明けましておめでとうございます。
2017年は私たちにとってどのような年だったのか。昨年を表す漢字として「北」が選ばれたことに象徴されるように、「北朝鮮」の核・ミサイル問題に日本が文字通り振り回された一年だったと言えるのではないか。昨年は、「北」のICBMに危機感を露わにした米トランプ政権が、経済的、軍事的圧力を高めていき、あたかもチキンレースを繰り広げたような一年だった。このままではいつ戦争に至ってもおかしくない、そのような危機感も煽られ続けてきた。
この「北」騒動の下で、安倍政権は昨秋の「国難」選挙に大勝し、対「北」への軍事的圧力強化でトランプとの二人三脚を演じ、敵地攻撃ミサイルの導入や戦闘機、ミサイルなど、せっせとアメリカの高価な武器を購入し、防衛費のみ増え続けている。三年前の集団的自衛権行使を可能とする安保法の制定も、特定秘密保護法、共謀罪の強行採決も、すべて「北の脅威」を口実にしたものである。そして今秋には、9条改憲をめざして改憲案を提示するという。改憲が成立するなら、まがりなりに戦後体制として維持されてきた専守防衛、非軍事国家日本という「国のあり方」は根本から転換する。今年はその一歩手前まできている。
冷静に考えるなら、もし戦争になれば米国も核攻撃の対象になり、犠牲者が数百万を超えると予想される「北」との戦争を、アメリカが(トランプがまともな頭脳の持ち主なら)できるはずはない。戦争はできなくても、危機を演出すればするほど、韓国も日本もアメリカの言うがままとなる。これがトランプ流ディールの真骨頂なのだろうが、そのトランプに世界で一番「近い」ことを誇る安倍は、トランプの掌で踊りながら、自己の野望(改憲)を着々と進めている。トランプと安倍の高笑いが聞こえそうだ。したたか者のトランプと安倍を、あまり侮らない方がよいと思う。
昨秋大阪で開かれた鳩山由紀夫氏の講演会で、政権退陣の引き金となった普天間基地の沖縄県外移設問題に触れ、当時アメリカがもっとも嫌い、警戒したのは普天間の県外移転ではなく、鳩山氏が提唱した「東アジア共同体構想」であった、と指摘している。「東アジア共同体」は、東アジアに中国や「北朝鮮」を含む共同体を作り、経済的、政治的連携を強めていく中で対立や紛争を平和的に解決していく。これをアメリカが嫌ったのは当然で、東アジアに紛争や危機がなくなれば、自らの覇権を維持できなくなるからだ。
言い換えるなら、安倍政権が進める改憲や一連の反動政策をやめさせ、沖縄辺野古の基地建設を中止に追い込むための重要な視点の一つが、東アジアの平和、とりわけ「北朝鮮」との正常な関係を築いていくことである。その闘いの重要性に改めて気づかされた一年だった。
情勢展望
2017年という年は、私たちにとって、一体どういう年だったのか。そして新年、2018年は?その総括と展望について考えてみたい。
旧年、2017年を指して「混迷の年」だったと言う「識者」が少なくない。もちろん、「先行き不透明」、「不安」等々、その理由は多々あるだろう。しかし、問われたのは、なぜ「混迷」なのか、その奥にあるものだったのではないだろうか?
■「混迷」の奥にあるもの
昨年一年を振り返って、日本と世界を覆う「混迷」が一段と深まったのは事実だ。
そうした中、昨年を表わす漢字一文字として「北」が選ばれた。その一番の理由が「北朝鮮」にあったのは言わずもがなだ。「北」の核とミサイル。年間を通じて、これほど各種報道に取り上げられた事例は、かつてなかったのではないか。その度に朝米双方から互いに繰り返された核戦争の脅し。この前代未聞の大騒動。まかり間違えば、核戦争。日本が被る災害は計り知れない。それ自体「混迷」だったと言えるだろう。
一方、「混迷」はこの他にも多々あった。何より甚だしかったのは、米トランプ政権の混迷ぶりだ。米国政治が大統領のツイッター一つ、指先一つで左右され、大統領令が議会や裁判所でいとも簡単に覆された。イスラム教徒の移民締め出しもあった。パリ協定からの離脱もあった。それにともない、ドイツ首相メルケルが公然と「米国にはもう頼らない。ヨーロッパのことはヨーロッパで!」と宣言するまでに至った。
米国の衰退と反比例するように中国が台頭した。「一帯一路」、AIIB、中東、アフリカ、中南米への進出。日本の三倍に膨れ上がったGDP、米中科学技術競争での中国の米国への肉薄、「テクノロジー・クライシス」。そして習近平政権のさらなる強大化。等々。世界に広がる華僑まで含め、中華民族挙げてのこの台頭が、「世界の中心はもはや米国ではない。中国だ」の声まで呼び、「混迷」をさらに深めた。
これまで通りにはやって行けなくなった「混迷」、先を見通せない「混迷」、このかつてなかった「混迷」の奥にあるもの、それはやはり、米覇権の崩壊だったのではないだろうか。
■エゴ丸出し、ファースト覇権の運命
トランプ政権の登場は偶然ではない。それは、国も民族も、集団そのものまでも否定し、人々を愛国、愛族、愛郷の情も理念も、それによるつながりもない、バラバラの個人にして支配する、これ以上にない究極の覇権、グローバル覇権の破綻と一体の歴史の必然だ。
あらゆる規制を取り払う金融の新自由主義化にともなった金融恐慌、リーマン・ショックや国境も宣戦布告もない「21世紀型の戦争」、イラク・アフガン反テロ戦争の泥沼化など、経済的にも、軍事的にも破綻したグローバル覇権は、「自分の国を大切にしよう!」という叫びとともに、欧米をはじめ世界各国に燃え広がった自国の国益第一、自国ファーストの広範な国民的運動によって決定的にその終焉に追い込まれた。欧州に巻き起こる反EUの大気運、闘争の高揚と英国のEU離脱。世界各国で、既存の二大政党制を突き崩す、広範な国民の政治への進出とそれに押された自国ファースト政党の躍進、政権への肉薄、そして樹立。「アメリカ・ファースト」の「トランプ現象」は、まさにその一環だった。
だが、「世界の警察官」にならないことを公約に当選したトランプ大統領が採った政治は何だったか。グローバル覇権に代わる「ファースト」覇権に他ならなかった。
もともと、自分の国の国益を第一とする他国のファーストを認め尊重し、互いに協調、共存する中に自国のファーストを見出すようにしてこそ、真のファーストと言える。
ところが、トランプのファーストは、他国の上に君臨して、他国に自国のファーストを押しつけ、「アメリカ・ファースト」「強いアメリカ」を実現することこそ各国のファーストだと強要し、無理矢理それを納得させる偽のファースト、覇権ファーストだった。
覇権ファーストは、自国ファーストならぬ「自分ファースト」、単なるエゴに過ぎない。トランプのファースト、「アメリカ・ファースト」がエゴたる所以は、米国内では、「白人至上主義」として、対外的には、二国間交易でのアメリカ・ファーストの押しつけなどとして現れ、一方で、軍事力強化と朝鮮やイランなど自分に従わない国々への戦争の脅し、「世界の警察官」ならぬむき出しの「世界の暴力団」として現れた。
エゴ丸出しの覇権は覇権足り得ない。トランプによるファースト覇権が「パクスアメリカーナ」の欺瞞の衣を羽織れず、その誕生の最初からつまずき破綻したのは当然だった。対朝鮮制裁包囲網づくりに失敗したトランプ・アジア歴訪やエルサレムをイスラエルの首都として認定し、世界から排撃された米大使館のエルサレム移転などは、その端的な現れだったと言える。
■立憲民主党躍進の意味を問う
2017年は、また、小池ファースト旋風とその失速、破綻、そして立憲民主党、誕生と躍進の年だったと言える。
世人を驚かせた安倍衆院解散劇を契機に生まれたこの二つの現象は、一体だった。「希望」を押し立て、そして見離した民意が、「立憲」を押し立てることにより、奇跡は生まれた。
民意ははじめ、自らの受け皿として、小池・希望の党に望みを託した。だが、「安保法制・改憲」を踏み絵に、民進党員の希望の党への受け入れで「選別・排除」を行い、小池自身は衆院選に出馬せず、自民と希望の「二大保守政党体制」をつくって、自らはキングメーカーとなり、後ろから政権を操ろうとした、その小池のやり方。上山や野田など親米派「顧問」たちに取り巻かれ、その後ろにいる米国・ジャパン・ハンドラーたちに動かされる小池陣営の見え隠れする内情。そこに民意は、安倍自民にも増した古い従米独裁的体質を見、完全に見離したのではないか。
問われたのは、「選別、排除」された民進党員たちだった。彼らは、新党結成を呼びかけた枝野の周りに集まり、立憲主義、草の根民主主義の旗の下、立憲民主党を立ち上げた。民意はそこに、安倍一強の対米追従独裁を打ち負かす希望の光、自らの受け皿を見出した。立憲民主党躍進の秘密はまさにここにあったのではないか。
こうして見た時、旧年、2017年はまた違った年に見えてくる。単なる「混迷の年」ではなく、従米独裁、自民党政治からの転換、その端緒が見えてきた年。立憲民主党の躍進はそのような意味を持っていたのではないだろうか。
「混迷」の中に「転換」の足がかりが見えた年、2017年を送り、今、われわれは、新年、2018年を迎えている。
その展望はいかに。それは、当然のことながら、旧年の中にはらまれている。
一つは、米覇権崩壊の進行、そして脱覇権とでも言うべき事態の進展ということだ。欧米覇権との闘いという様相を多分に含みながら始まった明治以来の歴史にあって、この節目が日本にとってどういう意味を持って来るか。今、考えるべきは、そのことではないか。
もう一つは、誕生二年目にして早くも綻びが目立つ米ファースト覇権との間で日米新時代がどう進められるのかだ。三年前は、安保法制化だった。今回は改憲か。そこで、立憲民主党の役割はどう果たされるようになるのか。
■あれから150年、襲来しているのは?
新年は、明治維新以来150年の年だ。この間、それと関連する行事や論議が一種のブームになっている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の関連本が100冊を超えたと話題になっているが、それもその一つだと思う。
日本は、あの時、自らの進路に大きく舵を切った。それが日本にとってどうだったのか、それを考える節目の年だということだろう。
維新の回天を思う時、それと切り離せないのが、1853年、黒船の襲来だ。当時、世界を席巻し、アジアに襲来した欧米覇権の波が極東の島国にも押し寄せてきた。
これにどう対するか。国論は二分された。「攘夷か開国か」。
日本の進路をめぐる大論議は、以後、倒幕、明治新政権の樹立から、明治6年の政変、「脱亜入欧」へと、世人の予断を遙かに超える大きな展開を見せ、それが日本の進路を決めた。
あれから150年、今の日本にも襲来しているものがある。米覇権の崩壊だ。それは、ペリーの黒船ならぬトランプの「泥船」として押し寄せてきた。この激変が「混迷」を生み、その中から、国のあり方、進路をめぐる転換への気運が生まれてきている。
■民意が動かす脱覇権の時代
150年前、欧米覇権の襲来も最初は一様ではなかった。襲って来たのは、英、米だけではなかった。仏も来たし、露も来た。だが、明治新政権樹立の頃には、英、米だけになっていた。
これに対し、今は簡単でない。米覇権自体、崩壊しながら、あくまで覇権にしがみつき、新たな日米関係の構築を画策している。一方、新興覇権国家、中国は、日本をその勢力圏内に取り込もうとの動きを強めている。ロシアも日本との連携に無関心ではない。一言で言って、覇権多極化への動きだ。
だが、襲って来ているのはそれだけではない。さらにもう一つ、覇権それ自体の崩壊だ。
今日、世界は覇権の通用しない世界になっている。米国による経済制裁も、戦争の脅しも効き目が定かでない「北」の核とミサイル問題は、その典型だ。そしてさらに、覇権が通用しなくなっているのはそれだけではない。直近の事例を見ただけでも、「エルサレム問題」「イラン問題」など、世界はもはや米国の報復を怖れることなく、圧倒的多数で米国を非難し、米国の動議に反対するようになっている。
覇権そのものの崩壊は、今日、何よりも、自国の国益を第一とする自国第一主義が時代の基本趨勢となり、その勢いが衰えるどころか、ますます世界に広がっているところに端的に示されている。ヨーロッパで、アジアで、数年前から顕著になったこの趨勢は、昨年、ドイツでも、オーストリアでも、そして、カタルーニャ、クルドでも、その勢いはとどまるところを知らない。それが米覇権だけでなく、中国に対しても、EUに対しても、覇権という覇権、すべての覇権に反対し、自国、自民族、自地域の主権と利益を主張して立ち上がってきている。
こうした脱覇権、反覇権の力の源泉はどこにあるのか。それを中国やロシア、イランやサウディアラビアなど、それぞれの地域での大国の力に求めるのは、圧倒的多数の中小国が、いくつかの大国によって動かされる存在であるとしか映っていないものの見方ではないだろうか。何かと言えば、大国の意向から考えるこうしたものの見方、世界の見方がどれだけ日本の判断を誤らせているか計り知れないのではないかと思う。
今日、世界を動かし国を動かす力の源泉は、他でもない民意にある。自国第一主義が、グローバリズムに代わり、世界の基本趨勢になってきているのも、自分の国、自分の民族、自分の地域を愛し、その利益を第一にし、それを追求する主権者としての意識に目覚めた圧倒的多数の民意こそが力の源泉になっているからだ。
だが、これまでこうした大衆的進出は、「ポピュリズム」として蔑まれてきた。大衆の意思や要求を浅薄で利己的なものと見、それに政党、政治家が媚びて従い、人気取りをする手法、そういう政治が「ポピュリズム」と言われてきた。しかしそれは、少なくとも、今の政治には当てはまらないのではないだろうか。今日の脱覇権、反覇権の志向の根底には、人々の主権者意識、共同体意識の高まりがあり、政党、政治家がそれを利用してというより、それに突き動かされてと言う方が事実に近いと思うからだ。韓国で朴槿恵政権が安倍政権との間に交わした「慰安婦問題」の解決策が、今、差し戻し状態になっているのも、そうした民意の要求と力によるものに他ならないのではないかと思う。この認識のないところに、今日の日韓関係の改善はあり得ないのではないか。
トランプを米大統領にまで押し上げた「アメリカ・ファースト」、米国民の意思にも、そうしたものがあったと思う。問題は、米国の支配層がそれを「自分ファースト」、エゴに歪曲し、「ファースト覇権」に利用しているところにこそあると思う。先述したように、民意が要求するファーストは、どこまでも相手のファーストを認め尊重し、相手のファーストとの協調、共存の中にこそ自らのファーストの実現を見るファースト、真のファーストなのだ。
■立憲自主か従米改憲か
新年早々、安倍首相は、「改憲論議」を提唱した。国民投票は来年だという。「2020年」を日本を生まれ変わらせる年にするためだ。そこには、来年に予定された天皇退位と改元、そして、その翌年に行われるオリンピックがしっかりと計算に入れられている。
この「改憲」への呼びかけに、立憲民主党は、「今、国民は改憲を求めているのか?安倍首相が自分の好みから求めているだけなのではないか?」と反論している。的を射た指摘だと思う。他の政策と同様、いやそれにも増して、改憲は首相が自らの欲望で行うものであっては断じてならない。どこまでも、主権者である国民の意思に基づいて行われるものでなければならない。
それについてさらに言えば、昨年の突然の衆院解散宣言もそうだったが、安倍首相のそうした独断的、独裁的な政治姿勢は、自ら天皇退位や改元の日付を決め、それに合わせて、「改憲」の年次も決めてしまっているところにも端的に現れているのではないだろうか。
こうした安倍首相の「改憲」に向けた独裁から年が明けたこと、それは、新年が日本の根本を問う闘いの年、日本国民がその主体として力強く登場してくる年になることを予感させてくれる。
欧米覇権の襲来ならぬ、米覇権崩壊の襲来、そして、脱覇権の時代的現実の襲来に直面している新年、日本のあり方、日本の進路をどこに求めるか、それが切実に問われていると思う。
そうした中、安倍首相は、年初恒例の伊勢神宮参拝後の記者会見で、「今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示する」と述べ、「時代の変化に応じ、国の形、あり方を考える、議論するのは当然のことだ」と、「改憲論議」を起こすことへの意思を改めて表明した。
この論議の目的が、一にも二にも、安倍首相自身の提起である憲法第九条全二項にもう一項加える自衛隊の明記にあるのは明らかだ。それが三年前すでに強行した安保法制化とともに米軍の指揮の下、日米共同戦争をするための米国の要求に基づくものであるのは公然の秘密となっている。
これは、日本のあり方、進路をその根本から左右する決定的問題だ。その重大事を主権者である日本国民の意思、要求に関わりなく、一方的に提唱したところに安倍政権の政治姿勢の本質が余すところなく露わにされている。
その上で、この国民への挑戦とも言うべき提唱にどう対するか。受けて立つのか、それとも拒否するのか。答えは明らかではないか。積極的に受けて立つべきだと思う。
すべての政治問題がそうであるように、とくに国の根本法に関わる問題であるこの「憲法問題」は、主権者である国民の前に明らかにされ、公明正大な論議にかけられた上、それに基づいて、その正否の判定は全面的に民意に委ねられるようにされなければならない。
それにも増して、今、この「憲法問題」にどう対するかは、国のあり方、進路そのものに関わる決定的問題だと思う。その内容もそうだが、それ以前に、まず、憲法に対する態度そのものが問われている。
安倍首相がこの論議を「憲法論議」ではなく「改憲論議」と呼び、頭から「改憲」を前提にしているところに、先述したように、憲法よりも何よりも、米意を上に置き、米意に基づいて改憲しようとしているその姿勢が明らかだ。
それは、米覇権崩壊がトランプの「泥船」とともに襲来した今も、あくまで米覇権にしがみつき、その「泥船」と運命をともにしようという、反動的で反国益的な態度だと言わざるを得ない。
脱覇権自主の時代的現実が突きつけられて来ており、その時代の基本趨勢に逆行するがごとく、安倍政権による「従米改憲」が強行されようとしている新年、日本国民の前に提起されているのは、改憲よりも何よりも、まず、すべてを憲法に基づいて解決する「立憲主義」であり、その旗の下、米国言いなりを脱却する日本自主の実現だ。
安倍首相は、こうした現実に立ち向かうかのように、今年を「勝負の年」だと表明した。安倍首相が誰と勝負しようとしているのかは定かではない。だが、今年が日本と日本国民にとって正念場であるのは事実だと思う。
この決定的な年である新年、国民の側の闘争の旗には、「立憲自主か従米改憲か」のスローガンが掲げられるべきではないだろうか。「改憲」により、米国に従い、米国と共同で戦争する国になるのか、それとも、「立憲」で、日本の進路を日本自身の頭で考え切り開いていく国になるのか。
現場から
■苦楽のある派遣労働
ずっと続いている現象だが、失業者も多いが、人の集まりが良くないのも派遣労働の現状である。
そこでまず時給が900円から1000円に一律上がった。それでも集まらない。生活にあえぐ人は交通費も不自由する。筆者も困窮の時代は職場まで2キロ歩いて往復した事がある。
派遣会社はそこで、交通費完全支給を打ち出した。これは当然の施策だろう。派遣労働者はあくまで「完全支給」を、穏やかな口調で、しかし断固として要求するべきなのだ。そこで遠慮していると、自身にストレスがたまって仕事にまで影響する。ひいては会社の利益も損なうのだから、正当な要求こそが「会社思い」である。派遣会社が改善し始めたのが「時間補償」だ。一晩9時間の労働で、深夜手当も含んで1万数千円の予定であるとする。ところが仕事がたいそう早くはかどったり、逆に発注元のミスなどで途中で仕事が不可能になることがあるのだ。
■不労所得
ある現場で夜間作業をしていると下の階の店舗から「騒音が激しい」とクレームがついてあえなく「作業中断」となった。これは発注元の事前折衝のミスだった。翌朝に作業を再開するしかない。全員、京都からの最終電車で帰れる時間に解散となった。以前なら、給料は帰る時間までしか出ない。ところが派遣会社は昨今の人手不足を見越して、当初予定の朝までの賃金補償をするようになった。従ってこの日は6時間分が補償され、ささやかな「まる儲け」を経験させてもらった。これには伏線があって、以前、同じような事態が発生した時に、そのあいだの時間を深夜喫茶かネットカフェで過ごしてもらいたいと会社から指示された。気前よくOKしたものの、その分の自己負担はいかがなものかと営業の兄ちゃんに問題提起したことがあったのだ。それは受け入れられなかったが、きっとこう言う形で遅まきながら実現したのだろう。いずれにしろ、疑問があったら、遠慮がちなフリをして、遠慮無く上にぶつけるのが問題解決・職場改善のコツだ。要望が受け入れられる確率は少ない。しかし、100要望すると最初に1、やがては2・3・5と実現する日が来る。快適な職場・労働環境は労働者の努力で勝ち取ろう。
■一心団結
派遣で時々あるのが「待機要員募集」だ。集合場所と日時を指定され、集合時間に人員が充足していたら、仕事をせずに帰る。その代わりに2〜3時間の給料分が支払われるのだ。会社の予感が的中して作業人数に不足が生じたらそのまま作業に入る。会社にとってドタキャンされるのは致命傷になりかねない。そういう中で派遣の基本は必ず、何があっても集合場所に約束の時間通り行き、人員に穴をあけないことが肝要なのである。常にそれを心がけることで、会社に恩を売り(魂は売らない)、中長期の展望を持って、労働者の要求を実現して行くことが大事なのだ。そのためにも職場の同僚とのお話し=コミュ二ケーションは欠かせない。世間話も不可欠だ。「暑いですね〜寒いですね〜」から「小さな労働運動」は始まる。競争より団結、という事をアピールするのを忘れてはいけない。必死に早く作業するより、巡航速度で着実に進めるほうが企業の利益にもつながる。やみくもに早くするとケガ・ミスにつながり、結局は能率が悪くなる。安倍が自慢する雇用増の正体は派遣労働の蔓延であるが、それを逆手に取り、派遣ライフを満喫しながら、風穴もしっかりあけていきたい。
「全国の派遣労働者、団結せよ!未来は我らのものだ。」
★昨年の勉強会を振り返って
昨年は、1月の泥憲和さんの公演会「憲法九条を堅持すれば国を守れる」に始まり、5月の佐々木道博さん「緊迫の朝鮮半島情勢―日本の国益は」、8月高木静子さん「ヒロシマの今を問う」、そして、12月、三浦俊一さんによる「沖縄と朝鮮を語る」で勉強会を締めくくることができました。
一昨年からスタートした勉強会も7回を数え、当初数名で始まった勉強会でしたが、昨年の7回には30名の方々に集まって頂きました。参加者の中にはリピーターの方も数名おられ、例え小さな勉強会であっても、中身をしっかり準備すること(これは講演者の誠意とご苦労のたまものです)、そして、<継続は力なり>を改めて実感させて頂きました。
なんとも残念でならないのは、参加者が少人数であったにも関わらず、全身全霊で講演を行って下さった泥さんが、5月3日憲法記念日の早朝に急逝されたことでした。安倍首相は新年の記者会見で改めて2020年までの「憲法改正」、施行に強い意欲を示しました。今のような時こそ、「自衛隊は違憲」「いや必要」と考えるどちらの民意にも説得力をもつ泥さんのような方の活躍が必要とされていたと思います。それを思うと無念でなりませんが、癌という病をおして泥さんが発信した3年間の言霊は多くの人たちの胸に「九条で国は護れる」という灯りをともしたと思います。私たちも、その一人として講演会を通じて受け取った泥さんの志を引き継いでいきたいと思います。
8月の高木静子さんの講演への反響も大きかったです。勉強会の報告を読まれた方から「今度そのような講演がある時には是非知らせて欲しい」という手紙を頂きました。やはり被爆を体験した方の生の声に優るものはないという事だと思います。これからも、さまざまな体験をされた方の生の声を聞く勉強会を目指したいと思います。
そして、第5回と7回でとりあげた、朝鮮半島情勢、朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」)の姿を様々な角度から発信する勉強会は、沖縄問題と直結した、日本自身の平和や尊厳の問題として今後ともしっかり取り組んでいきたいと思います。
★第7回勉強会報告
次に、昨年の勉強会を締めくくった三浦俊一さんの「沖縄と朝鮮を語る」について報告します。
参加者はこれまでの最多で30名でした。毎回、勉強会お知らせのチラシを配るのですが、今回特徴的だったのは、三浦さんの事を知っている人たちが多くて、「沖縄と朝鮮」というテーマの幅広さと興味深さも加わってか、反応が具体的で好意的であったということです。三浦さんが大変顔が広いということ、(逆に言えばこの「運動圏」という世界が狭いという風にも言えるかも知れませんが)、それだけでなく、何よりも雨の日も風の日も休むことなく自分の活動であったり、支援の活動であったりをし続けていることからくる信頼というものを強く感じました。それは自分の運動へのかかわり方を顧みる時間ともなりました。思い付きでやってすぐに途切れてしまう活動ではなく、何か一つで良いからし続けることができるかどうか。「信頼」と言うかけ替えのない卵はそこから生れるのだと思います。
さて、講演の内容ですが、一部は初訪朝した朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」)で考えたこと、二部は辺野古に焦点をあてた当該地区の現状についてです。
訪朝報告では、@市場(いちば)についてA一万戸住宅建設(工期10カ月)Bトラクターの自国生産98%に焦点をあて、話に聞いた市場についての疑問=2m程の売り場になぜ売り子が4,5人も? 住宅建設では、多摩ニュータウン建設史をひも解き、8500戸を8年かけて建設したそれとの比較で、1万戸が工期10カ月で可能な根拠は? 更にはトラクター自国生産98%の持つ意味は? などなど朝鮮で感じた具的な疑問を投げかけ、経済の土台の違い、即ち、社会主義・計画経済であること、狭い売り場に4,5名の売り子(女性は45歳以上、男性は高齢者とされている)のなぞは、剰余労働の再分配・労働の公平性の実施、一万戸の工期10カ月の裏付けは、労働力の計画的集約・集中にあること、資本主義であれば資本に労働力購入の限度があること、加えて土地の取得に始まり、設計、基礎工事、型枠、組立、配管・配線・内装など個別の企業体であるため独自に労働者を集めなくてはならず、職種に応じた専門職と一般士工がいるため集約が難しく、とても短期間での一万戸建設は難しいということ、さらに朝鮮でこれが経済制裁下での事業であったことから、社会主義・計画経済の基礎が人間の労働である事が見えてくると話されました。トラクターの98%自国生産では、トラクターとは何か?から始まり、山岳地帯の多い朝鮮で農産物の生産性を高めるためには、区画整備された国有地と共同農営が適しているが、この土台があるもとで、残されていた課題として農業の機械化があり、そのためのトラクター98%自国生産であるなど、自身が感じた疑問を深く考察して語られました。
最後に、この国は社会主義の理想から設計図を描くのではなく、現実の社会から社会主義に向かう設計図を書いていること、グローバリズムと市場原理主義の価値観、視点からは朝鮮の本質は見えない、経済制裁では屈服させることはできないと結びました。
興味本位や政治的意図をもって語られることの多い朝鮮。三浦さんの今回の講演はそうした報道や情報に一矢を放った講演にも感じられました。
次に沖縄ですが、今回は辺野古地区の現状をテーマに語って頂きました。
普天間にある米軍飛行場の移設で揺れる名護市辺野古地区。強硬な安倍政権の「新基地建設」着工の根拠とされているのが、16年の福岡高裁での県側敗訴、地元の同意(辺野古地区3区長の条件付き容認)、埋め立てに不可欠な岩礁破砕申請は名護漁協の漁協権放棄で不要の3点だとしながら、実際のこれらの実情について、琉球新報社が16年にこの地区でおこなったアンケート結果を元に複雑に絡む地元の利害関係や勢力図、その民意を語ってくれました。
まず、政府が「容認している」と主張する辺野古地区の3区(辺野古・豊原・久志)は、区長選や公的監査制度もない、いわば名護市の便宜的な末端行政区で、町内会のようなものであるにも関わらず、実際の行政単位である名護市を飛び越え「再編関連特別地域事業補助金」を新設(2015年)し、新基地建設に利害のあるこの3区に「条件つき容認」と引き換えに直接政府が金をばら撒いたこと。因みに基地反対の稲峰市長になってから名護市は交付金ゼロに。
米軍基地と関連した「交付金」や「補助金」は政府の都合に合わせ法律が作られ運用されてきたこと、「条件つき容認」が無条件での容認か、条件付きでの容認かの二者択一を迫った上での、苦渋の「条件付き容認」であり、「条件つき反対」と読むことができること、不公平な「補助金」(国費)への批判が政府に向かないようにするため、「株式会社国際協力銀行」を経由してやっていることなどなど、聞けば聞くほど安倍政権・日本政府の露骨で姑息なやり口に怒りを覚えずにはおれませんでした。
漁業権放棄の問題も漁業補償金36億円、岩礁破砕を含む漁業権6億円という多額の「買収金」で、地元のボス18名を抱え込んでのもので、先のアンケートからは、厳しい漁業への展望、仲間同士争いたくないなどの漁民の真意が読み取れる。
講演は、地元のボスの意向が強力に作用する辺野古区独自の「行政委員会」の存在や現在の3地区の民意は何かなどアンケートをもとに続きました。
シャボン玉のように消えた「最低でも県外」と言った鳩山元首相の言葉が遥か彼方に思い浮かびますが、安倍政権は何としても辺野古への移転を実現させようと権力と金に物を言わせたあの手この手を使って強行突破を図ろうとしています。
それによるこの地域の人々の分断と対立は深まっているとのことです。このような沖縄の人々の犠牲の上に安倍政権が目指しているものはなんなのか。どこまでも米国と共に、米軍と共に戦争のできる国造り。その戦争に今一番近いのが「朝鮮有事」。朝鮮が米国本土を射程に入れた核保有国になった(と思われる)今日、その現実性は低いと思いますが、その危機を煽り、沖縄での基地強化、自衛隊を法的に戦力化する「改憲」に拍車をかけている安倍政権。この政権の一日も早い退場のためにも、利害関係の密接に結びついた朝鮮、沖縄について、今後とも様々なスタイルで勉強会に取り上げていきたいと思います。
今年もよろしくお願い致します。
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