研究誌 「アジア新時代と日本」

第163号 2017/1/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 新年、国の在り方を問う

時評 破綻した鶴橋年末ヘイトデモ

資料 集団的自衛権は他人のけんかを買うこと

案内 新春講演会 泥憲和さん 憲法9条を堅持すれば国を守れる




 

編集部より

小川淳


 謹賀新年
 松尾匡(ただす)氏(立命館大教授)の講演(1月9日、神戸市勤労会館)を聞いた。
 年頭にあたって、「混迷」と「当惑」の感が深いと今号の「主張」にあるが、その通りで、今年はトランプに振り回される一年になるのは間違いない。とりわけ私たち(日本の)左翼の「混迷」はますます深いのではないか。昨年は国政選挙で敗北し、改憲勢力に4分の3の議席を許してしまった。(破たんしたTPPやプーチン会談など)失政続きにもかかわらず安倍政権への支持は50%を超え、安倍政権はやりたい放題だ。日本の左翼・リベラルの何が問題だったのか。松尾氏はそこに大きな一石を投じている。
 新しい左翼の動きが顕著なのが欧州だ。「人民のための量的緩和」を唱える英労働党新党首のジェレミー・コービンやドイツ左翼党のオスカー・ラフォンテーヌ、仏大統領選候補だったジャン・リュックク・メランション、欧州議会の「欧州左翼党」など、緩和マネーで政府財政を直接ファイナンスし、民衆のために使うべきとする反緊縮政策が欧州左翼の新しいコンセンサスになりつつあるという。ここに米大統領選で旋風を巻き起こしたサンダース議員も加えてもよいだろう。緊縮から反緊縮へ、左翼の大胆な政策転換が進む。
 窮乏化革命論、生産力主義、労働者階級主義のレフト1・0(70年代)から、ブレア政権の「第3の道」に代表される小さな政府、生産力主義批判、労働者階級主義からの転換など、90年代はレフト2・0へ、転換が進んだ。そのレフト2・0も、新自由主義などの台頭を批判できず、不況も打破できず、貧困と格差や社会の分断を生んだ(それが橋本、小池、トランプなどを生み出した)。いま日本の左翼は大きな壁(民進党を含む野党の低迷)に直面している。
 だからこそ日本の左翼も「レフト3・0」へ、そう松尾氏は提唱する。確かに松尾氏の言うレフト1・0からレフト2・0への転換は分かりやすいし、その通りだと思った。欧州左翼の緊縮から反緊縮への転換も説得力がある。しかし、レフト2・0からレフト3・0への転換は、レフト1・0からレフト2・0への転換ほど鮮明ではないし、これは今後面白い議論になるだろうと思った。
 私見だが、一昨年の反安保闘争の渦中に生まれたシールズや市民が政治を動かす新しい民主主義、左右を超えたオール沖縄の闘いなど、1・0でも2・0でもない新しい左翼の形が生まれてきているのも確かだ(レフト3・0?)。そのような議論を今年、この誌面で深めていけたらと思う。



主張

新年、国の在り方を問う

編集部


 かつてなかった異変が連続した旧年。それを経、新年を迎えながら、そこに感じられる「時代の変わり目」にどう向き合い、どう対処するか、若干の問題提起ができればと思う。

1 否定された「国の否定」

■「トランプ現象」に何を見るか
 昨年の異変を言うとき、やはり何と言ってもその代表は「トランプ現象」だった。他の異変もその多くがこれに通じていたのではと思う。
 そこで問われるのは、この「現象」に何を見るかだ。それについていろいろ言われる中、衆目が一致するものがある。それは「変化への要求」だ。米大統領選当日、トランプ当確が明らかになったとき、様々な識者から異口同音に発せられたのも、「米国民はトランプに投票したのではない。『変化』に投票したのだ」だった。もちろん、これら識者の大多数が「クリントン勝利」を断言していて、ある種の「負け惜しみ」に聞こえなくもなかったが、この「変化への要求」は当たっていたのではないかと思う。実際、米国での街頭インタビューで、トランプ支持者の大部分が言っていたのも、「今の政治にはうんざりだ」だった。
 ところで、この「変化への要求」とは、他でもない、米国民自身が言っていたように「今の政治のあり方、すなわち、グローバリズムによる政治のあり方を変えろということ」だ。「反グローバリズム・米国ファースト」のスローガン、「世界の警察官はやめる」、「米国の労働者や産業を外国商品や難民・移民などの流入から守る」といった政策、ある種熱狂的とも言える賛同を得たトランプのこうした主張の数々はそのことを示している。
 国や国境を否定し、自国をないがしろにするグローバル政治から自国第一に自分の国を大切にする自国ファーストの政治への転換が求められている。「トランプ現象」に見るべきは、まさにこのことではないだろうか。それは、英国のEU離脱や欧州各国での「極右」政党の進出など、「右翼ポピュリズム」と呼ばれる昨年起こった他の数々の異変にも共通していたのではないかと思う。

■本当に「右翼ポピュリズム」なのか?
 「右翼ポピュリズム」、この言葉がどこでどう生まれたのかは分からない。しかし、この揶揄と蔑視が込められた言葉から分かることがある。その一つは、「国」を言い「自国第一」を求めるのを「右翼」反動、排外主義と見ていることだ。すなわち、彼らにとって、「国」というものはすべからく、古くて閉じられた排外的でタカ派的、反動的なものであり、それを否定する「グローバリズム」こそが、新しくて開かれた融和的でリベラル、進歩的なものだということだ。
 そしてもう一つ。それは、「ポピュリズム」という言葉に示されている。彼らは、大衆が立ち上がり、政治を動かし決めていく広範で熱気ある運動の様を指して、「ポピュリズム」と命名した。そこでは、格差と貧困の広まり、厳しくなる一方の生活を通して高まる人々の意識が、政治意識や主権者意識というより、自らの没落を恐れ、不安に思う「自分中心」で近視眼的な大衆の意思や要求、気分などとしてとらえられている。それに迎合したり、それに乗じ煽ったりして、一部政治勢力が自分の政治的目的を図る「ポピュリズム」が昨年の様々な異変に色濃く現れたということだ。
 だが、今、そうした見方自体を検討することが問われているのではないかと思う。「国」を求めることは、右翼的で反動的、排他的なことなのか。それを求める「民意」は、自分の生活しか見えず、社会や歴史を広く遠く見ることのできない無知蒙昧なものなのか。もし本当にそうならば、「右翼ポピュリズム」が生み出した「トランプ現象」など諸異変は時代の変転の中で消えてなくなる泡のような存在であるはずだ。
 事実、新年を迎えながら、マスメディアに登場する政治家や学者、評論家たちを見ていると、彼らには自分たちの「体制」に「NO」が突きつけられたという緊迫感や自覚、まして、そうした「体制」にこれまで手を貸してきたことへの自責の念などまるで感じられない。そして何より、これからの日本政治について語りながら、彼らに「時代転換」の視点、認識からの発言がほとんど聞かれないのも特徴だ。そうしたところに、現れた現実を深刻に受け止めず、「右翼ポピュリズム」と軽視する彼らの観点が示されているのではないか。

■グローバリズムは「小休止」か終焉か
 昨年、そして今も起き続けている異変を「右翼ポピュリズム」と見るのか否か。この問題をめぐる闘いは、少し角度を変えれば、今、グローバリズムの存続をめぐる闘いとなって現れている。すなわち、世界的範囲で反グローバリズム・自国ファーストの政治が台頭する中、それをグローバリズムの終焉と見るのか、それともあくまで一時的な「小休止」と見るのかの闘いだ。
 窮地に陥ったグローバリズム信奉者たちが唱える「小休止」論の基礎には、もちろん「右翼ポピュリズム」論がある。彼らは今を「ハイパーポピュリズムの時代」等々ととらえ、それが泡のようにはじけて消えることを願っている。その上で彼らには、それにも増してもう一つ、経済グローバル化の「神話」がある。そこにこそ、彼ら最大の拠り所があるのではないか。
 もともと経済というものは、国境を越えて展開されるものだ。それが今日、全面化した。ヒト、モノ、カネ、そして情報が国境を越えて駆けめぐり、金融はもちろん、製造、販売も、観光まで、もはや経済はグローバルでしかあり得ない。国境と関税・非関税障壁、保護主義で市場を狭め、経済の自由な運動を規制し阻害するのは時代の反動だ。国と国境の完全廃絶にこそ、経済発展の究極の未来がある。等々ということだ。
 この経済グローバル化の「神話」に対し提起したい素朴な疑問がある。それは、バラ色であったはずのその展望が今日、完全に行き詰まり、停滞打開の可能性すらまったく見えない閉ざされた状況になってしまっているということだ。この厳然たる現実をどうとらえ、どうするのか。それに対しこれまで彼ら「信奉者」たちは、グローバル構造改革の不十分を説き、さらなる改革を強弁してきた。しかし、そうした詭弁はもはや許されない。
 何年経っても出口の見えない経済の長期停滞、そこに中国やインドなど新興諸国までが陥ってきている。もはや「神話」は、彼らの「気休め」にしか過ぎない。今、世界中に沸き上がる「自国ファースト」の反乱は、まさにその生きた証左だと言えるのではないか。
 そこで提起したいのは、この現実によって証明されたどうにもならない経済グローバル化の矛盾が他でもないこの「改革」そのものが持つ本質的で根本的な誤りから生まれているのではないかということだ。誤りは、一言でいって、経済の基本単位としての国民経済の否定にあると言える。
 これまで経済は、国境を越えることはあっても、その単位はあくまで国民経済だった。世界的な循環はありながらも、それはどこまでも各国の国民経済循環を基礎とするものだった。ところが、グローバル化の進展の中で、もはや経済の基本単位としての地位を失った各国国民経済の循環が世界的な範囲で破綻するようになっている。
 それは、グローバリズムの進行による「小さな政府」、すなわち国の役割の否定と一体だった。すべてが弱肉強食の競争のままに委され、格差と貧困、富の集中・偏在と国の経済の全般的不均衡の進行、それにともなう国民経済循環の滞りと市場の縮小が深刻な段階に達してきている。アベノミクスによる金融緩和、公共投資の大盤振る舞いが4年経っても効果を上げられない根本要因もまさにここにある。EUによる緊縮財政の強要など、経済・財政主権の制限を受ける欧州諸国の場合、この矛盾がさらに増幅されていると言えるだろう。
 経済グローバル化によって広げられ活性化するはずだった市場は、逆に、縮小と経済の死を予感させる危機に直面するまでになってきている。基本単位としての国民経済の否定、それがもたらしたこの禍の大きさは決定的だ。それは、グローバル経済「神話」の崩壊を意味する。今や「神話」に代わって置かれるべきは、経済発展の「真理」だ。経済はどこまでも人間のため、国民のため、人々が生活する拠り所である「国」を単位とし、国民経済を基本単位に築かれなければならず、その世界に開かれた発展を通して、ヒト、モノ、カネ、情報の国際的交流が限りなく追求されていくようにされなければならない。そこにこそ世界経済の発展もある。
 「神話」が崩壊した今、グローバリズムは「小休止」か、それとも終焉か、もはやその答えは明確だ。それは、「自国ファースト」を要求する国民の側だけではない。資本の側、支配と覇権の側でもそういう認識になって来ているのではないか。
 「国を否定する」グローバリズムの否定。旧年最大の特徴は、まさにここにあったのではないか。新しい年を迎えながら、この認識はきわめて大きな意味を持ってくるのではないかと思う。

2 問題は「国のあり方」だ

■新年、キーワードは「国」だ
 元旦各紙の論調を見ると、一言で言って、「混迷」「困惑」の感が強い。その主因が「トランプ」にあるのは言うまでもないだろう。
 「反グローバリズムの拡大を防げ」「自由主義の旗守り、活力取り戻せ」「試される民主主義(民意の暴走から民主主義を守れ)」、等々。各紙の社説タイトルには、この間相当な精神的ダメージを受けながら、何とかこれまでの「体制」を守ろうとする、悲愴とも言える「意地」のようなものを感じる。目に付く「分断」とか「断絶」とかいった言葉にしてもそうだ。そこには、普通一般に言われる二極化などとは違う、「グローバリズム」と「自国第一主義」、「これまでの民主主義」と「ポピュリズム」といった彼らの頭に描かれた「対立構図」のようなものが表現されている。
 しかし、どうだろうか。新年、2017年、問題になるのはこうしたことだろうか。
 グローバリズムはすでに終焉している。国民の側でも、資本や支配・覇権の側でも、これにしがみつきこだわる人々は急速に姿を消していくのではないだろうか。
 これから問題にされるのは何か。それは「国」だろう。もちろん、「右翼ポピュリズム」で言う「国」とは違う、国民が要求している「国」だ。すなわち、人間が生きていく上で何よりも切実な、人々の生の拠り所としての「国」だ。
 昨年、米大統領選でトランプやサンダースが訴え、もっとも広範で熱烈な共感を集めたのも、結局、「国」だった。彼らは、「国」を蔑ろにするこれまでの米国グローバル政治を批判して、「自国第一」「国の役割」を説き訴えたのだ。
 今日、「国」を問題にしているのは国民だけではない。資本や支配の側からも、そうした動きが出てきている。自民党幹部の中から、これからは所得の再分配など「国の役割」を高めることが問われて来る、等々の声が上がってきているのなどはその一例だろう。一方、彼らの間で、何が「国益」かの論議も盛んになってきている。これなどもそうした動きの一つだと言えると思う。
 新年、これからのキーワードは「国」だ。どう「国の役割」を高めるのか?何を「国益」にするのか?等々、遅かれ早かれ、闘いは、「国のあり方」をめぐるものへと転換していくのではないか。

■トランプがめざす「強いアメリカ」
 今、米大統領就任演説を目前にして、トランプによる政権のかたちは、その姿をほぼ顕わしてきているように思う。
 一つは、閣僚など政権の主要人事に現れている。その特徴は、よく言われるように、圧倒的多数の軍人出身者、そしてウォール街、大独占体トップの起用だ。また、トランプ主催で、これら経済界トップとの会合が開かれ、国の経済路線に関わるフォーラムなどが予定されている。
 もう一つは、政策だ。1兆ドル核開発、最先端科学兵器体系の開発、そして軍事ネットワーク・システムの異次元増強などこれまでの軍拡路線が新しく一段と促進されること、金融緩和、1兆ドルインフラ投資、大減税、そして海外投資への高関税と国内投資への税的優遇措置など、一連の経済政策が発表され、それへの期待感から「トランプ相場」ともいうものが生まれていること。
 これら人事と政策からかいま見えるもの、それは、一言で言って、「強いアメリカ」だ。最先端軍事科学技術に基づいて世界を圧倒・制圧する「超軍事強国」米国、金融や税財政に加え、保護や強制など、強権的に豊かさを取り戻したところに世界中から資本力と頭脳力を集めてつくる「超経済強国」米国、「強いアメリカ」への志向は誰の目にも明らかだ。
 そこで問われるのは、その目的だ。もちろん、この「強いアメリカ」によって、トランプを大統領に押し上げた「国民の声」に、雇用や産業振興など、かなりの程度まで応えることはできるだろう。それがトランプ体制を盤石にするのは言うまでもない。
 だが、狙いがそれにも増して覇権にあるのは明らかだと思う。それは、軍事、経済の超強大国をめざす先述の人事と政策からだけでなく、「米国ファースト」という「国」を認め、「ファースト」を主張する「理念」からも言えることだ。
 TPPなど、グローバリズムに基づき国と国境を否定する多国間協定から、「国」を認め、その「ファースト」を認める二国間協定への転換を図るトランプ次期政権は、一見、覇権とは無縁に見える。しかし、この「ファースト」がくせものなのではないか。すでに日本においても、「ファーストでなくセカンドでもいい」という声が出ているように、「ファースト」を「オンリーワン」ではなく「ナンバーワン」ととらえ、弱肉強食の競争原理から「米国ファースト」に屈従する二国間協定が結ばれるようになる余地は十二分に残されている。さらにこの「ファースト」は、国だけでなく、地域や民族集団、個人にまで広げられている。それが他国の分裂を誘い促し、覇権への道を開くのに利用されるようになるのも十分に考えられる。
 もちろん、これらはいまだ可能性であり現実ではない。しかし、トランプ次期政権に、「グローバリズム」から「ファースト」へ、覇権のあり方の転換を見るのは、決して怠ってはならないことだと思う。

■「日本のあり方」を国民的大論議で
 今、日本は皆「トランプ待ち」だ。トランプがどう出てくるか、それが分からないと何も決められない。  もちろん、トランプの政治と無関係な日本の政治はないだろう。しかし、トランプの政治に従う日本の政治であってもならないと思う。
 誰もが言うように、これまでの日本は、余りにも自分の頭で考えることがなかった。路線も政策もすべて米国によって敷かれたレールの上だった。だから、「トランプ異変」が起きたとき、少なからぬ識者たちが「今こそ、自分の頭で」と言ったのだ。そのことが今切実に求められていると思う。
 ここで、自分の頭で考えるとは、当然、自分一人で考えるということではない。米国の言いなりに、米意に従って考えるのではなく、日本国民自身の意思、民意を第一に、その民意に従って考えるということだと思う。なぜなら、そこにこそ、日本が進むべきもっとも正しい道があり、米意の強圧をはねのけ、苦難を乗り越え進む力があると思うからだ。
 問われているのは、民意に対する観点だ。「右翼ポピュリズム」の大衆観、民意観があってはならない。民意を信じず、民意を無視、軽視するところには、自分一人しかなく、それは結局、米に盲従するしかない道だ。
 まもなく米国・トランプ政治がその姿を明確にしてくる。そうした中、今こそ日本国民の総意に基づき、日本の国のあり方を新しく打ち立てていくことが問われていると思う。それは、グローバリズムの寿命が尽き、「国」がキーワード、自国第一の新時代にあって切実だと思う。
 そのために、新年、求められているのは、日本の国のあり方を問う国民的大議論の開始ではないだろうか。
 時あたかも、「時代の変わり目」の時だ。戦後70有余年、一貫して日本の上にあった米国覇権が大きく揺らいでいる。世界的な脱覇権・自国第一の気運の強まりの中で、その覇権のあり方も転換を余儀なくされている。「グローバリズム」から「ファースト」への転換だ。
 第二次大戦を通じ高まった植民地解放の嵐、それを抑えるため、植民地諸国に「主権」を認めた「新植民地主義」。あの時を彷彿とさせる反グローバリズム・自国ファーストの嵐と「ファースト」による覇権への転換。
 この「時代の変わり目」にあって、問われてくるのは日本の国のあり方だ。それは、国と社会、政治と経済、軍事、文化、あらゆる分野、領域にわたってくるだろう。なかでも、国の安全と防衛、経済、等々のあり方は切実だ。これまで連綿と続けられてきた憲法と安保の問題、この間、どこかに置き去りにされてきた「国民経済」の均衡的発展の問題などが新しい時代的現実に即して解決されていかなければならない。
 この間、日本の論壇は、米エスタブリッシュメントとつながる政、財、学界人などに占められてきた。それがいかに現実を反映していなかったかは、「トランプ現象」ではっきりと断罪された。問われているのは、「国」に根を張った絶対多数国民大衆による生活に即した論議だ。国民大衆が政治を直接握り動かし決定する、「ポピュリズム」ならぬ真の民主主義、この歴史の新時代にあって、国民的大論議が切に待たれていると思う。



時評

破綻した鶴橋年末ヘイトデモ

平 和好


■鶴橋駅前の「静かな喧騒」
 師走の大阪・鶴橋が「静かな喧騒」に包まれた。元在特会副会長K氏はヘイト行為をずっと続けてきた人物であり、徳島県教職員組合事務所襲撃・京都朝鮮学校襲撃事件で逮捕され有罪判決、奈良水平社博物館へのヘイト街宣で150万円の損害賠償を命じられた。その後も朝鮮・中国・被差別部落への差別発言を公然と行い続けてきた。つまり、全く反省がないのだ。
 そのK氏が極右仲間によびかけ、生野でのヘイトデモを発表した。これに対して地域の在日韓国人NPOは裁判所に訴え、NPO事務所から半径600メートルに近づくことを禁止する仮処分がスピード発令された。にもかかわらず年末29日という師走のあわただしい日にヘイトデモをしようとしたのである。実に社会迷惑な奴だ。
 その情報がメール・ツイッター・フェイスブックに大々的に流れたのは前日。普通なら「今日の明日」では動きが取れない。しかし、慌てて駆けつけた鶴橋駅改札前には百人近い人々がいた。「まずい、ヘイトの大部隊か」。違った。手に手に「反ヘイト」のディスプレイを持つ人たちがヘイトどもの登場を改札で待ち受けていたのだった。 テレビカメラも数局待機。まるで有名人が出て来るのを待つような風景。
 しかし、予告時間になっても現れない。待っている人に聞くと「環状線に乗ったようだがまだ降りてこない。尾行をまく、あるいは反ヘイトの裏をかくために電車に乗り続けているのでは?」とのこと。

■300人の「反ヘイトデモ」
 待つこと20分、大遅刻してK氏が現れた。「このヘイト男!」と抗議の声が起こる。しかし騒然とはなっていない。反ヘイトのリーダーから「Kらのヘイト違法行為を記録するので極力静粛に」との指示が出されていたのだ。Kは一人きり。それを囲む警察がこの日は大変頑張った。「ヘイト行為は違法です」「裁判所から禁止命令も出ている」などと説得に終始励んでいた。
 しかしKは帰ろうとせず、歩き出す。百人を超える市民、さらに総計百人以上の警官隊が取り囲んで生野区と隣接の天王寺区「反ヘイト300人デモ」みたいになってしまった。沿道の家に「維新政党・新風」と題するヘイトビラを投げ込もうとするK。静かに静止されたKは「※党のビラは許されるのに、こっちは阻止されるのはおかしい」などと的外れな事をわめきだす。市民から「違うがな。内容がヘイトやからあかんのやで」と優しい忠告。2時間半以上、このやり取りが続いた。
 有罪判決を受けても、損賠150万を徴収執行されても、ヘイトデモ禁止仮処分を出されてもくじけず、ヘイト行為をやりたいKだったが、ついに最後は警官隊に両腕抱えられて排除されたようだ。
 その前に我々参加者に、反ヘイトのリーダーから「相当長時間になりました。説得を聴くつもりがないようです。平和的に帰ってもらう状況作りのために、こちらは解散したいと思いますのでご協力を。」と冷静な要請があり、NPO関係者などを除きほとんどの人は帰る事になった。
 私も「Kくん、おまわりさんの説得を聞いて、ヘイトやめて、早よ帰るんやで。」と暖かい一言をかけて、少々清々しい気分で帰路に着いた。

■その後の孤軍奮闘ヘイト男
 何とKは翌日も現れてヘイト行為をしようとしたと言う。しかし在特会大阪支部長だったにもかかわらず、結局誰も同調者が現れなかった。実は在特会愛知支部を名乗るツイッターが「久しぶりの鶴橋で」と題して、ビールのジョッキと料理の写真を掲載していた。7人来ていて誰もKと一緒にヘイト行動をすることが無かった。なんちゅう「極右友達甲斐の無い連中や」と言いたいところだが、ここは控えよう。
 そのツイッター。ええよ、愛知のヘイト君たち! 千年以上の国際交流の歴史がある街で、ビールでも焼肉でもチジミでも楽しんで帰ったらよろしい。出身や民族など越えて、皆仲良く暮らしてきた地ではないか。私の友人でも、大阪へ遊びに来て案内してと言われるのは、キタやミナミの歓楽街ではなく、コリアンタウンや、中華料理。
 そして大阪だけではない。日本中のあちこちに中国大陸・朝鮮半島から来た人が根付き、日本の社会全体を豊かに彩ってくれた。これこそ「悠久の歴史」に他ならない。
 最後に政府や自治体に一言。在日朝鮮人や朝鮮学校への迫害を続けるからこのヘイト君たちが「俺たちも差別行為をして良い」と図に乗るのだ。政府や自治体(特に大阪府・市)が反ヘイト条例、差別禁止法に率先違反してはいけない!



資料 ―元自衛官、平和を説くー

集団的自衛権は他人のけんかを買うこと

(2014年7月28日 「東京新聞」より)


 「集団的自衛権は他人のけんかを買うこと。逆恨みされますよ」。神戸市の街頭での泥憲和(どろのりかず)さん(60)=兵庫県姫路市=の「叫び」が、インターネット上で広がっている。
 4月にがんで余命一年と宣告された元自衛官。集団的自衛権の行使容認が閣議決定される前日の6月30日、マイクを握った。初対面の若者たちに交じり、解釈改憲反対のビラ配りを手伝っていた。聞こえてくる演説を「分かりにくい」ともどかしく感じた。話が途切れた時、たまらず「ちょっとしゃべらせて」と、頼み込んだ。
 「私は元自衛官で、防空ミサイル部隊に所属していました」
 「自衛隊の仕事は日本を守ること。見も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事なわけない」5分余りで話し終わると、自民党支持者を名乗る中年男性が「あんたの話はよう分かった。説得力あるわ」と寄ってきた。
 フェイスブックに全文を載せると、瞬く間に賛同する人たちが転載を繰り返し、ネット上に広がった。離れて暮らす長男から「おやじ、ほめられすぎ」と冷やかされた。
 泥さんが自衛隊に入ったのは1969年の6年間働き、故郷の姫路市に戻って皮革加工の仕事を始めた。被差別部落出身の仕事仲間と付き合いを深める中で、両親や親類と縁遠くなった。差別感情が強く残っている現実に直面し、被差別部落の解放運動に関わり始めた。その延長で、平和運動にも携わる。
 自衛隊を違憲と考える仲間たちに、合憲という自分の意見を納得してもらうため、勉強を続けてきた。自衛隊は「専守防衛」。「自衛官時代に、国民を守り憲法に従うという役割を教わった」。神戸での街頭演説は、これまでの活動の到達点でもある。
 2009年12月、京都朝鮮初級学校に対する街宣活動が起きた。「日本からたたき出せ」「スパイの子ども」。ネットで知った泥さんは、ヘイトスピーチと呼ばれる差別的な発言をするデモに憤り、現場で反対の声を上げる「カウンター」活動も始めた。
 憎悪がむき出しとなる社会と歩調を合わせるように、政府は戦争放棄の憲法を解釈でねじ曲げようとする。
 がんの宣告を受けたのを機に仕事を辞め、講演会など表舞台にも立つようになった。
 「ヘイトスピーチをする人を蹴散らすことはできるかもしれない」。中心人物を孤立させ、社会的に包囲することが自分の役割と感じている。「その間に多くの人が良識を発揮してほしい。日本国民のピースマインドは、ばかにできませんよ」



2017年 新春 泥 憲和さん講演会

憲法9条を堅持すれば国を守れる!

 


 元自衛官の泥さんは「私は自衛隊を否定しない。しかし国防軍にしたり、集団的自衛権と称して海外派兵することで何も解決できない。それよりは憲法9条を堅持して専守防衛に徹することこそ、国民が安心でえきる安全保障となり、日本と世界の平和を創造できるし、自衛隊の若者の志を真に生かすことにつながる」と述べておられます。その持論を南スーダン問題と共に展開していただきます。

1月28日 
土曜日 午後2時
東成区民センター602号 

地下鉄今里駅2番出口西へ3分
東成区大今里西3丁目2−17
     入場料1000円

主催「アジア新時代研究会」
 多くの読者の方の参加を願っています。


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