研究誌 「アジア新時代と日本」

第19号 2005/1/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 新防衛大綱―アメリカの手先傭兵化、反テロ戦争部隊への転換

研究 日本の国と社会評価の基準を考える

研究 人間にとってネット社会の発展とは?

朝鮮あれこれ 新年の共同社説から

編集後記



 
 

時代の眼


 昨年は、まさに「災」の年でした。かつてない頻度で台風が発生し多くの被害を受けたかと思えば、新潟中越地方で大地震が発生。そして年の暮れにはスマトラ沖でマグニチュード9・0という最大規模の地震が起き15万人にものぼる死者、500万人が家を失う未曾有の大災害が発生。
 スマトラ沖の地震は、プレートが食い込んで起きる巨大地震。日本列島は北米、ユーラシア大陸、太平洋、フィリピン海の4つのプレートがひしめき合う世界でもまれに見る場所だとか。このプレートが地球規模で大きく動き始めています。直下型地震の中越地震や浅間山の噴火もそのためだとか。東京直下型地震では最悪の場合、死者1万3000人、全壊、焼失が80万棟にのぼるという予想も発表されましたがプレート移動による巨大地震を考えればそんなものではすまないでしょう。
 「災害大国」日本では、それは仕方のない宿命なのでしょうか。そうではないと思います。高い科学力と経済力がある日本は、自然災害にも十分に対応できる力をもっています。干拓地でできたオランダでは、国土全体の水没を防ぐため河川や運河沿いの広い地域を水没予定地帯にした新堤防を建設し水没予定地帯の農民の住居を新堤防の上に移すという国土改造事業を進めています。
 日本だってやってやれないことはないと思います。洪水対策ではコンクリートで固められ川幅ぎりぎりに作られた堤防を自然の流れを取り入れ幅の広いものにするとか、地震でも予知体制を強化し家屋や都市を耐震設計し直し、東京一極集中を是正するなど・・・。
 そのためには災害に対する国家的な取り組みが必要です。しかし、それは逆に弱くなっているように感じます。中越地震では、簡易住宅の建設なども雪が降り始めてやっと建てるしまつ、何もかも自己責任、ボランティアに任せて、こういうときにこそ出動すべき自衛隊も心なしか少なく、国の姿が見えませんでした。
 昨年暮れに発表された新防衛大綱では、膨大な資金が必要とされる米国主導のMD(ミサイル防衛構想)に金をつぎこもうとしています。その対象は朝鮮や中国。
 反テロ戦争の名目の下、アジアを敵視する戦争準備に金をつぎ込み、国土や国民を守るために自衛隊を活用するのではなく米国の傭兵に差し出す日本。台風頻発の原因とされる地球温暖化を防止するための京都議定書批准を拒否する米国に文句一つ言えない日本。地震災害を大きくしかねない東京一極集中も米国式市場原理を導入した結果です。
 どちらに顔を向けるのか、米国なのか自分自身(日本)なのか。「災」の多発は、我々にこうした問いかけをしているようです。


 
主張

新防衛大綱―アメリカの手先傭兵化、反テロ戦争部隊への転換

編集部


 自衛隊創設から50年。新しい防衛大綱が決った。冷戦下で作られた76年の防衛大綱。冷戦後に作られた95年の防衛大綱。そして「9・11後の大綱」と呼ばれる04年新大綱の策定。自衛隊は今、戦後最大の転換点を迎えようとしている。

■形骸化した「専守防衛」
 これまでの歴代自民党政権は「必要最小限の実力の保持は合憲である」という憲法解釈に立ち、「自衛権発動の三原則」を条件として課した上で、「個別的自衛権の行使=専守防衛」に任務を限定し、自衛隊の存在を正当化してきた。同時に「集団的自衛権の行使」は違憲として斥けて来た経緯がある。
 彼らは、曲りなりも専守防衛という国防の基本方針を掲げ、国民に説明するために、非核三原則、武器輸出三原則、海外派兵の禁止、攻撃的武器保有の禁止など、さまざまな厳しい歯止めを自衛隊に課してきた。安保条約も同様で、「国土防衛」と「極東における安全の維持」に限定して米軍の日本駐留を認める、としてきた。
 戦力、交戦権を認めない現憲法の理念に照らしても、核はもたず、武器は輸出せず、攻撃的武器は持たないというのは、侵略したアジアに対して二度と軍事大国にはならないと約束する日本の国是であり、現憲法の下で軍事大国化の道を否定された自衛隊が「自衛隊」としてその存在を許されるぎりぎりの国民的コンセサンスであったのではなかろうか。それが今、なし崩し的に形骸化されようとしている。

■中期防に見る「質的変化」
 新大綱は、海外活動を国土防衛と同格に位置付け、05年からの防衛力整備目標を示した「中期防」では、自衛隊の海外派遣に備え、航続距離が長く、中型ヘリなども搭載可能な輸送機8機の整備や、「長距離・大量輸送」の能力向上に乗りだした。また、「離島侵攻への対処」として、C130輸送機に空中給油機能を付与し、「敵地攻撃能力」を備えた精密誘導弾の保有など決めている。
 40年近く日本が維持してきた「武器輸出三原則」を見直すのも、今大綱の特徴だ。「他国に武器を売らず、他国の武器開発にも関らない」とした日本の防衛政策の根幹の一つが、ミサイル防衛推進に共同でとり組む米国との同盟強化を理由に捨てられようとしている。これによって「MDに関する共同開発・生産」を武器輸出禁止の枠外とする内容が盛りこまれた。三日に閉会した臨時国会では、「三原則」見直しに関する論議はほとんどなく、もっぱら自公両党の調整に終始した。
 自衛隊の際限なき対米協力路線が国民論議を経ないまま閣議という自公両党の密室で静かに進む。財政健全化のスローガンの下で、自衛隊員の削減、戦車や自衛艦など通常兵器削減という「量的変化」は話題になっても、(確かにこれまで戦後の防衛政策は、「必要最小限」から量的拡大が一貫して追及されてきた経緯があるが)海外活動の容認や、武器輸出、攻撃的武器の保有という自衛隊そのものの決定的な「質的変化」、この最も重要な部分が、国会審議も経ぬままいともたやすく転換されていく。この「質的変化」は何のためなのか。

■新大綱策定の本質
 新大綱は、9・11テロのような国際テロ活動や大量破壊兵器と弾道ミサイル拡散など「新たな脅威」への対処を最優先課題と位置付けている。「新たな脅威」に対しては「米国との緊密な協力関係を一層充実させる」ことで達成する、そう新大綱に明記された。そのための海外活動の「自衛隊法雑則」から「本来任務」への「格上げ」であり、長距離・大量輸送手段の導入である。
 「新たな脅威」とは誰か。新大綱は、日本周辺の情勢について、北朝鮮を「重大な不安定要因」と名指しした。新大綱の骨格を作った石破茂・前防衛庁長官は北朝鮮について「脅威だ。そう言った方がいい」と断言したという。中国についても軍の近代化や海洋活動の活発化を指摘し「今後も注目していく必要がある」とした。中国への警戒感の明記も今回が初めてだ。
 秋以降、中国の原潜の領海侵犯や尖閣諸島の帰属を巡る中国との確執が最高潮に達した。そして北京、ピョンヤンと続いた日朝実務者協議での拉致疑惑をめぐる一連の北朝鮮バッシングの渦中にあって、国民内部から反対の声が上らないことを見越したかのように、北朝鮮、中国を「新たな脅威」とする防衛大綱がさしたる抵抗もなく決定されていく。新大綱の本質を象徴するかのようだ。
 勿論、専守防衛から海外派兵へ、対米協力への防衛路線の転換はいまに始まったことではない。冷戦崩壊後、日米関係はかつてのような「反ソ」や「極東の平和」といった枠組を超えて「周辺事態への対処」をめざしていく。96年の「日米安保共同宣言」から、97年の「日米新ガイドライン」、99年の「周辺事態法」、そして「有事法制化」「イラク特措法」という一連の流れはこの延長線上にある。しかし、今回の新防衛大綱の特徴は、周辺事態というような地域制限が一切なくなったこと、そして、北朝鮮、中国を新たな脅威と明確に規定したことだ。結局、その本質を言えば、「アジアに於ける新たな反テロ戦争へのそなえ」であり、自衛隊の「反テロ戦争部隊への転換」である。決定的な違いは、ここにある。そして重要なことは、これらすべてがアメリカの要求に沿ったものであるということだ。

■ブッシュ路線と運命を共にする愚かさ
 「ならず者国家」に対しては単独行動、軍事力行使も辞さず、米国の利益や価値観に沿った世界秩序の再編をめざすとしてイラク戦争を敢行したブッシュ路線。
 しかし、二年を経て明かになったのは、膨大なイラク市民、米兵の死傷や捕虜虐待であり、相次ぐ有志連合からの撤収とイラク人民の反米感情の高まりであり、ブッシュ・ネオコン路線の破綻だった。他国の主権や文化を認めようとしないアメリカの独善的で強圧的な政策が、アメリカへの反発や反感を生み、それがアメリカを対象にした新たなテロを生む。
 「敵」を作り、その「脅威」を煽り、軍事力増強を図る。このアメリカ産軍複合体の経済構造がブッシュ・ネオコン路線を支えている。
 日本はこのまま行けば、ずるずるとアメリカに引っ張られ、反テロ有志連合の一翼を担いながら、アジアでの新たな反テロ戦争への加担を余儀なくされるだろう。それは孤立と破滅の道である。小泉政権はこの愚かな道を歩もうとしている。

■歴史の教訓に学べ
 今年は「乙巳(ウルサ)保護条約」100周年を迎える。
 日本による朝鮮植民地化は1910年の「日韓併合」以前に、朝鮮から外交権を奪い、実質的に朝鮮を日本の保護下に置いた1905年の「乙巳条約」から、と見るのが通説となっている。
 「この日たるや放声大哭す」と題した新聞、自決して抗議した儒者、一挙に巻起こった義兵闘争。これら一連の民衆の抵抗を圧殺してアジア侵略の一歩を記した、その帰結が太平洋戦争であり、その敗北である。今年は奇しくもそれからちょうど60周年を迎える。
 明治以降から敗戦に至るまで日本はアジアに敵対し、アジアへの侵略で国が滅んだ。戦後も、対米追随の下でアジアに敵対し、そして今また、アメリカによる新たなアジアでの反テロ戦争の一翼を担おうとしている。日本は一体、この歴史から何を学んできたのか。
 新大綱策定に対して日本では反発の声はなかった。しかし、そう悲観する必要はないのではないか。というのも、アメリカの手先傭兵部隊として海外で武力行使する、そういう日本を日本国民が求めていないからだ。イラク派遣延長に反対する国民は70%を超えている。憲法9条を守るべきだとする世論も過半数を超えている。日本人の多くはこの歴史の教訓をしっかり胸に刻んでいる。
 憎悪と対決から、協調と対話へ、時代もまた、大きく変ろうとしている。遠く欧州では仏独が歴史的和解を成し遂げEU結束の核となった。アジアではASEANを中心に東アジア共同体結束への気運が高まり、アジアで最も戦争の危険が高いと見られた朝鮮半島では半世紀にわたる憎悪と敵対を超えて互いの体制を認め合う歴史的和解と南北統一への道が開かれはじめている。
 世界的な離米・多極化の動きは一つの潮流となった。「もはや軍事超大国アメリカに抵抗できる国家はなくなった」というような幻想にアジアと世界が惑わされることはない。アメリカが必死になって日本を米一極支配戦略に引きずり込もうとしているのも「孤立した米国」の「弱さ」の現れだろう。
 問題は、これらの時代の趨勢を踏まえ、ますますひどくなる対米従属路線に反対する大多数の国民大衆の要求と志向を反映して、アメリカなしには生きていけない対米従属の小泉路線に対抗する、二大政党制を超えた「新しい対抗軸」を築いていくことができるかどうか、日本の命運はすぐれてここにかかっていると言えるだろう。


 
研究

日本の国と社会評価の基準を考える

編集部


 今日、日本がこのままでいいと思っている人はほぼ皆無に等しいだろう。「改革」を唱えた小泉首相が人気を博したのもその反映だと言える。
 ところで、日本を変えなければならないと考えるとき、誰しも一定の基準をもって日本の国と社会を評価していると思う。経済や文化、軍事力などを基準に評価している人もいるだろう。だがもっとも切実なのはやはり、日本が自分たちにとって、人間にとってどうかということだと思う。どんなに経済が発達し、文化水準が高く、軍事力が強くても、日本の国と社会が自分たちにとって、人間にとってよいものでなければ、転換が要求されるようになるということだ。
 では、一般的にその国と社会が人間にとってよいものになっているのか否かは、どこに現れるだろうか。衣食住は、その基礎的で重要な指標の一つである。しかし、衣食住がいかに満たされても、その国と社会が人々に生きる夢と希望を与え、自分が必要とされているという愛と信頼を感じさせるものでないなら、それは人間にとってよい国、よい社会だとは言えないだろう。今日の日本においても、もっとも決定的なのは、この人間にとって一番大切な夢と愛が持てているのか否かにあると思う。それと関連して、今日本で、将来への不安や生活苦、社会の冷たさなどを実感する人々が増えているが、それなどは、夢と愛の喪失の深刻な表現だと言えないだろうか。
 夢と愛の喪失、それはなによりも、政治離れの激増に現れていると思う。
 この間の日本の国政選挙、地方選挙に共通する最大の特徴は、投票率の大幅な低下である。国政選挙でも60%に満たず、首長選でさえ40%を前後するようになっている。
 とくに若い人々のなかでの投票率の低下、政治離れの激増は、従来の政治的無関心とは区別される特徴を持っている。それは、自分の運命が日本の運命と結びつかず、政治が自分とまったく無関係になるところからくる無関心というところにある。今、とくに若い人たちは、自分の運命を国に託したり、労組などなんらかの社会団体や政党に託したりしていない。皆自分の運命は自分で切り開いていこうとしており、それしかないという状況になっている。
 その典型は、フリーターに象徴される青年不安定雇用労働者である。彼らの場合、自分が所属する集団がない。特定の会社も、労組もなく、地域とのつながりもない。皆がバラバラの個人になり、臨時的な仕事に追いまくられながら、なんとかその日その日の生活を維持している。こういう彼らが、わざわざ日曜日に投票場に足を運ぶことなど考えられるだろうか。
 選挙は、その国の政治や社会をはかるバロメーターと言われるが、政治離れの激増というこの現実は、今の日本での不安と生活苦、冷たさなど、夢と希望、愛と信頼のなさをもっとも鋭く総合的に示しているのではないだろうか。
 今の日本で夢と愛の喪失のもっとも鋭く深刻な表現は、ネット自殺の激増など、その質も大きく変化してきている自殺問題の深刻化にあると言えるだろう。
 今日、日本における自殺といったとき、一つの特徴は、生活苦や過労など経済的要因とともに、生きる意味、生きる居場所を失った若者たちのネットなどを通じての集団自殺現象である。自殺が生のもっとも華々しい瞬間だというネット自殺、集団自殺の流行には、独りぼっちの愛なき生の中で、生きる夢も希望も、意欲や意味さえも見いだせない日本の現状が象徴的に示されていると思う。
 犯罪の増加と凶悪化も、今日の日本における夢と愛の喪失を鋭く表している。
 今日、日本の犯罪について考えるとき、その大きな特徴は、生活苦とともに倫理観の喪失によるものが増えているということだ。なぜ人を殺してはならないのか。自分の存在を確かめるため、人を殺してみた。等々、人を殺すこと、だますこと、人を傷つけ、悲しませ、集団に被害を及ぼすことなどへの罪悪感のない犯罪がとくに青少年の間に広がっている。
 この倫理観の喪失は、集団、共同体の崩壊と密接に結びついている。なぜ人を殺してはならないのか、その結論が出せない人が増え、そのような討論会が一度ならず開かれていること自体、今の日本が人々の居場所、拠り所としていかに体をなさないものになっており、そのための夢、そこにおける愛がいかに失われているかを示して余りあるのではないだろうか。
 次に、出生率1・29を記録した世界有数の少子化現象も、現日本社会への人々の評価を表す象徴的な出来事である。
 少子化の背景には、当然のことながら、若い人たちが結婚も出産もしなくなっており、また、できなくなっている現実がある。地域や職場が崩壊し、国家的な配慮も援助もなくなっていくなかで、人々の間で出産、子育てする意思も力もなくなってしまうのは当然だ。
 子どもたちに共同体の未来を託す夢もなく、共同体に子どもたちの未来を委ねる信頼もなく愛も感じられないまま、少子化現象が急速に深刻化していっているところに今日の日本の惨状がよく示されていると思う。
この他にも日本が夢も愛もない国と社会になっていることを示す指標はいろいろとあるだろう。夢も愛もない社会はいずれ滅ぶ。それをどう変革のエネルギーに結び付けていくのか。問われているのはまさにそこにあると思う。


 
研究

人間にとってネット社会の発展とは?

赤木志郎


 人間にとってネット社会の発展とは?
 今日、携帯メール、インターネットのEメールとネットなどの利用が若者から中高年にまで急速に広まりネット社会を形成するようになっている。情報技術の発展は時代のすう勢であり、それによって世界がますます密接につながり、その速度を高めている。
 そうしたなか、ネット社会に対する見方は本質的に二つに分かれている。一つは、「ネットは個人の力を強くします。これまで日本では、わりと数は多いが一部の特権階級が市場を独占していた。ネットで個人も市場に参加しやすくなると、この構図が変わる。大衆的資本主義です」(堀江貴文ライブドア社長)という肯定的な見方。もう一つは、「確かに携帯は便利です。でもそれは早さと効率を競う今の便利さに過ぎない。反面、人と人とが向き合うことで得られる大切な『つながり』が失われています」(辻信一明治学院大学教授)といった否定的な見方である。前者がネット万能論としたら、後者はブレーキ論である。
 新しいもの、時代の要求を反映したものであっても古い要素を反映した否定面ももっている。それだけに肯定面を積極的に生かしながら否定面にたいしては克服していくという姿勢が要求されると思う。
 ところが、ブレーキ論はネットが新しい時代の要求を反映している点に目を向けないで、古い要素を反映した否定面を見るだけだから、そのような見方になる。ブレーキ論は、「直接、向き合う人とのつながり」が失われるとするが、「電縁」という新たな言葉が生まれているように、それがむしろ直接人と人が向き合う条件を拡大していっているという例がいたるところで現れている面をみていない。
 ネットはその特性から血縁、地縁などの狭い範囲を越えた広範な人と人との繋がりを生み出すことができる。例えば、都会で初めての子育てに悩む若い主婦がネットで呼びかけて暖かい援助を受けている。ボランテイアの呼びかけもネットが大きな力になっている。これまでの社会での人と人とのつながりを変えてしまう可能性をもっているのである。このネットの威力を使っての共同体の強化の道は大きく開かれているのではないだろうか。
 他方、ネット万能論は、「個人の力を強くし、大衆資本主義を発展させる」というが、それ以上にネットが共同体の力を強くするところに大きな意義があり、そのなかで個人の力も強くなるのではないだろうか。実際、個人の力というのも多くの人々とのつながり、情報を得て持つ力である。
 ネット万能論には、なにかネットによってあらゆる情報を「自由に」得ることができ、民主主義が飛躍的に促進されるという考え方あるが、その「自由」の名において、有害図書の押し売り、人格中傷、2チャンネルの電子掲示板での市民派バッシングなど、悪用されている面もある。そして、「テロ」や「共産主義」宣伝に使われるとして、サイトを閉鎖させられているケースも生まれている。肝心なものが「自由」ではなく、社会的に有害なものが「自由」にされているという日本など資本主義社会での限界も留意しなければならない。つまり、個人の自由度がいかに高まったかにネットの価値があるのではない。
 韓国で廬武絃大統領が生まれ「開かれたウリ党」が躍進し、韓国の民主化、自主化に大きな前進が見られた要因の一つに、ネットを活用したことがある。保守的で親米的な守旧派にたいし、若者がネットを活用し論戦を活発にしながら選挙に参加していったのである。このことは、ネットを国と社会という共同体に寄与する方向で活用してはじめて大きな役割を果たすことができるということを示している。
 すべてのツールは人間のためになければならず、その人間のためにというとき、結局、人々の共同体の強化、発展に寄与するものとして活用するということだと思う。人々の共同性を育んでいき、皆が互いに信じ尊重し助け合っていくような共同体社会を構築していけば、有害情報などネットの否定的現象も克服していけるだろう。
 人間のため、日本という共同体の強化発展のために、社会活動、社会運動においてネットが積極的に活用されることが望まれる。


 
朝鮮あれこれ

新年の共同社説から

赤木志郎


 例年正月元旦に発表される労働新聞、朝鮮人民軍、青年前衛の三紙の共同社説は、先軍政治の威力の確認とその徹底が強調されているのに注目すべきでしょう。
 社説は、昨年を政治思想、反帝軍事、経済科学の三大戦線で新しい勝利の突破口が切り開かれた年と総括し、とりわけ、米国の共和国圧殺策動を断固うちしりぞけ、先軍政治の正しさが証明された年であったと強調しています。
 2005年の課題についても、朝鮮労働党創建60周年、祖国光復60周年という記念すべき今年、全党、全軍、全民が立ち上がり先軍の威力で新しい革命的高揚を巻き起こし勝利者の大祝典にするのが総的課題としながら、経済建設では農業が主戦線であると位置づけ、種子革命、二毛作方針、ジャガイモ農業革命、大豆栽培方針などを貫徹して、全党、全軍、全民が農村を労力的に物質的に力強く支援するように訴えています。
 共同社説の発表を受け、各地、各分野で、今年の課題を貫徹する集いが開かれているようです。とりわけ農民たちが今年の経済建設の主戦線である農業を担う主人は我々であると決意を固め、3日にはピョンヤン市が支援物資を積んだ1100台の自動車と560台のトラクターを周辺の農場に送るなど各道や企業所が農村支援を始めた様子が報道されました。
 今年の共同社説は、また、南北共助を強く打ち出しているのが注目されます。そこでは、今年が6・15南北共同宣言発表5周年であり、この5年間に「わが民族同士で」という理念が全民族的な理念になって南北関係が不信と対決から和解と協力に変化したと指摘しながら、「民族自主共助、反戦平和共助、統一愛国共助の旗を高く掲げて進もう」という三大共助のスローガンを提示し南北だけでなく海外同胞を含めた7000万同胞が共助を強めることを呼びかけています。
 昨年、南北朝鮮の共助が大きく発展しました。12月にはケソンに造成された韓国企業団地が操業を開始しました。この団地は電力を南から引き、最大10万人を雇用するという画期的なものですが、例によって、米国はここに最新コンピューターを持ち込むことに待ったをかけるなど妨害しています。
 米国が南北共助を妨害するのは、それが共和国圧殺戦争策動の障害になるからでしょう。
 米国は、「新作戦計画5026」や「作戦計画5026−4」などを作成し核兵器30個を使用する作戦を練り模擬弾頭投下訓練までしています。それゆえ、新たな朝鮮戦争はほぼ間違いなく核戦争として朝鮮全体に禍を及ぼすものとなります。
 三大共助が南の人々を引き付ける南北共同のスローガンになるのも、そのためではないでしょうか。


 
 

編集後記

小川 淳


 昨年は、猛暑、地震、台風と「天災」の年でした。一方、社会では、ネット自殺や凶悪犯罪の増加、若者層の政治離れなどが顕著になった年でした。また、イラクへの派兵、防衛大綱の決定と、日本が反テロ戦争へと歴史的一歩を踏み出した年、として後代に記録されるかもしれません。
 さて、今年はどういう年になるのか。天災は時代の地殻変動の兆しなのか。地震は地殻プレートの「歪み」がぎりぎりになると起ると言われます。歴史を紐解いても分るように、社会もまた、ひとつの時代の「歪み」がその極に達したとき、新しい時代へと大きく変動します。
 この「歪み」のエネルギーが戦争という形で弾けるのか、それとも新しい時代への止揚・転換につながるのか。今年は、そのぎりぎりのせめぎあいの年になる、そんな気がします。


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