研究誌 「アジア新時代と日本」

第17号 2004/11/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 在日米軍再編と日本の反テロ戦争前線基地化

研究 日本市場を席巻する米国式マネーゲーム

研究 日本人とは何かをめぐって

文化 ドラマ「天国への応援歌 チアーズ」を見て

朝鮮あれこれ ルンラ島の体育施設

編集後記



 
 

時代の眼


 「独りぼっちじゃない」。このところ増える一方のネット自殺を防ごうと開設された「自殺予防サイト」の基本メッセージがこれだそうです。
 自分の居場所をもたない独りぼっちの若者たちが唯一死ぬところでのみ人と心を通わせ、ともに死んでゆくのがネット自殺だということなのでしょうか。
 実際、去る十月十二日、埼玉県皆野町の駐車場で発見された明らかにネット自殺と判る男四人、女三人のワゴン車内の遺体はその一端を反映しているのではないかと思います。彼ら七人の間には、住居も職場も学校も、そして家族関係も、共通するものはなにもありません。あるのは、ただネット自殺を望んでいるということだけでした。
 一番年長の三十代の女性は、自殺サイトへの書き込みに「本気の方募集♀ 練炭 睡眠薬 車 の方法で、男女を問わずグループで実行したいです。…」と記していました。日頃、「楽しいことが何もないのに、生きる価値なんてあるの」と言っていた彼女は、子供の頃から実父や母親の再婚相手から虐待を受け、19歳で結婚し娘が生まれたが離婚、自殺未遂を繰り返し、二番目の夫からも家庭内暴力を受け離婚しそうになっていたということです。
 彼女には居場所といえるものが何もなかったと思います。楽しいことや幸せ、生きる価値などは、自分が必要とされ、愛され信頼され、自分が心底そこに居たいと思える居場所があってこそ生まれます。少なくとも彼女にとって、家庭まで居場所ではなくなっていたと思います。
 ネット自殺が増えている根本要因がインターネットの普及自体にあるのでないことは明らかです。その根底には、人々にとっての生きる拠り所、居場所の喪失があります。彼女の場合は、その一例だといえるでしょう。
 昔の「心中」と今の「ネット自殺」との違いも大体この辺りにあると思われます。すなわち、かなわぬ恋や一家破産など、ともに生きてゆきたい意思がかなわなくなった者同士がともに死を選んだのが心中だとすれば、もともと何の関係もなくそれぞれ独りぼっちで生きてきた者同士が、生への何の意欲も執着もないままに、唯一死を選ぶところにのみ「独りぼっちじゃない」実感を得てともに死んでゆくのがネット自殺だということです。ネット自殺が醸し出す何かあっけらかんとした悲愴さのなさに社会全体の言い様のない寂しさを感じるのは一人私だけでしょうか。


 
主張

在日米軍再編と日本の反テロ戦争前線基地化

編集部


■日米関係を根本から考え直すものとして
 今、在日米軍再編が問題になっています。6月に米国防長官ラムズフェルトが、「米陸軍第一軍団司令部を座間に」「第3海兵師団の一部を陸上自衛隊矢臼別演習場に」「航空自衛隊航空総体司令部(府中)、第2輸送航空隊(狭山)などを米軍横田基地に」など具体案を示し、その後も米国は、グアムの第13空軍と横田の第5空軍を統合する案や座間に置いた第一軍団司令部を空軍、海軍、海兵隊を含む四軍を統括した「統合司令部」に昇格させる案を打ち出してきています。
 これに対し、日本側は、中東までを対象にする米陸軍第一軍団司令部を日本に置けば、安保の「極東条項」を逸脱するとして頭を悩ませています。「極東条項」とは、日米安保条約第6条で、在日米軍が日本に駐屯するのは、「日本の安全」と共に「極東における国際の平和及び安全」への寄与のためである、としていることを指します。
 米側は、この日本側の態度に不快感を示し、7月には、ライス補佐官(安全保障担当)が細田官房長官に電話で「座間と横田の2点で年内に結論を出すべく、政治的判断を下す」ことを要望し、「極東条項」を持ち出す日本側に「論理的でない」などと圧力をかけています。
 こうした中、この10月にワシントンで開かれた日米の外務、防衛部門の審議官会議で、「包括的協議」を行った上で来年春までに結論を出すということを合意しました。
 日本政府が慎重な姿勢を見せるのは、反テロのイラク戦争に参戦している状況で、中東までを範囲とする第一軍団司令部を日本に置くというのでは、日本を反テロ戦争の「前線基地」にするということがあまりに露骨に示されることになり、国民の強い反発が予想されるからであり、自民党や与党の内部にも反対があるからでしょう。
 米側もこうした事情を分かり、アーミテージは「アプローチの仕方が間違っていたかもしれない。個別の具体案ではなく、日米同盟のあり方から議論すべきであった」と言っています。「日米同盟のあり方から議論する」(すなわち「包括的協議」)ということは、日米の同盟関係を根本から考え直すということであり、今後の日米関係を決する重大な問題になっています。

■何を再々定義するのか
 来春に出す結論について形式上、防衛庁が「安保再定義にすべきである」と主張したのに対し、官邸筋がそれをたしなめ、安保共同宣言の形でまとめる意向を示しています。しかし、安保を根本的に考え直すということは、「安保再定義」ということでしょう。
 安保は、96年春の「日米安保共同宣言」により、その目的を「アジアの平和と安全のため」「世界の安定」のためとすることによって、自衛を逸脱するものとして再定義されました。それを今回、再び再定義するとはどういうことでしょうか。
 在日米軍の再編は、今、米軍が世界的範囲で行っている米軍再編の一環ですが、その米軍再編は「対テロ戦での急速展開能力を重視する」ものとされています。すなわち、それは反テロ戦争のためのものです。
 反テロ戦争の特徴は、「単独行動主義」と「先制攻撃論」です。すなわち、現在の国際法では、過去自衛の名で侵略が行われたことを反省し、武力侵略に対しては国連軍が発動されるが、それまでの期間に限って集団的自衛権、個別自衛権を行使できるとなっているのを、テロを相手にすることで、国連の拘束を受けず、また「自衛」の名で、米国の思いのままに、いつどこでも戦争を仕掛けることができるようにしたということです。
 安保の再々定義は、日本が米国の反テロ戦争に参戦する上で、日本自らが「単独行動主義」「先制攻撃論」を認め、それに従うものにするということでしょう。
 現安保条約は、「極東条項」だけでなく、その他にも、もっともらしい条項がついています。第1条には、国連憲章に従って国際紛争を平和的に解決し、武力の威嚇、行使を、他国の領土保全や独立に対して行わないというような内容があり、第5条に、日米がとった措置については国連に報告し、国連が必要な措置をとった場合は、その行動を停止しなければならないとあるなど、いわば「国連条項」というべきものがあります。また、3条には、武力攻撃に抵抗する能力を憲法上の規定に従い維持強化するという内容の「憲法条項」とでもいうべきものがあります。
 これら耳障りのいい条項は、米軍の日本駐屯(すなわち占領の続行)という異常事態を日本国民に納得させるためのもの、日本向けの方便だったと見ることができますが、それをそのままにしておいては、「単独行動主義」「先制攻撃論」を認め、それに追随していくことはできません。
 安保再々定義とは、これまでの方便や虚飾を取り払って、安保の本質を剥き出しにし、米国の意図を露骨に打ち出すものになるでしょう。

■反テロ戦争「前線基地化」は日本の属州化
 米大統領選でブッシュが再選されたことにより、反テロ戦争は「公認」された形で今後より本格化していくでしょう。  反テロ戦争は、米一極支配を維持するための米国の基本戦略です。
 米国は帝国として生きています。産業を空洞化させ金融操作で儲けるしかない「カジノ経済」は、軍事に裏打ちされた他国の主権無視、圧倒的な情報力とその操作によって成り立っています。一極支配を維持するために始めた反テロ戦争、それをやめれば、米国は生きていくことができません。
 米陸軍第一軍団の司令部を日本に置くなどというのは、日本をこの死活的な反テロ戦争の「前線基地」にするということです。そして、それは、米国が日本を自分の属領、属州と考えており、そのように扱っていくということの表明です。
 属州は、軍事的に占領され、本国のために経済的に収奪され、傭兵を差し出します。
 すでに、自衛隊では「ゲリラコマンド対策」ということが言われ、師団は小型化、旅団化しており、今年末に策定される予定の「新防衛大綱」では「国際任務待機部隊」や「緊急即応部隊」の創設が盛り込まれています。それは、まさに米国の反テロ戦争の傭兵としての自衛隊の改編です。
 軍事は傭兵化し、政治は二大政党制という対米翼賛政治になり、経済は対米融合して米国に貢ぐものに・・・。
 アメリカ帝国の属州化、その根本問題は、主権の軽視・放棄というところにあります。自らの主権を軽視し米国の属州になる道を進む日本は、米国を後ろ盾にして、アジアに対し、自分と同じ道を進むことを要求するようになります。
 東アジア共同体構想でASEAN諸国が参加表明国に東南アジア友好協力条約の締結を求め各国の自主権を尊重する立場を確認しようとしているのもそうした動きを警戒するからです。しかし、主権を米国に売ってその属州になることを、大したこととも考えない日本は、アジア諸国の切実な要求もわからず、これに誠意をもって応じようとはしていません。
 最終的には、日本はアジアに敵対し、アジアを舞台にした反テロ戦争の「前線基地」となり、傭兵を差し出す、そういう存在になってしまうでしょう。台湾、朝鮮、あるいはミャンマー、インドネシアのアチェ紛争、フィリピンのイスラム原理主義運動などなどを口実に、アジアで反テロ戦争が拡大され、日本がその「前線基地」にされ、その中でますます米国の属州として生きていくことを余儀なくされる。日本はそういう決定的な局面に直面しています。

■反戦平和勢力、護憲勢力、抵抗勢力の結集を
 アメリカ帝国の属州としての道を進む日本は、米国に情報操作され陰謀事件で右往左往し、米国のマネーゲームの餌食にされ、主権国家、国民国家として解体されたアメリッポンになっています。主権の否定は、国家の解体に向かい、家族、地域、職場など社会末端までのあらゆる集団の破壊を促進しています。こうして、人々の共同体的関係が崩壊すれば、倫理もさらに破壊され、犯罪もさらに増加するでしょう。
 まさに、それを促進し完成するため、日本を反テロ戦争の「前線基地」化するための在日米軍再編。しかし、これだけの内容をもつ在日米軍再編に対して最大野党の民主党は言及さえしようとしません。この動きをとどめる力はもう日本にはないのでしょうか。
 決してそうではないと思います。政府が慎重にことを進めているのも、自民党内の抵抗勢力、民主党内の護憲勢力などが、これを契機に国民と結合することを恐れているからでしょう。
 在日米軍再編問題は、安保を再々定義し憲法をそういう方向で改憲しようとする策動と一体です。
 反戦平和勢力、護憲勢力、抵抗勢力など日本を愛するすべての人々が思想信条を超えて結集し、反テロ戦争「前線基地化」を必ず破綻させなければならないと思います。


 
研究

日本市場を席巻する米国式マネーゲーム

小川 淳


 「エコノミスト」10月17日号は、「現代の金融スキャンダル」と銘打って、三菱自動車への金融支援をめぐって暗躍するJPモルガン、違法取引で金融庁から認可取消し処分を受けた米シテイバンクなど、マネーゲームの実態に迫る特集を組んだ。
「日経」も、市場取引や公開買付け(TBO)などで支配株式を取得する、いわゆる敵対的買収の横行を特集している。「85%の企業が敵対的買収に脅威を感じている」というほど、外資買収ファンドが日本市場に投資攻勢を強めている。
 買収ファンドによる企業の合併・買収は9月までに4百件と昨年の実績を上回った。世界最大級の投資会社米カーライル・グループは、総額で184億ドルを運用し、過去最高の年53億ドルの収益金を投資家へ配分したという。
 過半の株式を買い集めた後、残余株式を強制的に無償同然で排除する旨公表することで一般株主の売り急ぎを煽り、安価で企業買収を成功させる「二段階型買収」、市場で買い集めた株式を安定株主などに高値で買取らせるグリーンメールなど、その手口も巧妙だ。
 「買われる恐怖」から、逆に自ら海外買収や合併に乗りだした企業も多い。「合併・提携に今後三年で一千億円を投じる」と宣言したアサヒビール。ベルギー大手インターブリューがブラジル企業を買収した金額は1兆2千億円。アサヒの株式総額の二倍に当る。ビール先進国で唯一外資の参入がない日本市場が次の狙いとされ、この危機感がアサヒを走らせた。
 中外製薬の大衆薬部門を買収し、その二週間後には韓国企業の買収を発表したライオン。ライオンが持つ株の時価総額は千八百億円で、一兆円超の大手ユニリーバーやプロテクト・アンド・ギャンブルとは競争にならない。ここでも「買収される」危機感が「買収する側」に向わせる。来春4月に合併する藤沢薬品、山之内製薬もこの敵対的買収への防衛策の一環だ。
大きい魚が小さい魚をいとも簡単に飲みこむ。飲み込まれないためには図体を大きくするしかない。文字通り自然淘汰、弱肉強食そのままの買収・合併が進行する。それが競争原理、市場原理が全面化されたグローバル経済の実態だと言えるだろう。
企業は、収益を目的とするが、その一方で、企業の存続は従業員の雇用や、系列下請企業を含めた地域経済などと密接に結びついている。人的資産などは企業の長期的利益の基礎となる最たるものだ。だが、資金に糸目をつけず企業を買収する外資は、一挙に莫大な利益を得る短期的利益しか念頭になく、人的資源や地域経済などに配慮した経営にはまったく興味はない。
 不良債権処理問題の象徴といわれるダイエーの再建問題にも、いくつかの米投資ファンドが名乗りをあげている。しかし、彼らが本当にダイエーの再建、ひいては地域の再生、従業員の雇用を考えて支援に乗りだしたと信じる人はいないだろう。
市場の評価に一喜一憂し、株価や配当などの短期的利益の拡大だけが至上課題となる、そういう経済が日本経済や企業を豊かにすることなどありえない。
そればかりか、日本株の大がかりな買占め、経営破綻した日本企業の買収と転売、そして露骨な敵対的買収など、昨年来、一挙に強まった米投資ファンドの日本市場への参入は、日本経済のアメリカ経済のもとへの組み込み、融合を否応なく促進していく。これまでアメリカと競合しながら一定の独自性を保ってきたとされる日本経済が、アメリカにその命脈を握られるのは時間の問題かもしれないのだ。
 このまま日本市場が外資によって翻弄され、ますます混乱させられるなら、バブル破綻に続く「第三の敗戦」が招来される可能性がより大きくなり、さらには、経済的にも日本が戦争に加担せざるを得ない状況に追いこまれ、米国のひき起す反テロ戦争に積極的に参戦していくようになる可能性すら大きくなる。この外資暗躍の背景には、そういう政治的意図さえありうることをしっかり押えておく必要がありそうだ。


 
研究

日本人とは何かをめぐって

赤木志郎


 最近、「日本を愛するがゆえ反戦だ」など、かつての新左翼のなかでもナショナリズムについて正面から論じようという機運が生まれてきている。民族について研究していくと日本人とは何かという問題にぶつかるようになる。
 現在の研究では、日本人の祖先は縄文人と渡来弥生人の混じり合ったものであり、その縄文人自体が主にシベリアから南下するマンモスを追って移住した人々と、南方や朝鮮半島から渡ってきたさまざまな人々から成っているということなどが次第に明らかにされてきている。
 日本人の起源がどうなのかは、日本民族の形成で重要な要素を占めており、民族研究の一つのテーマである。しかし、それらの多くは、人種的、形質的に日本人の起源について明らかにしたものであり、身体的特徴だけでは「日本人種」がないように中国人、朝鮮人と本質的な区別はなく、それをもって「日本人とは何か」に答えることはできない(参考−埴原秀夫説)。
 もっと具体的には、日本人の身体的特徴だけでは、独自の言語と文化、それにもとづいた日本人特有の考え方、生活様式、行動様式などとして表れる日本人の特徴を明らかにすることはできない。日本人の固有の言語、文化、生活様式、行動様式などは、日本の地に自然と闘い社会を変革しながら一つの社会的集団を築き、共に生活していく中で形成される社会的なものである。
 すなわち、民族は決して生物学的に形成されたものではなく、社会歴史的に形成されたものであるということだ。日本人が一つの日本民族として歴史的にどのように形成され、その中でどのような民族的な特徴、良さを備えるようになったかを知ってこそ、日本人とは何かを真に知ることができる。
 もし形質的に「日本人とは何か」を追求していけば、「私たち日本人の祖先は、そもそも外からやってきた」「シベリア系の縄文人と渡来弥生人の混合だから、日本は単一民族ではない」というように、日本民族が長い歴史の中で形成された、一つの生活単位、強固な運命共同体であることを否定していくようになる。問題は、こうした見解が国と民族を否定するグローバリズムを正当化するようになることだ。
 今日、グローバリズムは、人々の運命を切り開いていくうえでもっとも基本的な集団である民族を否定することによって、あらゆる集団を解体し人々を個々バラバラにし、人々が自主意識をもてなくし、国家主権の蹂躙を正当化しており、米一極支配とそのための反テロ戦争の理論的基礎になっている。
 それゆえ、「日本を愛するがゆえ反戦」という問題提起は、今日大いに評価されなければならず、そのためにも、形質的に日本人を見るのではなく、社会歴史的に日本民族を考察していくことが重要になっていると思う。


 
文化

ドラマ「天国への応援歌 チアーズ」を見て

若林佐喜子


 このドラマは、トーちゃん先輩(通称)を交通事故で失い、新たに部長となった2年生の森田光子さんとその仲間たち、大阪箕面自由学園のチアーズ"ゴールデン・ベアーズ"がJAPAN CUP2年連続制覇を勝ちとるまでの苦悩と喜びを描いたものだ。
 トーちゃん先輩への思いを胸にみな頑張るが、新入部員は次々にやめ部長に対する不満はつのるばかり。一人あせる光子の口からは、「いいわね、責任のない人は」という言葉までが出る。「誰も部長と認めてくれない、それでも頑張らなければならないのか」と、ついに退部届を書く。
 そんな彼女にお父さんは、「独り相撲をとっているのでは? 仲間を大事にしろ」と助言してくれた。トー子のお母さんは、「悩んでいるのは貴方だけではないよ」と、トー子の携帯電話に寄せられた仲間のメールを光子に見せる。
 光子はやっと、誰もが必死に頑張ろうとしているのにその思いを見られなかったことに気づく。仲間も同じだった。
 そうして、彼女達は優勝をめざして2&2という難技に挑戦する。崩れてもまた試み1日12時間という猛練習をするが焦るばかりで一度も成功しない。ついに予選の日となるがうまくできない。
 コーチは、彼女達の弱点を分かっていた。誰のために、なんのためにチアーをやるのかを彼女たち自身がつかまなければ、頑張ろうという気持ちだけではできないことを。
 レギュラーになれなかった仲間が折り鶴をもってきて、そのことを彼女たちに気づかせてくれる。
 マットの外のくやし涙も自分達のものにし、自分の足を痛いほど握るベースの手に「落ちるなー」という愛情を感じるトップ。光子がみんなに呼びかける「楽しもう!燃え尽きようぜ!」と。信頼の絆ががっちりと結ばれた。
 チアーと言えば、ミニスカートと元気な応援だけを連想していたが、空中回転、地上5mのジャンプなど、必ず受けとめてくれるという信頼関係がなければできない演技である。
 必ず受けとめてくれるという信頼関係があるとき、人は頑張れるしとてつもない力を発揮できる。そして何よりも頑張れることが喜びとなり、幸せだと感じられる。まさに「つらいことを楽しむ」チアーコン(根性)である。
 これはチアーの世界だけでなく、人と人とが支えあう人間生活、どこにおいてもいえることではないだろうか。最近、若者たちが「楽しむ」という言葉を多く口にするが、そんな若者現象を個人化していると見ていた。しかし、このドラマをみながら、「楽しむ」ということは、仲間の信頼をうけとめ力を出しきってやりとげていく喜びを表現するものでもあることが分かった。


 
朝鮮あれこれ

ルンラ島の体育施設

魚本公博


 スポーツの秋、朝鮮でもこの季節は学校や企業所で運動会が開かれます。以前とちょっと違うのは、運動会で人民班などが運営する売台が多く出るようになったことです。パンや菓子類、飲み物だけでなく、子供の喜びそうな風船やゴムマリ、手作りの竹とんぼなんかも売られています。
 それはともかく、我々もスポーツ。最近はピョンヤンの市内事務所で仕事することが多く、市内でどこか運動できるところはないかと物色した結果、テドン江の中洲、ルンラ島にありました。そこは、5・1メーデー競技場の北隣に面した一帯にサッカー場やバレーボールやバスケットボールのコートが点在している場所です。
 そのコートを借りてのバレーボール。川に囲まれた中州では風もさわやかで、4面もあるサッカー場に広がる芝生の緑とともに実に気分のよいところです。
 この辺りの施設は国家競技場の付属施設ですから、貸し出すのは、主に各種選手団とか外国人ですが、それでも賃貸料は非常に安いです。よくピョンヤン駐在の大使館員などが家族連れでやってきてはサッカーなどをやっています。
 このルンラ島は、ずいぶん細長く、長さ3キロ以上はありますが、競技場の南側には、一般市民用の運動場があり、運動場をもたない企業所などが運動会用に利用するそうです。その他、バレーボール、バスケットボールのコート、スケートリンク、相撲場などが点在しています。そこは、以前、紹介した鰻料理店もあり、ビリヤードやサウナもあります。
 島の端には、水泳場があり、夏などは、この島から対岸に向けた200メートルほどの距離を子供たちの遠泳大会が行われたりします。
 対岸にはモランボン(牡丹峰)の断崖が見え、昔のピョンヤン城址の一角であるそこには、乙密台などの楼閣や石垣、城門が切り立った崖に点在しています。
 風光明媚な景観にめぐまれたルンラ島の体育施設、なかなか風情のある場所です。


 
 

編集後記

魚本公博


 相次ぐ台風被害、そして新潟中越地震の被害。こういうときにこそ、自衛隊の活躍が期待されますが、今回の災害では心なしか、その数も少なく、おざなりな感じがしました。米国の戦争に駆り出されている自衛隊は、国内の災害どころではないのかもしれません。
 台風頻発の原因とされる地球温暖化防止のための京都議定書批准を拒否し、誰も賛成もしないイラク戦争を続けるブッシュ政権。その米国に追随して国土防衛とは何の関係もない米国の戦争に動員される自衛隊・・・、まるで三題噺ですが、意外と本質をついているのかも。
 先に、金融庁が処分を発表したシティーバンクの傍若無人さは、「まるで在日米軍と同じ感覚。お前らとは立場がちがうのだから、自分たちのやっていることに目をつぶれということだ」(金融庁幹部)というものだったとか。
 それは、まるで日本を属州と考え、自衛隊を傭兵と考えているかのような在日米軍再編案にも通じるものです。
 被災地の人々が助け合う姿、その支援のために各地から駆けつけるボランティアの姿を見ながら、この日本が米国の属州になるようなことを決して許してはならないと思いました。


ホーム      ▲ページトップ


Copyright © 2003-2011 Research Association for Asia New Epoch. All rights reserved.