議論 改憲論争 南スーダンPKO「駆けつけ警護」は改憲に踏み出すステップ
第3回学習会 ヘイトスピーチ・ヘイト犯罪に自治体、職員、市民はどう立ち向かうべきか
グローバリゼーション終焉の始まり
エマニュエル・トッド「問題は英国ではない、EUなのだ」(21世紀の新・国家論)を面白く読んだ。いくつかの論点を整理すると次のようになる。
今、時代の大きな転換期にあると見る。1950年〜1980年までの高度成長期、1980年〜2010年までのグローバリゼーションンの時代、そして2010年以降のポスト・グローバリズムの時代と三つに区分。英国のEU離脱、アメリカにおけるトランプ、サンダース現象もまた反グローバリズム時代を象徴するものと見る。この背景にあるのは、行き着くところまできたグローバゼーションへの反発と分析している。とりわけ世界でグローバリゼーションを牽引してきた英米という二つのアングロサクソン国家でそれが起きている。英国のEU離脱は、EUの崩壊の引き金になるだろう。それ以上に重要なことは、世界的グローバリゼーションの終わりの始まりなのだと指摘している。
もう一つは、「国家の再評価」だ。レーガン、サッチャー以来、先進国では市場を重視し、国家の役割を過少評価し、その縮小を目指してきた。しかし、今や世界で真に脅威になっているのは「国家の過剰」ではなく、「国家の崩壊」なのだという。
中東の危機も「国家の崩壊」による危機と見る。今、必要なのはネオリベラリズムに対抗する思考であり、国家の再構築と本書で指摘している。
著者の分析手法も興味深い。理念や理想を排し、徹底して現実から出発する。「人間とは何か」そのような観念から出発すると歴史を見誤るという。数値や統計、比較を駆使し、分析する歴史人口学を専門とする。「外婚制共同体の分布と共産圏の地図は一致する」という、イデオロギーを家族構造から分析・説明するトッドの方法論には当然、多くの批判もある。
グローバリズムとネオリベラリズム(新自由主義)は、国民国家の役割を低下させ、あらゆる共同体や集団を破壊しながら、一人一人をバラバラにすることにより世界の経済的支配を図ってきた。あらゆる国家的な保護と規制を撤廃させ、すべてを自由競争にゆだねる市場原理主義は世界のスタンダードとなったが、今、世界のいたるところで、反グローバリズムの動きがますます加速している。本誌も、時代は今、大きな転換期にあると見ている。覇権から主権への時代の転換だ。すでに命運が尽き、生命力を失った新自由主義、グローバリズム、米国覇権にしがみつく安倍政権との闘いがますます重要になってくることを本書から読み解くことができる。
主張
グローバリズム、新自由主義による覇権が完全に行き詰まる中、米覇権のあり方に転換が起こされてきているように見える。それは何か。そこで問われている闘いは何か。今起きている国際秩序の転換に視点を当てながら、考えてみたい。
■地に落ちた「国際社会」「国際秩序」「国際法」
この間、国際問題を考える際のキーワードとして「国際社会」や「国際秩序」などがよく使われていたと思う。何かというと、「国際社会」がどう言っているか、「国際法」「国際秩序」に沿っているか否かが基準にされてきた。
中国による南シナ海領有権問題や朝鮮の「核ミサイル問題」などは、その最たるものだった。「国際社会」の名で非難が両国に浴びせられ、その「国際秩序」違反が問題にされた。
しかし、結果はどうだったか。中国による南シナ海領有を違法とする国際司法裁判所の判決に対し、中国は、それを法として認めること自体を拒否したし、G20や東アジアサミットなど、その後の一連の会議でも、中国に対する非難声明採択はおろか論議すらされなかった。
一方、「核ミサイル問題」。ここでも同様だ。その開発を禁ずる国連の度重なる決議に対し、朝鮮がそれを認めず、逆に開発を促進する中、国連も拘束力のある制裁決議一つできないまま、朝鮮の「核ミサイル強国」化のみが進展した。
そればかりではない。今や、ウクライナでも中東でも、世界中至るところで、「国際社会」の意思も、「国際法」も「秩序」も、有名無実となり、その権威も力も地に落ちている。
■二つの国際秩序
「国際社会」「国際秩序」「国際法」などの権威と威信の著しい低下は、米覇権の弱体化と一体だ。
急速に弱化する自らの覇権力取り戻しのため、この間米国は、「国際社会」「国際秩序」などの名をこれまで以上に利用してきた。だが、もはやそれも通用しなくなってきている。それどころか、その権威と威信の低下が米覇権の崩壊をさらに加速させる悪循環に陥るようにさえなっている。
「国際社会」「国際秩序」「国際法」の威信と威力の低下は、より根本的には、反米反覇権民意の高まりと一体だ。
「国際社会」「国際秩序」の権威の低下、米覇権崩壊の根元には、何よりも、アフガン、イラクへの米国による反テロ戦争とその泥沼化がある。十数年前、米一極世界支配を約束するかに見えたこの戦争は、逆に米国を破滅の泥沼に落とし込んだ。なぜそうなったのか。そこには、明らかにアフガン人民、イラク人民の予想をはるかに超えた自分の国を守ろうとする不屈の民意、反米反覇権の民意があった。この米覇権に徹底抗戦する不屈の民意こそが、恐怖のネオコン覇権戦争戦略、反テロ戦争路線を破綻に追い込み、「国際秩序」の崩壊を生み出したと言うことができる。
「国際社会」崩壊、米覇権弱体化の根元には、また、朝鮮やシリア・アサド政権の対米徹底抗戦がある。「核とミサイル」や「自国民空爆」で、「世界の二大悪者」にされてきた両者が長期にわたる抗米で、今にも倒れると言われ続けながら、これまで戦ってきた背景に、よく言われる中国やロシアなど「大国」の力があったというより、何よりも政権を支える反米反覇権の民意があったというのが重要な事実ではないかと思う。
そればかりではない。今日、「国際社会」「国際法」など既存の「国際秩序」の崩壊は、国とその主権を蔑ろにし、国民生活を破壊するグローバリズムや新自由主義に反対し、「自国ファースト」「国民ファースト」を要求して立ち上がる民意の世界全域への急速な広がりと一体だ。実際、現代米国の覇権思想、グローバリズム、新自由主義に対するこうした民意による拒否と反対は、即、米覇権とそれと一体の「国際社会」「国際秩序」の崩壊を意味している。
こうして見たとき、はっきり見えてくるものがある。それは、二つの国際秩序の存在だ。一つは、米覇権の弱体化とともに崩壊するグローバル覇権の「国際社会」「国際秩序」「国際法」であり、もう一つは、グローバル覇権に反対する民意の高まりとともに生まれてくる「自国ファースト」「国民ファースト」など、民意の国際社会、国際秩序だ。もちろん、後者はまだ生まれて間もない。だから、具体的な形をなしているとは言い難い。しかし、それが、沖縄で「オール沖縄」の秩序が現実に根付いてきているように、決して架空のものではないのも事実ではないだろうか。
■「自国ファースト」の国際秩序をめぐって
これまで、国際秩序の崩壊は、古い覇権の崩壊に基づきながら、新しい覇権、新しい国際秩序の形成をともなってきた。だが、今日のそれはいつもとは様相が異なっている。よく言われるように、米覇権に代わる新しい覇権が見えてこない。中国やロシアには、グローバリズムや新自由主義に代わる新しい覇権思想も覇権する力もない。
そうした中、この間図られてきたのが米覇権の再構築だ。2012年8月、アーミテイジ・ナイ報告公表にともない、民主党・野田政権の退陣と安倍政権の擁立が図られ、この政権による集団的自衛権行使の容認とそれに基づいて日本を米国と共同で戦争する国に変えるための安保法制化が強行されたのもその一環だった。
だが、米覇権の崩壊には歯止めがかかっていない。「国際社会」「国際秩序」「国際法」の権威と威信の低下はその端的な現れだ。今や世界を動かしているのは、覇権国家、米国ではない。米覇権の横暴を許さない民意こそが世界を動かしている。
国と民族を否定し、あらゆる集団を否定し、人間を一人一人バラバラの個人にして競争させた上、核の恐怖で世界を支配するグローバル、新自由主義、ネオコン覇権は究極の覇権だ。これ以上の覇権はあり得ない。その米覇権が完全に行き詰まり、覇権それ自体が存亡の危機に瀕している。だが、覇権主義者が自らその覇権を放棄することはない。彼らはあくまで覇権の座にしがみついてくる。
今日、全世界に湧き上がる反グローバリズム・自国ファーストの民意の爆発を前にして、米覇権回復戦略もこれを認め利用するしかなくなっているのではないか。米大統領選で、「グローバリズム反対!米国ファースト」を掲げ、「反TPP。移民、難民受け入れ反対」を打ち出して、米支配層や共和党指導部から孤立し冷遇されながらも勝ち残ったトランプ候補。こうした彼に集まる異例の人気は無視できない。対立候補、クリントンも「トランプ政策」を大幅に取り入れざるを得なくなっている。実際、今、米国で、グローバリズム・新自由主義から保護主義・グラス・スティーガル法(1933年金融自由化を廃した米銀行法)復活への経済政策思想の転換が図られており、二人はそこにおいては共通していると言われている。
もちろん、グローバリズムから「自国ファースト」へのこの転換が全世界の民意が求める転換と同じものになるはずはない。同じどころか、真逆になるに違いない。米覇権が求めるのは、排外主義、敵対と戦争のそれだ。なぜなら、彼らにとっての「自国ファースト」とはそれ以外にはあり得ず、またそれが覇権の要求だからだ。各国各国民が国際主義で友好、団結しているところに覇権はあり得ない。
これらはいまだ多分に憶測を含んでいる。だが、根も葉もないものではない。現実の米国政治の動き、日米関係、日本政治の動向などに基づいている。さらに言えば、覇権のあり方が自由主義から保護主義、ファシズムへと転換した90年前の歴史の現実に基づいているとも言えるだろう。
日本の主権を立て、日本と日本国民の利益を第一にする「日本ファースト」は、誰もが望むことだ。問題は、そのとき、他国、他国民の主権と利益にどう対するかだ。それを認めず、互いの利益の違いから他国、他国民に敵対するのか、それとも、他国、他国民の主権と利益を尊重し、互いの利益の共通点を探しともに実現していくところに日本と日本国民の利益も見るのか、この辺に覇権の「日本ファースト」「国際秩序」か民意のそれかの違いが出てくるのではないだろうか。
この違いは決定的だ。前者は、排外主義、敵対と戦争の覇権の国際秩序であり、後者は、国際主義、友好と平和の民意の国際秩序だ。前者か後者か、どの国際秩序の下で生きるかで、外交路線だけでなく、日本の国のあり方まですべてが違ってくる。憲法9条や日米安保など日本の防衛をめぐる論議も、アベノミクスなど経済路線に関する論議も、すべての論議の大前提として、この国際秩序の選択の問題が関わってくると思う。そこから、この転換の時代、日本の進路の正しい選択も可能になるのではないだろうか。
議論 改憲論争
現在、11月に南スーダンPKOとして派遣される自衛隊部隊にたいし、昨年成立した安保法制にもとづき「駆けつけ警護」訓練が実施されている。そのため、国連職員などを防護するために武器を使用するのは時間の問題となっている。これまで国会で定められた国連平和維持活動PKO5原則では自らを守るためにのみ武器使用が可能だったが、今や国連職員やPKO部隊を守るために武器を使用するものに変わった。
PKO部隊の武器使用はやむえないものだろうか? これは憲法で定めた「交戦権の否認」を踏みにじるものではないのか。自民党改憲草案の核心も、「交戦権の否認」の削除にある。自衛隊の海外派兵、交戦権容認の是非について問いたい。
■武力行使しないPKO、海外派兵
国際紛争解決のために武力行使をせず、戦力をもたず、交戦権がないとした憲法のもとで自衛隊の海外派兵などは元来、ありえないはずだ。
もし選挙、医療などの国際支援をしようとするなら自衛隊でなく、別個の非武装の国際支援組織ですむ問題だ。つまり、交戦権否認の国連平和維持活動をいくらでも行うことができる。それが9条平和国家の国連平和維持活動の在り方だと思う。
しかし、91年の湾岸戦争の後、自衛隊法にもとづくペルシャ湾掃海艇派遣、PKO協力法にもとづくカンボジア、モザンビークなどでのPKO派兵、特別法にもとづくインド洋における米軍給油活動など、さまざまな口実で自衛隊の海外派兵がなされてきた。
それは、「カネだけではだめでヒトを出せ」「(派兵できる)普通の国になれ」というアメリカの要求があったからだ。それはまた、「戦争する国」をめざす自民党政権が海外派兵の既成事実をつくって、憲法を実質的に否定するためだったといえる。
それでも、実際の戦闘を行うかは自己の正当防衛だけという大きな制約が課せられてきた。これまでは、武力行使しないPKO、海外派兵だった。
■武力行使は「交戦権否認」の憲法への挑戦
昨年成立の改正PKO協力法は、その制約を超え、部隊や他の要員防護のための武器使用を認めている。
南スーダンは民族と石油利権をめぐって政府軍と反政府軍が激しく対立している地域である。日本大使館など関係者はすでに国外に退避している状況だ。国連派遣軍が1万3千人派遣されており、さらに8月には4千人追加派遣がアメリカ主導で決定された。その中での「駆けつけ警護」という武力行使容認のPKO派遣である。
これは、交戦権否認を完全に否定するものであり、それを既成事実とするものだ。
稲田防衛相が就任早々、8月にジプチ自衛隊基地を訪問し、10月に南スーダンを訪問したというのは、安倍政権が海外派兵にいかに力を入れているかを物語っている。
その背景には日本政府の対アフリカ重視政策もある。日本政府は中国に対抗し、アフリカ開発会議(TICAD)を開催するなど援助と投資を増やし、アフリカへの影響力を強めようとしている。日本がカネも出し、軍隊も出すというのが、アフリカでの影響力が著しく弱体化したアメリカの要請だ。
アメリカの要求に従っての海外派兵、武力行使は、日本が再び「戦争する国」に、しかもアメリカの覇権のための手先になるということを意味している。
「駆けつけ警護」から戦闘が行われ、自衛隊員が犠牲になったり、戦闘が拡大されれば、どうなるだろうか。交戦しているその既成事実により現憲法が現実に合わないとし、「交戦権否認」条項削除の改憲にもちこまれる可能性が十分ある。
それゆえ、「駆けつけ警護」は、まさに改憲へのステップとなる実践だ。
「交戦権否認」の憲法を掲げ、いかなる海外派兵、武力行使にも断固、反対していくことが、いつにもまして問われていると思う。
議論 起こせ防衛論議
■「新たな次元の防衛論議」は改憲論議の露払い
読売新聞(9月15日付)社説が「敵基地攻撃能力を検討したい」と問題提起を行った。「北朝鮮の核とミサイルの脅威が新たな次元に入った」という認識の下、「それに見合う日本の防衛体制」も新たな次元で「検討」すべきだということだ。
前日、参院外交防衛委員会での稲田朋美防衛大臣が、自衛隊による「敵基地攻撃」が憲法上、自衛の範囲に含まれるとしながら、その必要性を説いた自民党議員の質問に対して、これを「検討する」と述べた。翌日の読売社説はこれを受けてのものだ。
25日には安倍首相は所信表明演説で、改憲論議に入ることを明確にした。
これら一連の動きを総合すると、「自衛隊の敵基地攻撃能力の検討」という「新たな次元で」防衛論議を提起し、これを九条改憲論議につなげようという安倍政権の企図が見えてくる。
■新たな防衛論議の提起、その本質は、交戦権否認の完全否定
では九条改憲につながる「新たな次元で」の防衛論議とは何か?
読売社説の論旨にそれは明らかだ。
「現在、自衛隊は専守防衛の『盾』、米軍は報復攻撃の『矛』の役割を担う。その(米軍の)打撃力(矛)の一部を自衛隊が補完する・・・」
一言でいって自衛隊が「敵基地攻撃」という「矛」の役割を担うことを検討する、という防衛論議だ。
自衛隊が「矛」の役割を担うとは、自衛隊が交戦権を持つこと、交戦武力化した戦力を日本が保持すること、すなわち憲法九条第二項の交戦権否認、戦力不保持の完全否定を実質的に行うものだ。
従来の日本の防衛体制は、読売社説のごとく、自衛隊は「交戦権否認の憲法九条・専守防衛」=「盾」、米軍は「交戦権肯定の日米安保・報復攻撃」=「矛」、この二本立てであった。交戦権否認の自衛隊は相手国に攻め込むのを禁じられていた。
この憲法九条と日米安保の二本立て防衛体制の「大前提」は、「交戦権否認の憲法九条では日本は守れない」、だから交戦権肯定の米軍が日米安保条約に基づき日本の防衛を担う、であった。「交戦権否認の憲法九条に縛られた」自衛隊では日本を守れないというそれは、結局、「矛」・交戦権を持つ米軍、日米安保に依存する防衛体制である。
安倍政権が挑む防衛論議、それは交戦権否認と交戦権肯定という相反する防衛理念が併存する、「憲法九条と日米安保の二本立て」という戦後日本の防衛体制から、交戦権肯定に一本化された防衛体制への大転換を図ろうということだ。
■「交戦権否認の憲法九条では日本は守れない」、まずこの「大前提」の正否を問うべき
交戦権肯定一本化への道は、安倍政権が昨年、「違憲」承知で断行した集団的自衛権行使容認、安保法制化強行で実質的に開始されている。
安倍政権は、米国の覇権力の衰退、米軍事力の弱化を補うためと称して安保法制化、実施を通じ自衛隊の「盾」から「矛」への転換、交戦武力化を進めている。自衛隊の「駆けつけ警護」実施、それは自衛隊が他国での武力行使、交戦行動をとる道、交戦権肯定の道に一歩、踏み出したことを意味する。
日本防衛を交戦権肯定に一本化するということは、日本が相手国に攻め込む交戦権を持つ、すなわち戦争ができる国になるということだ。
安倍政権の挑む防衛論議で交戦権肯定を許せば、それは交戦権否認の九条否定、改憲を許す道につながる。
■交戦権否認の防衛か! 肯定の防衛か!
いまこの論議を主導的に起こす時だ。そしてまず「交戦権否認の憲法九条では日本は守れない」というこの大前提の正否を根本から見直す時だ。
交戦=戦争しなければ日本は守れないのか? これについては次号で提起したい。
第3回学習会
去る9月24日、アジア新時代研究会(本紙)主催による、第三回学習会が開かれました。
今回のテーマは「ヘイトスピーチ」。この問題に門真市議として果敢に精力的に取り組んで来られた戸田ひさよし氏を講師に迎えての学習会となりました。
参加者は主催者側から数名とネットの掲示板を見て来られたという方併せて20名弱の顔の見えるざっくばらんな学習会でした。
冒頭、戸田さんは、自分が左翼活動家であり、連帯労組の組織候補として地域の民主主義の深化を進めるものとして門真市義になったこと。「議会は愛してはいないけれど活用すべき」の立場から市議の活動をしているという自分の立ち位置をおおらかに宣言され、話に入っていかれました。
講話の内容は、大きくは二つで、一つ目は、「近畿市民派学習交流会」100回目にあたって戸田さんから提出された「書面提起」=「自治体議員のあり方」について。主に、「市民派」と呼ばれる議員の人たちへの戸田さんからの問題提起として、「市民派」とは何か、その発生と今日までの変遷(変質?)の経緯。「市民派」というのが自分の都合で名乗られていたり、「市民派」と言うには程遠い自己保身に陥り、今回のテーマでもある「ヘイトスピーチ」や「ヘイト行動」に対しても「触らぬ神に祟りなし」的立ち位置にいること、いつの間にか自公の与党側に立場変更している「市民派」もいる現状、そうしたことへの批判や相互議論を避ける体質など、「市民派」議員にたいする問題提起が語られました。
「市民派」という言葉自体が今日パッとしない使い古された感がありますが、話を聞いて色あせてしまった理由の一端、もしかしたら核心なのかもしれませんが、それらに触れたような気がしました。普段ほとんど考えたことのないテーマだけに「そういう問題があるのか」と頭の引き出しを一つ増やすことができました。これからは、そうした視座をもって見ていくことができると思います。戸田さんはこうした問題意識を上記の「交流会」に提出して論議していこうとしています。大変勇気のいることです。決して後に引かない戸田さんという個性が強烈に示されていました。
次に、今回の学習会の基本テーマである「ヘイトスピーチ」について。主に、戸田さんが門真市議として取り組んでこられた様々な取り組みを紹介し、「ヘイトスピーチ」とは何であるのか、行政や議員、市民が地域でこれにどう対処していくかという実践的な問題提起がなされました。
「ヘイトスピーチ」とは、「人種、出身国、宗教、性的嗜好、性別、障害などに基づいて個人または集団を攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のこと」と辞書には載っています。一般的には「憎悪表現」「差別的憎悪表現」とも言われ、暴力や差別を煽ったりする侮蔑的表現のことです。日本では主に在日外国人、その中でも在日韓国・朝鮮人に向けたものが中心です。日の丸や旭日旗、見るに堪えない憎悪と悪意に満ちた「プラカード」を掲げシュプレヒコールを繰り返して在日韓国・朝鮮人の多く住む地域を選んでデモ行進する。その内容は「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛び降リロ」「良い韓国人も悪い韓国人もどっちも殺せ」「朝鮮人は皆殺し」「日本人から土地と財産奪った末裔は死ね」(この人達の歴史認識はどうなっているの?)などのプラカード、鶴橋駅高架下で行われた中学生女子による「鶴橋大虐殺発言」の例、「お散歩」と称するデモ後の暴言や威嚇を伴う町の練り歩きなどなどエスカレートの一途をたどって来ました。
戸田さんは、これは「スピーチ」などという軽い言い方では済ませられない、憎悪と悪意に満ちた人の心臓に刃を打ち込む暴力そのものと強調され、門真での取り組みについて話されました。
戸田さんは2009年4月、「ヘイトスピーチ」の中心勢力である「在日特権を許さない市民の会」(2006年結成)=「ザイトク会」による埼玉県蕨市での「カルデロンさん一家」への自宅や長女の通う中学校前での罵倒事件を聞き、すぐに「同和人権行政」の横滑りという方策を思いたと言います。「同和人権行政」ではトイレの差別落書きにも行政当局が批判見解や啓発宣伝を出すようになっている。であるなら公衆の面前での差別罵倒・扇動は行政的に大問題として取り上げるべきことである。しかも「前例踏襲主義」で簡単にできることだと。そして2011年9月議会でこれを門真市に採用させました。こうして「恒常的システムとして在特会の行動を封殺する」地域体制を作ったとのことです。「安全・安心・品格ある町づくり」だけでなく、住民への啓発、学校での教育指導や社会人教育、全職員へのヘイトスピーチや在特会対応などの研修の継続化、地元警察の人権行政への活用など、そのメリットについても語られました。特に重要なのは担当部署を作ること、職員への繰り返しの研修とのことで、因みに門真市では戸田さんの作った動画が研修教材として使われているとのことです。
こうして門真市は今や「反ヘイトスピーチ」施策の最も進んだ市として、他の地方自治体や議員が見学に訪れたり、戸田さんの講演会には年々党派の垣根を超えた議員や市民が参加するようになっているとのことです。紙面の都合ですべて書くことが出来ないのですが、戸田さんのお話を通し、まず、ヘイトを絶対許さないという立場と覚悟、その上で緻密に勉強し頭を使うこと、果敢な行動力、時には相手がイヤがるほどの執拗さなどなど、「反ヘイト」百戦練磨がどこから生まれてきたのか理解できました。その根底には講話の中にも何度か出てきた「議員は護民官、行政に対する住民の駐留軍」という言葉に表される確固たる信念が横たわっているのだと思います。
「ヘイトスピーチ」は、今年の1月に大阪市議会で「ヘイトスピーチ」条例が成立し、5月には国会で「ヘイトスピーチ解消法」が成立するに至っています。これまではどちらかというと「ヘイトスピーチ」に反対するカウンターの方を排除していた警察の態度に変化がみられること、在特会を初め「ヘイト」勢力へのデモの不許可など少しの変化はあるが、まだまだとのことでした。
最後の参加者からの発言では、在日韓国人の方の「行政に関わる人たちは社会の事、ヘイトスピーチのことに無関心、知ろうともしていない」「社会の多くの人にとっても他人事」「自分たちも慣れてしまっている」という生々しい発言や、「ヘイトスピーチに対しては差別や人権として対処するのに、朝鮮学校への補助金の取り消しなど日本政府は二重基準、おかしい」という発言などには考えさせられました。
最後に戸田さんが市民が出来ることとして強調していたのが、自分の住む自治体の傾向の良い議員さん一人でも二人でも話ができる関係を作り、その人を通じて行政に働きかけしていくこと、ということでした。やはり個人の力には限界があり、行政を動かすことが大切であると。
大変中身の濃い、とても具体的な講話内容で、勉強になりました。地方行政に携わる人であればなお一層興味深い参考になるお話であったと思います。
手記
■渡る世間は鬼ばかり・・でもない(努力次第だ)
日本の労働環境はお世辞にも良いとはいいがたい。長時間労働でサービス残業も常態化し、職場の門前で憲法も民主主義も立ちすくむ、といわれるほど非人間的で非民主的な職場が多い。しかしそれは自然現象ではなく、たたかいが不十分だからだ。個人がキチンとたたかい、例えば武委員長の連帯労組のように組織化をしっかりやっていけば良いのだが、人間は弱いものだ。怠惰に流れ、勉強をせず、主張するべき時にせず、無為に過ごしてしまいがちだ。そこで私はそうならないよう目標を立て、実践に努めることとした。出勤は規則正しく欠勤・遅刻しない、しかし時間より早く行ったり終業ベルのあとに作業をしない、掃除は終業5分前と決めた。有給休暇は年間計画として消化を心掛ける。ライフワークの社会運動・政治闘争に合わせて仕事をするためには時間外や休日労働を極力回避する。それで生産計画が達成できなければ人を雇いなさい、と公言する。それらの言説を休憩時間中、同僚に言いまくった。ある日、上司から「休憩時間を同時でなくずらすように」と指示が来た。そんな危険思想が伝播することを防ぎたかったのだろう。
その上司の願いが1年半以上かかってやっと実現し、分工場に飛ばされる事となったが、今度は正反対の上司で、とにかくよく、そして友好的に話しかけて来る。本社からの申し送りで「変わった人間」と宣伝されてるのを聞いて面白かったらしい。何かにつけて大事にしてくれた。何ヶ月かのちに様子を見に来た本社の部長は幸せそうな私の様子にあきれてすぐ帰って行った。なお、その部長さんは仕事中に私の横に立って「残業せんと社長が怒ってくるで」と脅した人だ。聞いていた人がひえーっと真に受けてビビっていたので「個人企業やあるまいし、バカバカしい。いつ怒りに社長が来るか、部長室に聞きに行きますわ」と言うと、止められた。「そんな〜喧嘩売ったらあかん〜」
気の毒なのはもとの職場の皆さん。成績でマイナスを引き受けていた人物がいなくなるとプラス評定の労働者の間で誰かを新たにマイナスにしなければならないから、椅子取りゲームが加速する。巡航速度で生産する者がいなくなると、無限大の生産向上レースだ。私は分工場で3年働いたのち、早期退職して元の所へ戻ることは二度となかったが、生産スピードは1.8倍くらいになったそうだ。しかも人数が減ってそれだから多分労働強度は倍加している。
■そーきたいしょく?
そういうある日、新聞にパナソニックの希望退職募集の記事が載った。応じると退職金が1千〜2千万円付加されると書いてある。さすがだなと思った。春闘の時になると電機の産別交渉があり、一覧表の一番上にパナの妥結額が出て、その年の民間賃上げの目安額になる。わが社はその表の一番下に手書きで記入される弱小単組。テレビカメラはそこに移動する前に放送が終わる。だから2千万円の話は遠い世界の事だった・・・はずなのに半年後に経営者が同じことを言いだした。早期退職募集をわが社もする。資格は50才から。応じた人には退職金500万円プラスの優遇措置。しかし、残念にもあと1年、年齢が足りない。久しぶりに組合事務所へ行って委員長と雑談していたら、その話になり、ぼくは1年足りませんわ、とつぶやいた。委員長が「何なら人事部長に掛け合おうか」と言った。つい、「はあ、試算だけでもまた聞かせてください」と返事したが1週間もたたないうちにわざわざ分工場へ来てくれて「1年くらい特例適用できることになった。退職金は最大取ったで。プラス700万円!」の返事。都合が良いのか悪いのか、10数年前に買ったマンションの残債が同額だった。一日だけ熟慮して委員長に返事した。「お願いします」。そこからは一車千里。もちろん700万は封も切らず労金住宅ローン窓口に持参し、残債一括返済、抵当完全解除。その後は気楽な生活を送って家族に負担もかけてしまったし、経済的には苦労させてしまったが、何とか表札も鍵も変えられず家庭除名を免れているのはこのまとまった金額を私せず、住宅ローン返済をゼロにしたことによるものだ。退職金本体と諸積み立てなどで200万以上あったので前から計画していた市議選立候補準備に回した。政治はやはり威力がある。最高で300万下さった方もあり最小限の持ち出しでこの12年、政治生活と市民運動と生活費を何とかまかなえている。口の悪い同僚は「委員長も追い出しに加担したんちゃうの?」と言ったが、物事には両面あるのだ。
■その後
私がいなくなった会社は、派遣社員を激増させ、半分近くに減った人数で倍近くの生産量を作らせる状態だったらしい。心の健康を害して退社する若者も続出。街角でばったり会う人たちは口々に「ええ時に辞めはったな」だ。余談ながら一番仲良かった労働者が住んでいる市の議会に同志が立候補した。地元支援者がほとんどいない。困り果てているところに思いついてNTTの電話帳を繰るとその家の電話が載っているではないか!恐る恐る電話すると元同僚が息子を連れて1時間後に来てくれた。「ほんまに変わった人おるんや。人生勉強のために見とき」と連れて来たそうだ。以来、親子兄弟で熱心な中心的支援者になってくれている。
私は、しがない派遣労働の身だが、額に汗して働きながら世の中を考えるこの労働者生活があらゆる分野で役に立っている。「お客さんも会社も喜ばすように、しかし自分が一番喜ぶように」「職場環境は自分たちで良くしよう。それが闘争だ」「怒るのは損、怒らせて勝つ戦略を」「脳と心の健康を第一に」などなどを心掛けて、労働者の皆さん、団結がんばろう!
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