議論 今、アイデンティティーの確立を考える 敗戦の総括がその鍵
戦争ではなく平和、それが朝鮮の真の狙いだ
朝鮮によるグアム周辺へのミサイル発射計画に端を発する米朝の応酬がエスカレートしている。中距離弾道ミサイル「火星12」4発を発射し、グアム島周辺海域に着弾させるというものだ。トランプ大統領は、「グアムに何かすれば北朝鮮で見たこともないことが起きる。その時になればわかる」と厳しい口調で牽制した。一方の朝鮮も一歩も引かない構えだ。このまま進めば戦争になるのではないか、メディアも危機感を煽り始めている。
これを米朝のチキンレースと見る向きもある。どちらがチキン(憶病者)であるかを試すというゲームだ。競い合う2人が、開戦に向かって突き進むが、先に折れた方が負けとなる。もし降りるのが遅すぎると本当の戦争になるから実に怖い。
朝鮮が本当にアメリカとの戦争を望んでいるわけではないことは明らかだ。アメリカへ挑発し戦争を引き起こしても朝鮮側にメリットは何もない。朝鮮の狙いは、交渉のテーブルにつかせ、朝鮮戦争の停戦協定を平和条約に変え、最終的に敵対関係を解消し、米国との関係正常化を得ることにある。戦争ではなく、平和の実現、それが朝鮮の狙いであり、願いだ。その真意を見誤ると危険なことになる。
朝鮮戦争後、朝鮮側は何度も和平交渉のテーブルにつくことを米国に要求し続けてきたが、米国は交渉を拒否し続けてきたばかりか、社会主義朝鮮の存在を認めず、その瓦解と軍事的圧殺を狙ってきた。この対米関係を根本から転換する、そのための核であり、ICBMなのだ。
「強いアメリカこそ日本の利益だ」として、愚かにもこの「チキンレース」に安倍首相はとことん付き合うつもりらしい。国家機密法も集団的自衛権を可能とする安保法制、そして反テロを名目に強行採決した共謀罪もすべてアメリカの要求であり、日米安保体制強化のためであり、つまるところ米覇権を立て直すためのものだった。「アメリカの覇権なしに日本の平和と安全はない」、日本の政治家の大部分とメディアは本気でそう思っているようだ。そのように信じている限り、米朝の対決に巻き込まれ、日本の対米従属と安保体制は永遠に続くしかない。
真にアジアの友人として、アジアの一員として生きていくなら米国の覇権に寄り添う必要はなく、アジアに敵対し、自ら覇権国の道を進むからこそ、アメリカの覇権が必要になる。米覇権からの脱却の第一歩はアジアとの関係改善にあり、とりわけ朝鮮との関係正常化こそ、その鍵となるはずだ。アメリカの覇権下でなく、アジアとの友好の中にこそ日本の平和と安全はある。
主張
民意が政治に及ぼす影響は大きい。古今東西、民意に見放された政治で成功した例はない。だがそれにしても、今ほど民意によって政治が動かされ、左右された時もかつてなかったのではないか。
メディアが好んで使う「ポピュリズムの時代」には、古い政治を拒否する民意の切実な志向とその力の大きさに驚き、新しい政治を求めるこの趨勢がどこまで続くのか懸念する心が映し出されているように見える。この民意をどうとらえ、それにどう対するのか、それこそが、今、政治をやる上で最も問われていることではないだろうか。
■「ポピュリズム」か?「民意の高まり」か?
「民意への迎合」や「民意の扇動」を意味する「ポピュリズム」という言葉には、もともと民意への蔑視が含まれている。自分の生活や目先のことしか考えていない民意に合わせ民意が気に入るように行う人気取りの政治、考えが浅く簡単に動かされる民意をたきつけ煽り立てる政治、そんな政治がよいのかということだ。
これまでさんざん使い古されて来たこの言葉を用いて、今現在繰り広げられている政治の現実をとらえるのは果たして正しいだろうか。
「ポピュリズム」から受ける違和感は、何よりも、民意を政治の対象としてしか見なしていないところにある。すなわち、民意を「ご機嫌をとる対象」「たきつけ煽り立てる対象」としてしか見ていないということだ。
今日の政治の現実は、それとは明らかに異なっていると思う。民意は政治の対象ではなく、その主体になっているのではないか。
朴打倒を果たした韓国の学生たちは、大衆の決起と韓国野党との関係について日本の学生から質問を受けた時、「私たちが主人公です。野党の意見には必ず私たちの考えが反映されるよう働きかけてきました」と答えたという。これは、決して韓国だけのことではない。日本においても、一昨年、SEALDsの学生たちが野党を安保法制化反対へ押し立てたし、台湾や香港、ヨーロッパや米国でも、運動を主導したのは既存の政党ではない。二大政党は運動の反対に回ったし、既存の政党で賛成に回った党も、民意を動かしたと言うより、民意に押し立てられたというのが実情だ。トランプが共和党指導部に反対されながら、大統領に当選したのも、彼が民意を引っ張ったからではない。民意に支えられたからだ。
今の政治の現実を「ポピュリズム」と見ることへのもう一つの違和感は、それが高まった民意について見ようともしていないところにある。それは何と言っても、「自国第一主義」を極右政党などが掲げる排外主義、国家主義と同一視しているところに端的に現れていると思う。
民意が求める「自国第一主義」は、国境の壁をなくして自国資本の海外流出や他国商品の国内流入を促したり、主権を制限するEUによる財政緊縮策の強要に応じたりするなど、自国の利益を蔑ろにする政治への怒りであり、自らの国益を第一に、自国経済の強化や国民生活向上に力を入れる政治への刷新の要求だ。難民受け入れの拒否にしても、それにより労働者が職を失い、社会不安が増大し、儲かるのは資本家だけという自国崩壊への危機意識からに他ならない。
民意は決して排外主義や国家主義を求めているのではない。そこには自国の主権を強めること、その政治に参加することを求める主権者意識の高まりがあり、社会保障や教育など、国家が共同体としての役割を高めるのを求め、自分自身、介護や地域活動など、共同体のために尽くそうとする共同体意識の強まりがある。この世界に通底する意識の高まりは、日本の民意にも現れている。安保法制化反対の闘いでの立憲主義の高揚、沖縄で高まる自己決定権への要求、そして、若者たちの間で一つの流れになっている関係性を求めて東京を出、地方・地域に進出する動き、イデオロギーよりアイデンティティー、「オール沖縄」の闘い、等々。
■今、民意が世界を動かしている
政治の主体となった民意は、その高い主権者意識、共同体意識で、今、世界を動かしている。
今日、世界を動かしているのは米国ではない。「米国の動向を見れば、世界のこれからが分かる」と言われた時代は遠の昔に過ぎ去った。「トランプ」政権は、その歴史的事実を顕在化させたに過ぎない。この政権が誕生したこと自体がそうした「事実」の現れだったし、「トランプ」政治の混乱と威信の低下はその証そのものだ。
今は、覇権が通用する時代ではない。米国の言うことを聞かないのは、何も朝鮮だけではない。中国もロシアも、大国も小国も、どの国も、陰に陽に米国の「命令」を無視している。朝鮮の強さは、決して朝鮮一国だけのものではない。時代的強さだと言うことができると思う。
では、今日、世界を動かしているのは何か?覇権に代わり世界を動かすもの、それは、民意以外にはあり得ない。実際、今世界を震撼させる「自国第一主義」で既存の政党や政治を動かしているのは民意だ。トランプが「アメリカ・ファースト」を掲げ、大統領になれたのも民意の後押しがあったからであり、今、「ファースト覇権」をやろうとして困難にぶつかっているのも、民意の賛成を得られないからだ。
この世界の趨勢は、日本にも通底している。先の都議選で「都民ファーストの会」が圧勝したのも、この「会」が民意の受け皿になったからに他ならない。揺るぎないように見えた「安倍一強」神殿も民意の厳しい審判の前には砂上の楼閣に過ぎなかった。「加計」「森友」の結末がどうなるか。それも、結局、民意の判定に委ねられていると言えるだろう。
■これから問われること、「民意か米意か」
今、時代は、覇権から民意へ、大きく転換していっていると思う。民意が世界を動かすこの歴史の新時代にあって、日本政治に問われているのは何か?
トランプ政権が出現した時、盛んに言われたのは、「自分の頭で考える時が来た」という言葉だった。これまで日本は、自分の頭ではなく、米国の頭で考えていた。グローバル大企業もその周りに集まった学者、知識人、政治家たちも、皆まず米国の意向を伺い、確かめ、それに従いそれに沿って政治を考えていた。「日本には戦略がない」と言われたのはそのためだ。
だが、時代は変わった。米国の意向で世界が動いていた時代は過ぎ去った。民意主体で政治が行われ、民意が世界を動かす今日、民意を基準に政治を行うことが求められている。「米意から民意へ」、日本政治で掲げられるべき第一のスローガンはこれではないだろうか。
そのために求められているのは、「民意がよいと言うことがよいことだ」という観点をしっかりと持つことだと思う。その国のことを一番よく知っているのは、グローバル大企業でも、学者、知識人や政治家でもない。まして米国では絶対にない。その国に根を張り、代を継いで生活し、自分の国を誰よりも愛し、その命運に最も切実な利害関係を持っているその国の国民大衆自身だ。だから、民意がよいと言うことがよいことであり、その観点から民意を基準にしてこそ、その国の実情に合った最もよい政治ができる。
だが、観点一つで政治はできない。問われてくるのは方法だと思う。民意を基準にするためには、民意を知らなければならず、そのためには政治家自身、大衆の中に入り、国民と生死苦楽をともに一体にならなければならない。だが、今の政治家にそれを期待するのは容易でない。と同時に、いやそれよりも、民意主体の今日、国民大衆自身が自分の生活に政治を引き込み、日常的に政治に参加するようになること、そのように政治や運動のあり方,組織のあり方の根本的な転換を図ること、その方が現実的かもしれない。実際、一昨年現れたSEALDsの闘いやスペイン・ポデモスの闘いなどにはその萌芽が見られているではないか。
今、民進党は、「安倍一強」批判の受け皿、政権交代できる党になるため、政策の軸を定めることなどを言っている。だが彼らに問われているのは、もっと根本的なことではないだろうか。
一方、都議選で民意の受け皿になった「都民ファーストの会」は、さすがに民意を「重視」した。「古い政治から新しい政治へ」、そこに都議選の宣伝軸を置き、「非政治家」多数を立候補させたこと、等はその現れだと思う。だが問題はこれからだ。小池新党を立ち上げて国政に乗り出し、「日米新時代」など日米問題が提起されて来た時、ポイントは、「民意か米意か」どちらに忠実かだ。それが鋭く問われてくるだろう。
議論 今、アイデンティティーの確立を考える
今、ことさらアイデンティティーの問題が大きく提起されているわけではない。しかし、日本人としてのアイデンティティーの問題は解決されているとは言えず、依然として重要な問題として残っていると思う。なぜこれまで解決されていないのかについて考えてみたい。
■なぜ、今、日本人としてのアイデンティティーの問題が重要なのか?
今日、世界は大きく変わってきている。各国の主権擁護の大きなうねりが起こり、グローバリズムの破綻、アメリカ覇権の凋落を加速させている。
昨年、イギリスのEU離脱、アメリカの自国第一主義を掲げたトランプ大統領がグローバリズムを掲げたクリントンを破ったこと。EU支配に反対する欧州各国の動き、西欧の価値観に反対する東欧諸国、中国の大国主義に反対する香港、台湾の闘い。さらにスコットランド、カタルーニャなどの自治、独立の要求など。これら自国第一主義、地域自己決定権のうねりは、「私はイギリス人だ。なぜEU官僚の指示を受けなければならないのか」と言うように、いずれも自国、自地域のアイデンティティーにたいする強烈な自覚にもとづいている。
アメリカの覇権が崩壊していく中、日本はどうすべきなのか。世界の主権擁護、自国第一主義の潮流に合流し、日本独自の道を拓いていくのか否かの岐路にある。日本が独自の道を歩もうとすれば、何よりも日本人としての誇り、自覚、責任というもの、すなわち日本人としてのアイデンティティーを明確にもたなければならないと思う。
アイデンティティーの重要さを教えてくれているのは、世界各国の主権擁護、自国第一主義の闘いだけでなく、沖縄のアイデンティティーにもとづく団結した粘り強い闘いだ。沖縄県民はイデオロギーではなく、アイデンティティーにもとづく全県民の団結を実現し、米軍基地撤去の闘いを果敢に繰り広げている。これはアイデンティティーを確固と確立した闘いこそが最も強固であり、確実に勝利への道を拓いていくということを示している。ところが、現在、大多数の日本人は、日本人としてのアイデンティティーが不明確で共通する見解がなく、それをもてないでいる。
日本の若者が海外に出て、日本のことを聞かれてもよく答えられず、日本人きりで籠もっている場合が多いという話はよく聞く。個人としては話せても日本人としての見解がもてていないためではないだろうか。自分の国である日本について語ることができず、結果、誇りも抱けていないとするなら、それは人間として不幸なことである。
なぜ日本について語れないのか。やはり戦後教育の影響が大きいのではないだろうか。戦後から今日に至るまで学校で現代史がとりあげられることも、試験に出ることもほぼなかった。今年8月の世論調査で日本が敗戦したことを知らない高校生が14%以上を占めたそうだ。敗戦して戦後の日本があるのに、敗戦を知らない若者が日本について明確な見解をもつことができるはずがない。
1990年代、アメリカに日本の官僚・政治家が「構造改革」を強要される屈辱的な有様を知った関岡英之氏は、日本人がグローバリズムを掲げたアメリカの対日要求を跳ね返すだけの日本独自の価値観をもっていないことに気づいた。「私たちは、ヨーロッパやアメリカから受け入れた近代合理主義の価値観によって、父祖たちの歴史から切り離されてしまっている。このことは本来、大の男が肩を震わせ号泣してもおかしくないほど、寄る辺なく、心もとないことなのではないだろうか」(「なんじ自身のために泣け」)と述べている。日本人としてのアイデンティティーを求め彷徨った関岡氏の嘆きは、彼一人のものではないはずだ。
日本独自の道を力強く拓いていくためには、日本人としてのアイデンティティーがなければならない。しかし、それがないのが現実だ。
■アイデンティティーをもつ鍵は敗戦の総括
日本人としてのアイデンティティーを追求するという時、縄文文化や古代国家に求めることもできると思う。そうしたことも意義あることだが、より重要なことは、現在の日本の国のあり方の出発点となった敗戦をよく総括することだと思う。
なぜなら、日本人としてのアイデンティティーが国のあり方と密接に結びついているからだ。国のあり方を支える価値観がアイデンティティーと言えると思う。日本は敗戦を境に国のあり方が大きく変わり、それを支える価値観も大きく変化した。人々が日本人としてのアイデンティティーをもてないでいる主な原因はその変わり方にある。
日本国民が体験したもっとも大きく強烈な出来事は先の戦争だった。このとき、敗戦の総括をよくおこない、それにもとづいて日本が世界とアジアに占める地位と役割(たとえば平和国家としての地位と役割)を明確にしていれば、それを支える価値観として日本人としてのアイデンティティーをもつことができたはずだ。
ところが、敗戦の総括が今日まで本当の意味では一度もおこなわれていないのではないか?
戦前の欧米列強による覇権時代、日本は「脱亜入欧」を旗印に欧米に習いアジアの盟主としての覇権的地位と役割を占めようとした。アジアの盟主となるための「富国強兵」路線に邁進させたのが、天皇を戴く「神国日本」の臣民としてのアイデンティティーだった。
侵略と抑圧、略奪のあるところで反抗が生まれるのは必然であり、抗日の闘いがアジア全域に広がった。これにアメリカがファシズム撲滅を掲げ、連合軍として日本との戦争に加わった。日本軍は各戦線で敗北していき、日本全土が空襲に見舞われ、最後にポツダム宣言を受け入れ無条件降伏をした。数百万の日本人の生命が失われ、数千万のアジア諸国人民を犠牲にし、最後に「焼き尽くされ」「殺し尽くされ」日本は敗戦した。「二度と戦争をしてはならない」ということが一致した国民感情となった。
しかし、なぜ戦争をしたのか、その原因を掘り下げることなく、日本がアジア諸国を侵略したことよりも、欧米中心の世界秩序に刃向かったことが間違っていたとされたのが事実だと思う。
日本を単独占領したアメリカは、戦争を軍国主義にたいする「自由と平等、民主主義」の勝利とし、「自由と平等、民主主義」のアメリカ式価値観を日本に持ち込んだ。日本支配層は日本を世界の盟主であるアメリカの従属国として位置づけ、アメリカ式価値観を普遍的なものとして受け入れた。
一夜明けたら、「欧米近代主義と対抗しアジアの解放を」「鬼畜英米」を叫んでいた人たちが、「自由と平等、民主主義」を唱えていた。
戦中に青春期を過ごした大正生まれの世代の人たちは、間違った戦争に身を捧げたということ以上に、価値観、すなわち日本人としてのアイデンティティーを180度転換させなければならないという苦渋を嘗めさせられている。大正生まれの世代の人々の多くは戦争や戦前のことを話さないばかりか、子供たちにどう振る舞ってよいかも分からなかった。国を信じられなくなり、価値観自体を失ってしまったと言えよう。
そして、戦争を知らない世代である私たちは、過去の歴史に目を向けず、目先の生活と幸せを追求するのに精一杯だった。物質的繁栄と引き替えに、国のあり方や誇りといったところから遠く離れて生きてきた。この70余年間は、人々が日本人としての誇りや自分の国を心の中から失ってきた日々だったと思う。それゆえ、今日本の生き方を真摯に考えなければならない時にあってもそれができないでいる。
英米中心の世界秩序に挑戦したから日本が負けたと考えれば、それは強い米英に力で負けたというだけで、戦争を起こした自身の過ちを見いだす本当の総括にならない。そこに真摯な反省も教訓も見いだせず、日本の地位と役割を明らかにすることもできない。皇国史観をアメリカ式の価値観に取り換えただけでは、アイデンティティーをもつことができないのは自明だ。
今日、私たちが日本人としてのアイデンティティーをもつことができない原因はまさに、敗戦の総括を自身で主体的にやってこなかったところにあると思う。現在、アメリカの覇権が崩壊していく新しい時代にあって、日本が世界とアジアにおいて占めるべき独自の地位と役割を明確にしていくことが切実に問われていると思う。
現在の日本を規定している敗戦の総括を自身の手でおこない、日本の立ち位置を明確にすることが、日本人としてのアイデンティティーを確立する出発点になるのではないかと思う。
議論
■「小池さん、貴方もか」
私は本誌167号に投稿した文章で石破氏の「日本列島創成論」が「外資導入」策であることを批判した。「外資導入」は安倍首相もそうだ。アベノミクスもTPPや国家戦略特区で「外資導入」し、それで経済の活性化を図ろうというものだ。
そして小池さん。氏は都議選の翌日にフジテレビのプライムニュースに出演し、自身が主宰している「国政研究会」で何をやっているのかと聞かれ「外資の利用の仕方です」と述べたのだ。
貴誌が主張しているように、今後、経済の日米融合一体化、「アメリッポン化」が進むのではないかとの危惧を抱く私から見れば、「外資の利用」などそのためのものであり、「小池さん、貴方もか」という思いを抱かざるをえない。
小池さんには「顧問政治」という批判がある。顧問に任命した14名による政策立案。そのうち5名は、米国金融投資最大手のゴールドマンサックス出身の上山信一慶大教授を筆頭に外資系経営コンサルティング会社出身。
「顧問の意見は私の意見だと思ってください」との「顧問政治」で「築地は残す、豊洲は生かす」とし、築地を「食のテーマパーク」に、豊洲を「物流センター」にという案も出されたという。
こうした案については、元卸7社を数社に減らしてゴールドマンサックスが握り、仲卸は観光用以外は淘汰する。そこに彼らが株主であるアマゾンなどを入れ、米国金融が日本の水産業全体を掌握しようとしているなどと取り沙汰されている。
小池さんはいずれ国政に打って出るだろう。国政での「外資利用」の促進。それはゆゆしき問題だと言わざるをえない。
■問題視される日本的古さ
今、安倍政治の古さがあぶり出されている。
加計学園や森友学園など、お友達に便宜を図り、それを内閣中枢が忖度して実現するという政治の私物化、決定過程の不透明さなどが縁故政治、密室政治などと問題視されているのだ。
元々、米国は90年代に入って日米構造協議で日本的な構造を問題視し、その解体を要求してきた。やれ日本株式会社だの、日本型経営だのと、いわゆる「日本式集団主義」が日本的古さとして問題にされてきた。
そして今。米国覇権が崩壊する中で、その建て直しのために、米国は日本のあらゆる力を利用し尽くそうとしている。経済では米国金融が日本の経済を徹底的に掌握し日米融合一体化を完成させる。そのための「外資導入」促進。そのためにも日本的な古さは許さない、ということなのだろう。
安倍政治の縁故政治、密室政治という古さに対して、小池さんの「古さを改革して、新しい政治を」を掲げての登場。その「一丁目一番地」は透明化・情報公開。そして技術的な新しさ。IOTやAIの応用、流通でのネット通販、ドローンや無人運転など、確かに「新しさ」はある。
しかし、それが本当に新しいものなのか。最近、アマゾンの米国本社で自殺者が出た。会社の屋上からの飛び降り自殺。ネット通販では土日もなく24時間連続の苛酷な労働。そこでは社員がアルバイトを雇うという悲喜劇も起きているという。
■「外資利用」など、もう古い
日本的古さも問題だが、それを敵役にしながら、「外資」を利する透明化・情報公開を掲げ、「外資利用」を促進することが、本当に日本のため、日本国民のためになるのだろうか。それはありえない。外資は外資。彼らは自身の利益のために動く。そして儲け第一の新自由主義的手法のいっそうの深化。それは決して、民意が求める改革、新しさではない。グローバリズム・新自由主義による弊害が社会を覆い人々の生活を直撃している中で、反グローバリズム、反新自由主義は世界的な民意になっている。そして、それらをもって世界の覇者たろうとした米国覇権の古い思考と秩序に反対することこそが民意である。
この時代にあって、「外資利用」など、見せかけの新しさは、貴紙が指摘するように、古い米国覇権という「泥舟」に乗るようなものでしかないと思う。
時評
まず最近の所感を川柳と短歌で表すと、「9・11、3・11に7・11が加わる」「初蝉の鳴き声聞けり7・11、共謀罪法始動 警鐘のごと聞く」。
毎日何かとても嫌な気分である。目に見える世界は変わった訳ではないのに、この日(7・11)を境に日本列島に網が被せられたような、見えない檻の中で生活しているような息苦しさを感じているのは私だけだろうか。
私が仕事で訪問している今年90歳になるUさんは、同じ年の友人と「(こんな世に)未練なく死ねて良い」と電話で話しているとのことだ。
安倍政権になってから歯の浮くような言葉が躍っている。「一億総活躍社会」「全ての女性が輝く社会」「働きかた改革」「人づくり革命」・・・。非正規労働者の4割越え、70歳を過ぎても働かざるをえない現実、「日本死ね」の待機児童問題、過労自殺の絶えない現実、「一億総活躍」と聞いてバラ色の夢を描いている日本人が果たして何人いるのだろうか。
「アベノミクスは買い時」とアメリカでジョークを飛ばした安倍首相。「お友達内閣」に「お友達優遇政治」、さすがに行き過ぎたのかボロが出て、支持率急落の窮地に立たされ、内閣改造。その名も名付けて「結果本位」の「仕事人内閣」。このところ引っかかるのが「丁寧な説明」とともにこの「結果本位」という言葉。稲田元防衛相を庇う時にも「結果を出して欲しい」菅官房長官も安倍首相と口をそろえて「結果を出して国民の信任に応えたい」。
つまりこれは「結果」という言葉を使った引き延ばし、延命工作なのだ。「結果」という言葉を持ち出してのその場しのぎに他ならない。こんな言葉の操作でいつまでも目くらましができるほど、国民は甘くないのだ。
そのことをはっきり示したのが、「核兵器禁止条約」に参加しなかった日本政府の「言い分」に対するヒロシマ・ナガサキ市民の怒りである。
7月に122か国・地域の参加で採択された「核の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用および威嚇として使用の禁止ならびにその廃絶」を内容とする「核兵器禁止条約」。唯一の核兵器による惨劇を経験している国でありながら参加・批准しなかった日本政府の理由は「真に<核兵器のない世界>を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参加が必要。我が国は双方に働きかけを行うことを通じて国際社会を主導していく」というものだ。
米国の核の傘の下での安全保障政策、保有国不参加での実効性への疑問、参加国とそうでない国との溝を深めるなどなど不参加の理由はあるだろうが、結局は米国の「抑止力」に国の安全保障を委ねているところに根本要因があるのではないのか。
「あなたはどこの国の総理か」、被爆者団体の代表が要望書を渡す場面で安倍首相に言ったこの言葉がすべてを物語っている。<「架け橋」と短冊に書く無国籍>(朝日川柳)はことの本質を言い当てているのではないだろうか。
「参戦国家化」を意味する「集団的自衛権の行使」を「積極的平和主義」と言い換え、「予防拘禁」を「テロ等準備罪」と言い換える。先の大戦では、全滅を意味するのに玉が美しく砕ける様を表す「玉砕」が使われ、退却は「転進」、戦死は「散華」、戦死者は「軍神」と称えられたと言う。
「巧言令色鮮し仁」。<言葉を飾って巧く言って、顔色を巧く繕い、愛嬌を振りまいて人の心を自分に引き付けようとする者には誠意ある人物が少ない。という意味だそうだ。
二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、権力者の言葉に敏感になり、実態を見誤らないようにしたい。
案内 第6回アジア新時代勉強会
国連で採択された「核兵器禁止条約」。「核なき世界へ」新しい時代を迎えた今こそ、日本は世界の先頭に立て!
高木静子さん89歳。1945年8月6日、爆心地から1.7キロにあった広島女子師範学校の校舎で被爆し、全身60箇所に傷を負う。額のガラス片は今も残留したままだ。大阪で生まれ、阿倍野高女時代に生物学を志望するが、当時の女子にとって最高学府であり、唯一「理科」があった広島高等師範へ。開校式は7月21日、高木さんは17歳の誕生日を迎えたばかりだった。そして運命の8月6日を迎えた。
被爆の後遺症で入退院を繰り返した戦後。顔のケロイドを見た近くの子どもに「おばけや」と怖がられ、教職の夢は諦めた。被爆20年、65年に設立された「大阪市原爆被害者の会」に参加された。投下から72年たち、被爆者の高齢化が進み被爆者団体の活動停止が相次いでいる中、所属団体の解散後も高木さんは10年以上にわたり被爆語り部を続けている。「私には一人になっても伝える責任がある」と、「ヒロシマの今」を語り続ける。
8月19日(土曜日)午後13:30
東成区民センター602号
(地下鉄今里駅西徒歩3分)
主催:アジア新時代研究会
(連絡先 090−6209−6626 小川)
Copyright © Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.
|