「れいわ新撰組」
山本太郎議員が立ち上げた「れいわ新撰組」がスポットを浴びている。4月10日の旗揚げの会見では、「1万人が1万円づつで1億円になる」とぶちあげると記者たちの失笑を買ったというが、一番驚いたのは、その失笑した記者たちだろう。寄付は40日で1億円を突破し、6月5日時点で1億6千万へ。3億円集まれば参院に10人を擁立(選挙区5名、比例5名)という夢のような話も現実味を帯びてきている。
「れいわ新撰組」がこれだけの支持を集めた理由は何か。まったく存在感を示せない、立憲を含めた既存の野党に対するもどかしさ、不満が、「れいわ新撰組」への期待度を上げているのは間違いない。
「20年におよぶデフレで困窮する人々、中卒、高卒、無職、障害、難病を抱えていても将来に不安を抱えることなく暮らせる社会をつくる。それが私たち『れいわ新撰組』の使命である」とする。そしてすぐにやらなければならないこと8つを掲げている。
@消費税の廃止。A全国一律、最低賃金1500円。B奨学金徳政令。C公務員を増やす。D一次産業戸別所得保障。E安保法などの「トンデモ法」の一括見直し・廃止。F辺野古基地建設中止。G原発の即時廃止。これまでの野党は、原発廃止や辺野古反対は言えても、消費税の廃止や最低賃金1500円などはまったく提示できていない。安倍政治と対決していく上で、既存の野党には絶対に望めそうにもない大胆な経済政策を「れいわ新撰組」は提示していることが決定的に重要で、ここに広い支持につながっている理由があるのではないか。
また、障がい者への「合理的配慮」の徹底や、障害者総合支援法の第7条にある「介護保険優先の原則」の廃止など、労働現場の声をしっかりと受け止めた施策もあり、ボトムアップ的手法による政策立案がなされていることも支持を集めた理由の一つかもしれない。
では財源はどうするのか。日銀による国債発行(赤字国債)によって賄う、いわゆる反緊縮政策だ。これまでの野党がこのような大胆な経済政策を提示できなかったのは、野党政治家のほとんどが財政健全派だからで、財政健全派からすれば、消費税の廃止や奨学金徳政令は「とんでもない」という話になる。
これからの「れいわ新撰組」の前にある最大の壁は、野党政治家や国民の中にあるこの「借金はけしからん」という「常識」との闘いになるだろう。とはいえ、今やっと日本でも、英国コービン労働党や米国サンダース議員、あるいはフランスの黄色いベスト運動など世界的な反緊縮運動の第一歩が日本に刻まれた意義は限りなく大きい。
主張
この数年間、世界的な趨勢として、政治のあり方が大きく変わってきている。その地殻変動が生み出した「新しい政治」をどうとらえるか、それは、日本の政治にとって極めて重要だと思う。
■「新しい政治」とは?その特徴を問う
「ポピュリズム」「排外主義」、メディアなどによって貼られた「新しい政治」へのこうしたレッテルは、著しく的がはずれているように思われる。
「新しい政治」、その第一の特徴はどこまでも、それが国民主体の政治であるところにある。
国民主体とは、政党や政治家がその政治目的達成のため、大衆に迎合するポピュリズムではない。逆に、大衆が自らの意思に沿って政党、政治家、そして政治を動かすということだ。
国民主体とは、また、国民が政治を政党、政治家に委せるのではなく、自分たちが直接主体となって行うことであり、代議制から直接民主制への志向だ。さらには、左右の枠を超え、大衆皆が主体となった幅広い「オール○○」の政治や異次元に広範な人々がSNSなどソーシャル・メディアを通してつながり主体となった政治、等々を意味している。
「新しい政治」、そのもう一つの特徴は、それが自国第一の政治であるところにある。
自分たちの国、国民を第一とするこの政治が排外主義と異なるのは、他国、他国民を自国、自国民の下に置くのではなく、他国も同じく自国第一であるのを認めているところにある。
また、この自国第一の政治が排外主義でないのは、それがイデオロギーではなくアイデンティティに基づいているところにも現れている。自由や民主主義、マルクス主義や社会主義など、「普遍的価値」を押しつけるのではなく、自分たちが自分たちであるゆえんを大切にし、それに基づき、真に国を愛し、そのために尽くす政治に排外主義はあり得ないのではないか。
■今なぜ「新しい政治」なのか?その必然性は?
時代の大きな潮流になった感のある「新しい政治」の台頭は、歴史の必然だと言えるのではないだろうか。それは何よりも第一に、これまでの古い政治、「古い覇権の政治」が行き詰まり、もはやどうにもならなくなったところに示されているのではないかと思う。
これまでの米覇権政治、すなわち、グローバリズムと新自由主義による政治は、究極の覇権政治だったと言うことができる。それは、この政治が国と民族を否定し、あらゆる集団を否定した政治だからであり、国と民族の上に君臨し、人々をバラバラにして支配する覇権政治にとって、これ以上のあり方はないからに他ならない。
史上空前の第二次大戦の中から生まれたかつてない民族解放戦争の炎によって、有史以来初めて植民地が姿を消したこの地球上に、主権という主権すべてを否定し、国境のない単一の世界市場の実現を夢想したこの究極の覇権野望が破綻するのに時間はかからなかった。
あらゆる規制が取り払われた弱肉強食の競争が生み出す格差と貧困、富の一極集中とその極度の不均衡が生み出す泥沼の経済停滞、覇権のためでっち上げられた正義なきテロと戦争の泥沼、それらから生まれた数千万移民、難民の大群、全世界に広がるこのグローバル覇権政治の不条理と行き詰まりから自国第一、国民主体の「新しい政治」が生まれるのは必然だったと言える。
「新しい政治」台頭の必然性は、第二に、「古い覇権政治」との闘いを通して、「新しい政治」の主体が誕生したことによっていると思う。
国と民族を否定し、あらゆる集団を否定した究極の覇権は、泥沼の経済停滞と生活破壊を生み出しただけではない。それは、人々から生きていくための拠り所を奪った。国が国としての体、地方地域が生活共同体としての体をなさなくなり、企業、職場の末端までが、確かな自らの居場所、拠り所でなくなる中、広範な人々が、自らの国、自らの生活の場に、生き運命を開拓する拠点を求め立ち上がるのは、あまりにも当然のことではないか。今日、テロと戦争が世界を覆い、移民、難民に対する排斥運動、無差別で絶望的な銃の乱射や殺戮が後を絶たないのも、すべて根は同じところにあると思う。こうして、自らの生の拠り所を失った人々が、崩壊する古い体制にしがみつく既存の政党、政治家に少しの夢も希望も託さず、自分たちの国に生活と運命開拓の拠点を求めて、自分たち自身の手による「新しい政治」の実現に向かうのは、歴史の必然ではないだろうか。
■対立する二つの「新しい政治」
最近、メディアの論調で、[左右のポピュリズム]なる言葉が目に付くようになっている。
先日、欧州議会選挙があったが、そこでEU「懐疑派」の前面に出たイタリアの「同盟」やフランス「国民連合」などは「右派」、スペイン「ポデモス」やフランス「黄色いベスト運動」、イタリア「五つ星運動」などは「左派」だと言うことだ。
また、中間がなくなり、トランプ「極右」とプログレッシブ(進歩派)「極左」、両極に引き裂かれたと言われる米国政治も同様だ。
そこで確認すべきは、現れた「左右」の意味が従来のそれとは異なっているということだ。
従来、「右と左」「タカ派とリベラル」など左右の対立は、階級対立に基礎しながら、保守と革新、自由主義と社会主義など、イデオロギーの対立だった。しかし、今は違う。米覇権やEU覇権、中ロ覇権など、覇権と各国、各国民の対立が階級対立にも増して前面に出、基本になる中、「左右」の対立は、「国」と「民意」にどう対するかをめぐってのものになっているように見える。
すなわち、トランプにとってのアイデンティティが「白人の米国」だとすれば、オカシオ・コルテスにとってのそれは「移民の国、世界国家、世界の中の米国」だ。また、民意に対しても違っている。一方が、橋下徹が言うように、「民意をつかみ、民意を動かす」だとすれば、他方は「民意に学び、民意に応える」ではないだろうか。
この「国」と「民意」にどう対するかは、何よりも、覇権に対する姿勢となって現れるようになる。米覇権やドイツ主導のEUなど、同じくグローバル覇権に抗するところから生まれながら、一方は、その対決姿勢が曖昧になっている。
トランプは、新たな米覇権、「ファースト覇権」を自ら担うものへと転落し、欧州議会で一大勢力をなすに至ったイタリア・サルビーニやフランス・ルペンらは、トランプの政治顧問、バノンとの会合を重ねるなど、米トランプ覇権との連携を深めているように見える。
■真に「新しい政治」を実現するために
日本においても、政治の地殻変動は、数年来のものだ。沖縄やSEALDSの闘い、そして大阪維新や都民ファーストの出現。左右、保革の枠を超え、「沖縄」や「立憲主義」、「大阪」や「日本ファースト」を掲げた、幅広い大衆的進出。
今、日本の政治も、この「新しい政治」の新たなステージに入ってきている。翁長さんの遺志を継いだ沖縄・辺野古の闘いと玉城知事の大勝、統一地方選での大阪維新の圧勝、そして、参院選に向け注目を集める「れいわ新撰組」。政治の地殻変動は、引き続き日本に押し寄せてきている。
そこで問われているのは、「古い覇権の政治」を本当に打ち退ける真に「新しい政治」だ。この見地から見たとき、覇権国家、米国、そしてその米国に追随する安倍政権に対する態度が曖昧な大阪維新には大きな疑問符がつく。
それは何よりも、維新の会の「国」と「民意」に対する姿勢に現れているのではないか。「民意」については、先述したように、「民意をつかみ動かして」、自分たちの政治目的に利用すると言うことであり、その「目的」自体、「競争政策」で「強い日本」を作ることにあるようだ。これが、今、国に拠り所を求める民意の要求といかにかけ離れているかは一目瞭然だ。
国民主体の「新しい政治」で自国第一を実現するためには、何よりも、自らを民意の下に置いて、民意に学び、民意に応え、民意を徹底的に実現するという姿勢が問われていると思う。そうしてこそ、民意と一体に国民主体の「新しい政治」を推し進め、今日、民意が切実に要求する「生の拠り所としての日本」「米覇権、中ロ覇権どちらにつくのでもなく、アジア、世界とともに自主的に進む日本」という国民的アイデンティティの要求に応えることができるのではないだろうか。
真に「新しい政治」が問われる今日、決定的なのはその主体である国民の意思、民意だ。民意とともに、民意を体現して進む、これまでにない新しい型の政党、政治家、そしてその政治こそが、今、切実に求められていると思う。
議論
社会保障、雇用問題は、私たちの生活に直結する切実な問題です。非正規労働者が4割を占め格差と貧困が拡大する中で、生活はますます苦しくなるばかりです。
安倍政権は、昨年10月、すべての世代が安心できる社会保障制度、「全世代型社会保障改革」を提唱し、おし進めています。その中身について検討していきたいと思います。
安倍首相は、昨年10月、所信表明演説で「全世代型社会保障改革」を3年かけて取り組むことを次のように明らかにしました。
「・・子供から現役世代、お年寄りまで、すべての世代が安心できる社会保障制度へ今後3年かけて改革を進めます。女性も男性も、若者も高齢者も、障害や難病のある方も、誰もがその能力を存分に発揮できる一億総活躍社会を、皆さん、共につくりあげようではありませんか」。
そして、「全世代型社会保障改革」を、経済産業省主導の未来投資会議(議長・安部首相)で検討するよう指示し、初の未来投資会議で「生涯現役社会の実現に向けた雇用・社会保障の一体改革」を世耕経済産業相が提言しました。
厚生労働省ではなく、経済産業省の主導で行われているというのがみそです。
今年6月5日、政府はこの未来投資会議で、2019年の成長戦略素案を示めしました。その成長戦略のポイントの一つが、「70歳までの就業機会の確保」が盛り込まれた「全世代型社会保障」でした。
安倍政権の成長戦略では「世界で一番企業が活躍しやすい国にする」が謳われており、その中身としての2019年の成長戦略の一つとして、「全世代型社会保障(改革)」があり、その内容は、これまでの働き方改革の上に、人生100年、生涯現役社会を目指す雇用制度改革です。目玉と位置づけるのが、高齢者雇用安定法を改正して、70歳まで働けるようにすること、その中身は、他企業への再就職支援、起業支援、社会貢献活動やフリーで働くための資金提供などなどです。
安倍首相は、その日の会議で「急激な変革の時代にあって、人や資金が柔軟に動けるよう、これまでの発想にとらわれない政策をスピーディーに実行していかなければならない」と述べました。
人手不足が深刻化するなか、限られた労働の担い手をより長く働けるようにして、生産性をあげる狙いがあると言われています。人手不足の解消、社会保障費の抑制、効率化という文字が紙面に躍っています。
安倍首相が言う、すべての世代が安心できる「全世代型社会保障改革」とは、結局、「高齢者も頑張って働き、年金の給付年齢を遅らせて支えあいましょう。女性も、若者もみなで」という事であり、国の責任はどこにも見当たりません。
1)70歳までの就業機会の確保、70歳からの年金受給開始の選択も
経済産業省主導の「全世代型社会保障改革」の目的は、人手不足の解消と社会保障費の抑制だと言えるでしょう。
NPO法人「ほっとプラス」代表の藤田孝典氏は、「相談に来る人は、65歳で年金を受けたい人が多い」としながら、「雇用劣化防止」を提言しています。
再雇用となり賃金は約2分の1、職種にもよりますが、重労働は低所得層の人たちが担うようになるでしょう。66歳以降でも働きたいという人の多くは、その多くが生活費が足りないなど、やむにやまれない理由からです。
「この国に老後はないと国が言う」と、新聞の川柳にありましたが、人生100年、生涯現役100年ということは、本当に死ぬまで働けと突きつけているのと同じです。
2)政府の責任放棄に、怒りが増すばかり
今回の金融庁の「資産寿命」報告書、「2000万円」問題。11日の記者会見で、麻生財政金融担当相は、「老後2000万円」報告書を受理しない意向を明らかにしまた。しかし、これで、問題が収まるはずがありません。
「年金給付額だけでは、月々5万円マイナス」さらに、「2000万貯蓄発言」は、その日の生計を立てるのに精一杯で貯蓄はゼロ、病気にかからないことだけを願い、わずかな蓄えをとり崩して生活している庶民には、あまりに衝撃的なはなし。庶民生活とのあまりのギャップ、国民の生活に対する政府の無責任さに、いったいどうしろと言うのか? 国民の生活をなんと思っているのか? と、生活への不安と政府への怒りが沸き起こっています。
公的年金制度は、社会保障の柱であり、当然、国、政府は責任をもってその制度維持のために努力することが問われます。
社会保障の問題を語るとき、必ず「人口減と超高齢化の進展に対応すべく・・」と、前置きが付きます。団塊世代が75歳以上になる「2025年問題」として、以前から指摘されてきましたが、加えて今は、ロストジェネレーションが問題になっています。バブル崩壊後の景気悪化で企業の新卒採用が減らされた1999年から2004年ごろに社会にでた世代がそう呼ばれていますが、人口規模は約2千万人。この世代を不安定雇用に追い込み、また非婚化が進んだことで第3次ベビーブームが起きなかったと言われています。これは、彼ら、彼女らの自己責任なのでしょうか? 企業の要望に応え非正規化を促進した、まさに「国策の犠牲者たち」なのでは。彼ら、彼女たちは、社会の仕組みとルールの刷新を強く訴えています。これに政府、安倍政権はどう応えるのか。
3)社会保障の財源がないというのは、ウソ
昨年末、財務省、厚生労働省、医師会会長のテレビ討論がありました。言わば政府側の人たちですが、法人税を上げる、企業の留保金を労働者の賃金に回すなどの話しがでていました。山本太郎氏は、あまりにも過剰な法人減税や金持ちに対する所得税の超優遇を是正し、累進制を強めることが重要、法人税引き下げ推移(法人実効税率)をみれば、1990年代;49.98%、2014年度;34,62%、2016年度;29.97%と下がり、そのしわ寄せは庶民にいっている、企業の内部留保金は2016年度で406兆円に達していると指摘します。
財源はあるのです。政府が徴収しないだけです。
国が国民の生のよりどころになる、国民のための社会保障を!
社会保障の具体的な内容は、各国の社会歴史的諸条件によって異なり、また、常に発展させていく必要があるものです。
現今の日本における社会保障の問題は、「企業が活躍しやすい国」を成長戦略に掲げる安倍政権の、国民に負担を強いる「全世代型社会保障」を目指すのか、国民が安心して生活し老後を迎えることができる「国民第一の社会保障」を目指すかにあると言えます。
反貧困の湯浅誠氏が言うように、人間の再生ができない社会は持続可能社会ではありません。人間らしい労働と生活を保障できる強い社会、健康で文化的な生活、人としての尊厳を保障する国民第一の社会保障制度が切実に求められています。以下はその参考なればと思う内容を上げてみました。
◇経済政策、税制改革と社会保障の一体化
経済を国民のための国民経済として発展させ、雇用問題、雇用環境の改善、特に非正規労働者、派遣労働者をなくし、同一労働、同一賃金制などの実施。
所得税の累進課税、法人税も累進性に。企業の留保金を労働者の賃金にまわす。
国民皆保険、皆年金体制の健全化と充実をはかり、誰もが将来に希望を持てる日本に。
◇「れいわ新選組」の政策に注目!
「今、日本に必要な緊急政策 ロスジェネを含む、全ての人々の暮らしを底上げします!」
「消費増税は廃止、安い家賃の住まい、奨学金チャラ、最低賃金1500円、そのための新規国債の発行での緊急財政出動」など。
◇平和憲法9条の実現を宣言して、防衛費の無駄使いを社会保障にまわす。
特に、この間のトランプ大統領への抱きつき外交で約束した武器の購入契約は破棄する。
◇地方、地域、ロスジェネをはじめ、現場からの声に耳を傾け、ともに政策をつくっていく。
以上、議論の活発化を!
寄稿
■農業大国
先輩からポーランドへ行こうとお誘いがあった。高校生の時に本を爆読みしたローザルクセンブルグの祖国だ。資本蓄積論や婦人参政権、「御用組合と奴隷祭り」など直線的で勢いのある文章を二十〜四十歳代にかけて量産し、時代を駆け抜け異郷ドイツに倒れた姿にほれ込んだのが半世紀近く前だ。長年その事を(著書の正確な中身も)忘れていたが先輩の誘いで旅行に参加する中で思い出した。
さてポーランドは面積が日本よりやや小さいだけ。ほぼ正方形に近く、山がほとんどない。肥沃な国土は農産物で大昔から潤ってきた。それを狙われ、周辺国にずっと侵略され続けてきた。お札の肖像はそれに抵抗した将軍のもの。
■フィンエア
ポーランドへはフィンランド航空で北極回りでヘルシンキ乗り継ぎで行くのが一番近いらしい。日本海・朝鮮東海・朝鮮領土・中国ハルピン・シベリヤ・ロシアを通って行く。エコノミー症候群は、近年おしっこが近く2時間以内に1回必ずトイレまで歩くから大丈夫!行程のあちこちで荘厳な教会と見上げるような旧市街地とお城を山ほど見せられた。
■ショパン
名物は?もちろんショパンだ。もっとも成人前にパリへ行ってしまい、生家とアパートがあるだけ。でもとても大事にされている。なお、趣味のアコーディオンを持参し、ポーランドと日本の曲を繁華街・レストランの料理待ちなどに演奏させていただき、流しのおっちゃんみたいに、一応好評だったことも付け加えさせていただく。
■反共
ポーランドは戦後の冷戦期以外は反共国家だ。
今も資本主義であり、どちらかというと反ソだ。ナチスとソ連軍を同レベルに憎んでいるのでは?と思えるような記念館展示が多い。ワルシャワの中心には共産主義時代の自動車が展示してあるが、ちょっと馬鹿にしている。手軽に乗れて便利がっていただろうに。
■アウシュビッツ
アウシュビッツとその近くに作られたビルケナウ収容所はやはりすごい。ユダヤ人・ロマ(昔の用語でジプシー)・精神障害者・レジスタンス逮捕者・ソ連捕虜などは毎日貨車で送り込まれたが文字通り絶滅収容所だ。出て行く場所は焼却炉の煙突しかない。しかし、ここを解放したのはポーランド人・ユダヤ人のいずれでもない。1945年ソ連赤軍がやって来て初めて、骨と皮の生存収容者が多数助かった。極東でソ連軍の蛮行が喧伝されるが、中国・朝鮮で残虐の限りを尽くした日本軍が自主撤退するはずもなく、居座っていたのをソ連軍が圧倒的武力で壊滅させ武装解除したのと同じだ。ソ連軍が収容所や朝鮮・中国・ポーランドに着くのが遅れたらその日数だけ犠牲者が増えたのだから。
■奇跡のローザ展示
さて最終日歴史博物館の一角にローザルクセンブルグの肖像と説明がありちゃんと顕彰してあるのはうれしかった!ローザ様の写真とお花をシェラトンホテルワルシャワ横の小さな公園にそっとお供えしてきた。「百年ぶりに帰って来れたワルシャワ」だから。
なお、ローザは決して過激な扇動家ではなく、経済民主化、社民党政権は戦争予算に賛成するな、女性と民族の解放!という基本政策を簡潔に主張した。これは現代に通じるが、だからこそ支配勢力(当時のドイツ社民党)が「生かしておくな」と反革命義勇軍に命令したと考える。
読者より
・・・日本の現状はどうでしょうか。今日もトランプ大統領来日で、安倍首相の太鼓持ちの極致のような接待外交に大騒ぎしている日本の現状をみると、「主張」に書かれている、「日本という国が国としての体を、政治、経済、軍事、あらゆる面でなさなくなり、完全に米国の一部として、東北アジア新時代に敵対する米覇権の先兵にされていっている」ということを今更ながら強く感じます。
戦後の日本で、これほど露骨に権力者に擦り寄り媚を売る総理大臣はみたことがない。この接待によって貿易交渉を他国よりも有利に取りはからってもらおうという魂胆があるならば、これはもう国と国との外交とは言えない。まさに「トランプと安倍との間の賄賂政治である」と言わざるをえません。
今回のトランプ大統領来日のばか騒ぎで、日本がアメリカの属国になっているような感を強く持ち、「今こそ、日本に問われているのは、自国第一、国民第一、国民主体の新しい政治なのではないだろうか」と感じた人は多数いるのではないかと思います。
ただ問題なのは、「今日、朝米交渉や東北アジア問題を日本の進路問題として捉える見方はほとんどない。しかし、それは、日本の進路に関わる極めて切実で重大な問題となる」という編集部の分析はまさにその通りだと思います。これからの日本は必ず下り坂になります。
そして現時点でも、子どもも、老人も、中高年も、若者もそれぞれが様々な問題を抱えています。以下に紹介するのは、先日サンデー毎日に掲載された高村薫さんのコラムです。虐待などの報道が相次ぐ日本の現状を分析して書かれています。
『絶望に追われるピカピカの一年生』4月の入学シーズン、私たち日本人は真新しいランドセル姿の子どもたちを「ピカピカの一年生」と言祝ぐ一方、彼らの現実をどれほど直視してきただろうか。希望に胸をふくらませて小学校に入った彼らが、それぞれに希望を持ち続けて中学生になり、高校生になってゆくだけのことが、いかに難しいか。
親も社会も政治家たちも、そのことを少しでも真摯に思い返してみるなら、道ばたですれ違う子どもたちを見る眼が、根本から変わるはずだ。ピカピカに一年生を見守りたい」
日本の行く末を考えるという事はこのようなことではないのかと思います。地道なことが大切です。・・・
追伸(日本の右翼ならびに愛国者の方々に)
今回のトランプに対する皇室をも巻き込んだ安倍朝貢外交(トランプが来日していますが)について国辱ものだと感じないのですか。誰が大統領であろうとも尻尾を振ってすり寄っていく日本の首相を恥ずかしいと思わないのですか。
安倍さんのトランプに対する追従笑いを見て、国のために闘って散った英霊達、原爆や東京大空襲で亡くなった人々がどのように思うのか想像した事はないのですか。戦国時代の英雄織田信長は、自分が生き残るために節操もなく権力者にすり寄って来る大名を敵よりも信用ならない者として軽蔑しました。このままでは日本の古き良き伝統は地に落ちたままになってしまうのではないでしょうか。
「アジア新時代と日本」編集委員会 〒536-8799 大阪市城東郵便局私書箱43号
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