下に空いた穴で「イタチですね」と診断が下った。しかし、駆除までしなくていいでしょうとの診断が出た。本格的捕獲=駆除、再発防止策などをフルにすると約10万円。しかし、専門家はあまりお勧めしないと言う。なぜか?
 理由を聞いて少々驚きだった。この家からは退去しているので無駄だとの事。多分、ネズミを食べていたのだが、食べ尽くしたのでよそへ行った可能性が高いらしい。そう言えば時々、一瞬だけ「ちゅっ」と音がしていたのは一撃で仕留められたネズミの声らしい。なお、ネズミが大好物で、骨も含めきれいに痕跡も毛も残さず食べてしまうとか。
 よくよく考えてみれば、最近ネズミの姿を見なかったらしい。イタチがネズミ退治に頑張った結果、その家でネズミが絶滅したのだろうか。百科事典に、「かわいい顔に似合わず非常に凶暴な肉食獣」とある。

■イタチ研究
 黒でも白でもネズミを捕るのは良い猫とケ小平主席が言われたようにイタチは害獣ではなく益獣と言えるのかも。実は鶏も襲う(それもオリの中に突入して襲うそうだ)が日本の都会では鶏をまず飼わないから実害は少ないらしい。
 専門家は「空いてる穴だけふさぐのなら見積もりが安くなります。」と言った。実際、数日後に届いた見積もりは2万円も行かず、計2回来た出張費に毛が生えたくらいだから、それで穴ふさぎだけお願いしたそうだ。
 日本イタチは親戚に朝鮮イタチ、シベリアイタチがいて、「遠い」と「近い」の中間くらいの親戚にテンとミンクがいる。高級毛皮のあれだ。日本イタチはネズミ捕りの特技と合わせて、毛が書筆・画筆用になる(剥がれるのでかわいそう)事で移入されたらしい。

■どうしてますか
 日本から朝鮮半島、中国、シベリア、そして北米に住むという生態を調べると何だか身近に思えてきたイタチはその後、目撃談が無く、家族ともに近所の建て売り住宅に引っ越したと思われる。「近頃はもぐりこみもできないコンクリートと鉄の家が多くて住みにくい街になったよ。」とぼやきながら暮らしているのだろうか? この写真、よく見るとかわいいでしょ。



 

読者からの手紙

Y.S


 今回(196号)の主張と東屋さんの論文読ませて頂きました。
 先日菅原通産大臣が公職選挙法違反の責任を取り辞任しました。このようなことを繰り返すたびに安倍首相は神妙な顔をして「任命責任は私にあり、国民に深くおわびします」と陳謝するが、実際に責任を取ったことは一度もありません。謝ったふりをしてじっと鳴りを潜めていればすぐに忘れてくれると日本国民を舐めきっている。これが全ての事柄について共通する彼の基本姿勢であり、巷間言われているいわゆる「やったふり」を臆面もなく続けられることが強みでもあると思います。そのような無責任政治を延々と続けながら、

 誰のため、どういう「新しい国づくり」をしようとしているのか。そこで想起されるのは、かつて安倍首相が口癖のように言っていた「日本を取り戻す」、軍国日本の復活だ(主張)。

 私も「日本を取り戻す」が安倍首相の出発点だと思います。取り戻すというからには現在の日本は認められないということであり、以前彼の著書でも「戦後の歴史から日本という国を国民の手に取り戻す戦いである」と述べています。この論理からは取り戻すべき栄光の時代とは戦前の日本であり、現在の日本の憲法、教育、民主思想は認めないということになります。当然この考え方は二次大戦の日本の立場を正当化し、極東軍事裁判も認めないということに繋がります。しかし、安倍首相が「極東裁判は認めない」と公言したならば米国は怒るだろうし、国際的にも袋叩きにあうでしょう。このあたりを曖昧にしつつ米国に追随している安倍首相の姿勢は、中国、韓国、朝鮮はもとより、世界のどの国からも本当には信用されていないのではないでしょうか。さらに、即位の礼の「天皇陛下万歳」に象徴されるように、天皇制利用の意図は明らかです。安倍首相は自分が最高権力者であると考えており、天皇を尊敬する気持ちなど微塵も持っていない。「天皇はただ祈っていれば良い」という一部の保守派と同様、天皇がどう考えようと関係ないというのが安倍首相の本音だろうと思います。2012年の自民党憲法改正草案の第一章第一条に「天皇は日本国の元首である」と明言されています。この自民党の基本姿勢は、天皇を神輿として担ぎ、神輿の進む方向は担いでいる自分達が決めるという戦前の体制に回帰することに外なりません。米国は、戦後の日本をできるだけ平穏に統治するためには天皇の戦争責任を問うよりも天皇制を残した方がやり易いという判断で天皇制を残しました。このことで国際的にも天皇の戦争責任は曖昧になりました。また日本国民が戦争責任を徹底的に追求したならば、最終的には天皇の責任を問わざるをえないということは明らかでした。このことが日本国民による主体的な戦争責任追求を躊躇させたことも間違いないと思います。このように天皇制は権力者によって様々な形で利用されてきたし、国民の思想にも大きな影響を与えてきました。天皇制の復活ということが自民党の本音である限り、天皇制をどう考えるかということは、再軍備と並んで日本の将来にとって重要な命題になると思います。本題から少しそれてしまいましたが、以上のような安倍首相の下で行われようとしている改憲には賛成できないというのが私の考えです。
本題に戻ります。

 これまで、日本の改憲への動きに対し、米国は、むしろ抑制的だったと言えるが、トランプは、日本が「自分の国は自分で守る国」、「米国有事に際しては、米国とともに戦う国」になることを求めてきた。これは明らかに、安保双務化への要求であると同時に、その基礎となる「九条改憲」への要求だ。米国の要求は、日本の国のかたちをアメリカファーストに全面的に組み込むものだと言うことができる(主張)。

 安倍政権が改憲でめざすのは日米が軍事経済的に一体化した日本です。日米一体の日本、アメリカのもとで戦争する日本になれば、時代の流れに逆行したアメリカファーストにいいように利用されるだけの国となってしまいます(東屋)。

 これが安倍政権改憲に対する両者の共通した評価であると思います。トランプに胡麻をすり、接待外交を続けることによっていつまでも日米が良好な関係を続けることができるというのは全くの幻想です。私も、安倍政権が米国の力をうまく利用して日本の国際的地位を高めつつ、悲願である改憲を行おうとしても、今の路線ではアメリカファーストに組み込まれることは明らかだと思います。

 改憲阻止の議論を起こすためには、改憲が日本にとっていかに有害であるか提起するだけでは決定的に不足している。より切実なのは、「新しい国づくり」のため、憲法を守ることがいかに大切かを提起することではないだろうか(主張)。

 改憲論議をやろうと言いながら、実際は改憲の是非について論議させないやりかたです。国の在り方についての論議ではなく、改憲を前提にした論議しかないのです(東屋)。

 私は以前安倍政権の改憲議論に乗らないのが得策と考えていました。これは相手の土俵に乗ることで、東屋さんが述べられているように、「改憲ありき」の安倍政権の路線に巻き込まれてしまうのではないかと危惧していたからです。しかし振り返ってみれば、「憲法を守る」という国民の悲願を基にして日本は平和国家を維持してきました。「主張」のように、改憲阻止の議論を起こすことが二次大戦で犠牲になった人々に報いる唯一の道だと思います。

 これまで、アメリカにたいし何か物を言うことは一種のタブーとなっていました。しかし、アメリカの言いなりになり、自国の憲法よりアメリカとなっていて、日本が独立国といえ、国の体をなしているといえるでしょうか(東屋)。

 その通りだと思います。ご存知と思いますが、この度の東京オリンピックのマラソン開催地の変更における対応も、アメリカの言いなりになってきた日本の国家としてのプライドの喪失を如実に物語っていると思います。ロス五輪以降、世界平和のための若人の祭典というオリンピックの本来の目的やアマチュアリズムは雲散霧消しました。極端な競争原理の導入、アメリカのテレビ局などによる資本の支配によりオリンピックは政治家、企業の金儲けの場と化しています。アスリートファーストというけれど、開催時期は指定されており、それに最初から従わなければ開催権はない。日本はそれに従って、最悪の季節に開催することを受け入れて立候補する。IOCも立候補した国の中で一番容易く金を出しそうな日本を選んだ。以上が今までの図式でしたが、今回さすがにIOCは東京の暑さに怖くなってマラソンは札幌に変更すると決めました。バッハ会長が「これは打診ではない。私が決断して札幌に決めた」等と言っていますが、そんな馬鹿なことはありません。日本の土地を使って沢山の人と設備を使ってやるのですから、そんな勝手な言い分は認められません。国連等と違って、国際的組織といっても、IOCはいわば私的な組織に過ぎません。日本の国、日本国民に対する命令権などないし、本来日本国民が承知しないとできるはずがありません。小池都知事だけは怒った振りをして、落としどころを探ってはいますが、これは日本の主権の侵害であり、日本と米国との関係、安倍とトランプの関係と同じであると思います。朝鮮に対する方針もトランプのいいなりで、それの後追いでしかない。このような自主性のない首相が「自主憲法」を主張する。国民はそれを知っているが故に賛成する人が少ないのは当然のことでしょう。
 最後に、

 国民皆が共通して願う第一の国是は戦争をしないことであり、それをこの上ないかたちで体現しているのが現憲法に他なりません(東屋)。

 この当たり前のことを当たり前に主張していくことが最も大切だと思います。アメリカの路線に追随する限り、日本は必ず戦争に巻き込まれます。私の同級生、親友にも戦争で父親を亡くした人が何人もいます。もちろん日本の子どもたちだけがそのような目にあったわけではありませんが、彼や彼女達が幼い頃からどれだけ寂しい思いをしてきたかはわかっているつもりです。それを知らない振りをしている戦前派、また戦争の悲惨さを理解しようとしない安倍首相並びにその取り巻きに怒りを禁じ得ません。彼らに日本を託していることは、これからの日本を背負って立つ子どもたちに申し訳ない思いがします。当たり前のことを当たり前に批判する精神を日本全体で取り戻してくれることを念願しています。


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