議論−石破茂氏の「列島創生論」を読んで 「国」を否定するグローバリズムで地方再生は出来るのか?
泥憲和さんが亡くなった。5月3日の憲法記念日の早朝だった。
今年1月28日、「憲法9条を堅持すれば国を守れる」というテーマで、アジア新時代研究会主催の勉強会に講師として姫路から来ていただいた。この時は人数が少なく大変恐縮したのだが、泥さんはそんなことで手を抜くような人ではなかった。この勉強会には本当に感謝している。
泥さんが街頭で初めて声を上げたのは、集団安保法案が閣議決定される前日の2014年6月30日の夕刻、神戸市の三宮駅前の集会だった。その時、数人の青年たちが抗議していたが彼らの言葉が難しいと感じた泥さんはマイクを握り、ぶっつけで思うままに喋った。この時の街頭演説は著書「安倍首相から『日本』を取り戻せ」の冒頭に掲載されている。この演説文をフェイスブックに掲載するとたった半日で6千人がシェアした。4か月後には2万4千に達した。予想もしなかった反響に泥さんも驚いたと言う。
読んだ人から講演依頼も舞い込んだ。泥さんの集団安保批判は分かりやすいと評判になり講演の依頼も増えていった。泥さんの話が分かりやすのは、話の内容が具体的だからか。泥さんは本の後書きに書いている。「今起きている現実をそのまま語れば、安倍さんに対する批判の裏付けとなり、憲法の持っている力の証明となる(略)。軍事的視点でとらえたら憲法が新しい形で光を放ち始める。調べれば調べるほど憲法の価値に気付かされた。9条の大切さが身に染みていった」と。
改めてその演説文を読んで見たが、今読んでも聞く人をぐっとひきつける力がある。すごい説得力がある。理屈ではない泥さん自身の体験に裏打ちされた真実だからこそ人の心を打つ。
とりわけ興味深いのは、これまで護憲派といわれていた人たちの間にも泥さんの考え方が浸透していったことだ。自衛隊も自衛戦争も認められないという左派・護憲派の人たちも泥さんの話なら耳を傾けた。自衛隊の存在を認め、国防の重要性も認める。同時に憲法9条こそ平和国家日本の要であるという、本来矛盾すると考えられてきた憲法と自衛隊を、泥さんは元自衛官という立場で統一的にとらえていた。
2020年までの憲法9条改「正」を安倍は宣言した。いまこそ泥さんの残したものに耳を傾けたい。安倍首相から日本を取り戻すために。泥さんのご冥福を祈りたい。
主張
世界を覆った混迷の霧は一向に晴れない。晴れるどころか、一層深まっているようにさえ見える。
「国」を否定し、国境を超えるグローバリズムの矛盾が顕在化してきたのはいつ頃からだったか。いち早くEU反対の烽火をあげた欧州。1%でなく99%のための政治を訴えた米国ウォール街からのメッセージ。これまでになかった新しい運動の波は、全世界に広がり、「自国第一主義」の台頭、そして、あの型破りの米大統領の誕生にまでつながってきた。
それで混迷は打開されたか。「日暮れて、道遠し」。それが大方の実感ではないか。「トランプ政治」は、彼を推してくれたラストベルト労働者の期待に応えているか。世界をさらなる不安と混迷の泥沼に引き込んでいるだけではないのか。
■グローバリズムの破綻と覇権の崩壊
今日の混迷の根底には、この間、支配的思想としてあったグローバリズムの破綻があり、それにより生き長らえてきた米覇権、ひいては覇権そのものの崩壊がある。
こう言えば、異論百出かもしれない。「グローバル時代にグローバリズムでない経済などあり得るのか」「米覇権は確かに揺らいでいる。だが、それが崩壊したとか、まして、覇権そのものがなくなったとか言えるのか」、等々。
だが、真理の基準は、どこまでも現実だ。この2〜30年にわたる世界的な経済の長期停滞。テロと戦争の国境を越えた蔓延。それらにともなう、移民、難民数千万の大群。このかつてなかった泥沼のような現実は一体何を意味しているのか。それは、「国」を否定しその役割を否定したグローバリズムによる禍の大きさだ。「自国の国益第一に!」「国の役割をもっと高めろ!」など、「国」を求める「自国第一主義」の気運の高まりは、そのことを雄弁に物語っていると思う。
グローバリズムは、もともと覇権のためのものだった。全世界を席巻した反帝自主、民族解放の闘争の嵐。その炎の中から生まれた新興独立国家群。植民地、新植民地体系の崩壊という歴史的事態発展に直面した帝国主義がとった究極の覇権主義、それが「国」そのものを否定するグローバリズムだった。その下に、多国籍企業の国境を越えた活動に支障となる関税、非関税障壁など、国々の規制という規制はすべて緩和・撤廃され、国家事業の民営化、金融・財政機能の削減、社会保障や教育の「自己責任」化、等々、「国」が果たすべき役割は全面的に縮減されてきた。
この「国」とその役割の否定が何を生み出したか。それは、あらゆる規制が緩和・撤廃された国境なきグローバル経済圏に対する多国籍企業の支配だったし、それにも増して何よりも、新興独立諸国の主権の実質的な内からの崩壊、米国による新たな「グローバル」覇権の確立だった。
だが、この新覇権は短命だった。「国」の主権ばかりか「国」そのものまで否定するグローバリズムによる究極の覇権は、「国」の否定を否定する広く世界各国国民の間から湧き上がる「自国第一主義」によりその破綻を満天下に宣告された。今日、この事の本質が曖昧にされていると思う。
■「ファースト」による覇権延命とその矛盾
トランプは自らの大統領就任演説で、「アメリカ・ファースト」を叫びながら、他国が自らの国益を第一にするのを米国は理解すると確約した。だが、現実の「トランプ政治」はどうか。「ファースト」は、「排外主義」や「保護主義」など、米国の国家エゴの代名詞となっている。
選挙期間中、米国民の前で誓われた「世界の警察官にはならない」との公約もあっさり反故にされた。シリアに打ち込まれた巡航ミサイル59発は、キッシンジャーの言によれば、シリアへの「攻撃」ならぬ「懲罰」だったという。それに先立ち改編された米NSC(国家安全保障会議)は陸軍中将マクマスターを中心に軍部要人で固められた。この時から、米「ファースト」覇権が確立されたと言える。「アメリカ・ファースト」による「強いアメリカ」、その「強いアメリカ」に基づく米「ファースト」覇権だと言うことだ。
「グローバル」覇権を通して、米国自体著しく弱体化した。「国」とその役割の否定は、格差と貧困、富の偏在、米国経済の恐るべき不均衡と停滞、空洞化を産み出し、イラク、アフガンなど、国境なき反テロ戦争に何らの意義も正当性も見出せない米軍事力の決定的な精神的衰弱を結果した。
覇権力崩壊の危機に直面した米支配層が、今回の大統領選にあって、湧き上がる「自国第一主義」の国民的気運に乗じて、「強いアメリカ」の復活、それによる米覇権の「ファースト」覇権への転換を謀ったとしても少しも不思議ではない。
こうして産み出された「ファースト」覇権が抱える本質的な矛盾。この覇権による他国の主権と「自国第一主義」の否定。矛盾に満ちた「トランプ政治」の現実は、究極の覇権、「グローバル」覇権の崩壊が生み出した混迷を一層混沌としたものにしていると思う。
■混迷打開のキーワード、「国」
今日の混迷の大きな要因の一つに、「自国第一主義」に対する理解の混乱が挙げられると思う。
「自国第一主義」は、どこまでも、自国を蔑ろにし、自国国民の生活を破壊するグローバル政治に反対する各国国民共通の意思と要求から生まれてきた。だが今日、「自国第一主義」は、往々にして、極右、排外主義、等々と見られている。
これまで「国益」は、国家としての当然の権利として追求されてきたし、また、政治の正当性の根拠にされてきた。だが、それがこの間、疑問視されるようになっているのも事実だと思う。地球、世界を単位とするグローバリズムの見地からは、「国益」は絶対的な「権利」でも「正当性」でもなくなったし、一方、国家主義、軍国主義に反対する立場からも、「国益」は「国家エゴ」「国民弾圧」の口実に過ぎないものだった。
ここで考えてみる必要があるのは、「国」というものが持つ人間世界、人間生活における決定的な地位と役割ではないかと思う。
今日、グローバル超巨大独占体を除き、世界の絶対多数は、「国」を単位に生き活動している。もちろん、その生活が世界を股に掛けたものになっている人もいる。だが、そんな人は希だ。グローバル時代の今も、大多数の人々は基本的に自分の「国」で生活している。そして、数千年にわたる風雪を経た共同生活を通して、言語や慣習、そして何よりDNAを受け継ぎともにする共同体を形成してきた。それが「国」であり民族だと思う。
グローバリズムは、この人間生活の基本単位、もっとも切実な拠り所である運命共同体を否定した。それがもたらした今日の混迷を打開するための鍵は、よく言われる「地方・地域」にあるのではないだろう。まさにそれは、この「国」の見直し、建て直しにこそあるのではないだろうか。
■求められる混迷打開の主体
今日の混迷、その最大の要因は、混迷打開の主体がいまだ形成されていないところにあると思う。
トランプの迷走と「アメリカ・ファースト」を掲げての覇権への転落は、その象徴ではないだろうか。あのシリアへの巡航ミサイル「懲罰」に際し、ラストベルト労働者たちの間から「世界の警察のためではなく、われわれの仕事をつくるために金を使ってくれと投票したのに」と声が上がったように、彼には、米国民の要求にあくまで忠実に応える意志も力もないようだ。その彼が米国支配層の利用物となり、「ファースト」覇権の執行人になってしまうのは必然だと言える。
今日、トランプ政権の下、米覇権の揺らぎと崩壊は全世界共通の認識だ。にもかかわらず、安倍政権は、どこまでも米覇権にしがみつき、「強いアメリカ」を日本の国益に、さらなる対米従属、日米の経済・軍事一体化の道を突き進んでいる。
米国に従い、日本経済の米国経済への組み込みを促進する一方、朝鮮に敵対し、米軍の補完部隊として戦争するのが日本の国益なのか、それとも、主権を確立し、世界の中の日本経済構築の道、九条自衛、アジア・朝鮮との友好・平和の道に進むのが国益なのかが今まさに問われていると思う。
「国」を否定したグローバリズムの時代は完全に過ぎ去った。米覇権が揺らぎ、覇権そのものが崩壊する今日、何が日本の国益か真剣に考える時がきているのではないか。
主権確立、日本経済の活力ある再生、そして朝鮮やアジアとの友好、平和、等々を求める日本国民の願いが一層切実なものになってきている今日、この国民的意思と要求を体現し、国民と一体に闘って行くところにこそ混迷を打開する主体形成の道があるに違いないと思う。
議論−石破茂氏の「列島創生論」を読んで
■石破氏の「日本列島創生論」に唖然
石破氏の「日本列島創生論」(4月15日出版)を読んだ。
本の帯には、・・・本気で日本を甦らせるためには新しい動きを地方から起こさなくてはならない。地方から革命を起こさずして日本が変わることはない・・・とある。期待は高まる。
私が期待をもったのは、石破氏が安倍首相とは一定の距離を置き、現内閣にも入らず、「安倍後」を狙って石破派を結成したことから、安倍首相の対米従属的な姿勢に一定の批判的な考えをもっており、この本には、そうした立場からの「地方創生」が打ち出されているのではないかと思ったからだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。
先ず、地方衰退の原因を「人口減=少子化」にしている。これは「地方消滅」での増田寛也氏など多くの論客が、原因としていることであり、「ああ、またか」ということだが、その対策を見て唖然とした。
対策は、5の「外資アレルギーからの脱却を」、6の「A級観光を目指せ」、7の「一次産業に戦略を」の部分。それらを概略的に言えば、「外資頼み、金持ち外人頼み」ということ。
とりわけ強調するのが「外資導入」。そこでは俗に地方興しには「よそ者、ばか者、わか者」が必要だと言われるが、外資こそ「よそ者」ではないかとか、外資を「ハゲタカ」視するのは間違っているなどと説く。「A級観光を目指せ」も、外国には一泊数百万円の超高級ホテルがあるが日本にはない、そういう目を持っているのは「外資」だと。
「一次産業に戦略を」では、農業特区で会社経営導入を、と。その会社とは何なのか。TPPでは、米農産物の輸入拡大と共に遺伝子操作農産物のモンサント、食料メジャーのカーギルの日本農業への参入・支配への危惧が表明されていたが、石破氏は、それを容認し促すということではないのか。
石破氏の「地方創生」策は、米国企業に日本の地方を売り渡すものでしかないと思う。
■原因は、「人口減=少子化」なのか、グローバリズムなのか
石破氏の「地方創生」で根本的に問題だと思うのは、「地方衰退」の原因を「人口減=少子化」にしていることである。
地方疲弊は日本だけでなく欧米諸国にも共通の問題である。トランプ旋風、英国のEU離脱、仏のルペン支持の増大などの背景の一つに地方の疲弊がある。そして、これら諸国では地方の疲弊の原因はグローバリズムであるということが当たり前の共通認識になっている。
日本でもそう指摘する識者はいる。しかし自民党政客だけでなく「地方再生」を唱える人の多くが「人口減=少子化」を原因にするのは、どういうわけだろうか。今日の「地方疲弊」の原因はグローバリズム(新自由主義)にある。
何よりも先ず、地方衰退の直接的な原因とされる産業空洞化は、企業が生き延びるためには賃金の安い国に工場を移転しなければならないとか、グローバルな展開が必要だとしたグローバリズム政策のせいではないのか。
トリクルダウン(上が潤えば下に及ぶ)の考え方で、異次元の金融緩和をし、そのカネを外国人投資家に使わせ株式バブルを演出したり、外資を呼び込み、大企業のグローバル経営を促進させて海外での利潤を東京に集め、「東京の一人勝ち」を追求してきたからではないのか。こうして地方の若者が働き口を求めて東京など大都市圏に集まる。地方の「人口減」もそのせいである。
日本全体の「人口減=少子化」も、「結婚できない」「子供も作れない」という主に経済的理由によるものだということは各種世論調査を見ても明らかである。それは上のようなグローバリズム(新自由主義)の政策の結果であり、それが地方では顕著に現れるということではないのだろうか。
「人口減=少子化」はあたかも、「自然現象」のように見える。それを原因にするのは、これまでの政治の責任回避であり、そのグローバリズム政策の悪結果を覆い隠すものでしかないと思う。
「地方衰退」の原因は、グローバリズム(新自由主義)にある。この根本にして明確な原因を直視し、そこから対策を考えることなしに、「地方再生」などありえない。
■地方の切り捨て、「ノー政」
グローバリズムに基づく地方政策は、地方の切り捨てである。このように言えば、奇異に聞こえるかもしれないが、実際はそうなっている。
米国発のグローバリズムは、元来、米巨大独占企業がグローバルな世界展開をするための論理である。各国の門戸を開放させその国での「自由」な活動を要求する。そのために「国など古い」としながら、人間の生活単位を「地球−地域−個人」であると主張する。
これは一見、地方を重視しているように見えるが、国を否定し、地方を国から切り離すところに目的がある。こうすれば地方も国も弱化させることができ、他国の統制支配もやりやすくなる。
実際、90年代に始まった日米構造協議で米国は日本に「地方分権の促進」を要求してきた。それを受けて95年から「地方分権促進計画」が始まり、2000年には「地方分権一括法」が施行された。
ここで問題なのは、「中央政府に集中した権限や財源を地方に移す」という名目の下、一部の裕福な県以外は、政府からの交付金、補助金が大幅に減らされる結果になったことである。こうして「三位一体の税制改革」「平成の大合併」などを伴いながら、「地方衰退」が促進された。
こうした状況の中で、安倍政権が「成長戦略」の目玉として打ち出した(2014年)「地方創生」。3年を経た今、現場の自治体は、「やらされてる感」で疲れ切っていると言われる。
「地方創生」は、政府が地方に「アイデア」を出させ、それに交付金を出す方式。そこで自治体は、コンサルト会社などに依頼して何とか案を出すということになる。こうして、どこも「観光」「人集め(イベントなど)」「ブランド化(○○牛、△△フルーツなど)」の三つが定番になる。そして、それが「成功例」として持てはやされる。安倍首相も得意になって紹介する、あれである。
だが、こんな安易な方法で本当に地方の衰退をとめられるだろうか。私はかつて農業政策で言われた「ノー政」という言葉を思い出す。何もしない政策の結果、今や農業就業者の平均年齢は67歳。その「自然衰退」を待っていたかのような会社経営・米系企業導入策・・・。地方も「自然衰退」を待って、外資(米系企業)を導入する。まさに、それが 「地方創生」の真の目的ではないだろうか。
■国の役割を高め、国と一体になった地方再生を
国と地方を切り離すことはできない。地方は国の部分なのであって、これを切り捨てて、国が存立することはできない。また地方から見ても、国あってこその地方であり、国と離れて存立することはできない。そもそも、国と地方を対立的に捉えること自体がおかしいのであり、両者は統一的・一体的に存在している。
そうであれば、「地方再生」のためには、当然、国の役割を高め、国が地方に服務して一体となって取り組まねばならないと思う。
国は、これ以上の地域産業の空洞化に歯止めをかけ、地域産業の育成発展に意をつくし、そのためにカネも出し、地方・地域の均衡的な発展のために税の再分配機能を行使する、などなど、国としての役割を果たしていくべきではないだろうか。
そのためには国自身がより自主的な国にならねばならない。今のようなズブズブの対米従属姿勢で、地方再生などできっこない。
石破氏は、「地方創生」の意味について、「明治以来の中央と地方の関係を根底から変える」「つまり、日本国のあり方を根底から変えるもの」と言う。そして「外資導入」を力説する。米系外資に頼る「地方創生」とは、彼らが地方を牛耳るようにするものだ。地方がこうなれば、日本は、ますます米国の属州と化すしかなくなる。
世界では、反グローバリズムの民意が高まっている。グローバリズムは失敗し、「終わった」のだ。こうした中にあって、グローバリズムときっぱり決別し、それとは真逆に「国の役割」を高め、国と一体となった「地域再生」を追求することこそが今求められていると思う。
寄稿
空港へ行き、飛行機に乗るときに必ず保安検査を受けなければならない。荷物や服の中に危険物や武器を持っていないか、金属探知機とX線検査で調べる、結構厳重な検査だ。これが緩いと、飛行機を乗っ取ったり、爆破する非常識な人もまれにいるので航空機と乗客の安全を守る大事な仕事なのだ。その検査員が人出不足という、耳を疑うニュースが報道された。先日、公共交通の安全をテーマにする集会でも航空業界の人から実態報告があった。複数のところから確認できたのでデマではなさそうだ。それによると例えば成田では900人いる保安検査員のうち290人が昨年退職してしまったという。3分の1がいなくなったらそりゃ一大事だ。でも国交省か税関か警察か航空会社の職員の合体だろうから、と聞いてみたら全然違うのだ!
ほとんど民間委託になっていて、公務員や正規職員や警官(いずれも比較的高給)は隅っこや通路の要所でにらみをきかせているごくごく少数らしい。えっ、大きな誤解をしていたらしいぞ、これは!?
■保安検査員は警備会社員!?
その保安員の実態はお涙ものだ。15時間勤務で、しかも当直以外の純粋な空港内待機時間は給料が出ない、実働主義という企業に都合の良い制度により何と彼ら彼女らの手取りは月15万円ほどだと言う。警備会社のようなものなのだろう。これを従来のように公務員にさせると倍くらいか。民営化・外注化すると倍の経営効果があるのか・・・いやこれがまた大きな誤解なのだ。その差額は受託企業が取ってしまい、そこの事務社員の給料、天下りがたくさんいるであろう経営陣の巨額報酬になってしまうのだ。公的機関が保安業務をやっていた時なら出来なかった、政権党へ、あるいは国交省はじめ利権関係政治家への献金にも化ける。それらを差し引いた額しか保安会社員の元には入らない。保安の専門資格試験に通れば(当然それには受講料や受験料もいる)給料が上がるそうだが、数万円の差しかない。一日当たりでは千円ほどしか上がらないだろう。若いさかりの青年たちだ。薄給で拘束時間が長いから、青春を楽しむ余裕もなくなる。そこで離職となるのは想像できる事態だ。
中国との比較を実態的にできる。黒っぽい制服とほとんど全員が編み上げ靴の空港職員が北京空港内を集団で行き来している。言うまでもなく国家公務員だ。中国の検査はほぼ100%の人が引っかかるほど厳しく、時間もかかる。その厳重な検査を日本でしたら通過時間が何倍にもなりパニックになるだろう。関空でも検査精度ははっきり言って緩い。国家公務員はどこでも月給だから時間に関係はない。警備会社員は時間がかかると人件費増額になるから、さっさと通させることになるのは容易に想像できるではないか。航空連合と言う労組は日本の航空検査の安全上、危機的とまで指摘している。
■「民営化が財政改善」という大ウソ
少し待遇改善したくらいではこの事態を乗り切ることはできない。根本的問題は、民営化・外注化の上記で述べた「ウソ」だ。公共の仕事を民営化したら良くなるというのは幻想でしかない。
次元が少し異なるが、宝塚市では市民病院・学校給食の民営化による「経営改善」を主張した「維新の会」が市長選挙で4年前惨敗し、両事業が公営を維持できた結果、財政改善で診療内容が充実して病院が栄えたり、学校給食のシステムと食材工夫を統一的にした事により、余剰金が生み出せて、子どもの副食費や運営経費に回せたらしい。民営化していたら社員それも非正規職が安い給料でこき使われ、生み出した余剰金は受託企業の役員報酬や政治献金に化けた可能性が強い。この事が宝塚市民に実感されたので維新は今年の市長選に候補擁立も保守への相乗りもできなかった。
問題は安全にかかわる重大事項であるから早急な取り組みが必要だ。おりしも誕生した韓国の文在寅大統領は仁川空港非正規職員1万人の「正規職員化」を早々と打ち出した。ソウルの民主派・朴元淳市長もすでに市役所非正規職員を正規化した。そうすると民間委託するより市の出費を大きく減らせたと言うのだ。上で触れた中国も待遇の保障された国家公務員だから離職は少なそうだ。成田の事態は現在人員の正規職化か公務員化で解決できる。良い事例を見習ってこそ空と国土の安全を守れるのだ!
寄稿
本紙162号に登場して頂いた「国際吟遊詩人」宮川一樹さんより、以下のメールと共に多くの俳句と短歌が寄せられました。ご本人の了承を得て選者の独断で編集し掲載させて頂きます。
皆さん、お元気でしょうか?
私事ですが、5月7日(日)朝日歌壇に2回目の入選しました。
「まさかと思ってる内に戦争に巻き込まれてる様な錯覚」
という短歌です。
入選自体は嬉しいのですが、も1つ憂鬱な気分もあります。
というのは、最後の「錯覚」は良くない表現だと思うからです。というのは、最初この短歌を考えたときは「気がする」にしていましたが、葉書に「錯覚」の方を書いて投稿してしまったのです。意味が逆になってしまう危険性があると後で気づきました。
同じ日にあと2首投稿しています。
「戦争が身近に迫って来ていると膚で感じる昨日今日明日」
「実際に殺人してるミサイルに反対しない日本の首相」
自分ではこの2首を多くの人に読んで欲しいと思います。
以下は最近作った俳句と短歌です。
「青い空平和の光身に浴びて」 私の短歌「ガマの中も摩文仁の丘も目は泪辺野古の海も高江の森も」が3月6日、朝日歌壇に入選掲載されました。嬉しくて、友人、知人にメールで知らせました。沖縄へ行っていた友人がちょうど読谷のガマにおられて、僕の短歌をそこにいた人たちに読んでくださったことと、「辺野古の海も高江の森も、ガマも全て手でふれ、青い空の光をわが身に浴びてきましたよ」との返事を送ってくださいました。僕は感激しました。その友人のメールに触発されて、この俳句が直ぐ出来ました。
「沖縄に軍事基地は似合わない唄とサンシンと平和が似合う」
琉球つまり沖縄は日本に強制的に併合される以前は、唄とサンシンの音色と平和の光が花吹雪の様に舞い、降り注ぐ平和の国でした。本土の人間も琉球の人たちと手を携えて、今一度平和の琉球を取り戻しましょう。
「承認は必ず撤回するという翁長知事の意志僕は支持する」
「<撤回を必ずやる>と翁長知事意志揺らがず僕を揺さぶる」
「梅咲いて骨仏笑うや一心寺」
「喜びも中くらいなり初判決」
2017年3月17日(金)群馬県前橋地裁で、国と東電を訴えた原発損害賠償訴訟の判決が、全国の同種の裁判に先駆けてなされました。政府の法的責任と東電の過失責任は認められましたが、原告の約半数が切り捨てられたことと、賠償額が余りに低すぎて、非現実的である点など深刻な問題点を含んでいます。
「当たり前の本当を語る小出さん<原発止めて知足で行こう>と」
小出裕章さんは原子力利用の危険性を研究し、告発されています。熊取六人衆のお一人です。「電気が普及してまだ約100年。原発は電気が足りる、足りないの問題ではない。原発は危険で、止める以外に無い。人間は生きて行くために必要なエネルギーから考えても、もっと少欲知足(欲を少なく、足るを知る)で十分に健康に生きて行ける、生きて行きましょう。」と、主張されています。
「苦しみの根源ここに原発禍」
この句の『苦しみの根源ここに』は3月11日(土)東京新聞朝刊の第1面の見出しです。それをもらって作った俳句は盗作になるのでしょうか?
「笑う門(かど)や本音で話せば平和来たる」
人それぞれ日常生活のことも、政治や経済や社会のことも出来るだけ自分の本音を出して話しすれば、色んな意見が出て収拾つかないように見えても、そのうち必ず全てを包み込む名案が生まれ、皆の顔に笑顔が生まれ、より平和な社会を作れる、と僕は素朴に信じています。
「花吹雪おたふくひょっとこ平和舞う」
平和な社会では、春は桜吹雪の下で、おたふくとひょっとこのお面を被ったふつうの市民が自由に平和の舞を踊ります。僕にとっての平和な社会の理想です。
「万緑や 皆さん 武器捨てなさい」
今日、4月7日(金)朝、米国東部時間6日(木)午後8時40分、USAのトランプ大統領はシリアのアサド政府の空軍基地を攻撃した。米軍は米駆逐艦から59発の巡航ミサイル「トマホーク」をシリア中部ホムス近郊へ向け発射した。
「実際に殺人してるミサイルに反対しない日本の首相」
安倍晋三は「米の決意を支持」し、米軍の武力行使 には「理解」を表明。安倍首相は朝鮮のミサイル発射軍事演習は許せないと言いつつ、実際に殺人をしている米政府のミサイル発射攻撃は非難しない。安倍晋三に平和を語る資格は無いことが良く分かる。
「初燕平和の空に風を切る」
先週4月10日(月)、近所の文房具屋さんの軒下へ今年もまた燕が返ってきました。近くの電線にとまって、「ぴちぴちぴち」と元気に楽しく鳴く声に気づき、「お!無事に返ってきたか。お帰り。」と声をかけてやりました。平和の空に平和の街中に風を切って元気に飛ぶ燕がいることに幸せを感じます
最後まで読んで下さってありがとうございます。
ご批評、ご批判お願い致します。
愛、喜び、自由、平和
資料
安倍首相(自民党総裁)は読売新聞のインタビューで、幼児から大学などの高等教育までの教育無償化を憲法改正の優先項目にする考えを示した。民主党政権が公立高校無償化を実現した際には散々反対した挙句、政権交代後にすぐ所得制限を設けたのは他でもない安倍政権なのに、今更「高等教育も全ての国民に真に開かれたものにしなければならない」と言って高等教育無償化をダシに改憲を主張するなど自己欺瞞も甚だしい。
実際、安倍政権は2014年4月から高校授業料無償化を廃止してしまいました。今でも自民党のホームページを検索すると、高校授業料無償化に反対する歴代の自民党の政策を多数確認することができます。
高校授業料無償化は、「将来に責任を持たない政策」、「将来の子供たちにツケを廻すもの」、「ただのバラマキをしているだけ」、「選挙目当てのバラマキ政策」、「(高校授業料無償化を続ければ)財政破綻国家に転落することは間違いない」と自民党は断言してきました。そして、「過度の平等主義や均一主義を排する」「私たち自民党の基本的な考え方は『自助』を基本とする」と自民党は一貫して主張してきたわけです。大学など高等教育への日本の公的支出は6年連続でOECD最下位、33カ国平均の半分以下と突出して低く、これが自民党の教育政策の実績です。
突如として、「幼児から大学などの高等教育までの教育無償化を憲法改正の優先項目にする」と言い出した安倍首相には、民主党政権下で憲法改正なしでも高校授業料無償化を推進してきたことに強く反対してきた自民党の言い方をそのままお返ししたいと思います。「改憲目当てに教育無償化をただ利用しているにすぎない」と。
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